スラブ研究センターニュース 季刊 2011
年夏号No.126 index
エッセイ
コパチンスカヤに!
左近幸村(GCOE共同研究員)
私がパトリチア・コパチンスカヤという(日本ではしばしば「パトリシア」と表記されるが、本人はこの読み方を好まないと言っていた)、モルド
ヴァ出身の
若手ヴァイオリニストの名を知ったのは、月刊誌『レコード芸術』2008年11月号の月評欄を読んだ時である。そこに、彼女がピアニストのファジル・サイ
と一緒に録音した、ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタほかの
CDに対する批評が載っていたのだが、その評価はあまり芳しいものではなかった。『レコード芸術』は通常、2人の評者が新譜を批評し、それぞれが「推薦」
「準推薦」「無印」という3段階の評価をつける。1人の評者は準推薦で「《クロイツェル》に新しい光を当て
た演奏であることは確かだが、聴き手を落ち着かない気分にさせることも否定できない」と述べ、もう 1人は無印で「第
1楽章の第1主題、コパチンスカヤのぎすぎすと弦を擦る慌ただしい演奏は、(中略)ほとんど耳を塞ぎたくなるくらい」とかなり手厳しかった。だが私は、そ
の酷評ぶりに「音楽評論家をこんなに怒らせるなんて、もしかしたらとても面白い演奏をする人かもしれない」と、逆に彼女に対して興味を抱いたのである。今
にして思え
ば、こうした出会い方も、彼女にはふさわしかったかもしれない。
そのうちネット上で彼女を評価する声も現れはじめ、私はますます彼女の演奏を聞いてみたくなった。彼女について詳しく知りたい方は、伊東信宏『中東欧音
楽
の回路:ロマ・クレズマー・
20世紀の前衛』(岩波書店、2009年)所収のエッセイをご覧になるとよいだろう。ひとまず彼女の基本情報をとしてここで押さえておきたいことは、父は
凄腕のツィンバロン奏者、母も
民族音楽のヴァイオリニスト、ソ連崩壊直前にモルドヴァを離れ、現在はスイスのベルン在住で親よりも年上の男性と結婚して娘もいるということである。
私が彼女の演奏に実際に接したのは、
2010年1月末、ザルツブルグにおいてである。モーツァルト週間の一環で行われた演奏会に彼女が出演した時だが、彼女が弾いたのはモーツァルトではな
く、ジョル
ジュ・クルタークというハンガリー出身の現役の作曲家が書いた、《カフカ断章》というヴァイオリンとソプラノのための1時間強の作品である。半ば朗読のよ
うな形でソプラノがカフカのテキストの断章を歌い、それに特殊奏法を駆使したヴァイオリンが絡むユニークな曲だ。10
年前に《墓碑(Stele)》という管弦楽のための作品に出合って以来、クルタークは私にとって気になる存在だった。それに、モーツァルトの音楽祭で現代
音楽をやるとい
うのにも惹かれた。おまけに今話題のコパチンスカヤが出演する。これに行かない手はない。
さて演奏会の感想であるが、それについては、のちに彼女に直接送ったメールを引用するのが適当だろう。すなわち「あなた方のヴァイオリンと体を通じて、
私は作曲者が作曲時に感じていたインスピレーションを感じとることができました。私は実験的なジャズのようにあなた方の演奏を楽しんだのです。」
前述のように特殊奏法を駆使した、つまり難曲中難曲を一分の隙もなく弾ききるコパチンスカヤの姿を見て、私は驚嘆した。おそらくこの人は「本物」だ。機
会があればまた聞いてみたい。そんなことを考えながら私は会場を後にし、駅に向かって歩いた。
人生最大の椿事―奇跡というべきか―が起こったのは、この時である。ふと前のほうを見ると、さっきまで舞台の上にいたコパチンスカヤが一人で歩いていた
のである。私は、せっかくだしサインでも貰おうと、完全にミーハーなノリで彼女に声をかけた。「コパチンスカヤですか。さっきまであなたの演奏を聞いてい
ましたよ」
すると、彼女は「ありがとう」と言って笑顔で握手してくれたあと、私の全身を眺め、「あなた日本人?」と聞いてきたのである。
「ええ、そうですが、でも今ロシア史の研究のためにペテルブルグに住んでいます」
「なんでロシア史を研究しているの?」
「話せば長くなるのですが…」
と、なぜかこんな感じで会話が始まってしまった。そのうち彼女の迎えらしき人が来たので、別れる前にサインでも貰おうとプログラムとペンを取りだして彼女
に渡したところ、彼女がそこに書いたのはメールアドレスだった。「帰ったらここにメールを頂戴!」
私はすっかりいい気分になった。会話できたうえにメールアドレスまでもらった。きっとファンレター用に公開されているアドレスだろうが、それで十分だっ
た。返事をくれるかどうかはともかく、彼女は読むだろうから。
ペテルブルグに帰ると早速、クルタークを好きになったいきさつや、先に引用した演奏会の感想をしたためたメールを、彼女に送った。ところが送信してから
3時間後( !)、私は驚愕した。Patricia Kopatchinskaja (Private)
というアカウントから返信が来たのである。しかもその書きだしたるや、以下の通り。
「It was a very stressful day in Salzburg, I was completely done and -
can You imagine - I went to the cinema (avatar)
:-)
【ザルツブルグの日はとってもストレスフルで、私はすべてを出しきって―想像できる?―映画(アバター)に行ったのよ】」
私は狐につままれたように、パソコンの前でポカンとしてしまった。彼女はいったい何者…?それでも彼女から「あなたってとっても面白いわ!」「これから
もコンタクトを取りましょう!」と言われて、自分の何がそんなに面白いのかよく分からないままに、私は有頂天になってしまった。
次に彼女の演奏を聞いたのは、3月にヘルシンキで行われたフィンランド放送交響楽団の定期演奏会においてである。指揮はイスラエル出身のイ
ラン・ヴォルコフ。曲はシェーンベルクのヴァ
イオリン協奏曲。彼女自身「とてつもなく難しい」と認めていたように(ただし「これは歴史的に重要な作品だ」とも言っていた)、これまた難曲中の難曲であ
り、下手をすると30分間のノイズにしかならないのだが、コパチンスカヤは余裕を持ってそれを「音楽」にしていった。あるいは、その難しさをスリリングな
面白さに変えてみ
せたと言っていいかもしれない。
シェーンベルクなんて怖くない、シェーンベルクは面白いのだ! 私は聞きながら何度ものけぞり、演奏終了後、思わ
ずフーと息を吐いたのである。付言しておくと、ヴォルコフは美しい指揮でオケを統率し、コパチンスカヤを見事に支えていた。
その後、休憩時間になって、私は彼女の楽屋を訪ねた。まるで疲れた様子を見せずにピンピンしていた彼女は、私に「コンサート後のディナーに来る?」と聞
いてきた。私の答えはもちろんイエス。コパチンスカヤにディナーに誘われて、頬がすっかり緩んでしまった私だったが、すぐに自分の考えの甘さを痛感するこ
とになった。
そのディナーの参加者というのが、コパチンスカヤ、コパチンスカヤの父のヴィクトル・コパチンスキー、指揮者のヴォルコフ、そして私の4人だったのであ
る。一流の音楽家に交じって、明らかに場違いな人間が一人…。さっきの笑みはどこへやら、私は面接試験を受ける学生のように、完全に凍りついてしまった。
なんで私がここにいるんだ!?
私に度胸と語学力があれば、横に座ったコパチンスキーからいろいろと面白い話を聞き出せただろう。この人はソ連を代表するツィンバロン奏者だったのだ。
しかし彼の風格と威厳に圧倒されてしまった私は、半ば崩壊したロシア語でなんとか会話をするのがやっとという有様だった。これがスラブ研究センターの入試
だったら、私は間違いなく落とされていたに違いない。
ヴォルコフも幸い気さくな人で、もしやと思って聞いてみると、父はモスクワ出身ということだった。よく考えると、
4人ともロシア人ではないが、みんなロシアに縁があるという共通点があったのだ。その他、いろいろな話をしたが、この日の会話で私が忘れられないのは、レ
ストランに向かう車中でコパチンスカヤが語った次の言葉である。
「My husband is very crazy, but he has never been boring me.
【私の夫はとってもクレイジーよ。でも彼には退屈させられたことがないの】」
私が聞いた究極の愛の言葉である。私もこんなことを言ってみたいし言われてみたい。前述の伊東氏のエッセイに、コパチンスカヤとその夫の関係について
「不思議で繊細で破天荒な愛情」という表現があるが、彼女自身の言葉を聞いて、ああこのことかと思った。そして「不思議で繊細で破天荒」という言葉は、彼
女の性格と奏でる音楽もまた同時に表しているように思える。
彼女が昨年秋にスイスのテレビ局に出演した時の映像をインターネットで見たことがあるが、番組の最後で彼女は、司会者の男性のしゃべりにヴァイオリンの
即興演奏を絡ませるという離れ業をやってみせた。それは一見、ヴァイオリンをただかき鳴らしているだけのようでいて、高度に洗練されたテクニックに裏打ち
されていることは明らかで、司会者のトークと見事に一体化して、ただのおしゃべりを一気に「音楽」に変えてしまったのである。この場面を見たとき、自分の
中にあった「音楽」や「演奏」の常識が思いっきり揺さぶられるのを感じた。
実は同様の揺さぶりを、ロシアの実験的なジャズのライヴに行くと感じることがある。あるいはシュニトケの交響曲第
1番(ベートーヴェンの引用があったかと思うと、オーケストラの中で突然ジャズ・バンドが演奏を始めるハチャメチャな怪作)に生で接したときにも同様の
ショックを受けたが、彼女の場合、音楽的には素人の司会者を唐突に巻きこんでしまったので、その分、呆気にとられてしまった。
ダンテはベアトリーチェに導かれて天国を旅したが、私はコパチンスカヤに導かれて音楽の世界を旅する。もちろん私には、『神曲』のような文学作品を書く
能力はなく、代わりにこんなエッセイを書いてお茶を濁すのが関の山だけど。こうしてコパチンスカヤのおかげで、恐れ多いほど希有な経験をさせてもらったが
(もらっている、と現在進行形にしたほうが正確かもしれない)、それにしても、なぜあの時ザルツブルグでメールアドレスを教えてくれたのか、腑に落ちな
かった。そこである時、彼女に直接この疑問をぶつけてみたところ、次のような答えが返ってきた。
「ペテルブルグに住んでいる日本人が、クルタークを聞きにザルツブルグまで来るなんて面白いと思ったから。私は面白いと思ったら誰とでも付き合う」
研究者の世界には奇人変人が多いため(誉め言葉です。念のため)、私に負けず劣らず面白いクレイジーな人は私の周囲にゴロゴロいる。世界中を探せば、そ
れこそゴマンといるはずだ。そんな中で私が彼女と親しくなれたのは、まったくもって何という僥倖だろうか。
ザルツブルグでコパチンスカヤに出会う一月前に買った、キース・ジャレットのテスタメント( ECM)という
CDのライナーノーツの最後に、次のような言葉が引用してあった。キース・ジャレットと親交のある作家の言葉らしいのだが、その後私は折に触れてこの言葉
を反芻することになり、コパチンスカヤへの最初のメールにも引用した。これをもって、エッセイの締めくくりとしたい。
「How fragile and serendipitous things are indeed, unbearably so.
【物事は、まったくもって何ともろく僥倖なのだろう、耐えがたいまでに】」
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