以上、アフガンとポーランドの二つのケースについて政策決定プロセスを見てきたが、それでは、これら二つのケースの比較によって、どのようなことがわかるか次に考察していきたい。
3. 対アフガン・対ポーランド外交政策決定構造の比較
(1)ブレジネフ後期政治局下の外交に関する小委員会の性格
アフガン委員会とポーランド委員会を比較することによってその共通点と相違点を探ってみる。そこからこの時期の外交政策の決定パターンというものが見い出すことができるかどうか検討してみたい。
@両ケースの共通点
両ケースの小委員会とも、問題が緊迫化されつつあるときに形成されたものである。また、小委員会の機能はアフガンにおいてもポーランドにおいても同じであった。双方とも相手国の情勢の分析とソ連側からの対応を政治局に提言していることにおいて共通点をもっている。
さらに両事件は、ブレジネフの健康悪化が顕著となりつあった1970年末から1980年初めにおこった事件であった。クレムリン・ドクターであったエフゲニー・チャゾフによると、1974年ごろからブレジネフは脳の血行障害にあり、1970年末にはかなり症状も重くなっていた
(49)
。また、ゴルバチョフの証言によっても、ブレジネフの健康状態の悪化をかばうためにチェルネンコが苦心する模様が語られているが
(50)
、この時期、小委員会が政治局会議を代行するほどの力をもってきたとするゴルバチョフの証言もブレジネフの健康状態を考慮すればうなずける話しである。さらに、ゴルバチョフはブレジネフ末期の政治局会議の様子についてこう語っている。「ブレジネフ書記長時代の末期には、政治局は想像もつかない状態に陥った。レオニード・イリイチを疲れさせないために、政治局会議はわずか15分 - 20分で終了、ということがほとんどだった。つまり、政治局会議で論じる時間より会議室に来るための時間の方が長かった。チェルネンコは事前に政治局員の了承を取り付け、議題が上程されるたびに、『了解』の声が発せられるのだった。政治局会議に同席を要請された関係者も入室し、数分もしないうちに『もう結構です。あとは政治局で検討します』と退室をもとめられるありさまだった。まさに国家の重大問題といった案件が政治局会議の討議に付されたとき、すべての期待はそれを具体化する政府にかけられた。このような討議の際にも本質的な意見の交換が始まることはめったになかった。『本件はすでに同志により検討され、事前の意見交換もすんでおります。専門家にも諮問しました。何か発言はありますか』という決まり文句で一件落着だった。…」
(51)
さらに、コルニエンコと当時の参謀総長第一代理アフロメーエフは注目すべき発言をしている。彼はその回想録で、ブレジネフの健康問題のために、外交政策はグロムイコ・アンドロポフ・ウスチノフに任されたとしている
(52)
。両事件の小委員会のメンバーとして、ともにこの3人が名を連ねていることは、このコルニエンコの証言を裏付けてもいる。
ゴルバチョフは、当該事件に対応して創設された小委員会は、その後もそのまま残存したと述べている。アフガン問題では、介入後もアフガン委員会はかなり積極的な動きを示しているし
(53)
、また、ポーランド問題でも、戒厳令が引かれた後の82年1月14日政治局でブレジネフは「ポーランド問題はさらに長期間国際政治の中心になるだろうから、今までと同様に活発にポーランド委員会に働いて貰わなければならない」と述べ、ポーランド委員会を継続させるとしている
(54)
。これは、いったん創設された小委員会はその後も存続し、そのため、国内・外交問題を担当する小委員会の数は増大していき、逆に政治局会議はその追認機関にその役割を後退させたとするゴルバチョフの発言を裏付けている
(55)
。
A両ケースの相違点
小委員会の構成において相違点がある。アフガン委員会の構成員は外務省・KGB・軍・党国際部の代表であるが、ポーランド委員会の場合、外務省・KGB・軍・党書記局イデオロギー担当・党国際情報部・対社会主義諸国共産党労働者党連絡部・閣僚会議の代表によって構成されており、その規模はアフガンよりも大規模なものであった。これは、ソ連にとってアフガン問題よりもポーランド問題がより重要であったことを反映しているものと思われるが、問題の性質もその一因になっているものとみられる。すなわち、アフガン介入の場合、直接的な軍事侵攻のみが討議の対象になったため、これに利害を有する機関は限定された。ポーランド問題の場合、軍事介入のみならず、経済援助や党レベルでの交流強化やマスコミ対策
(56)
、イデオロギー統制まで検討の対象となったため
(57)
、参加機関に閣僚会議、対社会主義諸国共産党労働者党連絡部
(58)
なども含められたとみられる。
(2)政策決定者の認識の変化
病身のブレジネフをとりまく、主要な政策決定者のアフガン問題とポーランド問題に対する認識はどのようなものであったのだろうか。その認識の変化を見ていきたい。
@アンドロポフ
79年3月、当初一度はアフガン介入に肯定的にみえたアンドロポフは、次の日にはその理由はあかさなかったものの、介入に反対した。12月には介入肯定にまわっているが、その理由は定かではない。しかし、介入直前にアンドロポフからブレジネフに渡されたメモに、それを解明するヒントがあるかもしれない。このメモでは、アミンが米国と秘密接触を続けており、四月革命の成果の喪失と同時にアフガンでのソ連の立場の喪失が予期されること、PDPA内部の内紛で亡命していたカルマルとサルワリが軍事援助の要請をしてきており、アフガン介入の正当化の理由は見い出されることが述べられている
(59)
。
ポーランド問題では、ブレストの秘密会議にウスチノフとともに出向いたことは、ポーランド問題でのアンドロポフの役割の大きさを示すものである。ポーランド側に戒厳令導入を確約させることが一つの目的であった秘密会談であっただけに、KGBと軍の責任者が選ばれたのだろう。
さらに、アンドロポフはポーランド政府自身に戒厳令をひかせ、自国の問題を解決させるという方針を強く主張したものの、戒厳令が失敗した場合のソ連軍介入は否定している。この理由として、ポーランドに対する介入はソ連自身の危機になるとの理由をあげているが、この危機認識は、アフガンの場合では見られなかったものである。ソ連は、81年10月に、東欧同盟国への石油の供給量を減らす交渉をしており
(60)
、この頃すでにソ連経済は衰退の徴候を示しはじめていた。アンドロポフがポーランド問題の対応で見せた危機意識は、米国および西側の制裁措置を凌げるだけの自国の国力不足という認識に由来したとみられる。
Aグロムイコ
アフガンの場合、グロムイコは79年3月の政治局会議で介入否定の意見を示していた。アフガンを失うことはできないとしたものの、デタントプロセスが後退するという理由から介入には反対意見を述べている。外務省が対西側外交で得てきた成果を擁護するため、その省益に沿った理由をあげたのである。しかし、グロムイコも最後には介入肯定の立場に変わった。資料ではその理由ははっきり読み取れないものの、当時、SALT II条約の米国議会での批准の見通しが立たなかったことが彼が介入に強く反対しなかった理由であろう。また、12月12日の介入を決めた会議で、グロムイコが議長を務めたことはどのように解釈できるだろうか。これをもってグロムイコが介入肯定に積極的な指導権をにぎっていたと断定できないものの、大きな役割を果たしていたことはうかがえる。
ポーランド問題の場合も、グロムイコはアフガンと同様ポーランドを手放すことはできないとし、ポーランド指導部は断固とした措置を取るべきと主張している。ポーランドに戒厳令が導入された場合に西側からポーランドへの経済援助が停止される可能性を述べるが、この可能性を心に止めておく必要があるとしかコメントしていない。彼のポーランドへの軍事介入反対理由に関しては明確ではない。アンドロポフの意見に同意するとしか、その理由を述べていないためである。そのため、さらに資料の収集が必要である。
Bウスチノフ
アフガン問題においては、ウスチノフは、当初から軍事介入に積極的であった。79年3月の会議で、介入に積極的だったウスチノフは、アンドロポフ、グロムイコの介入反対意見に押される形で最終的に介入否定に態度を変えた。介入を直接に主張することはなくても、婉曲な言い回しで、軍の出動をねらう発言が多いのはアフガン・ポーランド両ケースの共通点である。すでに、79年3月の時点でアフガン介入計画の二つのオプションを準備していたことは、用意周到であった。
ポーランド問題においても、注目すべきは政治局会議で所々にみられる彼の好戦的な発言である。当時ウスチノフはソ連に反対する戦線が開かれつつあると認識しており、アフガン戦線に加えて、米中接近による中国戦線、西側のソ連進出の拠点にもなるポーランド戦線の三つを想定していた
(61)
。しかし、最終的にはウスチノフもポーランドへの軍事介入否定に回っているが、その理由はポーランド側にはソ連軍を受け入れる準備が整っていないというものであった。これは、アンドロポフやスースロフら他の政治局員の発言を覆すことができなかったためとみられる。
Cスースロフ
スースロフは当時準書記長的位置にいたが、その関与の度合いはかなり違っている。アフガンの場合スースロフは小委員会の構成員ではなく、最終的な決定に際して参加したのみである。しかし、ポーランドの場合は、小委員会の議長になっており、政策決定の初期段階から中心的立場に立っていたことがわかる。
当時、政治局員候補だったシェワルナゼがそれを裏づける証言を行っている
(62)
。「…当時、私は共産党政治局員のミハイル・スースロフの執務室にいた。だれかが彼に電話をかけてきて、ポーランド情勢の悪化を報告し、私が理解したところでは、その相手は武力行使に固執していた。だが、スースロフは何度も繰り返した。『ポーランドへの武力行使など論外だ』と」。
また、ヤルゼルスキは、12月12日にスースロフと電話で話したとし、戒厳令布告はポーランドの国内問題であるので事態が紛糾してもソ連は介入しないという保証をスースロフから取り付けたと述べている
(63)
。
以上の証言は、スースロフがポーランド問題において重要な責任をもっていたことを裏付けている。アフガン問題とポーランド問題でのスースロフの関与の度合いの差はどこに由来するのか、はっきりとした資料的根拠はなく、推測になるが、アフガンとポーランドの重要度の差にその理由があるかもしれない。
(3)政策決定要因
アフガンの場合は、PDPAによる再三の軍事介入要請に答えるかどうかがソ連指導部の関心事であった。前述のように、当初の不介入の理由は軍縮プロセスの後退を招くという理由であったが、米国とのデタント政策が暗礁に乗り上げるに従い、その理由は削除され、アフガン国内情勢のさらなる悪化とともに介入決定へ方針が転換された。ポーランドの場合、当初経済援助問題とポーランド情勢の安定が焦点になっていた。最終的には、軍事介入の可能性をちらつかせた方がよいという判断はなされたが、実際の軍事介入に関しては慎重な姿勢を示している。それではなぜ、ソ連はアフガンに介入し、ポーランドへは介入しなかったのだろうか ?
シェワルナゼは、ポーランドがソ連からの軍事介入を防ぐことができた理由としてアフガニスタンの経験をあげている
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。「…成功の第一の理由はアフガニスタンの経験であった。1979年以前、ソ連の武力行使は比較的低額の、政治的・軍事的・経済的出費で近隣諸国の情勢安定に役立った。しかしアフガニスタンでは『手早い』解決ができなかった。この国への侵攻は、ソ連国内と外国で強い拒否反応を生み、その反発は日々増大していった。1968年のプラハへの武力侵攻に対してソ連国内であからさまに抗議した人はごくわずかだったが、1979年のアフガニスタンの事件に対しては国民の過半数が間接的、直接的に有罪を言い渡したのだ。こうした環境のもと、当時のポーランド指導部は、ソ連のポーランドへの行動の危険性をはかりにかけなければならなくなった。多くの者が、武力で押さえ込むのは不可能であることをだんだん察知していた」。すなわち、アフガン介入においては、「ラーニング(学習)」する事件はなかった。それに対してポーランドはアフガンからの「ラーニング」が働いたということである。
さらに、ポーランド問題を討議した議事録は、当時の指導部の認識を示している。アンドロポフはポーランドに介入した場合、西側の経済的・政治的制裁がソ連にとって重荷になるという理由をあげているし、またスースロフは、軍の介入は破局を意味するとしている。これは、アフガン介入による西側の世論や対ソ経済制裁の政策が、ポーランド問題におけるソ連指導部の判断に影響を与えた事を物語っている。さらに、もう一つ重要なことは国防相が政策の初期段階から最終決定に至るまで関わっていたことである。そのため、小委員会が小規模であったアフガン委員会ではウスチノフの好戦的な態度に歯止めをかけることのできる人物がいなかったのであろう。当初介入に反対していたグロムイコもデタントの破綻が見えるに従ってその姿勢を変え、介入反対には固執しなかった。しかし、ポーランド委員会においては、準書記長的位置にいたスースロフの存在が、ウスチノフに対する歯止めになったようにみえる。
それではこの両ケースの比較から当時のソ連の外交政策決定要因は何であったと言えるのだろうか。二つの事例とも政策の判断の基準で大きな位置を占めていたのは米国の動きであった。アフガンでは、米国との軍縮プロセスへの影響やアミンの米国への接近が介入判断の基準の一つとなったし、ポーランドに対する介入否定も米国からの制裁がソ連にとって大変な重荷になると判断したことがその要因の一つであった。
(4)ブレジネフ後期の危機管理
従来のソ連外交に対する見解は、地域別に中心担当機関が違うというものであった
(65)
。具体的には、西側外交は外務省ないし党国際部、東欧に対しては対社会主義諸国共産党労働者党連絡部、第三世界諸国は党国際部がそれぞれ中心的役割を担ってきたという説明がなされてきた。しかし、ブレジネフ後期に起きたアフガンとポーランド問題のような国家の安全保障に関わる重要な問題の場合、この見方は適合していない。国家の安全保障に関わる問題が生じた場合、一つの機関のみに外交政策が委ねられるのではなく、政治局内に小委員会がつくられることがわかった。そのプロセスは、以下のようなものであった。
@ソ連の安全保障に対する危機に際して、まず、当該国への外交に関連する機関や情報を持つ機関などの大臣または次官クラスから構成される小委員会が政治局内に結成される。
A小委員会の構成機関は、現地駐在員からの情報または機関からの代表者派遣によって収集された情報を統合する。そして、各機関間の意見を交換し調整し、政治局会議に情勢分析や対応策の提言が送られる。
B政治局会議には、外交に携わっていない政治局員も出席。小委員会のメンバーからの情報と提言にもとづき審議される。特別異議が出ない場合は承認、決定、実行に移される。
以上は、アフガン・ポーランド問題に対する対応を共通項でくくり、その政策決定過程を単純化したものであるが、危機管理以外でも軍縮交渉の場合にこのような過程を経ることが確認されている。たとえば、SALT交渉をめぐっては、軍縮委員会が創設、ここには軍縮問題に関係する、軍・外務省・KGB・党中央委員会・閣僚会議・科学アカデミーの代表者が参加し、その提言を政治局に送っている
(66)
。
では、一見合理的に見えるこのシステムの欠陥は何であったろうか。1973年以降は政治局員に外務大臣、KGB議長、国防大臣が昇格した。そのため、外交政策は、外交政策形成の段階の小委員会に参加し、かつ政治局会議にも参加しているこの三機関の長の意見に左右される傾向をもった。さらに、ブレジネフ後期は書記長の病気のために、政治局のチェック機能が有効に働かず、外交政策にチェックを与える政治局会議は、その他多くの議題を扱う必要性もあって、小委員会からの提言の追認機関に堕する傾向を持ったのである。
最後に幾つかの今後の課題を述べて本稿を閉じたい。
本稿はアフガンとポーランドの二つのケースについての分析であるが、その他のケースはどのようなものだったか。ゴルバチョフがその回想録でも指摘しているように、この時期の外交関係の小委員会ではその他中国委員会の存在が浮かび上がっているが、その実態はどのようなものであったかまだ定かではない。また、この時期の国内問題の小委員会についても指摘されているが、その内容はどのようなものだったか。外交に関する小委員会と内政に関する小委員会の違いや常任小委員会と臨時小委員会の違いなどさらに検討すべき事項がある。また、憲法にその存在が記載されている国防会議と政治局小委員会の関係も考察が必要だろう。国防会議の具体的な内容は、いまだ不明な点は多いが、ゴルバチョフは以下のように述べている
(67)
。「…後年、肉体的に衰えを見せると、ブレジネフは軍事問題に対し以前ほど関与しなくなった。『国防会議』の開催さえも次第に頻度が少なくなり、やがてまったく開催されなくなってしまった」。ゴルバチョフは、前述のように、アフガン委員会やポーランド委員会など政治局小委員会についても別の箇所で述べているため、国防会議と政治局小委員会は別のものと見た方がよいであろう。また、自ら70年代の軍縮交渉にたずさわったアレキサンドル・サヴェリエフとニコライ・デチノフの研究によると、国防会議はソ連軍の強化などのような総合的問題のみを討議し、個別的、具体的問題は軍縮委員会で討議されたとしている
(68)
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