近代ロシア農民の所有観念

−勤労原理学説再考−

Copyright (C) 2000 by Slavic Research Center,Hokkaido University.All rights reserved.


  1. このような見方についてはまた別の議論が必要であろうが、ここでは国家がその凝集力の強さに応じて「社団国家」「名望家国家」「国民国家」へと変化してきたという柴田三千雄の理論(『近代世界と民衆運動』岩波書店、1983年)および、同理論を応用して大改革期ロシアを「強制団体」社会への再編成事業の出発点ととらえる石井規衛の視角(『文明としてのソ連』山川出版社、1995年、47頁)に依拠している。
  2. 1861年に出されたいわゆる農奴解放令により、農民身分の民法分野に関する日常的紛争解決の指針は地域の慣習が用いられることになり、一種の法的隔離状態がつくられていた(書・ 宅碣.2. ・36. ワ36657. 沢.38, 107)。軽犯罪においても特別法が適用される、と農奴解放令で定められたが、刑事分野の日常的紛争においては、事実上慣習も多く用いられた(Дружинин Н.П. Право и личность крестьянина. Ярославль,С.125-134, 183-202)。 1912.)。
  3. 保田孝一『ロシア革命とミール共同体』お茶の水書房、1971年、289 - 291頁; 小島修一『ロシア農業思想史の研究』ミネルヴァ書房、1987年、53 - 61頁。
  4. 小島、前掲書、55頁。
  5. 小島、前掲書、29頁。
  6. 「ロシア慣習法における勤労原理理論についてはわが国(ロシア−筆者)の学術文献で熱心に議論されてきたが本質的な反論も呼びおこされてきた……。」(Энциклопедический словарь. Т.XXXIII-a, СПб., 1901С.940-941.)「ロシア慣習法研究の成果は未だ一つの統一された見解にまとまってはいない。しかし、ロシア農民慣習法は、……その精神においてもシステムの構造においても『勤労原理』に基いた特別のものではないことは……明らかであるとみなしてもよかろう」「『共同体』や(郷−筆者)裁判所が家長の財産管理……にたえず介入するのは、行政的経済的動機からであって勤労原理にたいする原則的尊重からではない」 (Энциклопедический словарь. Т.XXVIII, СПб., 1899. С.547, 549.)。
  7. そもそもロシア農民世界に慣習法と呼べる法規範が存在していたのかについても議論があった。たとえば農事調停員、治安判事を歴任した刑法学者であるオブニンスキーは、慣習法の存在そのものに疑問をあらわしている。彼は、農民の生活世界において法的観念が未だ規範化されておらず、状況的に紛争が解決されがちであると判断し、慣習法の存在に否定的であった(Обнинский П.Н. Опрощенное судоговорение// Журнал гражданского и уголовного права. 1892. 2. С.35-36)。治安判事を勤め、農民裁判の上訴審を担当したブラーゾリは、法的な地域慣習の存在そのものは否定しないが、実務において同じような紛争に対して農民が異なった解決をするのをしばしば目にしたことから、現実の農民裁判ではその慣習が実際上意義を失っている、慣習は消滅しつつある、と述べている(Бразоль Г.Е. Об упразднении волост-ных и сельских судов. Харьков, 1886. С.7-8, 14)。このような慣習法の存在否定論に対し、法学者レオンチエフは、定式化された規範がないからといって慣習法の存在を否定することはできない。なぜなら生活の具体的な場面にならないと慣習法は現れてこないからである(Леонтьев А.А. Крестьянское право. СПб.,1909. С.389-390)と反論し、慣習法研究者として名高いオルシャンスキーの「ロシア民衆の慣習的法意識はいまだ一般道徳律から独立した法観念にまでは昇華していない」という意見に同意しつつ、「厳密に定められ、認識されている法規範を農民は持っていない。しかし、郷裁判所の判決に一様に現われ、農民の経済生活と調和するような慣習的法観念はまぎれもなく存在している」と述べている(Леонтьев А.А. Волостной суд и юридические обычаи крестьян. СПб., 1895. С.21, 34)。上記の議論に鑑み、本稿では、農民社会における法的規範を慣習法と呼べるか否かについては問わず、同時代人の用語法にしたがい、農民社会における法的慣習を慣習法と呼ぶことにする。
  8. Зырянов П.Н. Обычное гражданское право в пореформенной общине // Ежегодник по аграрной исто-рии. Вологда, 1976. Вып.6. С.96-98.
  9. Александров В.А. Обычное право крепостной деревни России. XVIII-начало XIX в. М., 1984. С.20-28.
  10. Милогорова И.Н. Семья и семейный быт русской пореформенной деревни: Автореф. дис. …канд.ист.наук. М., 1988. С71-72.
  11. Милогорова И.Н. О праве собственности в пореформенной крестьянской семье 1861-1900 гг. // ВестникМосковского университета. Серия 8. 1995. 1. С.27.
  12. Teodor Shanin, The Awkward Class: Political Sociology of Peasantry in a Developing Society, Russia 1910-1925 (Oxford: Oxford University Press, 1972), p.220.
  13. Moshe Lewin, "Customary Law and Russian Rural Society in the Post Reform Era," Russian Review 44 (1985), pp.1-19.
  14. Christine D. Worobec, Peasant Russia: Family and Community in the Post-Emancipation Period (Dekalb: Northern Illinois University Press, 1995), p.42.
  15. 松井憲明「改革後ロシアの農民家族分割」椎名重明編『土地公有の史的研究』御茶の水書房、1978年、125頁。
  16. 日本ではその他に和田春樹がロシア帝国の法体系構造について論じた際に、農民家族の特殊性に触れ、それが労働にもとづく血縁者の経済的結合体、勤労団体であるか否かについての論争が存在することをすでに指摘している。その論争は以下本論でみるように慣習法論争の重要な部分をなしていた(和田春樹「近代ロシア社会の法的構造」『基本的人権の研究 歴史2』1968年、286頁)。
  17. こうした研究状況のなかで肥前栄一「帝政ロシアの農村世帯の一側面」『広島大学経済論叢』第15巻3・4号、1992年、はロシア農村生活における女性の位置について述べた数少ない研究であるが、勤労原理学説を主張するアレクサンドラ・エフィメンコに専ら依拠している。
  18. これら委員会が、政策形成の場において農民の法慣習をいかに理解したか、また農奴解放後40年を経過し変化したロシア社会の現状を踏まえて農民の法的な隔離問題をいかに解決しようとしたかについては別稿を準備中である。
  19. Александров В.А. Обычное право крепостной деревни России XVIII-начало XIX в. М., 1984. С.3-15. 国家学派については、鳥山成人「ペー・エヌ・ミリュコーフと『国家学派』」『ロシア東欧の国家と社会』恒文社、1985年、参照。
  20. 20 彼はルスカヤ・プラヴダなどロシア古法を研究し、 1848年にはカヴェーリンの後を襲ってモスクワ大学のロシア法史講座を継いだが、1851年に文部省の古文献学委員会委員に任命され、2年後に大学の職を辞した。その後農奴解放令編纂委員として活躍し、1864年にはセナート評定官に任命された。法源として慣習法を適用できるとした民事訴訟法第130条の規定も彼のイニシアチヴによる。その他、地理学協会に設けられた民衆法慣習収集委員会の委員長(その成果は、Сборник народных юридических обычаев. Тт.1-2. СПб., 1878-1900 としてまとめられた)、モスクワ大学法学会の初代会長などを勤め、1875年に開かれたロシア法学者会議第1回大会(См. Первый съезд русских юристов. М., 1882)で代表の一人になるなど学会においても多彩な活動を行った。しかし農民慣習法の構造についての研究は本文で挙げた論文以外にはない。なお以上伝記的事項は、Бычков А.Ф. Воспоминания о д. чл. Н.В. Калачеве. СПб., 1895. С.7による。
  21. Калачев Н.В. Юридические обычаи крестьян в некоторых местностях. Статья 1-я // Архив историческихи практических сведений, относящихся до России. 1859. 2.
  22. Барыков Ф. (сост.) Обычаи наследования у государственных крестьян. СПб., 1862.
  23. 論文にはいつ、どの地域における資料を利用したかについての記述がないが、伝記的事項を調べる限り、執筆時点でその他の地域への調査をした形跡はみられない。
  24. カラチョーフのこの論文については、すでに松井憲明による紹介がある。松井、前掲論文、121-123頁。
  25. 彼が想定している標準的家族は、両親および成人し、妻帯した複数の息子およびその子どもからなる「大家族」であり、ラスレットのいう「多核家族」ないし「複合家族」(ピーター・ラスレット「家族と世帯への歴史的アプローチ」二宮宏之他編『家の歴史社会学』新評論、1983年、47頁)、トッドのいう「共同体家族」(エマニュエル・トッド著、石崎晴己訳『新ヨーロッパ大全I』藤原書店、1992年、44-45頁)、ムーヒンのいう「複合自然家族」(後述)である。ここでは、家族全体のことを親家族、親家族を構成する、家長からみての弟・息子・甥家族などのこと(ロシア語でいうсемейство)を部分家族とする。
  26. Калачев. Юридические обычаи крестьян. С.17-18.
  27. Там же. С.18-19, 22, 27.
  28. Там же. С.19-21.
  29. Там же. С.22.
  30. Там же. С.23.
  31. Барыков. Обычаи наследования. С.3.
  32. Там же. С.4-5.
  33. ここで彼が引用しているのは、国有地農民整備法第115条である(ПСЗ. Собр.2. Т.21. 20684. Ст.12)。 農民財産のこの特殊性についてはキセリョーフ改革にはじまる国有財産省の農村調査によってすでにこの時点で知られており、国家はそれを農民による税負担を確実にするための便宜として利用し、「国有地農民にたいする家族区画地の分与」法(1857年版『ロシア帝国法律集成』第12巻 第2部 第1章 第5節 第115条)として立法で承認された。
  34. Барыков. Обычаи наследования. С.7. アルテリとは構成員の契約、同権、連帯責任制が原則とされる小生産者または労働者の経済的目的追求のための自主的な共同組織のことをいう。
  35. このタイプの分割についてバルィコフは「但しこれは相続財産の分割ではないし、通常の財産分割でさえない。共通労働の分割である」と解説している。Там же. С.9-10.
  36. Там же. С.11.
  37. Там же. С.6, 9.
  38. Там же. С.8-11.
  39. Там же. С.11.
  40. Александров. Обычное право… С.68.
  41. 例えば、Worobec, Peasant Russia, p.43. См. Миронов Б.Н. Социальная история России. Т.1. СПб., 1999.С.270, прим.4.
  42. 農奴解放後における家族分割は、「解放後約20年間で農家二戸ないし三戸につき一戸が分割された」という爆発的なものであった(松井憲明、前掲論文、123頁)。ミローノフによる最新の研究は、多核家族について目を配りながらも、帝政期を通じて小家族がロシア農民家族の主要形態であったと述べている(Миронов. Социальная история России. С.229)。
  43. Труды коммиссии по преобразованию волостных судов. Т.1-7. СПб., 1873-1874.この委員会の活動および資料の性質については吉田浩「ロシア農村における法と裁判」『ロシア史研究』第53号、1993年、31 - 35頁を参照。この資料集は農民慣習法研究の基本的な事実史料として勤労原理学説支持派、否定派の両派によって使われた。
  44. Зырянов. Обычное гражданское право. С.91.
  45. 彼の議論のうち、郷裁判所の是非については吉田前掲論文、35-36頁。
  46. Оршанский И.Г. Народный суд и народное право // Журнал гражданского и уголовного права. 1875. 3. С.101.
  47. Там же. С.127.
  48. Там же. С.131.
  49. Там же. С.116.
  50. Там же. С.131. 但しここでその論拠として提出されているのは、1852年のキーエフ県の例である。
  51. Там же. С.123.
  52. Оршанский И.Г. Народный суд и народное право // Журнал гражданского и уголовного права. 1875. 4. С.142
  53. Сборник народных юридических обычаев Архангельской губернии. С.66 (цит. по Оршанскому. Народ-ный суд…4. С.144.).
  54. Оршанский. Народный суд…4. С.145. 以上のようにオルシャンスキーは寡婦の相続分を家族形態および子どもの有無という二つのパラメーターで分類しているが、両者の重なる部分については曖昧である。
  55. この点についてオルシャンスキーはバルィコフおよびエフィメンコに全面的に依拠している。
  56. Оршанский. Народный суд…4. С.149.
  57. Там же. С.150-151. 妻の財産とは嫁資を指す。
  58. Там же. С.151.
  59. Там же. С.152..
  60. Там же. С153-155.
  61. 周知のようにロシア農村においては土地割替慣行があるため、分与地に対する完全所有権を農民は有していないため、土地権利者とでもいうべきであるが、オルシャンスキーは所有者(хозяин, собственник)という用語を用いているのでここではそれに従う。
  62. Оршанский. Народный суд…3. С.135-136. ここでオルシャンスキーは勤労原理の証明のために盗耕、森林盗伐を例として取り上げているにすぎず、詰めた議論は展開していない。なお、吉田浩「ロシア農村における『犯罪』と農民の法観念」『ロシア近代社会における基層秩序』北海道大学スラブ研究センター研究報告シリーズ48、1993年、28 - 30頁、は、『報告集』を史料として用い、森林盗伐の際、常に労働が尊重されるわけではないことを主張している。
  63. Оршанский. Народный суд…3. С.138.
  64. Оршанский. Народный суд…4. С.147.
  65. その他『報告集』なども部分的に利用している。検討した資料については、「事実史料が十分でないが、……量的欠点は質的利点によって補える。参照しえた史料はすべてはっきりと首尾一貫した民衆の法観念をあらわしているので、……それらの学術的価値は疑いない」と自ら史料的裏付けに乏しいことを認めている((Ефименко А.Я. Исследования народной жизни. Вып. 1: Обычное право. М., 1884. С.139)。
  66. 同書には他に「民衆の法的結婚観」、「農民家族における女性」、「家族分割」、「極北における農民土地所有」という論文が収められており、これら具体例の分析に基づいて慣習法論を執筆している。彼女の共同体論および共同体的土地所有論については Cf. Carsten Goehrke, Die Theorien uer Entstehung und Entwicklung des "Mir" (Wiesbaden, Harrassowitz 1964), pp.126-131.Cf. Carsten Goehrke, Die Theorien über Entstehung und Entwicklungdes “Mir” (Wiesbaden, Harrassowitz 1964), pp.126-131.
  67. Ефименко. Исследования. С.139-140.
  68. Там же. С.137.
  69. Там же. С.138 また、同書の別の章では、民衆法研究は、首尾一貫したロシア民族の法を創りだすために何をなすべきか、法学者および立法担当者に直接的情報を与えうると述べており(Там же. С.180-181)、その研究姿勢には極めて実践的な性格が見うけられる。
  70. Там же. С.143.
  71. Там же. С.143-144.
  72. Там же.また、勤労原理の裏返しとして、労働投下されていない物に対する所有権の軽視についての指摘も興味深い。「養蜂用の木を伐採したものは盗人である。人間の労働を盗んだからである。誰が植えたのでもない林の木は無償で利用される(Там же. С.145)。」
  73. Там же. С.153-154.
  74. Там же. С.157.
  75. Там же. С.158.
  76. Там же. С.159-160.
  77. カラチョーフの言う、糸紡ぎなどの内職を指す。
  78. Там же. С.139.
  79. Там же. С.143.
  80. その主張はエフィメンコの挙げる例に拠れば説得的だが、家族財産に対する権利について労働と血縁関係のどちらが優先するかについては法学者パフマンが別の意見を持っていることは次章にみるとおりである。
  81. Там же. С.153.
  82. Там же. С.143.
  83. Rene Beermann, "Prerevolutionary Russian Peasant Laws" in William E.Batler, ed., Russian Law: Historical and Political Perspectives (Leyden: A.W.Sijthoff, 1977), p.186.
  84. ロシアの歴史家ズィリャーノフによれば、慣習法の変化はこのような方向へ一方的に進んだのではなく、1880年代の土地割替の復活は、土地の私有化傾向へストップをかけた(Зырянов. Обычное гражданскоеправо. С.96)。
  85. 彼はカザン帝大およびハリコフ帝大で民法講座を担当したのち、ペテルブルク帝大に民法および民事訴訟法の教授として招かれ、のちセナート評定官になった法学者で、ロシア民法典編纂にも携わった。
  86. Пахман С.В. Обычное гражданское право в России. Т.1. СПб., 1877. С.vii-viii.
  87. 同書は、近代ヨーロッパ法学の民法構成にならって、ロシア農民慣習法の民法分野を『報告集』所収の農民に対するインタヴューおよび郷裁判所の判決集を根拠として体系化したものであり、内容は、民法のさまざまな分野におよぶものである。ここでは同書におけるパフマンの民法論全体ではなく、勤労原理学説およびロシア農民慣習法にとってより本質的と考えられる論点に限って考察する。 
  88. Мухин В.Ф. Обычный порядок наследования у крестьян. СПб., 1888. С.8.
  89. Пахман С.В. Обычное гражданское право в России. Т.2. СПб., 1879. С.6-7.これはバルィコフ、カラチョーフ、オルシャンスキーおよびエフィメンコの主張をパフマンが要約したものである。
  90. Там же. С.8.
  91. Там же. С.9-13.
  92. Там же. С.190, 199, 201, 204.
  93. 郷裁判所の具体的な判決例としては、Труды коммиссии…Т.1. С.414 (23), С.734 (24).
  94. Мухин. Обычный порядок наследования. С.30.
  95. Там же. С.31. これは例えば複合自然家族において、家長たる父親の死後、妻帯した息子たちが家族分割を行わない場合に形成される。
  96. Там же. С.40-43.
  97. もっとも、大改革期につづく反改革期には家族分割規制法(ПСЗ. Собр.3. Т.6. 3578. Ст.1-8)およびゼムスキー・ナチャリニク法(ПСЗ. Собр.3. Т.9. 6196. Ст.30, 39)により、家族分割が法的行政的に統制されることになったが、これはムーヒンの議論に即せばアルテリ家族の形成を再び可能とする「外的刺激」である。
  98. Пахман. Обычное гражданское право…Т.2. С.4, 142, 209-210. 女性は嫁資や内職で得た金など独立した財産を持つ一方、家族財産に対する権利を持たないという点について、パフマンと勤労原理学説は共通している。
  99. ロシア語で親家族からの「独立」を表す言葉に выдел, отдел, раздел という三つの言葉があり、その用語法は一定していない。パフマンは отделを財産分与の有無に限らず部分家族が自立するという広い意味で用い、特に財産分与を受けて独立する場合を выдел,共同所有財産の分割を раздел 、と語を使い分けている。これは成文法での用語法である。他方П・エフィメンコ(А・エフィメンコの夫で、民衆生活研究者)は раздел をパフマンの言う выдел,の意味で用い、 отделを親家族と同居しつつ独立した部屋を持ち、独立財産を得ようと志向する家族として用いている(Там же. С.170, 174)。ムーヒンは、財産分与の有無を問わず、親の権威からの独立を выдел であるとしている(Мухин. Обычной порядок наследования.)。アメリカの歴史家フライアソンは、家長の承認を得て親家族から独立することを выдел 、承認を得ない場合を отделであると説明している(Cathy Frierson, "Razdel: The Peasant Family Divided," Russian Review 46 (1987), p.38)。本稿では便宜上パフマンの用語法を用い、原則として выделを独立、отделを自立、раздел を分割と訳す。また、青木恭子は最近の米露における家族分割についての研究を整理している。青木「出稼ぎと財産と世態分割」『スラヴ研究』45、1998年、326 - 327頁。
  100. Пахман. Обычное гражданское право…Т.2. С.171.
  101. 101 タムボフ県スパスク郡ヒルコフ郷の農民は郷裁判所改革委員会の質問にたいし、「息子が自立を希望し父がこれを認めない時、息子は父に何も要求できない。(財産を−筆者)与えるか否かも父の意思次第である」と答えている(Труды коммиссии…Т.1. С.253)。父が認めない自立において息子が丸太屋や屋根板を要求した裁判で、ヤロスラヴリ県ロストフ郡バリソグレブ郷裁判所は1871年6月6日、「法により父からの独立を要求する権利を(息子は−筆者)持たない」として息子の訴えを却下した(Труды комми-ссии…Т.3. С.269-270)。
  102. Пахман. Обычное гражданское право…Т.2. С.177-179. とはいえ実際には複数の息子に等量の財産を分与するのが通例である。
  103. ここでパフマンが根拠としているのは郷裁判所改革委員会による農民インタヴューである。Там же. С.220. また、その例外については Там же. С.221-227.
  104. Там же. С.297-298.
  105. パフマンは家長の個人所有権というが、実際には夫婦共同所有財産の形成という変化が生じてきていることも指摘している。Там же. С.114-116, 249-250.
  106. Там же. С.297.
  107. Мухин. Обычной порядок наследования. С.52-55.
  108. Там же. С.33-35.
  109. Там же. С.64-67.
  110. Там же. С.55-57.
  111. Там же. С.77-78, 84.
  112. Там же. С.97-98.
  113. たとえばムーヒンは出稼ぎの結果などで、家族構成員が私的所有財産を持つ可能性が開かれていること、富農は文書による遺言を残すようになっていることを『報告集』をもとに指摘している(Там же. С.76, 93-96)。
  114. Пахман. Обычное гражданское право…Т.1. С.345-347.
  115. Там же. С.45-47, 344-350. 法学者ゴリムステンは、労働に独立した法的意義を認めるエフィメンコ説を批判した論文の中で同様の主張を行い、「盗耕」において報酬が支払われる事例は、ローマ法やプロシア法にもみられる現象だとしてロシア独特の法現象という勤労原理学説的解釈を否定した(Гольмстен А.Х.Юридические исследования и статья. М., 1894. С.41-42)。
  116. 例えばモスクワ県セルプホフ郡キヤソフ郷における1872年(月日は不明)の判決例 (Труды коммиссии…Т.2. С.176. 17)。
  117. Труды коммиссии…Т.1. С.680. 15.
  118. 前注61でも述べたように、土地割替慣行のある大部分のロシア農村では、各農民は厳密には土地の占有者であるが、郷裁判所判決では盗耕者にたいし「他人の土地を勝手に占有した」という文言がしばしばあらわれるので、それと区別するために共同体により割り当てられた土地の利用者を土地所有者としておく。
  119. Труды коммиссии…Т.1. С.801. 6.
  120. これは「農業にとって必要な事柄に関する特別審議会」の最終段階の議論で重要な論点となった。СимоноваМ.С. Кризис аграрной политики царизма накануне первой Российской революции. М., 1987. С.190-193; David A.J.Macey, Government and Peasant in Russia 1861-1906: The Prehistory of the Stolypin Reforms (Dekalb, Illinois: Northern Illinois University Press, 1987), pp.108-110, 113.
  121. Анфимов А.М., Зырянов П.Н. Некоторые черты эволюции русской крестьянской общины в порефор-менный период // История СССР. 1980. 4. С.32; Cf.Cathy A.Frierson, “Rural Justice in Public Opinion:The Volost’ Court Debate 1861-1912,” Slavonic and East European Review 64:4 (1986), p.541.
  122. 本稿で検討してきた論争はその依拠する史料がほとんど『報告集』に限られており、しかも地域差があまり考慮されていないという欠点が残る。但し所有権の個別化傾向については、世紀末の民俗学的史料であるテニシェフ文書の検討をしたミロゴーロヴァによっても確認されている(Милогорова. О праве соб-ственности…С.31-32)。総じて慣習法の問題は、ロシア農村の実態認識や、制定法との関係など多くが残されているが、論争の成果をふまえ、未公刊史料をも含めた資料の検討を特定の地域および時代について緻密に進めることがこれからの課題として残されている。