ITP International Training Program



ハーヴァード派遣報告


浜 由樹子

(第2期ITPフェロー、派遣先:ハーヴァード大学デイヴィス・センター)[→プロフィール




2009年8月下旬から2010年6月末日まで、ITPフェローとしてハーヴァード大学デイヴィス・センターにて研究活動を行う機会をいただいた。
  私のこの約10ヶ月間は、文字通りこの上ないハーヴァードの研究環境と、アメリカを拠点とする研究者たちとの素晴らしい出会いに恵まれた、極めて充実した時間であった。このような無二の機会を与えてくださったスラブ研究センターに、まずはお礼を申し上げたい。


日本での非常勤の仕事の関係上、私の渡航は8月後半にならざるを得なかった。先方の秋学期の始まりに合わせてのボストン入りだったのは良かったのだが、学生が出入りする時期でもあり、とにかく住居の手配が困難を極めた。事前に下見ができるわけでもなければ、土地勘もない。いくら大学関係者のための不動産サイトがあったとしても、インターネットで1年間の住まいを探すのは本当に不安だ。しかも、ボストンやケンブリッジは、(デフレ前の)東京のど真ん中並みの物価と家賃。大学周辺のアパートに月$1500以下の物件はまず存在しない。タイミングの悪さも相まって、ようやく見付け出したいくつかの物件の交渉もあえなく決裂し、渡航を目前に焦りばかりが募っていった。今後、ITPによる派遣に際して、住居の確保が可能になれば、フェローの心労もかなり軽減されると思う。ちなみに、この時の自分の教訓から、後任の青島さんにバトンタッチする際には、私が滞在しているうちに2人の連携プレーで物件探しをした。(結果については来年のレポートで明らかになることと思う。)


その後様々な偶然を経て、結局私の物件探しは、研究所長(当時)であり、サバディカル中の借り手を探していたティモシー・コルトン先生の一軒家をそのまま賃借するという、予想だにしなかった結果に落ち着いた。
  緑豊かなボストン郊外の閑静な住宅街での単身生活について書いていたら、膨大な滞在記になってしまうし、コルトン家のプライバシーに関わることもある。何より、本レポートの目的からは大分外れてしまうので、ここではただ一点だけ、アメリカでの生活に「慣れる」ということが、私にとっては、広い庭の付いた一軒家のメンテナンス、地域コミュニティとご近所付き合い、コルトン家の愛猫2匹の世話、そして(最大の難関)右側通行の運転、これら全てに「慣れる」ことを意味した、ということを記しておく。それだけでも、最初の1ヶ月が、研究的にはお世辞にも多産だったとは言えなかった理由をお察しいただけることと思う。ただし、この住環境が私にもたらしてくれたものは計り知れなかった。時々帰国される度、一緒に楽しい時間を過ごしたコルトン家の皆さんの友情には、いくら感謝してもしきれない。


さて、生活に慣れることで精一杯だった最初の1ヶ月余りは、主にラウンドテーブルの組織に関する連絡と調整を行っていた。(このラウンドテーブルに関しては、先にアップされたレポートを参照。[→LINK])その他にも、実は日本から持ち越した仕事があり、こちらを終わらせることが先決だった。というのも、単著の校正も済まさずにアメリカに発ってしまった私のせいで、編集者さんがヒヤヒヤされていたに違いなかったからだ。アメリカに来てまで日本語の原稿をいじっていて良いものだろうか、という気持ちはあったが、結果的には、生活にも研究環境にもまだ十分適応していなかった時期の作業としては、事務的なやり取りと慣れた作業という、この2件に集中したのはおそらく良い選択だったと思う。




ようやく、全米有数の蔵書を誇る「ないものは無い」図書館と、効率化が極度に進んだハーヴァードのシステムを使いこなせるようになってきた頃、私は内心、この最高に恵まれた環境でゆっくり次の研究テーマを考えられる、と嬉しくなっていた。「実証研究に埋没しないように」「あくまでアウトプットをしてくるように」と、プログラムの目的についてスラ研からはお達しをいただいていた気がするけれど、下手をするとロシアに史料収集に行くよりも早いそのコレクション(しかも整理されたファイルが開架にズラリと並んでいる)を前に、有頂天になるなという方が無理だ。ところが、その直後、私はインプットなどしている余裕はない状況に陥ることになる。


繁忙期の始まりはいつも唐突なメールであった。ラウンドテーブルの開催にあたって情報交換をしていた研究者から、3週間後のAAASSでピンチヒッターに入って欲しいという依頼を受けた。病気や諸事情によるキャンセルが2人出て、このままではパネルのキャンセルやむ無し、という状況だと。3週間で学会報告の準備は無謀である。しかもAAASSには全体テーマがあり、パネルもそれに沿って組織されている。ただ、無下に断るのも申し訳ないので、手持ちのネタから「こういう話ならできますが、テーマに合わないと思う」と相談したところ、「それでピッタリだよ!」という恐ろしい反応が返ってきて、結局お引き受けすることになったのだった。その後3週間の私の奮闘については、語るまでもない。


デイヴィス・センターの研究支援体制の有り難味をしみじみ実感したのはこの時だ。私は、学会での読み原稿のネイティブチェックを頼みたかったので、自分で謝礼をお支払いするつもりで、誰か学生を紹介してもらえないかと相談した。すると、「研究者と仕事ができるのは学生にとって貴重な経験で、ひいてはそれは大学にとってもメリットだから」と、センターの負担でリサーチ・アシスタントを付けてくれたのである。紹介されてやって来たのは、ロシア語の知識もある「超」が付く程優秀な学生。彼女には、帰国直前までずっと助けてもらい続けた。




どうにかこうにか飛び入りのAAASSを乗り切ったところ、今度はパネルの組織者と、フロアで報告を聞いてくれた研究者から、目下数名で作っている論文集に論文を載せないかというお誘いをいただいた。投稿者は錚々たる面々。出版も決まっている。こんなチャンスは滅多にない、とばかりにお引き受けしたのだが、告げられた締切が非情だった。公的な締切は1月上旬。この時、既に11月も末である。しかも、私に与えられたテーマは、学会での報告内容とはまったく違うものだった。あちこちで流れるクリスマスソングを聴きながら、いつしか街が華やかにライトアップされていくことにも気付かぬ程、必死に机に向かった年末年始だった。


1月、若干の遅れで原稿を提出し、目の前に迫ったラウンドテーブルの最後のコーディネートを詰め、センターの皆さんのおかげでこれを成功裏に終わらせ、今度こそゆっくり本を読むぞと、今年は異常に寒かった東海岸の2月を言い訳に書斎にこもったところ、またも唐突にメールが届く。今度は、AAASSでの報告のことを人づてに聞いたというASNのプログラム委員会からの、大会での討論の依頼だった。時間的には十分な余裕があったので、これはすぐにお引き受けしたのだが、送られてきた3本のペーパーを見て青くなった。まったくバラバラのテーマで、まとめるのは相当の力技だということが一目瞭然だったのだ。しかも、某大物イギリス人研究者のペーパーは、コンストラクティヴィズムの理論についての内容だった。正直に告白してしまうと、私の国際関係論の理論に関する知識は2000年辺りで止まっていた。慌てて図書館に引き篭もり、約10年分のアップデートをしたわけだが、勉強してからもう一度読むと、そのペーパーがいかに優れたものであるかが解り、「間に合って良かった」と安堵のあまりへたりこんだのだった。
(AAASSとASNについては、日本国際政治学会ニュースレター125号「研究の最前線」にも書いたので、参照されたい。[→LINK])




ASNが終わり、気付けば既に4月下旬だった。帰国まで残すところ2ヶ月。やり残したことは山ほどあった。宝の山である図書館はもちろんのこと、主要な英文雑誌の論文をほぼ全て瞬時にPDFで落とせるシステムや、データベースに入るためのハーヴァードIDが切れるまで2ヶ月。引越しで忙しくなる前に、7月のICCEESに向けた準備も終わらせておかなければならないし、ハーヴァードが潤沢な資金を投じて導入したGISという地図作成ソフトの講習も受けたかった。さらに、某英文誌の編集者から、特集論文を投稿しないかという打診もきていた。家のトラブルが相次いだり、自分が植物アレルギーを起こしてクリニックに通ったり、というバタバタもあり、とにかく慌しく過ごすうちに、あっという間に残りの時間は過ぎていった。


留学に10ヶ月間が短いことは分かっていた。それにしても、アウトプットに忙しく、あれだけの恵まれた環境下にありながら、インプットがほとんどできなかったことが悔やまれる。とはいえ、ビッグネームが次々と来るセンターのセミナーからは定期的に刺激を受けたし、センターではちょっとした立ち話でも最新の研究動向についての情報交換ができた。その立ち話が新たなシンポジウム企画につながったことも実際にあったし、ジョン・ルドン氏やリチャード・パイプス氏からペーパーへのコメントをいただく機会にも恵まれた。とてもここに書ききれるものではない沢山の人たちとの出会いは、今、間違いなく私の財産であり、10ヶ月前の自分には想像もできなかった世界の広がりをもたらしてくれたと感じている。


最後に、人との出会いを通じて、短い期間で様々なチャンスに恵まれた理由を考えてみると、私の専門とするテーマがたまたまここ数年ホット・イッシューだったという偶然もあるし、博士論文を仕上げた直後で手持ちのネタがあったというタイミングもある。その上で、ITPの目的にかなった成果を少しでもあげることができたとすれば、降って湧いたような機会にも対応する姿勢を示すこと、(能力は別としても)少なくとも対応する意思があることを伝えることが重要だったように思う。そのことによって、窮地にあっても、私は必要な助言や助力を惜しみなく与えていただいたのだと思う。 繰り返しになるが、出会いに恵まれた本当に素晴らしい10ヶ月間であった。ここに心からの感謝を記したい。


(Update:2010.10.25)





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