SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 44号

『騎兵隊』論:その成立過程と構造について

中 村 唯 史

Copyright (c) 1997 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.


 − 注  釈 −

 
1 1926年刊の初版本の内容や配列は、1931年刊の第5/6版まで基本的に維持されたが、1933年刊の第7/8版で、新たに最終 編として『アルガマク』Ноεыu , No8,1932.初出)が増補された。文体・語り手の位相等の点で、1920年代前半に書かれ た他の34編と大きく異なっているこの作品の追加は、『騎兵隊』の総体としての一体性を著しく損なう結果を招いている。バーベリが『アルガマク』を『騎兵 隊』に加えたのは、それが1933年という時点で行なわれたことから見て、主に政治的な配慮によるものだったと考えられる。したがって本稿では以下『アル ガマク』を考察の対象とはせず、『騎兵隊』は第34編『師父の子』をもって完結しているとの立場を取る。
2  作品F『ゲダリ』は、主人公ゲダリが「私」=語り手リュートフを伴い、ハッシド派のシナゴーグへ赴く場面で終わっているが、H『師 父』は、その続き − ゲダリと共に入ったシナゴーグでの「私」の見聞を主たる内容としている。
3  単行本の編集担当者フールマノフ(『チャパーエフ』の作者)宛1926年2月4日付の手紙の中で、バーベリは「騎兵隊の修正稿をお 送りします。私は作品の順序を入れ替え、また幾つかの作品の題名を変更しました。」と述べており、彼が初版の出版されるかなり以前から、諸編の配列に苦慮 していたことを窺わせている。Пumерαmурноенαлеδсmεо, т.74,М.,1965,стр.510.)なおバーベリ は1926年『騎兵隊』初版刊行以前に4冊の短篇集を上梓しており、その中には『オデッサ物語』や自伝的な系列の作品と共に、『騎兵隊』に属する作品も少 なからず収録されていた。だがこれらの短篇集は、ジャーナリズムの要請に応えて緊急に出版されたもので、作品の選択や配列に特別の配慮は認められない。
4 Г.Лелевич,“1923 год,“Ha nocmy,Νo1,1924,стр.87‐88.
5 Я.Бенни,“Печαmь  и по поводу него,”,Νo3,1924,стр.136.
6 Там же,стр.139.
7 Г.Горбачев,“О  творчестве Бабеля и по поводу него,”Эεезδα,No4, 1925,стр.277.
8 В Полонский, “Критические заметки:О Бабеле,”Ноεыu мuр,Νo1,1927,.197‐216.
9 Там же,стр.198-199.
10 И.Э.Бαбель: сmαmьu u мαmерuαлы,Л., 1928.
11 Тαм жестр.33.
12 Пumерαmурноенαслеδсmεот.70,М.,1963,стр.475.
13 И.Бабель,Леmсmεо  u δруsuе рαсскαзы,1979,стр.380. 参照。この本 の『騎兵隊』テキストは単行本初版に基づいており、また新聞・雑誌等に初出時のテキスト、その他の版のテキストとの対照も、注釈に詳しい。
14 バーベリはゴーリキイに宛てて、1925年6月25日付の手紙で、次のように書き送っている。「半年間仕事に専念した後、今年の初め から、私は、自分がこれまで書いてきたものに疑いの念を持つようになりました。それらの技巧や粉飾が目についてなりません。」Исаак Бабель,Сочuненuя. т.1,M.,1990,стр.242.
15 従軍日記や創作メモは、いくつかの未発表作品の草稿と共に、キエフ在住のバーベリの知人の家に保管されていたが、彼の死後、友人や知 人を介してバーベリ未亡人ピロシコヴァ夫人のもとに届けられた。それらの存在が初めて公にされたのは、публикация А.Н. Пирожковой,примечания  И.А.Смирина,“И.Бабель:Новые материалы,Пumерαmурное  нαслеδсmεо,т.7,М.,1965,стр 467-499. が最 初である。この中では、検閲を考慮して発表を差し控えた一部を 除いて、創作メモの大部分がИз планов  инабросков к <<Конармии>>と題して活字となり (стр.490-499)、またメモに対する注釈の中で、日記の記述も断片的に紹介された。
従軍日記は、“Ненавижу войну: из  дневника года Исаака Бабеля,”Дружбαнαроδοε, Νo4,1989,стр.238-252./ΝO5,1989,стр.247-260.において初めてその内容の大部分が紹介され、そ の後増補され た結果Исаак Ббель,Сочuненuя, т.1,M.,1990,стр.362-435. で、現存するすべてが活字と なった。本稿では日記のテキストとして、この選集のものを用いる。ただしこの選集版における日付の判断には異論が出た。選集は、1920年6月〜7月上旬 の約1ヵ月分のページが日記には欠落しているという立場を取っており、したがってその記載は6/3.Житомир〜6/6.Ровноの項の後、 7/11.Белёвの項へと飛んでいるのだ が、これに対して、日記には欠落はなく、日付が6/3〜6/6とされている項は7/3〜7/6の誤りではない かという意見が提出されたのである。(C.J.Avins,“Kinship and concealment in Red Cavaly and Baber's 1920 diary,”Slavic Review, 53,No3, 1994, pp.694-710.他)アー ヴィンスは自説の根拠として、Житомир一 帯が1920年6月3日にはまだポーランド軍の支配地域だったこと、日記中の記述から6/3の項は суббота(ユダヤの安息日) のことでなければならないが、1920年にсубботаだっ たのは、6月3日ではなく7月3日であったことを指摘し、 日記を解読したピロシコヴァ夫人が、_июнь(6 月)と_июль(7月)を取り違えた可能性が 高いと主張している。ピロシコヴァ夫人自身、バーベリの 日記の判読が非常に困難な作業であることは認めており(1992年6月11日、筆者との談話で)、アーヴィンス達の説は、強い説得力を持つものと言わざる を得ない。本稿では以下、6/3〜6/6の日付を7/3〜7/6と読み替えて、論を進めることにする。
本稿では、創作メモについてはпубликация и  примечания Эмиля Когана,“И.Бабель:Планы и  наброски к <<Конармии>>,”Лumepαmурное обозренuе,ΝO2, 1995,стр.49-66. をテキストとして用いる。これは1965年版で欠落していた部分を補い、全文を校訂して、詳細な注釈を加 えたものであ る。
なお『騎兵隊』のテキストにはИсаак Бабель,Сочuненuя. т.2, M.,1990,стр.5-129. を用 いた。引用の末尾に付されている頁数は、このテキストに基づいている。必要に応じてИ.Бабель,КонαрмuяМ.−Л., Госдарственноеиздательство,1926.(初版)/И.Бабель,Конαрмuя,XU−XV δоnолнumе  льноеuзδαнuеГосдарственное издательство художественной литературы,  1933./新聞雑誌に初出時のテキスト(出典は本稿3章2節参照)/などを適宜参照した。本稿における和訳はすべて筆者に文責があるが、 『騎兵隊』作品 テキストについては、木村彰一訳(『世界の文学28・ゴーリキー/バーベリ』、中央公論社、1966年、399‐554頁)を参照している。また本稿にお いて作品名の冒頭に付されている数字(@AB……)は、『騎兵隊』単行本における収録順序を示している。
16 一例としてФ.Левин,И. Бαбель:очерк mεорчесmεα,М.,1972.
17  日記−“На деревне  стон,меняют лошадей,даюот одров,травят  хлеба,забирают скот,...”(7/14, Белёв)/作品テキスト−“На деревне стон стоит. Конница травит хлеб и меняет лошадей.Взамен приставших кляч кавалеристы  забирают рабочую скотину.”(стр.15)
18  日記−“Великолепная  итальянская живопись,розовые патеры, качающие младенца Христа,валиколепный темный Христос,Рембрандт,Мадонна  под Мурильо,а можетбыть Мурильо,...”(8/7,Берестечко)/作品テキスト−“На Этой  картине двенадцать розовых патеров качали в люльке,перевитой дентами, пухлого младенца Иисуса(стр.87)
19 1938年12月30日、諸民族共和国若手作家の集会での発言。Э.Коган,“Работа над<< Конармией>> в свете полной версии <<Планов и набросков> >,”Пumерαnmурное обозренuе, 1995,Νo1,стр.92.に依る。
20 D.7/24−“Зубной  врач,бледнея от гордости и чувства  собственного достоинства,заявляет,что никто не бугдет копать картошки, потому что праздник./M.2−“Дора Аронова−у нас праздник−бледнеет  от гордости.”
D.7/29−“Вот начинается могущественный дождь,истинный победитель.”/M.8− “Дождь−пообедитель,галиц.местечко−сквозь сетку дождя.”
21 たとえば、M.27中の“Ком. партия есть железная шеренга,бессчетно  отдаюошая свою кровь в первом ряду. И когда из жедза текет кровь,то Это  вам,товарищи,не<шутейное дело>шутки, − а победа или смерть.”は、 ほとんど そのままの形で『ある馬の話の続き』に用いられている(стр. 103-104)。ただしこの表現は、創作メモにおいては、中隊長トルーノフの葬儀におけ る軍事委員の演説として想定されているのに対して、『ある馬の話の続き』では、解任された師団長サヴィツキイがフレーブニコフに宛てて書いた手紙の一節で あるということになっている。
22 Д.Фурманов,Собрαнuе  сочuненuu,т.4,М.,1961,стр.340.
23 С.Буденныи,“Бабизм  Бабеля из ‘Красной нови’”Окmябрь, NO3,1924,стр.196-197.ブジョ ンヌィ将軍のバーベリ批判は1928年にも繰り返され、この際にはゴーリキイがバーベリ 擁護の論陣 を張った。
24 Э.Коган,“Работа  над<<Конармией>> в свете полной  версии<<Планов и набросков>>,стр.89
25 В.Вакуленко,“И.Э. Бабель:Новые материалы,”ЗнαмяΝo6,1972, стр.212-215.参照。
26 D8/9に師団長付伝令将校リョフカについて流布している噂として、次のような記述がある。“Рассказ о том,как  он плетил соседа Степана,бывшего стражником при Деникине,обижавшего  население,возвратившегося в село.<<Зарезать>> не дали,в  тюрьме били,разрезали спину,прыгали по нему,танцевали,эпический  разговор:хорошо тебе,Степан?Худо.А тем,кого ты обижал,хорошо было?Худо  было.А думал ты,что и тебе худо будет?Нет,не думал.А надо было подумать, Степан,вот мы думаем,что ежели поадемся,то зарежете,ну да м.и.,а теперь, Степан,будем тебя убивать.Оставили чуть теплого.Другой рассказ о  сестре милосердия Шурке.Ночь,бой,полки строятся,Лёвка в фаэтоне,сожитель  Шуркин тяжело ранен,отдает Лёвке лошадь,онп отвозят раненого, возвращаются к бою.Ах,Шура,раз жить,раз помирать.Ну да дадно.”最 初の下線 部が『手紙』に、第二の下線部が『寡婦』に、使われている。
27 このメモに現われている構想が完成しなかった理由はいくつか考えられるが、その一つに、この構想に用いられるはずだった旧約聖書エレ ミヤ記との神話的パラレルが、『ゲダリ』『師父』『師父の子』3編において既に使用されていたことが指摘できる。拙稿「『騎兵隊』における“人物”− ゲ ダリとイリヤ・ブラツラフスキイ −」『RUSISTIKA 東京大学文学部露文科研究室年報』10号、1993年、224‐249頁参照。
28 8/26の項に“Сестра− 26и1.” との記述があるが、これはゴーリキイの短篇『二十六人とひとり』を念頭に置いているの である。
29 P. Carden, The Art of Isaac Babel, Ithaca&London, 1972,pp.107-132.
30 『騎兵隊』のテキスト分析に成果を上げている主な研究書には、J.E. Falen,Isaac Babel: Russian Master of the Short story, Knoxville, 1974; C. Luplow,Isaac Baber's Red Cavalry, Ann Arbor, 1982; E. Sicher,Style and Structure in the Prose of Isaak Babel',Slavica Publishers, Inc., 1986等がある。
31 R. W. HalletIsaac Babel, 1972, pp. 50-52.
32 P. Carden, The Art of Isaac Babel, pp. 50-52.
33 拙稿「『騎兵隊』における“人物”−ゲダリとイリヤ・ブラツラフスキイ−」参照。
34 J. J. van Baak, The place of Space in Narration: A Semiotic Approach to the Problem of Literary Space. With an Analysis of the Role of Space in I. E. Babel's Konarmija, Amsterdam, 1983, pp. 148-149.
35 P. Carden,“Babel's Two Ivans,”Russian Literature, No.15, 1984, p. 299.
36 Извесmuя  Оδесскоsо Губuсnомα,Гтδкомα КП(б)У u Губnрофсоεеmα. オデッサで発行されていた新聞。
37 初出時の題名は『ティモシェンコとメーリニコフ』。『ある馬の話』と改題されたのは、単行本に収録された際である。
38 初出時の題名は『シェヴェリョフ』。同上。
39 Исаак Бабель,Сочuненuят. 1,стр.238.
40 初出時の題名は『ディヤコフ』。改題されたのは単行本に収録された際である。
41 初出時の題名は『コレースニコフ』。同上。
42 初出時の題名は『シードロフ』。同上。
43 初出時の題名は『ティモシェンコとメーリニコフ』。同上。
44 Русскuu  соεременнuк
45 「オデッサ報知」1924年5月4日号に掲載されたものの再録である。
46 Прожекmорモ スクワで発行されていた雑誌。やはりヴォロンスキイが指導的な位置にあった。
47 Шквαл
48 その後、30 δнеu,No1,1925に再録。
49 初出時の題名は『夕べ』。改題されたのは単行本に収録された際である。
50 初出時の題名は『ガーリン』。同上。
51 Крαснαя новьNo3, 1924.に掲載された作品に付された日付・地名は次の通り。
  6=ノヴォグラド、1920年7月
  18=ラジヴィーロフ、1920年6月
  24=ベレステチコ、1920年8月
  28=ガリツィヤ、1920年8月
       20=ベレステチコ、1920年8月
  19=ドゥブノ、1920年8月
  31=奥付なし
  29=ソカリ、1920年9月
  27=ガリツィヤ、1920年9月。
  以上のように、最初の2編の時間的順序が逆転している他は、おおむね、7月から9月への時間軸に沿って配列されていると言うことができる。
52 D. Mendelson, Metaphor in Babei's Short Stories, Ann Arbor, 1982, pp. 114-115.
53 コサックが蜜を得るために蜂の巣を襲ったことについては、日記中にしばしば記述がある(D.8/3・8/18・8/23‐24)。 バーベリは自分の実体験を、聖書的モチーフの連鎖の中に取り入れたのである。
54 教会堂の絵がアポレクの作品であることは、『聖ヴァレントのもとで』雑誌初出時のテキストでは、あくまでも語り手リュートフの抱く確 信に過ぎなかった。(КаК забыть мне  картину,висевшую у правого придела и  написанную,я уверен в этом,божественным Аполеком.)。これに対して初版テキストで は、下線部が削除 され、絵の作者がアポレクであることが客観的事実であるとの印象が醸し出されている。この例は、バーベリが単行本において、モチーフ間の連鎖をより強調し ようと試みていたことを、よく示している。
55 「揺籃」という単語には、『聖ヴァレントのもとで』ではлюлька、『キリストのサーシュカ』ではколыскаが、それぞれ用い られているが、前後の文脈から見て、読者が両モチーフの同一性を感得することに、さして困難は認められない。
56 「漁師」という単語には、『歌』ではохотник、 『師父』ではрыбакが用いられているが、 『歌』におけるохотникが漁 師に他ならないことは、前後の文脈から見て明らかである。
57 坂倉千鶴「イサーク=バーベリ論」『RUSISTIKA 東京大学文学部露文科研究室年報』1号、1981年、81頁。
58 M. Ehre,“Babel's Red Cavalry: Epic and Pathos, History and Culture,” Slavic Review, No40, 1981, pp. 228-240.
59 Исаак Бабель,Сочuненuят. 1,M.,1990,стр.62-65.
60 M. Schreurs,“Intertextual montade in Babel's Konarmija,”Dutch Contributions to the Tenth International Congress of Slavis ts, Sofia, September, 14-22, 1988. Literature, Amsterdam, 1988, p. 306.
61 3『手紙』、 19 『コンキン』など、「コサック」タイプの視点から語られている作品においても、リュートフは何らかの動機づけの 下に、作品冒頭部ないし末尾に登場している。『騎兵隊』中、リュートフが全く関与せず、また収録されている直接の動機づけを持たない作品は 15 『パヴ リチェンコ、マトヴェイ・ロジオーヌィチの一代記』・ 30 『裏切り』の2編だけである。
62 『騎兵隊』には残虐な場面が数多く存在するが、必ず、その加害者・被害者のどちらかが、無名かつ存在感が稀薄なように仕組まれてい る。本稿2章2節で引用した創作メモМ.2 Демидовкаの構想が実現しなかったことについては、注27で指摘した聖書的パ ラレルの重複の他に、これが作品化された場合に2タイプの価値観が真っ向から衝突したであろうことも、その大きな理由だったと考えられる。「典型的な」コ サックであるプリシチェパと、古くからの禁忌を守ろうとするユダヤ人家族(M. 2において、彼等は、バーベリがチェーホフ『三人姉妹』とのパラレルを試 みたほどに、個性的に想定されていた)との葛藤は、『騎兵隊』作品世界の「空間的」配置という原理から見て、回避される必要があったのである。


44号の目次へ戻る