スラブ研究センターニュース 季刊 2010 年春号 No.121index

「第17 回バルカン・南スラヴ学会」及び「アク セント論特別講義(?)」に参加して

野町素己(センター)

 

4 月15 日から18 日まで、アメリカのオハイオ州立大学にて上記の国際学会が開催され た。この学会はシカゴ大学の言語学者を中心に1978 年に創設されたもので、これまで2 年お きにアメリカ各地で行われている。この学会に特徴的なのは、研究報告が主に言語学、文学、 フォークロア研究、文化研究といった分野に限定されており、なおかつ言語学が報告の大半 を占めていることである。また言語学と一口にいっても、古典的な文献学的研究から、生成 文法や認知文法論に基づく研究、コンピューターを駆使した方言学や社会言語学など多様な 分野の研究報告が行われていることも指摘できよう。報告者の層はというと実に幅広い。駆 け出しの大学院生から、ヘルムト・シャレル(マールブルク大学)やヴィクター・フリードマ ン(シカゴ大学)、ブライアン・ジョセフ(オハイオ州立大学)、イリーナ・セダコワ(ロシア 科学アカデミー)といったバルカン言語研究の大家までもが常連である。学会の規模は決して 大きくないが、4 日間主に南スラヴ 語研究に関する報告を聞くというこ とは、日本ではまずあり得ない経験 であり、また学会の規模も手伝って、 さまざまな研究者と比較的気軽に意 見交換ができたため、私にとっては とても心地よいものであった。

今年度のパネル・セッションは、 「言語の借用と影響I・II」、「統語論」、 「形態論」、「言語接触に見る意味論 と語用論」、「言語態度と言語政策」、 「言語分析の手段と材料」、「動詞意 味論」、「『バイ・ガニョ』の新翻訳 について」、「アルバニア言語学」、 「ダイクシス」の合計11 パネルであった。このうち「アルバニア言語学」は、Skype を使用 しコソヴォからの中継による報告であった。詳しい学会のプログラムは、こちらのサイトを 参照されたい。

グリーンバーグ教授、スタンキェヴィッチ教授、筆者
グリーンバーグ教授(左)、スタンキェヴィッチ教授(中)、筆者(右)

また、この学会で特筆すべきは、セルビア・クロアチア語研究で大きな功績を残したケン ネス・ネイラー(1937-1992)を記念した基調講演が組織されることである。本年度はバルカ ン言語を含めたインド・ヨーロッパ諸語研究で幅広い業績を持つエリック・ハンプ(シカゴ 大学名誉教授)が講演する予定だったが、前日に入院されたため、上述ヴィクター・フリー ドマンとブライアン・ジョセフが同教授の貢献について論じるものに変更された。

全体を通して、特に印象に残ったのは、アメリカの若手研究者が非常に野心的ということ である。南スラヴ語圏、特にバルカン半島の複雑な言語状況が研究にも反映され、非スラヴ 系の若手研究者であっても、この地域の複数の言語を研究対象としていることが少なくない。 バルカン半島の言語研究では、多言語を同時に扱うことが避けがたいのではあるが、実際に それらを習得し、研究を遂行するのには大変な困難が伴う。しかし、ただ野心的なだけでは なく、アメリカのスラヴ語研究にはこれを支える人的・物的環境が実際にあるわけだ。そし てこのような学会を通じて、国内外の年長者から建設的な指摘がなされるのは大変素晴らし いことである。このご時勢難しいとはいえ、日本におけるスラヴ語教育・研究環境のいっそ うの拡充の必要性を痛感させられた。

尚、多少宣伝になるが、スラブ研究センターでは、「言語と境界」、「言語と社会」、「言語接 触」などをキーワードに、南スラヴ・バルカン地域研究にも力を入れ始めており、2 月に来 日したロバート・グリーンバーグに続き、現在のところ6 月にはヨウコ・リンドシュテット (ヘルシンキ大学)、10 月にはヴィクター・フリードマン、2011 年6 月にはブライアン・ジョ セフ各氏が来日し、札幌、東京他で講演会がそれぞれ数回ずつ予定されている。このような 機会に、当該分野におけるさらなる学術的交流と研究・教育活動の活発化が期待される。

さて、今回の訪米の主な目的は学会参加であったが、上述のグリーンバーグ教授からのお 誘いもあり学会後に、イェール大学、コロンビア大学などを訪問し、数多くの研究者と面会 する機会を得た。それぞれ印象深かったのだが、特に印象に残ったのはエドワード・スタン キェヴィッチ教授(イェール大学名誉教授)との面会である。スタンキェヴィッチ教授はロ マン・ヤーコブソンの弟子で、その功績はスラヴ語学、一般言語学のみならず詩学、文学研 究まで多岐にわたるが、中でも教授のスラヴ語アクセント研究は著名であり、百科事典的な 「スラヴ諸語のアクセントパターン」(スタンフォード大学出版、1993 年)はその代表作と言っ てよく、私も留学時に、授業の予習・復習でしばしば参照した本である。

スロヴェニア語のアクセントについて熱心
に語る教授(左)と、圧倒され気味な筆者
スロヴェニア語のアクセントについて熱心 に語る教授(左)と、圧倒され気味な筆者

今回はそのスタンキェヴィッチ教授が自宅に招 いてくださった。現在教授は90 歳だが大変お元 気で、現在も研究活動に勤しんでおられる。私が お邪魔したときも、「言語と感情」に関する新し い著作を執筆中であり、お宅に入るや否やスワヒ リ語の音声について熱心に語られた。

スタンキェヴィッチ教授は、1971 年に東京言 語研究所の招きで来日されたことがあり、そのと きの思い出を話された。特に故・服部四郎教授が 家に招待してくださったこと、服部先生がいかに 紳士であり、それに感銘をうけたかという話題で あった。続いてヤーコブソンの思い出やチョムス キー批判を一通りされたあと、今回の私の学会報 告のテーマを聞かれ、それがスロヴェニア語に関 するものであることを聞くや否や、「スロヴェニ ア語を話してみなさい」とおっしゃり、私がスロ ヴェニア語を少し話し出すと、アクセントを逐一 訂正なさった。そのためこちらが口篭っていると、 その間にご自身の研究の意義に話が移り、それに あわせて「音素の定義は?」、「ロシア語の動詞過去形の単数と複数の対立について論じなさ い」、「スロヴェニア語研究者の中で、あなたが最も評価する人とその意義について言いなさい」 などと矢継ぎ早に質問を出され、中途半端に答えると徹底的に直され、昼食までの1 時間ほ ど「講義+演習」を受講するはめになった。尚、横に座っていたグリーンバーグ教授は私に 助け舟を出さず、終始ニヤニヤしておられた。少なからず同じ経験をされたはずなので、きっ と楽しんでいたのだろう。

食事中は「講義」であった。タデウシュ・レール・スプワヴィンスキ、アレクサンダル・ベーリッ チ、クリスティアン・スタングといったスラヴ語アクセント研究の古典について論じられた。 そのついでに有名なロシアのウラジーミル・ディボのアクセント論について伺うと、これが どうも「パンドラの箱」だったようで、強い調子で徹底的に批判された。アクセント論は私 の専門ではないので、あまり理解できたとは思えないが、とにかく全く気が抜けない食事と なった。私が学部3 年生の頃、沼野充義先生があるとき、スタンキェヴィッチ教授がスラヴ 語学者のヘンリク・ビルンバウムについて徹底的に批判しているのを見たことがあるとおっ しゃっていたことがふと思い出され、まさにこれだったのだろうなと想像した。

第18 回バルカン・南スラヴ学会は、2012 年にワシントン大学で開催されることが決まっ ている。次回の学会の後もスタンキェヴィッチ教授を訪問する約束をしてある。次の「講義」 までに時間があるので、それを楽しみに少し「予習」することを心に決めた。

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