スラブ研究センターニュース 季刊 2010 年春号 No.121 index

研究の最前線


ロバート・グリーンバーグ教授の来訪(GCOE・SRC 特別セミナー他)

去る2 月18 日(木)、言語学者 ロバート・グリーンバーグ教授 (イェール大学/ ニューヨーク市立 大学ハンター・カレッジ)による 特別講演会がおこなわれました。 グリーンバーグ教授は、エドワー ド・スタンキェヴィッチ教授、ア レクサンダー・シェンカー教授ら の下で研鑽を積んだスラヴ語学者 で、現在のアメリカの中堅世代の スラヴ語学者の中で最も優れた学 者の1 人です。グリーンバーグ教 授は、キャリアの初期には主に文 法研究で成果を上げられ、バルカ ン半島諸言語の「呼びかけの形」(例えば、呼格形の意味、動詞命令形など)を、標準語およ び豊富な方言資料をもとに分析した The Balkan Appellative(LINCOM, 1996)は高く評価され、 2005 年には第2 版も出版されています。

講演するグリーンバーグ教授
講演するグリーンバーグ教授

教授が最も有名になったのは、かつてのセルビア・クロアチア語の崩壊と分化に関する 社会言語学的研究である Language and Identity in the Balkans(Oxford, 2004)であり、本書 は2005 年度のAATSEEL(American Association of Teachers of Slavic and East European Language)のスラヴ言語学最優秀書籍に選ばれました。翌2006 年には本書のクロアチア語 訳が出版されたのですが、それに対しダリボル・ブロゾヴィッチ、ラドスラヴ・カティチッ チ、イヴォ・プラニコヴィッチといったクロアチア言語学界の重鎮による円卓会議が開かれ、 彼らはこぞってグリーンバーグ教授を批判し、その結果の(反)論集を出版するという、半 ば事件が起こりました。尚、Acta Slavica Iaponica の27 号(2009 年)にはプレドラグ・ピペ ル教授(ベオグラード大学)の本書に対する書評が掲載されておりますので、興味のある方 はご一読下さい。

今回の特別講演は“The Redrawing of Ethnic and Linguistic Borders in the Balkans: Implications for Serbia, Macedonia, and Montenegro” と題され、旧ユーゴスラヴィア崩壊に よって生じた11 もの新たな国境、それを背景とした新しい社会言語学的な境界の意味と各国 の言語政策について論じられました。グリーンバーグ教授によると、旧ユーゴスラヴィアの 国境の引きなおしは、政治的な安定化を生み出すものではなく、引きなおしによって言語的 マジョリティーとマイノリティーが創出され、それにより言語に対する権利の要求が各地で 生じ不安定になることについて、旧ユーゴスラ ヴィア、隣接するアルバニア、ギリシャとの関係 などを踏まえて分析がなされました。

現在GCOE プログラムで進められている境界 研究に相応しい研究テーマであり、講演後の討論 では、言語学、政治学、社会学に関する質問やコ メントはもちろんのこと、話題は言語の政治的な 分化と境界の引きなおしが引き起こす経済的な問 題にまで及び、地域研究における言語研究の意義、 同時に学際的な研究の必要性が改めて示された大 変興味深い講演会となりました。講演会の内容 は、昨年12 月のGCOE シンポジウムで来日した トマシュ・カムセラ准教授(ダブリン大学)と野 町(センター)の共同編集による論文集 Borders of Identity and Language in Modern Central Europe (仮称)に掲載される予定です。

東京での観光、ご子息のマイケル君と
東京での観光、ご子息のマイケル君と

札幌での講演会に続いて、グリーンバーグ教授 は東京でも講演されました。これはGCOE と日 本スラヴィスト協会との共催で、"Directions and Prospects for Slavic Studies in a Changing Political Landscape: Some Observations from an American Slavist" という題目でした。規模 や条件に違いはありますが、それでも日本と同じ非スラヴ圏であるアメリカのスラヴ語研究 の現状の紹介は、日本のスラヴ語研究のあり方を考える上でとても参考になるものでした。 この講演では、グリーンバーグ教授からアメリカの「スラヴ研究」と「スラヴ語学研究」の 関係についても伺うことが出来ました。アメリカの「スラヴ研究」は、社会科学を中心に発 達してきたものですから、文献学などの人文学研究から発展してきたヨーロッパの伝統的な 「スラヴ学」とは歴史も背景も異なります。このような違いも手伝い、スラヴ地域研究誌の 最高峰の1 つとされる Slavic Review では、純粋なスラヴ語学の論文が掲載されることは無い ようです。Slavic Review にこれまで掲載された言語関係の論文は、政治学、歴史学、社会学 的な側面を持つものに限られていますが、その1 つにグリーンバーグ教授の論文"Language Politics in the Federal Republic of Yugoslavia: The Crisis over the Future of Serbian"(第59 巻3 号、2000 年)があります。この論文について伺ったところ、Slavic Review は、掲載に至 るまでのプロセスが一筋縄ではいかず、ディシプリンの基盤が異なる査読者を納得させるの は大変な困難があり、一度は投稿を取り下げたこともあったとのことです。それでもSlavic Review に投稿したのは、自身のキャリアのためだけではなく、「スラヴ語研究」に対する良 心と責任とのことでした。グリーンバーグ教授が「アメリカのスラヴ語研究は、現在必ずし も活発とは言えないが、スラヴ語研究もスラヴ研究の一部をなす重要な分野であり、その貢 献と意義は常に示す必要がある」と力強く言われたのが大変印象に残りました。

[野町]

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