スラブ研究センターニュース 季刊2006年夏号 No.106 index

選挙監視員の長い一日:2006年ウクライナ最高会議選挙監視活動

藤森信吉(COE共同研究員)

 

2004年から2005年にかけて、私を含むウクライナ研究者達はちょっとしたバブル景気を味わった。世界を驚愕させたオレンジ革命のおかげで、学 会のみならずメディアに駆り出されたのである。ウクライナ国民には気の毒だが、ウクライナが動揺することで最も得をしたのは、日陰者たるウクライナ研究者 だった。だが、ひとたび情勢が安定するとこの手の依頼はいつしか減り、両親が期待する私のテレビ出演もひとまず夢と終わった。そんな停滞ムードをティモ シェンコ内閣の瓦解(2005.9)と天然ガス戦争(2005.12)が吹き飛ばしてくれた。特にロシア天然ガスの値上げインパクトは強烈であり、ユーシ チェンコ政権はヨロヨロ、逆にオレンジ革命で悪役に甘んじたヤヌコヴィッチ率いる地域党が支持を盛り返してきた。このような情勢の中、ウクライナ最高会議 選挙が行われたのである。


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フレシャチク通りの宣伝テントの列
キエフに立つ

2006年3月22日、欧州安全保障協力機構 (OSCE)が組織した国際選挙監視団に参加するため、私は1年3ヵ月ぶりにキエフに降り立った。前回の大統領選挙時、OSCEは千人規模の監視員を処理 しきれず大混乱を来した。それに懲りた私はキエフ入りを早め、またOSCE手配を断って馴染み業者にアパート手配と空港送迎を頼むことにした。久しぶりに 再会したアパート業者は「ガソリンのみならず、食肉も何もかも物価が上がった。それからオレンジ革命後みんな言いたい放題になって何でも裁判沙汰」と社会 情勢の変化を教えくれた。上がったのはガソリンや肉だけではない。彼のアパート代も右肩上がりだ。2000年に借りたときは一泊15ドル、それが今や45 ドル(東横インと同価格!)である。それでも彼の商売は繁盛しているようで、運転中、携帯にひっきりなしに商談が舞い込んでいた。

アパートでテレビを付けると与野党問わず各党首があちこちのテレビ番組に出演していた。どうやらメディア統制はかかっていないようだ。さらに政党スポット CMの嵐。共産党はおろか、支持率1%以下のプーチン政策党(Party of Putin's Policy)なる泡沫政党までスポットを打っている。翌朝、市中心部でさらに驚かされた。街を歩くと、各政党のカラーで彩られた宣伝テントが否応なしに 目に飛び込んでくるのだ。オレンジ革命の舞台となった独立広場は言うにおよばず、フレシャチク通り、地下鉄駅の出口、バス停の前・・・中心部のあらゆる場 所にテントが林立し、パンフレット、機関誌や小さな旗が配布されていた。こうしたキャンペーン戦略は、ユーシチェンコ陣営がオレンジ革命時に使った物量作 戦そのものだ。違う点は、今回は、どの陣営もバイトによる動員であるということである。義侠心に駆られた若者をタダで動員できた「革命」の熱気はない。仕 事熱心なバイトは、非有権者の私を大歓迎し、選挙パンフを何部もくれた。とにかく、どの政党もすさまじいばかりの資金投入である。ある試算によれば、この 選挙に地域党は8915.3万ドル、「我らのウクライナ」は7988.2万ドル、ティモシェンコ・ブロックは6299.9万ドルをそれぞれ費やしたという (Den', 30 March 2006)。投資分は政治で回収するつもりなのだろうか?

選挙監視

今回、私はウクライナの西北端、ヴォリン州に派遣された。ヴォリン州は、大戦前はポーランド領であり、後に住民交換やUPA暗躍の舞台となった地域 である。2004年の大統領選挙では、ユーシチェンコが90%を獲得、また前回の2002年議会選挙でもユーシチェンコ率いる「我らのウクライナ」が比例 区で58%を得票する等、いわゆる民族主義が強い州とされている。投票日の前々日、ヴォリン州担当の監視員はキエフからチャーター高速バスに乗せられ、7 時間経て州都ルーツクに到着、そこで現地リクルートされた運転手と通訳を紹介された。通常、1チームは運転手、通訳、そして2名の国際監視員の4名から成 り、一台の自動車で投票所間を移動し選挙監視活動を行う。私とコンビを組む国際監視員は、アメリカ国務省のウクライナ専門キャリア外交官M.M.氏で、 「アメリカ人」イメージにそぐわず、表情を変えずに英語・ロシア語を淡々としゃべる人物である。運転手は普段は地元紙で働く人物、通訳はルーツク国立大学 の学生である。そして車は・・・・何とジグリ。余計な説明をすると、ジグリといってもロシア車ではなく、地元「ルーツク自動車工場」のライセンス生産であ る。そのジグリを見てアメリカ外交官は「これで投票所をまわるのか・・・」と表情を変えずに呟いた。我々の担当は、ヴォリン州の中の国境沿い地域で、幹線 道路は舗装が行き届き、通関待ちのトラックの列、通関官吏の家とおぼしき奢侈な家並みが目に付いたが、それ以外は典型的な地方の農村風景が広がっていた。


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ジグリ、狭い・・・

今回は定例選挙ということで、国(ウクライナ最高会議)以外の各自治体レベルの議会選挙も同時に行われた。例えばルーツク市では、ウクライナ最高会議、 ヴォリン州議会、ルーツク市議会、そしてルーツク市長の4つの選挙が同時に行われた。そのため、大統領選挙とは異なり、投票用紙は選挙ごとに異なる色の投 票用紙が用いられ、投票時間も7時~22時に設定された。


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テーブル上には5種の票が見える

また、どのレベルの議会選挙においても小選挙区が廃止され、比例代表制のみとなった(首長選挙以外は全て比例代表制で選出)。

投票日当日、我々は開場状況をチェックするため6時30分に最初の投票所に到着した。長い一日の始まりである。最初の投票所では選挙管理委員が大量にある 投票用紙に署名するのに忙殺されており、そのために開場が30分遅れたが、これを除けばどの投票所でも混乱は見られなかった。事前に官報等による制度変 更、投票の仕方が周知されていたようであった。しかし、一人4票(地域によっては5票)も投票するため、ピーク時の昼には案の定、長蛇の列となった。全て の投票用紙が一度に渡されるため、記入ブースが長期に占領される。また、投票用紙は「分別」投票されず、投票箱にまとめて投じられる。多色の投票用紙で満 たされたシースルー箱は、31アイスクリームのロリポップキャンディのように大変カラフルだが、開票作業が極めて煩雑になる。

3月末のヴォリンは雪解けシーズンであちこち水たまりができ、夕刻には霧も出た。しかし、このような悪天候、悪路をものともせず、我々はジグリで精力的に 投票所を回った。結局、15余りの投票所を監視したが、問題は見られなかった。ある村役場を利用した投票所では、現職村長が何かと投票所に顔を出し、影響 力を発揮せんとしていた光景に出会った。有権者もその場を利用して陳情に及んでいた。しかし、我々の監視対象は国政レベルのみであるため、こうした行為は 問題とはされない。

選挙監視の最大の山場は、開票作業である。22時の閉場時点で選挙管理委員も我々も疲労困憊であったがそこからがさらに長かった。まず、投票箱の封が解か れ、最高会議選挙の票のみが取り出され、残りは投票箱に再び戻される。それから最高会議の投票用紙が数えられ、さらに各政党に分けられていく。しかも規則 に従い一票一票、声を出してカウントしていくため、有権者400人の投票所にも関わらず膨大な時間がかかった。プーチン政策党に票が入ったときは委員から 笑いが起きたが、それ以外は単調なカウント作業が続き、ウクライナ語がとてつもなく耳障りな言語に聞こえ始めた。深夜3時、我々はようやく最高会議の開票 を見届けると、投票結果が公式に記されたプロトコールの写しを貰い、選挙管理委員側に暇を告げホテルに帰還した。ざっと20時間ぶっ通しで選挙監視に従事 した計算になる。我々が去った後、投票所ではティーブレイクが入り、さらに州議会、村議会と開票作業が続けられたようだが、果たして終了まで何日かかるの か想像する程の余裕は我々になかった。OSCEはこのような開票作業の長期化を想定しており、我々は有権者の多い投票所を避けるよう指示を受け、また最高 会議の開票終了までとどまることも強制されていなかった。実際に多くのチームが開票途中で体力の限界を感じギブアップしてホテルに戻ったらしい。

選挙結果

投票日の翌々日、我々はキエフに向け再びバスで戻った。テレビの開票速報でヤヌコヴィッチ率いる地域党の優勢が伝えられたが、大統領選挙の決選投票 時と異なり、監視員や通訳達に特段に反応は見られなかった。

選挙結果

得票率
獲得議席
地域党 32.14%
186
ユリア・ティモシェンコ・ブロック 22.29%
129
我らのウクライナ
13.95%
81
社会党  
5.69%
33
共産党    
3.66%
21
*3%阻止条項を越えた政党・ブロックのみ
(出所) ウクライナ中央選挙管理委員会HP  URL  http://www.cvk.gov.ua

ヤヌコヴィッチ率いる地域党が得票率30%台を記録し(これは、98年の共産党や2002年の我らのウクライナを遙かに上回る数字である)、これにユーシ チェンコと袂を分かったティモシェンコのブロックが続き、ユーシチェンコ大統領与党「我らのウクライナ」は3位に沈んだ。これでウクライナ独立後に行われ た4度の議会選挙全てで大統領勢力は勝つことができなかったことになる。

これまで、ウクライナの民主主義は、かろうじてシュンペーター流の定義をパスするにすぎなった。反対勢力への攻撃、報道統制が顕著であり、政治学者達は 「不自由な民主主義」や「競争的権威主義」と名付けて、自らのタームの正当性を競ってきた。今回の選挙では、大統領選第三回投票の時と同様に、行政資源の 行使やメディア統制は影を潜め、OSCEからも「民主的選挙の国際基準に合致するもの」と高い評価を受けた。どうやらウクライナは、括弧や長い形容詞が付 く民主主義国家から卒業しつつあるようだ。しかし、このことは逆に世間や学界のウクライナに対する関心を減じさせることになるかもしれない。私のテレビ出 演の可能性も限りなく低くなりそうだ。


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ホテ ルレストランの美人ウェイトレス

ところで、本エッセイにウ クライナ女性が全く登場しないことに疑問をもたれる方がいるかもしれない。実はヴォリン州の通訳陣の中で、我々チームの通訳だけ 男性だったのである。彼の通訳としての能力は優秀であったが、それではエッセイのネタにならない。「よりによって、我々だけが男性通訳か」とアメリカ外交 官が表情を全く変えずに愚痴ったのは言うまでもない。書き遅れたが彼も私同様、独身である。

*エッセイは、筆者の個人的見解であり、日本国外務省、OSCEの意見を代表するものではない。

** 本選挙監視団への参加は、日本外務省およびスラブ研究センター21世紀COEプログラム「スラブ・ユーラシア学の構築」の援助により実現した。改めて感謝 申し上げたい。

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