アメリカ合衆国における
ハンガリー系エスニック集団の形成と
コシュート像建設運動
山 本 明 代


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序 論


ハンガリーにおいて、農村からの人口流出が顕著になり、移民が社会的問題として浮上したのは1890年代のことである。移民の多くは急速な工業発展により雇用が見込まれたアメリカ合衆国へと向かった (1) 。当時より、ハンガリーでは、経済学者による移民の人口統計上の影響や移民原因の分析が行われる一方、学者や新聞記者を派遣して、合衆国における移民の居住地、職場、教会、相互扶助組織、各種文化団体活動の調査が行われた。これらの文献では、ニューヨークと並んでオハイオ州クリーヴランドが注目すべき都市として挙げられている (3) ではなく、複数のエスニック集団へと分岐した。従来のハンガリーにおける研究は、この原因を本源的な「民族性」、言語、文化の相違として捉え、各エスニック集団は当初から異なる集団であることを前提として移民史を構成してきた (5) 、ハンガリー王国からの移民が複数の集団へと分岐した原因は、移民の中に元々内包されていたのではなく、合衆国においてエスニック集団が新たに編成される過程の中で生み出されたのではないか。
移民集団の編成過程を分析するにあたって、まずその編成原理を解明する手掛かりとなる移民集団の文化、価値システムに関する従来の議論を確認したい。プシュカーシュは、移民諸団体の社会的活動を特徴付けていた価値システムは、新たな異郷においてより自由な接近が可能になった農民、工業労働者、中産階級という三つの異なる社会集団の混合物であると指摘している。そして、アメリカの形式にそれを当てはめることによってホスト国の社会的規範への適応が図られたと論じている (7) 。フェイェーシュはホスト国と移民集団の文化に関しても同様に二項対立的な関係を想定し、2世代を通して移民集団の文化がホスト国の文化によって変容 ヌacculturationネ されていく過程を分析した。しかし、ソラーズが指摘したように、エスニック集団が合衆国で新たに創出された集団であるとしたら、その文化はホスト国の文化、価値システムとの二項対立的な関係の中にではなく、移民の故郷、出身国、ホスト国とその居住地という移民を取り巻く様々な関係性の中に存在しているのではないか。
アメリカ合衆国の各移民集団の祝典を分析したボドナーは、エスニック集団の記憶の形成には集団内外の利害の関与と調整が不可欠であると指摘した。そして、経済的、政治的目的のための祝典であっても、集団の「原初的愛着」の追求と解釈なしに人々を動員することは不可能であると指摘し、移民集団の文化が関係性の中で創出されていく過程を明らかにした (9) は、ハプスブルク支配下においてオーストリアからの独立を試みた1848年革命の指導者である。コシュートは革命戦争敗北後、1896年に亡命先で死亡したが、ハンガリーの首都ブダペストにおいて大規模な葬儀が催され、コシュートがハンガリー国民のアイデンティティの象徴であることが示され た (10) 同時期、クリーヴランドのハンガリー王国からの移民居住区においては、各エスニック集団の形成が進行していた。世紀転換直後に行われたコシュート像建設運動とその祝典を分析することは、王国からの移民の分岐とその過程を解明する手掛かりとなるだろう。この記念碑建設運動において、コシュートはどのような象徴として現われ、ハンガリー系エスニック集団はコシュートを通してどのような存在として自己表象したのか。コシュート像建設運動を通して映し出されたハンガリー系エスニック集団の形成過程を考察することによって、移民集団の編成のあり方を明らかにしたい。また、これをもって移民集団とホスト国との関係形成について一つの類型を提示したい。


1. クリーヴランドへのハンガリー王国からの移民

(1) 19世紀クリーヴランドと東欧移民

19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、オハイオ州クリーヴランドは急速な工業化と都市化を遂げた。まず初めに19世紀のクリーヴランドを概観し、東欧地域からの多様な移民の到来とその居住地、彼らの社会的結合関係について考察したい。
クリーヴランドは18世紀末に市が創設され、創成期の住民は主としてニュー・イングランドから移住した清教徒であった。運河開通を契機として商業都市として台頭し、1860年代には商業から工業の中心地へと移行した (12) 。1880年までにクリーヴランドは、国内有数の鉄の鋳造、ロール鉄の生産地となった (14)
東欧地域からの移民の到来に先駆けて、1830年代には独立革命以前にドイツから到着した移民の子孫がクリーヴランドに流入していた (16) 熟練職人、「ユダヤ系」商人が訪れた (18) 。それに伴い、オーストリア帝国とハンガリー王国内の熟練職人とその品物を商う商人は、当時の生産形態が熟練労働者に依拠していたアメリカ合衆国へと向かった。彼らも多くが家族を同行し、当初から永住を目的とし、短期の非熟練労働の後、熟練職に就くか事業に着手した。
1870年代以降、東欧地域からの集団移民が到着した。先行したのは、自営農民になる機会を求めてネブラスカ、アイオワ、ウィスコンシン各州へと向かっていたボヘミア諸州と分割された旧ポーランド地域からの移民だった。移動の途上、彼らはクリーヴランドに立ち寄り、やがて定住の地として選択した (20)
ハンガリー王国からの集団移民は1870年代末から到着した。集団移民は、ボヘミア諸州や旧ポーランド地域からの移民情報の伝播に伴い、ハンガリー北東部から開始された (21) 。この地域には、主としてスロヴァキア語を話す人々が多数を占め、主としてドイツ語、マジャール語を話す人々が存在した。宗派では、ローマ・カトリック教会、カルヴァン派教会教徒以外にも、東方帰一教会 (22) 、ユダヤ教会教徒が混住していた。主としてスロヴァキア語を話す人々は、帰国した「ユダヤ系」熟練職人、商人、主としてドイツを話す人々から情報を得て、アメリカへ向かった。
ここで、クリーヴランドに到着したハンガリー王国からの初期の集団移民とその居住地を各移民集団の研究文献から見てみよう。スロヴァキア系移民集団に関する文献によると、最初の移民は1874年に単身で訪れている。次にボヘミア諸州出身の仕事斡旋人からクリーヴランドへの移民を助言された者が、1880年に家族を伴って到着した (23) 。初期の集団移民はボヘミア諸州からの移民や「ユダヤ系」移民が既に集住していたヘイ・マーケット地区に居を定めた。
次に、ハンガリー系移民集団に関する文献によると、1870年代末アバウイ-トルナ県から集団移民が到着した。家族同伴者はボヘミア諸州からの移民が集住していた地区に家を借り、単身者は家族を呼び寄せるまでその家に寄宿した。他の一家は前述したヘイ・マーケット付近に居を定めた。同じくアバウイ‐トルナ県出身のある青年は1880年に一旦帰国し、共に移民するよう父親を説得した。父親は隣村に赴き、クリーヴランド在住者の住所を尋ねた。彼らは家族を伴って移民し、住居が見つかるまで隣村出身の移民宅に寄宿した (24)
これら初期の移民には、同郷の人々の間にある情報ネットワークや社会的結合関係のあり方の一例を見ることが出来る。この結びつきは、親族を核として、同村や同郷の範囲に及び、移民先での出迎え、当座の住まいの確保、仕事の紹介など異郷における困難な生活を相互に支援する包括的な生活共同体であった。このように、移民先での職業や居住地の選択は、出身地における移民情報の伝播と同様に親族や同郷の人々の間で行われていた。この初期の移民に見られた同郷者の結合関係に対して、次節で述べる居住区の形成は、東欧地域内の他の地方出身者との遭遇の機会をもたすと共に、より多元的な社会的結合関係を生み、移民集団のネットワーク形成の端緒をなすものであった。
<図1>ハンガリー王国から海外への移民の地理的分布


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