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研究員の仕事の前線

2014年4月8日

スラブ・ユーラシアの今を読む:ウクライナ情勢特集3

想像のウクライナ東西分裂論を超えて
―現地調査を踏まえた若干の考察―

大串 敦

はじめに



ウクライナでの政変からクリミヤ併合に至った一連の事態は、依然進行中であり、まだこれからの展望を予想することはできない。



この小文の課題は、この展開を詳細に説明することではない。それは小文では不可能であるし、まだその準備はない。むしろ、主に私自身の現地調査1 に基づいて、今回の事態では一般に前提として受け入れられているかに見えるいくつかの事項に対して、異なった視点を提供することを目的としている2。ここで、一般に前提とされている事柄というは、以下のことを指す。1.ウクライナは言語を中心に東西に分裂している。2.今回の政変の結果、ウクライナでは西ウクライナのエリートを中心とした民族主義的な右派勢力が政権を構成している。3.以上の状況はウクライナを舞台とした、ヨーロッパとロシアのパワーゲームを背景としている。4.ロシアの介入はヨーロッパがウクライナを勢力圏下においてしまうことを牽制したものである。

もっとも、すでに本サイト上の服部氏のエッセイでも、これらの通念に対する批判がなされており、東西分裂論批判自体は目新しいものではない。本稿でも、私自身の知見から東西分裂論批判を行うが、これは東西分裂論が根強いという理由だけからではない。問題は、これらの通念が批判されてきたにもかかわらず、上記の通念が正しいものと解釈されかねない行動をロシア政府がとり、それが現実を構成しつつあるかのように見えることである。NATO(アメリカ、EU)の対応次第では、上記の通念が現場の実態を超えて「正しい」ものになりかねない。ここに現在の本当の危機があるように思われる。

本稿は、まずドネツィク(ロシア語読みではドネツク)政治から議論を始め、ウクライナ中央政治、そして世界秩序に関連するいくつかの事柄にまで議論を進めたい。事態は非常に深刻であるが、日本語でネット上に公表する文章という性格から、少し気軽な文体でつづってみたい。


1.ドネツィク地方政治



親ロシア的ドネツィク?



ウクライナ東部のドネツィク州は、併合されたクリミヤを別にすれば、ウクライナの中でも最もロシア語話者が多い地方として知られる。実際、ドネツィク市街地でウクライナ語を耳にすることはまずない。ただし、スーパー、カフェ、レストランなどでの物品の表示、博物館での展示などにはウクライナ語を用いているので、ウクライナ語を目にすることは多い。そして、この言語を指標にして、ドネツィクは親ロシア的な地域だということになってきた。実際、私がドネツィクに滞在中の3月13日夜、親ロシア派が市街地中央部にあるレーニン広場でデモを行い、ウクライナ統一を求める勢力と衝突し1名の死者が出た、というニュースをご記憶の方もいるだろう。


さて、ではこの親ロシア派はどの程度の力をドネツィクでもっているのだろうか。私は3月13日から20日までドネツィクに滞在し、レーニン広場などで親ロシア派の集会を何度か見学したが、最大で3000人程度の規模だったように思う。指導的な人物(ウクライナ共産党の活動家なども含む)が演説を行い、「ロシア」「プーチン」などの声を上げて聴衆をあおっていたが、積極的に応えていたのは、その中の10分の1程度であろうか。筆者も含めて物見遊山的な人が多いように感じられた。その限りで、親ロシア派が存在しているのは確かであるが、現在のところデモの規模よりも実際のシンパは少ないと考えられる。

実は、こうしたウクライナの東側地域での親ロシアデモに関しては、ロシアが活動家を送り込んでいる、という噂3 がある。当の本人たちに確認することはできなかったが、親ロシア的な活動をしている運動の一つ(念のためここではその運動の名前は伏せておきたい)を訪問した時の彼らに対する私の印象はあまりいいものではなかった。彼らが親ロシア活動の中心ではないだろうが、過激すぎて一般庶民はついていけないだろうと感じた。もっとも、本当にロシアから来ているのかどうかよりも重要な問題は、現地の人の多くがそれを信じており、好感していない点にある。現地ジャーナリストも最も積極的な分子はロシアから来ている、ロシア語の訛りでそれがわかると、私に語った。ちょっとセミナーにお邪魔したドネツィク国立大学の学生さんたちも、(嫌悪感を交えて)ロシアから来ていると断言した。他の多くの学識者たちも同様であった。仮に親ロシア派がロシアから来ていても、彼らが「解放者」と考えられているのであれば話は異なるであろうが、私が話を聞いた範囲内では「騒乱扇動者」としてしか認識されていなかった。


ドネツィク閥・ヤヌコーヴィチ・地域党



ただし、ドネツィク市民がヤヌコーヴィチ追放に至るまでの政変を好感していたわけではない。そもそもヤヌコーヴィチと地域党の地盤はここドネツィクにあったのである。クチマ大統領のラザレンコ内閣時代にドニプロペトロフシク閥に攻撃を受けた際、ドネツィクの政治経済エリートは一致団結し、強力な閥を作り上げた4。このドネツィク閥がヤヌコーヴィチと地域党の形で、中央政界の頂点に君臨したのが、ヤヌコーヴィチ体制だったといえるだろう。このヤヌコーヴィチ体制を強引に解体したのだから、今回の政変に対して、ドネツィク市民が好感していないのは間違いない。

にもかかわらず、ヤヌコーヴィチに対してドネツィク市民が熱狂的に支持をしていたかといえばそうではない。政変のあった2月にドネツィクでさえ親ヤヌコーヴィチ集会のようなものは全くなかったそうである。ドネツィクでヤヌコーヴィチや地域党が強かったのは、ヤヌコーヴィチ個人への支持というよりも、州の利害を守り、中央に表出する指導者・組織として支持されていたということだと私は考えている。そもそも、ドネツィク閥が強力であった一つの、そしておそらくもっとも重要な理由は、ドネツィクがウクライナで最も工業化された地域であり、現在でもウクライナ全体GDPの2割を超える額をドネツィク州だけで叩き出している、その経済力にある。裏を返せば、ドネツィク州の人々は、他州を「養っている」という意識を持っている。ヤヌコーヴィチと地域党は、そうしたドネツィク閥の力を中央政界で代表してきたのである。


地域党の瓦解と政治的真空状態



今回の政変の結果、ヤヌコーヴィチはロシアに去り、地域党はトップを失い、私が訪問中、党としての活動を事実上停止してしまっていた。私見では、ドネツィク地方政治の最大の問題はここにある。すなわち、地域党が活動を停止した結果、ドネツィクは利害表出チャンネルも喪失し、ドネツィク地方政治に政治的真空状態が作り出されている。調査中にあった人に、仮に近い将来議会選挙があったらドネツィク市民はどこに投票すると思うか、と私が問うと、明確な答えを持っている人は一人もいなかった。この真空状態を放置していたら、現在はまだ多くの支持を集めていない親ロシア派が勢力を急速に拡大するかもしれない。個人的には、地域党で残った人たちを糾合して、ドネツィクに新政党を作ることが必要ではないかと感じたが、多くの専門家は否定的だった。ドネツィク市民の多くは今回の政変を受けて、もしくはそれ以前から、政治的無関心状態になっているかもしれない。地域党幹部の一人と、州議会議員一人に話を聞いたところ、新政党の考えには共感していなかった。むしろ、党の再建にかける、といった姿勢だった。

政党と並び、現下のドネツィクの政治的真空状態を解消するカギとなるアクターと私が感じたのは、S.タルタ新知事である。ウクライナでは知事は大統領による任命制である。クチマ大統領の時代には、大統領が有力地方エリートを知事に任命し、1999年のクチマ再選に際して大きな役割を果たしたことは、松里氏の研究によってよく知られている5。その後、知事の政治的役割はやや後退し、行政官としての技術的な職務とみなされるようになった。しかしながら、現状のような異常事態では、知事の政治的役割は非常に大きいと考えるべきだろう。タルタは鉄鋼グループ「ドンバス工業同盟」のトップであり、ウクライナの代表的な富豪の一人でもある。一般には旧ソ連の新興企業家に称される「オリガルヒ」の一員として数えられることが多い。とはいえ、私が現地調査で耳にしたタルタ知事の評判からは、しばしばネガティブな含意を持つ「オリガルヒ」よりも、ソ連で経済運営専門家を称する際に用いられた「ハジャイストヴェンニク(хозяйственник)」という言葉のほうがしっくりくるものであった。ソ連時代、企業の現場でたたき上げてきたハジャイストヴェンニクの威信は高く、共産党は幹部として迎え入れるための工夫をしてきた6。人々がタルタを語る口ぶりは、彼が地元で尊敬を集めており、実務家としての能力を高く評価されていることを示していた。この点、ウクライナ最大の富豪であるR.アフメトフが、いかにもオリガルヒとして否定的に言及されることが多いのと対照的な印象を持つ。このタルタ知事が正当にドネツィクの利害を集約し、中央に表出することができれば、ドネツィクの中央への不満を和らげることができるかもしれない7。5月の大統領選挙後、新大統領がタルタをどのように処遇するかはわからないが、現下のドネツィクの状況では知事に留任させる可能性が高いのではないかと思われる。

いずれにしても、先に述べたとおり、ドネツィクの中央への不満の中核には、アイデンティティーの問題というよりも、他州を養っているにもかかわらず、正当な扱いを受けていない、という利害の問題がある。ドネツィクの利害を代表していた地域党が瓦解状態に陥った結果、ドネツィクが分権化要求をするのは必至であった。では、分権化はどのような形態をとるのか、ここで分析のレベルを中央政治に移したい。


2.新政権の課題(中央政治)



本節では、中央政治レベルで重要課題と思われるものを簡単に検討していきたい。国制、国民形成、憲法体制の三つである。

国制



周知のとおり、現在ウクライナでは国制(単一制維持か連邦制か)を巡り、ウクライナ政府の頭越しに、ロシア政府がアメリカ側との話し合いの中で連邦制を要求するような事態が生じている。ロシア側の狙いはまだ分からないことが多いが、ドネツィクをはじめとした東の諸州が外交などを含む大幅な自主権を持つことで、その地域一帯を自己の勢力圏下におこうとしているものと、解説されている。ロシアがウクライナの東側のリージョンに多くの経済関係を持っていることも一因かもしれない8

しかしながら、私がウクライナで調査した範囲内では、この連邦制という考えに対して好意的な反応を示した人は一人もいなかった。上述の通り、ドネツィクでは分権化要求は確実に存在しているが、連邦制への支持はそれほどでもない。私が面会したドネツィク州議会議員(地域党所属)は、党内でも議論はあるが、地方自治の拡大などの要求はしているが、連邦制までは求めていないと述べた。上述の分離主義者運動活動家の話を別にすれば、私が聞いた中では、この程度のものが最も連邦制に好意的な意見であった。ドネツィクを基盤とする地域党内でさえ連邦制への懐疑論が強いのである。キエフではもちろん、連邦制導入論への賛成を聞いたことはなかった。ウクライナ領土の一体性を保持すべきだという声は、東西を超えて強いのである。もし、ロシアとアメリカが当事者の頭越しに連邦制をウクライナに導入しようとしたら、力による脅しを背景にしたものにならざるを得ないであろう。


派閥の行政的巡礼による国民形成



さて、本サイト上の服部氏のエッセイにもあったが、東西分裂ではなく国家の一体性を支持する声が強いということは、うまくいっていないとされてきたウクライナの国民形成が、曲がりなりにも一定の成功を見たことを示している。その理由を仮説的に考えてみたい。ウクライナの政治的単位の基本は、派閥政治であり、その派閥政治において、トップが定期的に入れ替わってきたことにあるのではないか、というのが本稿の仮説である。


ウクライナ政治が、東西分裂よりもはるかに多くの地方閥の競合によって特徴づけられる、とは松里氏の年来の主張である。国民形成の観点から見て重要だったのは、この競合がどこかの一方的優位ではなく、しかも大統領選挙などで、トップに立つ派閥が絶えず入れ替わってきた点にある。国民形成において、「行政的巡礼」の重要性を指摘したのはB.アンダーソンである。それによると、ある地方で生まれたものが、「国民」という共同体をどの範囲で想像するのかは、出世できる行政単位の頂点によって決まる。その出世による移動を、アンダーソンは行政的巡礼と呼んだ。たとえば、植民地では、現地人の行政的巡礼は宗主国まではいかず、植民地の首都で終わる。これが植民地という帝国の行政区画を基礎とした国民意識の基盤になった9。ウクライナの文脈では、前史としてソ連での民族領域連邦制が、ウクライナ国民意識を作り出すのに役割を果たしたといえよう。

そして独立後には、経済的利権を中心として様々な派閥が成立したが、激しい競合の結果、大統領や首相職が一つの派閥に独占され続けるという事態は生じなかった。例えば大統領に関して言えば、クチマ(ドニプロペトロフシク閥)、ユーシチェンコ(主としてハリチナ閥)、ヤヌコーヴィチ(ドネツィク閥)と大統領の交代のたびに、トップの派閥が入れ替わり、永遠の少数派を生まなかった。首相に関しては、交代は一層頻繁である。次に述べる憲法体制にも関わるが、1996年憲法時では大統領による任命制なので(議会による承認は必要)、まず自分の筆頭子分を首相に据えるが、首相が大統領に対抗しそうになったり、他の派閥の反発があまりにも強くなったたりした時は、他の派閥の領袖を任命するなどして、大統領が中道へ進む傾向を示した。2004年憲法時は、議会の多数派が首相を任命するように制度変更がなされたが、この結果は議会内多数派形成をめぐって、ありとあらゆる連携が試みられては解体するという結果を伴った。これは、政治的不安定を招いたが、中央に至る行政的巡礼はどの閥にも開かれていたことも意味した。以上のような派閥競争は、縁故的派閥政治を前提にしているので腐敗を蔓延させるが、国民形成という点では有利に作用したのではないか、と私は考える。

ヤヌコーヴィチと地域党は、この点で若干例外的である。地域党が他の会派と組んで議会の過半数を占めることで 、権威主義的ながら比較的安定した政権運営をしてきたように見えたからである。地域党がドネツィク閥の地域性の強い政党から、包括的な支配政党に変身しつつあったのか、という問題に関しては肯定する見解もあるが、私はやや懐疑的である。むしろ、ドネツィク閥に政治を支配されている、という他の派閥の反発が今回の政変を招いた一つの遠因ではなかったかと考えている10。いずれにしても、こうした派閥の入れ替えが全国的行政の巡礼を成立させ、国民形成はかなりの程度進行した、単純な東西分裂論は根拠に乏しい、というのが私の判断である。

さて、東西分裂論が根拠に乏しい以上、ロシアのメディアで喧伝された、ウクライナ新暫定政府は極右の右派セクターが中心的なファシスト政権である、という主張も根拠に乏しい。ある識者は、右派セクターの基本的なメンバーはサッカーのサポーター連中だと言ったが、私が現地で受けた印象も、サッカーフーリガンが武器を持ってしまった、といったものである。彼らが一般の人の熱心な支持を獲得することはないだろう。もちろん、ボリシェヴィキの例を挙げるまでもなく、一般の支持がなくとも過激な少数派が政権を獲得することはあり得る。ただし、ボリシェヴィキは特有の政策を構想し実行する能力があった。他方、右派セクターに政策を構想する能力はまるで感じられない。実際、右派セクターの武装解除はウクライナ最高会議(議会)も可決し、既に実行され始めている。この過程で多少の衝突はあるかもしれないが、今後も大きな影響力を獲得するとはとても思われない。


憲法体制



ウクライナ中央政治が直面するさらなる課題の一つは、上述のような派閥政治にふさわしい憲法体制を見出すことである。ウクライナは、旧ソ連諸国の中で、独立後新憲法を最も遅く1996年に再採択し、その後オレンジ革命のさなかに憲法改正がなされ、2004年憲法が成立、これを2010年ヤヌコーヴィチが再度1996年憲法に戻していた。これらの経過に関しては、すでにすぐれた解説が存在しているので、詳細は省こう11

政変後、暫定政府は再度2004年憲法に戻す決定を行い、2014年2月21日ウクライナ最高会議もそれを採決した。2004年憲法に戻す際の理屈は、そもそも2010年の憲法改正が違法であった、ということである。これは確かに一理ある。議会をバイパスして、最高裁判所の決定ひとつで1996年憲法復帰が行われたからである。しかしながら、それで言うと2004年の憲法改正も手続的に瑕疵がある。

こうした法手続き上の問題はさておき、一層深刻なのは1996年憲法も2004年憲法もあまりうまく機能してこなかったことである。上述のとおり、1996年憲法では、大統領への権力集中が問題となり(クチマ時代、ヤヌコーヴィチ時代)、2004年憲法では、複雑な政党連携が試みられては解体する事態が頻発した(ユーシチェンコ時代)。今後もこのような事態が繰り返されない保証はどこにもない。

ただし、政党規律は一層弱くなることが予想されるので、議会の多数派と大統領が一致点を見出す可能性がなくはない。選挙制度は、全て比例区だったユーシチェンコ時代と異なり、半数が小選挙区、半数が比例区となっている。一般的に言うと、完全比例代表制のもとでは、政党規律が高まり政党指導部によるトップダウンの決定がなされることが多い。そのため、特に小選挙区選出の議員が多数派形成のための切り崩しの対象になるかもしれない。2004年憲法の復活によって、81条の強制委任(議員は政党帰属を変更すると失職する)規定も復活しているが、これはユーシチェンコ時代から有名無実化していた。

いずれにしても、2004年憲法が機能不全だったことは当事者もよく認識している(ただし私が現地であった識者には、ユーシチェンコとティモシェンコの個人的な対立が機能不全のもっぱらの原因であると信じている人も多かった)。再度の憲法改正はすでに議論の俎上に載っている。5月に大統領選挙が予定されているため、新大統領から権力を奪う純粋議会制はありえないだろう。大統領と首相と議会の間の権限のバランスをとれた憲法体制をウクライナは見出すことができるだろうか。もし新政府が不安定なままであれば、諸外国に干渉の口実を与えてしまうだろう。



3.世界秩序への影響



私は国際関係を専門にしていないので、素人の特権を生かしてここではあえて大風呂敷を広げ、私が考える問題を数点あげておきたい。


NATOに対するウクライナ世論の変化



さて、東西分裂論に確かな根拠が現実には乏しいにもかかわらず、ロシアは決定的な一歩を踏み出してしまった。このことから、ウクライナ世論にはかなりの変化が生じた。塩川氏が以前指摘した通り、かつてウクライナでは、親EUの世論は強くとも親NATOはそうでもなかった12。このことは、ウクライナの最大のシンクタンク、ラズムコフ・センターの世論調査によっても同様の結果が得られる13。その後、ロシア軍のクリミヤへの「侵攻」そして併合によって世論は変化したように思われる。ロシア「侵攻」以後の最新の世論調査はレイティング・グループによる2014年3月のものである。NATO参加の国民投票があった場合、34パーセントもの国民が賛成票を投じると答えたとしている14。ラズムコフ・センターの調査で、NATOへの支持率が2012年時で12.5パーセントだったことを思えば、親NATO世論はここ数ヶ月でかなり増加したように思われる。もちろん、ラズムコフ・センターの調査とレイティングの調査は別々のものであり、調査方法も異なるので、厳密には比較対照できない。それでも、一般的な傾向は示していよう。というのも、私はキエフではもとより、ドネツィクでさえもNATO加盟を真剣に考慮すべきだという声をかなり聞いたからである。NATO加盟は言うまでもなく簡単には実現しそうにないが、このようにウクライナ世論に変化をもたらしてしまったのは、ロシア自身の政策によってである。

また、今後ほかの方からも指摘があると思うが、「ロシア人保護」を名目にした「侵攻」は他の旧ソ連諸国にも脅威を与えた。西側諸国のみならず、旧ソ連諸国のほとんどを敵に回しかねない一歩を自ら踏み出してしまったのである。


地域大国ロシア問題



なぜ、ロシアはこのような決定的な一歩を踏み出してしまったのだろうか。現時点でロシアの政策決定の内部を分析することはできないし、本当にロシア人保護を考えていたのかもわからない。しかし、ソ連解体後、ロシアが被害者意識を募らせる背景として、NATOの東方拡大、西欧によるコソヴォ独立承認などのユーゴスラヴィア問題、ブッシュ(ジュニア)時代の対ロ政策があったことはすでに指摘されている15。ロシアがこれまでの欧米諸国の政策により被害者意識を募らせた点に関しては、私は欧米諸国にも相応の責任があると考えている。しかし、その被害者意識を背景として、今回のウクライナの政変では冷静さを失い、ロシアは、クリミヤ併合という決定的ともいえる一歩を踏み出してしまった。「新しい冷戦」もしくはそれ以上に悪い事態はかなりの現実味を帯びている。

より広い歴史的視野で考えると、我々は「ロシア問題」に直面しているのかもしれない16。かつて1871年にドイツが統一されて以降、ヨーロッパを悩ませてきたのはドイツ問題であった。すなわち、大陸ヨーロッパの中で抜きんでて強い力を持っているにもかかわらず(もしくは持っているがゆえに)、当時ドイツは世界秩序への挑戦者となった。ビスマルクの技能によってかろうじて抑え込まれていたドイツの力が、彼が去ったのち解放されて、第一次大戦の遠因になったことは、周知のとおりである。ドイツをいかに秩序に組み込むかが、第二次大戦に至るまでのヨーロッパ安全保障上最大の課題であり、これがドイツ問題と言われているものである。冷戦終焉時にサッチャー英首相がドイツ統一に反対したのは、このドイツ問題再来を恐れたが故であることもよく知られている。とはいえ、冷戦終焉後、我々が目にしているのは、ひょっとすると、ドイツ問題の再来なのではなく、「ロシア問題」なのかもしれない。ロシアは抜きんでた力を秘めていたにもかかわらず、もしくは秘めているがゆえに、現存秩序の挑戦者として扱われ続け、今や実際にそうなってしまったかのように見える。このロシア問題をどのように処理するのかは、ウクライナ政変やクリミヤ併合といった一つ一つの事例を超えた、世界秩序全体の安定にかかわる問題である。

一般に、政治的危機は、政策当事者などの主観によって構想されたイメージと実態との乖離がはなはだしい時に生じ、昂進することが多い。アメリカが現地に対して抱えていたイメージと実態が大きく乖離していたヴェトナム戦争を想起すればよい。メイの名著『歴史の教訓』は、アメリカ外交において、イメージ形成に歴史がいかに誤用されてきたかを見事に示したものとして知られる17。これまで述べてきたとおり、ロシアはすでに実態と乖離した外部世界に対するイメージから、驚愕させるような一歩を踏み出した。欧米諸国はこれにどのように対処するであろうか。ミュンヘンの教訓から対ソ冷戦の勝利に至るまでの事例から「歴史の教訓」を引き出し、対応策を考案するであろうか。ウクライナ東西分裂論を前提に対策を練るだろうか。ロシアの専制政治は変わらない、というステレオタイプのロシア政治イメージを増幅させるであろうか。ロシア側が現実というより想像されたイメージに基づいてクリミヤ併合を行ってしまった以上、欧米のロシアへの対応は多くの困難を抱えている。かつて冷戦終焉後間もない1995年にG.F.ケナンは次のように警告していた。「我々自身の想像のロシアを作り出すことで、問題を不必要に複雑にしないようにしよう。その想像上のロシアは、かつては存在していた。しかし、幸運にも、もはやそれは存在しないのです」18。せめて日本を含めて欧米側が現実とかけ離れたイメージを増幅させることなく、可能な限り色眼鏡を排し、現地の論理を冷静に認識する必要があろう。これは、我々この地域を専門とする研究者の責務でもある。

※本稿の草稿に対して、藤森信吉氏よりコメントをいただいた。記して感謝したい。



大串 敦(おおぐし・あつし)

慶應義塾大学法学部准教授
獨協大学法学部卒。グラスゴー大学社会科学研究科博士課程修了。
著書に、The Demise of the Soviet Communist Party (London: Routledge, 2008); Post-Communist Transformations: The Countries of Central and Eastern Europe and Russia in Comparative Perspective (Sapporo: SRC, 2009)(共編)などがある。

*本稿の内容は、スラブ・ユーラシア研究センターおよび執筆者の所属機関など、いかなる組織を代表するものでもなく、執筆者個人の見解です。


  1. 現地調査期間は3月7-20日。7日から13日までがキエフ、13日から20日までがドネツィクである。なお、キエフはロシア語読みで、ウクライナ語読みでは、キーィイフとなるが、本稿では慣習通りキエフと呼ぶ。
  2. なお、本稿は多くを現地でのインタヴュー調査に負っているが、インタヴューに答えてくれた方々の氏名を上げると、現状では当人たちのデメリットになりかねない。そのためインタヴュー対象者の氏名を上げることは差し控える。また、学術論文ではないので、注記は最小限にとどめる。いずれ、今回の調査で得た内容も踏まえて、論文を執筆する予定である。
  3. S.タルタ・ドネツィク州知事もそのように発言したことがある。Ukrainskaya Pravda Website, 15 March 2014 (http://www.pravda.com.ua/rus/news/2014/03/15/7018860/). 2014年4月7日アクセス確認。
  4. この過程については、藤森信吉「ウクライナ天然ガス市場:ガストレーダーを中心にして」『比較経済体制学会年報』第39巻(2002年3月)、183-197頁; Shinkichi Fujimori, “Ukrainian Gas Traders, Domestic Clans and Russian Factors: A Test Case for Meso-Mega Area Dynamics,” in Kimitaka Matsuzato, ed., Emerging Meso-Area in the Former Socialist Countries: Histories Revived or Improvised? (Sapporo: Slavic Research Center, Hokkaido University, 2005), pp. 113-136を見よ。
  5. Kimitaka Matsuzato, “All Kuchma’s Men: The Reshuffling of Ukrainian Governors and the Presidential Election of 1999,” Post-Soviet Geography and Economics 42, no. 6 (September 2001), pp. 416-439.
  6. 松里公孝「ロシア地方指導者のキャリアパターン:トヴェーリ州を例にして」石川晃弘、塩川伸明、松里公孝編『講座スラブの世界第4巻 スラブの社会』弘文堂、1994年、299-332頁。
  7. タルタ知事への高い評価は、ドンバス工業同盟が、ユーシチェンコ、ティモシェンコのパトロンだったこととも関係していると、藤森氏からご教示を受けた。
  8. ウクライナ対外経済関係に関しては、服部倫卓「ウクライナの東西選択と経済的利害」『ロシアNIS調査月報』2014年1月、10-25頁、を見よ。
  9. ベネディクト・アンダーソン(白石隆、白石さや訳)『想像の共同体』リブロポート、1987年。
  10. 今回の政変以前に、私はロシアと比較してウクライナでは支配政党形成が困難であることを論じたことがある。拙稿「支配政党の構築の限界と失敗:ロシアとウクライナ」『アジア経済』第54巻第4号(2013年12月)、146-167頁。
  11. 松里公孝「ウクライナ政治の実相を見誤るな」『ロシアNIS調査月報』2014年1月、3-5頁。
  12. 塩川伸明『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦:冷戦後の国際政治』有志舎、2011年、178-179頁。
  13. ラズムコフ・センター、ウェブサイト(http://www.uceps.org/eng/poll.php?poll_id=698). 2014年4月7日アクセス確認。
  14. レイティンググループ・ウェブサイト
    (http://www.ratinggroup.com.ua/ru/products/politic/data/entry/14086/). 2014年4月7日アクセス確認。
  15. 塩川、前掲書、第4章。
  16. この点はイギリスの政治学者リチャード・サクワの教示による。関連した論文として、Richard Sakwa, “‘New Cold War’ or Twenty Years’ Crisis? Russia and International Politics,” International Affairs 84, no. 2 (March 2008), pp. 241-267を見よ。
  17. アーネスト・メイ(進藤榮一訳)『歴史の教訓:アメリカ外交はどう作られたか』岩波現代文庫、2004年。
  18. George F. Kennan, At a Century’s Ending: Reflections 1982-1995 (New York: W. W. Norton, 1996), p. 333.

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