ソ連邦における地区の農業機関と党機関1962-1965

松 戸 清 裕


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4. 生産管理局の構造修正 − 活動改善へ向けて −

1963年11月2日付でフルシチョフは「生産管理局の活動を改善すべきである」と題した覚え書きを党中央委員会幹部会宛てに送り、国内各地で生産管理局の活動を観察し、特に監督=組織活動員の活動について当事者らと会談した結果として、生産管理局の活動改善に向けた構造の修正を唱えた (104) 。フルシチョフは、生産管理局の活動には農業生産の指導における宣言的性格から離れられないという欠陥があるが、今日宣言的な指導方法は全く許容できないと批判し (105) 、監督=組織活動員の活動を生産部門別に組織するよう提案した。その理由については次のように述べている。現在、監督=組織活動員は3から4のコルホーズ、ソフホーズを担当しているが、コルホーズ、ソフホーズは通例多部門経営なので監督=組織活動員は農業生産の全部門に従事させられている。しかし監督=組織活動員は、耕作も畜産もその他すべての部門も同程度によく知ることはできない。経営の専門化を考慮し、当該監督=組織活動員が従事するコルホーズ、ソフホーズの主要部門の発展を考慮して、監督=組織活動員が選ばれるよう考えることが必要である、その時は現在の2、3倍の数のコルホーズ、ソフホーズを担当することになるがそのかわり一つのもっと狭く専門化された部門を担当するのであり、その活動は著しく実り多いものとなるであろうというのがフルシチョフの考えであった (106)
フルシチョフは単純に専門知識を重視しただけかもしれないが、この提案は一定の合理性をもつように思われる。生産管理局と監督=組織活動員の活動の欠点が指摘され、また生産管理局党委員会と監督=党組織活動員による「代行」が生じていた状況において、監督=組織活動員に専門家をさらに引き入れて活動を部門別に再編成することは、監督=組織活動員の活動の改善につながると考えられると同時に、監督=党組織活動員の活動との言わば差別化を図ることによって両者の「分業」に好適な状況をつくりだすとも考えられるからである。
1964年2月10日から15日にかけて党中央委員会総会が開会され、連邦農業相ヴォロフチェンコ (И.Воловченко) の報告と15の連邦構成共和国の農業相もしくは農産物生産調達相を含む17人による副報告がおこなわれた。63年11月2日付のフルシチョフの覚え書きはこの総会でとりあげられたが、その様子からはフルシチョフ提案への評価が分かれていたことがうかがえる。
農業集約化についてのヴォロフチェンコの報告は、農業機関の側からの指導の改善の必要性には触れつつも生産管理局の組織的な問題には触れていないが、これは当時連邦農業省には生産管理局に関する権限がなかったためとも考えられ、各共和国の農産物生産調達相の副報告のほうが注目される (107) 。農産物生産調達相として最初に登壇したロシア共和国農産物生産調達相のマクシモフ (Л.Максимов) は、フルシチョフの覚え書きに触れつつ、党中央委員会ロシア共和国ビューロー、共和国閣僚会議、地方党・ソヴェト機関が生産管理局の活動改善、監督=組織活動員の活動方法の部門別の再編へと向けた方策を採っていること、生産の個々の部門の組織改善についてコルホーズ・ソフホーズを実践的に支援できる専門家がこの活動へ派遣されていることを明らかにした (108)
続いて登壇したウクライナ共和国農業相スピヴァク (М.Спивак)、ベロルシア共和国農業相スコロパノフ (С.Скоропанов) はこの問題に触れなかった。その後カザフ共和国農産物生産調達相ドヴォレツキー (Б.Дворецкий) が、農業集約化プログラムは農業指導の主要な環である生産管理局の側からの指導の改善を要求していると述べ、フルシチョフの覚え書きにおいて提起された問題を検討したカザフ共産党中央委員会と閣僚会議が、生産管理局に部門別の監督=組織活動員をおくことを適切と認めたと述べて、この措置の有益さを詳述したが、続くウズベク共和国農産物生産調達相イルガシェフ (Х.Иргашев),タジク共和国農産物生産調達相ミルザヤンツ (Х.Мирзаянц) はこの問題に全く言及しなかった (109) 。ウクライナとベロルシアの農業相であるスピヴァクとスコロパノフは、連邦農業相同様、生産管理局に関する職権をもたないため言及を控えたとも考えられるが、生産管理局を直接管轄する共和国農産物生産調達相であるイルガシェフ、ミルザヤンツは黙殺したと言うべきであろう。  これに対しグルジア共和国農産物生産調達相ゲルヂアシヴィリ (З.Гелдиашвили) は、生産部門別の監督=組織活動員という案に具体的に言及した。ゲルヂアシヴィリは、いくつもの生産管理局で監督=組織活動員は管轄する経営の多様な生産部門を指導できていないと述べ、われわれのところでは経営の大半が亜熱帯・工芸作物、葡萄、果物、野菜、穀物などの生産に専門化されていることを考慮すると、主要な部門ごとの監督=組織活動員を有することが適切であろうと述べたのである (110) 。キルギス共和国農産物生産調達相ヤキムク (П.Якимук) は、表題まで挙げてフルシチョフの覚え書きに言及、監督=組織活動員はある部門の専門家たるべきことが全く正しく提起されており、このことは監督=組織活動員に対してコルホーズ・ソフホーズの活動をより深く究明し、主要な経営部門を成功裡に発展させる支援をおこなう可能性を与えるであろうと述べた (111)
こうした報告をめぐる議論の中で注目されるのはエストニア共産党中央委員会第一書記ケビン (И.Кэбин) の発言である。ケビンはまず、フルシチョフの覚え書きによって生産管理局の活動の本質的欠陥が指摘されたと述べた上で、われわれの考えでは、主要な欠陥は、生産管理局の中心的存在である監督=組織活動員が、農業技師であれ畜産技手であれ、コルホーズ・ソフホーズにおいて直面する多様な問題すべてを完全にかつ正しく解決することができないことであると述べた (112) 。ここまではフルシチョフ提案を全面的に支持しているように見える。しかしこれに続けてケビンは、監督=組織活動員の活動をいかに再編すべきかという問題の結論として、われわれの共和国ではコルホーズ・ソフホーズは主として牛乳と食肉の生産に専門化されており、十分な量の安価な飼料の生産が農耕の課題であることから、例えば一つの作物や一種類の家畜を担当するような狭い専門性を有する監督=組織活動員をもつ必要はない、われわれの考えでは共和国の生産管理局に耕作や畜産など農業のある部門全体をよく知っている監督=組織活動員をおくのが適切であろうと述べたのである (113)
狭い専門性を有する監督=組織活動員は不要とするケビンの発言は注目される。後述のように総会後まもなくフルシチョフは狭く専門化された生産部門別の総管理局設立を提案することになるが、すでに1964年2月の党中央委員会総会の時点でフルシチョフがそうした構想を示していたのを牽制したという可能性も考えられるからである。フルシチョフがそうした構想を示していたか否か、牽制が奏効したのか否かは明らかではないが、最後に発言したフルシチョフは、生産管理局は優れたところを示したがその活動には一定の欠陥があると述べ、しかしこのことはなんらかの新たな形態を見つける必要があるという意味ではない、必要なのは生産管理局に登用されている人々を教育することであると述べて、党中央委員会幹部会に宛てた自分の覚え書きにおいて生産管理局の活動をいかにしてよりよく組織すべきかについて、特に、経営部門別の監督=組織活動員を選抜する必要性について問題を提起したと述べるにとどまった (114)
確認したように、総会での発言からは、部門別の監督=組織活動員という提案について態度が分かれているように見えるが、フルシチョフは、総会においてこの問題提起は支持を得たと断言し、いかにしてよりよく、より速やかにこれをおこなうかを考えなければならないと述べた (115) 。総会決議では監督=組織活動員については何も言及されていないが (116) 、しかしその後、部門別の監督=組織活動員への再編成は各地で進められた。そして、当事者による、生産のあらゆる問題に取り組んでいた時よりも多くの成果をコルホーズへもたらしている、部門別原則による監督=組織活動員の労働組織形態は生産管理局の現在の活動条件に最も合致していると思う、といった意見も報じられたが (117) 、地域によってはこの作業は困難を伴った。農業専門家は不足していた上に農業技師の割合が高かったため、監督=組織活動員における畜産部門の専門家が不足していたのである (118)

5. 生産管理局への専門家引き入れ

ここでは、農業管理の主要な担い手は生産管理局であり監督=組織活動員であるという方針に基づいて、生産管理局を人員面で強化するために具体的にどのような方策がとられたかをやや立ち戻って確認したい。
62年11月の再編の結果、生産管理局には監督=組織活動員の職、生産管理局党委員会には監督=党組織活動員という相応する形の職がおかれたが、賃金に関しては監督=組織活動員の方が優遇されていたことがわかる。生産管理局党委員会の側から、監督=党組織活動員の賃金を監督=組織活動員の賃金水準まで引き上げるようにとの要求がなされているからである (119) 。もちろん経済機関と党機関の職について賃金だけを取り上げて比較することはあまり意味がなく、また双方の職の二者択一が問題となっているわけではない。そもそも党機関、経済機関の職に関しては、候補者・希望者の側の選択権はたとえ存在するとしてもきわめて限定されたものであろう。しかしそれでも監督=組織活動員の職への充員活動の一助にはなったのではないか。
監督=組織活動員の賃金についての資料は見出せなかったが、監督=党組織活動員の賃金は、1962年12月20日付の党中央委員会決定によって月額110ルーブリと定められていた。この監督=党組織活動員に対する賃金は、生産管理局党委員会の中では書記(210ルーブリ)、書記代理(150ルーブリ)に次ぐもので、部長代理(100ルーブリ)や組織部・イデオロギー部に属する指導員(90ルーブリ)よりも高く設定されており、監督=組織活動員の賃金がそれよりも高いということは軽視できまい (120) 。とはいえ、やや遅い時期の工業労働者の平均賃金が全産業労働者平均で101.3ルーブリ(1965年)、ソフホーズ労働者の平均賃金月額が70.6ルーブリ(1964年)という状況において (121) 、月額110ルーブリを上回るという程度の監督=組織活動員の賃金がどの程度魅力的であるかを判断することは難しいが(そしてこの場合も賃金だけを考慮するのは一面的ではあるが)、対応する党機関の側がその水準まで引き上げを求めたということ自体、監督=組織活動員の賃金が高く設定されていたことが全く意味を持たなかったわけではないことを示していると言えるのではないか。
また生産管理局の局長、局長代理、部長、監督=組織活動員および専門家に対しては、生産・買付計画の達成、超過達成に基づく報奨金に関する規程が1962年9月6日付閣僚会議決定により採択、導入されていた (122) 。63年6月15日付では閣僚会議決定「コルホーズ・ソフホーズ(ソフホーズ・コルホーズ)生産管理局の監督=組織活動員の農業税支払いの免除について」が採択され、監督=組織活動員として働く農業専門家に対して、農業税の支払いが免除される特権が与えられた (123) 。1953年8月8日付農業税法第16条瘢?の、農村にある企業、組織などで専門の仕事をしている専門教育を受けた農業技師、畜産技手その他の農業税の支払いを免除する規程を監督=組織活動員にも適用したものである (124) 。もちろん法適用の公平性を維持するための措置であることは十分に考えられ、農業専門家を監督=組織活動員の職へ引き入れることを目的とした決定であるとは言い切れないが、いかなる理由で農業税免除の特権が与えられたにせよ、監督=組織活動員のポストに農業専門家を引き入れる方向に作用したであろう。
しかし1963年後半から64年にかけての時期になると、生産管理局の職員、とくに監督=組織活動員に農業専門教育を受けた者が十分に選抜されていないという報告、批判がなされた。先に見た63年11月2日付の覚え書きでフルシチョフも、農業教育を受けていない監督=組織活動員の存在を批判し、農業専門家を登用することを訴えているが (125) 、例えばクラスノヤルスク地方について、地方党委員会、生産管理局党委員会、生産管理局が監督=組織活動員の選抜に注意を向けていない結果、監督=組織活動員は定員96人中77人しか充員されておらず、しかもその多くは教育、経験、組織者としての能力に関して要求にこたえる人物ではなく、高等・中等の農業教育を受けている者はわずか46人しかいないという報告が党中央委員会の党機関部および農業部へ提出され、この報告は63年12月12日付で党中央委員会ロシア共和国ビューローにも提出された (126)
また、プスコフ州の党協議会において同州の監督=組織活動員73人中、高等専門教育を受けた者はわずか17人、中等専門教育を受けた者は38人と指摘されたことが『コムニスト』誌でとりあげられ、多くの監督=組織活動員が農業の諸問題に十分に通じておらず、コルホーズ・ソフホーズの指導者たちに問題に精通した援助を与えられないのは驚くにはあたらないと批判的に言及された (127) 。同州での監督=組織活動員に占める農業専門家の割合は約75%となり、先に見たロシア共和国全体での割合(70%)を上回っているにもかかわらず批判されたことは注目すべきであろう (128)
また、専門教育を受けてさえいれば問題がなかったわけではもちろんなかった。1964年2月28日付のアルマ・アタ州に関する党機関部の報告では、同州のカスケレン生産管理局の監督=組織活動員の2人は高等農業教育を受けているが十分な活動経験を有しておらず、経営において何に対して、どのように活動しなくてはならないのかを説明できなかったという例を挙げて、多くの監督=組織活動員が実務の点で弱い活動家であることが指摘された。これに続けて、ソフホーズ所長、コルホーズ議長、初級党組織書記たちが、例外はあるものの監督=組織活動員の活動を否定的に評価しており、現行のままでは益はない、経済を深く分析し農業発展の根本的課題の解決を手助けできる経験豊かな農業専門家を選抜することが必要であるという考えを示したことが指摘されている (129)
こうした状況で、生産管理局、コルホーズ、ソフホーズを農業専門家によって強化するという党中央委員会書記局の決定が1964年6月19日付で採択された。この書記局決定自体は公開されておらず確認できないが、書記局決定遂行についての地方党機関からの中央委員会宛て報告が確認できる (130) 。こうした報告によれば、ヴォログダ州では同年7月7日に州党委員会ビューローにおいてこの中央委員会書記局決定が審議され、主任・上級専門家のポストに原則として高等農業教育を受けている22人が登用されるなど農業専門家による生産管理局の充員活動が進められ、監督=組織活動員の構成も著しく改善され全員が高等・中等の農業教育を受けた専門家となった (131)
ヴラヂーミル州では、6月19日付書記局決定の執行に必要な方策を採るため「生産コルホーズ・ソフホーズ管理局、コルホーズおよびソフホーズの農業専門家カードルによる強化に関する中央委員会の指示の遂行過程について」の州農業党委員会ビューロー決定が採択され、同党委員会部局の文書が各生産管理局党委員会へ送られた。これに従っておこなわれた活動によりカードルの質的構成が改善され、64年10月1日の時点で、生産管理局の局長代理と主任専門家61人、監督=組織活動員の全員が農業専門教育を受けていた (132) 。ヴォロネジ州では64年7月1日の時点で監督=組織活動員の定員85人のうち9人が欠員、21人が農業専門教育を受けていなかったのに対して、10月1日の時点では欠員は2人となり、活動中の83人全員が農業専門家、そのうち48人は高等教育を受けており、中等教育を受けている35人中15人は農業大学の通信教育を受講中であった (133) 。チェリャビンスク州では64年4月1日の時点で監督=組織活動員に占める農業専門家の割合は80.6%であったが、10月1日の時点では87.5%となった (134)
カザフ共和国では党中央委員会書記局が64年8月18日に、監督=組織活動員カードルによる生産管理局の強化について特別に審議し、その質的構成の改善に努めた。共和国全体で64年4月1日の時点で監督=組織活動員292人のうち高等・中等の農業教育を受けている者が222人(76%)、専門教育を受けていないプラクチキが70人(24%)であったのが、64年10月1日の時点では監督=組織活動員の総員が331人まで増やされ、そのうち農業専門家が287人(87%)、プラクチキ44人と農業専門家を65人増やして全体における割合を11%高めた。依然として地域差はあり、アルマ・アタ州、東カザフスタン州、カラガンダ州では活動中の監督=組織活動員全員が農業専門家となったのに対して、処女地地方では64年10月1日の時点で活動中の監督=組織活動員133人のうち高等・中等の専門農業教育を受けていた者は108人、81%にとどまったが、4月1日時点と較べると農業専門家は12.4%増で、共和国全体の増加率を上回った (135)

6. フルシチョフの方針転換・解任・「非フルシチョフ化」

第4節、第5節で見たように、1964年初頭から半ばにかけて組織構造の面でも人員面でも生産管理局の活動改善を目指した方策が採られていたが、生産管理局の提案者であり、64年2月党中央委員会総会では新たな形態を見つける必要を否定して生産管理局の活動をいかに改善するかを訴えていたフルシチョフは、2月総会閉会後まもなく方針を一転させた。64年2月28日におこなわれた党・ソヴェト・農業機関の指導的活動家会議においてフルシチョフは、ジャガイモ、野菜、牛乳、畜産に専門化されたソフホーズが生産管理局の他の経営の間で二義的な地位にあることのないよう見直す必要があるとして、専門化ソフホーズのトラストを設立する必要性を示唆した (136) 。さらにフルシチョフは、養豚、養鶏などの分野の指導は集権化すべきであり、それぞれに関する連邦=共和国管理局を設立するのが適切であると述べ、さらに他の生産品目についても集権化が適切かどうか熟考する必要があると述べて部門別の管理局設立の方針を示したのであった (137) 。これは生産管理局の解体を示唆したに等しい。
ここではフルシチョフの新たな構想について詳しく検討することはできないが、問題となるのは、こうしたフルシチョフの方針転換と、前節で確認した生産管理局を強化する党中央委員会書記局の決定およびそれに基づく地方党機関の活動との関係であろう。党中央委員会書記局決定は、フルシチョフの新方針が示されたのちに採択されているのである。ここには、もはやフルシチョフ解任の準備が着々と進められてすでにフルシチョフが意思決定の実際から少しずつ切り離されている、あるいはフルシチョフが何を言い出しても実際の行政に反映されないという状況があらわれているのかもしれないが、本稿では詳しく検討することはできない。そのような状況であった可能性を確認しておくにとどめたい。ただし、権力闘争に引き付けた説明が必ず必要というわけでもあるまい。フルシチョフが、書記局以下の中央委員会アパラートの日常的な活動に逐一関与するわけではなく、また関与することはできないことは言うまでもないことであり、トップと官僚機構の判断がただちに一致しないことはさして稀なことではない。そして生産管理局の活動をどのように評価していたにせよ、書記局以下の党アパラートは、その廃止が決定的となるまでは現行の体系を基本的に維持した上での問題点の修正・改善を選択するということは十分に考えられ、また農業教育を受けた人材を農業管理機関へ登用することは合理的かつフルシチョフの持論でもあるから、生産管理局の人員構成の改善の方策が進められたことは理解できないことではなかろう。
その後フルシチョフは1964年7月18日付で党中央委員会幹部会に宛てて農業指導に関する覚え書きを送り、生産管理局と生産管理局党委員会を激しく批判したと言われる。そして農業の専門化を徹底させるため生産管理局の廃止を提起、中心的な作物によってすべてのコルホーズ・ソフホーズをグループ分けして九つの農産物別の州専門管理局が直接管轄すること、これらの州専門管理局は連邦=共和国管理局に従属すること、経営活動に対する党機関のあらゆる干渉を取り除くために生産管理局党委員会を廃止して文化啓蒙的な役割を担う政治担当代理を専門管理局におくことを提案したというのである (138)
この覚え書きによっていまやフルシチョフの新たな方針と64年6月19日付書記局決定に代表される生産管理局強化の方針とは決定的に齟齬をきたしたわけだが、こうしたフルシチョフの方針転換、新提案はどのように受けとめられたのであろうか。1964年10月党中央委員会総会の速記録には次のように記されている。「1964年7月18日付の同志フルシチョフの最後の覚え書きはとくにひどい誤りを含んでいた。…同志フルシチョフは生産地域管理局さえも廃止の考えを表明し始め、コルホーズ・ソフホーズを直接州および地方から指導することを提案したのである。このことは農業に著しく多大な損失をもたらしたであろう」 (139)
フルシチョフの新提案に対しては、フルシチョフ以外の指導者たちは生産管理局による農業指導体制を支持する立場をとったと考えてよいのではないか。もちろん生産管理局そのものを支持したとは限らず、フルシチョフの新提案と較べての相対的な支持や、あるいは頻繁な組織改編への批判・懸念に基づいての支持という面もあるかもしれないが、1964年7月18日付のフルシチョフの覚え書きの後も、先の書記局決定に従って地方党機関が生産管理局強化の活動に取り組んだ事実からも、生産管理局を中心とする体系への半ば公然の支持を見いだすことができよう。先に見たようにカザフ共産党中央委員会書記局が監督=組織活動員カードルによる生産管理局の強化について特別に審議したのは64年8月18日のことであり (140) 、またアゼルバイジャン共産党中央委員会は64年9月22日付で「共和国の生産コルホーズ・ソフホーズ管理局、コルホーズ、ソフホーズの農業専門家カードルによる強化について」の中央委員会決定を採択したのである (141)
さらにこの時期、人員面での強化とは異なる形での生産管理局強化の試みもなされていた。1964年9月25日付の党機関部報告によれば、モルダヴィア共産党中央委員会と共和国閣僚会議は生産管理局の指導的役割と責任を強化しつつあり、コルホーズ、ソフホーズにサーヴィスを提供し生産管理局の領域にあるすべての経済組織は所轄官庁への従属にかかわりなく生産管理局の実務的指導のもとで活動し、生産管理局との密接なコンタクトのもとで生産の必要を充足するあらゆる具体的方策を実行することを決定した (142) 。こうした措置は新たな混乱を引き起こす可能性もあり、これによって状況が改善されたかは検討を要するが、生産管理局の役割を強化する試みであることは確かである。
このような動きにもかかわらず、フルシチョフの新提案は実現されるかに見えた。まず1964年9月3日付党中央委員会・閣僚会議決定によって一足早く養鶏工業総管理局設立が定められた (143) 。さらに、専門化された生産の指導改善の組織的問題を検討するための党中央委員会総会が64年11月に開催されることが予告され、同総会では穀物、サトウダイコン、綿花、大型有角獣、養豚、養鶏、その他最重要の農業生産物に関してそれぞれ連邦=共和国管理局の設立が決定される予定であると報じられた (144) 。しかし、周知のように、この間にフルシチョフを排除する準備が隠密裡にすすめられていた。1964年10月14日朝、臨時に党中央委員会総会が開かれ、党中央委員会幹部会員、中央委員会第一書記、中央委員会ロシア共和国ビューロー議長、ソ連閣僚会議議長を兼任していたフルシチョフはすべての職を解かれることが決定された (145)
フルシチョフ解任後、1962年11月の再編に対しては特に批判が噴出し、伝統的な党構造への回帰が急がれた。64年11月16日に開かれた党中央委員会総会は決議「工業・農業州、地方党組織の統合について」を採択し、党組織が農業・工業に分割された州、地方に単一の党組織、単一の党委員会を再建すること、生産管理局党委員会を地区党委員会に再編し当該領域の工業・建設企業も含めたすべての党組織の指導を地区委員会に集中することなどを定めた (146) 。その後相次いでおこなわれた共和国共産党中央委員会総会、州、地方の党委員会総会も、62年11月以前の構造への回帰を決議した。これに並行して地区区分の見直しも進められ、64年11月党中央委員会総会以後ロシア共和国で500以上、ウクライナで140の地区が新たに形成されるなど65年1月15日までにソ連邦全体で農村地区は2634まで数を増した (147) 。地区党委員会の再建も進められたが、65年3月24日の党中央委員会総会でのブレジネフ報告によればその数は2434であった (148)
こうした「非フルシチョフ化」の動きは、農業分野にはどのように影響したのであろうか。後継指導部はフルシチョフの農業政策の誤りを厳しく批判したが、他方で農業に高い優先順位を与え、フルシチョフが求め果たせなかった農業への資源配分の増大も実行するなど、農業生産の急速な増大を目指したフルシチョフの基本的な方針自体はより首尾一貫させた形で引き継いだとの見方がすでに一般的であろう (149) 。しかし機構の点では「非フルシチョフ化」が進められたとの見方のほうがあるいは一般的かもしれない。1965年3月1日付で党中央委員会・閣僚会議決定「コルホーズ・ソフホーズ生産の指導におけるソ連邦農業省の役割の向上について」(以下、65年3月1日決定)が採択され、フルシチョフがその権限を奪った連邦農業省は、コルホーズ・ソフホーズにおける農業発展の指導および農業生産の状態に対する責任を委ねられた。1961年以前の権限を回復した上に、当時と異なりコルホーズとソフホーズの双方を管轄することとなったのである (150) 。フルシチョフとの反目から更迭されたマツケヴィチ (В.Мацкевич) が連邦農業相の地位に返り咲いたことは、「非フルシチョフ化」との印象を強めていよう (151)
しかし農業管理機関の体系が上から下まで「非フルシチョフ化」の方向で大きく変化したと言えるかは微妙である。農業省は連邦・共和国省と定められ、共和国では農産物生産調達省の農業省への改組・合同がおこなわれた。例えばロシア共和国では1965年3月2日付最高会議幹部会令により農産物生産調達省が農業省に改組された。しかしロシア共和国農産物生産調達省と、再建されたロシア共和国農業省の中央アパラートの構造を比較検討したコヴァレンコは、両者の体系下にあるソフホーズ管理機関の体系にはいかなる本質的な変化も生じなかったと結論づけている (152)
地区レベルでは、65年3月1日決定は、生産管理局を地区生産農業管理局へと再編すること、監督=組織活動員は農業生産部門別専門家へと変更することを定めた (153) 。かつてミラーはこの地区レベルの改組を最もラディカルなものと評したが (154) 、筆者にはそうした評価は、以下の点で同意し難いように思われる。
第一に、生産管理局の管轄領域はそれまでも原則として地区と一致していたのであり、地区を管轄領域とする機関という意味では「地区生産管理局」であった。生産管理局がそれまで「地区生産管理局」と言われることがなかったのは、おそらくは地区ソヴェト執行委員会に従属していなかったことと関係するのではないかと思われるが、注目されることに、65年3月1日決定によって地区生産農業管理局に改組された後もこの機関は依然として地区ソヴェト執行委員会には従属しなかったのである (155) 〈図3〉参照)。
第二に、監督=組織活動員の農業生産部門別専門家への変更も、もっぱら名称に関わる変更と言えるのではなかろうか。確認したように、64年2月総会以後、監督=組織活動員の生産部門別への再編と専門家の登用が進められており、監督=組織活動員は実質的には農業生産部門別専門家と呼ぶに相応しい存在となりつつあったからである (156)
第三に、職員の待遇の面を見ると、1965年5月4日付の閣僚会議決定「地区生産農業管理局職員の賃金について」は、地区生産農業管理局職員に対して生産管理局職員のために定められた賃金、報奨、特権、特典の条件を維持すると決定している (157)
そして第四に、活動の面では、例えばロシア共和国において地区生産農業管理局が活動に際して従っていた規程は、1962年3月24日付で制定された、農業生産指導のための地域生産コルホーズ・ソフホーズ(ソフホーズ・コルホーズ)管理局、同管理局の評議会および監督=組織活動員に関する規程であった (158)
このように、地区ソヴェト執行委員会との関係、人員、待遇、活動内容、権限にほとんど変化はなかったと考えられ、地区生産農業管理局への改組という65年3月1日決定をもってただちに、生産管理局との断絶を言うことはできないように思われる。ただし、もしラディカルと言えるほどの変化があるとするならば、着目すべきは地区党委員会との関係であるが、この点はどうであろうか。
1964年11月14日付の党中央委員会指導員の党機関部宛て報告によれば、新たに形成される農村地区党委員会のアパラート定員は、生産管理局党委員会と同様とすることが予定されていた (159) 。2節で述べたように、生産管理局党委員会は62年までの地区党委員会よりも若干規模が大きかったので、人員面で新地区党委員会はかつての地区党委員会より強化されることになったと言えるかもしれない。しかし、地区党委員会の構造としては、組織部とプロパガンダ・アジテーション部の二つを設置するとされていたこと、監督=党組織活動員は組織部に配置するのが適切と見なされていたことは注目される。工業で働く党員を多数管轄する地区党委員会には2、3人からなる工業・運輸部を設置することも考慮されていたのに対し、地区党委員会に農業部を置くことは考慮されていた様子が見られないのである (160)
そして、農業指導、コルホーズおよびソフホーズの指導の主要な組織単位は、州ソヴェト執行委員会の農業管理局とこれに従属する地区生産農業管理局であることが広く主張され (161) 、地区党委員会の指導はより間接的なものであるべきことが改めて確認された (162) 。こうしたことを考え合わせると、地区党委員会との関係での変化は、生産管理局党委員会との関係においてよりも、「分業」関係の整序に適した方向への変化であった可能性が考えられる。とはいえ、連邦農業省以下の農業機関の体系の位置、役割、および党機関との関係は別に検討を要する課題である。とくに、地区の細分化が進められた結果として再び「地区合同」生産農業管理局が出現したため、地区党委員会との関係がどのようなものとなっていくのかは注目すべき問題であろう (163)

おわりに

これまで述べてきたことを整理し、その後の展開を簡単に述べて本稿を終えよう。「はじめに」でも紹介した、フルシチョフはコルホーズの管理における農業省の影響力を削減し、党の統制を増すことによってコルホーズをより効率的なものとするよう努めたという評価、そしてこれは政治的な支持基盤である党を、大衆の活力が動員され導かれる経路と見なすフルシチョフの全般的なアプローチと一致するものであったというような評価 (164) は、1960年代初頭までについてはほぼ妥当な整理であろう。
しかし1962年3月以後の時期については、若干の修正を必要とする。党への依存はかわらぬものであったにせよ、党機関だけに頼ることが考えられていたわけではない。なるほど農業省のラインには頼らなかったが、それに代わる農業管理機関の体系が作り出された。そして62年11月の党機関の再編の後も地区の農業機関の整備は着実に進められており、地区の農業機関である生産管理局と、地区党委員会に代わった生産管理局党委員会との間の「分業」関係の整序が重要な課題として追求されていた。様々な要因、とくに、充員されたカードルのメンタリティ(「地区党委員会的心理」)や、生産管理局党委員会という組織自体の不備による影響などのために、整然とした「分業」は実現されることはなく、両機関の活動には混乱が生じていたが、生産管理局を強化して地区における農業管理を委ねようとする方針は一貫して維持されていた。確かに決定的な変化が生じたわけではないが、農業分野における、遅まきながらの経済機関と党機関の分業関係の整序、そうした関係を可能とするような党機関の役割の変化が模索されつづけていたと言えるであろう。そして、生産管理局を中心とする農業機関の体系の発案者であったフルシチョフ自身がこれに見切りをつけ、さらなる改組を提唱した後でさえ、指導部の他の者たちは生産管理局を「主要な環」とする農業管理機関の体系を半ば公然と支持して、生産管理局を強化する方策をとり続けていたのである。
フルシチョフ解任後には、旧来の組織・制度への回帰、「非フルシチョフ化」が急速におこなわれた中で、農業管理機関にも変更が加えられた。生産管理局も地区生産農業管理局へと改組されることとなったが、それは必ずしも本質的な変化ではなかった。1964年半ばにフルシチョフが農業管理機関に関する方針を転換させたこともあって、農業管理機構についても断絶、「非フルシチョフ化」の印象が強いが、継続の要素は明らかに存在した。再建された地区党委員会の構造と、その「指導」の間接性が再確認されたことからは、農業機関との分業関係の整序が引き続き考慮されていたように思われる。
そしてその後も当面の間は、地区ソヴェト執行委員会からの独立、コルホーズ・ソフホーズの一元的管理という1962年3月以来の特徴を維持していた地区生産農業管理局は、肯定的に言及されることが少なくなかった。例えばエストニア共産党中央委員会第一書記のケビンは1966年の論文で、地区生産管理局という形でのコルホーズ、ソフホーズ生産の指導の現行の形態はその正しさを証明した、課題はその改組にではなく強化と発展とにある、ソフホーズとコルホーズの管理の分割はこれらの管理により大きな正確さをもたらしはしない、農業の国家指導の単一性の原則を侵害することは合理的ではないと主張し、地区コルホーズ・ソフホーズ管理局という現行の形態は正しさを証明したと言明した (165)
ケビンはこの論文において、党機関と初級党組織が経済指導者になりかわってはならないことは「公理」であり、党活動を経済機関に対する職務代行に帰着させてはならないとも述べている (166) 。しかし、地区党委員会と地区生産農業管理局による「分業」関係を、いかにして現実のものとするかという問題は未解決のままであった。
そして地区生産農業管理局をめぐる情勢は流動的であった。地区生産農業管理局を「二重の従属」下におくこと、所有形態の異なるコルホーズとソフホーズの指導には別個の管理機関を設立すべきことも主張されていたのであり、この二点をめぐっては以後も『コムニスト』誌、『ソヴェト国家と法』誌などを舞台に議論が続けられていく (167) 。そして、党機関と農業機関との分業は整序されないままに農業管理機関の体系は60年代末から70年代にはまたしても頻繁な改組が繰り返されていく。ある研究者の見解によれば、農業への資源配分の増大にともなって管理機関が叢生したことによって、逆に地区党委員会が唯一の調整力をもつ管理機関として影響力を強化していくという構図が出現していくのである (168) 。しかしもちろん、これは別に検討されるべき問題である。


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