スラブ研究センターニュース 季刊 2009 年秋号 No.119 index

研究の最前線


ポール・ウェクスラー名誉教授の特別講演

去る8月10日(月)、テル・アビブ大学言語学科(イスラエル)のポール・ウェクスラー教授による言語学の講演会が開かれました。

講演するウェクスラー氏
講演するウェクスラー氏

ウェクスラー教授は、センターともご縁のある故ジョージ・シェヴェロフ教授の高弟で、「純粋主義と言語」(インディアナ、1974年)や現在編集長を務め る「スラヴ語通時音韻論」シリーズの1冊として刊行された「ベラルーシ語通時音韻論」(ハイデルベルク、1977年)といったスラヴ語研究で著名ですが、 「イディッシュ語-15番目のスラヴ語:ジュデオ・ソルブ語からドイツ語への部分的変容に関する研究」(ベルリン、1991年)、「アシュケナージ・ユダ ヤ人:ユダヤのアイデンティティを求めたスラヴ・チュルク人」(オハイオ、1993年)などの言語接触の視点によるイディッシュ語研究でも多くの業績を挙 げておられます。

西ゲルマン語族に属すると言われることが多いイディッシュ語が、実はスラヴ語として扱われるべき言語であるという教授の大胆な説が、バーナード・コム リー、エドワード・スタンキェビッチ、トーマス・シュトルツといった著名な言語学者を巻き込んだ論争になったことは有名で、学界ではこの説が支持を集めて いるとは言えませんが、この説によってウェクスラー教授は言語学者のみならず、歴史家、思想家やジャーナリストなどにもよく知られるようになりました。近 年ウェクスラー教授は新しい資料で補い、時に訂正しながら、ますます自説を強化されているようです。 今回の特別講演もその趣旨に沿っており、講演題目は「スラヴ語派への新候補となる3言語:イディッシュ語、ヘブライ語、エスペラント語。そしてスラヴ語派 から外されるべき言語:古代教会スラヴ語」という挑戦的なものでした。この「挑戦状」に応えるべく、コメンテーターには外国人研究員のアンドリイ・ダニレ ンコ氏をお迎えしました。

右:ダニレンコ氏、中:ウェクスラー教授、
左:野町
右:ダニレンコ氏、中:ウェクスラー教授、 左:野町

講演では、言語接触の結果として、文法構造は大きく変わらないが基礎語彙を含めた非常に多くの語彙が別の言語の語彙に置き換わる「再語彙化 (relexfication)」という概念を用い、その裏づけとしてユダヤ人の移動の歴史を踏まえながら、イディッシュ語がスラヴ語であることを論じら れました。

ウェクスラー教授は専門が異なる方の出席を前提に、非常に丁寧にかつ平易に説明してくださったこともあり、講演会は充実したものとなりましたが、残念なが らやや時間不足でもありました。「古代教会スラヴ語」をスラヴ語から外すべきという点には全く触れる時間が無かったため、幾分「迎撃体制」にあった私とし ましては、やや「不発」の感が残りました。

私はイディッシュ語に関する知識が乏しいので、教授の説の妥当性がどれだけのものか正直わかりかねますが、講演会に準備して望んだダニレンコ氏の鋭い質問 にも全て反駁されるなど、ウェクスラー教授が展開される持論は興味深いものであり、少なくとも講演会の間は、聴衆の多くを教授の世界に引き込んでいたこと は間違いありません。

講演会の後でおこなわれた懇親会において、ウェクスラー教授は「今回の話の続きをしに来年も来札する」と約束されたので、次回の講演会も期待されるところ です。

[野町]

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