どうすれば、すばらしい学術論文が書けるのか

ダ イアン P. コーエンカー 
イリノイ大学(ウルバナ-シャンペイン) 

 私は、10年間Slavic Reviewの編集長として、またそれよりもずっと長い間、学術論文を書き、査読してきた研究者としての経験を皆さんと分かち合えることを嬉しく思いま す。ここでは、公刊されるに足る学術論文を書く上で重要であると私が考えるいくつかの基準、どの雑誌、ひいてはどの読者集団を意識して書くのかという選択 の重要性、雑誌が想定している学術的記述の類型、査読過程それ自体についてお話したいと思います。また、原稿の採否決定を説明する編集者からの手紙をどう 解釈すべきか、原稿拒否のいくつかの理由、この不幸な出来事に投稿者はどのように対応すべきかについてもお話します。最後に、公刊の作法と倫理についても お話ししようと思います。


唯一の標準などない

 まず指摘しなくてはならない重要なこ とは、優れた論文を書くための唯一の標準などないということです。どのディシプリンにも独自の慣行があって、若い研究者は自分の分野の学術論文を読むこと で、こうした慣行を学びます。私は歴史家として、この慣行について考えるのが好きで、様々なディシプリンにおいて、かなり広い経験をつんでいます。私の著 作には、経済学、社会学、統計学、人類学、政治学、文芸評論が用いられているのです。歴史学とは、最も「ディシプリンのない」学術分野だと言う人もいるで しょうが、「インター・ディシプリン」な著作には、それなりの慣行があるのです。ここでもう一つ強調したいことは、国が違えば、同じ分野であっても学術文 化上の慣行は異なるということです。私たちSlavic Review編集者は、時々、「ドイツ式」の学術スタイルを冗談の種にしました。これは、事実や資料、詳細を極端に重視することで、概して大変まじめで、 分厚く、濃密な学術書を生み出すようなスタイルのことです。これは北米的なスタイルではありませんが、私は、こうしたスタイルが代表する学術のあり方も尊 敬します。同じ英語圏の学術内でも、北米とブリテンの間では、学者が重視するものに違いがあるように思えます。しかし、私たちには、ほとんど共通の言語を はじめ、多くの共通点があります。言語学的なアナロジーを用いれば、私たちは異なる学術的な方言を話しながら、共通の学術的な言語を話しているのです。


私の好む学術論文

 よい学術論文を書くために重要だと私 が思う特徴に移りましょう。(Slavic Reviewその他で)私が好む論文というのは、共通して、以下のような特徴が見られます。

 1.きれいに書かれており、明確に構成されている。「きれいに書かれてい る」というのは、受動態ではなく、能動態の生き生きとした散文になっているという ことです。文のほとんどは能動態でなければなりません。文体も確信に満ちたものでなければなりません。「に思えるit seems to be」、「たぶんperhaps」、「おそらくはpossibly」といった躊躇的な言葉は使ってはなりません。文の構造は、独立節と従属節を用いた変化 に富んだものであるべきです。

 2.「明確に構成されている」というのは、論文の構成が全体の議論を助けて いるという意味です。主要な主張は論文の導入部で示されるようにし、各節は議論 とその論拠を通じて、論理的につながるようにしなくてはいけません。どの段落にも一つの主要なアイデアがあるようにし、それが主題文で示されるようにしな ければなりません。結論は、それまでに提示された事実から得られるものであり、議論を要約するものでなければなりません。単に事実を要約するだけではいけ ないのです。

 3.私の好む論文は、分析的なもので、叙述的なものではありません。「叙述 的」というのは、資料を要約し、叙述するようなものです。「分析的」というの は、問題を提起し、それに立ち向かうものです。論文のデザインは、これら問題を分析し、いかにして論文の事実―その資料や解釈―がそれらを解決するのに役 立つかを示すように構成されるのです。

 4.最もよい学術論文は、新しい資料、またはオリジナルな資料を用います。 選挙結果、世論調査結果、これまで未使用の新聞や雑誌、新しいアーカイヴ、新し い小説や詩などです。しかし、新しい資料を用いるだけで論文が面白いものになるわけではありません。かつて知られていなかった資料を用いるだけではなく、 そうした新資料が当該問題に対する私たちの見方をどのように変えてくれるかを示すことが重要なのです。

 5.新しい方法論に依拠し、または資料に新しい問いかけを行うことで、よく 知られた資料であっても新たに面白く使うことができます。これは特に文学に関す る論文で重要です。ドストエフスキーの『罪と罰』を理解するには、無限の方法があるでしょうが、著者は、自分の解釈の独創性を論証しなければならないので す

。 6.よい論文というのは、そのディシプリンに沿った形で、適切な方法論を用います。統計的な分析は、最先端の方法を用いなくてはならないでしょう。歴史の 分析は、真相を確かめるためのあらゆる適切な方法を用いて、その史料を厳格に吟味しなければなりません。私は革新的な方法を用いた論文を好みます。たとえ ばオーラル・ヒストリーやサーヴェイ調査、視覚文化などです。

 7.よい論文の最も重要かつ最も主観的な特徴は、ある問題、ある時代、ある 文献の新たな見方を可能にしてくれることです。政治学では、「ポーランドのユダ ヤ人は共産党を支持していた」という神話を覆すような、投票パターンの回顧的な分析がそれに当たるでしょう。文化研究では、大衆文化と政治文化の間の関連 を示すような論文がそれに当たるでしょう。歴史では、革命や経済動員の過程の見方を中央偏重から解放するような論文がそれにあたるでしょう。どんな編集者 も、彼らを驚かせ、魅了し、刺激してくれるような論文を求めていると思います。しかし、著者にとっては、論文を、その独創性や革新性がよく見えるように書 くことも重要です。


万能の様式はない

 学術論文は、様々な形態や体裁をとり ます。各雑誌が、どんな論文でも受け入れてくれるわけではなくて、雑誌によって投稿論文の嗜好やそれに期待するものが違うのです。ですから、論文を計画 (自分の研究をどのように論文の形で表わすかという計画)するにあたり、最も重要なことは、どのような学術的な対話に自分が参入しようとしているのかを見 定めることなのです。ある対話は、他のものよりも広範な読者を巻き込んでいます。たとえば、大テロルの原因を論じたものは、とある外交文書の著者探しより も多くの人の関心を引くでしょう。あなたの論文を書くにあたって重要なことは、その論文が当該対話にいかに貢献するかを明言することです。その学術的な討 論において、その論文のどういった点が独自であるのか。その読者集団が、なぜさらに読み進まなければならないのか。そういったことから、適切な読者集団に アピールするためにも、一つの明示された論点のある論文の方が好ましく思います。アイザイア・バーリンが言うところの、ハリネズミとキツネであれば、ハリ ネズミ(多くのことではなく、一つの重要なことを知っている)に倣うような論文の方が良いと思うのです。また、その対話における権威として、あなたの信用 を獲得するようにその論文を構成することも重要です。まさにこのために、論文ではまず先行研究を概観するのです。これによって、自分がその問題に関する最 近の研究に通暁していることを示し、またそこに自分の貢献がどのように位置づけられるのかを示すことができるのです(「先行研究」という独立した節が設け られる場合もありますが、必ずしも機械的な形で行う必要はありません。ただ何らかの形でなくてはならないのです。概して文学に関する論文は、歴史や社会科 学に比べれば、研究史の紹介にあまり紙幅を割きません)。
 あなたの論文を計画するにあたり第二に重要なことは、誰を読者とするのかを決めることです。あなたは、どのような学術コミュニティに向けて、自分の問題 関心、議論、資料、方法を発信しているのでしょうか。同じ研究プロジェクトでも、いくつかの異なるコミュニティ(あるコミュニティは広範な人々からなり、 別のはより専門的です)の関心を引くことができます。あなたの研究全体は、狭くも広くも、こうしたいくつかの立場に向けて分散しておくのが得策です。ただ し個々の論文は、特定の読者集団にアピールするように組み立てなくてはなりません。
 もし、読者に自分と同じような研究者(文学研究者、政治学者、中世史家)を想定するのなら、その論文にはかなり専門的な雑誌を狙うのがよいでしょう。た とえば、文学であればSlavic and East European Journal、歴史であればRussian HistoryやCentral European History、民族学であればAnthropology of East Europe Reviewといったようにです。このような論文は、ソリッドで分析的なものでしょうが、ごく狭い専門分野の人々が参加するような対話に組み込まれること になります。
 Slavic ReviewやEurope-Asia Studiesのような学際的雑誌の読者は、あなたの特定分野における専門的な議論にはそれほど通暁していません。そうした読者を対象としたいのなら、あ なたの議論や分析が、スターリン体制の性質やポスト・ソヴィエト期における犯罪のサブカルチャーの政策決定への影響といった、より広い問題関心にどのよう につながっていくのかを説明する必要があります。同様に、もしあなたの研究を、American Historical ReviewやAmerican Journal of Sociologyのような、より広範なディシプリン系の雑誌にのせたいのであれば、そこで論じられるテーマや議論が特定の専門を超えて、どのような意味 を持つのかを強調する必要があります。American Historical Reviewの場合であれば、編集者は次のように尋ねてくるでしょう。「この論文は、読者がヨーロッパ史の概説を教える方法をどのように変えてくれるので しょうか」、あるいは「この論文の方法や史料は、他の地域の専門家にとってどのような価値があるのでしょうか」、と。そうした読者のためには、近い専門家 なら当然知っていると思われるような術語をきちんと説明し、前提となる知識も提供しなくてはなりません。その研究が関連する研究史の紹介も、より専門的な 雑誌の場合よりも広範なものになります。
 よくある失敗は、専門家の読者集団を想定し、資料、争点、論争についての相当な予備知識を要求する論文を書いておきながら、あるいは、より大きな問題に 対して小さいながらも面白い貢献をするような論文を書きながら、それを、より一般的な雑誌に投稿してしまうことです。逆に、投稿者が想定される読者の専門 知識量を過小評価してしまう場合もあります。広範な一般読者層に向けた論文を書きながら、すでにそこに書かれていることのほとんどを知っているような人が 読者となっている専門雑誌に投稿してしまうのです。


注意深く雑誌を選ぶ

あなたと同じディシプリンの専門家か、 学際的専門家(地域研究者)か、当該ディシプリンの読者か、または学際的な広範な読者かという、あなたの論文が対象とする読者集団が定まったならば、次 に、その選択肢の中でどの雑誌に投稿するかを選ばなければなりません。それを決める基準には、客観的なもの、主観的なもの、いずれも多くがあります。「名 声」は一つの要素です。ある雑誌に掲載されるのが難しければ、掲載された場合にそれだけ高い名声を得るということになります。普通は、より一般的な雑誌ほ ど多くの人が投稿し、そのなかで掲載される数は少なくなるものです。より主観的には、自分が読んでいる雑誌やそれらで自分が読んでいる論文を考慮すること です。あなたがどのような仕事仲間を維持したいのか。どのような雑誌に、自分の専門に関する論文がより多く掲載される傾向にあるのか、といったことです。
 Russian ReviewやSlavic Reviewには文学や歴史の原稿が数多く投稿されていることは秘密ではありません。社会科学者は、この点で比較優位を持っているわけですが、そこで論文 を書くに当たっては、文学や歴史の専門家がそこから学ぶもののあるようにしなくてはならないのです。他にも同じように重要な要素があります。1年に5、6 回というように、より頻繁に出版される雑誌は、年に2、3回しか出版されないような雑誌と比べて、新しい論文が載る可能性がより大きくなります。ごく稀 に、40頁や50頁に及ぶような非常に長い論文を掲載する雑誌があります。そうした論文は、雑誌の代りにワシントン大学のTreadgold PapersやピッツバーグのCarl Beck Seriesのようなシリーズに投稿するのもいいでしょう。もしタイミングが重要ならば、投稿から掲載までの期間が短い雑誌を選ぶのがいいでしょう。しか し、そうしたものを直接探すのは概して大変です。むしろ、迅速に査読してくれるか、迅速に公刊してくれるかについてのその雑誌の評判に依拠しなければなり ません。それについて雑誌の編集者に問い合わせるのは良策とは言えません。編集者にとって、自分の仕事の遅さを認めることは、ばつの悪いことになるからで す。
 多くの雑誌は特定のテーマを選んで特集号を組みます。こうした特集号のために、雑誌は投稿を呼びかけます。この呼びかけは雑誌自体に発表されることもあ りますが、普通はニュースレター、また研究所のアナウンスメントによって発表されます。もし自分の研究が、その特定のテーマに合っているときには、出版さ れるのがより容易になることもありますし、より早く出版されるかもしれません。ただし、多くの特別号を出すような雑誌は、独立した、関連性の薄い論文の載 る余地が少なくなります。


学術的な文章の諸類型

 学術雑誌の中心になるのは、学術的な 研究論文です。これは、大なり小なり学術的な研究プロジェクトに端を発するものです。大規模な研究プロジェクトは、その成果を一連の論文や、あるいは本、 複数の論文という形で広めることを目指します。小規模な研究プロジェクトなら、ひとつの論文が目標となることもあるでしょう。通常の雑誌論文(あるいは本 の一章)は、概して20-30頁(あるいはおよそ7000語)です。また、ここまでで述べたように、明確な議論と新しい研究が含まれ、自ら選択した特定の 読者集団にどのような貢献をするのかを明言したものとなるのです。その論文が論文集の一章として発表される場合には、同書中の他の論文と関連付けることが 必要(かつ有益)なことがあります。そうすれば、論文集全体の首尾一貫性や価値を高めることにもなります。著者の多く、特に年配の著者は、自分の論文を、 それが同じ争点に関するより広い議論の一部となるように編集された論文集に掲載することを好みます。雑誌論文は、まったく異なる対象を扱った論文と並んで 発表されて、孤児のように見えることもあります。しかし、雑誌論文には利点もあります。ある読者が、自分の興味に沿ってある雑誌を手に取り、その中に、あ なたの面白い論文を偶然見つけるかもしれないのです。また、雑誌は概してより多くの読者を持っています。学術的な論文集は、平均して1000部かそれ以下 の部数ぐらいしか発行されません。それに対して、Slavic Reviewであれば、購読数は4000以上に上ります。そのうえ、このデジタル・データベースの時代には、雑誌論文は、論文集の一章よりも発見されやす く、検索にヒットしやすいのです。
 学術的な著作には、学術論文以外にも、対応する読者集団に恵まれる形態があります。「サーヴェイ論文」は、特定分野の研究の広範で情報豊かなサーヴェイ に基づくものです。そうした論文の独自性は、著者が資料をいかに総合し解釈するかにかかっています。一次資料ではなく二次文献に依拠しているとしても、そ の目指すところは、研究上の争点を提示し評価することにあるのです。サーヴェイ論文は、典型的には、研究者が当該分野をこれから本格的に探査することを目 標としつつ、新しい研究プロジェクトを開始するための一助として準備する論文の形態なのです。同種の著作のより狭い形態は「書評論文」で、ここにおいて は、著者は2、3の労作(通常、新しいモノグラフ)を書評するのです。ここでは主題は書評されている本そのものですが、著者は、その本を評価し議論するた めに、当該分野に関するより広範な知識や理解を駆使するのです。書評論文は、そのような総合と解釈において、オリジナルな論文にもなりえます。
 その他の、もっと短い形態のものについても触れる価値があります。雑誌には、「研究ノート」を掲載しているものがあります。それには、だいたい2種類の 形態があります。1つは、新しく公開された文書館資料を紹介したり、古くから知られている資料を新しい形で提示する形のものです。こうした論考は、たとえ ば、新たに利用可能となったデジタル資料や、それを研究者がどのように使えるのか、ということに注意を向けることになります。こうした論考の多くは、 1990年代の初め、それまで制限されていたソ連の文書館が研究者に開放されるようになった時期に現れました。もう1つの形は、特定の、狭い研究上の争点 に焦点を絞って参入する短い論考です。これは、ごく限られた資料に基づいていたり、新たな論拠を用いて、既存の学術的な議論に注釈を加えるものとなったり するものです。もし、研究ノートを投稿することを考えているなら、投稿先として考えている雑誌が、実際にその種の論考を掲載しているかをまず確認しなけれ ばなりません。Slavic Reviewでは掲載していません。
 最後に、いわゆる書評があります。それは、新しい本の手短かな論評で、普通は500から1500語で書かれます。これについても、雑誌によって求められ るものや期待されるものは異なりますし、当該学術文化に応じて異なるアプローチをとることになります。北米やイギリスであれば、書評というのは学術的な真 価の重要な指標となるもので、客観的に、評者と著者の利害が衝突しないようにすることが重要です。Slavic Reviewでは、以下のような研究者には書評を依頼することはありません。その研究者が著者と同じ学科に所属している場合、別のプロジェクトで著者と共 著となっている場合、著者の学位論文を審査した場合、出版に当たって草稿を審査したり、その本の宣伝文を書いている場合、あるいはその本の謝辞の中に名前 のある場合などです(この原則は、謝意を多くの同僚に気前よく表明する著者にとっては問題となる場合があります。その本の書評をできる人の数がそれだけ少 なくなるのですから)。また、ある特定の本に、書評したいと自分から申し入れてくることにも賛同できません。評者をこちらで選ぶことで、衝突の可能性を管 理するほうがよいと考えます。最後に、Slavic Reviewの場合、書評を依頼するのは、すでに自著を持っている研究者に限定する方針を採用しています。すでに自著のある研究者の方が、概してより質の 高い書評を書くように思いますし、彼らの名声は書評の重みを増すからです。ただし、英語以外の言語で書かれた本については例外を設け、ロシア語その他の言 語の本であれば、利害の衝突がないと確認できた場合に、自薦の書評も受け入れています。そうした場合には、あらかじめ編集者とやり取りをしておくことが望 ましいです。他の多くの雑誌では、評者に関してこれほど制限を設けていることはなく、若手の研究者や大学院生にもためらいなく書評を任せています。
 ヨーロッパの大陸部やロシアでは事情は違います。私の知るところでは、著者が本を同僚やその他の関係者に送って、雑誌を指定しないまでも、書評を頼むこ とがあたりまえとなっています。この場合、書評の役割は、客観的な学術的評価を加えることよりも、新しい本への注目を集めることにあると私は思います。  しかし、学術雑誌の根幹は研究論文にあるのですから、ここからは学術的な書き物の最も一般的なタイプに焦点を絞ることにしましょう。


査読過程

 投稿を希望する雑誌が決まったなら ば、 その投稿規程を熟読しましょう。投稿規程がない場合は、その雑誌に掲載されている論文を入念に観察し、あなたの原稿をその雑誌の標準的な形式にそろえま す。註、図表、表題や見出しの取り扱いは、雑誌によって様々なのです。ハード・コピーでのみ投稿を受理する雑誌もあれば、電子メールでの投稿を要求する雑 誌もあります(ちなみにSlavic Review誌は、軽率な投稿を避けるためにハード・コピーでの投稿を要求していましたが、原稿の写し4部の送付が難儀であれば、電子メールでの投稿も受 理しています)。投稿する前に、同僚や指導教員に原稿を読んでもらうのは良策です。複数の視点から見てもらうことで読者の幅が広がりますし、有益な助言を 受け、著者が気付かないミスを見つけてもらうことができます。投稿の準備が整ったならば、原稿を入念に校正してください。投稿の準備が本当にできたかどう か確認してください。
 原稿到着後速やかに受理の確認がなされます。1~2週間以内に確認の通知がなければ編集部に照会してください。郵送事故あるいはスパムフィルターのため に 原稿が逸失することがあります。通常、編集長が原稿を読みますが、雑誌によっては副編集長がまず初めに目を通します。この時点で編集長は、原稿が雑誌に適 格か否かを判断します。もし適格であれば原稿を査読するために、その原稿の分野の専門家からなる査読者を選定します。査読者には、原稿の質だけでなく、そ の雑誌にそれが相応しいか否かを判断することが求められます。通常、原稿は2名の査読者に送られますが、雑誌によっては3~4名の査読にかけられます。 Slavic Reviewの査読は、ダブル・ブラインド方式です。つまり、執筆者と査読者はお互いにお互いを知りません。Slavic Reviewへの投稿者は原稿を準備する際にその匿名性を維持すること(自分の業績への言及はできるだけ取り除き、括弧での挿入コメントでは著者のイニ シャルは除外する。著者を特定できるようないかなる情報をも排除する)が要請されます。雑誌によっては違った方針に従うところもありますし、査読者には独 自の嗜好があります。ダブル・ブラインド方式は、寄稿者、評価者双方にとって最高の公平性を提供するものであると私は信じております。
 このプロセスを迅速に処理することは、多くの場合大変困難です。査読者と連絡を取り、査読への合意を取り付けるに際して遅れが生じることもあります。査 読 者が折り良くコメントを返信しないことも時々あります(編集者は慢性的遅延を避ける方法を身につけているものですが、研究者にはこの審査過程を遅らせる、 予期されざる多くの困難があるのです)。編集者が査読者から講評を受け取ると、論文の採否、あるいはそのどちらでもない中間の決定がなされます。
 この採否通知は、編集者の仕事のなかで最も難しいもののひとつであり、投稿者はこの通知を熟読しなければなりません。通知はそれぞれ審査中の原稿に対し て 個別に書かれたものです。編集者は概して査読者の意見の内容に従いますが、それに拘束されているわけではありません。採否の最終決定は様々な要因によるも のですし、編集者は広範な決定権を持っています。修正なしで、そのままの形で採用される原稿は稀です。他は、任意あるいは必須の修正の提案付で採用されま す。群を抜いて多い決定は「修正と再投稿」の呼びかけです。これは原稿を却下するための優しい(あるいは臆病な)一方法に過ぎないという通念があります が、これはSlavic Reviewには当たりません。多くの原稿は、少なくとも一回の書き直しから恩恵を得ます。それらは異なった読者の観点から利益を得るのです。この段階で いくつかの原稿が他よりも有望に見えます。
 私がSlavic Reviewの編集長だった時には、最終的な成功の見通しについて私自身の熱意に等級をつけるように努めました。現在の原稿が出版可能な状態からは程遠 く、徹底的な修正が要求されるものであっても、それが優れたポテンシャルを有しているのであれば、私は次のように説明しました。「成功は保証できず、別の 雑誌への投稿が望ましい。しかし投稿者が修正を望むのなら、我々は修正校を再検討します」。徹底的な修正勧告への投稿者の反応を予測することは不可能で す。見事に対応する投稿者もいれば、そうでない人もいました。「修正のうえ再投稿」の全てのケースにおいて、私は査読者の講評を要約し、必要ならば査読者 が指摘するあれこれの点について私自身がいかに同意し、同意しないか示すことに努めました。投稿者が修正を勧められたとしたら、それは真剣な勧めとみなさ れるべきであり、修正された点は注意深く公平に検討されるべきです。
 通常、特別の指示がない限り投稿者は採否通知に返事をする必要はありません。特に不必要なのは、講評に対する詳細な反論を書くことです。査読者や編集者 の 勧告に同意しない投稿者は、自分が自分の主張を明確に表現できていたのかどうか自己点検すべきです。それでも顕著な意見の相違が残るのであれば、別の雑誌 への投稿を考えた方がよいでしょう。研究者と編集者が意見を異にしたとしても、その原稿は、他の雑誌、他の編集長、他の読者集団の関心とはぴったり合致す るかもしれないのです。スラブ研究のような学際的分野の場合、雑誌に明確なヒエラルキーはなく、質と適合性の審査に際しての許容範囲は広いのです。私は Russian Reviewに拒否された論文をSlavic Reviewで採用してきましたし、Slavic Reviewが拒否した論文がRussian Reviewに掲載されるのを見てきました。


掲載拒否

 投稿者には不幸なことですが、論文に は 掲載拒否されるものが必ずあります。不採択理由には、原稿それ自体の質に起因するものもあれば、投稿者の力の及ばない雑誌の事情に由来するものもありま す。典型的なものをいくつか挙げてみましょう。

 1.よくある理由の第一は、「独創性の欠如」です。投稿者が、その論文が学術的対話に 何を付加したのか説明できていない場合です。既に他の研究者が同じ テーマについて類似の資料を用いて大々的に書いていることを、著者が知らないように思われることすら時折あります。既に知られた議論を繰り返す著者もいま す。原稿が同じ著者の以前の著作に極似していることもあります。その原稿が学術的課題に独創的な寄与をすることを明確にすることは著者の責任です。

 2.もう一つの理由は出来栄えの悪さです。著者によって提示された資料が議論を立証し ていない場合です。これは資料的基盤が希薄なのかもしれません。こう いった場合、編集者と査読者は、もっと研究を深めるようにと助言します。その代表的な例は、コンフェレンス・ペーパーをそのまま投稿することです。これら ペーパーは全米スラブ研究促進学会(AAASS)のような標準的コンフェレンスにおいて20分間で発表されるべく書かれたものです。こうした学識の折り詰 めは、大人数の研究者が自分の研究のさわりだけを披露するコンフェレンスの形態に適したものですが、より広範で恒久的な普及に値する議論や資料を提供する には、あまりにもうすっぺらなのです。

 3.たとえ論文の学識と独創性が卓越していても、当該雑誌にとって狭すぎる場合があり ます。それでは僅かの読者の興味しかひきません。

 4.雑誌にとって論文が一般的すぎる場合です。当該地域でコンサルタントをした経験が あるにすぎない非専門家がSlavic Reviewに投稿してくることがあります。おそらく彼らは、ネットを検索してSlavic Reviewという名前の雑誌を見つけたのでしょう。そこから彼らは、Slavic Reviewが「ロシア経済」を概観するための理想的な公開討論の場であると結論したというわけです。彼らは、自分が向かい合う読者集団について、わざわ ざ知ろうとはしなかったのです。

 5.原稿が却下される他の理由としては、準備が粗悪であること、悪文そして不明瞭な構 成などがあげられます。これらの原稿にはいくつかの健全なアイデアと 優れた研究成果が含まれているかもしれませんが、著者はそれらを十分明確に伝えることができなかったのです。著者が謂わんとするところを理解するために苦 労する義務を読者は負っていません。また別の事例では、著者の不注意からスペルミス、頁番号の欠落、注形式の不統一が起こり、原稿の体裁が見苦しいことが あります。職業としての研究は、精度を確保しようとする研究者個々の品位によって決まります。ですから論文の外形が正確でないと、研究の根幹で払われた配 慮への疑念を抱かれることになってしまうのです。

 6.修正されて再投稿された原稿でも、最終的に却下されることがあります。それは大 抵、修正過程で著者が十分な改善を施せなかったことによるものです。時 間が十分にあればほぼ全ての原稿の掲載が可能かもしれません。しかし編集者も査読者も時間は限られています。かつ不運なことに、修正過程で以前より悪く なってしまう原稿があります。特に初投稿の著者についていえば、修正要求に投稿者がどのように応じてくるのか編集者にはわかりません。経験豊富な投稿者な らば査読のコメントの読み方や修正への対応を承知しているだろうことを編集者は想定しています。初投稿の場合、原稿を友人や同僚などと身近に共有し、彼ら の助言に従って修正するのは大変よいアイデアです。これにより第2ラウンドでの時間が節約できますし、成功の可能性も増えるでしょう。

 7.それ自体の欠陥によってではなく、その時点で競合する論文が投稿されたことで却下 される場合があります。自分が要求する基準を満たせば全ての論文を採 用する編集者もなかにはいますが、常時多くの論文が投稿されているのであれば、当該原稿の公刊が長く滞ることになります。私は編集者として時宜にかなった 公刊をより重視したので、12ヶ月という論文の最終受理期間の中での刊行が可能なだけの論文を採用しました。

 8.最近刊行されたか、あるいは刊行準備中の論文のテーマや争点に、投稿原稿が極似し ている場合があります。こうした事態は、ドストエフスキー、ボスニア および大祖国戦争関係の論文を過剰供給していたSlavic Reviewにおいて時折発生しました。雑誌にとって重要なのは、論文の質とともに守備範囲の幅と豊かさです。ですから、ドストエフスキー関連の投稿が少 ない年に掲載されるであろう論文が、ドストエフスキー関連の投稿が多い年にも同様に刺激的であるとは限りません。では、いつ原稿を投稿すればよいのか―あ いにく、投稿者にはそれを知る術はありません。


公刊過程

 原稿が掲載に向け採用されたならば、 喜 ぶ資格があるということです!同時に著者は最終稿準備のためのガイドラインを受け取ることになりますが、それに注意深く従うことが重要です。雑誌は、明快 さ、読み易さおよび首尾一貫性を確保するための独自のスタイルを持っています。スタイルのある特定の要素に関して同意できないという著者もいることでしょ うが、この時ばかりは個人的嗜好を雑誌の要求に合わせるべきです。明快さと正確さを求めて原稿にどれほど変更を加えるのか、それは雑誌によってかなり差が あります。だからこそ、最終修正の際に参考書誌および外国人名や外国語の綴りに細心の注意を払うことが必要です。できる限り間違いのない原稿を提出するこ とは著者の責任です。最終稿を受け取ると、大部分の雑誌は、著作権を発行者に譲渡する旨(著者の著作での再発行の条件)の通知を著者に送付します。雑誌発 行日の数ヶ月前に著者は点検と修正のために編集稿を受け取ります。それから約一ヵ月後に著者はゲラ刷りを点検する機会を持ちます。この最終段階での修正期 間は極めて短いのが常です。ですから著者は雑誌と連絡をとり合い、ゲラ受領後数日以内に点検を済ませる覚悟をしておくことが大変重要になります。校正予定 期間にマガダン、あるいはもっと連絡可能な場所であっても、調査旅行を計画している場合、編集長に予め連絡方法を知らせておくことが大事です。
 この段階で著者には論文の抜刷を購入する機会が与えられます。雑誌からコピーをとったほうが安いので、抜刷を浪費と考える編集者や著者もいれば、装丁を 施 されて再印刷された抜刷を同僚に贈るのを好む人もいます。抜刷を著者に無料で贈呈する雑誌も中にはありますが、それは雑誌によってまちまちです。


学術上の作法に関するいくつかの見解

 出版倫理に関するいくつかのより広範 な 問題とより繊細な論点も注目に値します。権威ある学者による盗作疑惑が時折報道されますが、幸いSlavic Reviewはその種の経験がありません。これからも、そのようなことがあってはなりません。書き手は知的かつ学問的な恩を受けた場合、それを自認すべき です。私たちの職業は誠実さの内面化の上に成り立っているのです。
 いわゆる「自己盗作」については、もっと複雑です。自分自身の言葉をいくつかの場所で使用することは、たとえ出典を明示しなくても、著作権の侵害にはな り ません。その言葉の書き手が、それを出版する権利を有しているのですから。しかし、ごく稀な例外を認める明確な理由でもない限り、同じアイデアと考察を繰 り返して使いまわすことは、立派な行為とはいえません。査読者は新しい業績によって既に乗り越えられた古い研究には否定的に反応し、独創性の欠如として批 判するでしょう。
 学術倫理のより曖昧な領域に関わるのは「連続投稿」と「二重投稿」です。研究者は原稿を、複数の雑誌に同時に投稿してはなりません。また同じ雑誌にあま り にも頻繁に投稿するべきではありません。いずれにせよ、自分の作品を様々な場に置いてみるべきです。私の経験則(時折例外もありました)は、編集長として の5年間の任期のなかで、企画に関係なく、特定の著者から2回以上の投稿は認めないというものでした。
 二重投稿に関してSlavic Reviewが定めるところでは、同誌に送付された原稿は、他のいかなる形式、言語においても公刊されるべきではなく、査読されるべきでさえありません <訳者注>。成果報告集の刊行が漠然と検討されているコンフェレンスで報告することが時折あるでしょう。しかし、その報告集の計画から取り下げでもしない 限り、その手のペーパーを雑誌に投稿すべきではありません。また、コンフェレンス報告集の編集者には、最初の合意に基づき、この取り下げ要求を拒否する権 利があります。二重投稿であるとの批判を避けるために、原稿は少なくとも75%「新しい」ものでなければならないとSlavic Review編集部は主張してきました。同様に、他言語で、部分的であれ、またいかに目立たず読まれない媒体であっても、すでに公刊され、あるいは査読中 の原稿をSlavic Reviewは受け付けません。ですから、発表の機会は賢く選ぶようにしてください。
 本の原稿は事情がより複雑です。大規模な研究プロジェクトの成果の一部を雑誌に予め発表することは、そのプロジェクトが完了する前に学界の議論に付し、 将 来に予定される大きな業績への関心を読者に喚起するための方策として、研究者にとって有益かつ重要なことです。Slavic Reviewでは発行者が著作権を保持していますが、掲載論文の著者が執筆したか編集した本にその論文の内容を再発表する権利を積極的に認めてきました。 Slavic Reviewに投稿された原稿が、査読検討中の本の原稿の一部である場合、本が刊行される一年以上前に論文が雑誌に掲載されるのであれば、それは採択・掲 載の妨げにはならないとしてきました。こういった場合、著者は必ず事前に編集者と相談すべきです。出版者と契約済みの本への原稿が投稿された場合、それを 受理することはできません。
 ・・・強調したいのは、学術的慣習は学問領域によって異なり、私がここで強調した幾つかの点に同意できない編集者もいるであろうということです。私は Slavic Reviewのノウハウを示そうと試みました。同誌には専属の編集者と非常勤の研究者双方がいるため、著者と随時連絡を取り、原稿を素早く処理して熟練し た知識によってそれを入念に編集するための人的資源があります。発行部数や予算が小規模の雑誌では、限られた資源に相応した、これとは違った方針が採られ ていることでしょう。私が危惧するのは、出版社が入念な編集への援助を削減しつつあることであり、このため将来の学術標準が低下するのではないかというこ とです。
 結びに、本報告の題について一言述べさせていただきます。「どうすれば、すばらしい学術論文が書けるのか」、私はこのような題をつけたわけですが、しか し 実のところ学術論文の大部分は「すばらしく」はありません。論文の「すばらしさ」についての衆目の一致をみることは困難でしょう。それは引用やダウンロー ドの頻度が多い論文のことでしょうか?他の模範となるような論文でしょうか?教える際に便利な論文のことでしょうか?幸いにも私は、学問が必要とするのは 「すばらしい」論文だけだとは考えていません。学問が必要とするのは、より多くの「良い」論文であり、学問において、いまよりも多くの声が聞こえ、多くの 視点が提示されることなのです。本講習会において、これらの論点について議論する機会を得たことを私は感謝いたします。あなた方の学問探求から利益を得る ためにも、日本の研究者の論文がより多く英語で活字になることを期待しております。

(英 語の報告原稿を桜間瑛、秋山徹が和訳、松里公孝が監修)

<訳者 注>
 これは雑誌によって方針に差がある問題であり、多くの雑誌はSlavic Reviewより寛大な方針をとっている。英語とロシア語のようなメジャー言語で同じ内容のものを公刊しようとすれば、おそらく必ず倫理上の問題が起こる が、雑誌によっては(たとえばEurasian Geography and Economics)、マイナー言語で公刊され、評価が高かったものを英語でも投稿してくれるのなら歓迎という方針である。また、マイナー言語との二重発 表すら認めない厳格な方針をとっている雑誌でも、編集陣がマイナー言語を読めるわけではないから、その方針には意味がない。ただ別の意味で、言語を変えた 二重発表は難しい。国によって読者集団の予備知識も作文文化も違うのだから、結局、最初から発表したいと思う言語で書くしかないであろう。

*なお、本文の内容は、スラブ研究センターを始め、いかなる機関を代表するものではなく、 筆者個人の見解です。

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