19世紀前半の右岸ウクライナにおける
国有地農民の改革
- 負担金納化の農業史的意義 -

松 村 岳 志


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はじめに

右岸ウクライナとは、ロシア帝国西部(1772年、並びに1793年の第一次、第二次のポーランド分割によりロシア領となった地域、およびそれ以前からロシア領であったキエフ市とその周辺)のうち、キエフ総督治下の南半分のことであり、帝政期には、キエフ、ポドリヤ、ヴォルィニの3県に分けられていた (1) 。この地方では、国有地農民の封建的負担が、1843年に賦役から貢租(オブローク)へと代替されている。この負担金納化は、1837年に始まる「キセリョフの改革」とは別個に扱われることが多いが、その二つは一貫した国有地農民の改革として理解されなければならない (2) 。本稿では、この負担金納化がこの地方の農業経済の発展においてどのような意義を持っていたのかを、この直後に実施された領地台帳(インヴェンターリ) による領主地農民(農奴農民)の改革(1847-1848年)との比較において検討したい。
なお、領地台帳による改革は、農民の負担軽減を標榜したものであるが、実際には、農民の分与地面積と賦役日数との関係を以前の逓減的なものから逓増的なものに変えた点に意義がある。すなわち、領地台帳改革以前においては、農民の保有する分与地面積が広ければ広いほど、分与地1デシャチナあたりの賦役日数が少なくなっていたのに対して、領地台帳改革以降は、農民の保有する分与地面積が広ければ広いほど、分与地1デシャチナあたりの賦役日数が多くなったのである。したがって、改革以前には、より広い分与地を持つ農民ほど、賦役が相対的に軽かったのだが、改革以降は、より広い分与地を持つ農民ほど賦役が相対的に重くなり、一定限度以上に分与地を保有することは、かえって農民にとって不利になったのである。このことは、以前から行われていた農民地の奪取による領主地の拡大をますます進めたであろう。同時に、この改革は中小農民の負担を削減することによって、彼らの経営水準を引き上げ、逆に豊かな農民の負担を増加することによって、その経営水準を引き下げ、結果的に農民の経営水準を均等化するという役割をも果たしたと考えられる (3)
そもそも国有地農民 ≪государственные крестьяне, казённые крестьяне≫とは、ピョートル大帝の時に、いかなる私的土地保有者にも従属せずただ国家だけに従う農民を指すものとして使われるようになった範疇である (4) 。当初国有地農民とされていたのは、シベリア耕作民 ≪сибирские пашенные люди≫,チェルノソーシュヌィエ農民 ≪черносошные кресть-яне≫とその折半小作農民≪половники≫,タタール ≪татары≫ およびヤサク農民 ≪ясачные≫、郷士 ≪однодворцы≫と彼らが保有する農奴、さらに正規軍の整備によりその意義を失った各種の旧軍勤務者であった (5)
シベリア耕作民とは、シベリア各地のロシア軍要塞守備隊に食料を供給する耕地を耕作していた農民である。チェルノソーシュヌィエ農民とは、外国からの攻撃の恐れが少なく、そのため国家が領主をおかなかった北海沿岸地域の、農奴化されなかった農民であり、彼らのなかには折半小作農民を自らの分与地においているものもいた。タタールとヤサク農民とはアジア系の被征服民族であった。郷士は、南方辺境地帯を遊牧民から防衛するためにそこに入植した下級軍人であり、時には自ら農奴を保有していたが、これら郷士の生活は多くの場合農民と変わらなかった。旧軍勤務者と郷士とは本質的に同様であって、ドルジーニンは、旧軍勤務者を、「何らかの原因で郷士に入れられなかった者達」と言っている。郷士も旧軍勤務者同様、ピョートル大帝の軍制改革によって軍事上の意味を失い、農民化されたものであった (6)
しかし、国有地農民という範疇は、ロシア帝国の拡大と共にさらに多くの種類の人々を含むようになった。バルト海沿岸地域の征服やポーランド分割により、これらの地方の国有領の農民が、国有地農民に編入された。1764-1786年には教会財産の世俗化が行われ、経済庁農民 ≪Экономические крестьяне≫と呼ばれていた教会領農民も国有地農民と同じ立場におかれた。19世紀初めには小ロシア・カザークが国有地農民に編入された (7) 。このような膨張の結果、1835年には国有地農民は、ロシア帝国の総人口の34.6%、農民人口全体中の44.3% を占めるに至った (8)
この国有地農民の状態を改善するために1830年代の末から1840年代にかけて改革が行われた。国有地農民のこの改革が行われた経緯等については、いずれ稿を改めて論ずるつもりだが、ここでは次のことを強調しておきたい。すなわち、右岸ウクライナを含めて帝国西方の諸県では、ロシアの他の地方と異なってこの時初めて、賦役制度の過重さに疲弊した国有地農民の生活状態を改善することを目的として、彼らの負担が賦役から貢租に切り換えられたのだが、このことは、国有地農民と並んで農民の約半数を占めていた領主地農民の改革が、1861年の農奴解放に至るまでほとんど全く進展していなかったとされている (9) こととの対照において、非常に大きな肯定的変革をもたらしたかのように評価されがちだ (10) 、ということである。
しかしながら、右岸ウクライナでの国有地農民の改革の経済史的意義は、これまでほとんど検討されていない (11) 。これには、右岸ウクライナの国有地農民の数があまり多くはなかったということが一因をなしているのかもしれない。実際、1835年におけるキエフ、ポドリヤ、ヴォルィニ3県の総人口中に占める国有地農民の比重は、それぞれ12.2%、7.0%、12.6%に過ぎず、農民全体中の比重もそれぞれ15.0%、10.2%、16.5%だったのである (12)
帝政期のセメフスキーとシュリギンは、この改革を農民保護策と考えた。それ故彼らは、この改革を機に、右岸ウクライナの国有地農民が国庫に給付していた封建的負担の滞納が一掃されたことを称賛し、これをもって農民のおかれた状況が改善されたとしている (13) 。だが、彼らは、この改革をその後の農業経済の発展とは関連づけていない。ソヴィエト期の歴史家ドルジーニンによれば、改革は国有地農民に対する国有領地占有者の恣意を消滅させ、農民地を若干拡大し、封建的負担を削減し、農民経営における自立性を拡大し、これが小生産者たる国有地農民の状況に有益な作用を及ぼしたとされる (14) 。さらに彼は、改革は「右岸ウクライナ農業の全体的な後進性を払拭できなかった」としながらも、改革後の「右岸ウクライナは絶えず貨幣流通の発展の中に入り込んで行った。そして貨幣流通は地域の農民階級を分化させ、資本制的諸関係の発展の土壌を準備した」 (15) 、と述べている。このドルジーニンの説明においては、改革による農民の状況の改善と右岸ウクライナ全体の資本主義の発展との関連は明示的ではない。右岸ウクライナは、甜菜栽培を主要な柱の一つとして、いわゆるプロシア型の資本主義的農業が発展を見た地方の一つである。それ故、右岸ウクライナ農民の状況の改善に言及する以上、プロシア型の資本主義的農業との関連は是非とも論じられるべきであると考えるが、その関連はドルジーニンにあっても、曖昧なままなのである。以下ではこの関連について検討するが、その前に先に、右岸ウクライナの資本主義的農業の発展過程を一瞥しておこう。
右岸ウクライナの3県のうち、キエフ県とポドリヤ県の大部分は、人口密度が高く、土地の肥沃な森林ステップ地帯にあったが、ヴォルィニ県の大部分は、人口密度が低く、土地の痩せたポレシエ(低森林地帯)に属しており、さらにバルト郡などポドリヤ県の一部は、人口密度が低く、土地の肥沃なステップ地帯に含まれていた (16) 。これらの地域のうち、19世紀末に、いわゆるプロシア型の資本主義的農業が発展したとされているのは森林ステップ地帯である (17) 。この地域では、すでに1830年代から1840年代にかけて輸出向け農産物の生産が拡大する (18) なかで、領主は自らの経営を拡大するために農民分与地の奪取を進め、同時に農奴農民の雇用労働を利用しはじめていた (19) 。さらに領地台帳の改革は、農民地奪取と賦役削減とを一層押し進めた。その後、1861-1863年に行われた農奴解放は、こうして既にその意義の一部を失っていた賦役を完全に解消した。19世紀末までに完成するプロシア型農業の発展の土台はこの段階で整う (20) 。これを代表するのは旧領主の経営であって、そこでは甜菜と小麦とが最も重要な農産物であり、農業経営上の利益のほとんどはここから出ていた (21) 。このような経営は極めて集約的であって (22) 、季節的に大量の労働力を必要とし、それを主に現地零細農民の雇用労働によってまかなっていた (23) 。つまり、かつての領主が農場主に転化し、かつての農奴が、わずかな土地を持ち、主に旧領主の農場での労働から生活手段を得る半農民的農業労働者に転化したのである。このような右岸ウクライナの農業発展に対して、国有地農民の改革はどのような影響を与えたのであろうか。

1. 右岸ウクライナの国有地農民と改革

(1) 「キセリョフの改革」直前の状況

さて、一般に農奴解放前には、国有地農民の状態は領主地農民の状態に比べて幾分良かったとされている (24) 。それは、国有地農民が領主地農民とは異なって、多くの場合賦役を課されておらず、領主やその管理人の直接の監督下におかれておらず、商工業に従事することができ、自分の名義で財産を獲得する権利をもっていたからである (25) 。しかし、右岸ウクライナでは状況は全く異なっていた。以下では「キセリョフの改革」直前の右岸ウクライナの国有地農民の状況を検討する。
まず、右岸ウクライナには、中央ロシアで国有地農民の中核を成していたチェルノソーシュヌィエ農民、シベリア耕作民、タタール、ヤサク農民といった範疇の農民が全くいなかった。「キセリョフの改革」直前の右岸ウクライナで国家に従属していた農民は、旧正教修道院領農民、司令官領農民、旧カトリック教会領農民、そして没収領地農民などであり、これらの農民の状況は、国有地農民一般の状況とは全く異なっていたのである。
旧正教修道院領の農民は、ポーランド分割以前からロシア帝国領であったキエフ市の周辺にまとまって居住していた。彼らは、1786年の法律で正教修道院から国家管理下に移管され、1797年以降既に賦役ではなく貢租を課されていた (26) ので、改革の対象とはならなかった。
司令官領 ≪старостинские имения, староства≫は、リトアニア=ポーランド国家の国有領地であり、国家に対して功績のあった貴族領主には、司令官領の終身の、または世襲的な(1774年のポーランド国会後はエムフィテウム権 (27) による50年間の)占有権、 すなわち司令官 ≪старосты≫という職が褒美として与えられていた。司令官は、司令官領の収入の一部を受け取り、司令官領の農民を、貴族領主がその農民を支配するのと同様に支配していた。そして、 司令官領の土地は農民地と農場とに分けられており、農民の義務は農場で行う賦役だった。毎週の賦役とは別に、農繁期の全農奴招集労役や建設労役、荷役といった副次的な負担があり、さらに各種の貨幣貢租や現物貢租が課されることもあった (28) 。これらの封建的負担の内容は各領地の領地台帳に記載されており、この領地台帳は5年ごとに行われる農民義務検査 ≪люстрация≫によって改訂されることになっていた (29) 。しかし、当時においては、領地台帳の記載を無視して過重な負担の遂行を農民に求めることが、しばしば行われていた (30)
このような状況は、ポーランド分割後も当初はほとんど全く変わらず、ロシア人の大貴族が司令官領を、普通6年、あるいは3年、または12年の間、国庫に一定の賃借料を支払った上で、占有していた (31) 。しかし、司令官領の占有権を得たロシア人貴族は、法律によって禁止されているのを知りながら、しばしばそれをポーランド人貴族に売却あるいは賃貸した。司令官領の農民の分与地が司令官によって奪取されて農場地にされることもたびたび生じており、さらに、司令官領に属する土地が近隣のポーランド人領主によって組織的に横領されることもあった (32)
司令官領の農民は、所有する役畜の数、および土地保有の有無で、いくつかの種類に分けられていた。農民の種類は、まず、耕地を持つ定住農民とそれを持たない非定住農民とに分けられていた。さらに、定住農民は、役畜を6頭以上所有する犂役農(プルゴヴィエ)、4頭所有農(ポチヴォルヌィエ)、3頭所有農(ポトロイヌィエ)、役畜を2頭所有する1対所有農(パロヴィエ)、1頭所有農(ポエディンキ)、役畜を全く持たない手賦役農(ペシエ)に分けられていた。これに対して、非定住農民は、屋敷地だけを持つ菜園主(ハルプニキ)と、屋敷地すら持たず他の農民の家に住む無宿農(コモルニキ)とに分けられていた。彼らはその等級に応じて賦役を果していた。具体的には所有役畜数が多ければ多いほど等級が高くなり、等級が高ければ高いほど、年間賦役日数も多くなったのである (33)
このような所有役畜数と土地家屋の有無による等級付けおよび賦役日数決定は、右岸ウクライナの領主地農民においても全く同様であった。そして、領主地農民の義務負担もやはりほとんど賦役であった (34) 。カトリック修道院領の農民もまた賦役を課されていた (35) が、その実態については今のところ適当な資料を見いだしていないため、特に論じることはできない。いずれにせよ、「キセリョフの改革」以前には、右岸ウクライナの農民は、貢租を支払っていた旧正教修道院領の農民と、賦役を果していたそれ以外の全ての領地の農民とに分かれていたのである。そして、前者は大ロシアの国有地農民と類似した状況におかれていたが、後者はこれとは全く異なった過酷な状況におかれており、また、その中でも、後述するように、領主地農民の方がより悲惨な状態におかれていた、と考えられる。
ところが1830年にポーランド反乱が生じ、大きな変化がおこった。西方諸県、すなわちリトアニア、白ロシア、右岸ウクライナの各地でも、貴族領主中多数派を占めたポーランド人貴族が、反乱に呼応した。ロシア政府は、反乱に参加した領主の領地を没収し、これらを国家管理下においた。1837年には、西方諸県全体で335の没収領地があり、これらの領地の農民の数は、男性登録農奴数で110,870人であった (36)
他方、1832年には、法律で規定された数の修道士がいないということを口実に、西方諸県全体で304のカトリック修道院のうち191の修道院が廃止され、その領地は国庫に移管された (37) 。  取り上げられた修道院の領地や没収された領主領地、そして占有者が変わった司令官領は、全て新たに入札により賃貸されたり、当局が地元領主の中から選んで任命する行政官の支配下におかれたりした。その他に自由雇用の管理人の管理下におかれる領地もあった (38) 。右岸ウクライナの39の旧修道院領を例にとれば、そのうち24までが 3〜6年の期限で主にポーランド人である地元領主に賃貸された。10は行政官の支配下に、一つは国庫の管理下におかれたが、いずれも賦役農場となっていた。賦役の代わりに貢租の支払いを命じられたのは、残り四つの小さな領地の農民だけであった (39) 。国有領地の支配者は一般に領地占有者 ≪поссессоры, владелецы≫と呼ばれた。ただし、これらの行政官、賃借人、自由雇用の管理人そして「国庫の管理」が相互にどのように異っていたのかは、必ずしも明らかではない。いずれにせよ、これら の国有領地のほとんどは、地元領主の占有下におかれたのである。
さらに雑多な領地が国有領地とみなされていたが、それらは、たとえばキエフ県について言えば、カトリック司教食封、旧カトリック寺院領、各種の旧イエズス会領地、ランゴヴォエ領地、無嗣廃絶領地、レーン領地といったものであった。そのほか、市会農民と自由耕作者も、国家の管理下に置かれていた。しかし、1845年のキエフ県の場合、司令官領農民(男子登録農奴数約3万5千人)、旧正教修道院領地農民(同約2万2千人)、各種旧カトリック教会領農民(同約8千人)、没収領地農民(同約2万3千人) だけで合計約8万8千人となり、約 9万5千人の国有地農民の9割以上を占めていた (40) 。それ故以上4種の農民が、右岸ウクライナの国有地農民のほとんどを占めていたのである。
そして、国有地農民の中でも、旧正教修道院領地農民は、恵まれた状況におかれていたが、それ以外の全ての国有地農民の状態は、むしろ領主地農民に近かった。その結果〈表1〉が示すように、旧正教修道院領地とそれ以外の国有領地との間には、役畜保有上の大きな差が生じた。旧正教修道院領地においては、犂耕に最低限必要な2頭の役畜を持つ農民は6割に達していたが、それ以外の国有地農民や領主地農民の場合、役畜2頭持ちの農民は2割ほどであった。残り8割の農民はより豊かな農民なり、国有領地占有者なり、領主なりの役畜を借りねば犂耕が不可能であった。また、領主地農民の間では、役畜も耕地も全く持たない階層が最も多いが、これは、旧正教修道院領地以外の国有地農民の間では、1.4%しかいない無宿農民が、領主地農民の間では5.6%もいるからである。無宿農民は、領主や豊かな農民の家に住み込みで働く極貧の農民であって、その存在は、領主地農民の間で、階層化が最も激しく進んでいたことを意味するものである。

(2) 「キセリョフの改革」

さて、以上のような状態にあった右岸ウクライナの国有領地を、「キセリョフの改革」はどのように変えたのか。
「キセリョフの改革」が本格的に実施されるのは1837年以降だが、右岸ウクライナを始めとする西方諸県についての改革法案が皇帝に裁可されたのは、1839年12月28日のことであった。この法律の内容を簡単に見ておこう (41)
  1. 国有領地管理のため新たな政府機関を設ける。これにより、各県に国有財産局がおかれ、その下にあって村団を直接監督する管区長という役職がおかれた。
  2. 国有領地の一つ一つについて、県国有財産局が農民義務検査を12年ごとに行うことが規定された。
  3. さらに、農民の負担を漸進的に賦役から貢租に転換させる場の条件が定められた。
その条件とは、 (a) 農村共同体が貢租への移行を希望している、 (b) 共同体が貢租支払いを連帯責任で負うこと、 (c) 県の国有財産局の許可、の三つであった。
以上がこの法律の主要な内容であるが、注目すべき点が一つある。それは、この法律が賦役の無条件の廃止をうたってはいなかったということである。さらに、この法律によれば、国有財産局は負担の金納化を行う前に農民義務検査を行って各領地の収入を算定しなくてはならなかった。したがって、農民義務検査抜きでは、負担の金納化は実行できないようになっていたのである。
農民義務検査の実施については、この法律とは別の、しかし同時に発布された「西方諸県およびベロストク州の国有財産の農民義務検査についての法令」が詳細な規定を定めていた。そこで規定されたことをドルジーニン等に依拠して (42) 列挙すると以下のようになる。

  1. 土地を測量し、土地、農場施設、資産項目等の領地付属物を明確に記録する。
  2. 森林、藪、不適地以外の土地、つまり適地を経営上の用途(屋敷地、耕地、草刈地、放牧地)により、また質(上・中・下)により分類する。
  3. 農民を畜役農民、手賦役農民、菜園主、無宿農に分類する。
  4. 農民地、農場地、共同耕作地、予備地(空き地)として適地を再分配する。
  5. 農民の負担を、彼らが利用している土地の量や質を基準にして決定する。
  6. 領地内の土地および施設の賃貸料金を計算する。
  7. 領地台帳を作成する。

先に述べたように農民義務検査とは、本来農民の果たすべき封建的負担の確認、したがって領地の収入確認のための調査であるから、@、A、D、E、Fには問題はない。問題はBとCである。
Bはそれまでの西方諸県の犂役農、4頭所有農、3頭所有農、1対所有農、1頭所有農という複雑な階層を一掃し、これを2頭以上の役畜を持つ畜役農民(チャグルィエ)という単一の階層に変えてしまおうとするものであった (43)
この法律の意図は「全ての農民を畜役農民に、少なくとも半畜役農民(1頭所有農戸のこと)にし、その分自ら農業経営を行わぬ無宿農階層の農民の数を出来るかぎり減らす」ことであった。そこで、この意図を実現するために、無宿農民、僕婢そして工場付農奴などに土地と役畜とを持たせることになった。西方諸県では土地不足が問題であったが、この法律では土地分配を平等に行うことも目的となっていたので、この問題は次のように解決されることになった。すなわち、余分な土地を持つ農戸の土地の一部を取り上げ、これらの切り取り地で予備地を作り、この予備地を使って中小・零細農民の経営規模を拡大させることが考えられたのである (44)
これをドルジーニンは次のように評価している。「このような均等化は、新しい資本主義的な趨勢に逆行しており、国有農村における商品=貨幣的諸関係の発展を遅らせるものであったが、一定の客観的な社会=経済的意義を持っていた。一時的なこの均等化は、リトアニア、白ロシア、右岸ウクライナの農民の間で見られていた貧困化をくい止めるはずだったのである。」 (45) 。なお、無宿農民や僕婢の階層に留まることを望む者には、都市身分(町人≪мещанин≫のことであろう)に転ずるための援助を与えることが規定されていた (46) 。このようにこの農民義務検査の法律は、中小農民の経営水準を引き上げ、豊かな農民の経営水準を引き下げる機能を持っていたが、このような平等主義は領地台帳の改革と共通するものであった (47)
またこの法律のCも問題である。この法律では、農場地 ≪экономические земли≫を残すことが規定されているのである。農場地が存在するとすれば、それを耕すのは、現地の農民に他ならない。この法律においては、農民の労働力の3分の1は農場地での賦役に、残り3分の2は農民分与地での労働に用いることが定められ (48) 、賦役が週2日に制限されてはいたが、少なくとも当面は賦役の継続が規定されたのである。確かに先の12月28日の法律によって、前掲の (a) から (c) の三条件を満たした領地の負担を徐々に貢租に転換することは規定されていた。しかし、貢租への移行は、現実においては、当時実際に国有領地を管理人、行政官、賃 借人として管理していたポーランド人領主たちを不要なものとし、それによって彼らの収入源を奪うことになるのであり、その点でこの法律は、容易に実施可能なものだったとは考えられない。
事実、法律の発令にもかかわらず、右岸ウクライナでは国有地農民の負担の、賦役から貢租への切替えという課題は一歩も前進しなかった。まず、測地人不足のため、また現地の領主や賃借人の妨害のため、大部分の領地では農民義務検査になかなか着手できなかったのである (49) 。1840年から1844年までの間に、西方諸県全体で230 の領地の農民義務検査が終了してはいた。しかし、これらの領地に住む農民は、西方諸県の国有地農民全体の8%にすぎなかった (50) 。しかも、農民義務検査が終了したこれらの領地の大部分では、以前どおり賦役が行われていたのである (51)

(3) 負担の金納化

しかし、1844年に至ってこの状況に変化が生じる。同年4月、右岸ウクライナの全ての国有領地について、賃貸契約期間が切れ次第農民義務検査の実施を待たずに「暫定的に」貢租に転換すること、すなわち「暫定的」金納化が命じられたのである (52) 。これは、国有領地の占有者であるポーランド人領主階級の力を削ぐことに情熱を傾けた右岸ウクライナ総督ビビコフが、首都で皇帝に熱烈に懇願した (53) 結果であったと思われる。同時に彼はこの作業の指揮を任された (54)
この金納化は同時に、国有領地内の農場地を農民に分配することを意味していた。というのは、賦役が無くなれば、農場地も存在意義を失うからである。農場地分配においては、おそらく作業の正確度を増すことを口実としたポーランド人領主階級によるサボタージュを避けるためであろう、「より良い結果を得るためではなく、より速く作業を実施するために」、様々な手段がとられたという (55) 。土地の測量は行われず、土地面積は現地で得られた情報だけに基づいて判断され、農民の支払うべき貢租額も、農民分与地面積に基づいて近似的に算出された (56) 。最も生産力の高い土地が農民に割り当てられた結果、農民地は細分化され、他の用地と混在してしまった (57)
農民義務検査は、「暫定的」金納化の後も続けられたが、もはや収入確認のための調査という本来の目的は忘れられ、農場地の分割がその主要な目的となった (58) 。しかし、「暫定的」金納化の際に近似的に算出された貢租額も、また、農民が行った恣意的な土地分配も、農民義務検査では修正されなかった (59) 。こうして当初は「暫定的に」行われるはずだった金納化は、最終的なものになってしまった。国有領地内の農場地の最良の部分は農民のものとなり、農民地のあちこちに非農民地が点在する恰好になった。こうした非農民地は、将来に手賦役農民が畜役農民となった時に割り当てられるべき予備地、あるいは全くの空き地とされ、予備地は3〜6年、空き地は12年の期限で、主に現地の農民に賃貸された。要求があり次第国庫に返却するという窮屈な条件が付き、農民地と混在し圃場ごとに細分化された土地は、他人の役畜の踏み損を被る恐れが常にあり、外部の借地人がきちんとした経営を行うのは不可能だったのである (60)
このような不経済な国有地利用に対しては不満の声が上がり、1847年には、既に金納化された国有領地で、かつてのような農場型の経営を行おうとする試みがなされた。これは、国有領地の土地のうち空き地となっている部分から、雇用労働のみを利用する地代農場≪оброчные фермы≫を作り、これを12年の期限で貴族に賃貸する、というものであった (61) 。貴族の中に賃借希望者がいない場合には、公開入札で賃貸を行うことも決められた (62) 。しかし、実際には地代農場は少数しか作られなかった (63)
ところで、農民が賦役を行っていた国有領地は、農場地を持つ以上、それを用いて農業を行えるだけの設備、たとえば納屋、事務所、粉挽場の他、さらには居酒屋、酒醸造所などをも備えていた。これらの建築物は農場地そのものが消滅した今、意味を失い、放置されて瓦解したり、あるいは破壊されて薪として農民に利用されたりした。さらに、農場にあった役畜、農具、機械その他の動産類は農民に競売で売られた (64)
このように負担金納化のため、確かに農民は以前よりも広い土地を与えられたのであるが、同時に一つの経営単位としての国有領地は破壊された (65) のであった。また、賦役が廃止され、農場地が消滅して、農民に分配されるべき土地が増大したため、富裕な農民から余分な分与地を取り上げ、これを貧しい農民に与えるという平等化計画は沙汰止みとなった (66)


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