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 三谷惠子先生のご逝去を悼む

     日本を代表するスラブ言語学者で、ロシア・中東欧関係の研究コミュニティーを長らく牽引してこられた三谷惠子先生が、2022年1月17日に他界された。64歳の若さであった。来年の東京大学退職を目前にし、これからますますご活躍が期待される年齢だけに、大変悔やまれることである。
     三谷先生は東京大学文学部のご出身で、在学中は特に栗原成郎先生の薫陶を受け、スラブ語学を広く学ばれ、同時に日本のスラブ語学の伝統的な文献学の手法に基づく研究にも取り組まれた。また三谷先生がこの系譜の正当な継承者であることは、恩師の栗原先生同様、スラブ諸語による文学作品にも深い関心を持ち、ミロラド・パビッチやメシャ・セリモビッチといった南スラブの古典文学を積極的に翻訳・紹介されたことにも示されている。その一方で、三谷先生のスラブ語研究のスタイルは、かつての日本でしばしば見られた、日本にいながらロシアや欧米における研究成果を盲目的に追随するタイプとは一線を画すものであった。1986~1988年に崩壊前夜の旧ユーゴスラビアのクロアチアに留学され、ザグレブ大学哲学部では、この極めて短期間に『クロアチア語あるいはセルビア語における動詞アスペクト』という、スラブ語研究の王道であるゆえ、新機軸を打ち出すのがなかなか難しいテーマで博士号を取得された。普通の人にとって2年間は実践的な語学学習ですら短期間であるから、これはまさに驚嘆に値する。
     1990年にご出身校である東京大学文学部の助手に採用され、1993年には筑波大学の専任講師に着任された。驚くべきことに、その間の1992年には『ロシア語における名詞句の構造と機能の研究-発話の中の名詞句の定・不定・照応』という題目で東京大学からも博士号を取得しておられる。この後も、三谷先生は海外でも日本でも数多くの調査や研究発表をこなされるが、いずれも従来の枠にとらわれずに、個別言語研究の成果を踏まえながらも、一般言語学やその他の隣接分野の最新研究成果を柔軟に取り入れた独自の研究成果を出され、常に一目置かれる存在の研究者となるが、その原型はキャリア初期に出来上がっていたようである。なお、生涯を通じて文献学的研究に取り組まれていたが、最晩年はその領域に特化され、なかでも南スラブ諸語のアポクリフォン校訂の諸問題にたずさわっておられた。
     三谷先生は1997年に筑波大学助教授に昇任され、1999年から山口厳先生の後任の助教授として京都大学に移られ、2005年に教授になられた。その後2013年には再び母校の東京大学に教授として着任され、亡くなるまで研究教育活動に従事された。
     生涯を通じて、小さな専門や決まった分析理論の枠にとどまることなく、貪欲に専門分野を広げられ、本邦におけるスラブ語学研究の第一人者として指導的な立場にあられた。年を重ねると、しばしばこれまでの研究の焼き直しや繰り返しが目立ち、さらには研究活動を控えめにする研究者がいる中で、三谷先生はますます積極的に新しい成果を世に出し続けていた。研究者としての模範であるように思う。三谷先生は社会貢献や後進の育成にも余念がなかった。1997年には『クロアチア語ハンドブック』(大学書林)、2011年には『スラヴ語入門』(三省堂)という、もはや当該領域の古典となった学術的な教科書も執筆され、2003年には実用的のみならず学術的にも大変優れている大著の『ソルブ語辞典』(大学書林)も刊行された。大学教育だけではなく、著作活動を通じることでも、後進に肯定的な影響を与え続けられた。キャリア後期には日本ロシア文学会会長(2017~2021年)、日本スラヴ学研究会企画編集委員長(2019~2021年)、ロシア・東欧学会理事(2015~2018年)などを歴任され、ご専門のスラブ語研究はもとより、ロシア・東欧人文学研究発展に重要な役割を果たされた。
     三谷先生はスラブ・ユーラシア研究センターとの関りも深く、1990年代の若手時代には研究誌『スラヴ研究』に画期的な論文を幾本も投稿され、その後は査読者として、また編集協力者として最晩年まで継続的にご協力くださった。加えて2006~2008年は客員助教授として、さらに2003~2007年の「21世紀COEプログラム」、2008~2012年の「新学術領域『ユーラシア地域大国の比較研究』」といった大プロジェクトにおいても、センターの共同利用・共同研究拠点事業、また拠点運営委員や共同研究員としてもご尽力され、従来スラブ・ユーラシア研究センターがカバーしてこなかった言語研究から多くの成果を出され、スラブ・ユーラシア研究センターの多角的な展開に大きく貢献してくださった。
     三谷先生は文字通り全人生をスラブ言語文化研究に捧げられた。尽きることのないこれからの学術的挑戦を多く目標に掲げながらも、現在も収束が見えないコロナ禍のなかで闘病生活を強いられ、全く思い通りに研究が進められないことはさぞ無念であったろうと思われる。その一方で、誰もが羨む天賦の才能に加え、たゆまぬ努力による超人的な生産性を兼ね備えた三谷先生は、その比較的短い生涯を、これまでの日本のスラブ語研究者が決して達成しえない多くの学術的難題をやすやすと解決しながら、一気に駆け抜けられた。スラブ語研究者の多くは憧憬の念を抱きながら、三谷先生のご活躍を目の当たりにし続けていた。
     まだ先生がお元気なころ、ある研究会の後の食事会で、タイムマシンがあれば一番会ってみたいスラブ語学者は誰か、といった他愛もない話を三谷先生としたことがある。三谷先生は、満面の笑みを浮かべて、スラブ文献学の碩学バトロスラブ・ヤギッチの名前を挙げ、その魅力を熱心に語られた。普段寡黙な先生だけにその様子がとても印象的であった。ご病気から解放された今、天国で念願のヤギッチとの面会は果たせたであろうか。三谷先生のことなので、きっとこれも実現されるだろう。
     大変お世話になったスラブ・ユーラシア研究センターの一員として、また同じくスラブ語研究を志した同窓の後進として、これまで受けた三谷先生からの数限りない有意義なご指導に深く感謝しつつ、三谷先生が安らかにお休みになることを心より願う。

    2022年1月25日
    スラブ・ユーラシア研究センターを代表して
    野町素己


    2013年にSRCで行われた国際シンポジウムにて(前列左から2番目が三谷先生)

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