ウィーン大学東・南東ヨーロッパ研究所

上田理恵子(センター1999年度COE非常勤研究員)

6月末、ウィーンとブダペシュトにあわせて1週間ほど滞在した間にウィーン大学の東・南東ヨーロッパ研究所を訪ねてみた。長い間この研究所は、リービヒガッセとフロイト博物館のあるベルクガッセの二ヵ所に分かれていた。筆者の記憶する限りでは、ひとつはスラヴ学研究所と、もうひとつはフィノ・ウゴル学研究所と隣接していた。けれども昨年の春以来、他の多くの研究所とともに、かつて総合病院であった新キャンパスの一角にまとめられている。隣接するのは、移転前と同様スラヴ学研究所である。フィノ・ウゴル学研究所も旧総合病院キャンパスの別の区画にある。

注意しておかねばならないのは、東・南東ヨーロッパ研究所が歴史を専門としていることである。研究所に所属しているのは皆歴史学者であって、ここでの研究・教育活動はすべて歴史学の分野に属する。後から聞いた話では、例えばスイスでも同様の名称で歴史専門の研究所があるというから、単に「歴史」が入っていないというだけで総合研究機関だと思い込んではいけないのかもしれない。

けれども筆者には、研究所のスタッフも「歴史」研究所であることをことさら強調しているように思えた。例えば、大抵の研究所では独自に発行している講義要綱を有料で配布しているので、この機会に入手しておこうと問い合わせたところ、事務局の女性が「隣のスラヴ学研究所へは、別に尋ねてください。歴史の方ではそのような冊子を出したこともないし、出す予定もないから。」という言い方をしていた。「歴史学研究所」は別に存在しており、そこから発行された講義要綱を、筆者は数年前に入手したことがある。だから、ここで口にされた「歴史」は明らかに東・南東ヨーロッパ研究所を指していると思われる。また、電話で応対してもらえた教授に筆者が自分の所属を名乗ると、「ここは歴史を専門としていて、政治も経済も法制とも関係ない」という言葉が返ってきた。かといって、無愛想にあしらわれたわけでは決してなく、むしろその逆であって、研究所紹介のパンフレットを送ってくださったのはこの教授ご自身である。ただ、ユーゴ空爆停止から間もない時期であったので、コメントを求めてくる訪問者に悩まされていたのかもしれない。

そもそも、この研究所は1907年に創設された「東ヨーロッパ史研究室」(Seminar fur osteuropaische Geschichte)に由来する。1948年には「バルカン学研究所」を併合して「東ヨーロッパ史ならびに南東ヨーロッパ研究室」(Seminar fur osteuropaische Geschichte und Sudosteuropaforschung)となり、1956年に「東ヨーロッパ史ならびに南東ヨーロッパ研究所(Institut)」を経て1978年以来現在の名称となった、と研究所の紹介には書かれている。

名称の変遷と資料拡充の過程とは軌を一つにしている。東ヨーロッパ史研究室が創設されたきっかけはロシアの歴史家ヴァシーリイ・アレクセーヴィチ・ビリバーソフ(1838-1904)の蔵書購入であったといわれる。なんでも、書籍の輸送には「諜報機関の活動」よりも大変な危険を伴ったそうだが、当時の文化・教育省は、危険を冒してでも(ロシア領ポーランドおよび右岸ウクライナを含めた)ロシア史およびオーストリア・ロシア関係の研究を充実させたかったのである。1910年代にはロシア領ポーランドから入手された貴族の蔵書も加わっている。

バルカン史については、1893年からウィーン大学で東欧史を教え、スラヴ文献学の正教授でもあったヨーゼフ・コンスタンティン・ジレチェク(1854-1918)によるセルビア史研究と蔵書、さらには彼の門下生によってセルビア、ブルガリア、ルーマニア研究が進められたという。別に設置されていたバルカン研究所を併合したこともあって、今日では充実した研究内容を誇っている。

「灯台下暗し」というか、この研究所で東欧中部の領域、ハンガリー、クロアチア、ボスニア、スロヴェニア、チェコ、スロヴァキア、ポーランドといった方面について研究資料の充実が積極的に行われ始めたのは第二次世界大戦以後のことである。もっとも、これらの地域は第一次世界大戦まで自国の歴史研究領域に含まれていた事情もあって、本腰を入れれば資料の収集も比較的速やかに行われたと推察される。

ウィーン大学東・南東ヨーロッパ研究所
現在、研究所のスタッフは、名誉教授2名と退職教授1名、研究者8名、一般職員4名、臨時雇用の講師(Lektor)3名、非常勤講師(Dozent)1名。それぞれオーストリア学術アカデミーをはじめ、複数の学術団体の構成員を兼ねている。

約12万冊の蔵書を抱えた研究所付属図書館には、東欧諸国の体制転換以降、資料を求めて学生および研究者が押し寄せてくる。但し、彼らへの応対について、専門職員1名と半日勤務の職員という「深刻な人手不足」という悩みを抱えている、とある。一般に、いくつもの研究所が移転すると同時に図書館の改革も進められているようで、それが蔵書利用を改善するのに役立ってくれればよいが、と願うばかりである。

歴史研究所であると明言する一方で、この研究所は学際性をも備えていると自負している。その理由には、スラヴ学研究所と隣接していることと、授業やセミナーに他分野と外国からの学生達が参加することが数えられている。ここへ学びに来る学生には、単なる知識の吸収のみならず、知的対価が明白に要求されているのをみると、教える側と学ぶ側が対等である、という大学本来の姿を思い出させてくれる。

この点について、筆者の記憶に残っているところでは、例えば「バルカン学入門」という題名の講義があって、冬学期に第一部、夏学期に第二部とされていた。冬学期では確かにバルカン諸国を地理、人口、歴史などを概観する内容であったが、夏学期になると、いきなりどれかバルカン諸国の一カ国語以上に習熟していることが参加条件となっていた。講義要綱にはあくまで「セミナー」や「演習」ではなく「講義」と書かれていたことから、不思議に思って受講者に様子を尋ねてみたところ、分厚いリーディングリストを見せてくれ、自分の申請した言語の資料について報告が義務付けられている、と話してくれた。受講者には少なからずバルカン諸国の出身者がいたが、もともと彼らをも対象として開講された授業だったから、安易な単位稼ぎはできない、ということだった。

研究所における今日の課題は、ヨーロッパ連合の「東方拡大」に向けて「東」への架け橋となることであるとされている。その一方で、今日の穏やかならぬバルカン情勢について、「我々はヨーロッパを一つとみなしているので、正教やイスラム教の中で育ちつつある、民族共存を排する傾向には、それがいかなるものであれ反対」するという一般原則を掲げながらも、「我々は地誌学および歴史的背景について研究しているため、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソヴォ、チェチェンといった危険な地域の問題に処方箋を出すことはできない」と断言している。評価の分かれるところではある。

実は、スラヴ学研究所(Institut fur Slawistik)のランプル氏にも研究所に関する冊子を提供していただいている。ちょうど今年は、創立150周年にあたるそうで、記念シンポジウムを開催するとのことである。すでに18世紀から、チェコ語をはじめとしてロシア東欧地域の授業がウィーン大学で開講されていたものの、研究所の直接の前身は、1849年にウィーンとペシュト双方の大学に開設されたスラヴ文献学の講座に遡る。総勢76名のスタッフ、7万5千冊の蔵書、約120種類の雑誌を抱えた内容豊かなこの研究所については、機会があれば改めて述べさせていただきたい。


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