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(3) 運動への抗議

1902年7月下旬、スラヴ系代表団がジョンソン市長 (56) を訪問し、パブリック広場へのコシュート像設置に対して抗議活動を行った (57) 。その中心となったのは、ローマ・カトリック教会のスロヴァキア系、チェコ系主任司祭であり、次のような抗議を表明した。「コシュートはスラヴ系の血を引きながらその人種を裏切り、『マジャール人』貴族となり、遂にハンガリーの独裁者となった。コシュートは無慈悲にも『マジャール人』と同等の権利を要求した多くのスラヴ系の人々を処刑した (58) 。」さらに、クリーヴランドにはハンガリー系に比して5倍のスラヴ系住民が居住していることを付言した。
続いて、ジョンソン市長の下には、スラヴ系諸団体から抗議文書が届いた (59) 。あるスラヴ系団体は、「マジャール人」が「ハンガリー人」という虚偽の名の下に祝典開催を意図していると批判し、アメリカ合衆国において「ハンガリー人」の名称は「マジャール人」のみが専有すべきでないと指摘した。
これらの抗議に危機感を抱いた像建設委員会は急遽、集会を開いた (60) 。その会に出席したジョンソン市長は、像の設置場所を市の中心部パブリック広場から、人口増加と共に発展を続けている市の東部への変更を提案した。最終的な決定は市議会に委ねられ、後日パブリック広場への設置許可は否認された (61)
スラヴ系諸団体の抗議活動によって、コシュート像はメイン・ストリートに面する市郊外の緑地帯に設置されることになった (62) 。50年前の訪米時、コシュートは「自由の擁護者」として熱狂的に歓迎された。そのため、スラヴ系諸団体が訴えた抑圧者、独裁者としてのコシュートのイメージはクリーヴランド市民に衝撃をもって受け止められた。しかし、コシュートへの評価を巡る議論が加熱したり、訪米当時の奴隷解放論者からの批判が想起されたりすることを避けるため、スラヴ系諸団体が反対していたパブリック広場から像設置場所が変更されたのである。そして、仲裁に立った市長はこの変更に将来の住民の中心地となる市の東方という積極的な意味を与えた。
コシュート像建設運動の抗議の先頭に立ったフルデク司祭は、1882年にチェコ系ローマ・カトリック教会の司祭としてクリーヴランドに赴任した。フルデクは、第2章第1節で述べた後に分裂したローマ・カトリック教会信徒団の教会堂建設に寄与している (63) 。スロヴァキア語新聞の発行、スロヴァキア系相互扶助組織の設立を行ったフルデクは、当初ピッツバーグを拠点とするロブニアニュクの急進的な組織とは対立していた。しかし、1900年第一カトリック・スロヴァキア人協会の国民基金 (64) 設立を契機として、ロブニアニュクに接近し、両者はアメリカ合衆国におけるスロヴァキア系エスニック集団形成とハンガリー王国内のスロヴァキア国民形成運動を目的として連動していった (65)
ハンガリー王国からの移民がかつて共有していた居住区から生まれた複数のエスニック集団は、コシュート像建設運動を巡ってその集団の存立根拠を鮮明にし、対抗し合う集団として立ち現れた。そして、コシュートは各々の結合原理に従って論じられたばかりでなく、「アメリカの理念」を巡って「自由の擁護者」あるいは「抑圧者」という全く相反する存在として論じられ、コシュートを介して互いに自らの正統性が主張されたのである。

3. ハンガリー系エスニック集団とクリーヴランド

(1) シンボルとしてのコシュート

コシュート像除幕式の祝典は、1902年9月27日、28日の両日に亙って開催された (66) 。パレードには総勢8,000人以上が参加し、除幕式典には市長を始め、上院議員、下院議員、州知事も列席し、60,000人もの見物客が集まった。クリーヴランドにおいて、コシュート像建設運動が広範囲な人々の関心を集めて成功したのは、コシュートがハンガリー系移民集団にとってだけではなく、市の政治、文化リーダーにとっても有効なシンボルでありえたためである。ここでは、除幕式の祝典において演出されたハンガリー系諸団体の自己表現とコシュートに付与された象徴の意味を祝典の表象と言説から分析し、次節ではコシュート像建設と祝典の意義を市政の側面から考察したい。
除幕式のパレードは、呈示する対象を明確に定めたコースが設定された。パレードはパブリック広場から出発し、市役所の前を通り、富裕層の邸宅が立ち並ぶユークリッド・アベニューを東進した〈図2〉。そのパレードにおいても、初日のオープニング・セレモニー会場においても、ハンガリー国旗は常に星条旗と共に用いられた。軽騎兵の一団は赤と青の星条旗色の衣装を身につけていた。このことは、市への忠誠を明示するためという像の設立申請の文面や像建設委員会会長が述べた「像の献納は二つの国の輪が溶け合うような偉大な出来事 (67) 」という開会の辞に呼応して除幕式の舞台が準備されたことを示している。
除幕式のパレードは、教会、相互扶助組織、文化活動諸団体により演出、構成されていた。パレードにおいて観衆の注目を集めたハンガリー大平原プスタの馬飼いと住民の扮装は、ハンガリー王国からクリーヴランドへ到来した多くの移民の出身地であるハンガリー北東部の生活習慣とは全く関連性のない「ハンガリー文化」なるものを表象していた (68) 。これは第2章第1節で述べたように、ハンガリー王国からの移民がアメリカ合衆国における様々な文化団体活動を通して獲得したものに他ならなかった。
そして、この「ハンガリー文化」は山車の少女達の衣装にも表現されていた。ハンガリーのいかなる地方においても国旗色の衣装は使用されていない。国家としてのハンガリーを象徴した衣装を纏った幼い少女達に従われて、中央には自由の女神に扮した女性が位置していた。ここに、自由と民主主義の国アメリカの優位と、それらの原理が未だ成熟していないハンガリーから来た幼子の移民という、象徴的な構図が描き出されている。また、少女達が表象する「ハンガリー文化」はアメリカのシンボルと共存し、さらにその崇拝者であることも暗示している。そして、ハンガリー系諸団体が除幕式のパレードで表現したこの構図によって、移民後に作り出された「ハンガリー文化」はアメリカの価値に相応しく形作られ、アメリカの理念とも重なりうることが明示されていた。
さらに、コシュート像自体もアメリカの国旗に包まれていた。年老いた1848年ハンガリー独立革命時の戦士がコシュート像を覆っていた星条旗の幕を下ろした。この儀式は、コシュートがハンガリー系エスニック集団のヒーローから星条旗の中から生まれたアメリカの理念を体現するシンボルへと転換したことを象徴的に示していた。この祝典に参加した王国からの移民は、コシュートを通して、アメリカの理念を掲げる「ハンガリー系アメリカ人」として自らを呈示した。この点については、除幕式の開会の辞として語られた「像をハンガリー人としてではなく、ハンガリー系アメリカ人として献納するのである (69) 。」という像建設委員会の会長の言葉とまさに呼応していたと言える。
コシュートは、訪米時に、専制君主や絶対主義から人々を解放する欧州の自由主義者の代表として、アメリカ合衆国の人々のアイデンティティの源泉である「自由の擁護者」としてのイメージを獲得した。50年後、クリーヴランドにおいてコシュートはアメリカの政治リーダー、中産階級の要請に従って語られた。コシュートはアメリカで享受される「自由」、市民の義務と法律による制限を伴う「自由」への貢献者である。それ故、コシュートの「進歩的思想」、「愛国心」と共に、その像は次世代へと伝える指標になると強調された (70) 。世紀転換期のクリーヴランドにおいて、市の政治リーダーは、多様な価値観を有する移民の合衆国市民への統合を共有する利害として有していた。彼らが要していたのは合衆国への「愛国心」と統合に寄与するシンボルであったため、体制の変革者であるコシュートの一面は危険な要素として読み替えられていた。
ハンガリー系移民集団はコシュート像建設運動に加わり、コシュートを通してハンガリー国家とその歴史、文化と繋がる栄光ある「ハンガリー人」として自己確認した。同時に、クリーヴランドの政治リーダーが求めた「自由」、「愛国心」、「発展」というコシュートのイメージも、彼ら自身がアメリカ合衆国への移民に求めた価値観と重なり、共有するシンボルとして同意した。
コシュートは1902年のクリーヴランドの現在が求めたシンボルに他ならなかった。

<図3>クリーヴランドにおけるコシュート象の除幕式 1902年9月28日


典拠:Kende Geza, Magyarok Amerikaban,U,Cleveland,1927,p.222.

(2) クリーヴランド市政と東欧移民

コシュート像が19世紀末のニューヨークにおいてではなく、1902年のクリーヴランドにおいて建設された理由は、都市の政治、社会構造、移民集団の社会的進出の点から探ることが可能だろう。ここでは、クリーヴランド市の政治リーダーと東欧移民の関係を探り、コシュート像建設運動の展開と市政との関連性を考察したい。
急速に発展した工業とそれに伴う都市化によって生じた様々な経済的、社会的問題の解決は、20世紀初頭の合衆国各地において深刻な政治課題であった。クリーヴランドにおいて、それを解決すべく革新主義の政策と共に市の政界に登場したのは民主党のジョンソンである。1901年に市長に当選すると、汚職、独占事業の打倒に挑み、市街電車の低料金化、税制改革を実現した。公園や公衆浴場を設置し、貧窮者の救済等社会サービスの向上を図った。さらに、政党ボスとマシーンの撲滅を宣言し、自らはテントで移動する対話集会を開催し選挙戦を戦った (71)
このような試みにも関わらず、世紀転換期のクリーヴランド政界は政党マシーンとボスが機能し、民主党と共和党は「移民票」の獲得を巡って争っていた。共和党は主として「ワスプ」、中産階級を支持基盤にしていたが、帰化した移民票の獲得には、ロシア・「ユダヤ系」出自のバーンスタインとその後を継承したドイツ・「ユダヤ系」のマシュケが政党ボスとして勢力を伸ばしていた。彼らはジョンソン市長治下には影響力を低下させたが、ジョンソンが5度目の再選を目指した1909年市長選においてドイツ系候補を立て、それまでジョンソンの強力な支持基盤であったドイツ系市民票を獲得し勝利した。他方、民主党は中産階級、帰化した移民を主たる支持基盤とし、東欧地域出身では特にチェコ系、ポーランド系、クロアチア系市民から強力な支持を受けていた (72) 。ハンガリー系市民も多数が民主党支持者であり、第1章第2節で述べたクンツが政党ボスとしての機能を果たしていた (73)
クリーヴランド市政への東欧地域出身市民の進出は、ハンガリー系が先行していた。1850年代初頭に移民した1848年革命亡命者の第2世代であるブラックが大学教育を受けた後、1881年には市議会に当選し、その後民主党市長治下において消防局長を務めた (74) 。コシュート像建設運動が行われた1901年から1902年当時、ハンガリー系は市議会に議席を有してはいなかったが、ジョンソン市長治下に活躍した青年政治改革集団のリーダーがハンガリー系移民第2世代であった。チェコ系、ポーランド系市民の市政進出は1910年代以降、スロヴァキア系は1920年代以降となる (75)
次に、ハンガリー系移民集団と市政、政治リーダーとの関連性をコシュート像建設運動組織とその展開から考察したい。第2章で指摘したように、像建設運動はその開始当初から市当局の選挙委員、公共事業局長との関係の中で進行した。上述したようにブラック、クンツに代表されるハンガリー系移民集団リーダーと民主党との密接な関係が市当局との連動を可能にした。ブラックとクンツは、像建設委員会において各々顧問委員会会長、主会計に選出されていた。この運動の翌年1903年の州知事選出馬を目指していたジョンソン市長にとって (76) 、重要な票田であるスラヴ系諸団体の抗議は看過することのできない問題となった。そこで、ハンガリー系移民集団を譲歩させ、その代わりにコシュート像に市の「発展」という新たな意味づけを行った。
像建設運動の過程において再編された像建設委員会の構成が示しているように、移民集団のリーダーは各々異なる機能を果たしていた。運動の実務を担ったのはハンガリー系諸団体のリーダーである。その一人が1880年代初頭に移民し、移民居住区において商店を営むワイザーである。ワイザーは早期に合衆国市民権を獲得した後、政治クラブを結成した。そして、移民の英語習得、市民権獲得を促進させ、政党ボスとしてのクンツを支えていた (77) 。このワイザーに代表される自営業者は、経済活動を移民居住区に依拠し、移民コミュニティにおける影響力の確保を目指していた。この移民第1世代を中心とする自営業者に加え、聖職者、マジャール語新聞編集者が移民集団の文化リーダーとして、市の政治リーダーと繋がるハンガリー系名士層、中産階級と協同し、ある時は対抗しつつ、エスニック集団内部の活動において具体的な方向付けを行っていた。
コシュート像建設運動が行われた1900年代初頭、ハンガリー系のみならず、ポーランド系、チェコ系、スロヴァキア系市民 (78) も民主党市長ジョンソン支持者であった。しかし、各スラヴ系移民集団に先駆け、その抗議にもかかわらず、ハンガリー系移民集団の祝典が市を挙げて開催された。それを可能にしたのは、前節で考察したシンボルとしてのコシュートの有効性以外にも、他の東欧移民集団に先行したハンガリー系市民の市政への進出、政党ボスの存在、移民集団内部において異なる機能を果たし、協同する第1世代と第2世代のリーダーの存在であった。これらがニューヨークではなく、20世紀初頭のクリーヴランドにおいてコシュート像建設運動が成功した理由でもある。


結 論

クリーヴランドにおけるコシュート像建設運動は、ハンガリー本国、クリーヴランド市政、スラヴ系諸団体、移民集団内部の諸階層とそのリーダーといった様々な関係性の中において進行した。
運動の正統性の源泉は故国に求められ、出身地、宗教、階層が異なる人々を対抗関係を越えて結集する核とした。この運動の源泉となったコシュートは「原初的愛着」としてハンガリー系諸団体の成員や集団移民によって解釈されたが、客観的には本源的なものではなかった。むしろ、移民後の教会、相互扶助組織、文化団体活動を通して創出された「ハンガリー文化」と相似を成すものであった。祝典において示されたように、この「ハンガリー文化」はコシュートと同様、ホスト国の規範に相応しく形作られていた。
ハンガリー系名士層、中産階級層、諸団体のリーダーは、教会、相互扶助組織、文化活動諸団体を通して組織化されつつあるハンガリー王国からの移民を一つのエスニック集団として結集し、呈示する機会をこの運動に見い出した。既に市の政治リーダーの一部であった移民第2世代と移民集団内の第1世代の政党ボスの存在は、市政を担う民主党政治リーダーと連動して運動を展開する可能性を開いた。彼らが祝典において「良きアメリカ市民」としてのハンガリー系移民集団を呈示することは、自集団内の成員だけでなく、他の移民集団のアメリカ化をも促進し、自らの政治的、社会的基盤を増強するものであった。
ハンガリー系移民諸団体の成員はこの運動に参加し、コシュートを通してハンガリー国家と繋がる「ハンガリー人」として自己確認し、同時に「アメリカの理念」を掲げるハンガリー系アメリカ人としてのアイデンティティを表現した。「良きアメリカ市民」としての自己表象は彼らが移民に求めた社会的上昇のためには不可欠なものであり、ハンガリー系エスニック集団への参加は彼らにとっても利害に関わることであった。
移民がホスト国社会の成員となる回路であるエスニック集団は、他の集団との相互関係の中に存在していた。ハンガリー系エスニック集団は、コシュート像建設運動を巡る状況において、その集団の境界を規定した。スラヴ系諸団体は、この運動と「ハンガリー国家性」の専有に対して抗議の声を上げたが、それは彼ら自身のエスニック集団の存在とその正統性を主張し、集団内部の結集を図る機会でもあった。境界の規定により生じた対抗関係において、両集団はホスト社会における自らの位置づけを行ったのである。アメリカ社会におけるエスニック集団としての存在承認のために取り出されたコシュートは、他の集団との差異化を導くことになり、それがハンガリー王国からの移民のホスト国における分岐を起因させたのである。


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