SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 44号

民の声.詩人の眼差し
−O.マンデリシタームの戦争詩より−

斉  藤   毅

Copyright (c) 1997 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.

民の声、詩人の眼差し
O.マンデリシタームの戦争詩 1
O.マンデリシタームの戦争詩 2
戦争と言葉の問題
注 釈
要 約


民の声、詩人の眼差し


 本論では、詩人O.マンデリシタームによって1914年から1916年にかけて書かれた、いわゆる戦争詩について考察してみたい。「戦争詩 (военные стихи)」というのは1914年に勃発した第一次世界大戦を題材とした詩のことであるが、これは当時のロシアにおいて普通に使われ ていた言葉だった。この年に始まる大戦への動きの中で、ロシアの多くの詩人たちが戦争に触発されて詩を書いたが、こうした詩が一般に「戦争詩」と呼ばれて いたのである。このようなロシア詩壇の状況は、たとえば同年夏に刊行された雑誌「アポロン」を見ても確認することができる。同誌6−7号(8月―9月号) では「アポロン」周辺の詩人たち(ゲオルギイ・イワーノフ、クズミーン、アフマートワ、ロジンスキイなど)による戦争詩の特集が巻頭を飾っており、この特 集にはマンデリシタームも2篇の詩、<<戦いくさを前に>>と<<ヨーロッパ>>を寄せている*1。そして翌8号(10月 号)では、早くも当時の詩壇における戦争詩の概観がゲオルギイ・イワーノフによって行われている(「炎の試練(戦争詩)」)。この文章は、当時、戦争詩と いうものがどのような意識のもとで書かれ、また読まれていたのかをよく示していると思うので、その冒頭を少し引用してみよう。

 我が国の詩人たちの戦争詩の出来がよいものであるか、悪いものであるか −これについては後に検討することにしたいが− それ はさ ておき、最近、興った戦争詩の意義を否定することはできない。全体的な高揚が湧き起こり、ただ一つのことに注意が集中している日々においては、当然のこと ながら、詩人たちも無関心でいることができなかった。しかし、肝要なのは、今日の戦争詩が、あらゆる人を興奮させた諸事件への単なる反響であるというだけ ではないということである。戦争詩は、老いぼれた我々のモダニズムが生まれ変わったことの、かすかではあるが、明瞭な真の兆候を有しているのだ。[……] 戦争は個人性の息苦しい輪をひきちぎり、広く全体的な関心を生みだした。民の声であるという本来の権利が、ロシア詩にとり戻されたのである[……]*2

 このように世界大戦は社会全体の焦眉の問題であると同時に、詩に一つの転換をもたらす契機として考えられていた。この文章で述べられていることを 敷衍するならば、次のようになると思われる。国家間の戦争は国民全体の問題である。なぜなら暴力による強制措置の応酬である戦争においては、国家としての 「同一性」が脅かされているのであり、それを保つためには国民が「一つになって」国家の防衛という「一つのこと」にあたる必要があるからである。そうでな い場合には、自分たちの国家は同一性を奪われ、国民としての自分たちの存在もまた危機に晒されることだろう。戦争によって人々は、一国家に属するものとし ての自分たちの存在を改めて意識することとなり、そのときデカダンス以来の詩のおける個人主義的な傾向も破綻する。詩は「民の声(народный  голос)」となるべきなのである−

 マンデリシタームもまた、この戦争に現実的に反応した詩人の一人だった。実生活における詩人は、当時、戦傷者救護のために作られた組織(全ロシア 都市同盟、あるいはゼムゴール)の活動、たとえば詩の朗読会の運営などに参加していた*3。同時期に書かれた戦争詩も雑誌掲載のために書かれたふしのあるものが多く、彼はこのような詩の創作 も戦時における社会活動の一つとみなしていたのではないかとも思わせる。もしそうであるなら、彼の戦争詩は、特定の時代状況(コンテクスト)の中で、特定 の読者に向けて書かれたメッセージのようなものだということになるだろう。そして私たちもまた、彼の戦争詩をそのようなものとして読まなければならないこ とになる。

 しかしマンデリシタームは、世界大戦が始まる前年、1913年に書かれた「話し相手について(О собеседнике)」というエッセイの中 で、文学者(литератор)がつねに具体的な聴き手、生きた同時代人たちに向けて語るのに対して、詩人はただ、時間的にも空間的にも遠い距離を置い た「神意による話し相手」にのみ結びついていることを述べていた*4。 彼はそうした本来の詩作と「社会活動」としての詩作とを区別していたのだと考える人もあるかもしれない。実際、彼が書いた戦争詩(ほぼ8篇と数えられる) のうち、後に刊行された詩集に収録されたものは4篇にすぎない*5。 しかし詩集に収録されなかった戦争詩にしても、それは雑誌掲載という形で公(public)にされているのであり、それはすでに読者(読者とは原理上、つ ねに未−来の読者である)に委ねられているのである。

 だから私たちはマンデリシタームの戦争詩を、特定の時間的・空間的コンテクストのみに結びつけて読む必要はない。もちろん詩そのものが暗示してい るコンテクストを考慮することは必要である。たとえば先に述べた《戦を前に》という詩は、後に《1913年》と改題されているが、このタイトルは読者に当 時の歴史状況を参照するよう求めている。しかし注意しなければならないが、それはこの詩が1913年当時の歴史状況の「判じ絵」だということではない。 《1913年》という日付が示しているのは、この時にある出来事が起こったということなのだ。ここでいう出来事とは時間をその前と後に分割するもの、その 意味で日付と同じものなのである。私たちは詩の中にこの出来事〓日付の刻印を読んでゆかなくてはならない。実際、マンデリシタームにおいて世界大戦はこの ような出来事として経験されていたのだった。たとえばヨーロッパ仝の最終連には次のようにある。

Европа цезарей! С тех пор,как в Бонапарта
Гусиное перо направил Меттерних,−
Впервые за сто лет и на глазах моих
Меняется твоя таинственная карта!*6
皇帝たちのヨーロッパよ! ボナパルトに
メッテルニヒが鵞鳥のペンを向けて以来−
百年が過ぎ、初めて私の眼のまえで
おまえの密やかな地図が変わろうとしている!

つまり世界大戦とは1814年のウィーン会議以来初めての、ヨーロッパにおける地政学上の変化であった。「初めて(впервые)」という言葉が 時間の上に刻みを入れる。またこれらの詩行はウィーン会議もまた一つの出来事としてあったことを含意している(「メッテルニヒ」「ボナパルト」そして「百 年」といった言葉は明らかにある日付を指示している)。ここでこの出来事が「書くこと」(<<гусинои перо>>)として示されていることは偶然ではない。出来事の刻印とは言葉と変わるものではないからである。たとえばこのウィーン会議で行 われたように、連続的な大地を国境線によって分割し、それを一つの国家として同定する(identify)こと、それは言葉の効果と同じものである。思う に歴史とは、言葉であれ何であれ、出来事の刻印(徴)を一定のパースペクティヴのもとに解釈することではないだろうか。歴史に日付が不可欠なのはそのため ではないだろうか。

 こうして出来事としての戦争も言葉の効果の一つである。だからこそ戦争は詩として書かれうるのである。マンデリシタームもそのことに意識的であっ たと思われる。以下では、この戦争と言葉の関係をマンデリシタームの2篇の戦争詩、《1913年》(《戦を前に》)と《ドイツの兜》の読解を通して考察し てみることにしたい。


O.マンデリシタームの戦争詩 1

   Ни триумфа,нивойны!   凱旋もなく、戦いくさもなく!
   О железные,доколе   おお、 鉄の人々よ、我らは
   Безопасный Капитолий    いつまで安泰なカピトリウムを
   Мы хранить осуждены? 守るべくさだめられているのか?


   Или римские перуны−   あるいはローマの雷いかずち−
   Гневнарода − обманув,   民の怒り − を騙して
   Отдыхаст острый клюв    雄弁家たちのあの高壇の
   Той ораторской трибуны; 鋭い口ばしが休らいでいるのか


   Или возит кирпичи あるいは朽ちた太陽の荷車は
   Солнца дряхрая повозка 煉瓦を運び
   И в руках у недоноска  錆びついたローマの鍵は
   Рима ржавые ключи?    月足らずの子の手中にあるのか?*7


 1914年(おそらく9月以前)に書かれたこの詩は、先に述べたように「アポロン」1914年6−7号に掲載された。マンデリシタームの戦争詩の うちでも最も早い時期に書かれたと思われるものである。雑誌掲載時には《戦を前に(Передвойной)》と題されていたが、後に詩集『石 (Камень)』2版(1916)に無題のまま収録され、『石』3版(1923)、『詩集(Стихотворения)』(1928)に収録された際 にGGGSA01%1913年(1913)仝と改題された。これらの題が示しているのは、ここに語られている状況、あるいは詩の主体(<< мы>>)の意志が戦争へと向けられていることである。《1913年》という題は、このことをさらに歴史的なコンテクストの中で示し、都市国 家ローマの情景を1913年当時のヨーロッパの構図と重ね合わせている(だからこの詩の「ローマ」という言葉に当時のイタリア、あるいは第2の神聖ローマ 帝国を自称したドイツ帝国を読むことも可能である)。

 こうした都市国家と世界大戦当時の国家との類比は次のように考えられる*8。戦争とは国家間の出来事であり、それにはそれぞれの国家が同一性(identity)を有している ことが前提になる。この同一性は地理的には国境によって示されるが、それは都市国家の場合、都市(город)に巡らされた囲い(ограда)に当たる といってよい*9。つまり トポロジー的にみるならば、国境は円周によって示され(途切れた国境、線分としての国境は原理的にはありえない)、この円にはみずからの同一性を体現する 中心が必ず存在する。これは一般に「権威」と呼ばれるものであるが、こうした中心があって初めて詩における主体「我ら(мы)」の次元も成立する。複数の 人間が「我ら」という一人称のもとに語るのは、彼らがある中心のもとに統一された存在であることを示しているからである。この中心、権威の位置する場所 を、詩は「カピトリウム(Капитолий/Capitolium)」と名づけている。ユピテル、ユノー、ミネルヴァの三神を祀ったカピトリウム神殿は 国家としてのローマの中心をなしていたが、この名の語幹である「頭かしら(caput)」という言葉にも注意すべきである。「首‐都(capitale,  Kapitale, capital)」という言葉はここに由来する。

 このように国家の同一性の中心に神殿が置かれていたということは、都市国家ローマの構造(地理的にも、制度的にも − この二つは同じものであ る)が祭祀的な性格を有していたことを示している*10。 ローマ創建伝説はこのことを物語っている。ローマの創始者ロムルスは鳥占によって都市建設の場所を定めたのだったし、市壁(ограда)の輪郭(国境) を犂で引く作業は祭儀として行われ、この「聖なる」溝を跨いでしまったロムルスの双子の兄弟レムスはその場で殺害されたのだった。そして都市の中心にロー マの最高神ユピテルを祀る神殿が置かれた(これら鳥占と犂の祭儀、神殿の配置はローマの植民市建設の際にも踏襲された)。つまり国家の起源はいわゆる「聖 なるもの(священное)」の次元と関わっており、国家の中心にある権威はみずからの力をそこから汲んでいるのである。権‐威とはそもそも力のこと である。

 「戦(война)」とは、こうした権威の力が国境を越えて行使されることである。しかし上に述べた国家の構造が失われるわけではない。戦とは国 境上の出来事であるが、国境は中心の存在なくしてありえないのだから、戦とは二つ(以上)の中心の間の出来事なのである。「カピトリウム」の語幹に「頭」 (突出するもの)があったことを思い起こしてもよいだろう。この意味で詩の冒頭、ただ助詞だけを伴って現れる「凱旋 (триумф/triumphus)」という言葉は詩の空間を開く出発点となっている(<<...!>>)。いうまでもなく 「凱旋」とはローマにおける祝勝行事であるが、本来は祭儀であった。このとき戦勝者の行進は、民に迎えられてマルスの野から全ローマを抜け、カピトリウム 神殿に到着する。カピトリウム神殿自体、ロムルス王が「戦勝品(трофей)」を結びつけた槲の木の傍らに建てられたものだった。こうして中心から国境 へ遠心的に向けられる力は、同時に国境から中心へと求心的に働く(<<Ни триумфа,нивойны!>>》の並置)。ちょうど中心に結ばれた糸が国境外に向けてぴんと張られるように、ここで遠心力と求心力は 同じものなのである。

 したがって国家の中心は「守る(хранить)」べきものではなく、その力が外部へと向けられることで中心もまた保たれるのでなければならな い。だから「我ら」(<<железные>>)はつねに戦を待ち望む(<<доколе...>>) のである。実際、古代社会においては、戦こそが国家の恒常的な状態であると考えられることが多かった*11。5行目の「ローマの 雷(римскиеперуны)」という言葉もこのことを示している。この言葉にはスラヴ神話の雷神ペルーン(Перун)とユピテルとの類比(雷神に して戦士の守護神)があるが、国家の中心としてのユピテル(“Jupiter Capitolinus”)のもとに統一された民の意志、「怒り (гнев)」(“Jupiter Tonans” − 雷神のこと)は、そのまま戦(“Jupiter Victor”)へと向けられてゆくのである。 続く「鋭い口ばし(острый клюв)」とは、カピトリウム神殿に並ぶフォルムの「高壇(ораторская трибуна)」に飾られた戦勝品の舳先(rostra)を指すが*12、ここでも中心と国境の力学、とりわけ外部(海)への突出(口ばし、舳先、頭)への暗示は明らかだ ろう。

 一方でこの「口‐ばし」は言葉、そして政治に関わる(<<「高壇(ораторскои трибуна>>)。「高壇(tribunal)」の原義は「護民官のための場所」であったが、さらに「護民官(tribunus)」の原 義は「部族(tribus)の頭」であった。だからここには6行目の「民(народ)」との呼応があるといえる。一般に政治まつりごと (политика−“polis”とは「都市」を意味する前に「城砦」のことであった)とは、国家における民と中心との、言葉を媒介とした関係であると ほぼ言うことができる。国家の中心、つまり「権威(авторитет)」というもの自体、言葉との関係なしにはありえない。先に引いたローマ創建伝説を 例にとるなら、鳥占とはそこに出現する徴しるし(シニフィアンと言ってもよい)を「読むこと」であり、また市壁の溝を掘ることは、線によって連続的な大地 を分割することであり、それは「書くこと」と同じなのである。《ヨーロッパ》の中でのウィーン会議におけるヨーロッパの国境画定が「書くこと」(< <гусиное перо>>)として現れていたことを思い起こしてもよいだろう。ともあれ詩の中の「我ら」は、公(public)の場所であるフォルムにお いて雄弁家(orator−「語る(orare)」という言葉に由来する)の口(<<клюв>>)が民の意志を言葉にすること で、その意志の舳先(<<клюв>>)を然るべき方向に差し向け、国家(中心と国境)の力学を貫徹させることを望んでいる。こ れが政治ということである。しかし「口ばし」は民を「騙し、休らいでいる」。ここでは「騙‐す(обмануть)」ことは、民の意志に異議を唱えること ですらなく(それは政治の一つのあり方である)、言葉が効果を持たないようにするためだけの言葉、その意味で「黙‐る」(<< отдыхает>>)ことと同じである。

 つまりここでは政治そのものが欠けており、国家の力学が凝固(<<дряхлая>>)しているのだ。国家の力学は政 治、すなわち言葉による媒介なしには作動しえない。第三連では第一連の鉄(<<железные>>)も錆びつき(< <ржавые>>)、国家の構造が転倒される。10行目の「太陽(солнце)」はおそらく最終行の「ローマ(Рим)」と呼応し ている(接続詞で始まる連の奇数行と名詞で始まる偶数行の対比、力点のある詩行の第一音節に置かれた名詞という一致、<<Солнца дряхлая...>><<Римаржавые...>>という語の配置など)。本来中心であるべき太陽〓ロー マは「荷車(повозка)」(太陽神ヘリオスの馬車を連想させる)となって煉瓦を運ぶ。それは市壁を高く積み上げるため、ただ国家(<< Капитолий>>)を「保管しておく(хранить)」ためにだろうか。こうして「口ばし(КЛЮв)」は錆びた「鍵 (КЛЮчи)」となる。しかし本来的に動態である国家は、もはやそこにはないのである。

 詩は沈黙を破る1行目の感嘆の後、二つの疑問(<<...?Или... или...?>>)が続く形をとっている。詩においてはどのような断言もなされておらず、ただ応答の言葉だけが待ち望まれている。詩は未完 了のまま開かれており、だから国家の力学は完全に封じ込まれたわけではないのだ。<<戦を前に>>というタイトルもそのことを示 している。戦を待ち望むことは、国家の力学の貫徹を待ち望むことであり、すでにみたようにそれは言葉を待ち望むと言っても同じことなのである。冒頭に引い た文章の中でイワーノフが、詩人は「民の声」となるべきだと言うとき、それはこうした民の待ち望む言葉を詩人が与えることであるかのように聞こえる。しか し詩人の声は、高壇上の雄弁家の声のように、国家の動態にはずみを与えるべく言葉を語るものなのだろうか。戦が言葉の効果によるものであるとはいえ、それ は詩の言葉の効果と同じものなのだろうか。言い換えれば、戦と詩の言葉はどのように関係しているのだろうか。戦争詩というものを考えるとき、このことは突 き詰めてみる必要があるように思える。

 もちろん<<1913年>>という別のタイトルを考慮する場合、この詩は1913年のヨーロッパにおける地政学上のある 構図を示すことになるだろうし、それを検討することは必要である*13。しかしその際にも、これまでみてきたこの詩そのものの力学には変わるところがないと思われる。こ こでは世界大戦当時のヨーロッパの構図のことは措いて、国家と戦争そして言葉との関係を続けて考えてゆくことにしたい。


O.マンデリシタームの戦争詩 2

 戦と詩の言葉はどのように関係しているのか − それを考える手がかりとして、次の詩<<ドイツの兜(Немецкая каска)>>を読んでみよう。ポーランドを戦場としたドイツとロシアの戦闘を題材としたこの詩は、1914年10月付の新聞に掲載されて いることから、戦争開始後まもなくに書かれたものと思われる。

   Немецкая каска,священный трофей
   Лежит на камине в гостиной твоей
   Дотронься,она как игрушка легка; 
   Пронизана воздухом медь
   В Познани и в Польше не всем воевать,−
   Своими глазами врага увидать−
   И,слушая ядер губительный хор,
   Сорвать с неприятеля гордый убор!


   Нам только взглянуть на блестящую медь
   И вспомнить отех,кто готов умереть!*14
   ドイツの兜かぶと、聖なる戦勝品が
   きみの客間の暖炉の上に置かれている
   触れれば、それは玩具のように軽く
   尖頭帽の銅は大気に貫かれている ……
   誰もがポズナニとポーランドで戦うことはなく −
   おのれの眼で敵をみることもない −
   砲弾の破滅的な合唱を聴きながら
   誇らかな武具もののぐを敵から剥ぐこともない!
   ぼくらはただ輝く銅に眼を向け
   死を覚悟した者らを思い出すだけでいいのだ

 この詩は、ある意味では<<1913年>>における「凱旋(триумф)」と同じモチーフを扱っている。1行目にみら れる「戦勝品(трофей)」のことである。この言葉自体はギリシア語(tropaion)に由来するが、殺害した敵から剥いだ武具を神々に捧げる儀式 (spolia)は古代ローマにおいて広まった。この場合、戦勝品はカピトリウム神殿に祀られるユピテルに捧げられる。「戦勝品」に付された形容辞「聖な る(священный)」はこうしたことに由来しているといえるが、ここではその意味をもう少し詩のテクストそのものに踏みとどまって考えてみたい。

 まずこの詩が<<1913年>>と異なっているのは「我ら(мы)」の位置づけである。<<1913年 >>の「我ら」が国家の中心(<<Капитолий>>)を巡って形成された集合であったのに対し、この詩の「我 ら」は親密な友人同士の関係を示す(<<в твоей гостиной>>)。戦勝品の兜は、客間(歓待の場所)の「暖炉(камин)」(ギリシア語・ラテン語の「竈かまど (kaminos/caminus)」に由来する)の上、つまり炎の場所、そして古代ギリシア・ローマにあっては家庭の守護神 (Hestia/Vesta)の場所に見いだされる。そして詩においては、この出来事だけで戦争(<<воевать>>)を知 るのには十分なのであった。

 ここでも「ポズナニとポーランド」という形で国境の次元が示されている*15。この国境が「敵/味方(неприятель/приятель)」を分割し、それ故、そこで 「敵を目の当たりにする(своими глазами врага увидать)」ことは、敵の姿を認めるというにとどまらない。そこで人は国境を画す力に直面しているのである。詩は1連目と3連目、2連目と4連目が 呼応する構成をとっている。兜を見いだす詩の語り手/敵を見いだす兵士、兜に触れる詩の語り手/敵から兜を剥ぐ兵士というように。客間に兜を見いだした詩 の語り手は、国境上の兵士と同じように何らかの力(<<священныи>>)に触れたのであり、それが詩の出現する一点と なっているのだ。ここに「聖なる」という形容辞と国境を画する力との関係の暗示を読みとることができるだろう。「ドイツの兜(немецкая каска)」(そして続く「聖なる戦勝品」)という言葉は、詩における唯一の主格の名詞として冒頭に置かれている(<<лежит> >)。

 4連目には「砲弾の合唱」とあるが、この「合唱(хор)」という言葉には、一つの声にみずからを同一化(identify)させた人々、つまり 都市の神殿のもとに中心化された<<1913年>>の「我ら」と同じものが示されているといえる。こうした同一化・中心化の力 は、国境を侵すものに対しては(<<не ̄ириятелъ>>という言葉が示すように)否定として現れる、つまり死をもたらす (<<губительный>>)。国境はこうした相対する否定の作用が拮抗する線であり、その作用は現実には国境上の兵士た ちにおいて体現される。したがって彼らは敵、もしくはおのれに死をもたらすしかなく、その意味で初めから死を賭けた(<< гордый>>)存在なのである。人はおのれの身を守り、敵に死をもたらす「武具(убор)」(身を守ることと殺すことはここでは同じこ とである)を身に着けることで兵士となる。例えば兜を身に着けることによって。この「兜(каска шишак)」という言葉に、カピトリウムの語源でもあった「頭(caput>cap)」を読みとることも可能である*16。国境を画する力は国 家の中心に由来し、それは「突出」として現れるものだからである。こうしたことを前提とすることで「(死んだ)敵の武具を剥ぐ」という儀礼的な行為も意味 をもつ。それは国家が敵をそのものとしては否定し、みずからに同一化させる行為なのである。奪われた武具は「戦勝品(трофей)」として国家の中心 (<<Капитолий>>)に捧げられる。

 詩の最終連では、こうして持ち帰られた敵兵の武具が「輝く銅(блестящая медь)」と呼ばれている。ここに提喩法という修辞だけをみるべきではないだろう*17。この詩では2度、兜の質料である「銅」が名指されているが、この「兜/銅」の分離(< <медь шишака>>)は何よりも「兜」が形式であることを示している。この兜の形式性は二つの段階で考えられる。@まず武具としての兜を作るこ とは、銅という自然を否定し、道具と化すことである*18。 つまり兜を作る主体(subject)が、銅を連続的な自然から分離し、みずからの目的に従属させて客体〓物(object)とする行為である。その意味 で兜の持つ形式は、人間による自然への否定作用の現れである。A主体は戦を行うという目的で兜を作るのであるが、それは結局、国家の目的であり、戦におい てそれを身に着ける国家の成員(subject)、兵士を前提としている。ここで「兵士」が国家の形式をなしているということに注意すべきである。上に述 べたように戦において国境を画す力は「兵士」という形式でしか現れることがなく、そのとき彼は文字通り「死を賭けた」(<<готов умереть>>)存在となる。国家に同一化することは、みずからの自然を否定し、国家の形式と化すことなのである。

 だから「人は兜を被ることによって兵士になる」というとき、それは単なる換喩法(兜によって兵士を示す)というだけではない。武具としての「兜」 の形式化(@)と「兵士」の形式化(A)は同じ一つの力によって貫かれているのである。ここで次のことが言える。「兜」という言葉の形式そのもの(一般に シニフィアンと呼ばれるもの)が、上に述べた兜の二つの形式性を同じ一つのものとして体現しているということである。そして原理上、この言葉が最初に発せ られたのは、国家の中心にある力、権威によってなのだ。もちろん国家の権威(王あるいは神託のお告げなど)が最初に「兜」という言葉を口にしたということ ではない。そうではなく、戦(兵士の形式化と武具の形式化)が国家の中心化の力によるものである以上、「兜」という言葉の形式化もまた同じ一つの力によっ てなされているのだということである。ここに私たちは「権威」というものの本来の作用をみてよいだろう。エミール・バンヴェニストの有名な定義に拠れば、 印欧諸語における「権威 (auctoritas)」という言葉は本来、「言葉によって何かを存在させる力」を意味していたのだった*19。権威によって発せら れた言葉、それは「法(宣り)」と呼ばれる。

 言葉によって自然を形式化する権威の起源には、自然の否定としての死があった。だから国家は、みずからの同一性(国境)を侵すものがあるとき、そ れに対しては否定をもって応え、みずからの起源を反復する。しかし権威を生じさせる死を、人は言葉によって名指すことはできても、けっしてそのものとして 知ることがない*20。 死はつねに他者の死にとどまる。詩における兵士の死もそのようなものである。そしてこの死はドイツ兵の兜がロシア人の家庭で見いだされるという出来事から 暗示されるにすぎない。しかし死はつねにこのような「出来事」という形でしか現れることがないだろう。この兜に「眼差しを向ける(вз− глянуть)」や反射的に(блестящая)死が「想起(вс−помнить)」される(<<медь/умереть> >の押韻)。しかし実際は、兜の質料としての銅、そして一瞬として同一の輪郭をとることのないその閃光(блеск)が、兜に向けられた眼差しを捉 えているのである。眼差しの方はけっしてそれをそれとして捉えることができない。主体の同一の視点を前提とする眼差し、自然から客体〓物を切り離す主体の 眼差しを、兜の放つ光はつねにすり抜ける。このように言葉の基底にありながら、けっして言葉の連関の中に掬い取られることのないもの、それが一般に「聖な るもの(свяшенное)」と呼ばれるものである。バンヴェニストは、マルセル・モースの供犠論を参照しつつ、ラテン語の「聖なる(sacer)」と 「供犠(sacrificium)」という言葉の類縁性について論じているが、それに拠れば、本来は「聖なるものにすること」を意味する言葉が「(家畜な どを)殺害すること」を意味するようになったのは、聖の次元と俗の次元の交流のために、死が必須の契機だからであった*21。否定によって出現し た道具の連関(言葉の連関)をさらに否定することが、供犠の意味である。


戦争と言葉の問題

 したがって<<ドイツの兜>>が戦勝品を「聖なる」と形容するとき、そこには戦争に対するどのような価値判断もない。そ こにあるのはむしろ戦争を「遊戯(игра)」(<<игрушка>>)とみなす眼差しである。砲弾により穴を穿たれた (<<пронизана воздухом>>)兜は、ほとんど物質性を失い、「玩具のように軽い」。すでに見たように兜の形式と言葉の形式は同じものであるのだか ら、ある意味で兜の重みは初めから大気のように軽く、原理上、戦争は子どもが玩具で行う遊戯と変わりないのである。これは戦争に対する揶揄ということでは なく、文字通りそうなのだ。しかし言葉の遊戯において生ずる効果は途方のないものとなりうる。たとえば言葉の効果は「全体(holos)」(< <всем>>)という範疇を打ち立て(言葉なしにこのような範疇はありえない)、それをあたかも玩具のように一瞬のうちに灰塵に帰す る(holo−caust)ことができる。

 もちろん詩もまた、こうした言葉の効果によって成り立つものである。しかし詩は戦争を遊戯として見ることができるのに対し、戦争はけっしてみずか らをそのように見ることができないという差異はある。戦争において、兜は道具以外のものではありえず、つねにある目的に従属し、そこから切り離すことがで きない。一方、詩において、兜はあたかも作品のようにして客間に置かれているのであり、そこでは戦勝品としての意味さえほとんど失われている。そしてこの 客間の中でこそ、兜はその輪郭(形式)を触知できるほどに(дотронься)現し*22、銅の輝きが眼差しを捉えるのである。つまりこの詩において「客間」(<<в твоей гостиной>>)とは詩の空間のことであり、「兜」とは言葉のことなのだ。言葉は、道具としての言葉の連関から切り離されたとき、つま り詩の言葉となったとき、その道具としての形式性をあらわにするのである。

 ここからさらに次のことが言える。詩において異国の(<<немецкая>>)兜を示す語<< каска>>は、フランス語の“casque”に由来する。それは四行目では<<шишак>>というロシア語で 呼ばれる。この語は球形の尖頭(шишка)を持つ昔のロシアの兜を指すが、そこから類比的に兜が当時のドイツ兵に特有の尖頭帽であることを示している。 また兜は同時に「戦勝品(трофей)」でもあり、この語がギリシア語起源であることはすでに述べた。このように詩の中では同一の兜が三つの言葉で呼ば れており、それぞれは本来、異なった国語に属していた。もちろんそれらの言葉はすべてロシア語という国語(言語規範 − 一般にラングと呼ばれるもの)の 体系の中で確たる位置を占めている。ここで国語の構造は、絶えず同一性を求め、それ故に外部を持つ(「国境」を持つと言っても同じこと)という、これまで 述べてきた国家の構造と同じものである。国家の権威とは言葉(法)を発する力であったのだから、原理上、国家と国語は同じものの二つの現れなのである。だ から外国語が外来語という形で国語の中に入り込む場合、国語の同一化の作用のもと、その言葉は形式的に音韻上の変化を被るのと同様、内容的にも本来の国語 において有していたのとは異なる意味範囲を覆うようになる。たとえば<<трофей>>という言葉は、ギリシア語における形式 を保持している(<<трофей>>であって<<добыча>>ではない)とはいえ、きわめて限定 されたコンテクストの中でなければ、本来の祭祀的な意味を持つことはないと思われる。

 しかしこの言葉が詩の空間の中に置かれるとしたら状況は変わる。戦場にあっては道具の連関に従属していた兜は、客間に置かれることでその連関から 切り離される。そしてここで道具の連関とは権威の言葉を発端とするものである以上、そこから切り離されることは国語の体系からの逸脱でもあるだろう。つま り詩において言葉とは、国境外からもたらされた「兜(casque)」*23のように異国の言葉なのである。<<немец>>という言葉は古語とし ては「異国語を話す人」を指していた。こうして言葉−兜は、戦勝品(tropaion)として国語に同一化されることなく異国のものにとどまる。むしろ剥 き出しにされた<<трофей>>という言葉の形式性のうちに“tropaion”という輪郭が浮かび上がるのである。詩と は、それ自体で一つの固有言語なのだ。

 別の角度から見れば、キリル文字で書かれた<<каска>><<трофей>>という言葉 の形式は、かつて異なる国語間(ということは異なる国家間)に関係が生じたことの刻印である。そこにすでに戦争への暗示が含まれているが、それだけではな い。ドイツ兵の兜が<<каска>><<шишак>>という二つの言葉で名指されていることは、こ の詩の出来事が特定の国家に固有のものではないことを示している。もちろんこの出来事は一定の国家の構造の中でしか起こりえなかった。この構造は< <ドイツの兜>>においては、たとえば「戦勝品」という言葉によって体現されているが、しかし詩という固有言語は、この言葉を異国語 (“tropaion”)にとどめておくことで、そうした構造さえも客間の兜のようにして眺めることを可能にするのである。こうして古代ギリシア・ローマ の都市国家、ロシア、ドイツ、ポーランド、フランスといった詩の中の諸形象は、国家〓国語による同一化の作用(そして<< приятель/не−приятель>>という否定の作用)を受けることなく一つに取り集められる。

 ここで次のように言えないだろうか。ただ「私」と「きみ」の間にのみ、国語の国境を越えて出現する客間〓詩の空間、そこに取り集められたこれら諸 形象こそが「ヨーロッパ」と呼ばれているものなのだと。マンデリシタームの戦争詩は世界大戦を一貫してヨーロッパの出来事として捉えている*24。これは、たとえば当 時のロシアにおいてツァーリグラード(コンスタンチノーポリ)を主題とした戦争詩が書かれていたこと*25 とは対照的であると いえるだろう。しかしそれはマンデリシタームが「西欧主義者」であったからということではない。詩が「ヨーロッパ」を問題化するのは、詩の空間の中でこそ 「ヨーロッパ」が成立しうるからなのだ。国語を初めとする人間の文化は、中心と国境の構造なくしてはありえなかった。したがって異なる文化同士が関係する 場合、それは原理上は否定、あるいは同一化という結果に終わるはずであった。しかし歴史上、異なる文化を包括する文化が成立してきたのは、上に述べてきた ような詩の次元を人間が有しているからではないだろうか*26。 「ヨーロッパ」という言葉はそうした文化を(未完了のものとして)指し示してきた。だからヨーロッパ諸国家が同一化の原理、「頭(caput)」を中心と した突出の原理(「帝国主義」と呼ばれる)を押し進めた果てに全面戦争に突入したとき、詩が「ヨーロッパ」を問題化するのはほとんど合法則的な反応といえ るのである。マンデリシタームがそのヨーロッパ論「人間の小麦(Пшеница человеческая」(1922)の結びで喚起しているように、ヨーロッパ(Европа)とは本来、牡牛に転身したユピテルの首につかまって海を 渡ってきたエウロペー(Европа)という女性の人格を持つものであった*27

 こうして戦争と言葉の関係は「ヨーロッパ」の問題である。しかしマンデリシタームの戦争詩における「ヨーロッパ」の問題については稿を改めて考察 することにしたい。ここで冒頭のイワーノフの文章に立ち返るならば、マンデリシタームにおいて戦争詩を書くことは「民の声」となることではなかった。詩人 とは同一化すべき「合唱」の合唱長ではない。詩人はただ来たるべき読者にのみ語りかける。「きみの客間」の「きみ」とは私たち自身のことなのだ。そしてこ の慎ましい室内こそが無限の距離を隔てた空間なのであり、そこにおいてのみ私たちは国のことも、そして戦争という途方もない出来事のことも見据えることが できるのだろう。


44号の目次へ戻る