ピクレルの社会理論
−19-20世紀転換期におけるブダペスト思想界の一断面−

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1. 論争

 ポラーニ・カーロイ(1)(カール・ポランニー、1886 - 1964)により、E・マッハの『感覚の分析』がハンガリー語に抄訳・出版されたのは1910年のことであった。この抄訳はポラーニが中心となって組織された学生団体ガリレイ・サークルの活動の一環として開かれていた「マッハ・セミナー」がもとになっている。そこではポラーニを中心とした『感覚の分析』の原書講読会が1年近くにわたって開かれていたのである。
 この時期のポラーニはマッハに傾倒しており、この翻訳の序文を執筆する以外にも、マッハについての論考「エルンスト・マッハ」を雑誌に発表している。また、その翻訳序文から、この時期ポラーニが抄訳の際にどの部分を選択するかということについて、マッハ本人と連絡を取り合っていたことも窺われる(2)
 当時のガリレイ・サークルではこのマッハのみならず、当時世界的に関心を集めていたアヴェナリウスやW・ジェームズの思想についての研究会なども開かれていた(3)。また、サークルの会員たちは皆旺盛な知的探求心をもち、古今の西洋哲学から同時代の社会学的著作に至る様々な思想に、翻訳書や研究会等を通じて早くから親しんでいた。
 ガリレイ・サークル全体に共通する思想傾向としては、設立当時からのメンバーであったケンデ・ジグモンドの言によれば、無神論的で、反形而上学的であったことが挙げられている(4)が、そのことは当時のポラーニのマッハ解釈からも窺い知られる。事実、ポラーニはそこでマッハを殊更に反宗教、反形而上学の旗手として称揚している(5)
 ポラーニのマッハに対するこうした強い関心はポラーニ研究者によれば特に彼の生涯のこの時期にしか見られないとされるが(6)、いずれにせよ、ガリレイ・サークルを含む当時のハンガリーの知識人社会から、後に世界的に活躍する知識人が多数輩出したことを考えるならば、当時世界的に著名であったマッハの思想に対する関心が、ハンガリーにおいてはポラーニを仲立ちとしてその高まりを見せていたことは、一つの思想史的な出来事として記憶されるべきことだと思われる(7)

 しかしながら、ハンガリーの知識人社会へマッハの思想を紹介したということならば、ポラーニが初めてではない。ポラーニの翻訳・紹介に先駆けてハンガリーの知識人社会でマッハの名が知られるきっかけの一つとなったのは、ポラーニの師でもあったピクレル・ジュラ(1864‐1937)による論文「心理学的要素の少ない社会学の傾向について」(1905年)である。ピクレルはこの論考の中で、当時個人的にも交流のあったマッハからの手紙の一部を、自説を補強する見解として、ドイツ語原文のまま紹介しているのである(8)
 このピクレルの論稿は、その当時、ヤーシ・オスカール(1875‐1957)によってなされた批判(9)に応えて書かれたものである。フランス滞在中にデュルケーム社会学派の洗礼を受けたヤーシは、デュルケーム学派の実証的方法と「物のように」扱われるべきだとされるいわゆる「社会的事実」の概念を紹介し、ハンガリーにおける社会学的客観性の確立の必要性を強調すると同時に、当時ハンガリーで支配的であったピクレルの社会学の主観主義的方法を攻撃することになった。
 ピクレルのかつての教え子で、同じ市民急進派に属するヤーシがこの論争ではっきりと師に対して批判的な立場に立ったのは、実は彼がフランスで受けた衝撃がきっかけとなっている。1905年に、ヤーシが在外研究で訪れていたパリでデュルケームと会見することになったとき、当時のハンガリーを代表するピクレルの社会理論をデュルケームに提示してみたところ、個人心理学の上に打ち立てられた社会理論は認められないとして、あっさりと否定されてしまったのである(10)。ヤーシはこの衝撃を受けてからというもの、デュルケームの『社会学的方法の基準』やモースのエスキモー研究などのフランス学派の代表的論考を読み漁り、ピクレルの信奉者から一転してハンガリーにおけるフランス社会学の使徒となってしまった。
 こうして、ヤーシが新たに理論武装したデュルケーム流「社会的事実」に基づく客観的な社会学に対して、ピクレルの方も独自の認識論の立場から反駁することになったのがこの論争である。ピクレルの方はといえば、この議論の応酬に平行して、この間の事情と疑問をマッハに何度か書き送ってもいる(11)。そして、ピクレルもまたこのマッハとの手紙のやり取りの過程で自身の立場に確信を持つに至った。ピクレルのヤーシに対する反批判論文の中でマッハからの手紙が紹介されたのは、こうした脈絡の中で、マッハがフランス社会学を否定して、ピクレルの認識論的・科学論的立場を擁護する側に立っていたからである。
 このヤーシとピクレルの論争は、進んだフランス社会学対遅れたハンガリー社会学、あるいはフランス社会学とマッハ哲学の代理戦争といった単純な見方でとらえきれるものではない。というのは、まず何よりも、ピクレルという思想家が、当時の誰の追随者でもなく、きわめて個性的な思想家であったからである。さらには、この論争は後にハンガリー国内において社会有機体説を唱えるメーライ=ホルヴァート・カーロイやピクレルの弟子のショムロー・ボードグを巻き込んで、派手な展開を見せることになるが、そこで戦わされた一連の議論には、後の時代にポラーニによって世界的に展開される経済人類学や、ポラーニの弟のポラーニ・ミハーイ(マイクル・ポラニー)の科学的認識論にまでつながりうる―あくまで可能性を示唆することしかできないが―重要な要素が含まれていたからである。本稿ではこれらの議論も含めて、ピクレルという特異な思想家を紹介していきたい。

2.ピクレル・ジュラの思想―著作紹介を中心に

 ハンガリーは戦前から特にハンガリー学派として国際的にも著名な法哲学者、法社会学者、社会理論家を多数輩出している(A・プルスキ、F・ショムロー、J・モール、B・ホルヴァート、I・ビボー)が、ピクレル・ジュラ(1864-1937)はこの系譜の最初に位置する学者の一人である。今日ではハンガリーで最初に法の科学的研究に取り組んだ法哲学者としての評価もなされてきている(12)
 ただし、ピクレルは生前に自身の法・社会理論に関しては諸外国語で発表することがなかったため、当時国際的にはもっぱら英語やドイツ語で発表した心理・生理学的著作により、心理学者として著名であった。しかし、ハンガリー国内においては、ピクレルは、その独自の社会理論により、19世紀から20世紀にかけてのハンガリーにおけるいわゆる市民急進派の知識人ならびに社会主義運動の指導者たちに多大な影響を与えた思想家でもあった。
 法学理論が知識人社会に絶大な影響を与えるなどということは今日では十分に想像することができないが、ブダペスト大学の法哲学講座は19世紀末にイギリスで教育を受けたプルスキ・アーゴシュトが担当して以来、民族学や歴史学等の諸学問にも広く知的関心を開くものとなっていたため、諸外国の最先端の知的情報は理科系・文科系の別を問わず法学部の法哲学講座を経由してハンガリーの知識人社会にもたらされたのである。このプルスキの後を受けて法哲学の講座を担当したのがピクレルであった。ここでは以下にピクレルの多岐にわたる思想の歩みを、代表的著作を紹介しながら概観しておきたい。

(1)『客観的実在についての信念の心理学』(1890年)
 この著書はピクレル自身の認識論の出発点となるべき研究である。英国でも英語版が出版され一定の評価を得ている(13)。ピクレルはこの意欲的な研究書で、バークレーやヒュームに代表されるイギリス経験論の流れを受け継ぎながら独自の理論を展開している。
 ここでピクレルは「事物の客観的実在そのものを説明することはできない」と説くが、だからといって決して、たとえば当時流行の思想家、H・スぺンサーのような不可知論に甘んじるわけではない。ピクレルの問題意識は、人がその客観的存在を「信じる」ことの不可思議さにある。すなわち、客観的実在に対する信念それ自体がいかにして形成されるのか、ということに焦点を当てているのである。ピクレルによれば「この信念は分析することが可能であり、人間の主観的要素に還元することができる」という。つまり、われわれが日常ごくあたりまえに存在すると信じて疑わない時間や空間そしてその中にある事物の客観的実在の表象は、実は不断の意志および意欲(akarat, akars)といった主観的要素によるはたらきかけを通じて獲得されているという(14)
 ピクレルはまた、そうした意志の結果として生じる主体の意識の変化というものがまた「相互依存関係にある身体の変化を伴わずには生じない」(15)とも述べており、そこには単に物理的でない身体というものの存在と、身体と精神の相補的関係についての関心も見出される。この点については後述したい。
 こうしたピクレルの関心はヒュームに代表されるイギリス経験論の相対的な認識論を乗り越えて、懐疑論にも不可知論にも陥ることなく、人間の身体の働きの内に、認識の根拠となるべき何らかの客観性を求めようとする方向を示唆している。ピクレルのこうした経験主義的―感覚主義的認識論ともいうべき立場は後に述べるように、実証的な心理=生理学的研究によって補完されるべきものと考えられており、事実晩年のピクレルはこうした心理=生理学的研究に没頭するようになる。また、その一方で、この著作中には具体的には論じられていないが、人間の意志・意欲が法や社会制度という表象になっていくという社会科学上のごく自然な論理展開も予想される。その意味でも、自身の思想的立場を初めて打ち出したピクレルのこの著作は、その後の彼の思索の歩みを先取りしているところがあるといえる。

(2)『法哲学序説』(1892年)
 この著作は、法現象の精確な記述、比較分類の基礎理論の構築を試みており、ピクレルの社会科学上の著作で法現象を科学的に解明しようとした最初のものである。
 『法哲学序説』においてピクレルは、社会をその成員あるいは集団間に存在する固有の法的確信が互いに衝突する場所としてとらえている。
 「人々は一定の特殊な法的確信を有している。それは、人々により認識されたより一般的な法原理からは導き出されないし、一定の目的の見地から帰結するものではなく、人々が何ら意識的な理由なく保っているような信念である[たとえば近親相姦や奴隷制度などに対する法的確信]」(16)
 ここには集団の法的確信の相違に着目し比較考察するという視点が窺われる。実際、彼はハンガリーにおける法の社会学的研究の先駆者でもあった(17)
 「だが、さまざまな人々の法的確信の中には、根本的で最も深い諸問題に関する相違が存在してもいる。あらゆる法的思考がそこから発し、そのために思考が見解の相違を解決することができないような点に関する相違が存在するのである。より特殊で具体的な諸問題に関して、この最も深い相違から生まれてくるような相違は、まさにそれゆえにこそ、思考によって解決することができないのである」(18)
 このようなピクレルの相対主義的な立場は徹底したもので、学問的には客観的な正義というものを認める意義はなく、正義というものは価値の相克の結果にすぎないとさえみている。いわば、この時期のピクレルは法に関して徹底して価値判断を留保する立場に立っているのである。そのためピクレルは法における目的性と正当性を互いに矛盾するものと捉えることになる。ピクレルによれば「正当性は目的性と並んで、人間の精神世界において個別の基準を有している」(19)わけであり、「ある法が最も目的にかなっているということの証明によっては、未だそれが正しい、真理の、正当な法であるということを証明したことにはならない。このことを、それぞれ別個の法感情を有する人々に対して証明することはできない」(20)。また、「さまざまな法的確信がさまざまな主張をしており、それらの間では真理という観点からは決定することができない」(21)と言う(だが、後に見るように、法における目的性と正当性は後の『法の生成と発展』では「必要性」という観点から同一視されることになるのである)。したがって「法哲学が、ある法感情について誤っているとか不正であるとか言うのはもっぱら、その法感情が何らかの影響力を無理な方法で獲得しようと欲するときだけ、すなわち、諸現象の連関に関して誤りが認められるときだけである。法哲学といっても、別に自然科学者と異なるような真理や誤謬を認めるものではないのである」(22)
 このようにピクレルが徹底して価値判断を排除する姿勢は、現代ハンガリーの研究者ナジ・エンドレが言うように、社会学的な実証性を伴うことによってマックス・ウェーバー流の価値自由ないしは価値中立性という概念に通ずる点が出てくるということになるだろう(23)
 ピクレルはおそらくは同時代のE ・エールリッヒによる「生ける法」の概念を意識しながら次のような法社会学的観点を披露してもいる。
 「行動においてわれわれ自身の一般的な法感情に耳を傾ける。これが生ける法である。法の領域では、直接的な―習慣的にいえば主観的な―感情は、自然科学の領域では決してないことだが、客観的な基準よりもはるかに大きな重要性を持っているのである」(24)
 『法哲学序説』におけるこうした理論的立場が確立を見たことは、ハンガリー法思想史上でもピクレルが最も高く評価されるところとなっている。

(3)『法の生成と発展』(1897年)
 ピクレルの社会科学的著作の中で人々に最も広く読まれたものがこれである。
 ピクレルは、この『法の生成と発展』において、法や社会制度の生成と発展の動因を人間の洞察(belts)という行為、すなわち一種の直観的認識活動に求めている。「人間は生存する上で、様々な生物学的欲求・欲望を感じながら生きていると同時に、そうした必要性を満たすための合理的な認識能力を有している。これがすなわち、基礎的必要性を一定の方法で満足させることができるということの認識なのである。この知的な要素を欲望のうちに潜む洞察あるいは認識と名付ける」(25)としている。
 ピクレルは、社会理論の研究と平行して独自に進めていた神経・生理学的研究の成果を踏まえつつ「人間精神のこうした一般的で基本的な、心理的活動に示された属性は同時に必然的に、人間の神経組織の一般的で基本的な属性と関連しているし、それに還元することができる」(26)という。彼のいう洞察とは、神経システムの活動が調和し、ストレスのない状態へと至ることを要請しているものである。すなわち「何らかの行動様式が必要性を満足させうるという洞察は、何らかの神経のはたらきが別の神経のはたらきと調和するという神経組織内部の事象と相関関係にあり、それにより次のことが裏づけられる。すなわち、洞察とは実際こうした事象が精神へと到達することなのである」(27)
 この洞察という合理的な目的認識能力により、人間はそのときどきで最も合理的で有効と考えられる法や社会制度を作りだし、発展させてきたという。ピクレルによれば、法というものは一面では人々が自分の利益のために他の人々を拘束するという性格を有するが、ほとんどの場合、そうした法は、拘束を受ける人々の側からの合意によって支えられてもいる。すなわち、「法の大部分は、ある強制のもとにある人々の合意により生まれ、維持されている。法の大部分は、要するに、人々が自分たちのために他の人々と協働することだけではなく、人々がお互いのために協働することなのである」(28)。そして、この意味で「法とは強制により確保された、あるいは一方的にある人々のためにある、あるいは相互的に双方のためにある、他の人々との協働である」(29)ということになる。
 ピクレルにとっては、法の発展は人間の知性の発展を反映したものである。人間の生物学的欲求をみたし、よりよい生存の条件を求めるという目的は変わらないが、そのための方途は時代とともに変化していく。すなわち「必要性それ自体は大部分そのまま残り、その大部分の同じ必要性が、最も原初的で最古の、また、最も発展した最新の法の原動力となってきたということになる……言い換えれば、法の発展とは、目的ではなく手段の発展であり、同じ必要性を満たすためのよりよい手段を人々が時間の流れの中で認識することに由来するのである」(30)。血族、種族から国民国家にいたるまでの社会集団や制度もすべてはこうした、よりよい生存の条件を目的とする洞察により形づくられてきたという。「人々の認識が進歩するにつれて、必要性の充足という目的から、より大きな国家の形成が有利であると考えられるやいなや、国家は形成されたのである。その進歩がこの国家を興したところの認識は、通常、経済的な認識である。……経済的な協働の効用についての認識が移り行く中で、人々は、同様の目的のために株式会社やハンザ都市同盟を作るのと同じように、人工的に一つの大きな国家や一つの民族国家、一つの言語というものを作ったのである」(31)
 ピクレルの主張はこうした点で、当時の市民急進派の政治的色彩を帯びたものとなる。「人間集団の過去における変化は、たとえば、われわれがそうした変化の中に次のような規範を認識しなければ、われわれにとっての生き生きとした関心を有することにはならない。それはすなわち、人々がつねにそこでの協働が必要性を最もよく満たすような集団を作っているということ、耕作や経済や交通の発展により徐々に大規模な協働の集団をいつも形成してきたこと、目的性に基づいて作られた集団に関して、たとえその集団が以前の感情と対立していたにせよ、さらに適切な感情が発生すること、これに関してわれわれもまたそうした原理に基づいて将来において集団を形成しなければならないということ、そして、そのことをわれわれが勇気を持って行なうことができるということである」(32)
 法における正当性、および正義についての議論もまた、こうした洞察という目的合理性の認識により基礎づけられる。「正義の原理は実際には目的性の原理であり、人間の諸々の必要性が衝突する際に適用される。……正義はこの原理と一致したときのみその正当性が認められるのである」(33)。「正義は、したがって、洞察の産物、知的な産物なのである。正義の、正義の規範の、いわゆる正義の感情の発達は大部分が次のことに由来する。それはすなわち、認識が発達し、そして、変化した認識にふさわしいそれぞれ個別の決定が諸々の必要性が衝突する際に、可能な限りの最大の幸福を確保するということなのである」(34)
 このピクレルの理論は、社会の構成員の主観すなわち意志や欲望が社会制度に反映されていく過程を描き出しているという点で、D・ヒュームなどの系譜に連なるきわめてユニークな経験論的社会理論となる可能性を秘めたものであった。われわれはいつどのような社会にあっても、われわれ自身の何らかの主観的要素により、そのときどきの政体を支持しているという側面があり、その意味では経験論的な権力分析は、それが機械的で合理的な点を強調すればするほど、逆説的に社会というものに独自の不合理性を照らし出すことになるからである。
 だが、そうした現代的な読解の可能性はあくまで可能性のままにとどまっている。『法の生成と発展』はピクレル本人の社会科学協会における指導的活動や政治的発言と重ね合わせて読まれるとき、不幸なことにも、当時の市民急進派の政治的主張を代表するものとして単純に読み流されてしまう側面をもっていたからである。
 『法の生成と発展』は学生の間のみならず、社会的理想を実現しようとして社会改革を唱える陣営一般に歓迎されるものとなり、当時この種の書物としては異例の売れ行きを示し、三版を重ねている。また、ピクレル本人もあえて当時の社会改革運動の理論的支柱として扱われることをいとわなかったため、ブダペスト大学の最も人気のある講義の一つとなり、多学部からの学生も大勢聴講に訪れる一方、極右勢力からは大学の講義を妨害されたり、政治的批判の対象となりもした。ポラーニ・カーロイを初代委員長とするガリレイ・サークル成立のきっかけも、ピクレルの講義を極右学生の妨害から守ることにあった。サークルの名前も当初「ピクレル・サークル」にするという案が浮上したが、ピクレルの提案により、決して科学的信念を曲げなかったガリレイの名前を冠することにしたという(35)
 実際、ピクレルのこうした過激な政治性は、かえって彼の学問的業績が正当に評価されることを妨げてきた。ピクレルおよびヤーシに代表される市民急進派の知識人は、とりわけ第二次世界大戦後のハンガリーの社会主義政権時代は、いわゆる修正主義者の汚名を着せられ、公式的にも厳しい批判の対象となっていた(36)。そのため、法学の分野においてもピクレルについての肯定的な評価は1980年代まではほとんど見られなかった。また、今日においても、ピクレルの主著『法の生成と発展』(1897年)の過激な政治的確信と極端な科学主義的方法論については研究者も扱いづらいとみえて、それより以前に書かれた『法哲学序説』(1892年)の方により高い学問的評価を与える傾向にある(37)
 『法哲学序説』もまた自然科学的基礎の上に法哲学を立てようとする点で、理論的には『法の生成と発展』の前段階に位置するものとみることができるが、両者には大きな違いがある。『法の生成と発展』が「必要性の洞察」という概念を中心に据え、法制度の形成に関する一貫した理論構築を試みているのに対し、『法哲学序説』の方は法現象の精確な記述、比較分類の基礎理論の構築を試みているのだが、その違いは方法論的なものにとどまらず、法に対する認識の際立った相違として現れてくる。
 B・ホルヴァートはピクレルの両著作の間にみられるこうした相違あるいは矛盾をピクレル自身の政治的主張の先鋭化に基づくものと解し、その科学的な姿勢が『法の生成と発展』において後退したことを惜しんでいるが(38)、私見では、この矛盾の原因は、より正確には、その政治的主張の背後にあるピクレルの次のような極端な科学主義的態度に求められると思われる。
 「人間の行為の法則性についての信念は、すなわち、物質の法則性についての一般的信念によるものである。というのもつまり、人間の身体もまた物質であり、そして、人間の行為もまた、それが最も気高いものであったとしても、物質の運動の部類に属するものだからである」(39)
 「われわれの行動に先立つ神経系統と絶えず同時に生じているのが、一定の精神的状況であり、その精神的状況は、われわれの行動の理由として神経系統それ自体とまさしく完全に同一視されうるものである」(40)
 こうした科学主義的な立場は『法の生成と発展』の中に一貫して見られるものだが、ピクレルは法の問題を追究する過程で、『法哲学序説』の議論の中から価値判断を留保する (社会科学としては手放すわけにはいかないはずの) 客観的視点を放棄し、功利主義的な目的性概念と正当性とを意図的に同一視した『法の生成と発展』の法学的・政治学的立場を形成していくのである。これは人間の主観的要素から客観実在の形成を説明しようとするピクレルの認識論の脈絡からすると論理的には当然の帰結であったとみることができる。この意味で『法哲学序説』の理論的可能性がいかに優れたものであったにせよ、ピクレル本人の主張があくまで『法の生成と発展』における洞察理論にあったことは疑いない。
 この『法の生成と発展』が社会理論としてはいささかバランスを欠いており、今日学問的にさして顧みられないとしても仕方のない弱点を持っているにしても、それが当時のベストセラーであり、とりわけ急進派の知識人にはきわめて大きな影響を与えた書物であることもまた否定しがたい事実である。そして何よりも、この書物がピクレルの理論的発展の転回点に位置する著作として重要な意味を持っていることが強調されなければならない。
 事実、ピクレルの探求はこの『法の生成と発展』を経て、さらにその先を進むことになる。このとき彼の科学主義的方法はもはや社会科学の範囲を超えて先鋭化し、洞察という人間の直観的認識能力の根拠は心理・生理学的分野の研究に求められていくことになっていくのである。

(4)その後の心理学的諸著作
 すでに、『法の生成と発展』の中でピクレルは「人間精神のこの一般的で基礎的な、すべての活動において示される属性は、同時に必然的に、人間の神経系統の一般的で基礎的な属性に関わりがあり、それに還元することができる」(41)と述べていた。ピクレルの社会理論に一貫する論理性と合理的精神は、研究の当初からその根拠を自然科学的なものに置いていたことは明らかである。そして、さらにその人間の精神活動の根拠を問うということになったときに、研究の対象が社会科学の領域を超えて、自然科学の領域、主として心理・生理学的領域へと向かったとしても、ピクレル本人としては自然の成り行きであったといえる。実際、ピクレルの研究は1900年代に入ってからはほとんどこの心理・生理学的研究に集中しており、その分野では当時世界的名声を博してもいた(42)
 ところが、社会理論における合理性の根拠を自然科学の中に求めていくとき、ある奇妙な事態が生じてくる。ピクレル自身は従来と同じ論理を用いて追求しているにもかかわらず、その根拠自体は合理的であるどころか、次第に非合理的で神秘的な姿を見せ始めることになってくるのである。
 心理・生理学的研究へと進んだピクレルの関心は、人間の意志・意欲が、一体何に基づき、何を目指しているのかということに集中する。ピクレルはここにきて「あらゆる生命活動の背後にあり、その活動をつかさどる力を与えている基礎的な生の活動」というものの存在に突き当たる。そして、この活動の持続あるいは自己保存から人間の「あらゆる印象や変化を伴う快と不快」が生じてくる。「あらゆる細胞は常にこれに即し、目的的にできている。つまり、恒常的で根本的な生の活動に相応するような、あるいはそれを妨げるような恒常性維持機能の働きによって、快の感覚とその欲求、および不快の感覚とその忌避ということも生じる」(43)としている。
 ピクレルはこの考察をさらに押し進める。人がある対象を求めるには、その欲望・欲求に先立ち対象が認識されなければならないが、ピクレルはその対象認識の際に、人が常に対立概念を媒介にして対象をとらえるという認識の働きを詳細に分析している。すなわち、「われわれは自分が知るものすべてに対して無限に期待する。これが第一の法則である。だが、自分が知るものすべての対立物についてもわれわれは知っており、それをまた無限に期待している。そして現実に経験したり、あるいはそれについて具体的に意識するだけで、前者あるいは後者への期待を抑圧する。これが第二の法則である」という。
 こうして精神の働きや経験によりこの第一の期待や第二の期待が抑圧されることで、実在についての確信が得られ、その確信を得ることに大きな価値が与えられるとき、その対象に対する具体的な欲求というものが生じてくる。すなわち、人は「あらゆる瞬間に、相反する行動の可能性の中から、自分が最も価値が高いとみなし、また実行しようと思う方を、完遂できるものとして体系的に認識するのである」(44)
 ここでピクレルがいう「期待」とその可能性の制限という考え方は、E・マッハが科学的認識論において法則について述べた「期待の制限」および「可能性の制限」という考え方に極めて近いものであるといえる。マッハによれば「法則というものは、それが行動の制限と考えられるものでも、また逸脱を許さぬ自然事象の軌道と考えられるものでも、或は事象を補完しかつ予測する表象活動や思考活動に対する指針と考えられるものでも、すべて可能性の制限である」(45)という。
 これについてピクレルは「記述と制限」という論稿において、マッハの考え方に賛同している。それと同時にピクレルは、マッハのこの考え方が著書『認識と誤謬』(1905年)により発表される以前から自分も同様の考えを大学の講義や友人との討論あるいは書物の中で述べてきたという。(「この見解はマッハの著作が発表される以前から、そしてマッハの序文の書かれる5年も前からたびたび私ははっきりと表明してきたといってかまわないだろう」)(46)
 ところで、ピクレルは、欲望・欲求に先立つ対象認識の仕組みを問題にしたときに、実在についての確信とその欲求が芽生えた後に、価値の高い方を選ぶと言うが、そこで一つの問題が生じてくる。ピクレルはここで価値判断という難問につき当たらざるをえないのである。実際、判断ということを問題にするならば、本来そこに何らかの基準がなければ成り立たないはずだが、ピクレルの相対的な世界観からは、価値判断の過程を説明するに際して無論、実在が証明できない「絶対価値」というような形而上的観念を要請するわけにはいかない。とはいえ、人間が価値判断を行なう以上、何らかの客観的で確実な根拠が要るはずである。事実、彼自身は「価値の高いほうを選ぶという鼓動は秩序だったものであり、人の観察や確信を幻想だと名づける理由はまったくない」(47)とも言っている。
 そこでピクレルとしては、次に、人が対象を認識するための客観的で確実な根拠を物理的な世界に求めていくことになる。ピクレルは『自然における精神の位置』において「純粋=客観的な物理的対立は、ある純粋=客観的で物理的な反復傾向に対立する精神や精神状態および意識といったものを生じさせる。つまり純粋=客観的で物理的な諸要素から精神が生じてくる」(48)という。この意味で「精神生活においてももっぱら物理的な力や傾向しか残らない」(49)。これは、力学的な見方をすれば、自然現象の中には自らを貫徹させ自己保存をはかる様々な諸傾向・諸力があり、それが対立したり融合したり、互いに自由になったりするというものであり、ピクレルはその作用自体を精神と捉えている。つまり「感覚要素の対立、和解、自由はまさに精神そのものである」(50)という。ピクレルがここでいう「精神」とは、一般に考えられるような物質に対立して自律したものとしてではなく、水に対する水蒸気のようなものとして、つまり物質の化学反応の結果のようなものとして考えられている。ここでピクレルが言うところの物理的な力や傾向に人間の精神を還元させていこうとする手法は、かなり極端な自然科学的思考法に基づいているようにも見える。
 この精神と物質との間に区別を立てる必要を認めない経験論的世界観は、明らかにマッハのいわゆる要素一元論的な認識論・世界観と共通する面を持っている(51)。しかしながら、もはやピクレルの自然科学的な心理学理論は―おそらくマッハもそうであったように―必ずしも素朴な科学万能主義に立つものではない。科学主義というものがその科学的態度の不徹底により成り立っている、つまり、自らの根拠を自然の所与に対する信頼と信仰に求めているのに対して、ピクレルはむしろ自然科学的方法を徹底的に突き詰めることで、科学主義を突き抜けた地点に到達している。というのも、ピクレルが注目し、かつ強調するのはあくまでも「諸傾向・諸力」の対立、融合といった動きそれ自体であり、それは物理的な実在に精神を還元して満足するといった方向とは似て非なるものだからである。
 実際、これより後、ピクレルの仕事はその極端な自然科学的方法を超えて、物理・生理学的な根拠から心理的世界を見ようとする一種独特の「汎心理学」とでも呼ばれるべきものとなってくるのである(52)。特に1910年代以降ピクレルは、この物理的な力や傾向というものを身体の神秘的な性質に求める方向へと進んでいく。そして「この転回により、ある独自の生命=力学的体系(Grundgesetz alles neuropsychischen Lebens)の創始者ピクレルは、生命の真理のより深い理解の後、徐々にしかし確実に生気論、それも極度に霊的な傾向を帯びた生気論の方へと移行していった」(53)のである。

(5)ピクレルの影響について
 ピクレルは広く分類すると社会学的実証主義者の枠組みに入ると言うことができるが、合理的な社会改革を標榜する実証主義の流行は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての未曾有の物質的発展の時代に、中・東欧全般に広く見られた現象でもあるといわれる。具体的にはスペンサーないしは社会ダーウィニズムの影響という形で、ポーランドのドモフスキ、ハンガリーのヤーシ、セルヴィアのスケルリッチ、ブルガリアのスターンボリスキなどに表われているし、プラハのマサリク、ダルマチアのスピロ、あるいはカール・カウツキーやオットー・バウアーのマルクス解釈にも現れているという(54)。ピクレルの主張が一部で熱狂を持って迎えられたのも、こうした時代を背景にしていると言うことはできるだろう。
 ピクレルの影響は表面的にはきわめて限られている。彼の同時代人に対して与えた影響は著書『法の生成と発展』を中心に、市民急進派の知識人と、後にガリレイ・サークルを結成する学生たちという範囲にとどまるといっても過言ではない。そこではピクレルの信奉者と言えば心情的には社会主義者を意味しており(現実には急進的民主主義者だが)、この社会主義者とはマルクス主義者ではなく、また、自由主義者でもなかった。ある意味ではマルクスが果たすはずの役割をハンガリーにおいてはピクレルが果たしていた部分もあったが、ピクレル本人は、史的唯物論は自分の理論ほど十分には科学的で合理的ではない、と公言していた。
 市民急進派は1906年の社会科学協会の分裂後、ますます政治的かつ独断的になり、広く大衆を巻き込んだ政治の流れを形成することはできなくなっていった。1906年にプロレタリアートの教育を意図した自由大学もうまく行かず、普通選挙のキャンペーンを指導する力も失い、彼らに代って社会主義者たちが指導するありさまであった。こうした流れの中でピクレルは幾度か当時の右翼的団体から講義妨害を受けたりしながら、批判の矢面に立たされることになった。急進派も、また保守派もこのときはピクレル擁護に回った。だが、実のところ、急進派内部においてもピクレルの真の理解者を見出すことは困難になっていた。素朴に社会改革を目指すものとしての洞察理論はともかく、心理=生理学的研究に関してはヤーシなどは早くから全く理解を示していない。その意味でも、ピクレルの思索の歩みは極めて孤立したものである。マッハとの共鳴関係もハンガリーでの影響を云々するほどの影響力は持っていないように見うけられる。しかしながら、直接の影響ではないが、冒頭に述べたヤーシとの一連の論争は、結果としてショムローあるいはポラーニにつながる社会学上の新たな展開を生み出すきっかけとなった(55)。そのことについて次に見ていきたい。

3.経済人類学の萌芽

 先にみた通り、1905年から1907年にかけてマッハとピクレルとの間に文通があった時期には、認識論と科学の方法論についての考えが二人とも一致していたことは疑いをえない。したがって、ヤーシとの論争において、ヤーシによって紹介されたフランス社会学に対するピクレルの反批判が、その認識論と科学的方法論をめぐるものとなったことも当然の成り行きであった。
 ピクレルはマッハの『感覚の分析』における「心理的なものと物理的なものとの間には何らの亀裂も存在しない。内なるものと外なるものとの亀裂も存在しない……感覚ではない外部が対応するような感覚は存在しない」(56)という記述をヤーシへの反批判論文に引用している。確かに、マッハ=ピクレル流の経験論的・要素一元論的な認識論の立場からすると、理論的には、個人心理から社会集団の行動様式を説明することができるわけで、社会集団に個人の心理から切り離されて自立性を有する客観的な「社会的事実」があるというフランス社会学の合理論的立場は承服し難いものとなる。
 この議論は先にも述べたように、ヤーシのみならず、独自の社会有機体説を唱えるメーライ=ホルヴァート・カーロイ(1859‐1938)やピクレルの弟子のショムロー・ボードグ(フェリックス・ショムロー、1873‐1920)をも巻き込んでの大騒動となる。そして、ピクレルが他の学者のほとんどすべてを向こうに回した形で孤軍奮闘し、両者の議論は最後まで平行線をたどった。しかしながら、この一連のすれ違いの議論は決してかつて不毛に終わったのではない。というのも、ピクレルとの理論的対決を通じて、ハンガリーから社会科学における一つの有効な視点が誕生したからである。
 この一連の議論の中で、メーライ=ホルヴァートの社会有機体説における経済観に注目したショムローは、国際的学術雑誌である『法および経済哲学雑誌』(1908年)に、当時のハンガリーの法および経済哲学を代表する二つの潮流として、ピクレルと並んでメーライ=ホルヴァートの学説を紹介している。メーライ=ホルヴァートは、生物有機体と社会との類似性から、各細胞間の「交換的代謝作用」(細胞間で相互に等量の代謝物の交換が行なわれるという独特の仮説)に比すべきものとして、財貨の循環・流通を社会分析の基礎と考えたのである(57)。この着想に示唆をえたショムローは、その後、この財貨の取引を新たな社会分析の対象として原始社会、民族社会の研究に取り組み、ドイツ語で『原始社会の財貨交通』(1909年)(58)を発表することになる。
 この研究は、1948年にポラーニ・カーロイがヤーシに宛てた手紙の中で述べているように、1920年代にB・マリノフスキーやR・トゥルンヴァルトが取り組んだ未開社会の経済分析にほぼ10年先駆けたきわめて個性的な仕事であった(59)。そこにおけるショムローの先駆性とは、共同体の成員間の相互的な進物贈答のシステムおよび首長を中心としてとりおこなわれる財貨交換のシステムに法的形式を認め、分析していることにある。
 しかし、ショムローの生前には、この書は多くの研究者が言及し引用したりしてはいるものの、その研究自体の先駆性はまったくといってよいほど理解されなかった。同時代に正当にこのショムローの研究の先駆性を認める唯一の記述は、フランスの社会学者マルセル・モ一スが1923年から24年にかけて書いた「贈与論」の脚注くらいのものである(60)。後にショムローと同様の発想を経済人類学の理論に組み入れることになるポラーニ・カーロイでさえも、1948年に初めてショムローの著作を手にするまでは、ポラーニ自身がショムローの指導の下で学位論文を書きあげていたにもかかわらず、当時はこのことにまったく気が付かなかったことを先の手紙の中で「永遠の恥」として悔やんでいるほどである(61)

4.直観あるいは科学的発見の知

 ヤーシによって紹介されたデュルケーム学派の実証的研究方法もまた、ピクレルの目には科学研究から内観や直観といった人間の主観的要素を排除するものと映り、到底受け入れられるようなものではなかった。ちなみに、ここでピクレルのいう内観と直観は、それまでのピクレルの研究上の脈略からは、法学理論でも鍵概念となっていたハンガリー語の「洞察」 beltsをドイツ語でさらに展開させたものであることはいうまでもない。
 ヤーシとの一連の論争の中でピクレルはハンガリー語の洞察という言葉を使わず、外来語としての 内観 introspekczi翌ニ直観 intuiczi翌用いており、両者の関係は、直観は内観の活動の一環として、内観から発するものとしてとらえられている(62)
 さらに、ピクレルはマッハ宛ての手紙の中で、人類の知的所産が感覚要素や経験に根差した「期待」だけでなく、同質性や差異あるいは事物の諸連関の本質状況 Wesens-Verh獲tnisse についての「直観」からなっていることに言及し「あらゆる必然的真理はそうした直観の帰結である」(63)とも述べている。
 このピクレルからの問題提起に対してマッハは「そうした直観というものは感覚と表象のどちらについても生じるものであり、それゆえ、内観は心理学ばかりでなく、生理学や自然科学全体についての重要な認識の源泉の一つをなしている」と返答している。また、マッハはフランス社会学派が内観的探究方法を軽蔑していることを危惧し、「こうした内観を用いない探究は決してまとまった成果をもたらさないだろう」ともいう。「フランス人のこのような理解は厳密な科学のためには賞賛すべき点もあるが、論理的で心理学的な方法を正当に評価せず、物理的な学問を過大に評価することになり、物理学者よりも物理的になってしまうだろう。物理的なものと心理的なものというのはそもそも観察方法の違いに基づくにすぎないものだ」という(64)
 ピクレルは自身の論文の中でこうしたマッハとの手紙のやり取りを紹介した上で、次のように述べている。「心理学を新たな要素で豊かにし、感覚の周囲に経験に基づかない一般性というものの意義を学問の中で、特に自然科学の中で明らかにするという命題の重要性は明らかである……仮に人間の認識の一部が直観に由来するという答えが重要だとするなら、そうなのかどうかという問いかけも重要なものとなる。こうした直観それ自体は内観から生じてくるため、そうした直観の重要性とともにマッハは内観の重要性を確認しているのである」(65)と。
 ここでピクレルのいう「経験に基づかない一般性」を有する知とはピクレルの言葉では直観のことである。この「直観」というものが、科学理論の中でその重要性を確認されるのは、この時点ではまだかなり先の話である。
 それはさておき、経験に基づかない一般性とは実証主義の脈絡からは想像を絶する表現だろうし、その表現だけで言うならば、カント流の理性もまた経験を超えるいわゆる先験的性格を持っているのだから、ことさらに新しいことではないのかもしれない。ただ、科学的発明や発見という脈絡を考えるとき、この表現は新鮮に映る。というのも、創造における本質的な新しさというものは、人間の経験を超えており、また、それが技術として具体化されるとき、人間の経験の範囲を広げてくれるからである。
 近代の実証的科学の方法とは論理的には帰納法に基づいているといえる。演繹法が普遍的真理を前提としてすでに知られている認識内容の要素を分析しているにすぎないのに対して、帰納法は個々の特種の事実からそれらに共通する一般的なものを見出し、普遍的真理を確立する。そして、J・S・ミルなどによれば、この帰納法こそは演繹法とは違い、未知の特殊な事実を包含することができ、それゆえに新たな知識の発見方法であるとされたのである。しかしこれが実際に文字通りそうであるならば、科学的な発見は単なる偶然の出来事にすぎないことになる。われわれはやみくもに実験や観察を繰り返し、そこから出てきた偶然の結果を利用しているにすぎないのだろうか。
 実は、こうした帰納法はいうまでもなく〈すべての自然の中に斉一性と因果性が存在する〉という演繹的推理を前提としている。この前提があってはじめて人は安心して帰納的推理を用いることができるのである。この意味では帰納法の根底にあるのは自然主義であり、それは言い換えれば人間の精神のはたらきを自然という真理の反映として受動的にとらえる思想なのである。
 しかし、帰納法がこうした自然主義に立つ以上、それは結局のところ演繹法と同じ欠陥を持つにいたり、既知のものしか見出しえない、すなわち、本質的な意味で人間の経験にない新たなものを発見することはできないはずである。その意味では、帰納法は本来、科学的発見の知を支える論理ではありえないし、実際のところ、人類の科学的発見・発明の歴史は、昔から演繹法にも帰納法にも縛られないところに繰り広げられてきたのである。
 ピクレルが直観という「経験に基づかない一般性」を確立しようとしたことには、科学的発見の道筋を解明し、近代科学の受動的な帰納的論理に代わる積極的な論理と方法論を確立するという意図があった。ピクレルは自然主義を徹底的に相対化する経験論的認識論から出発しながら、最終的には価値判断を留保せず―これをしなかったことはある意味では現代社会理論としてはマイナスであったかもしれないが―、人間が自らの意志に基づき「見たいものを見る」という内観および「経験に基づかない一般性」としての直観というものの客観性を追求したのである。
 われわれは未知の事柄に対して、自己の身体の内に存在する何らかの客観性を手がかりにして、積極的に自己の側から意味を見出すのである。そして、ピクレルはその「見たいもの」がどこから来るのかという客観的な根拠を人間の経験ではなく、自己の身体とその内的な生命の流れに求めようとした。そこにおける身体とは、もはや単なる生理学的・物理学的分析対象ではなく、そこから意味を発する場所として、すなわち、精神と物質が出会う場所として考えられているのである。この意味ではピクレルは現代哲学における身体というものの意義を発見した一人と考えることもできるだろう。
 ピクレルはここにおいて、科学主義から出発しながらも、徹底して思考を押し進めた結果、いつのまにか単純な科学主義を突き抜けた地点に至ったのである。最終的には神秘主義的生気論者と呼ばれる立場に至るにしても、ピクレルのこの思索の歩みが示す意義は決して小さなものではない。


5.現代思想の源流としてのブダペスト

 ピクレルの思想の影響圏は広いものではないし、そもそも思想上の影響関係というものは実証不可能な部分もあるが、この時代のハンガリーにおいて、いかなる形にせよ科学的方法論における直観というものの意義がピクレルを通じて初めて明らかにされたことは重要である。直接の影響関係は認められないにしても(ピクレルの講義をポラーニが聴講した可能性はあるが)、この問題が後にポラーニ・ミハーイ(マイクル・ポラニー、1891 - 1976)により大著『個人的知識』Personal Knowledge の中で展開される議論に重なってくることも興味深いことである。
 『個人的知識』においてポラーニは知識の源泉としての重要な要素をなすところの知的情熱 intellectual passions や知識遺産に対する個人的信頼 personal confidenceあるいは信念(信仰) belief や自己投出 commitment といった形で、科学においてそれまで軽視されていた個人的で主観的な知的活動の積極的な捉えなおしを試みている(66)
 ピクレルのいう洞察ないしは直観およびポラーニの個人的知識とは、この時代のハンガリー知識人社会を特徴付けるとともに、そこから世界的に活躍することになるハンガリーの亡命知識人たちのおびただしい科学的発見や発明によって裏書される鍵概念として捉えることもできる。
 同時代のウィーンが同様に数多くの知識人・思想家を輩出したことはよく知られている事実であり、この通称ウィーン学団に対するマッハの影響には絶大なものがあったといわれるが、当時のドイツ文化圏におけるマッハの絶大な影響が隣国のハンガリーにも及んでいたとすれば、それはまず準ドイツ語圏ともいえる(67)ほどドイツ語に堪能な人口の多かったブダペストの知識人社会を経由し、ピクレルによる紹介、そしてポラーニの翻訳・紹介を通じてという順序になる。もっともこれはマッハの著作が原語で、次いでハンガリー語で読まれた可能性に限っての話である。結果としてマッハの影響はいうまでもなく、ウィーンと同じ形で及んだわけではない。このとき、当時のハンガリーの知識人に大きな影響を与えたピクレルが、科学的発見についてマッハと同様の考えを持ちながらも、独自の思想的問題を追究していたことをみてきたが、さりとて、後にブダペストにおいて、あるいは、そこからの亡命知識人たちの間にウィーン学団に準じたようなピクレル学派が形成されたわけでもない。この意味で、ピクレルの影響を学問的に実証することはできない。
 ところで、ウィーン学団といえば、ヘルヴェルト・ファイグルが「アメリカのウィーン学団」において、ウィトゲンシュタイン、カルナップ、カール・ポパーらに代表される論理実証主義の流れについて、こう言明している。
「われわれの関心は、認識作用の心理的根元とか社会条件といったことにあるのではない。われわれの設けた区別は、認識の正しさを確認する方法の違いに基づいている。ライヘンバッハの言葉を借りれば、われわれは知識の権利を『正当化のコンテクスト』の中で分析していたのであって、これを『発見のコンテクスト』の中で分析していたのではないのである」(68)
 このファイグルまたはライヘンバッハの言い方をそのまま用いるならば、ウィーン学団の論理実証主義が着手しなかった「発見のコンテクスト」を追求し、あるいは科学的発明・発見として具体的に実践したのがハンガリーの知識人社会であったし、また、そこから外国へと亡命した知識人・科学者たちであったといえる。そして、その科学的な「認識作用の心理的根元」をハンガリーにおいて最初に追求したのがピクレルであり、後にその認識作用の「社会的条件」をも視野に入れた科学哲学として展開させたのが、ポラーニ・ミハーイであったと考えることはできるのではないだろうか。
 ピクレルは、ある意味では今世紀初頭のブタペストに集っていた独特の発想を持つ思想家たちの一人にすぎない。先に述べたショムローやメーライ=ホルヴァートのほかにも、あまり広く知られてはいないが、たとえばザライ・ベーラのようなシステム論の先駆となる発想を有する思想家や、時間と空間の相対性理論をいち早く唱えていたパラージ・メニヘールトのような驚くべき思想家たちもいた(69)。ルカーチをはじめいわゆる日曜サークルの面々も活動し始めていた。本稿では触れられなかったが、ピクレルとの論争もあるサンディカリストのサボー・エルヴィンの存在にも注目すべきである。
 要するに、当時のブダペストは急速に都市化する中で、ありとあらゆる思想や芸術、社会運動が混在しつつ、活況を呈していた。1900年当時ブダペストに存在した600軒のカフェの果たした役割も無視できない。少なくとも、後に世界的に活躍することになるハンガリー出身の科学者・知識人たちが、この時代のブダペストという知的空間で自己形成を遂げたということ自体がすでに高度の知的刺激に満ちた体験であったことだけは容易に想像できるだろう(70)


注釈