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4. 市川の帰国と後半生

    1873年3月末に明治政府の岩倉具視遣欧使節団がペテルブルグを訪れた。4月1日付で市川は使節団の随員に加えられ、使節のアレクサンドル二世謁見の折りの通訳をつとめた (39) 。そしてこの年の9月13日に市川は使節団とともに8年2カ月ぶりに帰国した (40) 。約8年間ロシアに滞在したことになる。シユヴヰロワ(シェヴィリョーワ)母子との別れを、後に『東京日日新聞』は思い入れたっぷりにこう描写している。

  雪の降る夜ストーブの前で、愛する女と、愛する児のためにその金髪を撫でゝ再会の日を約して互に終夜を泣き明かした (41)

  帰国の翌月、市川は文部省七等出仕となり、12月に4カ月前に開設されたばかりの東京外国語学校魯語科教員に任ぜられた (42) 。これで彼は所期の目的、少なくとも周囲の人々のそれを達したことになる。この年に市川は遠縁の娘と結婚し、後に二女をもうけた。翌1874年2月に外務省二等書記官に任命され、翌月海軍中将兼特命全権公使榎本武揚に随行してペテルブルグへ赴任した (43) 。露都の日本公使館はネヴァ河岸のビビコフの大邸宅を借りたもので、在勤員は6人。このうち榎本以下5人がここに同居していた (44) 。市川の主な仕事は、会談の際の通訳や外交文書の翻訳だった。とりわけ千島樺太交換条約の交渉に与っては、志賀親朋、西徳二郎とともに通訳として大いに力を発揮し、この条約は1875年5月7日(ロシア暦4月25日)に調印された。この折り彼は条約の参考資料として、ポロンスキーの『千島列島』(1871年)を日本語に翻訳した (45) 。この間シユヴヰロワ(シェヴィリョーワ)母子とは何らかの交渉があったものと思われる。1878年7月から9月にかけて、帰国の際に市川は榎本らとともに4頭立てのタランタス(4輪有蓋の旅行用馬車)2台でペテルブルグからウラヂヴォストークまで1万500キロメートルのシベリア横断旅行を66日間で敢行した (46)
  翌1879年1月に市川は外務省御用掛兼文部省御用掛となり、再び東京外国語学校魯語科で教鞭を執った (47) 。その生徒たちのなかに嵯峨の屋お室(本名矢崎鎮四郎)や二葉亭四迷(長谷川辰之助)がいた。そしてこの、ゴンチャローフの「孫弟子」二葉亭が、わが国最初のゴンチャローフ文学の紹介者となったのである。奇しき縁といえよう。二葉亭の愛読書のひとつは『断崖』だったから (48) 、彼は市川からゴンチャローフのことを聞いていたにちがいない。但し前記鈴木要三郎の回想によると、市川は長期ロシア滞在のため日本語がよくできず、ロシア語の方も単語を知っているばかりで、学術的素養というものは持ち合わせていなかった。例えばゴンチャローフと交際しながら、『オブローモフ』を読んだことはなかったという (49) 。榎本も市川を高く買ってはいなかった。妻への手紙で榎本が駐露公使の後任について述べたくだりにこうある。

  市川はロシア語は勿論仏語も下(ママ)通りは出来れども、結構人にて学問も見識もなく、其上日本文字がまるで出来ず(余リ長クナルカラ此話ハヨシニ致シマショー) (50)

  但し市川のために一言弁明すると、当時の「学術的素養」、「学問」とは即ち漢学を意味した。一方彼の学歴を見る限り、父親が西洋指向型だった影響もあるのだろう、漢学はあまり勉強しなかったようだ。この点は差し引いて考えてやらねばなるまい。
  1879年に父兼恭は文吉に財産を、翌年には家督を譲った (51) 。1885年に東京外国語学校が廃止になると、翌年6月、黒田清隆のシベリア経由欧米巡遊に市川は非職外務省御用掛の身分で随行し (52) 、露都でのアレクサンドル三世との会見に通訳の役目を果たした。1887年4月に帰国。この年に文部省編纂局が『露和字彙』を刊行した。活字になったわが国最初のロシア語辞典である。上・下巻合わせて2878頁、語彙数は十数万語という巨大なものだが、これに市川は編者のひとりとして参加した (53)
  その後市川は、黒田、榎本など顕官に知己が多かったにもかかわらず、官途への望みを一切絶って、熱海、鎌倉、小田原、次いで伊東で後半生の40年ちかい歳月を隠遁のうちに送った。幕臣である市川は、明治新政府の高官たちに対して口に云えない憤りと蔑みの念を抱いていたのかもしれないし、また19世紀後半のペテルブルグの社交界を垣間見てきた彼には、明治の日本など立身出世に価しない社会と映ったのかもしれない (54) 。市川の妹はこう述懐している。

  文吉は父斎宮[兼恭の通称−沢田]に輪をかけたやうな無口で非社交的な変人で、家族のものともあまり打ち解けて話をするやうなこともなく、外国へ行く時でも当日まで何もいはないでゐて、トランク一つ持つて隣町へでも行くやうに無雑作に出かけた (55)

 ロシアに残してきた「妻」はまもなく亡くなったようだが、息子アレクサンドルには仕送りを続けた。アレクサンドルは1914(大正3)年頃と、市川が亡くなる一月前の二度来日して父に面会した。市川の喜びが筆舌に尽くしがたいものだったことは想像に難くない。また1887年にプチャーチンの長女で皇后付女官オリガが病気療養のため来日した際は、市川は東京神田三崎町1丁目12番地の自分の屋敷内に二階家を建てて、そこに住まわせた (56) 。晩年は、帰国した橘耕斎や東京外国語学校の元教師アンドレイ・コレンコとは親密に交際し、彼らの不遇な晩年の生活に対して種々の援助を惜しまなかった。またロシア革命後は銀座街頭で亡命ロシア人に金品を恵み与えていたという (57) 。市川文吉は1927(昭和2)年7月30日に死去した。享年81歳。墓碑は東京都内の雑司ヶ谷霊園にある。ロシア滞在時に購入したと思しき彼のロシア語蔵書は、1924年に東京外国語学校に寄贈され、現在も東京外国語大学図書館に保管されている。

5. ゴンチャローフの未刊行書簡

  ロシアの代表的なゴンチャローフ研究者のひとりである国立ウリヤーノフスク工科大学教授メーリニク氏は、1984年に論文「忘れ得ぬ『パルラダ』号」 (58) を発表した。その後半部分は、長崎でのゴンチャローフと川路聖謨の交わり、日出づる国への作家の尽きざる関心、そして彼と交流のあった可能性のある日本人の記述に捧げられている。そこでメーリニク氏は1887年8月14日付のA.F.コーニ宛のゴンチャローフの未刊の手紙 (59) を紹介し、「アンドウ」なる日本人が作家と交流があった事実をつきとめている。これは一つの発見である。
 アナトーリイ・フョードロヴィチ・コーニ(1844−1927)は著名な法律家、社会活動家、法制審議会会員、アカデミー名誉会員(1900年より)であり、文学者でもあって、19世紀のロシア作家について数多くの回想録を著した。1871年以来ゴンチャローフが亡くなるまで、彼のもっとも親しい知己のひとりであって、作家はコーニを遺言執行者に指定しているほどだ (60) 。二人は32歳という年齢差にもかかわらず、ともにロシア・リベラリズムの典型的な代表者であり、アレクサンドル二世の改革の心からの信奉者だった (61) 。コーニの5巻本の回想記『人生の途上にて』には、晩年のゴンチャローフに関する詳しく、興味深い回想が含まれている。そこでは作家の創作の主観性、彼の極度に神経質な性格、人ぎらい、ツルゲーネフとの剽窃問題に代表される猜疑心の強さが見事に浮き彫りにされている。コーニを文学活動の舞台に導き入れたのは、ほかならぬゴンチャローフだった。  「プーシキン館」のゴンチャローフ・グループの前秘書ロマーノワ女史が、この手紙の写しを送付してくださったので、以下にそれを訳出する。作家が夏の休暇をとっていたグンゲルブルグ(ウスチ=ナルワ)から書き送ったものである。

  日本人公使ならば、わが国に来た者は全員存じております。うち一人は、そのご夫人とも知り合いになりました。これはすべてポシェート家でのことです。公使館員の一人に、優美流暢に、洗練されたロシア語をしゃべるアンドウ=サン(わが国風に言えば、ゴスポヂン・アンドウ)という人がいますが、彼が向こう一年帰国する際、邦訳を出すため『フリゲート艦パルラダ号』を持ち帰っています。もちろん、私は日本人と近づきになりたく、喜んであなたの所へおうかがいいたします (62)

  若干補足説明を加えると、まずポシェートは、1853年にプチャーチン提督付副官兼オランダ語通訳官として長崎に来航した海軍少佐で、後に運輸大臣や参議院議員を歴任した人物である。

    グンゲルブルグ即ちウスチ=ナルワは、エストリャンド県ヴェゼンベルグ郡の、チュード湖から流れ出たナルワ川がフィンランド湾に流れ込むその左岸に位置する保養地である。砂丘の松林に建てた別荘が数多くあり、夏にはペテルブルグの住民が多数押し寄せた (63) 。今世紀初めのデータで、住人は約3000人だが、夏期には1万人を超えたという (64) 。現エストニア共和国領にある。

  この時ゴンチャローフは75歳で、亡くなった使用人トレイグートの妻と子供たちと一緒に暮らしていた。ゴンチャローフが滞在していた別荘は、家財道具一式付きの条件で300ルーブルで借用したものである。彼は1887年6月5日にこの地に来て8月21日まで滞在し (65) 、スケッチ『昔の召使いたち』の続きと回想記『故郷にて』の執筆に取り組んだ。コーニもまもなくここに来て、8月10日まで作家と一緒に過ごした (66) 。従って上に引いた作家の手紙は、若い親友が去った4日後に書かれたことになる。コーニの回想によれば、「陰気な人ぎらい」のゴンチャローフも、自分と二人きりか、もっとも近しい人々の小人数の集まりの場では活気づいたという。

  リガの浜辺やウスチ=ナロワの海岸を長時間散歩した時などがそうで、そんな時には彼[ゴンチャローフ−沢田]の鮮明な思い出話や物語に道連れは疲労を忘れてしまうのだった。こういった思い出話のなかには、『フリゲート艦パルラダ号』に収められなかった多くのものがあった (67)

  上引書簡は、そのような散歩中の作家の思い出話の続きかもしれない。
  さてまず書簡中の、「日本人公使ならば、わが国に来た者は全員存じております。」というくだりが興味深い。メーリニク氏も書いているように、この場合の「日本人公使」とは、1862年に樺太国境問題でペテルブルグを訪れた幕府使節竹内下野守保徳、同じ目的で1867年に露都を訪問した箱館奉行小出大和守秀実と目付石川駿河守、1873年の岩倉具視、そして榎本武揚などを意味しているのかもしれない。残念ながら、これを立証する史料はまだ見つかっていない。
  メーリニク氏は論文の末尾で、「翻訳を引き受けたこのアンドウ=サンとは何者であったのか、また、何ゆえそれを果たせなかったのか」 (68) と問いかけている。以下がこの問いに対する筆者の返答である。

6. 安藤謙介のロシア滞在

  「アンドウ=サン」、即ち安藤謙介は1854年1月1日に土佐国安芸郡羽根村に土佐藩士の長男として生まれた。彼は1869年から藩の漢学塾「致道館」で学び、講師兼塾頭をつとめた。1872年に上京したが職を得られず、日本ハリストス正教会神学校に入学し、ロシア語を学び始めた (69) 。まもなく東京外国語学校魯語科の外国教諭トラクテンベルグが、魯語科の生徒が少数のため神学校の生徒を分けてくれるよう頼んできたので、1874年9月に安藤は約40人の生徒とともに東京外国語学校に移った。外語のクラスは上等6級、下等6級に分かれており、彼は下等第二級に入って、メーチニコフなどからロシア語を学んだ。だが早くも翌年に安藤は同校をやめた。教科書として使っていた代数の原書が学校に二冊しかなく、しかもそのうち一冊は教師用だから生徒に貸し出せないと言われて、彼は生徒総代となって校長、幹事と対立し、文部省を訪問中に放校となったのである (70) 。この時市川文吉はロシア滞在中で、外語では安藤とはすれ違いに終わった。その後安藤は同郷の中江兆民のもとでフランス語を学んだ (71) 。  
 この頃安藤は勝海舟と知り合った。これは安藤の生涯において大きな意味を持つ。『海舟日記』の1875年から1892年までの17年間に安藤の名は、筆者の計算によれば都合89回登場し (72) 、また勝の『会計荒増』にも5回言及がある。市川文吉が榎本武揚派だとすれば、安藤は勝派といえようか。『海舟日記』に安藤の名が初めて現れるのは1875年10月20日のことで、「高知県平民、安藤謙介。」 (73) とある。恐らくこの日初めて安藤は勝のもとに伺候したのだろう。翌1876年初めに安藤は勝に就職の斡旋を依頼し、勝はそれに応えている (74) 。そのかいあって同年4月に安藤は外務省に出仕し、サハリンのコルサコフ領事館に書記一等見習として勤務することとなった (75) 。勝の4月29日の日記に、「安藤謙介、カラフト詰め一等書記官見習い拝命の礼申し聞く。」 (76) とある。
  1878年には同じく書記一等見習としてペテルブルグ公使館勤務に転じた。安藤のロシア行きの話が勝の日記に初めて出てくるのは前年11月26日のことで、それが正式に決定したのは1878年2月のことのようだ (77) 。1880年の『官員録』に安藤の身分は「三等書記生」、1883年のそれには「書記生」、1886年の『職員録(甲)』には「属 判任官二等」と記されている (78) 。彼は勤務のかたわらペテルブルグ大学で聴講生として行政学と法学を学んだ。ロシア語は確かによくできたようで、『帝室ペテルブルグ大学教授・教官伝記事典 1869−1894年』第一巻にも次のようにあり、前引のゴンチャローフの言葉を裏書きしている。

   彼[安藤−沢田]はロシア語を見事に習得しており、まったくもって自由に、優美といっていいくらいにロシア語で話し、書いた (79)

  その後日本公使館の定員削減のため、安藤は一時公使館を解雇された。これは、上記履歴からして1881−1882年頃のことか。だが彼は帰国せずに法学を学び続けた。ゴンチャローフが名だたる法律家であるコーニ宛の手紙で安藤に言及した理由の一つは、恐らく作家がこの日本人の専攻科目を知っていたからだろう。1881年から前記ワシーリエフ教授の招きで、彼は同学部で定員外教官として日本語と書道を教えた。これは橘耕斎、西徳二郎に次いで同大学の三代目の日本人講師ということになる (80) 。1883年に再び日本公使館に書記生として採用されたが、安藤はこの後1884年末まで2年間ペテルブルグ大学で無償で教鞭を執り続けた。これによりロシア帝国からスタニスラフ二等勲章を授与された。以上より安藤がゴンチャローフと交わったのは、1878年初頭から1885年初頭の帰国までの間のいずれかの時期ということになる。
  彼がロシア時代にロシア語で著した業績としては、次のようなものがある。

 1. Очерки Кореи по японским источникам // Морской сборник. 1882. кн. июньская. 6.(論文「日本の資料による朝鮮概説」『海事集録』1882年6月号、第6号、75-91頁)
2. Очерки истории японского уголовного права и судопроизводства. Перевод с япон-ского. Издано по распоряжению импер. японского посланника в С.-Петербурге г. Ханабуса. СПб., 1885. (翻訳『日本の刑法と訴訟手続きの歴史概要』ペテルブルグ、A.M.ブォリフ石版印刷所、1885年、全42頁)
3. 1 лист японской хрестоматии писанный(sic) (азбукой) катаканой и тексты. (В 1-м томе китайской хрестоматии проф. В. П. Васильева). (かたかな表記の『日本語選文集』全紙1枚とテクスト(V.P.ワシーリエフ教授の『中国語選文集』第一巻に所収)) (81)

 1は序論、「国家機構について」、「言語、教育、宗教」、「朝鮮人の生活習慣、風俗、慣習」の4章から成る、かなり詳しい朝鮮論である。この論考は1882年に発表されたが、これはこの年の朝鮮が政情不安定で、壬牛事変が発生したことと恐らく無関係ではあるまい。2は当時在ペテルブルグ日本公使だった花房義質の命により出版されたものである。冒頭の「訳者より」によると、日本の法務省で作成されペテルブルグの日本公使館に送付された原本を、安藤がロシア語に訳出したものだという。ともに日本人が書いたとは信じられないほど正確で、自然なロシア語である。3は筆者未見。


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