ソ連言語政策史再考

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  1. いわゆる「国民国家」の形成において言語政策のもつ意味については、様々な角度から論じられている。フロリアン・クルマス『言語と国家』岩波書店、1987年、田中克彦『言語からみた民族と国家』岩波同時代ライブラリー、1991年、同『ことばと国家』岩波新書、1981年、イ・ヨンスク『「国語」という思想』岩波書店、1996年、『ライブラリ相関社会科学』第4号(言語・国家、そして権力)、新世社、1997年の諸論文。また、個別の事例として、順不同だが、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ベルギー、カナダ、ユーゴスラヴィア、インド、シンガポールその他多数の例についての研究がある。それらの各論については一々触れないが、ソ連とほぼ同時期に解体した社会主義的連邦国家である旧ユーゴスラヴィアの例は、国家の分裂と言語の関係を考える一つの素材として極めて興味深い。Daria Sito Sucic, "The Fragmentation of Serbo-Croatian Into Three New Languages," Transition, vol. 2, no. 24 (29 November 1996), pp. 10-13.

  2. 鈴木義里「国家と州の公用語-インド=グジャラート州の公用語を手がかりとして」『ライブラリ相関社会科学』第4号参照。

  3. この問題意識を具体化するには、多くの論点に関する多面的な研究が必要であり、本稿の枠内でそれを十分なしとげられるわけではないが、とりあえず基本的な発想として提示しておく。萌芽的な問題提起は、塩川伸明『ソ連とは何だったか』勁草書房、1994年、16-24頁で行なったが、今後も継続的に議論を深めていきたいと考えている。本稿よりも後に書いた拙稿「帝国の民族政策の基本は同化か?」『ロシア史研究』第64号(近刊予定)もあわせて参照されたい。

  4. 研究史については別のところで論じたので、ここでは省略する。塩川伸明「ソ連言語政策史の若干の問題」(北海道大学スラブ研究センター・重点領域報告輯、No.42)1997年(以下、「討論ペーパー」と記す)、1-4頁参照。なお、この討論ペーパーは、本稿および別稿(「言語と政治-ペレストロイカ期の言語法問題」皆川修吾編『移行期のロシア政治』渓水社、1999年、41-88頁-以下、「別稿」と記す)執筆の準備作業として、研究史概観のほか、資料紹介をやや詳しく行ない、また、その末尾の部分では背後の問題意識について論じたもので、いわば本稿および別稿への「付録」という性格をもっている。本稿は独立した論文として読めるように書かれており、必ずしも討論ペーパーおよび別稿の参照を要しないが、細部についてより詳しく知りたい読者はあわせて検討していただければ幸いである。

  5. 中井和夫『ソヴェト民族政策史』御茶の水書房、1988年、第I部第2章および補論1参照。

  6. バルト地域における政策について、竹中浩「帝政期におけるロシア・ナショナリズムと同化政策」『年報政治学1994(ナショナリズムの現在・戦後日本の政治)』岩波書店、1994年参照。

  7. 「民族の牢獄」論に大胆に挑戦した論争的な問題提起論文として、松里公孝「19世紀から20世紀初頭にかけての右岸ウクライナにおけるポーランド・ファクター」『スラヴ研究』第45号(1998年)がある。同論文には示唆的な指摘が多数含まれるが、ただ、「民族の牢獄」論に代えて「分割・統治」論を強調するかにみえる点には若干の疑問を感じる。これでは、一つの通俗的見解を批判して他の通俗的見解に接近するものととられるおそれなしとしない。

  8. Современные этнические процессы в СССР. М., 1975. С. 312 (М. Н. Губогло).

  9. なお、同じ統計を地域別に整理した表が、加納格「ロシア帝国末期の選挙参加と国家統合」『愛知県立大学外国語学部紀要』(地域研究・国際学編)第29号、1997年、120頁にある。また、後の表3の1897年の欄は、民族別ではなく地域別である上、年齢層も異なるので表1と直接対比することはできないが、識字率の民族格差と地域格差の間の大まかな相関をみることはできる。

  10. Toivo Raun, "Language Development and Policy in Estonia," in Isabelle T. Kreindler (ed.), Sociolinguistic Perspectives on Soviet National Languages: Their Past, Present and Future, Mouton de Gruyter: Berlin, New York, Amsterdam, 1985, pp. 13-18.

  11. 「モルダヴィア」および「白ロシア(ベロルシア)」という表記についての補注。周知のように、ペレストロイカ末期以降、ロシア語での公式表記がそれぞれ「モルドヴァ」「ベラルーシ」と改められたが、現地語での名称が変わったわけではない。「名称が変わった」とよくいわれるが、それは不正確であり、国際的な呼称を現地式にあわせるようにしたのである。独立以前の時期についてどのように表記すべきかは難しい問題だが、ここでは折衷的に、通時的・一般的呼称としては「モルドヴァ」「ベラルーシ」とし、帝政期およびソヴェト時代の特定の歴史的呼称としては当時のロシア式表記にならって「モルダヴィア」「白ロシア(ベロルシア)」とする。

  12. 「チュルク・タタール系」というまとめ方は原表のものだが(但し、同じ報告書の中で、「チュルク」という言葉と「トルコ」という言葉とが混用されている)、その中には、タタールのように相対的に文章語の伝統の古い(識字率も高まりつつあった)民族も含まれ、その意味で大ざっぱに過ぎるまとめ方だということは否めない。また、1897年という時点はジャディード運動によるムスリムの識字普及が始まったばかりなので、その成果はここには反映されていない。ついでながら、「モンゴル・ブリャート系」という表現も原表のもの。

  13. イリミンスキーについては、Isabelle Kreindler, "A Neglected Source of Lenin's Nationality Policy," Slavic Review, vol. 36, no. 1 (March 1977), pp. 86-100(ニコライおよびガスプリンスキーへの言及はp. 89, n. 12.); 山内昌之『スルタンガリエフの夢』東京大学出版会、1986年、77-81頁; 奥村庸一「19世紀ロシア民衆教育改革の性格について-対東方民族『異族人教育規則』(1870)の検討」『日本の教育史学』第39集(1996)など参照。19世紀末から第1次大戦までの時期における帝政教育政策の揺れとその中におけるイリミンスキー方式の位置については、Wayne Dowler, "The Politics of Language in Non-Russian Elementary Schools in the Eastern Empire, 1865-1914," Russian Riview, vol. 54, no. 4 (October 1995)が詳しい。カザフスタンへのイリミンスキーの影響については、Martha Brill Olcott, "The Politics of Language Reform in Kazakhstan," in Isabelle Kreindler (ed.), op. cit. ( Supra n. 10), p. 187. カフカスにおける異族人教育政策の揺れについては、高橋清治「帝国のカフカス支配と『異族人教育』」(『ロシア史研究』第60号、1997年)参照(イリミンスキーについて、79-80頁に言及がある)。北カフカース山岳諸民族への民族語教育については、Austin Lee Jersild, "Ethnic Modernity and the Russian Empire: Russian Ethnographers and Caucasian Mountaineers," Nationalities Papers, vol. 24, no. 4 (December 1996), p. 642.

  14. ソヴェト時代初期における民族学者の役割についてFrancine Hirsch, "The Soviet Union as a Work-in-Progress: Ethnographers and the Category Nationality in the 1926, 1937, and 1939 Censuses," Slavic Review, vol. 56, no. 2 (Summer 1997), pp. 251-278. 言語学者の役割についてMichael Smith, "The Eurasian Imperative in Early Soviet Lnaguage Planning: Russian Linguists at the Service of the Nationalities," in Susan Gross Solomon (ed.), Beyond Sovietology: Essays in Politics and History, M. E. Sharpe: Armonk, NY, 1993, pp. 159-191.

  15. I. Kreindler, op. cit., Slavic Review, vol. 36, no. 1 (March 1977), pp. 88-89, 96-99; Yuri Slezkine, "The USSR as a Communal Apartment, or How a Socialist State Promoted Ethnic Particularism," Slavic Review, vol. 53, no. 2 (Summer 1994), p. 418.「内容において社会主義的、形式において民族的」というスローガンについては後述。

  16. 1914年の「義務的な国家語は必要か?」В. И. Ленин. Полное собрание сочинений. Т. 24. М., 1961. С.293-295; 『レーニン全集』第20巻、大月書店、1957年、61-64頁。なお、邦訳全集で「公用語」となっている言葉の原語は государственный языкあり、「国家語」と訳されるべきである(この概念の理解については田中克彦による。『世界民族問題事典』平凡社、1995年、432頁; 田中「国語と国家語」『思想』1998年10月号参照)。

  17. この時期の言語政策の簡単な概観として、渋谷謙次郎「『国民国家』の位相と『言語の権利』」(2)早稲田大学大学院『法研論集』第73号(1995年)、102-110頁参照。また典型例として、ウクライナにおける「ウクライナ化」政策については、中井和夫、前掲書、第III部第2章参照。

  18. ウクライナ・ボロチビストの共産党への合流について、中井和夫、前掲書、176-188、255-256頁、中央アジアのジャディードの一部が共産党に合流したことについて、James Critchlow, Nationalism in Uzbekistan: A Soviet Republic's Road to Sovereignty, Boulder, CO., 1991, pp. 169-170; ブハラ共産党で活動した元ジャディードであるフィトラトの軌跡について、小松久男『革命の中央アジア』(東京大学出版会、1996年)参照。

  19. 1916年の「社会主義革命と民族自決権」В. И. Ленин. Полное собрание сочинений. Т. 27. М., 1962. С. 255-256; 『レーニン全集』第22巻、大月書店、1957年、169頁。

  20. 1913年の「言語問題における自由主義者と民主主義者」В. И. Ленин .Полное собрание сочи-нений. Т. 23. М., 1961. С. 423-426; 『レーニン全集』第19巻、大月書店、1956年、375-378頁参照。なお、レーニン自身は、エスニックにはカルムィク人、ドイツ人、スウェーデン人、ユダヤ人などの混血であり、ロシア人の血をどれだけ引いているかは不明だが、生まれたときより当然の如くにロシア語を母語としていた。そのような彼自身の経験が、諸民族の自然な接近・融合、そしてロシア語の自然な普及と共通語化という展望の背後にあったのかもしれない。

  21. ソヴェト政権初期における民族郡・地区・郷・村ソヴェトの存在について、Советское государ-ство и право. 1991, 11. С. 151 (О. И. Чистяков) 参照。

  22. Slezkine, loc. cit., pp. 422, 430, 438-439, 443-444.

  23. 1897年センサスは前出だが、その後、ジャディード運動によってどの程度まで識字が広がったかは今のところ統計的に確認できないので、結論を留保しておく。

  24. 次注の一連の文献のほか、小松久男、前掲書、169-173、271-274頁も参照。

  25. Thomas G. Winner, "Problems of Alphabetic Reform among the Turkic Peoples of Soviet Central Asia, 1920-41," Slavonic and East European Review, vol. 31, no. 76 (December 1962), pp. 133-147;野田岳人「ソヴェト初期における言語政策の形成」拓殖大学『海外事情』1996年2月号参照。ラテン文字化政策の新しい解釈(特に言語学者の役割)として、Michael Smith, op. cit.がある。

  26. Kreindler, Slavic Review, vol. 26, no. 1, p. 93; Winner, op. cit., p. 134 n.

  27. 但し、この向上のうちのどれだけがソヴェト政権の政策による部分であるかを確定することは難しい。帝政期最後の包括的な調査は1897年で、その次は1926年なので、この間の上昇は帝政末期のものとソヴェト政権初期のものの両方を含む。一般的通念として、革命前夜まで国民の大半が文盲だったかに思われがちだが、そのイメージは正しくない。識字率は20世紀初頭に急速に上昇した。1897年から第1次大戦の間の時期について包括的な調査はないが、各種の断片的データをつきあわせると、この間におよそ1.4倍程度の上昇があったとみられる。 А.Рашин.Формирование рабочего класса в России. М., 1958. C. 581-582; он же. Население России за 100 лет. М., 1956. C.298-299.
    など参照。また、一般に識字が普及しつつある時期には、若い世代の大半が文字を読めるようになる一方で、文盲率の高い年長世代が次第に世を去っていくという世代交替効果を通して平均識字率が向上するものだが、こうした世代交替には一定の時間がかかるから、平均識字率向上は、それに先立つ時期の教育普及がタイムラグを伴って現われるものである。その点を考慮するなら、1926年までの識字率上昇はかなりの程度帝政末期の教育普及に負うと考えられる。もっとも、識字率上昇はその後も続いており、その時期については明らかにソヴェト政権の努力の成果ということになる。

  28. И. В. Сталин. Сочинения. Т. 12. М.,1955. С. 367-368; 『スターリン全集』第12巻、大月書店、1954年、390-391頁。

  29. 「東方人民大学の政治的任務について」И. В. Сталин. Сочинения. Т. 7. М.,1954.С. 138; 『スターリン全集』第7巻、大月書店、1954年、148頁。

  30. なお、1927-28年の白ロシアで、「形式において民族的、内容においてレーニン的」、「形式において民族的、内容においてプロレタリア的」というスローガンが掲げられたことがあるという。Jakub Zejmas, "Belarus in the 1920s: Ambiguities of National Formation," Nationalities Papers, vol. 25, no. 2 (June 1997), p. 244.おそらく、同種の発想が言葉づかいを確定されないままに様々な論者によって提起されていたものと思われる。もっとさかのぼって、革命前のイリミンスキーの発想との連続性をみる見解があることは前述した。

  31. Yuri Slezkine, "The Fall of Soviet Ethnography, 1928-38," Current Anthropology, vol. 32, no. 4 (August-October 1991), pp. 478-479; Slezkine, "The USSR as a Communal Apartment," p. 437; Slezkine, "N. Ia. Marr and the National Origins of Soviet Ethnogenetics," Slavic Review, vol.55, no. 4 (Winter 1996), pp.842-851. マール理論がある時期以降のソ連言語学に猛威を振るったこと、また晩年のスターリンがわざわざ言語学論文(1950年)を書いてマール学派を批判し、言語=上部構造論を否定したことはよく知られているが、そのように「悪名高い」人物であるだけに、通説やレッテル貼りにとどまらず、新しい角度からの再検討をすることにも意味があるのではないかと思われる。とはいえ、本稿の文脈で立ち入る必要はないし、また私自身も取り立てて調べているわけではないので、さしあたり、上記の文献の他、 Большая советская энциклопедия. 1-е изд., т. 38. М., 1938. Стлб. 261-264 によって最小限の伝記的事項を確認するにとどめる。ニコライ・ヤコヴレヴィチ・マールは1864年、クタイス生まれ(父はスコットランド人、母はグルジア人)。1901年にペテルブルグ大学教授、1912年に帝国アカデミー正会員となった。元来の政治的立場は不明だが、1930年(当年とって66歳)に入党し、1934年に死去した。こうした経歴は、通常の「ボリシェヴィキ学者」と比べるとかなり特異である。

  32. И. В. Сталин. Сочинения. Т. 13. М.,1955. С. 4-5;『スターリン全集』第13巻、大月書店、1954年、20-21頁。

  33. Y. Slezkine, "The USSR as a Communal Apartment," pp. 442-444.

  34. 広義の民族たる「ナツィオナーリノスチ」は、「ナーツィヤ」=共和国あるいは自治共和国をもつ民族、「ナロードノスチ」=自治州あるいは民族管区(後の自治管区)をもつ民族、「民族グループ」=ソ連の中にはそうした領域をもたないが国外に本拠をもつ民族、という3通りのランクに格付けされ(逆にいえば、そのような民族の格付けが国家的地位の格付けを正当化した)、このいずれにも当てはまらない少数者集団については「エスノグラフィック・グループ」とされた。センサスで認定される「ナツィオナーリノスチ」の数は、1926年の172から、37年の90、39年の59へと減少した。Francine Hirsch, op. cit. (Supra n.14), pp. 272-276.

  35. 1937年末の政治局決定について、富田武『スターリニズムの統治構造』岩波書店、1996、87-88頁。

  36. РЦХИДНИ, ф. 17, оп. 3, ед. хр. 997, лл.103-107. この決定については、討論ペーパー、4-7頁に詳しく紹介してある。

  37. РЦХИДНИ, ф. 17, оп. 3, ед. хр. 997, лл.95-96. この決定は、以下の決定集にも収録されているが、部分的省略がある。КПСС о вооруженных силах Советского Союза. М., 1958. С. 353; КПСС о вооруженных силах Советского Союза. М., 1981. С. 286-287.

  38. Коммунист. 1972, 3. С. 53 (А.Гречко). なお、ペレストロイカ期のグルジアで共和国最高会議に提出された民族部隊問題委員会報告によれば、1938年3月7日の党中央委員会・人民委員会議決定で廃止された民族部隊は41年11月13日の国家防衛委員会決定で復活し、50年代末まで存続していたが、主観主義と主意主義の時代(フルシチョフ期のこと)に、法的手続きなしに廃止されたという。 Заря Востока. 29 ноября 1989 г. С. 2.

  39. 文字改革についての典拠は前注25と同じ。沿ドネストル自治共和国のモルダヴィア[モルドヴァ]語の文字をめぐる経緯は複雑だが、これについては別稿で触れる。

  40. Darrel Slider, "Crisis and Response in Soviet Nationality Policy: The Case of Abkhazia," Central Asian Survey, vol. 4, no. 4 (1985), pp. 53-54; Литературная Россия. 1993, 1. C. 4-5 (Б.Шинку-ба, В.Кожинов).アブハジアの言語問題について、討論ペーパー、9、71-72頁も参照。

  41. Anatol Lieven, The Baltic Revolution: Estonia, Latvia, Lithuania and the Path to Independence, Yale Univesity Press, 1993, pp. 96-97.

  42. 教育改革に関する基本原則の第19項。Правда. 16 ноября 1958 г. C. 2.この教育改革および各共和国の反応について詳しくは、Y. Bilinsky, "The Soviet Education Laws of 1958-9 and Soviet Nationality Policy," Soviet Studies, vol. 14, no. 2 (October 1962), pp. 138-157参照。

  43. Isabelle Kreindler, "The Changing Status of Russian in the Soviet Union," International Journal of the Sociology of Language, vol. 33 (1982), pp. 7-39.

  44. К. Х.Ханазаров. Решение национально-языковой проблемы в СССР. М., 1977. С.136-137.(白ロシアの数字は1972/73年度のもの)。

  45. Isabelle T. Kreindler, "Soviet Language Planning since 1953," in Michael Kirkwood (ed.), Language Planning in the Soviet Union, Macmillan, 1989, pp. 46-63.授業言語の数に関するデータは、p. 54.

  46. Бюллетень Министерства высшего и среднего специального образования СССР. 1976, 4. С. 23. この学位規則については、1980年のグルジア知識人の手紙(ブレジネフおよびシェワルナゼ宛て)が触れて、抗議した。この手紙は当時のソ連ではもちろん公開されず、パリの『ロシア思想』紙に掲載された。Русская мысль. 4 декабря 1980 г. С. 5. 次も参照。Roman Solchanyk, "Russian Language and Soviet Politics," Soviet Studies, vol. 34, no. 1 (January 1982), p. 36.

  47. 1978年グルジア憲法における「国家語」規定削除への抗議デモ事件との関連が推測されている。Y. Bilinsky, "Expanding the Use of Russian or Russification?" Russian Review, vol. 40, no. 3 (July 1981), p. 330.

  48. 非公開決定だが、Radio Liberty Research Bulletin, RL 120/79 に紹介された。Solchanyk, op. cit., pp. 25-30も参照。なお、これと関係して、78年に保育所・幼稚園までロシア語教育が義務化されるに至ったと述べた文献がいくつかある。Solchanyk, op. cit., p. 30; ナハイロ、スヴォボダ『ソ連邦民族=言語問題の全史』明石書店、1992年、386頁; 中井和夫「ソ連」柴宜弘、中井和夫、林忠行『連邦解体の比較研究』多賀出版、1998年、31頁。しかし、これまで知られている典拠に当たった限りでは、この解釈は根拠薄弱である。 もっとも、法的な義務化はさておき、就学前教育でロシア語教育を奨励する政策がとられたこと自体は確かである。1978年決定に先立つ75年タシケント会議の勧告でも、親の希望により幼稚園でロシア語教育ができるようにすることが勧められており、その後も、この傾向は続いた。 Русский язык в национальной школе. 1976,1.С.80; 1979, 1.С.2-5; Radio Liberty Research Bulletin, RL 120/79 など参照。従って、「義務化」ということを厳密にとらず、政策の方向性としてとるなら、先のような言い方をしてできなくはないのかもしれない。

  49. Бюллетень Министерства высшего и среднего специального образования СССР. 1979, 2. С. 20-22. 次も参照。 Русская мысль. 4 декабря 1980 г. С. 5.

  50. 1979年タシケント会議とその後のロシア語教育拡充方針については、Русский язык в нацио-нальной школе. 1979, 5. С. 15-19, С. 30-31; 1980, 4, С. 4; Бюллетень Министерства выс-шего и среднего специального образования СССР. 1979, 9. С. 19-20など参照。会議の勧告書全文は西側に流れて、Radio Liberty Research Bulletin, RL 232/79に紹介された。

  51. 1979年タシケント会議およびその後の政策の欧米研究者による検討として、Peter Shearman, "Language, Sovietization and Ethnic Integration in the USSR," Journal of Social, Political, and Economic Studies, vol. 8, no. 3 (1983), pp. 227-256; Bilinsky, "Expanding the Use of Russian or Russification?" pp. 317-332.

  52. Советская этнография. 1975, 5. С. 26 (С. И. Брук, М. Н.Губогло).

  53. Ю. В. Арутюнян (Отв. ред.). Социальное и национальное. М., 1973. С. 237-241(М. Губогло).

  54. Radio Liberty Research Bulletin, RL 97/78. また討論ペーパー、9頁も参照。

  55. Michael Rywkin, Moscow's Muslim Challenge: Soviet Central Asia, London, 1982, p. 99; James Critchlow, op. cit. (Supra n. 18), pp. 22-27など。カザフスタンについての同様の指摘は、Martha Brill Olcott, op. cit. (Supra n. 13), p. 196.

  56. Jonathan Pool, "Soviet Language Planning: Goals, Results, Options," in Jeremy R. Azrael (ed.), Soviet Nationality Policies and Practices, New York: Praeger, 1978, p. 235.

  57. カレール=ダンコース『崩壊したソ連帝国』藤原書店、1990年、320頁。

  58. Brian Silver, "The Status of National Minority Languages in Soviet Education: An Assessment of Recent Changes," Soviet Studies, vol. 26, no. 1 (January 1974) , pp. 28-40; idem, "Social Mobilization and the Russification of Soviet Nationalities," American Political Science Review, vol. 68, no. 1 (March 1974), pp. 45-66; idem, "Methods of Deriving Data on Bilingualism from the 1970 Soviet Census," Soviet Studies, vol. 27, no. 4 (October 1975), pp. 574-597; idem, "Bilingualism and Maintenance of the Mother Tongue in Soviet Central Asia," Slavic Review, vol. 35, no. 3 (September 1976), pp. 406-424; idem, "Language Policy and the Linguistic Russification of Soviet Nationalities," in Jeremy R. Azrael (ed.), Soviet Nationality Policies and Practices, pp. 250-306. また、バーバラ・アンダソンとの共同論文として、Barbara A. Anderson and Brian D. Silver, "Equality, Efficiency, and Politics in Soviet Bilingual Education Policy, 1934-1980," American Political Science Review, vol. 78, no.4 (December 1984), pp. 1019-1039.

  59. データの検討について詳しくは、討論ペーパー、7-14頁参照。

  60. この点については別稿で検討する。

  61. 但し、ソ連では、宣伝的公式文献はすべての主だった言語で作成されたから、人口当たりの点数という指標は人口の少ない民族(バルト3民族、グルジア、アルメニアなど)の出版活動を過大評価し、人口の多い民族(ウクライナ、タタールなど)の出版活動を過小評価する可能性があるので、その点は多少割り引く必要がある。

  62. American Political Science Review, vol. 78, no. 4 (December 1984), pp. 1027-1028 (Barbara Anderson and Brian D. Silver).

  63. Народное образование. 1972, 12. С. 23 (А.Данилов). なお、シルヴァーは同様の表を引き、更に1958年には大半の言語についてもっと高学年まで使われていたことを示している。 Soviet Studies, vol. 26, no. 1 (January 1974), pp. 33-34 (B. Silver).

  64. 統計の信頼性については前述したが、「第2言語」については「母語」以上に疑問がある。従って、ここでは数字の小さな差異についてはあまりとらわれず、ごく大まかな傾向をみる。

  65. 非ロシア諸民族のロシア語化に作用する諸要因について、本稿とはやや異なる視点からの整理として、中井和夫「ソ連」(前注48)31-32頁参照。

  66. 前注58に挙げたシルヴァーの一連の論文は、複合的要因の作用の重さを統計的手法で解析しようと試みており、その議論も参考にした。

  67. 言語的近接性をどう測るか、またある言語集団が必ず近接言語を習得しやすいといえるかは、厳密に考えると難しい問題をはらんでいる。しかし、ウクライナ語とベラルーシ語の場合についていう限り、この2言語がロシア語と近いということについてはほぼ異論ないと思われる(宗教その他の文化の同質性ないし近接性、通婚度の高さもこれに加わる)。なお、近接しているが故にかえって我流の習得をしてしまい、例えば「ウクライナ的なロシア語」になるということもよくあるが、そのことはロシア語習得度とは別の次元の問題である。というのも、ここで問題にしている「習得度」とは、どこまで「純正」「厳格」かを問わず、我流にでも話したり書いたりできる人の数(その人口中の比率)にかかわるからである。あるウクライナ人が、厳格なロシア人の目から見て「純正なロシア語」ではない「ウクライナ的なロシア語」を話すとしても、その人は「ロシア化しつつある」といわれるのであって、「純正ロシア語をマスターしていないからロシア化していない」ということになるわけではない。近接性故の習得度の高さとは、そのような意味での「ロシア化」を含む。

  68. このパラグラフの典拠は、M. Guboglo, "Demography and Language in the Capitals of the Union Republics," Journal of Soviet Nationalities, vol. 1, no. 4 (Winter 1990-91), pp. 1-42.次のロシア語論文はこの英語論文を縮約したものである。 М. Н.Губогло. Этнодемографическая и языко-вая ситуация в столицах союзных республик СССР в конце 80-х-начале 90-х годов //Оте-чественная история. 1993. 1, С. 53-65.

  69. なお、本文で検討した以外の要因として性差が考えられる。社会的上昇にロシア語習得が必要とされること、徴兵によって軍内でロシア語が教えられることを考えると、男性の方がロシア語化度が高くても不思議はないが、シルヴァーの検討によれば、母語に関しては有意な性差は認められない。但し、第2言語としてのロシア語習得に関しては男性の方が高い。 American Political Science Review, vol. 68, no. 1 (March 1974), pp. 52, 58; Slavic Review, vol. 35, no. 3 (September 1976), pp.422-423.いずれにせよ、人口の性比が民族ごとに異なることはあまりないから、ここではこの要因には立ち入らない。

  70. このようにしぼることは第1次的接近としては正当化されると思うが(これらの民族のみがソ連解体時に独立国家を獲得した)、その他の民族の重要性を否定する趣旨ではない。後者は、その多くがロシア共和国(後のロシア連邦)内に住んでいるので、今日のロシアについて考える上ではむしろこれらに注目する必要がある。タタルスタンに関する事例研究として、Jerry F. Hough, "Sociology, the State and Language Politics," Post-Soviet Affairs, vol. 12, no. 2 (April-June 1996), pp. 95-117.また規模が小さい民族の言語は消滅の危機に瀕している(特に北方およびシベリアの諸民族)という事情から、言語学や民族学の観点からはこちらの方が重要かもしれない。庄司博史「ソビエト言語政策下の北方少数民族と言語の復権」原暉之、山内昌之編『スラブの民族』弘文堂、1995年所収; 金子亨「言語と民族についての覚書」『民族の共存を求めて(3)』北海道大学スラブ研究センター、重点領域研究報告輯、No.52、1998年、37-43頁; またブリャート、サハ、トゥヴァの例について、田中「国語と国家語」(前注16)85-87頁など参照。本稿および別稿は、直接的対象としては、比較的大きな民族を主に取り扱っているが、ここで論じた言語状況を規定する諸要因は、他の少数民族の言語にも-必要な修正を施した上で-妥当する面があり、本稿の分析はそれらについて考える上でもなにがしかの示唆を与えるはずである。

  71. アルメニアとアゼルバイジャンの差は前述のように微妙だが、先に触れた理由で暫定的にこのように分けてみた。またウクライナとベラルーシとでは文章語の伝統の強弱で大きな差があるが、大まかな類型を設定する便宜上、表ではこの二つを分けずに一括した。

Japanese

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