サハリン大陸棚石油・ガスの開発と環境

教授  村上 隆(北海道大学スラブ研究センター)

大陸棚開発の経緯

 サハリン州北東部の大陸棚でこの七月からいよいよ本格的な石油開発が始まった。振り返ってみれば、日 ソ・シベリア開発協力プロジェクトの一環として、サハリン大陸棚石油・ガスの探鉱・開発協力に関する基 本契約が調印されたのは一九七五年のことであり、四半世紀を経た今、形を変えてやっと実現に漕ぎ着ける ことができたのである。図にみるように、サハリン州を囲む大陸棚では現在六つの鉱区が開発対象になって いる。このうち、ロシア連邦の定める生産分与法によって議会で承認され、エリツィン大統領が調印して、 投資側の意志次第で開発に着手できる態勢にあるのは、サハリン〜T、サハリン〜Uおよびサハリン〜Vの 三つのプロジェクトである。サハリン〜Tは一九七五年の基本契約の流れを受け継いでいるプロジェクトで ある。日ソ協力で大陸棚開発の技術を修得した当時のソ連は、独自で幾つかの鉱床を発見し、そのうちピリ トゥン・アストフスコエ鉱床とルンスコエ鉱床を国際入札にかけ、誕生したのがサハリン〜Uプロジェクト である。このプロジェクトは、一九九六年六月に開発作業の開始を宣言し、第一段階と全体開発の二段構え で作業を進めた結果、この七月にファースト・オイルが市場に供給されることになった。
 これに対して足踏み状態にあったサハリン〜Tは一九九三年にエクソンの参加を仰ぎ、採算性を高めるた めにソ連独自で発見したアルクトゥン・ダギ鉱床を加えて仕切直しをし、九六年六月に開発作業の開始を宣 言した。
 サハリン〜Vのキリンスコエ鉱区については、モービル、テキサコ・チームが国際入札で落札し、本年四 月に生産分与法による開発がロシア連邦議会で承認され、五月初めには大統領がこれに調印した。この鉱区 の石油および天然ガスの埋蔵量は、サハリン周辺の推定可採埋蔵量の三分の一を占めるほど大きいとみられ、 期待が高まっている。
 以下、石油・ガス開発の利点とそれに伴って必然的に発生する環境破壊の問題を検討してみたい。

サハリン大陸棚石油・ガス開発の利点

 その第一は、ロシア極東の経済復興の切り札となり得るということである。域内に投資財源がない情況で は外国からの直接投資誘致が鍵を握るが、法的な基盤が安定せず、政治的に不安定であり、労賃や税金が高 く、インフラも未整備という環境では、合弁企業によって外国投資を呼び込むわけにはいかない。直接投資 を最も期待できるのは生産分与方式による資源開発形態である。計画当初の試算では、サハリン〜T、サハ リン〜Uによってサハリン州が得られる収入は最も楽観的な予測では、サハリン〜Tで二八七億ドル(約三 〇年間にわたって毎年九・六億ドル)、サハリン〜Uで一五二億ドル(同毎年五・三億ドル)の収入が見込ま れた。これらは利潤税、ロイヤリティおよび生産物分与による収入で構成されるが、この他ボーナス(サハ リン〜T、Uそれぞれ五〇〇〇万ドル)およびサハリン発展基金(同それぞれ一億ドル、無利子融資)が収 入源になる。開発が順調に進めば極東経済への乗数効果は極めて大きいだろう。
 第二は、サハリン大陸棚の石油・天然ガス開発は極東の逼迫しているエネルギー需給の緩和に役立つばか りか、北東アジア全体からみても一大エネルギー供給源として大きく貢献できることである。
 第三は、ロシア全体からみても、サハリン大陸棚の生産分与法による石油・天然ガス開発が成功すれば、 生産分与方式は資源開発の雛形となり、投資リスク回避の外資導入方法として定着する可能性をもっている ことである。

開発上の問題点

 生産分与法の採用によって、軌道に乗るかにみえたサハリン・プロジェクトはその後も苦境が続いている。 何よりも不安を駆り立てているのは世界の石油価格が下落し、しかもその低迷傾向が二一世紀に入ってもし ばらくは続くのではないかとみられていることである。ロシア産のウラル原油は国際市場で一九九七年一〇 月のバレル当たり一九・二ドルから、現在バレル当たり一三ドル程度の水準にある。このような低い油価で は、海象条件が極めて厳しことから開発コストが高く、採算ベースに乗るのかどうか微妙な状況にある。当 初計画の時点に比べれば、石油価格は三五%程度下落しているのであり、見直しを迫られるのは当然のこと であろう。サハリン〜Tは開発当初からアルクトゥン・ダギ鉱床の埋蔵量評価が最大の課題であり、開発コ ストに見合うような埋蔵量が評価できなければプロジェクトを諦めざるを得ない情況にある。サハリン〜U プロジェクトの第一段階の開発には基本的には変更はない。しかし、全体開発のスケジュールは昨年一二月 に再検討することになっていたものが、今年秋にずれ込んでいる。このことは予想外の石油価格低落傾向が サハリン〜Uプロジェクトの推進計画に狂いを生じさせているとみられるのである。
 第一段階の開発ではプラットフォーム「モリクパック」で掘削された原油は南二キロの海底パイプライン を通って積載能力一五万トンの貯蔵タンカーに積み込まれる。この貯蔵タンカーに八〜九万トンのシャトル タンカーが接岸し、積み荷され、およそ週一度の頻度で解氷時期の一八〇日間消費地に向けて航行すること になる。全体開発に移行するまでの数年間はこの沖取りによる生産・輸送方式がとられるが、石油価格の低 迷が続けば、全体開発に移行できず、かなり長期にわたって沖取りが続くだろう。
 開発側のもうひとつの深刻な悩みはLNGの需要家がまだ見つかっていないことである。サハリン〜Uは 当初から天然ガスを開発地点の陸上から南に約六五〇キロのパイプラインを建設し、コルサコフ港近くのプ リゴロドノエ村に液化基地と石油輸出基地を建設し、ここから消費地にLNG船および油タンカーで消費地 に供給するという計画である。LNGを消費しているのはアジアの日本、韓国、台湾だけであり、LNGの将 来の需要予測では、一九九七年の六二五〇万トンから二〇一〇年には、これらの消費国に中国を加えて、低 い予測値一億八〇〇万トン(BP社)から最も高い予測値一億四六〇〇万トンの範囲になっている。既に調達 済みのLNGは一億六二〇万トンに達しており、低い予測値であればほとんど追加設備はいらないことにな る。一方、サハリン〜Uを含めてインドネシア、アラスカ、オーストラリア、イエメン、カナダなど世界中 で天然ガス開発計画が目白押しであり、これら合計するとLNG生産設備能力は七四二〇万トンに達する。 高目のLNG需要予測をはるかに上回る設備能力である。サハリン〜Uは決して強い競争力を持っていない。 特に、LNGの最大需要家は日本の電力業界であるが、彼らはロシアに対して根強い不信感を持っており、長 期的な安定供給を大前提とする電力業界は冷ややかな目でロシアをみているのである。日本にとってのサハ リンの重要性やエネルギー供給源の多様化、エネルギー安全保障、環境面から総合的に検討して、日本政府 が安定供給を保証するようにバックアップする必要があろう。

環境面への影響

 利益を生み出すことが難しくなれば、開発側は当然コスト削減に厳しくなる。その結果、環境投資をぎり ぎりのところまで削減する可能性が高まってこよう。オホーツク海の海象条件は厳しく、未知の部分が余り にも多いことは良く知られている。環境面からみたオホーツク海の特徴として、@年間最高一八〇日まで海 氷に覆われること、Aスタムーハ(氷丘)が広く分布すること、Bサハリン北東海岸に沿って南の方向に流 れる潮流が複雑であること、C海の浄化能力が低いこと、D漁業・生物学的価値が高いこと、E海岸線が繊 細なこと、F希少な動植物の生息地であること、G地震活動が活発なこと、等が挙げられる。このような環 境の中で石油・天然ガス開発を進めるのであるから、原油が流出すれば環境に甚大な被害を及ぼす可能性が 極めて高いことは明らかである。したがって、万が一原油が流出した時にどのように対応するか事前にしっ かりした計画を立て、事故対策をとっておく必要がある。もちろん開発側に対してロシア連邦およびサハリ ン州の国家環境委員会はロシアの法律に基づいて規制を行っている。しかし、今のところ掘削時の汚泥海洋 投棄のような問題に対する個別的な対応であり、あらゆる局面における原油流出を想定し、万全の対策を講 じているようには思えない。開発側は開発投資資金を獲得するためにEBRD(欧州復興開発銀行)、OPIC(海 外投資公社)および日本輸出入銀行に対して融資の条件となっている環境アセスメントを第三者に委ね、危 機管理計画(コンテンジシー・プラン)を作成している。しかし、ロシア連邦政府およびサハリン州が原油 流出の場合、どのように対応するかを示した同様の危機管理計画はまだ明らかにされていないのである。
 流出事故に備えてどの程度の原油流出対応資機材を保有しているかはおよそわかっている。開発側はノグ リキの倉庫にオイルフェンス、スキマー、回収船、拡散剤、吸着剤、保安用具、スペアパーツのキットを保 有している。オイルフェンスの量が少ないという批判があるが、エクソンが用意した資機材であり、世界的 な水準にあるものとみられよう。これに対してロシア側はコルサコフ港にロシア運輸省所管のサフバス SakhBASUという、日本でいえば海上保安庁第一管区のような防除組織があり、油回収専用船、輸送船、オ イルフェンス、スキマー等資機材を保有している。露米合弁企業の小規模製油所ペトロサフ は吸着剤、焼却炉、極東船舶会社フェムコは砕氷型救助船、汚染監視船、サハリン海洋石油掘削会社SMNG はオイルフェンス、スキマー、焼却炉等資機材を持ち、ユジノ・サハリンスクには露米合弁企業による防除 会社エコシェリフが設立されている。しかし、ロシアの資機材の保有状況はリストアップされていても、本 当に使用可能であるのか、水産物の密漁を監視船に油がないために監視できないとか一日十何時間という停 電が常態化しているような情況で、果たして万一の時にロシア保有の資機材が円滑に動くとは到底考えにく いのである。
 原油流出の可能性として最も高いのは輸送タンカーからの流出であり、このことは世界の経験が示してい る。しかし、開発側の危機管理計画には輸送タンカーの危機管理計画を含んでいない。このままでは無防備 の状態でタンカーがオホーツク海を定期的に航行することになる。ナホトカ号重油事故の再現の可能性は高 い。タンカーの航行ルートは今のところ明らかではないが、宗谷海峡を通過することになれば、この付近で 原油流出事故が発生すれば北海道沿岸への被害が大きいことを覚悟しなくてはならないだろう。特に、水産 業や観光に与える被害は深刻になろう。想定されるタンカーからの大規模な原油流出を最小限の被害に食い 止めるには、できるだけ早い時間に処理することが鉄則になっている。このような流出が公海で起きた場合 を想定して、北海道側でも緊急防災計画を作成し、万が一の原油流出事故に対応できるように周到な準備を しておく必要がある。


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