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イーゴリ・ヤルケーヴィチ   Iarkevich, Igori


『知・セックス・文学』 Игорь Яркевич ≪Ум. Секс. Литература≫


上田洋子


ヤルケーヴィチって誰?
ヤルケーヴィチ・イーゴリ・ゲンナヂエヴィチ(1962−)
/ Яркевич Игорь Геннадьевич
1985 年モスクワ市立歴史・古文書大学卒業
グラスノスチ後、≪Сторелец≫ ≪Соло≫ ≪Родник≫ ≪Глаз≫ ≪Вестник новой литературы≫ その他の雑誌に散文を掲載し始める。主要著書は『俺がどうやって、俺はどうやられたかКак я и как меня』(1991/96)、『俺のオナニズムКак я занимался онанизмом』(1994)、『知・セックス・文学Ум. Секс. Литература.』(1998)、『女の話と女の話じゃない話Женские и не женские рассказы』(2000)。なお、インターネットでもリンクつきのものを含め短編小説、
エッセーなどを多数公開している(http://www.guelman.ru/yarkev/)。


プロローグ− これまでの評価
皆さん、この文章のことはうちの両親にはくれぐれもご内密に。母は敬虔なピューリタンですし、父は武家の出で、儒教仏教法華経に囲まれて育った人です。箱入り娘のはずの私が、こんなやるけーヴぃちとかいう破廉恥な代物を読んで、身体の内側と外側が裏返ってしまうほどの大口を開けて笑ってるなどとは、夢にも思ってはいないでしょう。彼らは娘の入っているのがお洋服の箱や昔のアメリカ映画に出てくるようなお帽子の箱ではなく、スーパーの裏に積んであるダンボールだってことに気づかなかったのです。嗚呼、哀れなるかな。ちなみに身体が裏返るイメージは高校生の頃からのお気に入りのものですが、最近町田康に透視され、持っていかれてしまいました。この時期のヒット表現の一つに「目から角を出して怒る」ってものもありましたが、これはまだ手付かずのままのようです。
今のうちにいかがです?大まけにまけておきますよ。
とまあ、こんなお馬鹿な調子ででもないとはじめられないのが現代ロシア文学のオナニスト(お母さんごめんなさい。でも、ギリシア神話起原の言葉だし、格調高いと言えないこともないのです。おそらくヨーロッパ言語ではカタカナ書きの日本語から受けるほどまでの卑猥な響きはないのでは。そりゃ、卑猥な言葉であることは事実ですが)。というこっぱずかしい異名を持つ、ヤルケーヴィチの紹介である。私が彼を知ったのは、カナダの研究者セラフィマ・ロールによるインタビュー集、『ポストモダニスト、ポストカルチャーを語る』Ролл С. ≪Постмодернисты о посткультуре. Интервью с современными писателями и критиками≫ 1998. М. Лиа Р. Элинина がきっかけである。裏表紙に抜き書きされたヤルケーヴィチの一言が振るっていた。「ロシアのセックスそれ自体は全く救いようがなく、面白くないものです。エロスとは許容範囲の高給食料品と同様、安定した社会の象徴なのです」。
初期ヤルケーヴィチの評価はかなり高い。上述の『ポストモダニスト、ポストカルチャーを語る』に収録されたロールの論文「オルタナティヴな散文からオルタナティヴな意識の文化へ」では、「ヤルケーヴィチはおそらくロシア文学において初めて、必要不可分な個の意識よりも精神性の理想を高い位置に置く社会における、身体に対する隠蔽された暴力、身体機能や感覚の抑圧、身体エネルギー発揮の不可能性に疑問符を投げかけた」(с. 38)と評価される。イリーナ・スコロパノワはこの作家をドミートリイ・ガルコフスキイと並ぶ「慇懃なマニエリスト」、エドゥアルド・リモーノフに続く「アンファン・テリブル」(実際にキリル文字で”анфан террибл”と書かれている)、ヴェネディクト・エロフェーエフの叙情的ポストモダニズムлирический постмодернизм とリモーノフの「汚れた」リアリズム ≪грязный≫ реализм の継承者だとする(Скоропанова И. С. ≪Русская постмодернистская
литература≫ 1999. М. Изд. Флинта/ Изд. Наука с. 421)。それどころか、翌年の著作『ロシア
ポストモダン文学―新哲学・新言語』≪Русская постмодернистская литература: новая
философия, новый язык≫ 2000. Минск. институт современных знаний кафедра филологии
では、前著で述べた叙情的ポストモダニズム、および作者の死(道化の仮面を被る作者)の観点から、ヤルケーヴィチをなんとブロツキイ(『メアリ・スチュアートに捧げる20 のソネット』)と同カテゴリーに当てはめてしまう。(そんな高みに上らせてしまったら、コンプレックスの人、ヤルケーヴィチは目がくらんで落っこちてしまうのではないか?と思わないこともない)。一方、ヴャチスラフ・クーリツィンはヤルケーヴィチの「オナニズム」とは普遍的な行為者を持たない普遍的な実践のメタファーであるとする。(Курицын В.≪Русский литературный постмодернизм.≫ http://www.guelman.ru/slava/postmod/) この批評家
はヤルケーヴィチの主人公は小さな人間маленький человек=オナニストであると述べる。
小さな人間とは、もちろんゴーゴリのアカーキ・アカーキエヴィチやドストエフスキイのマカール・ヂェーヴシキンの系譜に属する人物である。ヤルケーヴィチの小さなオナニストは読書によって大きくなろうとするドストエフスキイの主人公とは異なり、すでに蓄えられた「偉大な文学」の知識に苦しめられる存在である。クーリツィンの分析によると、「偉大なロシア文学」による抑圧は以下の二つである。
1, 偉大な主体性による抑圧― 「救済」願望をこれ見よがしに見せつける偉大なロシア文学は精神的救済をする権利を持つものとして、「完璧」とでもいえるような存在であるという自負をちらつかせる。
2, 偉大さ、高揚、力による抑圧―これらは何よりもまず己の小さな私的な価値を擁護しようとする「小さな人間」というイデアと明らかに矛盾している。
ヤルケーヴィチは小さなオナニストの形象により、偉大な文学神話のうちの小さな人間神話を脱構築しているのだというクーリツィンの評価は『ポストモダニスト、ポストカルチャーを語る』におけるヤルケーヴィチ本人の言説によっても確認される。『ソルジェニーツィン、または地下室からの声』という短編についての発言である。「主人公はあたかも実際にオナニーをするかのようにソルジェニーツィンをパロディしますが、主人公はやはり勝利者ではなく、犠牲者で、そうであるがゆえに魅力的な存在です。ロシア文学特有の勝利のパトス、先験的な正義のパトスといったものはここには存在しません。思うに、オナニズムのテーマというのは、20 世紀末の終わりのないメタファー、つまり、オナニズムを通してすべてを見ることができるのではないでしょうか。こんなに上手いメタファーにた
どり着いたのが私だけだなんて、不思議なくらいです。競争者がいてもいいはずなのに」。
確かに、自慰行為者としての作家というメタファーは面白い。ヤルケーヴィチの自画自賛
も、この場合は許すことにしよう。


『知・セックス・文学』
小説『知・セックス・文学』は三部作で、「知とセックス」「知と文学」「文学とセックス」の3 つの章にプロローグ、エピローグ加えた、それぞれ異なった文体と構造を持つ5 つの部分から構成されている。ポストモダン文学によくあることだが、この作品のあらすじを紹介しても全く意味がない。あらすじなら、各章一行づつで説明できる。
「知とセックス」― 作者自身として描かれる語り手が昔の恋人レーナに思い出を織り交ぜて語りかける文学・文化批評。
「知と文学」― ゴーゴリの『鼻』のパロディ。主人公は鼻の代わりに男性性器を失う。
「文学とセックス」― ロシアの作家とアメリカの作家の性質・生活などを対比した笑い話。ヤルケーヴィチお気に入りのシリーズで、他にも『二人の作家』などこのテーマの作品は複数存在する。
「各章一行づつ」という表現はロシア語のбуквально в двух словах(文字通り2語で)のパステルナークのシェイクスピア的訳であると考えていただきたいが、それはさておき、ヤルケーヴィチ節を堪能して頂くためには、作品の一部をそのまま訳出し、意味と文体の両面から分析するのが最善の方法であろう。その際、主に作家の問題設定や特徴がすべて明らかに現れている「知とセックス」の部分を用いることとする。一方、ありふれたゴーゴリへの暴力にすぎず、文学的価値の少ない「知と文学」にはここでは触れない。


1, プロローグ― 選択
『知・セックス・文学』のプロローグでは、ヤルケーヴィチの人生哲学が語られる、というのは大げさで、彼の価値規範が二者択一方式で語られる。このプロローグだけで、ヤルケーヴィチの人となり、および作家としての態度が垣間見られるので、全訳しておくことにする。

長い人生、選択が迫られることになる。他に道はない!だいたいこういうもの
― つまり、トルストイかドストエフスキイか、ママかパパか、昼か夜か、真実か嘘か、愛かセックスか、お茶かコーヒーか、春か秋か、猫か犬か、家ウサギか野ウサギか、山か谷か、川か海か、太陽か月か、肉か魚か、ケチャップか醤油か、ナツメヤシか柿か、ヒステリーか鬱か、勃起をこらえるかこらえないか、ペニスか鼻か、ヴァギナか腋の下か、やるかやらないか、やるのなら,誰とやるのか(男か女か、少年か少女か)、ヴラーソフ将軍かジューコフ元帥か、ツヴェターエワかアフマートワか、『桜の園』か『三人姉妹』か、チェーホフかブーニンか、『ドクトル・ジバゴ』か信頼の置ける医者か、パステルナークかソヴィエト政権か、スラックスかジーンズか、プルーストかジョイスか、それともやっぱりカフカか、全部自分で食べるか他人と分かち合うか、散文か詩か、ウォッカかビールか、セーターかスーツか、映画か演劇か、クンツェヴォかルブリョフ街道地区か、権力のために糞になるか、権力の糞になるか、糞か小便か、マドンナかロストロポヴィチか、モスクワ芸術座かボリショイ劇場か、知か名誉か、血か汚濁か,汚濁か嘘か、セックスかスポーツか、精神か肉体か、罪か罰か、動物園か精神病院か、健康か病気か、戦争か平和か、ジプシーかユダヤ人か、父か子か、オナニーか性行為か、ヨーロッパ映画かアメリカ映画か、エリツィンかスターリンか、モスクワかサンクト・ペテルブルグか、ゴーゴリかプーシキンか、世紀の終わりか世界の終わりか、糞を喰らわすか我慢するか、文学か現実の退屈な世界か。
ところで選択はすでになされている。人生そのものによって。ドストエフスキイ(トルストイの方がいいのは事実だが)、ママもパパも、昼も夜も、嘘、愛、コーヒー、春、犬、野ウサギ、谷、海、太陽、魚、醤油、柿、ヒステリー、勃起はこらえない、ペニス、ヴァギナ、やる、女とやる、子供には手を触れるべからず、ヴラーソフ将軍(彼のほうがちょっとロマンチックだから)、どちらもいい、『桜の園』、チェーホフ、信頼の置ける医者、これらは分割不可能(互いに相手なしではやっていけないから)、スラックス、やっぱりジョイス、自分で、散文、ウォッカ、場所による、映画、ルブリョフ街道地区(空気がきれいだから)、権力のための糞、糞、マドンナ、どちらもケツの穴送り、知、血、汚濁、セックス、肉体、罪(その方が短いから)、動物園、とにかく健康、平和、どちらも必要、子も父も、どちらももう一方の妨げにならない、総合したもの、エリツィン、モスクワ、ゴーゴリ(だがプーシキン抜きってわけにもいかないだろう)、世紀の終わり、我慢できる程度に喰らわす、文学。( с. 8-10)


2, 知とセックス
作者を思わせる主人公が昔の恋人、レーナへの語りかけ口調で、彼女との思い出から連想される文学を語る、この三部作の根幹部分である。
まず、冒頭部を訳出してみよう。


天使に罪があるなんてことがありうるだろうか?ありえない。ところがレーナときたら、天使だ!だからレーナには何も罪がない。悪いのは全部俺。一番重大な俺の、レーナ、お前に対する罪は、『仏教とロシア』の本を返さなかったことだ。おまけに読みさえしなかった。なぜ俺がこの本を借りたのかもわからない、仏教なんて俺にはまったく糞喰らえ(до пизды)ましてロシアなんて!昔も今も。昔は今よりももっと。いや、今の方がもっと。いずれにせよ俺はこの本を読みさえしなかった。
この本がなくなってからもうずいぶん経った。レーナ、お前がいなくなってからもうずいぶん経った。だけど、俺はやっぱりお前にこの本を返したい。読んでいないまま。(с.12)


この2 つの段落ですでにヤルケーヴィチの顔はかなり明らかになる。まずは文体。「天使は悪者になり得ない」という一般的概念の提示から小説は始まる。2 文目で作者本人と思しき語り手は女性の固有名詞(レーナ)を名指し、彼女を天使に例えるという、ロマンチックで個人的な調子に移行し、己の罪を責めてみたりする。「一番重大な(大切な)俺の、レーナСамая главная моя, Лена」という文では、いかにもレーナへの愛を告白するかのように見せかけておいて、「罪はвина」という単語が続き、文章は転調され、そのまま「『仏教とロシア』の本を返さなかったことだ」と、高揚した詩的な調子はあっけなく散文調に下げられる。そして、その直後には「仏教やロシアなんて『糞喰らえдо пизды(直訳すれば、女性性器と同じくらい嫌なものだ)』」と、卑猥な俗語の段階まで引き摺り下ろされるのである。指示代名詞「俺のмоя」が愛する「レーナЛена」ではなく、女性名詞「罪はвина」に係っていくあたりなど「『テンション緊張とコントラスト対比法』というマニエリスムの真諦」(マリオ・プラーツ著高山宏訳『ムネモシュネ文学と視覚芸術との間の平行現象』ありな書房1999 年p. 116)がフルに発揮されていると言える文体である。もう一歩プラーツの領域に踏み込むとするならば、使用されている言葉(俗語・ぶっきらぼうな調子)がマニエリスムに現代的色彩を添えているということになるか。ヤルケーヴィチの俗語は16 世紀のグロテスク模様にでも例えたらよいのだろう。ちなみに、プラーツがマニエリスム詩人の代表としてブロツキイお気に入りの形而上詩人、ジョン・ダンを挙げていることを考えると、スコロパノワのブロツキイに関する指摘もあながち大風呂敷でもないかもしれない。
かな???
一文目の天使に関する言及はさらに2 つのことを提示する。一つ目はヴェネディクト・エロフェーエフのポエマ『モスクワ−ペトゥシキ』への暗示。つまり、ヴェーニチカにいかにウォッカを飲むかに関して啓示を与える天使たちの形象への連想。このポエマは『知・セックス・文学』と同じく社会の落伍者の主人公によって俗語を交えて一人称で語られ、しかも、嘔吐や排泄をめぐるエピソードが散りばめられており、身体が目に見える作品である。もう一つは解体される「一般的な定義」。「天使」というコードの一般概念はレーナという人物像に受肉され、人間の女性=レーナは俺によって「天使」と名付けられたのだから、罪のある存在にはなりえないのだという奇妙でエゴイスティックな論理が展開される。固定概念は固定されたまま悪用されることにより、固有の意味を転覆させられるのである。
もう一つ透けて見えるもの、それは「ドストエフスキイライン線」とでも名付けるべき層である。
「レーナ」という呼びかけを多用し、相手の女性を天使とあがめる口調は、『貧しき人々』におけるマカール・ヂェーヴシキンのワルワーラへの手紙を連想させる。そもそも、「知とセックス」全体を貫かれる自分を卑下する語り手の道化的口調はドストエフスキイの人物たちのものである。地下室の男、アルカージイ・ドルゴルーキイ(『未成年』)、ラスコーリニコフの傲慢な自嘲…。後にロシア「救済」のテーマが浮かび上がり、この線はムィシュキン公爵やアリョーシャ・カラマーゾフといったいわゆるсветлый な主人公にまで発展することになる。
では、続けて次の数段落を引用してみよう。


じゃあ、何のために俺はソルジェニーツィンを借りたのか?もっとも、俺がこの本をレーナからわざわざ借りたわけじゃない。この本はレーナが自分から貸してくれたものだ。
もちろん、レーナ、俺はお前と出会ったとき、俺は童貞じゃなかった。だがお前だって俺以前に多くの男を知っていた。そうじゃないとでも?お前は結婚していたし、トルストイが好きだった、ドストエフスキイに夢中になったし、前の亭主からボヘミアンの屑野郎に乗り換えた、チェーホフの秘密を解き明かそうとした、一度なんて、ロットウェラーとやる夢を見たじゃないか。賢い、血統のいい犬だ、エアデールテリアなんかとはわけが違う!だいたいエアデールテリアの何とやるってんだ?やれるものなんてついてやしない。ロットウェラーにはそれがある。だが、エアデールテリアのは小さな不味い犬のペニス。一方、ロットウェラーのものはほとんど人間のものと変わらない。このロットウェラーってやつは驚くべき犬だぜ!
お前が昔は結婚していて、2 度ばかり旦那をボヘミアンの屑野郎に乗り換えた、これはまあ許す。ドストエフスキイ、これもまあよしとしよう。最終的には、考え直すだろう、ドストエフスキイなんて!だが、トルストイ、これはよくない。
これは非常に深刻だ。トルストイのことは、売女め、後で責任をとってもらう。
だが、チェーホフに関しては、弁解の余地はない。何を見たんだ、バカ女、こんなチェーホフなんかに?覚えておけ、レーナ、俺たちはもうずっと会ってないし、お前をびびらせることはできないかもしれない、だが、チェーホフの件ではお前を殺すことだってできる。俺は、レーナ、お前みたいな天使じゃない。俺が一度でもチェーホフをよく言ったことがあったか?ないだろう。(с. 12-13)


ヤルケーヴィチは出し惜しみをしない。小説一ページ目で、手の内をほとんどすべて見せてしまう。まるで、シクロフスキイが『散文の理論』でのべる「秘密」の技法に反駁するかのように。そういえば、すでにお目にかけたとおり、作者様はプロローグの段階でもう自分の価値体系を詳らかに説明して下さっていたのだった。とはいえ、分かち合うのは嫌だという発言は嘘か…。とにかく、ここに訳出した部分に散りばめられているのは、@偉大なロシア文学とその格下げ、A文学遍歴と性遍歴の混交、B叙情的逸脱、あるいはテクストの多層化(この場合は夢が媒介)そしてC罵倒である。前例と同様、細かく分析してみよう。
ここでレーナとの出会いのいきさつを語る語り手は、まず、「お前と出会ったとき、俺は童貞じゃなかったя тебе достался не девственником」という文学上破格の告白をする。(男が純潔でないからといって批判されることは文学上極めてまれである。気にかけるのはドストエフスキイの主人公たちくらい)。ロールのインタヴューで、ロシア文学における不当に虐げられた女性たちを解放してやると宣言しているヤルケーヴィチは、女性の処女神話解体のために、神話の領域を男性にまで広めるというアナーキーな方法を採択したのである。これはアーネチカ(アンナ・カレーニナ)やソーネチカ・マルメラードワへの同情として繰り返し言及されるモチーフへと発展する。以下は一つの発展例。

その手でソーネチカの破れた処女膜を繕い、アーネチカを汽車の下から引っ張り出してやりたいと思わないようなロシアの男は糞野郎だ。そいつがロシア人じゃなくて、しかも男じゃなかったとしても、そうしたいと思わないなら糞野郎ですらありえない。そんなやつは人間じゃない。ソーネチカに初めての代金として30 ルーブルが支払われたその瞬間、人間なら哀れだと思わずにいられないだろう。汗ばんだ指で、新しい札が差し出される、ペテルブルグの雨模様の晩に。
ソーネチカの方は恥ずかしい、ソーネチカの花は手折られた、ソーネチカは泣いている、だがこれは甘い羞恥、泣くな、ソーネチカ、泣くな、汚れたバカ女(дура ты ебаная)、全ロシア文学が未だお前の処女膜にすがっているのだ。俺なら、ソーネチカ、お前の代わりにレーナを横たえたか、それとも俺自身が横たわっただろう、足をまるで翼のように伸ばして、だが、これは前世紀のできごと、その上ちょうど中期に当たる、ホモセクシュアルの流行は未だ遠く、男と男はやらなかった。
文学においては。実生活では、話によると、やったそうだが。でも、ほどほどに、毎日はやらない、火曜日毎か、謝罪の日曜前夜。(с. 69)


次に、レーナの男性遍歴。離婚歴のあるレーナは、ドストエフスキイに夢中になり、トルストイを愛し、ボヘミアンと浮気し、チェーホフの秘密を知りたがる。これはもちろんそのまま彼女の文学遍歴であり、語り手と付き合っている間、彼女は作家としてのヤルケーヴィチの読者でもあるわけだ。(余談だが、ボヘミアンが誰なのか、ロシアの作家なのか、外国の作家なのか、詩人なのか、他の職業の人なのか、ただの男か、想像してみるのもなかなか楽しい)。「大作家」の顔に主人公の恋人レーナの元愛人という喜劇の仮面を被らされた作家たちは、小説中、「大作家」「偉大なロシア文学」を代表する「キャラクター」として、ヤルケーヴィチに自由自在、というよりは好き勝手に動かされることになる。ここでなされているのは、言うまでもなく、「偉大なロシア文学」神話の解体である。(クーリツィンはこれを≪Великая Русская Литература≫ と大文字で、または≪ВРЛ≫ と頭文字で表記する。前掲書)。
の会話、それにドストエフスキイ『白痴』でイッポリートの見る昔飼っていた犬「ノルマ」の夢、『カラマーゾフの兄弟』のイリューシャの犬、トゥルゲーネフの『ムムー』、チェーホフ『犬を連れた奥さん』、ブルガーコフ『犬の心臓』等々…、結構お気に入りの形象であるようだ。それにしても、ゴーゴリのしゃべる犬や毒虫と戦うノルマ、人間に作り変えられるシャーリクなど、奇異なイメージを持つ犬もいるが、夢とはいえ、セックスの対象にされた犬は初めてではないか。しかもその際、セックスに適する品種が問題にあがってくる…。人間中心主義反対!動物愛護!という反論は私の叙情的逸脱にすぎないが、プーシキンが『エヴゲーニイ・オネーギン』で用いた叙情的逸脱の手法はポストモダンではこうなるのだ。まあ、プーシキンだって、19 世紀の初頭に「女性の足ってのはなんて食欲をそそるんだ」ってなことを言ってたんだから、150 年以上経ったらこのくらい進歩してもおかしくないのかもしれない。ちなみに、アンドレイ・ビートフは「プーシキンはポストモダンの先駆者」と主張しているが(「時空の境界線上のミチキー」アガニョーク、1997 年16 号)、実際、ロシア文学のコンテクストにおいて、プーシキンの叙情的逸脱はゴーゴリを経て、ポストモダンのインターテクスト性を開花させることになる。
もちろん、この夢を媒介とした、いささか非現実的でセクシュアルなイメージは、ヒロインのいわゆる「ヒロイン」という固定概念を取り除く役割をも果たしている。主人公だけでなく、女主人公の方も、理想化・神話化の可能性があらかじめ剥奪されている。なにせВРЛ は、「汚れていない娼婦」の神話化に成功した経歴を持つくらいだから、とにもかくにも慎重に、用意周到にことを運ばねばなるまい。
「文学についての文学」であるヤルケーヴィチのテクストは、当然インターテクスト性に溢れている。というよりも、語り手の叙情的逸脱(主に文学談義)などの別層のテクストを無数に組み込むための「レーナとの交際のいきさつ」、という仮の筋があるだけで、「主な筋」などは存在しない。組み込まれるテクストのうち、最も大きな割合を占めているのは、語り手の意見では「一行一行がセックスを促している危険な戯曲で、子供や、ましてや学生には読ませてはならず、舞台化などはもってのほか」であるというチェーホフ『桜の園Вишневый сад』のレーナによる舞台用新演出案、『桜の地獄Вишневый ад』4 パターン、およびそのアメリカ映画バージョンとして語り手が創作する『山羊たちの沈黙Молчание козлят』(当然、『羊たちの沈黙Молчание ягнят』のパロディ)3 パターンである。
どれも恐ろしいまでにステレオタイプで俗で荒唐無稽なのだが…。とりあえずあらすじを紹介しておこう。
まずは、『桜の地獄』。舞台は、@40 年代末〜50 年代初のシベリアのラーゲリAアフガン戦争中の戦地の病院B南部の家畜小屋C共産党地区委員会の選挙キャンペーン集会。主人公はいずれもフェージャで、@未成年A貧しい兵隊の若者BヤギC若き指導者という身分にある。どの場合も、チェーホフの記念日に『桜の園』が上演されることになる。@〜Bではフェージャが劇中劇で何らかの役を演じ、最後のせりふを言う前に殺され、強姦される。Cでは共産党だったはずのフェージャは精神的に転向し、政見演説の代わりにギターを片手にソルジェニーツィンのフレーズや聖句を歌う。軍隊が呼ばれ、フェージャは撃ち殺され、体の各部を切り取られる。その日の『桜の園』の上演では、どの役にも死んだはずのフェージャが登場する。


一方、『山羊たちの沈黙』の舞台はアメリカ。主人公はアメリカナイズされ、性的偏執狂マニアになったフェージャ。彼はロシアでロシア古典文学にひどい目にあわされた恨みの矛先をアメリカに向ける。性器が切り取られ、ばら撒かれたり、身体がつぎはぎにされたりする猟奇事件がアメリカを恐怖に陥れる。アメリカを守るのは警察官ジャック・ドゥーブリン(姓は英語で言うならdouble の意味)。ブロードウェイで『桜の園』の初日が開く日、劇場前に切り取られた性器が投げ捨てられる。ジャックは上演中、客席でフェージャを発見し、ペニスに噛み付いたフェージャの歯を逆にペニスの力でへし折って退治する。『山羊たちの沈黙U』ではチェーホフになったフェージャが同様の猟奇事件でアメリカを騒がせ、ジャックは墓から甦ったロシアの作家を撲殺できる唯一の武器、『ドクトル・ジバゴ』の本
でチェーホフをやっつける。『山羊たちの沈黙V』では、再び甦ったチェーホフとフェージャの二人を退治するために、ジャックはアメリカにあるロシアの古典作家たちのアジトに潜入し、唯一の武器『ドクトル・ジバゴ』でトルストイらロシアの作家たち、およびその登場人物たちを次々とやっつけ、アメリカに平和を取り戻す。
要約するだけでばかばかしくてやってられなくなる。「ヤルケーヴィチによってずたずたにされたチェーホフ」というイメージさえ浮かばない。ヤルケーヴィチにおいては、実在した作家チェーホフとはまったく別の次元で話が進んでいるからだ。ちなみに、≪Молчание козлят≫ のкозел とはただ「山羊」であるだけではなく「ろくでなし」を意味するスラングでもあることは周知のとおり。この挿話の中では、アメリカ人はみんなкозлыと言われている。ついでながら、「フェージャ」という名前にドストエフスキイ(フョードル)を見るのは私だけか?
さあ、やっとCの罵倒までたどり着いた。引用文まで戻っていただこう。ここではロシアの作家との関係のことで、レーナが「バカ女дура」「売女блядь」などの不名誉な称号を頂戴して罵倒されているが(天使は罪を負い得なくとも、バカや売女ではあり得るらしい)、この作品には性や排泄に関する語を用いた罵語がグロテスク模様の植物に生える爬虫類のように散りばめられている(хуй знает что; хуй с ним; еб твою мать; я ему хуйнамотаю на яйца; в жопу и т.д.)。このような身体と密接につながっている俗語は、ヤルケーヴィチの場合、セクシュアリティを剥奪されている。この点に関して、スコロパノワはヤルケーヴィチの俗語を、アクショーノフやリモーノフにおけるような性の感覚の表現手段としてのものと区別し、次のような指摘をしている。「多価で、また、伝統的な豊かな表現力という後光を背負った俗語は、言葉では言い表しがたいものを、言葉そのものの持つ個の性的な感覚のみならず、『汚れた』ニュアンス、卑猥さをこめて表現することを可能にする。だから、ヤルケーヴィチの俗語使用は主に私的でない領域にかかわっている」。語り手=主人公=オナニストと同様、彼の使用言語も「去勢された」ものである、というスコロパノワの分析は刺激的である。ただ、触れておくべきはこの罵語・俗語の多様は、他方、文章のモノトーン化にも繋がってしまっていることである。きらびやかなマニエリスムの文体は、俗語を包含することで、プリミティヴ化する。プリミティヴ化により、エカテリーナ二世好みのロココ調のような絢爛さへと堕ちていくのを回避できるかと思いきや、類似語彙群である俗語の自己主張は全盛期のフェミニズム運動のようななだれを起こしてしまった。結果として、ヤルケーヴィチは自らが解放したはずの語彙に囚われてしまったの
ではないか。


3, 文学とセックス
アメリカの作家とロシアの作家の生態が連続物の小話の形式で描かれる。飲んだくれること、妻の頭を『ドクトル・ジバゴ』で殴る(ебать жену по голове романом ≪Доктор Живаго≫ちなみに、ебать は俗語で「犯す、セックスする」という意味でもある)ことが趣味のロシアの作家と、快適な暮らしに身を沈め、ちょっぴり退屈して時にはホモセクシュアルに走りたくなったりするアメリカの作家の対比はかなり可笑しい。ただ、自分自身「ロシアの作家」であるヤルケーヴィチはやはりロシアの作家を贔屓しているような感覚が残るが。
作家を国家や国民に変えたり、大統領たちの顔を想像したりするのは読者の自由。では、引用を挙げておく。


ロシアとアメリカの作家だけがこの世で唯一の作家なわけではない。世の中に作家はたくさんいる。アジアの作家がいる。ラテンアメリカの作家はいい仕事をしている。近年はチェチェンの作家が華々しく名乗りをあげた。常にレベルを保っているのがヨーロッパ、アラブ、ユダヤそしてオーストラリアの作家たちである。だが、文学の主流を決定しているのは、まさにロシアとアメリカの作家なのである。
アメリカの作家は、文学の巨匠、だが、セックスの分野にも素晴らしく精通している。アメリカの作家はとてもセクシーだ、彼はアメリカ全土でプレイボーイとして名を轟かせている、とはいえ、やっぱり文学の方がセックスよりもアメリカの作家の心を大きく占めているのだが。
ロシアの作家は文学の巨匠というよりはセックスの巨匠だろう、とはいえ、文学の分野にもロシアの作家はよく精通しているが。文学に関してなら、アメリカの作家に尋ねたほうがいいし、セックスの場合は、やっぱりロシアの作家だろう。
ロシアの作家は、オナニーには強くないのだが、その場合はアメリカの作家がいつでも助けに駆けつける、反対にアメリカの作家が文学上の問題で袋小路から抜けられなくなった時は、ロシアの作家がいつでも助け舟を出す。(с.88)


***


あるときアメリカの作家はパステルナークの小説『ドクトル・ジバゴ』を読もうと決心した。アメリカの作家は何も理解できなかったし、小説の言語も、問題設定もまったく他人事のように思われたが、それでもとても面白かった。
ロシアの作家もパステルナークの小説『ドクトル・ジバゴ』を読もうと決心した。読書開始後5 分ほどで、ロシアの作家は大声で叫び始めた。「どうすりゃいいんだ、こんちくしょう(хуй его знает)!」、そして小説を手に取り、眠っている病気で妊娠中の妻の頭を殴った。こめかみに当たらなくてよかった!あくる朝、ロシアの作家の妻は血まみれになった枕カバーを洗濯した。(с. 92)


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あるときアメリカの作家は男としてちょっと嫌な気分を味わった。ペニスが立たなくなったのである。アメリカの作家は性病院、白魔術、黒魔術にも助けを乞うた…、みんなお手上げで、誰もどうしたのかわからない。だが、その後、いつのまにか自然に治ってしまった。
ロシアの作家もあるときちょっと嫌な気分を味わった。ペニスが立たない。立たないと言ったら立たないのだ!そこでロシアの作家は妻のところへ行って、一度、だが非常に強く頭を小説『ドクトル・ジバゴ』で殴りつけた。ペニスは一瞬にして立った。
アメリカの作家の妻はロシアの作家パステルナークに対して無関心である。アメリカの作家の妻は例のロシアの呪われた問題を全部知っているわけではない。
彼女の意見では、ドクトル・ジバゴはよくいる運の悪い人だ。ラーラの方は得体が知れない。
ロシアの作家の妻はロシアの作家パステルナークを毛嫌いしている。もしもパステルナークが『ドクトル・ジバゴ』を書かなかったなら、ロシアの作家は彼女を何でも他の小説で殴っただろうが、それにしても「パステルナーク」という苗字は聞いただけで吐き気がする。(с. 99)


4 、エピローグ― 小説の後の詩
小説の終わりには、エピローグとして、25 の詩が付けられている。一行どころか一言の詩もあるくらいで、詩と名付けられるのかどうかすらも定かでない。(例えば、8. 妻バカ女!9. 妻の女友達お前もバカ女!11. 女たちメス犬!13. ロシア国民ろくでなし!17. 犬犬は好きだ! 18. 金金はない。19. 神神も、ないと思う。/俺に何かできるとでも?)。叙情的ポストモダニズム、短編小説のパロディ、アネクドートという手法を試してみて、残ったのは詩だったのか。「知とセックス」で寓話における「道徳」にかんする言及がある。クルィロフの寓話を舞台化しようとした語り手とレーナは、寓話の結論として与えられている「道徳」部分の扱いが上手くいかず、結局失敗する。この、エピローグの詩はヤルケーヴィチ流「道徳」のパロディであるのかもしれない。つまり、倣うべき道徳など、この小説には存在しないということ。ロシアの作家のポストモダン的無責任さを弁解する詩で、この本は閉じられることになる。


25. 愛

皆さん、どうかお許しを
私はロシアの作家です!
皆さんが大好きです!
でも変わることはできません!
Простите меня, люди,
За то, что я . русский писатель!
Я вас всех очень люблю!
Но я не могу иначе! (с.159)

総合点および作家の展望
クーリツィンは前掲書で「偉大なロシアの言語文化が革命およびそれに続く受難の直接の原因ではなかったか?」というペレストロイカの歴史修正期に起こった議論を持ち出し、ヤルケーヴィチの作品がその一つの回答となっていることを指摘している。また、スコロパノワの「去勢」論は、ドゥルーズ・ガダリの「アンチ・オイディプス」の視点から導か
れたものである。こんな風に、ヤルケーヴィチへのアプローチの道は無数にある。本論考で挙げた以外にも、例えば、格下げ、テクストの多層空間とその混交、脱ヒエラルキー、罵語等々から、バフチンのカーニバル論を用いて研究することなども可能であろう。ヤルケーヴィチの作品は、問題設定、文体、テクスト空間の充実など、あらゆる面で多くの重要な視点を包括しており、また、それが比較的わかりやすい形で表現形式を獲得しているので、研究者にとってはありがたい作家であると言える。
俗語の導入という点に関して言うと、この手法もすでにロシアポストモダニストの先駆
者、すなわちプーシキンによってすでに用いられており(『修道僧≪Монах≫』1813、『ガ
ヴリーリアーダ≪Гавриилиада≫』1821、『ツァーリ・ニキータと40 人の娘たち≪Царь
Никита и сорок его дочерей≫』1822 等)、しかも、プーシキンの先駆者としてさらに『ルカー・ムヂーシチェフ≪Лука Мудищев≫』(Мудищев という姓の語根は睾丸を意味するмуди)イワン・バルコフ(Иван Барков 1732 頃-1768)がいる。つまり、文学における俗語使用については、文学史的な研究論文を書く必要があるくらいで、まったく新しい手法であるとは言えないのである。ヤルケーヴィチの斬新さは、ポストモダンというコンテクストの中で、研究対象として値する文学の層で勝負してきたことと、スコロパノワの指摘する「去勢された」俗語の用法にある。
ただ、この「去勢された言葉」は、先にも述べたように文体のモノトーン化につながる。さらに、モノトーン化を起こす要素は他にもある。例えば、俗語だけでなく、「偉大なロシア文学」をも一つのイメージととらえる態度。文学作品の一般的、教科書的な解釈をそのままイメージとして受け入れ、その神話的イメージを解体するという、いわゆる表層の「ポストモダン的」アプローチでは、先人たちのテクストのなま生の身体に触れることはできない。
このような方法では、例えばミラン・クンデラが『不滅』で試みているゲーテとの対話や、『笑いと忘却の書』における文豪たちのニックネームを持った芸術家たちの対話などの持つ深みは生まれないだろう。解体する前の構造の熟知、確固とした基盤、という、あらゆる「技としての芸術」(日本語の「道」に相当する意味でのискусство)に不可欠な部分が、ヤルケーヴィチにおいては今ひとつ浅いのではないかという感が否めない。それもポストモダンの一つの態度であると言われればそれまでだが、この態度こそ、ポストモダンの「もはやすべてやり尽くされた」という閉塞感を強め、ヤルケーヴィチ流に言えば「自慰行為にふける」しかないような状態に追い詰めているのではないか?
もちろん「俺は自慰行為にふけるぞ!」というのも一つのマニフェストとなり得ることは否定しない。しかし、現代ロシア文化の興隆を願わずにはいられないのがロシア文学に携わる人間の常。タブー解禁、神話崩壊、イメージとの戯れと、表層の次元でできることをヤルケーヴィチはもはややってしまったのだ。文学に通じ(今後さらに深める余地はあるとはいえ)、また、時代の流れ、思想、アクチュアルな議論などをきちんと捉えて自分のものにすることのできる、「斬れる」作家、ヤルケーヴィチ。自慰行為の匂いのする照れ隠しの作品ばかり書いていないで、視野を広げ、さらに、自分のテクストにも生身の他者として対峙するようになれば、世界文学のコンテクストで語ることのできる作品の生産者となるのではないだろうか。