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お知らせ

 川端香男里先生とSRC


     このたび、東京大学名誉教授でスラブ・ユーラシア研究センター名誉研究員の川端香男里先生の訃報が届きました。ご病気で療養中のところ、2月3日、老衰で亡くなられたということです。われわれのセンターにとって大変貴重な存在であった川端先生のご逝去を惜しみつつ、そのご恩についての記憶を新たにするため、以下SRCに関連した先生のご活動の概略を振り返らせていただきます。

     スラブ文学、比較文学の領域で大きな業績を上げられ、ロシア・東欧学会代表理事(1991-2000)、日本ロシア・東欧研究連絡協議会(JCREES)代表幹事(1998-2005)、日本ロシア文学会会長(2001-2005)、トルストイ協会会長(1996-)、日本18世紀ロシア研究会会長(2005-2013)などを歴任されて、日本のスラブ研究を長くリードしてこられた川端先生は、SRCの活動及びその成長にも、かけがえのない役割を果たしてくださいました。

     川端先生は、1963年に北海道大学文学部専任講師に着任され、その後モスクワ大学派遣留学などを経て、1969年に東京大学教養学部へ移られましたが、そうした経緯から、当時北海道大学法学部附属スラブ研究施設として存在していたSRCの前身組織とも近い関係にありました。1964年にスラブ研究施設に助手として着任されたロシア史の外川継男先生とは、高校時代からのご学友と伺っています。ちなみに手元の『スラブ研究センターの40年』(北大スラブ研究センター、1995)によれば、川端先生は1966年7月スラブ研究施設夏期研究報告会において、「18世紀後半のロシヤ文学に対する外国の影響:主にフランス文学との関連について」という研究発表をされており、おそらくこれが先生とSRCのご縁の公式的な始まりといえそうです。

     その後、SRCがスラブ研究センターという名称の学内共同利用施設だった1980年代前半から、川端先生はセンターの学外共同研究員を何期も(1981-1983、1986-1994)つとめられました。1980年代後半、ペレストロイカに端を発したスラブ世界の変容とその世界史的な意味を踏まえて、日本にこの地域の研究・情報収集・国際交流・専門家教育のための全国規模のセンターを作ろうという運動がSRCを中心に始まった時、当時東京大学大学院人文科学研究科で露語露文学専攻主任をされていた川端先生は、文化研究や国際交流の立場から力強くこれをサポートしてくださいました。1987年10月に神田学士会館で行われた『スラブ研究推進の方法検討会』(伊東孝之座長)では、諸学会や大学を代表する14名のパネリストの一人として川端先生も国際交流の観点からご発言くださり、検討の成果が参加者の連名による「スラブ地域雑誌センター設立に関する要望書」「日ソ文化交流協定に基づく国費交換留学生制度に関する要望書」となって結実しました。全国センターとしての活動にチャレンジし始めたSRCの企図を、各地の大学や関連学会や政府の関連機関へとつなぎ、専門家にも学生にも社会にも有益な大きな流れに育ててくださった、貴重な橋渡し役のお一人でした。

     SRCが全国共同利用施設に改組された1990年以降、川端先生は運営委員(1990-1993年度)、客員教授(1994-1995年度)として、直接センターの運営と研究活動にご参画くださいました。

     センター40周年を記念して1994年から出版された『講座スラブの世界』(原暉之編集代表:弘文堂)では、中村喜和一橋大学名誉教授、センターの望月哲男とともに、第1巻『スラブの文化』(1996年刊行)の編集をご担当くださいました。センターの初めての分野横断的・総合的な共同研究となった1995-1997年度の重点領域研究『スラブ・ユーラシアの変動』(皆川修吾代表)では、7名からなる総括班の一員として、主として文化面の研究を統括・管理してくださいました。

     この重点領域研究の経験と成果を踏まえて作られた国内関連学会の連携組織が、1998年に発足した日本ロシア・東欧研究連絡協議会(JCREES)で、川端先生はその初代代表幹事として、事務局を務めるSRCとの協力の下、国内の諸分野のスラブ研究学会が密に連携し合い、さらに国際学会との関係を強化するためのシステムづくりをリードしてくださいました。日本のスラブ研究者が世界規模の国際中欧・東欧研究学会(ICCEES)の活動に積極的に関与するとともに、東アジアの研究者集団と新しい協力関係を築いていくという構想がこうした枠組みを得て実現され、その結果が2009年以降のスラブ・ユーラシア研究東アジア大会の定期的な開催、さらには2015年の国際中欧・東欧研究学会(ICCEES)世界大会の幕張での開催となって現れることになります。川端先生はここでもまた、木村汎教授や松里公孝教授など、SRCの代々の研究者たちが育んできた夢の実現を、全国の研究者集団を代表する形で、力強く支えてくださいました。

     川端先生がセンターの活動に深く関与された90年代は、変動期のスラブ地域研究の盛期で、従来の常識を超えた概念や価値観が求められた時代でした。文化研究においても、目まぐるしく出現する新しい現象を追いかけながら、そうしたものを分析する手法の模索が行われていましたが、先生はご専門の文化理論や比較文化学の立場から、折に触れて普遍性と汎用性に富んだ研究の枠組みを示唆してくださいました。

     例えば先述の『スラブの文化』所収の論考「スラブ文化における土着と影響」の中でも、いわゆる土着と呼ばれている文化が外来の影響の所産であるという可能性を指摘すると同時に、スラブ地域における土着文化と外来文化の弁証法的な展開を、スラブ地域内部での民族間関係や、キリスト教および近代の世俗文化の受容にまつわるスラブ・西欧の関係に見るという、壮大な試みをされています。これはもちろんコミュニズムの受容ともかかわる問題ですが、ともすれば社会主義体制の以前と以後、あるいはモダンとポストモダンといった限定された枠組みにとらわれがちだった変動期のスラブ文化研究にとって、こうした通史的な議論がもたらしてくれる視野の拡大は、きわめて貴重でした。

     もちろん、より狭義のご専門である18世紀ロシア研究やロシア・モダニズム文学研究、フォルマリストやミハイル・バフチン、ユーリー・ロートマンなどを含む文化・文学理論研究、トルストイやドストエフスキーの比較文学的研究などから導き出される豊富な知見、深い見識は、われわれのような後の世代の研究者にとって極めて刺激的であり、そうしたものを背景に、センターの研究報告会や国際シンポジウムで川端先生が報告者や討論者として果たしてくださった役割の意味は、計り知れません。

     個人的に強く印象に残っているのは、先生が若い頃お勤めになった北海道大学に、故郷に対するような愛着を持たれていたことで、とりわけセンターの外川継男教授や、情報資料部の秋月孝子助教授、文学部露文学科の灰谷慶三教授、栗原成郎教授など、昔なじみの方々と同席されるときには、青年のように快活なご様子を見せていらっしゃいました。われわれとしても、極めてご多忙な川端先生を頻繁に「内地」から札幌の催し物にお呼びするのは気が引けるところもあったのですが、先生はいつも二つ返事でお引き受けくださいました。一度などは足を骨折された直後に、ギブスに松葉杖という姿で札幌駅に降り立たれたことがあり、車で会議場や宴会場へとお送りしながら、ご自分の身を顧みずに役割を果たそうとされるその責任感とご厚意の表明に、感謝の言葉も見つからぬ思いを味わいました。

     きわめて多岐にわたる川端先生の当センターに対するご貢献は、筆舌に尽くせるものではありませんが、以上若干の記録と思い出を記させていただきました。

     あらためて川端香男里先生の御恩に感謝し、追悼の言葉といたします。

    (望月哲男・安達大輔)


    「川端香男里先生の御著書から(望月哲男所蔵)」

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