ヤロスラフ・フリツァーク著
『ウクライナ史概略-近代ウクライナ民族の形成-』

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1991年の独立以来ウクライナ歴史学では、新しい歴史学の確立に向けてかつてのソヴェト歴史学に対するいわゆる「再評価」の試みが行われている。未公開だった史料が公開されるにつれて、ウクライナ革命、第二次世界大戦の反ソヴェト運動といったソ連時代はタブーとされていたテーマが積極的に研究されはじめ、新史料の発見と新しい解釈が頻繁に発表されている。

それと同時に、より幅広い読者層に向けたウクライナ通史、教科書としてのウクライナ史の執筆と刊行があいついでいるのも新しい「国民の歴史」を必要とする新生国家の現状を反映したものである。ウクライナ通史の出版について語る際、カナダ、ヨーク大学のオレスト・スブテルニーによるウクライナ通史の出版にまず言及しておきたい(1)。高まりゆくペレストロイカの進行と波長をあわせるかのように1987年に初版を刊行したスブテルニーの大著は、その後のウクライナ史出版現象の出発点となったのである。スブテルニーに続いて1995年、トロント大学のポール・ロバート・マゴチもウクライナ通史を出版した(2)。北米のアカデミズムで活躍するスブテルニーとマゴチのウクライナ通史は今日、北米の大学機関でテキストとして使用されるようになった。スブテルニーの著作はロシア語、ウクライナ語を含む数カ国語に翻訳されウクライナ本国でも広く使用されているのである。北米のみならず、ヨーロッパにおいてもウクライナの通史出版が続いた。ウィーン大学のロシア・東欧史の専門家アンドレアス・カペラーはドイツ語の『ウクライナ小史』を出版し、フランスではアルカージー・ジューコフスキーもウクライナ史概説を刊行した(3)

ウクライナ本国におけるウクライナ史と題する出版物の数を正確に数え上げるのは、かなり時間のかかる作業であろう。いささか乱立気味ともいえる出版状況の中で、ここでとり上げるのはヤロスラフ・フリツァークの『ウクライナ史概略ム近代ウクライナ民族の形成ム』(1996年)である。本書は、現在ウクライナの指導的歴史家二人によって執筆された二巻本の『ウクライナ史概略』の第二巻として19世紀から1990年代までを叙述している(4)。ヤロスラフ・フリツァークはペレストロイカ以来、新しいウクライナの歴史学の確立に深く関わり、リヴィウを中心に活動している歴史家である。欧米のウクライナ系歴史家(ディアスポラ)で最も著名なイヴァン・ルシャク・ルドニツキーの本国ウクライナへの紹介と著作の出版を手がけるなど、欧米のウクライナ研究者との交流に積極的に関わってきた。リヴィウ大学出身で19世紀のガリツィア(ハリチナ)に関してカンディダート論文を書き、本書『ウクライナ史概略ム近代ウクライナ民族の形成ム』で歴史学博士号を取得したばかりの若手研究者である。1993年以降はリヴィウ大学に新しく設立された歴史学研究所の所長を勤めている。

本書の特色をひとことで言うならば、それはソ連邦の解体、ウクライナ独立という政治的変動とそれにともなう歴史学の新しい潮流の中で、著者が欧米のネーションとナショナリズムに関する様々な歴史学研究、欧米のウクライナ史研究の成果を最大限に適用して解釈した初めてのウクライナ語によるウクライナの読者に向けての通史だということである。本書の序文で著者は、ウクライナ民族の解放闘争の側面を強調してきた伝統的な民族主義歴史学と、ウクライナ史の存在を否定してきたマルクス主義史学両方に対する分析と批判を行っている。そして両者に代わるものとして著者は、欧米の歴史学理論と方法論、特に「近代化」をキーワードとしてウクライナ近代史を再構築しようと試みているのである。以下、フリツァークのウクライナ近代史解釈の特色とその問題点を若干述べてみたい。

I

ウクライナ人はしばしば「歴史なき民」と形容されてきた。19世紀の国民国家形成の時代において東ウクライナは帝政ロシア、西ウクライナはハブスブルグ帝国の支配下にあり、自らの独立国家をもっていなかったからである。民族運動を担うべきウクライナの貴族はロシア化もしくはポーランド化していた。ミロスラフ・フロホはこれら中東欧の諸民族を「小民族」と呼んだのである(5)。「小民族」とは、当該民族固有の支配階級をもたず、エスニックとしての存在は認められるが、独立した政治体を所有せず、民族固有の言語による文化をもたない19世紀の中東欧の諸民族を定義したものである。この「小民族」あるいは「歴史なき民」の概念とウクライナ史への適用についての欧米のウクライナ史研究者の論争が1960年代、80年代のいわゆる「歴史なき民」論争であった(6)。論争の中心人物イヴァン・ルシャク・ルドニツキーに深く学問的影響を受けながらも、フリツァークは「歴史なき民」のパラダイムを越える必要性を説くのである。それにかわる理論的支柱として本書が採用するのは、1980年代前半から登場したネーションとナショナリズムに関する新しい考え方である。それは、あらゆるネーションは原初的・客観的な存在ではなく、伝統社会から近代社会への転換のプロセスにおいて人為的・主観的に「創造された共同体」であると考える。そこでは、近代社会への移行を促進するものとして工業化、交通、コミュニケーション網の形成、普通教育の普及などが考察の中心に置かれるのである。このようにネーションを近代化にともなう社会的過程として社会史、文化史の手法からとらえる分析においてはヨーロッパにおける地理的な東西の差、いわゆる「歴史なき民」と「歴史的民族」、フロホのいう「小民族」と「大民族」の差は基本的にはないものとみなされる。この考え方をさらに発展させたのがナショナリズムのフィクション性を強調したベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』であった。フリツァークのウクライナ史は、過去30年の間に発展した欧米の近代化理論、主にカール・ドイッチェの社会的コミュニケーション網の形成(7)、フロホの「小民族」の民族運動の社会学的類型、アーネスト・ゲルナーのハイカルチャーの形成(8)を理論的枠組みとしてウクライナ近代史を再解釈しようとするのである。

ウクライナ近代史を農民から近代民族へと転換するプロセスとして分析する際、フリツァークは特にフロホの理論を適用する。フロホによる小民族の民族運動の三段階、すなわち少数の知識人による学問的な探求、文化運動としてのA段階、それが地域的広がりを見せ組織的な形態をとり始めるB段階、そして民族運動が真の大衆運動へと発展するC段階、という図式はウクライナ近代史研究者に幅広く応用されてきた。これを踏襲したフリツァークの19世紀の議論それ自体は、欧米の研究者にとって特別新しいものではない。むしろ本書全体を通じてフリツァークの記述に特徴的なのは、近代化によってもたらされたウクライナ民族運動の強固さに重点を置き、それを最終的にはソ連邦の解体まで結びつけて解釈した点である。

例えばフリツァークは19世紀の民族運動の発展において、いわゆるウクライナ・コサックの神話が東西に分断されていたウクライナの民族運動を統一する役割を果たしたことに注目する(9)。ロシア帝国下の東ウクライナの民族主義的知識人は、16世紀から18世紀にかけて存在したウクライナ・コサックの自治国家に対する関心を発展させ、ウクライナの過去の栄光を象徴する存在としてコサックを理想化した。コサックのイメージはタラス・シェフチェンコの詩を通じて本来コサック制度とは無縁の西ウクライナにも伝わった。そこでもコサックは理想化され、西ウクライナのナショナル・アイデンティティとして採用されることになったのである。フリツァークは、かつてのコサック自治国家が存在した左岸ウクライナ地域から19世紀の民族運動の指導者が多く登場したのは単なる偶然ではなかったと論じる。そして、コサックのイメージが歴史的神話としてウクライナ民族のアイデンティティの重要な要素となったという点で、ウクライナ人は必ずしも「歴史なき民」ではなかったと解釈するのである。

さらにソ連時代のウクライナの歴史を、フリツァークは、ウクライナ独立という頂点に向かって着々と民族主義が高まってゆく過程として解釈する。それは、1991年のソ連邦解体とウクライナ独立を必然的な帰結として位置づけるのである。欧米の近代化論に基づくネーションとナショナリズムの理論は、社会・経済的変化による近代化のプロセスがナショナル・アイデンティティを促進したのだと考える。多民族社会における近代化によってエスニック・グループの教育制度が整い、グループ間のマス・コミュニケーション網の形成が発展するのであれば、その結果それぞれのエスニック・グループは多民族社会の中で同化していくよりも、他グループとの差異をより強く認識するようになる。この点において、欧米の近代化論とソヴェト・マルクス主義の近代化・民族政策理論は共通するものがある。どちらの理論とも産業化、社会経済上の変化が伝統社会から近代社会への転換を促進すると考える。ソヴェトの民族理論は、エスニック・アイデンティティに重点を起きながらまず民族文化を繁栄(ラスツヴェト)させ、次に諸民族を接近(スブリジェーニエ)させ、最終的に「ソヴェト国民」として融合(スリヤーニエ)させることを目指すものであった(10)。一方、欧米の近代化論に基づいてソ連史を解釈するフリツァークによれば、1917年にはじまるソ連邦の歴史は、産業化、交通やコミュニケーション網の形成といった社会・経済統合による近代化のプロセスであると共に、「ソヴェト国民」としての融合よりもエスニック・グループの不満の波が高まってゆくプロセスだったと解釈される。

20世紀のウクライナ民族運動は、1917-1920年のウクライナ革命の挫折に始まり、1933年の大飢饉、1930年代のスターリンの大粛清、第二次大戦後の大規模なロシア化政策といった危機に晒され厳しい後退を度々余儀なくされた。しかし、フリツァークの唱える「近代の形成物としてのネーション」という観点から見るならばウクライナ史全体は、さまざまな危機に直面しつつもそれらを克服しながら民族意識を高め、着々と近代民族として成長してゆく過程として理解されるのである。したがってフリツァークにおいては、ウクライナ農民大衆の民族意識と「近代民族の形成」を飛躍的に進展させたという点で、挫折したウクライナ革命もその肯定的側面が積極的に評価される。また、ソヴェト体制とスターリニズムはウクライナに致命的な打撃を与えたけれども、そのような時代にあってもフリツァークは民族運動の成果を強調するのを忘れない。1920年代のウクライナ化政策や第二次世界大戦後のウクライナ・ソヴェト共和国の国連加盟については、ソヴェト民族政策の譲歩と変更をうながすほどの力強さを見せたウクライナ民族運動の成果としての側面が強調されるのである。

II

欧米のネーションとナショナリズムに関する近代化論はさておき、ウクライナ史叙述の方法には主として二つのアプローチがある(11)。主にウクライナ人の歴史に焦点を絞ったナショナル・アプローチと、ウクライナの地に居住したあらゆる民族、エスニック・グループの歴史を描こうとする地域的(テリトリアル)・アプローチである。ナショナル・アプローチは、フルシェフスキーからスブテルニーにいたるほとんどのウクライナ史家によってとられてきた。それは、時代を通じてウクライナ人の歴史と民族運動に焦点をあわせ、その結果ウクライナ史全体は最終的に独立を到達点とする単線的発展の図式を示すのである。一方、ポール・ロバート・マゴチがとる地域的アプローチは、ウクライナに居住したさまざまな民族の歴史を描こうとするため、ナショナル・アプローチのような単線的な方向性を持たない。地域的アプローチは、ウクライナ人としてのアイデンティティを否定するグループ、ロシア人、ポーランド人、ユダヤ人の歴史もその視野に含む。したがって、地域的アプローチは「ウクライナ史」の名の下に論じられる研究の射程を広げるという点でより斬新的であるといえよう。現在西側の代表的なウクライナ通史の著者、スブテルニーとマゴチがそれぞれとったアプローチによる相違は、その叙述方法と解釈の仕方において明らかである。スブテルニーは、北米をはじめとする世界各地のウクライナ人移民について二つの独立の章を設けて、居住地域に制約されない「ウクライナ人の」歴史を叙述してみせた。一方マゴチは、ディアスポラよりもウクライナの地に住むウクライナ人以外の民族、そして移民としてではなく歴史的にウクライナ人によって住民の多数派が形成されてきた現国境を越えた西ウクライナのカルパチア山脈地域、現ポーランド領レムコ、スロバキア領プレショフのウクライナ人について詳しく解説している。

フリツァークのウクライナ史はナショナル・アプローチとみなすことができるが、ウクライナに住むさまざまな民族への分析も怠っていない。フリツァークは、ポーランド人、ロシア人、ユダヤ人にも関心を払いながら、しかし全体としてはウクライナ人の民族運動、近代的民族としての形成過程に重点を置く。西ウクライナのウクライナ人以外の民族への関心という点において、マゴチとフリツァークの叙述は一見類似する印象をうける。しかしナショナル・アプローチという枠組みでフリツァークがとる西ウクライナの諸民族への関心は、西ウクライナを、ウクライナ民族運動全体の重要かつ中心的存在として提示するためである。フリツァークは、ポーランド、オーストリアという支配民族への同化の波に晒されながらも、西ウクライナのウクライナ人が最終的には「ウクライナ人」として一つのアイデンティティを確立していった過程を重視する。このポーランド民族運動と西ウクライナの民族運動の密接な関係をフリツァークは詳細に分析している。ポーランドの民族運動に影響、連携する形で発展していくウクライナ人の民族運動は、しかしながら最終的にはポーランド人の運動に吸収されることなく「ウクライナ」として自立する道を歩むのである。フリツァークはこのプロセスを、ウクライナの民族運動はポーランド、ロシアという近隣の大国との対立関係の中で成長していくのと同時にこの二大国を解体していく過程でもあったと論じる。「ウクライナ」という独自のアイデンティティを確立することによって、ウクライナ民族運動はポーランド士族の悲願であった「歴史的ポーランドの回復」、帝政ロシアの大原則「単一不可分のロシア」をなし崩しにしていくのである。それは西ウクライナのウクライナ人がポーランドに吸収されてその一部となるよりも、東ウクライナと統一してポーランドよりも大きな民族、「大ウクライナ」になる可能性を選択するプロセスではなかったかとフリツァークは論じるのである(12)。これに対して、マゴチの西ウクライナについての詳細な叙述はウクライナ人としてのアイデンティティを必ずしも必要としない。むしろ、マゴチはカルパチア山脈地域の住民に「ルーシン人」というウクライナ人とは別個のアイデンティティを確立しようとするのである(13)

さらにフリツァークに特徴的なのは、第二次世界大戦中のウクライナ人の対ナチス戦争協力についての詳細な分析である。ウクライナ人の対ナチス戦争協力は、ウクライナ史のもっとも難しいテーマの一つである。北米とイスラエルにおける戦争責任裁判との関連で、この議論が学問的研究の枠を越えた論争に発展したこともしばしばであった(14)。従来、北米のウクライナ研究者は協力の事実があったことは否定しないものの、ウクライナ人のホロコーストへの関わり、戦争協力の実態と本質について深く追究することを避ける傾向にある。そのかわり、ウクライナ人が連合国側、対ドイツ・パルチザン闘争に参加したことを強調して「ウクライナ人=ナチス協力者」のイメージを払拭しようと懸命なのである。この問題を正面からとり上げようとする試みは今まで非常に少なく、皆無といってよいほどであった。しかしフリツァークは、「戦争協力」と題する一節で主要な論争上の問題点、解釈の相違を簡潔、客観的に論じている。今までソヴェト政権のプロパガンダによって第二次大戦中の事実を知る機会を奪われていたウクライナの読者にとって、フリツァークの「戦争協力」の一節は重要な貢献をなしたといえよう。戦争協力の議論は従来、ウクライナ本国においてよりも、第二次大戦後にその戦争協力の現場であった西ウクライナ地方からの移民によって多数派が構成される北米のウクライナ人社会において活発に議論されてきた。したがって、この問題についての本書の詳しい分析は、西ウクライナ出身である著者が、戦争責任裁判と市民権剥奪問題に揺れる北米のウクライナ人社会と彼らの研究状況を如実に吸収した結果なのである。この点については、たとえば本書と同時期にキエフのウクライナ歴史学研究所から刊行された『ウクライナ史』の中で戦争協力の問題がほとんど言及されていないこととも対照的である(15)。戦争協力の問題はウクライナ史の重要なテーマのひとつであり、本格的な論究が今後期待されるものである。しかしそれはさておき、本書は全般的な傾向として著者の出身地、西ウクライナを過度に重視している印象を持たざるをえない。そして通史という本書の性格を念頭において考えてみるならば、それはややバランスを欠いた印象を読者に与えてしまっている。

確かに西ウクライナ、特にガリツィア(ハリチナ)をめぐる問題は、民族解放闘争との関係からも、ウクライナ史研究で特別な位置を占めてきたし今後もそれは変わらないであろう。しかし、ウクライナは歴史的に民族構成、社会経済発展の地域的差異が非常に大きな国である。本書では西ウクライナにおける異質な文化集団の共存と対立の構図が綿密に分析されているので、これが東ウクライナなど他の地域についても同様になされることが望ましかった。多民族社会としてウクライナの歴史を叙述するためには、西ウクライナ中心の民族解放闘争以外の視点にたった、さらなる分析が待たれることである。

III

さて本書に対する評者の疑問点として、まずあげられるのはソ連邦解体後の現状から当然予想されるものとはいえ、本書がソヴェト時代の一方的な批判と否定を含む叙述になったことである。フリツァークは、時代を通じてナショナリズムと社会主義の相互関係に関心を払っていない。社会主義の発展をほとんど無視し、そのかわりナショナリズムの役割のみを強調する記述となった。大戦間期から第二次世界大戦にかけて西ウクライナで成立したウクライナ・パルチザン軍のイデオロギー、1960年代、70年代のウクライナの反体制知識人の運動についての詳細な言及はその例である。その結果、最終的なソ連邦解体の原因が民族運動の高まりであるかのような印象を抱く記述になったのである。

しかし今日広く認識されているように、ソ連邦解体の直接の原因は、民族主義の高まりというよりもゴルバチョフとエリツィンの権力闘争、社会・経済改革の行き詰まり、ペレストロイカの失敗である。しかしこうした側面は、フリツァークのウクライナ史ではほとんど無視されている。独立後のウクライナが政治的には比較的安定しており、むしろ経済改革が深刻な問題になっている現状からみても、ソヴェト時代の社会・経済的側面にはもっと注意を払うべきであったろう。新しいウクライナ国家が自らを1917-1920年のウクライナ人民共和国の直接の後継者であることを主張しようとしても、ソヴェト時代の遺産は社会のあらゆる側面に根強く残っているのである。

もう一つの疑問は、フリツァークが近代化と西欧をウクライナのモデルとしてみなし、伝統社会とソ連邦を排除すべきだという結論で本書を終了している点である。近代化と西欧には肯定的価値、伝統社会とソ連邦には否定的価値が与えられている。このように、ウクライナをヨーロッパの一員として強調するのは、ウクライナの新しいアイデンティティの要素の一つである。「ヨーロッパ文明の一員」を主張することによって、ウクライナは「アジア的」ソヴェト・ロシアのくびきから逃れることができるのである。もしヨーロッパの一員になることが無理ならば、少なくともその歴史的、地理的条件を利用してウクライナは東西の架け橋になるという特殊な役割を自らに課すことができるというのは、独立後のウクライナのアイデンティティとして現在広く知られている(16)。フリツァークは、独立ウクライナが東西の調停役として不可欠の使命を果たすべきだという希望と期待で本書を結んでいる。しかしこれも、NATO加盟問題を抱える現在のウクライナの政治状況をそのまま反映したものであり、歴史学者としてはいささか楽観的な見通しではないだろうか。

その歴史的発展の中でヨーロッパはナチズム、消費主義、帝国主義といった深刻な問題を生み出してきた。経済的・文化的グローバリゼーションと非ヨーロッパ世界に関する研究の進展にともない、今日「西欧近代」という普遍的モデルは確実に相対化されてきている。西欧近代に対してさまざまな視点からの再吟味が叫ばれ、ヨーロッパ中心主義がヨーロッパ内部において厳しい批判に晒されはじめて既に久しい。西欧近代が生み出した暗い過去は、ウクライナの歴史家たちに安易な西欧近代の理想化をもはや不可能にしているはずなのである。世界のグローバル化が進む現代社会にあって今だ西欧近代をモデルとする本書の結論は、評者にとって納得しがたいものであった。

欧米の歴史学理論をウクライナ近代史に初めて応用し、それをウクライナの読者に紹介したフリツァークのウクライナ近代史は、ソ連時代の状況と照らし合わせるならば、まさにウクライナにおける歴史学の新しい状況を象徴しているといえよう。西側のウクライナ歴史学界においては、本書の登場は、西側と本国ウクライナとの歴史学の学術交流の単なる一成果としてだけではなく、長い間ウクライナの外(ディアスポラ)の間で維持されてきたウクライナ歴史学が世界に通用する独立した歴史学の一分野として、ようやくウクライナ本国に最終的に復帰したという象徴的意味合いを持つものとして受け止められている(17)

もちろん、著者が序文で述べていたように、民族主義歴史学の本国ウクライナへの復帰や導入ではなく、欧米の近代化理論を駆使して民族主義史学を越えるウクライナ史を構築するという野心的な試みが本書のそもそもの目的であった。ではその目標は成し遂げられたと言えるであろうか。本書の最大の意義は、随所に見られる欧米の理論の紹介とそのウクライナ史への応用、ウクライナ史における「近代」のあり方を丹念に検証していったことにあると評者は考える。さらに、情報量の豊かさという点でも本書は非常に密度の濃い歴史書である。各章末に付された引用文献の膨大な量は、欧米の研究動向に対する著者の深い造詣を示している。この本書の最大の特徴、利点はしかし同時に著者の一方的なソ連批判、ヨーロッパ文明偏重のウクライナ史解釈を導き、それは本書に対する批判を欧米のウクライナ史研究者からも招くものとなるだろう。社会史を重視する欧米のスラヴ研究の立場からみれば、ソ連時代のウクライナ社会の内実により深くふみこんだ分析と解釈がなされなかったのがなによりも惜しまれる。結果として、民族主義史学をも含む欧米の研究に頼りすぎるあまり、民族主義解放史学のバイアスのかかった叙述が依然散見され、著者の唱えるウクライナ歴史学の新しいパラダイムの構築にはまだ克服すべき問題が残されているものと思われる。

本書はもともと、研究者だけでなく幅広い読者を対象として執筆された。特にウクライナ近代史の研究者にとって本書は、ウクライナ史解釈の方法論、歴史理論の個別研究への応用について議論の場を提供するものとして活用することができよう。現在準備中の英語訳が刊行されたあかつきには、本書がより幅広く読まれ、ウクライナ近代史に対する関心と議論が深まることを期待したい。