スラブ研究センターニュース 季刊 2010 年春号 No.121index

日本人が喉歌について私に再び「気づかせて」 くれたこと

マリーナ・モングーシュ(国立民族学博物館外来研究員)

 

2007 年、客員教授としてスラブ研究センターに3 ヵ月過ごすことができるという幸運を手 にすることができた。この滞在はすべての面で非常に成果のあるものであり、多くの知見を 得られたものであった。ロシアに帰国するに当たり、多くをやり遂げたという気持ちと、あっ という間に終わってしまったという残念な気持ちが共存した。

成田に到着したが、数時間到着が遅れたため、ホテルをあてがわれた。その日は小雨が降っ ていた。ホテルの部屋で雨が窓ガラスで気まぐれに形を変えて流れてゆくのを見ていた。突然、 「私は日本に帰ってくる」という考えがひらめいた。文字通り「そうなるのだ」と考えが心の 中で確信にかわっていくのを感じた。我々ドゥバ人にとって、雨は良いことが起こる兆候で あり、雨のざわめきの中で起こる考えは現実と縁のないものではないと考えられている。

予感は裏切らなかった。こうして私はまた大好きな日本にいる、今回は大阪の民族学博物 館に。関西空港に着陸したときも小雨だった。まるで去った時の雨が降り続けていたかのよ うに。民博の小長谷有紀教授は数日後に女性喉歌アンサンブル「トゥバクィズィ(トゥバの 娘たち)」のコンサートがあると教えてくれた。実際、同郷人の写真が載った広告がいたると ころに貼られていた。

国立民族学博物館での「トゥバクィズィ」の公演
国立民族学博物館での「トゥバクィズィ」の公演

アジア諸民族の文化を研究する 人類学者として私は喉歌を次のよ うに考えている。音楽の特殊なジャ ンルとして、喉歌は中央アジアの 文化歴史的な領域の中のサヤン= アルタイ山脈地域にいる数少ない 人々、トヴァ人、ハカス人、アル タイ人、モンゴル人といった人々、 地域的にはこれらの諸民族の場所 を超えたところにいるバシキー ル人、唱法は初期的な段階にとど まっているもののヤクート人やブ リヤート人といった人々の間に広 まっている。しかしこの中でトヴァ 人だけが多様で豊かなスタイルを有し、精神文化とも密接かつ有機的に結びついて、最も完 全な形で伝統を保持している。科学的な研究対象として喉歌、ホーメイ(ホーミーともいう) はなにより発声が独特で独自であることから注目を集めてきた。ホーメイジ(ホーメイ歌手) は歌う時に同時に二つの音を出し、一つの音は聴く人に何か楽器が演奏されているように聞 こえる、実際は人間の咽頭から出ている音である。

伝統的にホーメイは男性の歌うものと考えられ、男性の大胆さやよき男の精神の象徴であっ た。牧民、馬飼い、トナカイ飼い、猟師、独身者、女たらしの歌とよばれるものが同じジャ ンルに属する。状況により、イギル(二弦の胡弓のような楽器)、ショール(たて笛)、ドプシュー ル(二弦あるいは三弦撥弦楽器)、ブザーンチゥ(四弦の擦弦楽器)、ホムス(口琴)伴奏つ きで演奏されることもあるし、伴奏がないときもある。

トヴァ人は、喉歌のスタイルが1、2 しかないほかの民族と違い8 つの唱法がある ホーメ イ(高い音のでる喉歌)、カルグラー(低音の喉歌)、スグット(口笛を語源とする、高い音 のでる喉歌)、ボルバン (喉歌をトリルのように揺らす)、エゼンギ(喉歌をギャロップのよ うに揺らす)、フンザト(仏教寺院のリードを取る僧侶風の歌唱法)、ホブ・カルグラージ(草 原の叫びと呼ばれる喉を緊張させ高い音を出す歌唱法)と ソグ・カルグラージ(合唱あるい は対話的な歌唱法)

しかしのちにホーメイは大衆のすべての階層が使うことができる世俗的な芸能となった。 現在、そのような状況になっている。また伝統的に男性の芸能であったが、予期せぬことに「女 性の顔」も持つようになった。1998 年、最初の女性アンサンブル「トゥバクィズィ」が結成 された。その登場はフナシタルオール・オオルジャク(1932-1993)という有名な喉歌歌手と 結びついている。女性の喉歌アンサンブルを作るというアイディアは彼が出したものである。 彼は発声方法からレパートリーまで未来のホーミー歌手の相談役であった。

1998 年トヴァの首都クズル市で行われた「ホーメイ」の国際シンポジウムが「トゥバクィ ズィ」アンサンブルのデビューの場でありトヴァの音楽シーンにおけるセンセーションとなっ た。女性ホーミー歌手たちの最初の公共の場でのコンサートはプロの音楽家や一連の愛好家 の間で非常に相反した反応が見られた。あるものは聴きほれ、別のものは驚き憤慨し、また あるものは女性歌手のホーメイをまったく受け入れなかった。しかし、時がたつにつれて、 アンサンブルは実力があることを証明した。今日「トゥバクィズィ」はロシアや海外で男性 の「喉の猛者たち」の技に劣らぬ成功を収めた。批評家たちのみとめるところによれば、ア ンサンブルはレパートリーの独自性や声の独特さ、そしておそらく高い芸術的な潜在性を持 つ点で違っているという。

楽屋での出会い
楽屋での出会い

こうして、「トゥバクィズィ」を 初めて、それも日本で聴くことに なった、というのもトヴァでは様々 な理由で彼らのパフォーマンスを 見ることはできなかった。コン サートは小長谷有紀教授と音楽家 巻上公一によって組織されたもの であった。正直なところ不安であっ た。なにしろ私の同郷人はステー ジで日本人には全く分からないト ヴァ語で歌ったのだから。 日本の 人々が私たちの喉歌を受け入れる とは思わなかった。見てみるとコー ルに座っている大部分の人が目を つぶったままコンサートを聴いている。最初、残念、この歌がわからないのだと思ったが、 後で彼らが拍手しているのを見て彼らにとって親しみのあるものなのだと理解した。

小長谷有紀教授と巻上公一さんは強い熱意をもってコンサートを組織し、アンサンブルの コンサートに温かく心のこもったコメントをしてくれたので、私にとりついていた不安はど こかへ行ってしまった。また、喉歌をまったく違う形で理解できるようになった。トヴァで 喉歌が私にとって普通のものだとすれば、ここでは喉歌がまさに人々に呪文をかけているの だと。女性たちは素晴らしい声で歌い、その声は虹の色のように注がれるのだと。ホールは 敏感に彼女らの歌声に反応していた。やはり現代芸術には言葉の壁はないのだ。

コンサートの後、小長谷先生は満足した顔で同郷の彼女たちと話す機会を与えてくれた。 私が民博の外来研究員としていると知り、彼女たちはおどろいていた。私にとっては日本の ホーミー歌手の話を彼女たちから聞けたのが興味深かった。彼女たちの日本でのプロデュー サーの巻上公一氏は、日本にトゥバの喉歌を広めることに大変貢献した人である。彼は日本 トゥバ「ホーメイジ(ホーメイ歌手)」協会を設立している。輝かしい組織者である巻上氏は 頻繁にトゥバのアーチストを日本に招いてコンサートツアーなどを開催し、定期的に「ホー メイ」コンクールを催している。変わらず彼をサポートしているのは彼同様に喉歌が大好き な妻のアヤコさんである。彼らが一緒に行った活動のおかげで多くの日本人がトゥバの音楽 文化を知ることができたのである。

また、巻上公一自身もトゥバ人に負けぬ喉歌を披露する。日本には彼らの弟子もおり、喉 歌を教えている。最近は女性も多くおり、しばしば男性よりもうまく習得しているとのこと。

等々力政彦氏も有名な喉歌歌手である。有名な音楽ユニット「タルバガン(モンゴルのマー モット)」を同じく喉歌歌手の嵯峨治彦氏と結成した。彼らのデュオは日本でもツアーを成功 させ、海外でも国際音楽コンクールやフェスティバルで精力的に活動している。また、彼ら はアルバムをいくつか発表している。等々力氏は「トゥバ友の会」というサイトも運営して いる。彼のところにはトゥバ音楽好きが集まる。1998 年彼らのユニット「タルバガン」はク ズルで行われた「ホーメイ」コンクールで第2 位となったことは外国人音楽家がトゥバの名 人たちと極めて難しい音楽のジャンルで肩を並べることができることの証明である。

テラダ・マオは劣らず有名な喉歌歌手である。東大で日本語、日本文学を学んだ彼女は巻 上公一をはじめとした日本の喉歌歌手とともに1998 年トゥバに最初を訪れた。この旅行が若 い日本女性のその後の運命をほぼ決めた。しばらくして彼女は大好きなトゥバに戻り、現在、 喉歌を学んでいる。

「トゥバクィズィ」アンサンブルは日本でのツァーを成功裏に行っている時、テラダ・マオは その名人芸でトゥバの観客を驚かせていた。彼女は「ホーメイ」コンクールで2004 年と2008 年と2 度「観客共感賞」を授与されている。2004 年、アルタイ共和国の語り部国際コンクール の喉歌部門でも第二位となった。2007年には喉歌のカルグラー部門で優秀賞を授与されている。

民博でのトゥバと日本の喉歌歌手たちとの出会いは大きな出来事であった。ホーメイは私 にとって今までは普通のものだったが、突然、まったく違う世界を見せてくれた。今日喉歌 は民族的なものではなく、国際的なものなのだと目に見える形で納得させられた。

(ロシア語より荒井幸康訳)
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