ITP International Training Program



AAASS体験記

青島 陽子

(北海道大学スラブ研究センター博士研究員)[→プロフィール



 朝一番の便で札幌を出発してから、ワシントンDCを経由した長旅の後、アメリカ合衆国発祥の地フィラデルフィアに到着した。会場となるホテルは街の中央部に位置し、道を隔てて高層ビルの隙間からシティ・ホールの絢爛な建物が垣間見えた。



 学会のちょうど一年ほど前、スラブ研究センター冬期国際シンポジウム最終日の12月7日が、AAASSの個人応募の締め切りであった。AAASS(米国スラブ研究促進学会)は、以前から名前だけはよく聞いていたものの、断片的な情報の寄せ集めのみで、まるで実態の想像はできていなかった。その年のAAASSには同僚の赤尾光春氏や大串敦氏などが報告に赴いていたこともあり、機会があれば行ってみたいとぼんやりと思っていた程度であった。その12月7日の夜、冬期シンポジウムのために来日していたアメリカのジェームス・メイヤー氏とフランスのグザヴィエ・ル・トリヴェレック氏、それに若手の同僚数人で居酒屋に行くことになった。その時、親密な空気で話をするなかで、世界の「若手研究者」の状況はよく似ているのだと認識し、ハードルが高く感じていた全米学会もなんとなく参加できそうな身近さを感じた。運良く日本学術振興会から科学研究費補助金(若手研究(スタートアップ))を得ていたこともあり、旅費と英文校閲費のあてもあった。そこでこの時を逃したら思い切ることもないかもしれないと思い、居酒屋から戻った足でオフィスに帰り、プロポーザルを朝までかかって書きあげ送ってしまった。時差も合わせて、ぎりぎりの提出である。


 AAASSの個人応募の制度は比較的最近つくられた制度である。通常は報告者3名に討論者と司会者を合わせた5人の「パネル」を構成して応募しなければならないのだが、人脈のない国内の院生や外国人に向けて、個人でも参加できるよう配慮されたのがこの制度である。プロポーザルが通りさえすれば、実行委員会が、テーマの近い個人参加の人を合わせてパネルを構成してくれるというわけだ。思い切って応募したのはいいが、落ちてしまっては元も子もないと思い、テーマは2008年AAASS年次大会のテーマであった「ジェンダー」にあわせ(実際はそうでないテーマもたくさん出ていたので、とくに年のテーマにこだわる必要はないようだった)、英語は友人に頼み込んで緊急に直してもらい、それなりにきちんとしたプロポーザルを仕上げた。提出は、ホームページから入って自分の履歴などを書き入れながら進まなければならず、システムがうまく動かないこともあったため、かなり難儀な作業であった。ただAAASSには専門で勤務するスタッフがいるため、問い合わせると瞬時にとても親切な返事が戻ってくる。結局のところホームページからの申請を断念し、プロポーザルと履歴をスタッフにメールで送り、彼女に代わりに申請してもらうことになった。


 数週間後の12月22日、AAASSのプログラム委員会から採択の連絡が送られてきた。さらに数か月後の3月27日、パネルのタイトルが「帝政末期の検閲、教育、そして進歩」というタイトルであること、そして討論者を引き受けてくれる人が見つかったことが知らされた。さらにその一か月後の4月22日、司会者も決まり、パネル全体の最終的な情報が送られてきた。プロポーザルを出した時の私の報告タイトルは「大改革期における女子教育の誕生」といった穏当ものであったが、委員会からのパネル案では、私がつけたタイトルは副題にまわされ、主題には「効率的な女性の活用」といった人目を引くタイトルが付けられていた。いったい誰が付けたものであるのかは不明だが、自分が送った報告の要旨に照らし合わせて、うまくキャッチーなタイトルをつけてもらえたように思えて気に入り、最後までこのタイトルを使用させていただいた。その時にパネルに組み込まれたメンバーは、全員7か月後の11月にフィラデルフィアに現れ、皆が当初のタイトルの報告を行った。このように人脈のない個人からひとつのパネルを実現させたのであるから、実行委員会の組織力と実行力は素晴らしいものがあると非常に感嘆し、また深く感謝もしている。


 4月以降、学会の直前になるまで、AAASS関連の連絡はぱたりとなくなった。私自身も忙しさの中で瞬く間に月日が流れていった。学会まで一か月に迫ったところで論文を書き始めたものの、パネルのメンバーからも学会事務局も連絡は一切なく、実際の報告の場面のイメージもまったく湧かないままだった。漸く学会の二週間前になって突然にコメンテーターから連絡が入り、論文を送る時期についての指示があったが、それ以外は他のパネリストとの連絡もなかった。不安になった私がスラブ研究センターの同僚に尋ねると、ペーパーはコメンテーターにのみ送り、同じパネルの別の報告者にすら送らない、会場でもペーパーを配ることはなく、フル・ペーパーを書いても目にするのはコメンテーターだけだ、という。そして報告では、ハンドアウトもパワーポイントも使用せず、ただ「話す」というのだ。想像もつかない形態で、不安は募っていった。そうこうしていると、ラファイエット・カレッジの学部生だという人から突然にメールが届き、授業の一環としてパネルの様子を撮影させてほしい、と言う。当日のイメージはさらに混乱し、雲をつかむような思いで、日本を出発することになった。



 学会の会場となったのは、市街の中心にあるマリオット・ホテルの三階から五階までの何十もの会議室である。派手な絨毯の上にバルーンが揺らめき、とてつもない数の人が行きかっている。私は会場の雰囲気に押され、また自分の報告への不安に駆られてもいたので、上の空でプログラムを眺めていた。そのために開始時間を間違えてしまい、しかも慌てて会場の一つに飛び込んだため、実際に行こうと思っていたパネルとは違う部屋に入ってしまうという始末であった。少しだけ参加したパネルでも気もそぞろで、内容を理解するどころではなかった。夜には、冬期シンポに来日していたジェームス・メイヤー氏とスラブ研究センターの同僚長縄宣博氏が組んだパネルの仲間と食事をご一緒させてもらった。そのパネルには、調査を終えて博論を準備している院生(この層がもっとも大きな参加者母体の一つなっている)が参加していたが、彼女もずいぶん緊張した様子であった。彼女は中東学会がホームグラウンドなので、スラブ系の学会は初めてであり、オーディエンスの反応が予想できない、と不安がっていたのである。私は、アメリカ人でもそう思うのかと、勇気づけられもしたが、逆にさらに怖くもなった。


  翌日の午後の一番が私のパネルであった。午前中は寝不足でぼんやりとしていたが、午後、部屋に入るまでの行程はいまでも鮮明に思い出すことができる。報告会場は20人で満杯という程度の小さな部屋で、マイクも存在しない。しばらく誰もいない部屋で、顔も見たことがないパネリストが来るのを待った。10分ぐらい前になると、パネリストと思しき人々がようやく全員集合した。非常に簡単な挨拶を交わしたあと、報告の順番だけを確認して、あっさりとパネルが開始された。観客席の右手には、メールをくれたと思われる学生が大きなカメラをセットして座っていた。観客は10人程度であろうか。


 私は第一の報告者であった。20分で収まるようコンパクトな読み原稿を用意して臨んだが、いざ読み始めてみると、緊張からか、読むという簡単な行為もまともにこなせず、所々でなんども躓いた。こういった聞き取りにくい英語に対して、観衆は冷ややかである。少なくとも私にはそう感じられた。読み終わった瞬間に二人ほど人が部屋を出て行ったのを見て、ひどく気落ちした。次の報告者はベイルートから来た若い教授で、私は地名から中東系の方が来ると思い込んでいたが、生粋のアメリカ人であった。彼の英語はもちろんネイディヴで報告自体も非常に面白かったが、報告時間をはるかに超えて話し続けた。そのためなのか、彼の報告中・報告後にはさらに数人が部屋を出て行った。その間、逆に入って来る人も何人かいた。最後の報告者は、ロシアでの調査を終えたばかりの院生で、非常にまとまった報告であったが、それでも観客は入れ替わり続けた。驚いたことに、コメンテーターの先生が論じている間にも、聴衆は移動を続けたのである。私の英語の稚拙さは一因であったかもしれないが、それ以前に、そもそも聴衆は恐ろしいほど忍耐力がなく、移動することが常態であるということをパネルが終わる頃にようやく理解した。


 コメンテーターは、ハプスブルクの近世・近代史を専門にしている先生であった。彼女は、必ずしも自分と専門が近いわけではなく、さらに全員個人で応募したために相互に連関を見出すのが非常に難しい3本の論文を、丁寧に読みこんできていた。そして、できる限りの議論のオーガナイズをしてくださったのである。私の場合は、論文の内容自体は褒められたのだが、はっきり言って質問にはまともに答えることができなかった。返答は無駄に長くなり、司会者に「こういうことも聞かれているんじゃないかしら?」と助け船を出される始末で、思い出すだけでも居心地の悪い気持ちになる。そのあと、フロアに議論が開かれたが、全体に時間がかかっていたために、質疑応答の時間はほとんどとれず、二つ程度の簡単な質問が出されただけで、私に向けられた質問はなかった。そこでも少々寂しい思いをすることになったが、そのままパネルはあっけなく終わり、パネリストはまた非常に簡単な挨拶をお互いに交わして瞬時に解散となった。(あとから分かったが、パネルは自主的につくられていても、ネットで参加者を募ったり、知り合いのつてを通じて探したりするため、お互い知り合いでないことは珍しくなく、こうしたドライさは普通に見られる。)すべての流れが速く、すぐに次のパネルが始まる。そんななか、ビデオ撮影をしていた学生が私に話しかけて、報告に関して二三の質問をしてくれた。私はなんとなくほっとしたような気分になり、一生懸命に答えた。なにもかもが一瞬で過ぎ去ったように感じた。


 自分のパネルが終わるとその日はすっかり疲れ果ててしまったが、翌日以降、ようやく状況が見えるようになってきた。よく知っている研究者がプログラムで次々と目に入り、心を躍らせながら聞きに行く余裕ができた。論文や本を読んでいるだけの研究者が目の前で報告をしていることが非常に嬉しく、ルイーズ・マクレイノルズやスーザン・スミス=ピーターなどには、報告後に名刺を渡して簡単な挨拶をしに行ったりもした。最初に日本に訪れた時からの知り合いであるミハイル・ドルビーロフに再会し、彼の力の入った報告を二度も聞けたのも幸いであった。シベリアの博物館について印象的な報告をした若手の研究者にも声をかけに行った。プログラムは次々と進んでしまうので、じっくりと話す時間などない。しかし一言でも、面白かったですよ、と言ってみたくなるものだ。シンポジウムやワークショップでスラブ研究センターを訪れた外国人とも会話を交わし食事に出かけることもできた。同じパネルの報告者だった院生にもホテル内でばったりと会い、自分がいかにうまく報告できなかったかをこぼすと、彼女は自分が前年にロシアで報告した時のことを話し、「思い出したくもないひどい有様」だったと笑って慰めてくれた。3日目にして、ようやくAAASSの空気が分かってきたように思えた。


 AAASSからは、徹底した市場原理が感じられた。同じ時間帯に200人以上による40以上のパネルが活動している。聴衆はこれらのなかからいくつかを選んで、パネルを渡り歩いているのだ。なかにははじめから聴衆が非常に少数のパネルもあるし、極端な場合ではまったく聴衆のいないパネルすらある。こういう極めて流動的な場で、聴衆を集めてインパクトを与え、印象に残るパネルにするにはどうしたらよいのか。人目を引くパネル・タイトルをつけ、有名な先生をコメンテーターで呼び、有能な同僚を報告者に巻き込む。そして40パネルのなかから選ばれ、一度入った聴衆が他に移らないようにし、質疑応答まで興味を持たせて聞かせる。AAASSはそういったような一種のゲームのようにも見えた。このゲームの推移は、時間帯や裏番組などの状況にもかなり左右されるため、必ずしもパネルの学術的レベルを反映しているというわけでもなく、当たりの年もあれば外れの年もあるといった感じだ。私が聴講したあるパネルでは、聴衆が私ともう一人しかおらず、今年は外れだという様子でパネリストの士気がまったく減退していた。そして、パネル自体も1時間足らずで終わってしまったのである。


 聴衆を集めるという意味では、自分でパネルをオーガナイズすることの利点は大いにある。まとまりのある報告を並べて流れのあるパネルを作ることができるし、そうすることで聞き終わった時に一定の知見が得られるような締まりのある2時間を提供できる。AAASSのゲームに参戦するとは、パネルを自分で組織するようになった時に本当に言えることかもしれない。ただ、常に同じようなメンバーとパネルを組んで、同じような聴衆が聴きに行くことになっているという批判がよく聞かれるのも事実である。こうしたマンネリという欠点を考えると、個人応募にも大いに利点がある。今までは知らなかった近い分野の研究者と知り合う契機を得られるからだ。私のパネルに参加したベイルートの研究者に個人応募で参加した理由を尋ねると、色々な人からの研究のフィードバックが欲しいが、同じ研究テーマの人が非常に少ないので個人応募するようにしている、とのことであった。


 AAASSは、膨大な人数の参加者が巨大な会場の中を常に動き回っているような場なので、参加すること自体のハードルは実はそれほど高くはない。失敗を注視して見守り非難するような根気のある聴衆はいないので、最悪でも何かマイナスになることはないのである。しかし、プラスの効果を得ようとすると、つまり、一定の存在感を見せようとすると、これほど難しい場はない。英語力は思ったよりも高度なものが必要とされる。彼らが非英語圏の学者を排除しているというわけではなく、単純に分かりにくい報告は我慢強く聞いてもらえないからである。もちろん、報告の英語などは経験次第で向上するものであるから、最初の数回はひどい恥をかく覚悟がいるということであろう。高度な研究内容ももちろん必要であるが、この点に関して、日本の研究者が引けをとることはほぼないと思われる。むしろ、その見せ方であろう。あまり浮足立ってもいけないが、謙虚さはとくに美徳ではない。とりわけ、外国から参戦しているような場合、参加自体がイレギュラーなので、存在意義を必要以上に見せなければいけないように思えた。初めて参加した私は、これらのどれも出来ていなかったと思う。正直に言って、ただ途方に暮れていた。おろおろしていた私から見て印象的だったのは、会場でしばしば見られた若手ロシア人研究者の迫力である。私がよく見かけたロシア人はどのパネルでも常に質問をしていた。色々なパネルで質問を出すことは、聴衆でありながら自分の存在を示す一つの武器でもあるからだ。その他にも、英語がそれほど流暢ではなくとも、報告で熱を込めて滔々と話し続けるロシア人も何度か見かけ、彼らにもある種の凄味を感じたのである。発信しなければゼロであり、マイナスがないことは最低限の仕事をしたというより、存在価値がないという意味になる、そんな場である。伝える、分からせる、という迫力が何よりも必要なものであるかもしれない、と思えた。


 最後に、学会の内容的なものに少しだけ触れておこう。私は専門が歴史なので、会場では歴史のパネルを渡り歩いていた。聴衆へのアピールを最大の眼目とするため、パネルには流行が反映しやすい。そう見ると、歴史では圧倒的に文化史が多かった。もはや社会史ですらめったに見かけず、文化史に大きく振れているのである。また大会のテーマがジェンダーであっただけに、当然のことながら、今回はジェンダー論のパネルが非常に多かった。そして、民族・宗教・地域史が劇的に流行している。全般的に言って、オーソドックスな歴史の展開についての議論や時代論などではなく、個別の面白さが強調されていたように見えた。あるパネルで、中央・地方関係という観点から地域史を研究している人たちに対して、コメンテーターが中央・地方関係はもう結論が見えているから論じる必要はない、もっとその地域に焦点をあて、地域文化史に特化した方が良い、と述べていた。これには率直に言って非常に驚いた。


 私の初めてのAAASSへの参加は、それほど成功であったとは思えないが、学ぶところの大きいものであった。参加には資金がかなり必要になるので、恒常的に参加することはなかなか難しいが、いつかリベンジの機会が欲しいと思う。次は、それなりの心構えと、ある種の戦略を用意するぐらいの余裕をもって臨めるように思うのだ。

[Update 09.01.21]




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