ナターリヤ・ヤコヴェンコの研究をはじめとする最近の家系学的研究は、レーチ・ポスポリータ下で右岸ウクライナ、白ロシア、リトアニア、プリカルパート・ウクライナ(ハリチナ)などに形成されたシュリャフタ層は、ポーランド本土からの移住・植民によってではなく、在地エリートのポーランド化によって生まれたと指摘している。本稿においても、「ポーランド人」「ポーランド系」という言葉は、民族学的な意味でのポーランド人ではなく、「ポーランド化された人々」という意味で用いられる。次を参照:N.M. Iakovenko, "Ukrains'ka shliakhta z kintsia XIV do seredyny XVII st. (Volyn' i Tsentral'na Ukraina)," Avtoreferat dysertatsii na zdobuttia naukovoho stupenia doktora istorychnykh nauk (Instytut istorii Ukrainy, NAN Ukrainy, Kyiv, 1994).
本稿付録〈表1〉参照。1897年人口調査に基く内務省の試算によれば、西部9県におけるユダヤ人の対県人口比は、約12%(ヴィテプスク、モギリョフ県)から約18%(グロドノ県)までのいずれかの値をとった。次を参照せよ:Tsentral'nyi derzhavnyi istorychnyi arkhiv Ukrainy (TsDIA Ukrainy), f.442 (Kantseliariia Kievskogo, Podol'skogo i Volynskogo general-gubernatora), op. 656, spr. 132, ch.1, ark.185.
ウクライナ民族主義者にとっては耳の痛いこの問題を扱った研究として次を参照:V.B. Liubchenko, "Teoretychna ta praktychna diial'nist' rosiis'kykh natsionalistychnykh orhanizatsii v Ukraini (1908-1914)", Ukrains'kyi istorychnyi zhurnal (UIZh), 1996, No. 2, pp. 55-65; Leonid Heretz, "Ukraine and the Origins of Russian Nationalism, 1900-1921," Paper presented at the First Annual ASN Convention, held at Columbia University (New York), April 26-28, 1996.
例として次を参照:N.N. Leshchenko, Krest'ianskoe dvizhenie na Ukraine v sviazi s provedeniem reformy 1861 goda (60-e gody XIX st.), Kiev, 1959.
本稿の著者はポーランド語が読めないので、ポーランドの史学史については次のウクライナ語文献を参照した:N.M. Iakovenko, Ukrains'ka shliakhta z kintsia XIV do seredyny XVII st. (Volyn' i tsentral'na Ukraina), Kyiv, 1993 の序章(s. 5-24)および、後出のダニエル・ボヴォアの著書のウクライナ語版に添付された Iaroslav Dashkevych による解説 "Daniel' Bovua ta vyvchennia istorii pol's'ko-ukrains'kykh vidnosyn" (s. 3-48)。
N.O. Shcherbak, "Natsional'na polityka tsaryzmu u pravoberezhnii Ukraini v kintsi XIX - na pochatku XX st. Za materialamy zvitiv mistsevykh derzhavnykh ustanov." Dysertatsiia na zdobuttia naukovoho stupenia kandydata istorychnykh nauk (Kyivs'kyi universytet, 1995).
ここでは批判的に言及せざるを得なかったが、シチェルバクの学位論文は、こんにちのウクライナで民族問題について書かれたものとしては良心的な部類に入ると思われる。たとえば、ある若い研究者は、ウクライナを代表する歴史雑誌において、「ウクライナ人とユダヤ人の間に公然たる衝突はなかった」、1905年10月宣言直後のポグロムは「『黒百人組』の助けを借りてツァーリ政府が挑発した」ものであったなどと主張している(A.Iu. Podol's'kyi, "Antysemits'ka polityka rosiis'koho tsaryzmu v Ukraini na pochatku XX st.", UIZh, 1995, No. 6, pp. 61 and 63)。これは非常に斬新な見解であろうが、典拠も示さずに主張するには斬新に過ぎよう。対照的に、シチェルバクは、右岸ウクライナの反ユダヤ主義には一定の大衆的な基盤があり、ポグロムに自然発生性があったことを認めた上で、官憲が見て見ぬ振りをしていたことがポグロムの規模をいっそう大きくしたと述べている(s.128 その他)。現実的な見方であると言えよう。なお、1881年のポグロムが、どの程度「組織された」ものであったか、あるいは自然発生的なものであったかについての研究史は、次の論文中に要領よくまとめられている:中谷昌弘「1881年ポグロム後の帝政ロシアのユダヤ人問題に関する一考察 ム『ユダヤ人に関する臨時条例』を中心に」『ロシア史研究』No. 61、1997年、2-12頁。最近の研究としては、ヘンリー・アブラムソンが、中世以来の反ユダヤ主義的風刺画などの国際比較を通じて、西欧・中欧における反ユダヤ主義が宗教的な偏見に基づく場合が多かったのに対し、右岸ウクライナにおける反ユダヤ主義は、ユダヤ人が現地で果たしていた経済的な役割に起因する度合いが大きかったことを指摘している。次を参照:Henry Abramson, "Ukrainians, Jews and the Problem of Anti-Semitism," Paper presented at the First Annual ASN Convention, held at Columbia University (New York), April 26-28, 1996.
本稿が参照したのは、1996年に出版されたウクライナ語版である:Daniel' Bovua, Shliakhtych, kripak i revizor - Pol's'ka shliakhta mizh tsaryzmom ta ukrains'kymy masamy (1831-1863), Kyiv, 1996.
Witold Rodkievicz, "Russian Nationality Policy in the Western Provinces of the Empire during the Reign of Nicholas II, 1894-1905" (Ph.D thesis, Harvard University, 1996).
John P. LeDonne, "The Geopolitical Context of Russian Foreign Policy: 1700-1917," Acta Slavica Iaponica, tomus 12, 1994, pp.1-23.
Andreas Kappeler, "Mazepintsy, malorossy, khokhli: ukraintsy v etnicheskoi ierarkhii Rossiiskoi imperii," v kn.: A.I. Miller, V.F. Reprintsev, B.N. Floria, Rossiia - Ukraina: istporiia vzaimootnoshenii , M., 1997, pp.125-144.
この考え方を典型的に表現した史料として、次のパンフレットを参照:General-gubernator ili gubernator? (Kiev, 1889)。このパンフレットは、南西地方における総督制の廃止を求める世論が高まった際、それに反論したものである。廃止論の要点は、総督制は「キルギス-カルムイク汗国やカフカス山岳民」のような遅れた民族を統治するのに適した制度であり、西部諸県のような文化水準の高いところには、内地と同じ通常統治機構を一刻も早く導入した方がよいというものであった。対照的に、このパンフレットの要点は、総督制は、大ロシア人の国家理念よりも未発達な国家理念を有する民族が住む地域と、逆により発達した国家理念を有する民族集団(ここでは、バルト・ドイツ人、ポーランド人貴族とカトリック司祭、ユダヤ人富豪を指す)が住む地域との双方に存在しなければならないと主張したことである。
R. Pearson, "Privileges, Rights, Russification," O. Crisp and L. Edmonson (eds.), Civil Rights in Imperial Russia, Oxford, 1988, pp. 85-102; here, pp. 86-87, 89-90. ただし、ピアソンは、ウクライナ人と白ロシア人については、ロシア政府がそれを文化的同化の対象とした可能性を排除していない。
次の本がこの問題を深く検討している:Ol'ha Tarasenko, Stanovlennia ta rozvytok istorychnoi osvity i nauky u kyivs'komu universyteti u 1834-1884 rr., Kyiv, 1995. 特に s. 125-126 に注目。
N.N. Leshchenko, Krest'ianskoe dvizhenie, s.186, 225; Vin zh (M.N. Leshchenko), Klasova borot'ba v ukrains'komu seli v epokhu domonopolistychoho kapitalizmu (60-90 roky XIX st.), Kyiv, 1970, s. 241, 258.
I.I. Butenko, "Sil's"kohospodars'ka kooperatsiia pivdnia Ukrainy druhoi polovyny XIX - pochatku XX stolittia,モ Dysertatsiia na zdobuttia vchenoho stupenia kandydata istorychnykh nauk (Kherson, 1994), s. 114-115.
W. Rodkievicz, "Russian Nationality Policy," p. 94.
ドイツ人のヴォルィニ県への入植は、エカテリーナU世下の1787年、メノー派新教徒が二つのコロニーを開いたことに始まる。1830年代以降、政府はドイツ人の入植奨励策をとった。1870年代以降、国境地帯にドイツ人が増えすぎることを政府は危惧するようになったが、彼らの入植は止まらなかった。チェコ人の移住が活発化したのは1867年以降、政府が彼らに徴兵免除の特恵措置を与えたためである。1874年の軍政改革施行と共にこの特恵措置は廃止され、チェコ人の入植も緩やかとなった(Pervaia vseobshchaia perepis' naseleniia Rossiiskoi imperii, 1897 g., tom 8, SPb., 1904, s. viii; W. Rodkievicz, "Russian Nationality Policy," pp.115-116)。
次を参照:Fedir Savchenko, Zaborona ukrainstva 1876 r. Do istorii hromads'kykh rukhiv na Ukraini 1860-1870-kh r.r., Kyiv-Kharkiv, 1930, pp.13-32. ただし、南西地方長官までがウクライノフィルに宥和的であることは、キエフ学区副視学官M.ユーゼフォヴィチらの危惧を呼んだ。彼らがペテルブルクと内通することによって、南西地方長官の知らないところで有名なエムス布告が準備されたのである。
政府の公式見解ではないが、おそらくそれを代弁したものとして次が参考になる:A.V. Storozhenko, Proiskhozhdenie i sushchnost' ukrainofil'stva, 2-e izd., Kiev, 1912.
Orest Subtelny, Ukraine: A History (2nd edition), Toronto-Buffalo-London, 1994, p. 272. キエフ大学学生総数に占めるポーランド人学生数の比率は、当該時の差別政策の強弱により変動したが、概して20%弱であったと考えてよい。南西地方「ロシア化」(脱ポーランド化)の砦として設立されたキエフ大学であったが、ポーランド人のそれへの対民族人口比での入学率は、「現地ロシア住民」(ウクライナ人)の対民族人口比入学率の20倍以上だったのである。
たとえばミハイロ・ドラホマーノフは、帝国地理協会南西支部開設(1872)の前夜、ハリチナの急進的なウクライナ民族運動との論争において、次のように述べた。「ロシア帝国内のウクライナは、民族としてはまだ立ち現われておらず、自分自身をまだ知らないのです。ウクライナには、自分を認識するために、学術的、文学的な仕事が必要なのです。扇動、しかも国外からの扇動は、この仕事を害するだけです。いまやこの仕事は、地理協会のようなものを組織することで政府自身が援助しようとしているのですから。…私のメッセージをどうかリヴォフに伝えて下さい。彼らが次のように問題設定するように。彼らが自分にマッツィーニの力を感じ、キエフに若いイタリアを見るとき、まさにそのときにのみ、ロシアに抗して立ち上がり、誰はばかることなく革命を呼びかけるように、と」(Savchenko, Zaborona ukrainstva, p. 18)。
TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 38-39 ta 50-50 ob.
TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 38 ta 53-54.
TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 54.
TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 45 ob ta 51-52. これはかなり偏向した批判である。同じ史料(ark. 52)によれば、ポドリヤ県において地方経営委員会(選挙制ゼムストヴォの前身)の指導下、「ロシア人」地主は21学校・18病院の建設を援助したのに対し、ポーランド人地主は11学校・6病院の建設しか援助しなかった。同じくキエフ県ではロシア人地主が28学校の建設に参加、これに対してポーランド人地主が建設を助けたのは6学校にすぎなかったとされる。確かに両者の社会事業への熱意には有意な差があるが、そもそも自分の子弟を母語で教育する権利を奪われていたのだから、これも無理はなかろう。
TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 54.
TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 15.
TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 22-23.
TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 18-20.
A.N. Iarmysh, "Karatel'nyi apparat samoderzhaviia na Ukraine (1895-1917)," Avtoreferat dissertatsii na soiskanie uchenoi stepeni doktora iuridicheskikh nauk (Ukrainskaia iuridicheskaia akademiia, Khar'kov, 1991), s. 19.
D. Bovua, Shliakhtych, s. 108-110.
Shiro Sasaki, "Segmentary Hierarchy of Identity - The Case of Yakuts and Evens in Northern Yakutia," K. Inoue & T. Uyama (eds.), Quest for Models of Coexistence: National and Ethnic Dimentions of Changes in the Slavic Eurasian World, Sapporo, 1998, pp. 317-337.
ペレストロイカ下で蔓延した現象の一例を挙げよう。ロシア共和国はリトアニアに飼料穀物を供給する。そのかわりリトアニアはロシア共和国に適正価格で乳製品・肉類を供給する義務を負うはずであるが、それらを西側に輸出してしまう。同様に、ロシア共和国はラトヴィアに木材を供給する。ラトヴィアは、その木材から作られた家具をロシアにではなく西側に輸出する。いずれの場合にも、リトアニア、ラトヴィアは、ソ連価格で原料を仕入れ、国際価格で製品を売って大儲けをしたわけである(Sovetskaia Kuban', 4 aprelia 1990, s. 1)。