SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 44号

20世紀初頭におけるカザフ知識人の世界観
−M.ドゥラトフ『めざめよ、カザフ!』を中心に−

宇 山 智 彦

Copyright (c) 1997 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.

はじめに〜中央アジア地域研究の方法
T 先人たち〜近代カザフ知識人の第一世代とアクン
U ドゥラトフの生涯と『めざめよ、カザフ!』
V ドゥラトフの現状認識
W ドゥラトフと遊牧
X ドゥラトフとイスラーム
Y ドゥラトフとロシア
Z 未来へ
おわりに

要 約



はじめに〜中央アジア地域研究の方法

ある地域の研究をディシプリンとして確立させる際には、その地域に独特・固有な要素を抽出し、様々な事象の説明に応用する作業が行われるのが普通 であろう。「ロシア的なるもの」、「インド的なるもの」、等々が考察されるわけである。しかし、外来の文明・王朝・国家による征服と、現地の諸勢力の興亡 が頻繁に繰り返され、アロジェニック(他成的)な性格の強い歴史を歩んできた中央アジア*1に関しては、「中央アジア的なるもの」を定めるのは必ずしも容易でない。ステップ の遊牧とオアシスの農業という生業形態は中央アジアの基本的な性格を規定しているが、それだけでは説明できない部分も多い。また、従来しばしばなされてき たように、イスラーム世界の一部としてのみ、あるいはロシア・ソ連の辺境としてのみ中央アジアを見るのも一面的である。
だとすれば、外来のものを含む複数の文明・文化の要素が常に重層的に複合しあう社会であるということを、中央アジアの特徴として積極的にとら え、 その複合のあり方の解明を中央アジア研究の課題とするのがよいのではないか。これは中央アジアの人々が常に外部に依存し、何もしてこなかった、ということ ではない。むしろ多様な文明・文化に対する中央アジアの人々の主体的な対応が注目されるべきである。
文明・文化の複合は様々なレヴェルで論じうるが、まずはマクロな見方として、中央アジアを、中央ユーラシア*2文明、イスラーム 文明、ロシア・ソビエト文明の交わりの場として位置づけることを提案したい。中央アジア文化の基層を成す中央ユーラシア文明は、ステップ遊牧民の文化・文 明とオアシス定住民の文化・文明から成る、それ自体が複合的な文明である。本稿で扱うカザフスタンの場合は、主に遊牧文明の側面が関係してくる。イスラー ム文明は、8世紀から19世紀までかかってゆっくりと中央アジアに浸透した。ロシアによる中央アジアの政治的支配は、18世紀から徐々に進んで19世紀後 半にほぼ完成し、1991年のソ連崩壊でひとまず終わった。しかしこの間中央アジアに大きな力を及ぼしたロシア・ソビエトの文化・文明の影響は、今後も長 期間残ることが予想される。また最近では西側文明の中央アジアへの影響も強まっていることが注目される。これら三つないし四つの文明の要素が調和し、ある いは矛盾し、また人々の主体的な働きかけによって変化していく場が、中央アジアという地域だといえる。*3
さて、本稿は、以上のような見地からの個別研究の一つの試みである。対象は、民族としての自覚と運動の形を、外界との関連で具体的に定位する こと を始めた、1905年革命後のカザフ人たちである。素材とし4は、当時の代表的な知識人の一人であるミル・ヤクブ・ドゥラトフ*4が1910年*5に出したカザフ語 詩集、『めざめよ、カザフ!Оян,кзк!』を中心に用い、同時代や少し前の時代の他の知識人たちの文章も参考にする。そして、ドゥラトフらの現状認識 や将来への展望、また彼らを取り巻く社会の動きに、遊牧文明、イスラーム文明、ロシア文明のそれぞれが、どのように関わっていたかを検討することになる。
筆者はまた本稿を、1917年にアラシュ党と自治政府アラシュ=オルダの設立に参加することになる一連の知識人(便宜的に、彼らをアラシュ党 設立 以前の時期についても「アラシュ派」と呼ぶことにする)に関する研究の一部としても構想した。アラシュ派知識人の問題はカザフスタン史上非常に重要である が、彼らが1920年代から30年代にかけて弾圧されて以降、彼らに関して研究が行われることは、ソ連でも他の国でもまれであった。1988年末にアラ シュ派知識人の名誉回復がなされてから、カザフスタンでようやく本格的な研究が始まっている。
アラシュ派全体に関する研究史の紹介は別の機会に譲るが、ドゥラトフについての個別研究としては、マラト・アブセメトの仕事*6がある。また、 ドゥラトフの息女グルナル・ドゥラトヴァ女史(1915年生)が、父親の回想などを書き続けておられる。*7そのほか、新聞や 雑誌に掲載された研究・記事については、カザフスタン国立図書館作成のビブリオグラフィー*8で知ることができる。

T 先人たち〜近代カザフ知識人の第一世代とアクン

ドゥラトフについての話を進める前に、彼が活躍を始める以前のカザフ知識人の状況を概観してみよう。
1731年にカザフの三つのジュズ(部族連合体)の一つ、小ジュズのハンであるアブルハイルがロシアに臣従を誓ったが、彼に従わない勢力も多く、 ロシアによる厳密な支配は当初行われなかった。しかし18世紀後半以降、ロシアがカザフ人の遊牧範囲を制限するなど徐々に直接支配に乗り出した結果、ロシ アやハンに対する叛乱が相次いだ。少なからぬカザフ人がロシア人やバシキール人と共に参加したプガチョーフの乱(1773〜75)の後、小ジュズのスル ム・ダトフの乱(1783〜97)、ブケイ・ハン国のイサタイ・タイマノフの乱(1836〜38)、中ジュズのケネサルの乱(1837〜47)などが続い た。
これらの叛乱の中ではしばしばアクン(詩人。多くは村々を渡り歩き、即興詩や叙事詩を謡う)が戦士たちを鼓舞した。イサタイと共に叛乱を率いたマ ハンベトがその例である。しかしロシアの圧倒的な軍事力とカザフ人の内証、近隣民族との対立のために、叛乱は事態を大きく変えることはできなかった。
一方で、カザフ人の有力者たちは子弟にロシア式の教育を受けさせるようになった。そして、大規模な叛乱の伝統が絶えようとしていた19世紀半ば過 ぎ、ロシア式の教養を身につけた人々の中から、従来とは全く違ったタイプの天才たちが現れた。彼らを、近代カザフ知識人の第一世代と呼ぶことができよう。 ロシアの西欧派に相当する彼らの出現は、中央アジア諸民族の中でロシアに併合されたのが最も早く、しかもイスラームの影響力が最も弱いカザフ人独特の現象 だった。オアシス定住民やタタール人の場合は、近代的知識人は何よりもジャディード(ロシア圏に興ったイスラーム改革派。イスラーム改革主義を「ジャ ディーディズム」と呼ぶ)として現れてくるからである。
最初の近代カザフ知識人としてまず挙げるべきは、チョカン・ワリハノフ(1835〜65)である。中ジュズの有名なハン、アブライの曾孫として生 まれた彼は、オムスクのシベリア陸軍幼年学校で学んだのち、将校の任務を果たしながら、中国領を含む中央アジアの社会・文化を調査し、30年に満たない短 い生涯の間に、民族学者、地理学者、歴史学者、旅行家として高名を得た。彼はまたロシアの多くの学者・文化人と交流を持ったが、特にドストエーフスキイと の親交は有名である。
しかし、ワリハノフにとってロシアの学問や文化の愛好は、自分の民族への嫌悪や無関心を意味したわけではなかった。事実は全く逆で、彼はカザフ人 の伝統や現状をロシア人に教え、またロシアによる統治を、公正で、カザフ人の発展に役立つものにするため奮闘した。死の前年の「司法改革についての覚書」 で彼は、「ロシア帝国に入っている異族人の全種族の中で、数の多さでも、豊かさでも、そして恐らく、将来の発展が期待できるという点でも、第一位を占めて いるのは我々カザフ人」であり、「ロシア社会が考えているほど未開でも粗暴でもない」と強調した。そして、民族の発展のためには「自己発展、自己防衛、自 主管理、自主裁判」が必要だとして、裁判制度などの問題では伝統を尊重すること、改革を行う場合はカザフの実情を最大限考慮することを政府に求めた。彼は また、カザフ人の有力者層は一般人民の利益を全く反映していないとして厳しく批判した。*9
ワリハノフはもっぱらロシア語で著作を書いたことと、あまりに早い死のため、人民に直接語りかける機会は少なかった。これに対し、人民の啓蒙を最 大の課題としたのがウブライ・アルトゥンサリン(1841〜89)だった。1879年にトルガイ州視学官に任ぜられた彼は、ロシア=キルギズ(カザフ)*10学校、職業学 校、女学校、初等学校などをカザフ人向けに多数設立した(ドゥラトフが卒業したトルガイ市のロシア=キルギズ(カザフ)学校もその一つである)ほか、教科 書の執筆や教育方法の開発に尽力した。また、口承文学の収集や民族学の分野でも優れた業績を残した。
アルトゥンサリンについては、「異族人」のロシア化・正教への改宗を目指したロシア人啓蒙家、ニコライ・イリミーンスキイ(1822〜91)の指 導を受けていたこともあって、カザフ人のロシア化のために果たした役割が強調されがちである。しかし実際は、彼はワリハノフ同様カザフ民族の発展を願って いたのはもちろん、ワリハノフと違って(後述)、イスラームにも積極的な関心を持っていた。彼は1889年の上司宛の手紙で、学校でキリスト教を教えるロ シア人校長の行為を、住民に学校を敬遠させるものとして非難している*11。また、1884年にはカザンで『イスラームの規範』というカザフ語の初めての 教理書を出版した。*12彼 は同時に、ムッラー(イスラームの儀礼と教育を司る者)の無学など、イスラーム信仰の現状を批判した。彼はカザフにおけるイスラーム改革派の先駆と言える かも知れない。
一方、文学の方面でも偉大な近代的知識人が現れた。アバイ・クナンバエフ(1845〜1904)である。マドラサ(イスラーム式の中・高等教育機 関)でアラブ・ペルシア文学の素養を身につけると共に、ロシア文学を愛読しその翻訳も手がけた彼の作品には、カザフ文学の伝統とアラブ・ペルシア文学、ロ シア文学の三者が総合されている。彼はイスラームの教義に詳しかったが、断食や一日5回の礼拝といった儀礼はあえて守らない、自由な思想の持ち主だったと 伝えられる。
アバイはカザフ人の怠惰、虚言癖、互いに争うことを批判し、「これらは皆、家畜を増やすこと以外に考えることがないせいである。農耕、商業、芸 術、学問など他のことに打ち込めば、このようにはならないはずである*13」と、啓蒙的な呼びかけをした。しかし人々の無理解にあまりにも苦しめられた彼 は、カザフ人には「発展する日が来るのだろうか? ああ、まさか!*14」 と、カザフ人の未来に対して悲観的であった。
アバイは好んで若者と接し、人生論や学問論を語って、大きな影響を与えた。ドゥラトフや彼の仲間の多くは、直接会う機会はなかったようだが、アバ イを非常に尊敬し、アバイの著作の出版・紹介に努めていた。ドゥラトフ自身、『カザフ』紙1914年67号に、「アバイ」という記事を書いている。
第一世代の近代的知識人には、人民への献身、学問と啓蒙への強い意欲、ロシアなど外界の文明を積極的に摂取しようとする態度、カザフの現状への批 判精神といった特徴や、イスラームの近代主義的な理解の萌芽が見られる。これらは、ドゥラトフの世代の知識人により明確な形で現れるであろう。
一方、伝統的なアクンの流れも、時代による変化を受けつつ続いていた。ドゥラト・ババタエフ(1802〜74)、ショルタンバイ・カナエフ (1818〜81)、ムラト・モンケウル(1843〜1906)らである。彼らは、ショルタンバイの詩の題名を取って「悲しみの時代Зарзаман」の アクンたちと呼ばれる。ショルタンバイは、「ロシア人の敷いた罠にかかった。/家畜を飼い、平和に眠り、/志を持って生まれたわが勇士たちが、/囚われの 苦しみに落ちた!」と、隷属状態に置かれたカザフ人の不幸を嘆いた。しかしそれではどうすればよいかとなると、「窮屈になったこの時代には/静かな家で寝 ていなさい」と言う以上のことはできなかった。*15
19世紀末から20世紀初頭にかけて、カザフの知識人の歴史は新しい局面を迎える。アルトゥンサリンらの努力で設立された官立の学校では、各州で 数百人単位のカザフ人が学び、マクタブ(イスラーム式の初等教育機関)、マドラ −その中にはジャディードの運営するものが含まれる− で学ぶ者も増え た。ペテルブルグ、オムスク、カザン、カイロなどの大学に進む者も一部には出てきた。
ワリハノフ、アルトゥンサリン、アバイらは、カザフ社会の中では特異な存在であり、ロシア政府の下で役職に就くか、詩人として個人的に活動するし かなかった。アバイのペシミズムも、彼が孤高の存在であったことに由来していよう。彼らを第一「世代」と呼ぶのは厳密には不正確で、実際には彼ら同士の連 携はなかった。しかし20世紀初頭には知識人層は、まとまったグループとして、一般民衆とも多様な接点を持ちながら行動できるだけの数に成長した。一方 「悲しみの時代」のアクンたちはもともと比較的広い範囲のカザフ人の気分を反映していたと考えられ、彼らの認識はのちの知識人にもある程度引き継がれるは ずだが、現状からの出口を見出せないアクンたちの思考法を、新しい知識人は乗り越える必要があった。そんな時、ロシアで1905年革命が起き、カザフ人は ロシア帝国の諸民族の思想や運動に触れた。新しい思想、新しい行動様式を持つ知識人たちが活動する舞台の準備は整った。

U ドゥラトフの生涯と『めざめよ、カザフ!』 

ミル・ヤクブ・ドゥラトフは、1885年11月25日(露暦。以下1917年までは露暦、18年以降は新暦)、トルガイ州トルガイ郡サルコパ郷第 1(第3とする資料も)アウル(遊牧民の生活単位で、村に当たる)に、職人の子として生まれた。*16血統から言えば、中ジュズのアルグン部族・マディヤル氏族の出である。トルガイ 郡は人口密度の低いカザフスタンの中でも特に人口が稀薄な地方であった。アラシュ派の著名な知識人で同じ郡・同じ部族出身のアフメド・バイトゥルスノフ (1873〜1937)の経歴を述べる際、ドゥラトフはこう記している。「カザフの牧畜民だけが住むトルガイ郡*17 は、今日 〈1922年の時点〉*18  でも、文化的な影響から隔絶された僻遠の地の一つである*19」。
8歳になった時、父親は彼をタタール人ムッラーのもとへ勉強に行かせたが、ドゥラトフの言によれば、このムッラーは極めて無学な人間だったとい う。この経験は、『めざめよ、カザフ!』で展開されることになる、ムッラーたちの教育への批判に影響していよう。1895年、父親は彼を今度はアウルの学 校に出し、ロシア式の教育を受けさせた。ここでの最初の教師は、正式の教程に入っていないアラビア文字のカザフ語の読み書きを、無償でドゥラトフたちに教 えてくれた。97年、ミル・ヤクブはトルガイのロシア=キルギズ(カザフ)学校に進学したが、同じ頃父を失った。1901年にこの学校を卒業した後、クス タナイで1年間教師養成コースに通ったことで彼の学歴は終わる。以後各地でアウルの教師を務めながら独学に励み、特に、学校では表面的な知識しか得られな かったロシア文学を学ぶことになる。
オレンブルグ、オムスク、カザン、ウファ、トロイツクから新聞・雑誌を取り寄せて社会情勢に関心を持っていたドゥラトフは、1904年にオムスク へ行き、後にアラシュ=オルダの中心的な指導者となるアリハン・ブケイハノフ(1866?〜1937)とバイトゥルスノフに出会った。*20
 1905年革命は、カザフ人にとって、初めてまとまった形で政治的な意見表明を行う機会となった。6月、セミパラティンスク州カルカラル郡で集 会 が開かれ、政府の宗教への介入、ロシア化政策、植民政策を批判し、教育の改善や地方行政でのカザフ語の使用を求める1万2767人(1万4500人とも) の請願が出された。*2110 月、市民的自由と立法議会開設を約束するツァーリの詔書が出されると、ブケイハノフらはそれをカザフ語に訳してステップ地域全土に広めた。ブケイハノフに よれば、この「自由の日々」にカザフ人は、ロシア人が平等、信教の自由、人民主権を語る姿を初めて目にし*22、「ロシア人、 タタール、サルト〈中央アジアのオアシス定住民に当時与えられていた呼称〉、カザフは一つの親密な家族となった」*23。12月にはウ ラリスクで、ウラリスク、トルガイ、アクモリンスク、セミパラティンスク、スル=ダリヤ各州の代表を集めた大会が開かれた。アブセメトによれば、ドゥラト フはカルカラル集会にもウラリスク大会にも参加した。
ドゥラトフはウラリスク大会代表の一員として、請願のため1906年ペテルブルグを訪れ、多くのカザフ知識人と知り合った。この時の集まりで、官 製のものを除けば初めてのカザフ語の新聞『セルケ〈羊の群れを先導する山羊〉Серке』を、タタール人イブラギモフ*24 がペテルブル グで出していた新聞『ウルフェト』の付録の形で出すことが決められた。その第1号(1907年3月)に載った「若者たちへ」が、活字になった最初のドゥラ トフの詩である。第2号(1907年7月)に筆名で載った彼の記事「我々の目的」は、カザフ人に「何の権利もないことは、怒りと悔しさを呼び起こす」と し、ロシアの宗教政策・移民政策などの不当さを告発するものだった。この記事は内務省を怒らせ、『ウルフェト』と『セルケ』(結局2号しか出なかった)が 廃刊に追い込まれる原因となった。*25
1907年6月の第二国会解散で、ロシアの政治は反動・停滞の時代に入るが、自らの権利を自覚し、理想を得た少数民族の運動は、献身的な知識人層 の働きで活力を維持した。そうした時代の雰囲気の中で、1910年にウファのカリモフ=フサイノフ商会「東方」印刷所から刊行されたのが、『めざめよ、カ ザフ!』である。その初版はすぐに売り切れ、1911年にオレンブルグで第2版が出た。文学者コシュケ・ケメンゲロフ(1894〜1942)が1926年 12月1日の『勤労カザフ』紙で述べたところによれば、「『めざめよ、カザフ!』を、人々はコーランのように暗記した。ミル・ヤクブの名を6つのアラシュ 〈カザフ民族の雅称〉に広めたのがこの『めざめよ、カザフ!』である」。
『めざめよ、カザフ!』の影響力は、これをまねした本がいくつも現れたことからも推察できる。1911年に、バイバトゥル・エルジャノフ著『立 て、カザフ』という本*26  が出版されたが、この本の各章の名は「ステップのカザフ民族の状況」「ステップのカザフ民族への説諭」「郷長と選挙」「モスクとマドラサについて」など、 『めざめよ、カザフ!』を構成する詩の名(後述)に似ており、そのものずばりの「めざめよ、カザフ!」という章もある。内容・言い回しにもよく似た部分が ある。このほか、アルスタンガリ・ベルカリエフ著『流れ』(カザン、1912年)に「めざめよ、カザフ!」というフレーズが見られ、1917年には『寝る な、カザフ!』(アブルカシム・グマロフ著、タシケント)という詩集が出た。*27
『めざめよ、カザフ!』のあと、ドゥラトフは休む間もなく次の仕事に取りかかり、同じ1910年のうちにカザフ最初の小説『不幸なジャマル ЪакытсызЖамал』をカザンで出版した。また、1911年にトロイツクで発刊された重要なカザフ語月刊誌『アイ=カプ″Ай-кап』での執筆 活動を開始した。しかし『めざめよ、カザフ!』の影響力はついに当局の目に留まるところとなり、同年6月、憲兵隊はセミパラティンスクで彼を逮捕した。逮 捕の理由は、『めざめよ、カザフ!』がロシアの政策へのカザフ人の不満を呼び起こすことを目的とし、「神聖なる皇帝陛下に対する粗暴な愚弄を含み、同時に パン・イスラーム主義思想を伝達するものである」ということであった。6ヵ月の刑を宣告された後、ドゥラトフは『めざめよ、カザフ!』第2版のために再起 訴された。一度はカザフ人たちの集めた2000ルーブリの寄付によって保釈されたがすぐ再逮捕され*28、1912年12月まで服役した。『めざめよ、カザフ!』は初版・第2版とも発 禁・廃棄処分に遭ったが、1000部がある知識人のもとにひそかに保管された。
1913年、ドゥラトフはオレンブルグで第2詩集『ますらおАзамат』を出版すると共に、バイトゥルスノフと協力して新聞『カザフ  Казак』(週1〜2回刊)を創刊した。当時他のカザフ語の新聞・雑誌の部数は数百部に過ぎなかったが、『カザフ』は1年目に既に3000部余りを刷 り、2年目・3年目は減少したものの、1918年の廃刊前には8000部を超えていた*29。ドゥラトフはまた1915年は、第3詩集『テルメ〈詩形式の一種〉 Терме』をオレンブルグで出版した。
ドゥラトフとその同志たちの、同時代の知識人への影響力は絶大だった。アラシュ党の運動には当初から加わらず、のちソビエト・カザフ文学の創始者 の一人となるサケン・セイフッリン(1894〜1938)はこう述べている。「目覚めつつあった若いカザフ知識人層を鼓舞したのは、著名な、当時の『革命 的』カデットの社会評論家たち −ブケイハノフ、ドゥラトフ、バイトゥルスノフであった。…〈略〉…若い知識人層は、他に師とする者を見出さなかったの で、当然のことながら、これらの『賢い』カデットの周辺、彼らの新聞『カザフ』の周囲に急速に結集した*30」。また、 1931年発行の『文学百科』に言う。「民族主義的知識人全体を率いると同時に、彼ら〈バイトゥルスノフとドゥラトフ〉はカザフ文学をも思想的に率いてい た。当時の若いカザフ人作家たちは彼らを見習い、彼らの真似をし、彼らに学んだ*31」。
「異族人」に戦線後方での労役を命じた勅令をきっかけに、中央アジア全体で起きた1916年叛乱の際、ドゥラトフらは、政府に対しては動員の延期 と動員対象の制限を、人民には自制を求めるというスタンスを取った。また直接戦線後方へ赴き、労役者への援助を行った。
1917年のロシアの二月革命をほとんどのカザフ知識人は歓迎し、臨時政府の下で盛んに活動した。ドゥラトフはトルガイ州コミッサール補佐官、同 州自治庁(управа)委員などを務めた。*324 月からは各州でカザフ人の有力者・知識人・活動家を集めた大会の開催が相次いだ。7月21〜28日にオレンブルグで開かれ、ドゥラトフが書記を務めた全カ ザフ大会は、ロシア憲法制定会議への代議員候補を指名する(ドゥラトフはトルガイ州からの候補の一人に)と同時に、カザフ独自の政党の結成が必要であるこ とを決議した。*33こ の党はやがて「アラシュ党」と名付けられ、ブケイハノフ、バイトゥルスノフ、ドゥラトフを含む6人が作成した綱領案が、11月21日付『カザフ』紙に公表 された。*34
カザフ人は「第1の革命〈二月革命〉を迎えた時の喜びと同じだけの恐怖をもって、第2の革命〈十月革命〉を迎えることになった」、とバイトゥルス ノフは言う。*35ア ラシュ派の目に、十月革命は、暴力、略奪、独裁を伴った完全な無秩序と映った。それまで彼らは、来るべき憲法制定会議でカザフの自治を勝ち取ることを目標 にしていたが、12月5〜13日にオレンブルグで開かれた第2回全カザフ大会は、政情の急変を受けて、憲法制定会議を待たずに、カザフ人が多数を占める諸 州・郡を領域的民族自治の対象とすることを決めた。そして、この地域を「無秩序から救うため」、ブケイハノフを議長とする「臨時人民評議会アラシュ=オル ダ」を創設した。事実上の自治政府であるアラシュ=オルダの委員は25人、うち10人はロシア人など非カザフ人に割り当てるとされ、大会ではカザフ人委員 15人を選出した。*36
アラシュ=オルダは、白軍とのあやうい連携のもとにボリシェヴィキと対抗した。しかしコルチャークをはじめとする白軍勢力はカザフの自治を認めよ うとしなかった。こと民族政策に関してはソビエト政権の方がよいと判断したバイトゥルスノフを先頭に、アラシュ派は1919年3月から順次ソビエト政権側 に移行し、1920年3月、アラシュ=オルダは消滅した。*37
1919年4月4日の全露中央執行委員会決定で、反革命の罪を問われないことになった*38 元アラシュ派の知識人は、ソビエト政権の下でカザフ文化の発展に意欲的に取り 組んだ。ドゥラトフは『明るい道Ак Жол』紙(タシケント)、『赤色カザフスタンКызыл Казакстан』誌(オレンブルグ)、『勤労カザフ Енбекщi казак』紙(クズル=オルダ)などに多くの記事を書き、裁判所副所長、出版所部長、大学講師などを歴任し、教科書を作り、共産党関係 の文献をカザフ語に翻訳した。1921年にはタシケントで戯曲『バルキヤЪалкия』を出版した。歴史、言語問題、保健衛生などに関する文章もものして いる。
 しかし、内戦でアラシュ=オルダと戦った共産主義者たちの、元アラシュ派への敵意は強かった。これに中央から派遣された党員の現地民活動家への 不 信と、ソビエト国家全体で絶え間なく続く政治闘争・パージ、民族政策の変転が加わり、元アラシュ派の立場は次第に悪化して行った。1928年12月、ドゥ ラトフは他の多くの元アラシュ派知識人と共に逮捕され、1930年4月に銃殺刑を宣告されたが、翌年1月に懲役10年に減刑された。ブトゥイリ監獄、ソロ フキ強制収容所、白海=バルト海運河建設現場で過ごす間、「スルタン=ガリエフ主義者」として受刑していたタタール人たちとも知り合った。1933年秋に は、当時西欧で活動していた著名なカザフ知識人、ムスタファ・チョカエフ(1890〜1941)がドゥラトフを救出しようとしてひそかに人を送ったが、彼 は断わったとされる。1935年10月5日、ドゥラトフはソスノヴェツの病院で心臓病のため、50年に満たない生涯を閉じた。彼が名誉回復されるのは、多 くの同志たちと同様、半世紀以上を経た1988年11月を待たなければならなかった。*39
さて、以上のようなドゥラトフの多岐にわたる活動の中でも記念碑的な作品となった『めざめよ、カザフ!』の構成を見るなら、次の通りである。
前書き[3〜4頁。以下、[ ]内に示すのは同書初版の頁数]
カザフ民族халык の過去及び現在の状態[5〜10](1905年作)
カザフ民族халык の過去の生活[11〜13](1905年作)
技芸*40  によって作られたもの[13〜16](1905年作)
選挙について[16〜20](1905年作)
カザフの土地[20〜23](1906年作)
モスクとマドラサについて[23〜26](1906年作)
カザフ民族халык への一つの宗教的説諭[26〜30](1906年作)
技芸を人民халык の利益のために使っている、我らが教養ある人々へ……[30〜31](1906年作)
〈無題〉[31](1907年作)
我々の困窮した状態についての若干の祈り[31〜44](1907年作)
ムダッリス〈マドラサの教師〉Z...氏宛の一通の私の手紙[44〜46]
寡婦の訴訟について[46〜55](1907年作)
若者たちよ![56〜60](1908年作)
謎かけ[60〜64](1907年作)
全般的忠言[64〜92](1908年作)
イスマイル・ガスプリンスキイ閣下の言葉[92〜96]
結び[97〜99]
以上のうち「前書き」と「イスマイル……」が散文で、残りは「結び」も含めすべて韻文である。底本としてはアラビア文字による初版*41 を使ったが、 現代カザフ文字に翻字した版*42  も大いに参考にした。このほかトルコで出た手書きによるアラビア文字の版*43 もあるが、誤りや脱落が多い。
一般に文学作品を歴史研究に使う場合、その内容を文字通りに読んで使えるか、またそれをそのまま作者の主張と解釈してよいかという問題に突き当た る。『めざめよ、カザフ!』の場合も、当時のカザフ文学における書き方の約束事を我々が知らないために起こり得る読み誤りには、気をつけなければならな い。しかし作品の内容と作者の主張の関係について言えば、「結び」で作者自身が「この言葉を私は詩人として書いたのではない」[97]と述べているよう に、『めざめよ、カザフ!』は何よりも社会的メッセージを伝えることを目的とした作品であり、検閲を意識して曖昧に書いたと感じられる部分はあるものの、 芸術的意図のためにメッセージをぼかしてはいない。韻文の伝統が散文より圧倒的に豊かであったカザフにおいて、社会的アピールを詩の形で発するのは自然な 選択であった。1911年にドゥラトフを逮捕した憲兵大尉が、「詩の形で、よい言葉で書かれた『めざめよ、カザフ!』は、翻訳で読んでさえ一定の印象を与 える*44」と認 めた通り、この作品の芸術性は、明確で力強いアピール力にこそあると言ってよいだろう

V ドゥラトフの現状認識

「我らが民族халыкは世界という館の暗い片隅で眠り、忘れられたようになっている」[3]。「不幸なカザフは暗闇の中で道に迷った、/月は 出 ず、日も昇らず夜が明けないでいる」[6]。「我らがカザフは濃い霧に入った、/後ろは絶壁、前は行き止まりだ」[10]−これが、若い知識人の目に映っ た自分の民族の姿であった。「窮状тарщылык」「欠乏кемi-лiк」という言葉がドゥラトフの詩には繰り返し出てくる。「涙のかわりに我々の目 から血が流れる、/我々の手から父祖伝来の法が去って行く。/シャリーア〈イスラーム法〉の命令は手になく、/公正に人民を治めたハンは去った」 [31]。カザフの現状への深い嘆きと、昔より悪い時代になったという認識には、「悲しみの時代」のアクンたちとそう変わるところはない。しかし嘆くだけ で終わらないところが、新世代の代表者たる彼の特徴だった。
「我々の時代は日ごとに多様な姿になってきていて」、かつてと比べて「我々は短い時間のうちにたくさんの窮状に見舞われているようである。そう だ としても、昔のように、動かず無頓着でいれば、今度は短時日で我々はどうなってしまうことか?」[3]。今の時代、「必要なものは皆*45 君が探し回ら ない限り、ひとりでにやって来はしない。/『りんごよ熟せ、私の口に落ちろ』ということを、/わが民族халыкよ、信じても、誰も賛成してくれはしな い」[43〜44]。苦しい時代だからこそ努力しなければならない、という前向きの姿勢をドゥラトフは取った。ところが現実に彼の目に映るのは、無知で怠 惰な暮らしを続けるカザフ人の姿だった。「早く寝て遅く起き、だらだらしている、/仕事をして稼ぐのを怠っている。/明日のことを考えずに失敗したのに、 /悲しみもせず、飲まず食わずなのに太っていく」[42]。
後述するように、ドゥラトフはカザフの窮状の大きな原因をツァリーズムによる不正な統治に見出し、激しく批判していた。しかしカザフ人を主な読 者 とする『めざめよ、カザフ!』で彼が何より強い批判の対象としたのは、時代に適応しないカザフ人自身だった。「我らが民жртには名誉心がかけらもない、/他 の者たちの技芸との競争心が。/教養ある諸民族миллэтは追い越していった、/我々の間から目も届かぬ遠くへ。/無学のシロップに我々は酔い痴れた、 /害悪の友、自らの利益の敵となった」[36]。近代技術によって人間は様々なものを発明したのに、そのうちの一つとして作ることができず、「我らがカザ フだけが無為に過ごしていた」[16]。「各民族халыкが月に向かっているというのに/我らが民жртは足も踏み出さず後ずさりしている/〈略〉/他の民を金、銀にたと えると/単純なпротй我らがカザフは黒い石のようだ」[33〜34]。カザフは「自由、人間性、真実への意志、/この三つの言葉をしっかり握りしめて いない」[34]。
カザフが無為である以上、外の勢力がカザフの権利を蹂躙しようとするのは避けられないことだとドゥラトフは考えた。「骨がなくなり、噛みやすく なった後は/誰もが我らがカザフの子を食べるのだ」[36]。「誰が食べてみようという気を起こさないだろう、/『私を食べて』と言って我々が目の前に寝 ころんでいたら?」[72]
衰退の責任を外敵よりも自分たち自身に求める態度は、改革を志す中央アジアの知識人にしばしば見られた。たとえばブハラのダーニシュは1890 年 代に、「かくもすみやかにブハラに対するロシアの統治が成立した要因は、ひとえにブハラの国人の無知と無秩序にあった」と述べている。*46
ドゥラトフが特に厳しい目を向けた相手は、得た地位を人民のために使わず、おごりたかぶる者であった。「カザフを全く不必要な存在と」見なして い る、「人民を売って自分の利益を考えた」[10]人々。「ムルザ〈殿〉という敬称で呼ばれて有頂天になり」、「もったいぶって口髭をなで」ているが、「内 面を見れば何もない」人々[41]。「少し豊かになった者がいれば、/『俺はバイ〈富者〉だ、お前は貧乏人だ』と言って家畜を数え合った。/〈略〉/努力 をしない我らがバイたちは皆無知だ、/善良さ、善行、温かさを捨ててしまった」[67]。「バイ、ムルザ、人民халыкを統治する我々の支配者は/益も なく実もない、枯れた木のようだ」[34]。
ドゥラトフは、牧地と移動ルートの選択や紛争の調停でカザフの社会生活に指針を与えてきた、アクサカル(白髭の意)と呼ばれる長老たちにも厳し い 目を向ける。ロシア系移民の流入に伴う土地問題(次節参照)に関連して、彼は言う。「人民халыкを統治する尊敬すべきアクサカルたちよ、/この問題に 知恵と注意を注いでいるか?/鉄を熱いうちに打たずにいて、/子孫の目に涙を流させるのか?」[21]
有力者たちの腐敗が最も明らかにさらけ出されるのは、選挙の時だった。これは、ロシア政府による改革が裏目に出た現象であった。 1867〜1868年、カザフ草原の各地に「臨時統治規定」が制定され、総督府―州―郡―郷―行政アウル―経済アウルという行政体系ができた。郡以上の単 位では郡長の下級補佐官を除いてロシアの軍人が行政官に任命されたが、郷以下ではカザフ人の間から選挙で郷長、アウル長などが選ばれた。*47近代的な社会で は選挙は肯定的な意味を持つだろうが、名声や血筋、大まかな合意によってハン、スルタンやビー(慣習法による裁判官。行政的な役割も持つ)を決めることに 慣れ、選挙という制度を知らなかったカザフ人にとっては、有力者間の対立、腐敗、混乱といった副作用の方が大きかった。
『めざめよ、カザフ!』の「選挙について」という詩は、バイやムルザが郷長の地位を求めて、人々に金や家畜をばらまくさまを描いている。候補者 た ちは、選挙の結果の承認・破棄に関与できるロシア側の役人に賄賂を渡すことも忘れない。「選挙責任者の貴族に何千〈ルーブリ?〉の金を。/『周りには彼の ほかにロシア人はいなかったか?』/巡査と書記たちが贈り物をもらう、/それから通訳にもあげないわけにはいかない」。候補者でない者も、「お前も出陣し ろ」とけしかけられたり、饗応の対象になったりして巻き込まれていく。「金の価値が上がって、親族の価値が下がった。/大切な名誉が僅かな金で売られ た」。こうして、「つかみ合いの騒ぎ、口論に/我らが民族халыкは夢中になっていった」。「わがカザフよ、この習慣をやめよう」とドゥラトフは叫ぶ。
こうしたカザフの不幸・混乱への対処としてかつてショルタンバイは「静かな家で寝ていなさい」と勧めたが、ドゥラトフは逆に、カザフが「目を開 け ずに眠っている、/火事から逃げず火に焼かれてしまった」[33]ことに危機感を持った。「消しもせず、燃える火事を眺めている人よ、/どうして立ってい られるのか、心を痛めもせず」[6]。彼は巻頭の詩で、覚醒を求める叫びを声高く発する。「目をひらけ、めざめよ、カザフ、頭を上げよ!/暗闇の中で青春 を無駄に過ごすな。/土地は失われ、宗教は腐敗し、状況は破滅的になった、/わがカザフよ、今、寝ている場合ではない!」[1]
めざめよと言っても、具体的に何をすれば良いのか。およそあらゆる改革者は、外の文明、思想・宗教的原則、自分の属する社会の過去のいずれかを 手 本とするものだろう。ドゥラトフの場合、何を選んだのか。また、アイデンティティの拠り所をどこに求めたのか。「はじめに」で提示した枠組みを利用しなが ら、彼の思考を追っていこう。

W ドゥラトと遊牧

遊牧文明は、モンゴル帝国の世界史的影響に見られるように、かつては盛んな征服活動のエネルギーを備え、同時に独自の精神文化を持っていた。しか しカザフスタンをはじめ世界の多くの地域では現在までに定住化が進み、遊牧文明は個々の要素を部分的に残すものの、原形を留めていない。ドゥラトフの生き た20世紀初頭には、遊牧は現在よりも遥かに本格的な形で残っていたが、既に危機にあった。だから彼が遊牧生活の魅力を語るのも、過去のものとしてであ る。『めざめよ、カザフ!』の「カザフ民族の過去の生活」という詩は、「悲しみもなく、不幸もなく、青年男女が/競争と祝宴を催した」日々の情景を描き出 している。「湖岸に沿って列をなして野営した、/白い天幕の形が調和し合って。/〈略〉/動物たちは喜んで生産をもたらす、/地上の楽園の一角に入ったよ うだ」。弱い者には世間から便宜が図られる。若者たちは馬を訓練したり、集まってたらふく飲み食いしたりする。女たちは野いちごや桜んぼを集めに出かけ る。出産の祝いや、結婚式、葬式などの祭りの時は、馬の競走が行われ、「仔羊を屠ら、仔馬を切り、/馬乳酒を飲めば、言葉の響きが高まる」。しかし今、 「ここで言ったことの一つでも存在するだろうか?」[11〜12]
遊牧は、ロシア政府が行政区画をまたがる移動を制限したために、19世紀中頃には既に衰退を始めていたが、遊牧に最大の打撃を与えた原因は、ロシ ア人・ウクライナ人などの移民が大量にやって来て、土地を占有したことであった(遊牧民の土地は1868年の「オレンブルグ・西シベリア両総督府ステップ 諸州統治臨時規定」により国有地と見なされ、それが移民に分配されるのを遊牧民は防げなかった)。1915年の統計によれば、ウラリスク、トルガイ、アク モリンスク、セミパラティンスクのステップ地方4州で利用されていた土地の16%を、移民とコサックが占めていた。*488割以上の土地 がカザフ人の利用のために残されてはいたが、移民が定着した土地はしばしば最高の草地であったし、季節ごとに使う草地の一つを奪われたり、その間の移動 ルートを遮断されたりするだけでも、その地方での遊牧は大幅な縮小を余儀なくされた。また、移民の波が一向にとだえる気配がなかったことから、遊牧民の将 来に対する不安を呼ぶ心理的効果も大きかったろう。このような情勢の中で、カザフ人の間から移民の停止を求める動きが現れる(Y節参照)が、それと並行し て、部分的になりと定住化し、土地を集約的に利用しようという意見が出てきた。
たとえば『アイ=カプ』誌の編集長ムハメドジャン・セラリン(1872〜1929)は、「過ぎた時代を恋しがったり追い求めたりするべきではな い。今は、狭い土地でどう生活するかを探求しなければならない。これからは、我々が生活していくためには、何よりもまず定住化する必要がある*49」と説いた。彼 によれば、今のうちに定住化すれば、「農耕に適した土地を少しでも所有できる」(遅くなればそれらの土地を失う)だけでなく、教育や宗教の面でも利益が見 込まれた。「定住化したら我々はモスクを建て、マクダブ、マドラサを開いて子供たちを教育して、愛する祖国ロシアの有益な一部分となるだろう」、「かねて から申し出ている、宗教に関する我々の要望も、より速やかに実現されるようになるだろう*50」彼は自説を証明するために、親戚を集めて実際に定住地を建設した彼は自説を証 明するために、親戚を集めて実際に定住地を建設した*51
カザフ人全体を見ても、18世紀末からゆっくりと始まった農業の普及は、19世紀末以降大きく加速していた。統計学者シチェルビナらの 1896〜1903年の調査(ブケイハノフも参加した)によれば、北部の10郡のカザフ人世帯の46%が農業に従事しており、アクテュビンスク郡ではその 比率は94%に達した。ただしこれは、それだけの数のカザフ人が定住化したことを意味してはいない。多くの場合は半遊牧ないし半定住の状態で、完全に定住 化したのは、貧民を中心とする少数の人々だった*52
さて、ドゥラトフのこの問題についての意見はどうだったか。『めざめよ、カザフ!』の前書きで彼は、カザフ人が有益な物事を知らないでいる原因 と して、教育ある者が少ないこと、カザフ語の新聞がないことと並んで、「町に基盤を持たず、遊牧して各地に分散していること」[3]を挙げている。また、怠 惰な生活をやめ生計の工夫をすべきだと説く中で、「土地を耕して穀物を植える」ことを奨めている[42]。さらに注目されるのは、「イスマイル・ガスプリ ンスキイ閣下の言葉」である。これは、クリミア・タタール出身の知識人で、ジャディーディズムの祖であるガスプリンスキイ(1851〜1914)が発行し ていた新聞、『テルジュマン』の一記事(1909年46号)を紹介したものである。
ガスプリンスキイは、ロシア、シベリア、トルキスタンとカザフ草原を結ぶ鉄道の建設が計画されていることに触れ(実際、既に1906年にオレンブ ルグ=タシケント鉄道が開通していた)、鉄道ができれば商人やウクライナ人移民が洪水のように流れ込むだろうと予測する。土地が、従って牧地が狭くなり、 家畜が減るだろう、そうなったら、「自分たちの今の持ち分となった土地を育て、ノガイ〈タタール人〉、サルト、ロシア人のように穀物を植えるがよい! な ぜかと言われるなら、今の時代、富は家畜にあるのではなく、穀物にあるからだ」。かつてはクリミア・タタールも遊牧し、スターヴロポリからベッサラビアま でテュルクの土地が広がっていたが、ロシア人やドイツ人が来て、遊牧が衰退したためにすべて失われてしまった(従ってカザフはそれを繰り返してはならな い、と言いたいのだろう)。もし今ホジャ・アフマド・ヤサウィー(現在のカザフスタン南部を本拠地としたイスラーム神秘主義教団の創設者)が生き返ったな ら、カザフ人に宗教を教えはせず、早く定住し土地を耕せと叫ぶだろう。「頭の中に知恵が、心の中に光があるすべての人には、力の限り努力してカザフ民族 халыкを目覚めさせ、定住して穀物を植えることを奨励する義務がある」[93〜96] −このように書いた『テルジュマン』紙の記事*53を、ドゥラトフ は「カザフ民族халыкに共感して書いてくれた」ものとして紹介しており、ほぼ賛同していると考えてよかろう。
また、ドゥラトフが1911年に『アイ=カプ』誌に書いた「土地問題」という記事は、「ある民族халыкの生活を根底から壊して変えるのは容易 なことではな」く、「変更が誤った意見によって行われれば、直すことはできない」として、定住化論者の論拠と遊牧継続論者の論拠をほぼ対等に紹介した後 で、自分は定住化を支持する者の一人である、と述べている*54
しかし、遊牧生活にノスタルジーを持つ彼の心には、葛藤があったようである。それを、詩人の魂の放浪に引っかけてアレゴリカルに示しているのが、 『カザフ』紙1913年35号に掲載された「愁い」という詩である。この詩は、「私」と「私の心」の対話という形を取っている。「私」は昼も夜も飛び回る 「心」に、「放浪にどれだけ益があると思っているんだ!/立ち止まるべき時が来たんじゃないか?」と呼びかける。悲しげな「心」は答える。「僕はサルアル カの草原が恋しいんだ。/それが無理なら思うままにさまようぞ、/エシル〈イシム〉、ヌラ、エディル〈ヴォルガ〉、ジャユク〈ウラル〉の河谷を。/気分を 晴らして散歩するぞ、/ウラル、アルタイ、天山の山あいを。/どんな状態でいるんだろう、見たい、/勇敢なカザフの自由に育った子を。/昔のような自由は まだあるだろうか?」 カザフの習慣は保たれているのか、それとも他人が支配してしまったのか、と言ったあと、「心」は泣き出す。「君は離れないさ、ロシ ア人とタタール人の町から」。「私」は感情を抑え切れずに答える。「好きにするがいいよ、行くなら、愛する者よ、行くがいい……」*55
こうしたドゥラトフの態度は、1930年代に「作品の中で、広大なステップにかつてあった『自由』という、反動的な理想を掲げている*56」と批判される ことにつながっていくであろう。しかし、彼はカザフの過去を全面的に賛美していたわけではない。「カザフ民族の過去及び現在の状態」という詩で彼は、 「1000シャクルム〈1067km〉遊牧しても、土地は居心地よく、/湧き出す泉、緑の牧草地は快適だ。/仔羊が生まれ、仔馬が生まれた、/〈それで も〉土地が狭くなって悲しくなりはしなかった」と昔の遊牧生活の魅力を謳ったあと、「その頃我らがカザフは一体でなかった、/外の敵たちもいた」ことを認 める。「くに§6を破壊し、人を殺せばバトゥル〈勇士〉だと言った、/バトゥルたちは貧しい人々の権利を奪った」という言葉は、ジュンガルやロシアに抵抗 したバトゥルたちがアクンの詩で賛美されていたこと、現在再び彼らがカザフ人の間で人気を得ていることを思えば、やや意外にも響く。彼はさらに親戚同士の いがみ合い、家畜の盗み合いがあったことを指摘して、「その頃に敵に対する守りを固めていれば、/無知を脱して学問を身につけていれば」よかったのに、と 反省している[7〜9]。
 本節での検討から、次のことが言えるだろう。ドゥラトフは遊牧生活に愛着を持ち、遊牧と結び付いた過去の幸福が失われたことに対して、深い悲し み を抱いていた。しかし彼は、それを取り戻すことが可能だとは考えておらず、定住化が必要だとする意見に説得力を感じていた。また、カザフの現在の生活を立 て直し、未来を切り開く方法を示すものを、遊牧の中にも過去の生活の中にも見出してはいなかった。それは、カザフの外にあるものに求めなければならなかっ た。

X ドゥラトフとイスラーム

古くはシャマニズム的な信仰を持っていた(一部にはネストリウス派キリスト教徒などもいた)カザフ草原の遊牧民が、いつどのようにイスラーム化 し たかは、十分に解明されていない。この地域に初めてイスラームが入ってきたのは8世紀に遡るが、ほとんどのカザフ人がムスリムを名乗るようになるのは、 16世紀頃と考えられている。しかしこれも多分に名目的な話であり、イスラームの教義や慣習を本格的に伝えたのは、18世紀後半からカザフ草原に広く進出 した、タタール人のムッラーたちだった(南部では早くからオアシス定住民のイスラーム信仰の影響もあった)。イスラームが「啓蒙宗教」であるというヴォル テールの思想を受け入れたロシアのエカテリーナ2世は、交易をしばしば妨げていた遊牧民を「文明化」する役割をタタール人に期待し、これを奨励した*57
19世紀半ばにロシアのイスラーム奨励政策は撤回されていくが、カザフ人へのイスラームの影響力は既に目に見えて強まっていた。それと共に、イ ス ラームに反発するカザフ人も一部に出てきた。その代表例がワリハノフである。「どのアウルにもムッラーがおり、移動式のマドラサ、つまり学校がある。30 日間の断食と1日5回の礼拝を守らない者は、発言権を持たず親類に尊敬されない」一方、「シャマンもステップの多くの場所でまだ意味を失っていない」と観 察した彼は、イスラームは「将来我々の民族を分解させる危険がある」と考えた。そして、イスラームとイスラーム法を念頭に置いて、政府に、「あらゆる知識 に対して敵対的な宗教を庇護しないこと、恐怖と殴打に基礎を置く神学的法律をステップに暴力的に導入しないこと」を求めた。彼によれば、イスラームにおい ては「いかなる宗教改革も不可能」であった。「6世紀の遊牧アラブの未開で野蛮な迷信と、同じ時期の降神術者やユダ公の言い伝え、それにペルシアの魔術師 のいろいろな奇術を基礎にした宗教に、いかなる再生が期待できようか」とまで述べて、ワリハノフはイスラームへの敵意をあらわにした*58
20世紀初頭の知識人においても、宗教は意見の分かれる問題であった。極端なところでは、「イエス・キリストの教えに基づく、人類の精神的統一 の 最終的勝利を信じる者」、「近代キリスト教国家の一員」を名乗ったヤクプ・アクパエフ(1876〜1934。アラシュ=オルダに参画)の例がある*59。ブケイハノフ は、1914年6月にペテルブルグで開かれた第4回全露ムスリム大会で、「カザフ人はムスリムではなく、せいぜい半ムスリムである。伝統・慣習が保たれれ ばカザフ人に有益であり、保たれなければ有害である。シャリーアはカザフ人に大変有害である」と発言した。これに対して第二国会議員バクトジャン・カラタ エフ(1860〜1934)らが、カザフ人を他のムスリムから引き離し、ロシア化・正教化政策に同調する態度だとして反発した*60
一口にイスラームを支持するカザフ人と言っても様々な立場があったようだが、注目すべきは、イスラームがカザフ社会の悪い慣行を改革し、カザフ 人 を文化的に発展させるために有用だという、近代主義的理解が見られたことである。上記のムスリム大会の後カラタエフらは、「全カザフ民族は昔から現在に至 るまで、人民裁判所народныйに苦しんできた。この裁判所に今日、本当の意味での慣習はない。昔から慣習のかわりに悪と、影響力ある人間の望むこと をなしてきたのだ。カザフ民族がこの状態から逃れるためには、ただ一つシャリーアの道を守ることが必要だ」と述べた*61
また、『アイ=カプ』誌1912年第13号の記事「学問と宗教」は、コーランとハディース(ムハンマドの言行に関する伝承)は学問の習得はファ ル ド(義務)だと述べているのに、ムッラーたちはこれを宗教関係の学問のみのことと解釈し、世俗的な学問を敵視していると批判した。そして、解剖学を例にと り、「人間の体が細部まで秩序立って作られていることは、創造主の全能性を示している。アッラーの全能性は、〈それを〉この〈人体の〉構造に見出す人々 に、限りなく身近に知られるのである」と述べて、イスラームと世俗的学問が相互補完関係にあることを説いた。ソビエト期の思想史家カスム・ベイセンビエフ が指摘する通り、ここには、「学習と教育についてコーランは多くのことを語っている」とし、「イスラームと文明が両立することに疑いの余地はない」と述べ たガスプリンスキイの影響を看て取ることができよう*62
さて、ドゥラトフの場合はどうだったか。彼は学問の必要性を説く際に、「最初に学ぶ学問は、/君自身の、ムスリムの神学だ。/イスラームの諸規 範 を完全に知れば、/真の学問は来世の食物をくれるだろう」[73]と語っている。また、宗教制度の改革に関連して、「カザフ民族халыкは満足するだろ うに、/シャリーアによる命令が手の中にあれば」と述べる一方、「人民自身が、敵であるかのように/シャリーアを踏みつけにしている」ことを問題視し [29]、「『私はムスリムだ』と言うだけでは事は終わらない、/この頃人Жртの多くは宗教に気を使わない」[23]と嘆いている。「楽園の地と完全なる信仰がありますように、 /アッラーが御慈悲を無数になさいますように」[91]というフレーズも登場する。
さらに検討すると、ドゥラトフが最も強くシャリーアの適用を求めたのは、結婚をめぐる問題であることが分かる。彼はこれに関して「寡婦の訴訟に つ いて」という長い詩を書いている(「若者たちよ!」もかなり重複する内容である)。カザフ人にはシャリーアにない慣習があり、「揺り籠に寝ている息子と娘 に/父母と媒酌人がつく」。しかし、「子供が成長するまでにどれだけの時が流れるのか」、まして「障害を負ったらおしまい」で、成長しても互いを愛せない ことになる。20歳の女性と5歳の男の子を結婚させることもあれば、妻を亡くした60〜70歳の男性が15歳の少女と結婚することもある。そうした中で争 い・訴訟が起こり、家畜の盗み合いが始まる。結婚に漕ぎ着けても結局悲劇につながる。「この妻がどうして誠実でいよう?/〈略〉/この妻に何人かの友人 〈愛人のことだろう〉がいるのが見つかるだろう、/ここからどうしたら誠実な子供が生まれよう?」 なぜこのような習慣が続いているのか?「カザフは、楽 しい夢を見たいと言う、/わが子に若いうちにカーリム〈後述〉をあげたいと言う。/このように考えて少女を嫁に世話するのだ、/祭りの楽しみに加わりたい と言って」。しかし、「喜びの後はいまいましさ」という結果に終わる。
カザフ人には、夫を亡くした女性と、亡夫の兄弟など親族(アメンゲルと呼ばれる)が結婚するという慣習があった(人類学で言うレヴィレートに類 似)。大抵女性本人の意志に反するこの慣習と、それに結びついた一夫多妻も、ドゥラトフの批判の対象だった。「地位のある者たちは、1人は本妻だと言っ て、/2人目は子供を作るために娶る。/3人目は仕事のために娶る、/〈略〉/そして4人目に未亡人を娶る、/アメンゲルだと言って」。しかし、「『アメ ンゲル』という言葉はシャリーアにはない」のだ。また、「ある者は5〜6人も妻を娶る、/平等に扱わずに」。彼らはこれを、預言者のスンナ(範例、慣行) によるものだと言っている。なるほど「預言者が多くの妻を娶ったのは事実」だが、ムハンマドは「一人一人に『君が一番好きだ』と言い」、妻たちは皆「預言 者は私が好きだ」と思って満足していた。ムハンマドは複数の妻を持つことをムスリムの義務にしたわけではないし、妻たちを平等に扱えないなら罪深いことで ある。
ドゥラトフはさらに、カーリムの習慣を見直すよう求めた。カーリムとは、花婿の家から花嫁の家に贈る家畜のことで、その多寡が縁組を大きく左右 し ていた。「ある者はバイの家畜に興味を引かれる、/『婚約をして私の娘を貰ってくれ』と誘う。/そのあとでこの人間〈バイ〉が貧乏になれば、/『娘はやら ない』と言って〈話は〉壊される」。「貧しい少女は家畜のかわりに差し出される」ことになる。そして「男の子と女の子が互いを愛さないと、/家畜を与えた 男の子の父親は途方に暮れる」。こうした様々な例を見た上で、ドゥラトフは、「子供が17〜18歳にならないうちは、/娘を与えて家畜を貰うのをやめるが いい。/17〜18歳になり、/〈略〉/自分が愛する人のもとへ行くことになって、/父親に、彼から家畜を貰おうと言うならよい。/これで事は争いなしに 終わる、シャリーアと規則низамにかなう」と結論づけている。
このようにドゥラトフは、シャリーアの規定やムハンマドの故事を、結婚にまつわる悲劇をもたらす慣習をやめ、本人たち、特に女性の意志に基づい た 結婚を行うよう説くために使っている。もっとも、一夫多妻やカーリムの授受を条件つきで認めるドゥラトフの見解は、今日の我々の目から見ればもちろん、 1917年頃のロシア・ムスリムの運動家たちの意見に照らしても、不徹底なものではある。17年5月の第1回全露ムスリム大会は、カザンのムスリム女性大 会からの提案により、男女同権、婦人参政権、離婚の権利、16歳未満の結婚の禁止、一夫多妻の禁止、カザフにおけるカーリムの禁止、売春の禁止などを掲げ る決議を採択した。同年7月の全カザフ大会も、同じような決議を採択している(アメンゲル制の廃止を加えていること、一夫多妻は最初の妻の同意があれば可 能としていることが注目される)*63。 また、シャリーアが女性隔離を奨め、結婚は女性が9歳から、男性は12歳から可能とし、離婚や相続に関しても女性に不利な規定を含んでいることを考えれば*64、シャリーアを 根拠に結婚や女性の地位の問題を論じることには自ずから限界があると言えよう。ブケイハノフも、1914年に、ドゥラトフの『不幸なジャマル』に描かれ た、有力者の息子と無理やり結婚させられた才女ジャマルの悲劇は、シャリーアの導入で解決されるものではないだろうと指摘している*65。さらに、『め ざめよ、カザフ!』の中で読者に呼びかける際жiгiт,бозбалаなどの男子を表す言葉が多く使われており、この作品が主に男性を対象として書かれ ていることも確かである。
しかし、1910年という刊行時点に立ち返って考えるなら、それまで散発的にしか論じられていなかった女性の地位の問題を、『めざめよ、カザ フ!』と『不幸なジャマル』が本格的に取り上げたことには、大きな意味があったと考えなければならない。1912〜1914年に、タユル・ジョマルトバエ フの『見合い』、スパンディヤル・コベエフの『カーリム』、スルタンマフムト・トライグロフの『美女カマル』など、女性や結婚の問題を扱った小説が次々に 出るが*66、 ドゥラトフはこうした流れの先頭に立っていたことになる。
 さて、ドゥラトフはシャリーアを使ってカザフの慣習の一部を改革するよう訴えたわけだが、現実にイスラームを担うムッラーたちには極めて批判的 だった。ムッラーは「有益なことは説諭せず、/必要のない瑣末な言葉を競い合う」[67]。「誰が死に、誰が葬式をするか」にしか関心がない[25]。 「時につれてムッラーたちはますます無知になる、/多くは一般のカザフ人よりも悪くなる。/字を知ろうが知るまいがムッラーに」なる。諺の通り、「中途半 端なムッラーが宗教をだめにする」のだ[29〜30]。
ドゥラトフが特に憂えたのは、ムッラーたちが行う教育の実情だった。「このカザフにはきちんとしたマドラサがない、/子供たちを無駄に苦しめて い るだけだ。/わがムッラー殿はあぐらを組んで怒り、/日が沈む時にようやく解放する。/一人の子供が微笑めば、/その時には中国式の体罰を課す。/しかし 3〜4年勉強して卒業しても、/それで満足に字を書けもしない」。その教育方法には「提案、相互理解、激励」などがなく、「アリフビ〈アラビア文字のアル ファベット〉とアブジャド〈数を表すアラビア文字〉を無理やり覚えさせるだけ」である。勉強の環境もひどいもので、「授業を疥癬にかかった仔牛、山羊、仔 山羊まで聴いている」不衛生な状態だ。「技芸ある諸民族халыкから模範を取って、/さあ、この習慣をやめよう!」[25〜26]
「カザフ民族への一つの宗教的説諭」という詩でドゥラトフは、宗教会議Духовныйсабрание)*67から郷のモスク のムアッジン(礼拝の時刻を告げる人)に至る、イスラームに関する制度の体系化の構想を書いている。その中で、ゼムストヴォ(当時ロシア帝国のアジア地域 には設けられておらず、カザフ草原を含め各地で設置運動が行われていた)の費用によってマドラサを作ることも提案している。2人の教師を選んで、1人はム スリム式、1人はロシア式に教える。彼らが「教育学иедагогияの方式で教えれば、/わがカザフよ、お前は前進するだろう」[26〜28]。
このような旧式のムッラーへの批判や教育改革の提案は、ガスプリンスキイらジャディードの立場に近い。『不幸なジャマル』で新方式の教育者(タ タール人ガジズ)や新方式の教育を受けた者(ジャマルと、恋人ガリー)が肯定的人物として登場すること、既に述べたように『めざめよ、カザフ!』で『テル ジュマン』紙の記事を紹介していることから言っても、ドゥラトフをジャディードと呼んでよさそうに思える。しかし彼自身は、「我々のうち年長者はカディー ム派〈旧方式派〉に入り、/ジャディードというグループпартияには若者が入った。/考えてみれば、このことも正しくない、/〈略〉/我々同士が敵と なって、/他の者に騙されなければよいのだが」[37]と書いている。ジャディードの思想に共鳴しながらも、カザフ人の団結をより重視するドゥラトフは、 ジャディードとカディーム派の対立によって民族が分裂することを恐れたのであろう。
また、ドゥラトフのイスラーム理解が徹底して近代主義的・合理主義的だったと考えるのも誇張になろう。先に触れたように、ドゥラトフはイスラー ム の神学мсылманшадiн  ылымыを学ぶことを呼び かけている。では具体的に何をしろと言っているのか。「シャリーアが命じ、禁じること、/これを義務、責務として理解すること。/文字を書き、テュルク語 を理解し、コーランを読み、/規則に従って読誦を行うこと。/君が少ししか勉強せず教師になってとどまるなら、/これらのことを子供たちに教えること。/ マドラサの教授、大学者になりたいなら、/都会の上級マドラサに入ること」[73]。
ここで我々は二つのことに気づく。一つは、これはムスリムの知識人が行うべきごく一般的なことであって、取り立てて「神学」「宗教学」と言うよ う な内容ではないことである(テュルク語 −ガスプリンスキイがテュルク諸民族の共通語として考案した「共通テュルク語」を指すのだろうか −を学べと言っ ているところは、コーランの言語であるアラビア語を重視する伝統的なイスラーム理解と大きく異なる)。ロシア系の学校で学んだドゥラトフの経歴を考えれ ば、彼がイスラーム諸学をよく知らなかった可能性が高い。もう一つは、イスラーム関係の学問を学ぶことによってカザフの生活がどう変わるのかが、はっきり 示されていないことである(これは、次節で扱うロシア語やヨーロッパ文明の場合と対比させればよく分かる)。
このように、ドゥラトフ自身詳しく知らず、カザフ社会の刷新にも必ずしも直線的に結びつかないにも拘わらず、イスラーム関係の学問を学べと訴え て いることは、名目的ムスリムに過ぎなかった時代の要素を引きずるカザフ人のムスリムとしてのアイデンティティを、より深化させたいという気持が、それだけ 強かったことを表すように思われる(なお、後年のドゥラトフの著作では、イスラーム色は次第に薄まっていく)。
しかしドゥラトフのムスリムとしての意識は、生活上の規範や信仰、勉学のレヴェルにとどまっており、ムスリム全体の統一を求めたり、ムスリムと し ての社会的・政治的運動を呼びかけたりはしない。19世紀後半にオスマン帝国で生まれたパン・イスラーム主義は、当時ロシア・ムスリムに対してある程度の 影響力を得つつあり、カザフ人の間でも、オスマン帝国やトルキスタン地方の出身者が、すべての良きものはイスラームと結びついており、オスマン帝国ではス ルタン=カリフの公正な統治の下で人々が幸福に暮らしているという観念を広めていたという*68。ドゥラトフはこのような潮流には属さなかった。『めざめよ、カザフ!』の中で 唯一ムスリムの団結に言及した箇所である、「ロシアには2000万人のムスリムがいるが/これらの者が一つに集まる場所はない」[13]という一言も、実 際に1905〜06年や17年に開かれたロシア・ムスリムの大会が、基本的には、ロシアの政治情勢の変化の中で取るべき態度を、境遇や文化に共通性のある 諸民族が集まって考えるという性格にとどまるものであったことと考え合わせれば、パン・イスラーム主義的言辞と解釈する必要はない。また、テュルク諸民族 の団結を求めるパン・テュルク主義的な言葉も、ドゥラトフは書いていない。何より象徴的なのは、「我々2iΝ」という代名詞がすべて、ムスリム全体やテュ ルク諸民族ではなく、カザフ人を指していることである。ドゥラトフは「カザフ」と「ムスリム」というアイデンティティを重層的に持っていたが、明らかに 「カザフ」としての意識の方を強く感じていたと言える。
なお、このような、自分を第一にカザフ人と意識するアイデンティティの持ち方はドゥラトフだけのものではなかった。それは、十月革命・内戦期ま で のカザフの新聞・雑誌・書籍のタイトルや政治組織の多くが、「カザフ」「カザフスタン」「アラシュ」「三つのジュズ」「ステップдада」といったカザフ を象徴する語を含み、「ムスリム」や「テュルク」を掲げた例は少ないという事実からも分かる。
日本ではこれまで、中央アジアの人々について、「元来がイスラムである彼らのアイデンティティは、ムスリムもしくは、チュルクという超民族的な 意 識である。あるいは、都市の定住者であれば、サマルカンド生まれという意識、遊牧民ならナイマンなどという部族名で呼ばれるのが普通であった。すなわち、 サブナショナル(亜民族的)とスプラナショナル(超民族的)という二重の意識を持つのであって、その中間のナショナルな意識はなかった。この概念が生まれ るのは、近代国民国家の概念がソ連によって作られてきてからである」などと説かれることが多かった*69。しかしこれは、オアシスごとの独立性の高い定住民に関する議論を、生活圏が広 く大きな集団を作りやすい遊牧民にまで機械的に当てはめた見解と言わざるを得ない。1860年代にシベリアやカザフ草原の調査旅行をしたドイツ出身のロシ アの著名なテュルク学者、ラドロフ(1837〜1918)は、「社会・政治的な面でも言語面でも、すべてのカザフ人は、その分布の全区域にわたって、緊密 に融合しているので、彼らを単一の民族と呼ぶことが十分に可能である。彼らには、自分の民族の一体性と分かち難い結束の意識が顕著である」と述べている*70。ドゥラトフと その同志たちの活動や、ソビエト政権の民族政策は、カザフ・アイデンティティの内容(「カザフとはどのような民族であり、どこに向かっていくべきか」)に 様々な変化を与えていくはずだが、アイデンティティの枠組み(「我々はカザフ人である」)自体は、既に所与のものであった。

 Y ドゥラトフとロシア 

ドゥラトフはかつて西側で、「猛烈な反ロシア主義者」と形容されたことがあった*71。確かに、ドゥラトフがツァーリ政府への徹底した批判者だったことは間違いな い。カザフは「ロシア国家に服属した、/貴族アブルハイルがハンだった時に。/ツァーリは言った、私は公正に統治すると、/お前の宗教と土地には手を触れ ないと」。ツァーリはまた、「カザフもロシアの一人の息子だ、/私はある限りのものすべてを与えよう」とも言った。にもかかわらずカザフは、自らの無為の せいも重なって、「後ろは絶壁、前は行き止まり」という状態に追い込まれてしまった[9〜10]。「かつて、我々は土地を携えて〈ロシアに〉入った、/公 正さのもとで暮らそうと思って」。しかし「1868年、土地のすべてを国有地にすると」言われ、のちには移民たちに土地を奪われた[21〜22]。カザフ はツァーリに裏切られた、という思いがにじみ出ている。
 ドゥラトフのツァーリ政府への態度を最も生き生きと描き出している詩は、「謎かけ」である。ある半島に獣たちが棲んでいた。ライオンがハンに選 出 され、竜と虎がワジール(宰相)になった。しかしライオンは横暴で、自分がどんな悪いことをしても反対を許さず、ちょっとしたことですぐ小さな獣たちの血 を流した。別のあるところに少数の獣がいたが、彼らには正義の法があり、団結していた。彼らの上には技芸を身につけたハンが立ち、強い獣たちに追いつこう としていた。背は小さいが精力的で、機転がきき向こう見ずな彼らは、ライオンと戦って勝った。ライオンは「私の罪な行いのせいで悪夢が起きたのだろう か?」と言い、もう暴政を行わないことを誓った。彼は「強者は弱者に悪をなさないように」と命令を公布し、民を集めて祭りを開いた。やって来た弱い動物た ちは、狼、虎などの行いが悪く安心して歩けないと訴えた。するとライオンは「私の友人たちを侮辱して罵った」と激怒し、祭を解散した。しかし動物たちは結 集し、「お前に殺されようと我々は侮辱に屈しない」と歌った。ライオンは3度動物たちを集めたが、3度目には、一部の弱い動物たちは「あなたたちは必要な い」と言われて招かれなかった。彼らは屈辱の思いを募らせた。―このような内容である。
ライオンがツァーリのことであり、ここに述べられた出来事が、1905年革命前後の事件、つまり日露戦争での敗北、十月詔書、国会の召集と解散、 ヴイボルグの檄*72、 第三国会への「異族人」の代議権剥奪などを指していることは明らかだろう。1911年にドゥラトフを逮捕した憲兵大尉は、「『謎かけ』という記事には、神 聖なる皇帝陛下とロシア民族全体に対する粗暴な愚弄が含まれている」と特に記している*73。ちなみに日露戦争の時カザフ人の間では、日本人の肖像がカザフ人に似ているこ ともあって、日本人はカザフと民族的血縁で結びついたムスリムだという伝説が広まったと言われ*74、日本の勝利に対する関心は高かったらしい。
次に、当時カザフ人とロシアの関係において最も緊迫した争点であった、ヨーロッパ・ロシアからの移民の問題を見てみよう*75。折しも 1908年、カザフスタンには1年間で23万人の移民が流入し、十月革命前では空前絶後の規模となった*76。ステップ地方 4州では、1911年に人口の40.3%(154万3505人)をロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人が占めていた*77。移民問題は国 会でも議論の対象となった。第一国会では、オレンブルグ県選出のコサックでトルドヴィキに属するティモフェイ・セデーリニコフ(1876〜1930)が、 土地を持たないカザフ人が大勢おり、植民は欧露の余剰人口の問題を解決しない一方でカザフ人の生活を完全に破壊すると指摘して、ヨーロッパの一国に匹敵す る人口のカザフ人の権利を守り、彼らの土地を確保することの重要性を強調した*78。カラタエフ(前節参照)は、第二国会の会期中(1907年3月)に開かれたカ ザフの土地問題に関する省庁間協議会で、「移民を停止しなければならない。…〈略〉…遊牧および定住カザフ人に良い土地を割り当て、そのあとで良い土地の 余剰があれば、移民の利益のために使うべきである」と述べ、国会の議場でも、現地民の利害を考慮しない植民は「強者の弱者に対する暴力」であると訴えた*79。カザフ人が参 加できなかった第三国会では、アゼルバイジャン人議員ハリル・ハス=マメドフが、カザフ草原ほど移民事業が望ましくない結果(土地の奪取)を生んだところ はないと述べ、ムスリム・フラクションを代表して、ステップ諸州・ザカフカジエ・トルキスタンへの移民停止を求めた*80。しかし、これ らの意見 ―既に来ている移民の追放を求めはしないという点では穏健なものだった ―が政府の方針に反映されることはまずなかった。
移民の大量流入は、カザフという民族とその文化の存続にも重い課題を投げかけた。バイトゥルスノフが書いたと見られる『カザフ』紙の論説は次のよ うに述べている。「今我々の間に、外の人々бтендерが入って来ている。…〈略〉…歴史を見れば分かるように、外来の民жртが強ければ、土地の民は踏みつけられ、衰退・消滅してしまう。… 〈略〉…両者が同等であれば互いに低められず、互いに騙されず、並び立って生活し、各々が自立して民族лтとなれる」。「他の民と混ざり合った時に自立して民族となれるの は、自分の言葉を持ち、自分の言葉で書かれた文学を持つ民だけである」*81
ドゥラトフは詩「カザフの土地」で、移民のためにカザフの土地が失われていくさまを謳っている。「我々の気高い先祖の墓よ、/お前は通りの間に 残ってしまった。/蒸し風呂に使うために墓石を取り、/百姓мжыкは墓の木を火にくべる。/〈墓に〉行ってもしるしを全く見つけることができず、/目から涙が湖の ように流れる。/大きな湖、湧き出る泉、快適な営地、/森、林、樹も失われた。/夢想家となってこのすべてを考えれば、/私の体内は悲しみで火のように燃 える」。「わがカザフよ、お前の父祖伝来の土地はどこだ、/カザフがカザフとなった時から住まいとしてきた土地は。/今、お前たち全員を追い払い、/その 場所に村калаを作り、ウクライナ人хахолたちがやって来た。/測量技師たちが土地を測り取った、/村のために我々からよい土地が離れて行った。/ 甘い草、塩気のない水のすべてがそこにある。/〈略〉/途方に暮れた人々еллерはジャタク*82となった。/塩気のある水、水のない荒野が我々のもとに残った、/穀物を植えら れる良い土地は残されなかった。/山と石でどうやって〈家畜を〉育てることができよう、/バイたちにも一群れの羊、一対の馬しかない。/ほら、百姓が雲霞 のようにやって来た、/カザフの土地を全滅させるまでやめない」[21〜23]。
ここには深い悲しみと不安があり、ムジークが墓石を取ってバーニャに使うというあたりには、怒りを感じ取ることもできる。しかし注意しなければな らないのは、そうした感情をロシア人・ウクライナ人への民族的憎悪に転化させるようなことは一言も言っていないことである。それどころか、上に引用した部 分に続けて、「やって来て穀物を植え、豊かになっていく、/おお神よ、彼らは我らが民のように怠け者であろうか?」と述べ、移民の勤勉さをほめている。こ れは、短期間のうちに大農家・畜産家になったロシア人移民の例を紹介し、ロシア人の進取の気性と農業技術を見習うよう読者に呼びかけた、『アイ=カプ』誌 の姿勢に通じるものである。従って、『アイ=カプ』誌のこのような姿勢を高く評価しながら、「著書『めざめよ、カザフ!』の中で、移民に対する敵意を現地 民の中に呼び起こそうとし、民族主義的情念に火をつけようと試みた」とドゥラトフを非難するベイセンビエフの論理*83には、飛躍と矛 盾がある(かくして、ソ連の公式見解に忠実な研究者と、西側の反ソ的な研究者の見解は、「民族主義者」のロシア人への「憎悪」を強調する点で一致する)。
さて、前節で見た通り、ドゥラトフは第一にイスラーム関係の学問を学べと述べていたが、それに続けて、「2番目に必要な学問はロシア式のものだ、 /君自身にとって非常に有益な言葉を知ることだ。/君の属している国の言語、/それを知れば、君の財産は守られるだろう」[73]と述べて、ロシアの学問 とロシア語を学ぶよう説いている。
「技芸によって作られたもの」という詩では、「馬ではたどり着けない6ヵ月の遠い道のりを、/この火の車〈汽車〉は短い日数で送り届ける。/遠い 土地からの聞こえない知らせを、/我々は電報で驚きをもって受け取る」、「電気機械〈電灯のことらしい〉もやって来た、/明るくて、油も火もないのに燃え 続けた。/夜でも町の中は昼間のようだ、/当然、その印象は大きく、驚きに値する」などと、近代技術が生み出した品々の価値を力説しているが、その際、電 報、自動車、電話、汽船、気球、機械、爆弾、地雷、ピストル、蓄音機、望遠鏡、ソハー、新聞、雑誌などの名詞をロシア語のアラビア文字表記で列挙してい る。さらに、「ロシアには工場завод мен Фабрпкаが多い、/それらによって人民халыкの利益が得られた。/この二つは高価なものを安くした、/その値段は弱者にとって〈負担の〉軽いも のとなった」として、ロシアの工業への鑽仰の念を表している。
物品の名をロシア語で記しているのは、それらのカザフ語訳がなかったためと考えられるが、知識人が主導して高度な文化・文明に追いつくことの必要 性を訴える際にロシア語を多用しているのは、ドゥラトフがロシアに対して持つ先進性のイメージの現れと解釈してよいように思われる。「カザフ知識人… кпргпзскпй пнтеддпгент」「文化кулътура」「実行に移すасушествить на ирактике」「文明的な цивилизованный」「べきでないне сдедует」[10]「民衆教育のためにна подъзу абразованпя  народнай」[20などがその例である。
「結び」では、「民族халыкに共感し、その世話を考えた」天才たちとして、プーシキン、ゴーゴリ、レールモントフ、クルイローフ、トゥルゲー ネフの名を挙げ、「現在はトルストイが年老いて生きている、/道を同じくする者たちを導いて」と述べている[97〜98]。ちなみに、プーシキンの『エヴ ゲーニイ・オネーギン』の中のタチヤーナの手紙は、アバイによってカザフ語に訳され、ふしをつけて多くのカザフ人に親しまれていた。ドゥラトフは、プーシ キンの「薔薇」、レールモントフの「論争」などのロシア文学の作品をカザフ語に訳している*84。クルイローフのカザフ人への影響も格別だった。アバイやバイトゥルスノフが彼 の寓話を多く翻訳しているし、先に引いたドゥラトフの「謎かけ」にもクルイローフの影響を読み取ってよいだろう。
このようにドゥラトフはロシアの文化・文明をかなり高く評価しており、しかも言及の内容には、イスラーム関係の学問を論じる時にはない具体性があ る。またその際の論点の多くは、カザフの生活の改善の問題に直結している。実際彼は、ロシア語やロシアの学問を学ばなかったことが、カザフが窮状に追い込 まれた原因の一つだと指摘している。「初め我らがカザフは恐れていた、/子供たちがだめにさせられるかも知れないと言って、/改宗させられ、兵士にならさ れると言って。/知るのが遅れ、多くの利益から取り残されて、/土地と水を引き渡してしまったこと〈原因〉はこれではないか」[74]。
ドゥラトフにとってロシアの文化・文明の摂取は、好みの問題ではなく、カザフ人にとって現実的、実用的に必要なことであった。その姿勢は、特に ロ シア語学習の問題にはっきりと表れている。「この世界において不可欠な諸権利を得、我々の土地、我々の家畜を守るため、他の者たちからはずかしめを受けな いために、ロシア語を学び技芸ある者となろう! ロシア語を知らないことの損失と、知ることが義務のレヴェルで不可欠なことを、次のことから気づかれるが よい。ロシアの国には1億4000万人以上の人民халыкがおり、全部で109の言語で話をしているが、その中で支配的な言語はロシア語であり、すべて の政府機関での諸業務はロシア語で行われており、法律もまた然りである」[4]。彼自身がロシア語を学んだ事情についても、「私の死んだ父が学校に出して くれた、/窮屈になった時代の形を見て。/ロシア人の言葉を知り、その文字を覚えて、/誰かに頭を下げる人間にならないようにと言って」[91]と語って いる。
またドゥラトフのロシア文化への言及の仕方を振り返ってみれば、彼が主に注目したのはロシア独特の側面ではなく、より高度な文明につなが る側面であると解釈することもできよう。当時のカザフ人にとって、ロシアは西欧文明へのほぼ唯一の窓口であった。1919年2月の「全ロシア臨時政府」 (コルチャーク政府)との会合の場で、ブケイハノフは次のように言ったという。「我々は西欧派だ。人民を文化に触れさせようと志す際に、我々は東方、モン ゴルを見はしない。そこには文化がないことを我々は知っている。我々の目は西方に向けられている。我々はそこから、ロシアを通して、ロシア人の仲介によっ て、文化を手にすることができる*85」。
以上検討してきたように、ドゥラトフは明らかに反ツァーリであるが、ロシア人やロシア文化を含めた意味で「反ロシア」と言える証拠はない。むし ろ ロシアの優れた点は率直に賛美し、学ぶべき点は学ぼうという態度を保っている。ツァリーズムについても、ドゥラトフの批判の論理は、カザフ人はツァーリを 頼って服属したのに裏切られたというものであり、多数の民族がツァーリに服属するという構造そのものを、1910年の時点で否定し切ってはいない。
もっとも、ロシア語とロシアの学問を知らないことが、カザフの後進性と土地の喪失の原因ではないかと言った後で、「あるいは天才たちが道を見つけ て/敵の立てた旗を投げ倒せばよかったのに」[74]と述べているあたりには、早い時期にロシアの支配を脱していればよかったのにという思いを読み取るこ とも不可能ではない。しかし現実にロシアからの分離独立を目指していたことを示す言葉や事実は、『めざめよ、カザフ!』にも、ドゥラトフの後年の著作や活 動にも、見出すことはできない。『めざめよ、カザフ!』にはロシアへの帰属意識は特に強くは示されていないが、1916年叛乱から革命・内戦期にかけての アラシュ派の活動は、ロシア(連邦)国家の一員であることを積極的に主張することによって、カザフ人の自治獲得・権利拡大を実現しようという志向を軸に展 開されることになるであろう。
ここで再び思い出されるのはガスプリンスキイのことである。「ムスリムとロシア人は一緒に、あるいは並んで、耕し、種を蒔き、家畜を育て、仕事を し商売をすることができる」と考えた彼は、ロシア人に「我々に『光と知識、知識と光』を与えてほしい、でなければあなた方の支配は、支配のための支配に」 なってしまうと呼びかけ、母語による教育を通してロシアの学問・文化を学ぶことで、ロシアのムスリムが「他のムスリムの知的発展と文明の先頭に立つ」こと を構想した*86。 このようなロシア人との協力という考えを、「現実の可能性からひどくかけ離れた野心」か「ムスリムの素朴な感情を無視しがちな空論」で、「挫折する運命を 如何ともしがたかった」と断じることも*87、 その後のムスリム知識人の苦難を知っている我々にとっては容易だろう。しかし、革命前のロシア・ムスリムの少なからぬ知識人がロシアを通して近代文明を学 び、ロシアから分離せずロシア人を憎悪・排斥せず、共存しながら自民族を発展させる道を探っていたという事実は、結果論とは別の次元で再評価されるべきで はないだろうか。

 Z 未来へ

前節まででは、ドゥラトフが自民族や外界をどう認識していたか、外界から何を学びうると考えていたかを見てきた。この節では、彼がそれらの認識を 踏まえた上で、どうすればカザフ民族の未来を開くことができると考えていたのかを検討していこう。
『めざめよ、カザフ!』のキーワードは、「技芸(ないし技術)」と「学問」だと言ってよいだろう。近代技術が生み出した鉄道、電話、大砲から農 機 具に至る品々を列挙した(前節参照)あと、ドゥラトフは、「我々はここに述べたものの一つも作ることができず、/無知のために列からおくれてしまった。/ 我々も、学問を知っていれば作れないだろうか、/〈略〉/技芸ある民と名付けられはしないだろうか」[16]とカザフ人を叱咤激励する。「私は技芸に渇し 夢中になっている、/学問の楽しみを少し味わうことに」[90]と告白し、「ヨーロッパの学問から模範を取り、/カザフが〈学問に〉触れたことを我々は喜 ぶ。/目的に合った学問を見つけ、/その種を民族миддэтにもたらし撒くがよい」[35]と奨める。
学問の価値に対する彼の評価は、時に知識信仰と思えるような域に達する。「知識ある者は千人を倒し、腕の強い者は一人しか倒さない」[84]。 「君が貧乏なら、学ぶのはますますよいことだ、/知識を得た者にとって、豊かになるのは難しくない。/知識を伴わぬ家畜の富は長続きしない、/今日バイで も、明日貧民になって不思議はない。/世界では技芸ある者に貧乏はない、/〈略〉/無学をたとえるなら暗い夜で、/知識を得た者が歩く土地はすべて明る い」[68〜69]。
学問・技芸を学び、広める手段に関しては、「本を刷る印刷所が現れた、/人民халыкに技芸と知識を広める。/新聞、雑誌を通じてあちこちから の/ニュースで人民халыкの目を開く」[16]と述べて書籍、新聞、雑誌の効用を強調し、「カザフには自分の言語の定期刊行物がない」[36]ことを 憂えた。また、技芸ある者は自ら「翼を広げて世界から手本を得る」[68]ものだと言い、「どうすれば病気の薬が見つかるのだろうと言って、/ヨーロッパ の旅行者たちと知り合う」[30]ような行動を讃えた。
学問や技術に通じた人は当時のカザフ人の中では少数であったから、知識人が人民に対して果たすべき役割が強調されることになる。「各種族 тайфаに一人の知識ある者がいれば、/そこで民/人民жрт疑いのない模範を与えることになる」[77]。「カザフ知識人よ、結集し、халыкのことを気づ かうのが我々の義務だ」[10]、「君の父母、くにの人々ед-жртеは多くの希望を抱く人たちだ、/〈略〉/あなたがこの希望を抱く人々の灯であるなら、/希望が無 駄にならないように」[71]と、ドゥラトフは知識人の責務を説く。「君の学問が果てしない海のようであっても、/自分の民族に奉仕しないのでは益はな い」[69]のであり、「自分だけ知って誰にも言わないのではいけない、/君が知ったことは早く人民に分け与えよ、すべて」[38]。「技芸によって同世 代人の中でリーダーシップを取れ、/君のところに困った人が来て取りすがらんことを」[87]。「心を開いて弱い者たちに奉仕し、/道に迷った者がいれば まっすぐな道を教えてやるなら、/人民のために心を捧げつくすなら、/その人の歩む道が平らかであらんことを」[66]。
ドゥラトフ自身、「学業と鍛錬のために」、また「すべてのくにедを自分の目で見てやろうと言って」、あちこちを歩き回ってきたと言い、「少し 知った学問によって/民族миллэтに奉仕するのが私の信念だ」と言明している[90〜91]。人民に奉仕する彼の態度は、仲間たちにも強い印象を与え たらしい。ドゥラトフにロシア語を教わったこともある詩人マグジャン・ジュマバエフ(1893〜1938)は、ドゥラトフが憲兵隊に逮捕された時に「敵の 手に落ちた人へ」という詩を書き、「朝から晩まで休むことなく、/あなたは人々の世話をたくさんした。/大きな力をあなたは注いだ、/息をつくこともな かった」とドゥラトフを讃えた*88。 1922年の『教育学』という著書でもジュマバエフは、人間が家畜以上の価値を持つためには自分や近親を愛するだけでなく人類全体を愛し、人民の利益を自 分の利益より優先させなければならないと説く際に、「私は窪地に生えた低い樹だ、/実の多い、すばらしい樹ではない。/私は半分、ひとかけらになるまであ なたのものだ、/用事に役立つなら使っておくれ、アラシュよ――」というドゥラトフの詩を引用している*89
自分に知識があるからといって慢心したり威張ったりすることも、ドゥラトフが強く戒めるところだった。「技芸を人民に売って偉ぶらないように、/ 少しものを知ったと思ってずるくならないように」[43]。「技芸に対し、自分は十分満足したと言うな、/他人の持つ僅かなものでも多いもののように見続 けろ」[70]。そして、「『君のこの仕事は間違いだ』と言う人を、/『私を罵った』と憎しみの目で見てはいけない」[82]、「言葉を知識ある人々の批 判にさらし、/『助言をсавет下さい』と言わないのは賢明ではない」[85]と説いた。
また、自分より優れた人間を妬んで才能を殺すなとも強調した。「君たちの一人が他の者から目も届かぬほど優越しているからといって、/羨んで敵対 し合うな」[75]。「創意ある者が力を尽くし出したら、/拒絶したり、羨んで悪口を言ったりしないようにしよう」[81]。
ここでいう知識人の中心は新しい教育を受けた者たちだから、ドゥラトフが主に念頭に置いたのは、若者だった。「私は書いた、人民の中で特に /20 世紀の若者たちに向けて」[6]と、彼はこの本のメッセージの主な対象を明らかにする。「若い時には何をしても似合う」[89]、「宝石は石から、技芸は 若さから生まれる」[66](諺)と言って若者に期待する。大きな可能性を持つだけに、若者の責任は重い。「嗚呼と言うなら内側から煮えたぎって炎を出 せ、/誰が民族халыкの困難な状態を正すのだ?/〈略〉/20世紀に向かって立つ、/せめて僅かのハヤブサたちでも出なければ。/創意ある若者たちが 出て技芸を求め、/気分の病を抜き出さなければ」[34〜35]。「気持はあけっぴろげで、目は鋭い弟たちよ、/〈略〉/技芸・学問の市場が開かれた時、 /何もしないでいるのはあなたたちにふさわしくない」[64〜65]、「学問を学べ、君の目が開かれんことを、若者たちよ、/自分で自分を育てよ、若者た ちよ」[38]と彼は呼びかける。
しかし青春は短く、時の流れは速い。ドゥラトフの言葉には、時間を無駄にしてはならないという激しい切迫感がある。「興味引かれる日に行動してお け、/君の舌と頬はある日くっついてしまう〈口がきけなくなってしまう〉だろう。/男子たちは技芸から取り分を取らず、/何もせず家で無駄に過ごしていて はならない。/君が成長して成年に達するまでに、/この学問の市場は分解してしまうだろう」[83]。「成長してから技芸を見出そうと考えるな、/この、 目的に向かっていく君の一日一日は何なのか」[92]。「君の前にはどれほどに時間があるのか分からない、/無知の中で無駄に過ごさないようにしよう」 [82]という言葉には、早くカザフ人の啓蒙を推し進めなければ、歴史の流れに乗り遅れるのではないかという焦りも感じられる。
カザフ人の未来を開く条件としてドゥラトフがもう一つ考えていたものは、民族の団結だった。「我々は団結のない、6つの口を持つ民族халык だ、/それが原因で列からおくれてしまった」[37]と指摘し、「一人より二人がよい、二人より三人が。/君たち全員の団結が固められんことを」[65] と繰り返し呼びかけている。
さて、ドゥラトフは、以上のことを実行すれば未来が開けることに疑いを持っていなかったようである。なぜなら、カザフ人に他の民族と同じく能力と 可能性があると信じていたからである。「各民族халыкの力が技芸であるとするなら、この技芸に関し、高貴なるアッラーのおかげと我々の努力があれば、 我々カザフ人も〈他民族と〉同等であるだろう」[3〜4]と述べているし、「私はすべての民族の可能性をおおよそ見た。/そのどれも同じに見える、/一つ がよりよく、あるものは劣っているということはない」[18]と断言している。前節で触れたように民族のことを考える天才たちとしてプーシキン、トルスト イらを挙げたあとでも、「カザフにもこれらに等しい雄弁家がいる、/人民халыкから名声を得て指導者となった雄弁家が」と述べてアバイ、バイトゥルス ノフ、アクモッラ、ヌルジャン、マシュフル・ユスフ(コペエフ)らの名を列挙し[98]、カザフのアクン・知識人がロシアの文豪たちに劣らないことを主張 している。
ヨーロッパ人への劣等感や、カザフ人が発展しようのない民族性を持っているというような宿命論は、ドゥラトフとは無縁である。ベニグセンとルメル シエ=ケルクジェは、「1917年以前に現れたカザフ語のほとんどすべての作品は深いペシミズムを帯びている」として、その例の一つに『めざめよ、カザ フ!』の一節を挙げているが*90ドゥ ラトフの現状認識が暗いのは確かだとしても、彼の未来観にはペシミズムは全くない。セラリンも1912年に、「生まれつきの知力は他のどの民族халык にも劣らないにもかかわらず」、カザフ人は遊牧に固執し学問から離れている、という言い方をしており*91、カザフの現状 は悪くても能力は劣っていないという認識は、ドゥラトフだけのものではなかったようである。
「ちっぽけな民族халыкに利益はやってこないのかと、/これはそういう意図で作った私の仕事だ」[90]と、ドゥラトフは作品の問題意識を明 らかにする。「カザフがもしたくさんいたら苦しんだろうか」[66]とも問いかける。詩「謎かけ」で、小さな少数の獣(日本)がライオン(ロシア)を打ち 負かしたと述べているのも、少数者の可能性への関心があってのことだったろう。ドゥラトフの答は、少数者にもチャンスがあるというものだった。「互いに教 えを受けるために、/今日、全世界が混ざり合った。/〈略〉/少数者が多数者を恐れて無為でいはせず、/技芸、活力、知識を測り合った。/自信を持った大 きな者たちがそのままでいる間に、/志を持った弱者の行動が優った。/息子だ娘だと言わず子供を教育せよ、カザフよ、/『万歳、――我々はその時言おう、 ――こちらが優ったのだ!』」[75]

 お わ り に

「はじめに」とV節末尾に示した問題設定に基づいて、ドゥラトフのアイデンティティと諸文明への態度を整理しよう。
ドゥラトフの帰属意識は、第1にカザフ民族に、第2にイスラーム圏に向けられていた。ロシアへの帰属意識は『めざめよ、カザフ!』に積極的には 示 されておらず、暗黙の前提という程度である。一方、カザフ民族の境遇については、現在は暗く、過去には幸福もあったが今さら取り戻せない、しかし未来には 可能性がある、と考えていた。そのような彼にとって、革新の方向を示すものは、カザフの過去=遊牧文明の中にではなく、外に求めなければならなかった。そ こで彼がまず意識したのはイスラームの法と学問だったが、より具体的・総合的な模範となるものは、ロシア・西欧文明だった。つまり、アイデンティティの所 在の順番(1.カザフ、2.イスラーム、3.ロシア)と、革新のイデオロギーの源泉の順番(ロシア・西欧とイスラーム。カザフ・遊牧はなし)がほぼ逆に なっているのである。
これは決して矛盾ではない。伝統的には、「カザフ人であること」は、「遊牧民であること」とほとんど同義であったと言われる*92。そのような静 的な民族意識を離れ、「カザフ人」を、外の文明の要素を積極的に取り入れて自己革新し、未来を共有する集団として動的に位置づけ直すのが、ドゥラトフの作 業だった。その際の知識信仰的な啓蒙主義、技術信仰的な近代主義には、今日から見ればやや違和感があるかも知れない。しかし当時のカザフ人にとって近代化 は、民族の危機からの脱出という目的のための必然的な手段だった。「国の独立は即ち文明なり。文明にあらざれば独立は保つべからず*93」という福沢諭 吉の言葉にも通ずる、緊張感に満ちた思考の結論だった。そして、日本の近代主義が民族差別や好戦性の契機を内包するものだったことを考えるなら、諸民族の 能力の平等や諸民族の共存の必要を前提としていたドゥラトフらアラシュ派の思想は、十分に我々の思考の糧となるであろう。

[付記] 本稿執筆のための資料を集めるにあたり非常に多くの方のお世話になったが、特にグルナル・ドゥラトヴァ(Г.М.Дулатова) 女 史とマラト・アブセメト(М.Эбсемет)氏に感謝したい。ドゥラトヴァ女史は『めざめよ、カザフ!』初版をお貸し下さっただけでなく、筆者の研究を 常に暖かく励まして下さっている。また、カザフスタン科学アカデミー準会員のケネス・ヌルペイソフ教授が、本稿のもとになった同名の修士論文(1992年 12月東京大学提出)のロシア語要約をお読みになって現地で紹介され、多くの点で賛意を示して下さったのも、心強い限りであった。

44号の目次へ戻る