脱登小平期の変容する国家と社会

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天 児  慧(青山学院大学国際政治経済学部)


はじめに:始まっていた「ポスト登小平時代」の確認

1994年秋の中国共産党は「中央指導部の第三世代への移行は完了した」と宣言し、翌95年秋「江沢民指導部が自主的に政策を決定する」との秘密決議が採択された。それは87年秋の第13回党大会直後の決議、すなわち「重要問題に関しては登小平同志が舵を取る」との秘密決議以来続いていた「登小平院政」の終焉、ポスト登小平時代の始まりを意味するものであった。しかし、人々は登の存在の巨大さから、なお生き続ける登の「影」に脅かされ、「登の死」によって迎える不測の事態に関心を払い続けてきた。だが、「登の死」が現実のものとなった97年2月19日以降、指導部はまさに予定されたスケジュールをこなすかのように淡々と処理し、かつわずか2日後から、江沢民ら首脳の外国要人との会見も再開した。3月1日からの全国人民代表大会も、登の死を取り立てて騒ぐでもなく、例年、いや例年以上の活況の中で進行していった。

では登小平の死は、「登の院政」に象徴される権威主義的な政治体制の変容をもたらすものであるのか。この問題を考えるにあたっては以下の3点がポイントとなるであろう。第1は、中央政治指導部内の権威および政策決定のプロセスがどのような変化を見せているのかである。この点は江沢民のリーダーシップを中心に検討されるであろう。第2は、中央政治指導部の外枠にある政治体制の現段階における特徴をどう捉えるかである。最近の傾向でとくに注目される対象は、全国人民代表大会(以下「全人代」と略)のあり方である。そして第3として、政治体制と社会の関係がどのような変容過程にあるのかである。ここでは・農村の末端レベルでの「自治組織」と規定される村民委員会(基層政権)の建設に見られる特徴、および・国家・中央に離反する社会・地方の最近の趨勢を分析することにする。

江沢民指導体制の行方

確かに登死後の中央政治情勢は、毛沢東死後の「華国鋒指導体制の形成」と比較して、いくつかの共通性はあるものの、かなり異なった状況である。まず何よりも、ポスト毛をめぐって、華国鋒グループと「四人組」グループとの激しい権力確執があり、そのさらに後ろに両者の潜在的ライバル登小平が復活の機をうかがっていたことである。今日ではこのような明確な権力対立構図は見られない。

さらに華国鋒が実権を握った後は、政治優先・継続革命堅持の毛路線の継承か、経済優先・近代化建設重視の新たな路線への転換かをめぐって深刻な路線闘争が展開されたが、このような基本路線をめぐっても登死後の現在、大きな対立はない。また華国鋒を脅かす潜在的な強力なライバル、当時の登小平に相当するような、江沢民の対抗馬は現在では見あたらない。そして何よりも江沢民が最高ポストについて既に8年が過ぎ、毛の死の直前に後継者と目されるようになった華国鋒とはかなり状況が異なっている。これらのことから、登の死後の「政治的静けさ」を説明することができよう。

ではこれからもこのような状況は続くのか。幾人かの中国の学者達の「登小平の死が中国社会にどのようなインパクトを与えるのか、江沢民の指導体制は安定しながら進むのか」といった質問に対する答えは、「登の死は既におりこみ済みである。登抜きの政策決定も既に行われていることだ。人々はいつものように振るまっている」といった答えが大半であった。たった1人、中国社会科学院の著名な若手研究者が「登の存在は大きかった。江沢民はスタンスが定まっていない。江沢民政権が本当に安定したものになるかどうかは、3カ月後(香港返還)、6カ月後(第15回党大会)、1年後(全人代大会)を見てみなければわからない」といった指摘があった。

確かに、筆者も最高指導者としての江沢民、および江沢民指導部をどう見るかという問題は、既に登以後の体制造りが準備万端になされていたとしても、やはり依然としてホットな問題であると見る。なぜなら、・江沢民の本当の意味での威信はまだ確立されているとは言い難いこと、・秋の第15回党大会に向けて最も重要な中央人事の調整段階に入り、その処理如何では党中央の摩擦・亀裂の可能性も存在していること、・改革開放路線の推進自体が、腐敗の蔓延など深刻な矛盾を露呈し、重大な転換点にさしかかっていると考えられ、否応なく江沢民の真の指導力が試されること、などが主な理由である。

香港返還、15回党大会、幾つかの重大問題をそれなりに乗り切り、一定の評価を受けるようになれば、江沢民はさらに5年後の第16回党大会まで最高指導者の地位を保持する可能性は高くなる。ただしかりにそうなったとしても、江が登小平のような突出した絶対的権力者になるのではなく、基本的には集団指導体制を強め、江はその相対的なトップに収まる可能性が高い。さらに、上述の重大問題の処理がうまくいかず、江の指導力があらためて問われるような状況が生まれるなら、16回党大会を待たず、江が最高ポストから降りるといった事態が起きないとも限らない。

この場合の最大のポイントは、最高指導者交代の新しいメカニズムが生まれるのか-- 例えば、政治局員、中央委員の投票方式といったような-- 、あるいは依然としてこれまで見てきたような隠微で深刻な権力闘争によるのかである。前者ならば政治安定のみならず、中国政治の民主化にとっても望ましい。後者ならば、舞台裏にいる指導者、民主化活動家などの動きも含め、一定の政治混乱は免れないであろう。

より開放され、透明度を増した全人代大会

では第2の政治体制をめぐる問題としての全人代はどのように理解すべきであろうか。確かに憲法では「最高権力機関」となっているが、かつては「ゴム印」と揶揄されるほどの有名無実的な機関でしかなかった。しかしここ10年来、とりわけ喬石が全人代委員長に就任(93年)して以来、年を重ねるごとに全人代の実質的な機能強化が語られてきた。が、とくに今回の全人代大会は、幾つかの法案採決に際して大量の「批判票」が出たことで、大いに注目すべきものとなった。

とりわけ「最高人民法院活動報告」と「検察院活動報告」への批判票は顕著なものであった。前者は、賛成1839票に対し、反対431票、棄権331票(計762票)で全体の32.4%が批判票となり、後者は、賛成1621票に対し、反対675票、棄権390票(計1065票)で40.4%が批判票となった。他の4つの議案でも10%以上の批判票が出ており(評決議案数は全部で13)。全人代(第8期)の代表中、共産党員の割合は、68.4%であることから、党員代表の中からも相当数の批判が出たことを示している。それはまさに全人代代表の自主的判断による「投票」の割合の大幅にアップ、全人代独自の機能の強化を意味するものであった。北京駐在の特派員もこの事実を「この十数年間における中国社会の巨大な変化」と力説している(『読売新聞』1997,3,21)。

あるいはまた、大会期間中に行われる各種議題に関する審議に関しても、最近では一段と実質的な意味を持つようになってきたと言われている。例えば、福建の人民代表(元福州百貨店の社長)は「10年2期人民代表に選ばれているが、この10年の人民代表大会制度は人の心に強い印象を与えたと自分自身実感している。年を追って、北京が全人代を召集する前に、人民代表を訪ね事情を伝える人は増え、地方政府部門の代表への意見や提案も一層重視されるようになり、処理は一層真剣に、フィードバックも適時なされるようになった」と語っている(『人民日報』1997,3.14)。さらに開催中、全人代の状況がテレビ、新聞を通じてかなり報じられるようになっている人民代表が党の単なる代弁者、「イエスマン」でなく、地域や機関の利益を代表したり、自分自身の判断で意志決定する状況が増大するならば、形の上では集権的な一党独裁がとられていても、実質的には部分的な形骸化が進行していると見るべきである。それは政治体制の質的変容の1つのメルクマールとなるであろう。

農村で進む実質的民主化

政治体制の変容を考える上でもう1つの注目すべき事例は、そのもっとも外縁に位置し、同時に社会組織=村民(住民)自治組織と認識されている農村の「村民委員会」(郷の下にある組織)、都市における「居民委員会」の動向である。ここでは村民委員会にスポットを当てて、政治社会変容の問題を考えておく。改革・開放=市場化の農村における進展は80年代末頃から、党支部が絶対的権力を握る村レベルでの統治体制を溶解していった。・支部党員自身が経済活動に走り、政治指導工作を怠りあるいは脱党するといった状況が普遍化したり、・農民の発言力の増大によって基層幹部との対立・紛糾が頻発するようになったためである。

そこで村レベルの統治体制の再編が余儀なくされ、村民委員会の主任(村長)・委員など村の指導者を村民自身が選出する民主選挙方式が取り組まれるようになっていった。最近のマスコミ報道では、これが全国的にかなり普及してきたことを示している(『朝日新聞』1997,4,15に関連記事「中国農村部、進む民主化」が掲載)。この帰趨がうまくいくか否かは、長い目で見た中国の政治体制変容、民主化を考えると全人代の事例と同様に重大な意味を持っているといってよいかも知れない。

基層選挙の特徴は、建前上「党指導下」を前提としてはいるが、多くの地域で農民の自由な選挙として実施されるようになってきた。それは村民の中で幹部になりたいものが一定の決まりに基づいて自薦、他薦により候補者となり、多数の立候補者から数名の最終候補者を絞り、ある地域では立ち会い演説会を実施するなどして自らの方針を表明し、村民全員が参加する村民大会で、無記名、秘密選挙によって投票がなされ正式に幹部が選ばれるといったプロセスとなっている。

民政省基層政権建設局副局長の話によれば、96年末の段階で全国農村の50〜60%の農村で、「大変うまく」か「大体うまく」この基層選挙が実施され、約40%の地域でまだ不十分の状況である、2000年の時点までに全農村でこの方式の実質的な選挙をほぼ完成させたいとのことであった。筆者は91年以来、農村の基層選挙の調査を行い、96年も6つの農村で実施し、かつ継続的に中央民政部の担当者と意見交換を行っている。その総体的な印象からいえば、基層選挙の進展はかなりのペースで進んでいると見てよいだろう。

またこうした基層選挙、さらには選ばれた基層幹部の日常活動を軸としたいわゆる「村民自治」建設などは、農民と幹部の関係の再編成、農民利益の代表者としての幹部の形成を促しており、党と民衆の間に位置する基層幹部の意識、行動様式、上と下との関係における役割・機能などの考察は、まさに農村における国家と社会のあり様の変容を考える上で、きわめて重要な対象となっている。そこでこの問題に関して96年9月に行った成都・重慶郊外の農村調査の結果の一部を紹介しておこう。

全体の印象を要約するならば、農村での基層選挙、村民委員会活動はここ4年間で大きく発展しており、以前は立候補者の所信表明演説、秘密無記名投票といった先進的な選挙を行う地域は点在していたにすぎなかったのが、今回の調査および上述の民政省関係者との談話からは、相当程度普及してきたと判断できる。選挙の過程、内容面でもかなり実質的になってきており、候補者の選出、絞り込みなどにおいて共産党が直接これに強く介入するといったケースは必ずしも一般的ではなかった。

例えば、党が直接関与していると見られる選挙指導小組も、構成メンバーの中心は村幹部、村民小組代表らが一般的で、かつこの小組の活動も選挙推進の枠組みづくりが中心で、直接人選に関与しているケースは多くはなかった。また、ある農村の村長選挙では、農業技術の専門知識のある幹部と治安関係の幹部(いずれも30歳代前半)の激しい選挙になり、1400票対1200票で前者が当選した。経済が政治に勝利したケースとも言え、今日の農村状況をよく反映しているように思われた。村の基層選挙が村民の高い関心を呼び、選挙自体が実質的な意味を持つようになった最大の理由は、市場経済化が進み、農民の関心や行動が多元化し、基層政権の在り方が農民の利害に直接関わるようになってきたためと解釈できる。選挙というルールを通して基層政権指導部が形成されるパターンが定着していくならば、共産党の指導、中央の指導が強調されている中で、実質的な一党体制の変容が農村という社会の底流において進行していると言えるかも知れない。

国家、中央からの離心、遠心を続ける社会、地方

毛沢東時代は、共産党は中国革命の勝利、独立・統一・人民解放の圧倒的な成果によって正統性を獲得しており、その成果を基盤として共産党はほぼ全面的に国家を代行していた。そして国家は、多くの人々を巻き込んだ文化大革命に見られるように、中国史上もっとも深く社会に浸透した時代と言えるほどのものとなった。登小平の時代は、貧困と疲弊にさいなまれていた民衆に対して生活の向上を保障し、国家幹部に対しては近代化の実現によって国家の自信と自尊の回復を約束することによって権力の正統性を確保した。さらに、自主性や活力を喪失していた地方・社会に権限を与え、インセンティブを提供し活性化しつつ、経済、社会の発展を目指したのであった。

このために登小平が行った政策は「放権譲利」と呼ばれる。すなわち中央の多くの権限を地方・社会に与え、地方経済を活性化し、社会全体の発展を促そうとしたものである。それは改革開放路線の推進を保障したのであるが、同時に地方・社会のプレゼンスも大幅に増大させることとなり、中央・地方関係、国家・社会関係が、今日ではますます複雑になってきた。97年3月に厦門、杭州、上海で行った調査を下にいくつかの新しい状況を紹介してみよう。

まず第1に、94年から取り組まれた分税制は、一方で中央の財政収入の増加を実現したが、他方で地方とりわけ東部沿海地方の中央への税の上納額を増やし、彼らの不満を増大させることとなった。また分税制の中の地方税もその決定権は中央が、マクロ・コントロールを強化する意味で自ら掌握しており、これも地方の不満の種となっている。そこで地方の中央への抵抗が発生しているわけだが、その中でも地方財政に含まれる「予算外収入の増大」をめぐる様々な試みがなされている。

第2には、分税制は東部沿海地方から税を多く取り立てるにもかかわらず、補助金などによる地方への還元では中西部内陸地域へより多くの分配を行わざるを得なくなっており、東部地方はこの点でも中央、さらには中西部地域への不満を募らせている。したがって中央は東部への別の形での配慮をせざるを得なく、とくに地方トップ幹部の中央へのより多くの抜擢、各種投資の優遇措置といった調整が見られる。これはやがて中央における東部偏重の傾向を生み出しかねず、中央・地方関係、あるいは沿海と内陸の摩擦、矛盾の増大といった社会問題にもなっているのである。

第3に、事実上地方が中央の規制を無視して諸政策を実施しているケースが幾つか見られる。最近では、外国資本の卸売業の認可に関して、公式には11の対外開放都市に2種類の店舗のみ認可されていることになっている。しかし現実には各地方都市で、既に400余りの店舗が地方によって認可されていると言われる。地方は、「外資企業法細則」で定められた投資総額3000万米ドル以下は、国務院の許可は要らず地方自身で認可できるとの規定に基づいて、実施していると主張しているのだが、中央は地方が勝手にやっていると批判し、対立している。中央の規定の抜け穴を利用した地方のこうした行動は、92年の全国各地での「開放区建設」ラッシュ、93年の上海、広東などでの「不動産売買」ブームなど後を絶たなくなっている。

以上のような地方のビヘイビアを、杭州のある学者に「まるで中央に対して地方が事実上、勝手にやっているといった状況ではないか」と問うたところ、これに関して「陽奉陰違だ」との答えが返ってきた。表向きは従っているように見せているが、裏では命令に従わないと言う意味、いわゆる「面従腹背」と言うことである。具体的な政策で中央の意向が一段と底辺にまで浸透しにくくなっていることは否定できない事実のようである。

おわりに

中国の政治経済社会を考えるなら、ステレオタイプ的にイメージされるのが、政治的には独裁体制で集権的、経済的には市場経済は進んではいるが依然として計画経済、統制経済は根強く残存しており、社会的には一元的価値観に縛られた不自由な社会といったものであろう。もちろん、そのような側面は今なお色濃く残っている。しかし、改革開放路線の歩みは既に20年近くになり、この歳月の持つ意味は大きい。

すなわち改革開放路線は、変わりにくい国家・社会のありようを徐々にではあるが大きく変えることとなった。人々はイデオロギーにとらわれず豊かさを求めて懸命に働き始めた。共産党も社会的平等の追求よりも「富強の中国」を最大目標として国家の近代化に取り組んでいる。それは社会・国家を活気あるものに変えていった。が他方で、国家の統制を離れ、社会では拝金主義の蔓延、腐敗・汚職などの深刻化が進み、社会治安の悪化などがそれらに付随して出現している。

これらは何を意味しているのか。第1に、イデオロギー的組織的な統制、統治機構としての国家の弱体化である。共産党独裁による一党国家体制は依然として強大であり、それにとって変わるような新しい政治システムを短期的に展望することは困難である。しかしこうした一党体制の下で、内部からその統制、政策決定・執行などの従来の機能や能力が蝕まれていっている。

第2に、これに対して国家に締めつけられていた社会は様々な形での自立化が進んでいる。しかし、それは必ずしも近代的な市民社会形成に向かうような直線的なものではない。あるところでは伝統的な地縁、血縁組織、宗教組織、秘密結社的組織が復活し、また別のところでは新しい形の民間組織の形成が見られたりする。またここの自立化が社会としての流動化、混沌化を生み出し社会不安となるケースもある。

第3に、上記2つのことは否応なしに国家の質的転換が問われる段階に入ったと見ることができる。国家レベルにおける中央・地方関係では、中央は各地方の主張・要求を考慮し取り込み、国家・社会関係では社会の秩序維持を図りつつ、さまざまな利害を調整するといった機能・役割の増大が求められるようになっている。いわゆるある明確な方向に向かって強力に社会を動員し牽引していくのではなく、各地の利益集約、利害調整、政治体制あるいは社会全体の治安・安定維持などの機関としての国家といった方向性である。このような意味での機能的に強力な国家の再建が求められているのである。

第4に、こうした国家の質的転換がうまくなされず、かつ社会の自立化が自動調節的社会安定メカニズムを持たないままに勝手な方向に進むならば、国家体制そのものの解体に向かうことになる。ソ連邦国家の解体の底流には、おそらくこうした動態的な構造があったのではなかろうか。この点において現在の中国を見るならば、国家的にも社会的にも混沌と流動化を含みつつも、基本的には緩やかな再編過程に入っていると見てよいだろう。