SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 45号

ソ連邦における地区の農業機関と党機関1962-1965


松 戸 清 裕

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はじめに
1.1962年11月の再編-経緯と内容-
2.生産管理局と生産管理局党委員会- 組織・充員・質的構成-
3.生産管理局と生産管理局党委員会- 職務分担・活動・問題-
4.生産管理局の構造修正- 活動改善へ向けて-
5.生産管理局への専門家引き入れ
6.フルシチョフの方針転換・解任・「非フルシチョフ化」
おわりに

要約

はじめに

ソ連邦において農業は常に指導部の関心事の一つであった。工業の発展が最重要の関心事であったスターリン期においてさえ、工業発展のための物的人 的資源を収奪する源泉という意味では農業はやはり重要な関心事であったと言えよう。こうした点も踏まえると、指導部にとって重大な関心事であった農業問題 は端的には、農産物の生産量と調達量の増大、および農民の管理・統制の二点にあったと言えよう。集団化以降は、第二の点はコルホーズ、ソフホーズの管理・ 統制とほぼ同義となった。この二つの課題は別個のものでありながらも、しかし完全に切り離し得るものでもないが、フルシチョフ期においてはとりわけ、双方 の課題に同時に対処する方策として農業管理機関の組織形態が注目され、その改組がおこなわれていくこととなった。これはひとことで言えば、生産不振の客観 的原因はもはや存在せず、停滞の原因はコルホーズ、ソフホーズの指導の問題であるとの考えが広まり、また指導の優劣を組織形態と結びつける傾向が強まった ためである。
とはいえ、農業分野については、党機関の役割こそが重要であると一般に考えられていよう。こうした捉え方はおおむね妥当なものと言える。集団化、 第二次世界大戦といった危機的な状況において党の非常機関が重要な役割を果たしたことに加えて、平時においても、播種・収穫時に集中的に労働力が必要とさ れるなどの農業の特質もあって、経営の外からの関与は動員的、キャンペーン的になりやすく、とくにこの点において地区党委員会を中心とする党機関が重要な 役割を果たすことになったからである。第二次世界大戦から戦後期にかけて、こうした地区党委員会の役割に変化が見られなかったこと、農業における地区党機 関の役割はブレジネフ期を通じて、さらにはペレストロイカ期に至っても支配的であったことがすでに指摘されてきている(1)
無論、フルシチョフ期も例外ではない。フルシチョフ期においてはキャンペーンは姿を消すどころか、処女地開拓に始まり食肉増産、トウモロコシ播種 など大掛かりなキャンペーンも相次いでおこなわれ、そのたびに党機関が「活躍」していたのは周知のことであろう。農業分野におけるフルシチョフの政策につ いての近年のある研究者の整理では、フルシチョフはコルホーズをより効率的にすることを試みたが、フルシチョフはそれをコルホーズの指導と管理における農 業省の影響力を削減すること、党機関の役割、党による統制を増すことによっておこなおうとしたとされている(2)
確かにフルシチョフは党が経済に責任を持つことを常に主張していた。その帰結としてフルシチョフが、党機関による指導からキャンペーン的性格を取 り去って党の経済指導をより継続性の高いものとするという目的を掲げて、党組織の農業と工業の生産部門別への再編を提案するに至ったこと、フルシチョフの 提案を承認して1962年11月の党中央委員会総会が生産原則による党機関の再編を決定したこともよく知られていよう(3)
しかし「統治する党」である共産党が経済問題に多大な注意を向けること、経済問題が党の主要な関心事となることはむしろ当然のことであろう。問題 は、党機関がどのように経済問題に関わるかというその関わり方である。一部に主張されるように、党が直接に経済活動を管掌し、経済機関的な職務を担うこと が目指されたのであろうか。確かにフルシチョフ解任後にはこの点が特に批判・非難され(4)、また欧米の研究の中にも党機関が経済機関になり代わり直接的指導をおこなう政策が採られ たというような説明も見られるが、こうした主張には無理がある(5)。この再編の後に党機関による職務代行《подмена》 が実際に生じたこと、1962年11月の再編による党組織構造に職務代行を助長する側面があったことは確かだが、職務代行が目的として掲げられたことはな く、正しい活動と認められたこともなかった。「生産原則による党機関の再編は、これらの、直接生産を管理する行政管理機関への転化を意味しているのでは まったくない。これらは政治的組織的指導の機関、大衆の教師であり組織者であったし、今もそうである。新たな状況においては、経済カードルの役割は小さく ならないばかりか、一層増大している」ことが再編当初から一貫して主張されたのである(6)
もっとも、実際に職務代行は頻繁に生じていたことから、当時のこうした主張が警鐘という性格をもっていることも確かである(7)。また、職務代 行批判は、ことに農業分野においてはフルシチョフ期、ブレジネフ期からペレストロイカ期に至るまで常に見られたのであり、職務代行を戒める発言と経済にお ける党の直接的な活動に関する発言が同時になされ続けていたとの指摘を考慮するならば(8)、指導部の言説を見るだけではあまり意味がないとも言える。
そこで筆者が注目するのは、この時期、1962年3月の党中央委員会総会決定によって農業機関の整備が先行して進められており、62年11月の党 機関の再編も農業機関の再編と連動していたということである。もちろん党機関の再編に先立つ農業機関再編の事実も多くの研究で指摘されている。しかし従来 は、中央における連邦農業省・農業相を一方のアクターとする政治的対抗関係が注目され、また62年3月、11月の改組が一括された上で農業生産・調達に関 する党機関の役割の強化を目指した改組であると捉えられ、あるいはまた全体的な政治的対抗関係の中でのフルシチョフの短命な組織改組の一例として扱われる など、党機関の再編以後の農業機関に関する政策、党機関と農業機関の関係にはさほど関心が向けられていないように思われる(9)
筆者が以前に検討したところでは、62年3月の党中央委員会総会においてフルシチョフにより前面に打ちだされた農業機関整備の方針は、62年11 月の党機関の再編に至る過程においても貫かれており、農業指導は農業機関に委ねることが主張され続けていた(10)。党機関の 指導の改善あるいは統制の強化(あるいはその両方)が目指された一方で、同時に農業機関の活動の一層の改善も求められていたのである。そうである以上、党 機関の再編後の時期において、党機関と農業機関の役割、相互の関係がどのようなものであったかということは、詳細な検討を要する問題なのである。
本稿の課題は、このような状況を踏まえて、この1962年11月の党機関・農業機関再編から、1964年末から65年にかけてのフルシチョフ失脚 直後の「非フルシチョフ化」とでもいうべき再改組の時期を対象として、地区の農業機関と党機関について、とくに農業機関強化の方策に注目して考察するこ と、そのことを通じて当時の政治情況の一端を示すことである(11)。次節では62年11月の改組に至るまでの農業管理機構をめぐる動きを簡単に確認してい くことにする。

1. 1962年11月の再編 − 経緯と内容 −

第二次世界大戦の危機的状況の中、党機関は工業においても農業においても中心的、直接的役割を果たしていた。戦後、指導部は、経済的な意思決定と 政策実行における地方党機関の直接的な関与を拒絶し、党機関の役割を間接的な指導に限定する方針を採用した。工業分野においてはこの党機関の新たな役割は 比較的速やかに定着していき、地方の党指導者たちは「スタッフ」的な活動に馴染んでいき、「ライン」の機能は経済指導者へと戻りつつあった。しかし農業分 野においては、戦後も地区党委員会が主要な役割を果たし続け、地方の党指導者は「ライン」と「スタッフ」の双方の役割を果たし続けていた(12)。1947 年2月の党中央委員会総会において農業管理機構の問題が取り上げられた。地区ソヴェト執行委員会土地部 《райзо》 とMTC(機械・トラクター・ステーション)とがコルホーズと農村を管理する主要な機構と位置づけられ、MTCには政治担当所長代理のポストがおかれた。 これとあわせて地区党委員会の間接的な指導も改めて強調されたが、地区ソヴェト執行委員会も地区ソヴェト執行委員会土地部も農業政策の実行において責任あ る役割を担おうとせず、地区党委員会はしばしば地区ソヴェト執行委員会土地部と同じ活動をおこない、あるいは地区ソヴェト執行委員会土地部がおこなうべき 活動を単独でおこなっていた。スターリンの死までこうした状況に大きな変化は起こらなかった(13)
1953年9月の党中央委員会総会以後、フルシチョフは農業管理機構の再編成に本格的に着手した。MTCがコルホーズ、農村管理の拠点と位置づけ られたのである。地区ソヴェト執行委員会土地部が廃止され、そのコルホーズに関する権限・機能は、一部が地区ソヴェト執行委員会に委ねられたが、主として MTCへと移管された。党の機構も変更された。53年9月の党中央委員会総会は地区党委員会の構造変更を決定し、MTCの管轄領域ごとに地区党委員会の書 記が率いる指導員グループが組織された。これに伴い、MTCの政治担当所長代理のポストと、地区党委員会の農業部が廃止された。しかし、MTCを拠点とし た管理は期待通りの成果につながらず、1957年9月19日付党中央委員会決定により、MTCの領域ごとの指導員グループは「その任務を達成した」として 廃止された(14)
1958年にはMTC自体も廃止されていくが、地区ソヴェト執行委員会土地部は再建されなかった。地区ソヴェト執行委員会に数名からなる農業指導 員グループがおかれたものの、結局は地区党委員会が農村の状態に関する責任を引き受けざるを得ない状況であった。しかし地区党委員会の方も、MTCの領域 ごとの指導員グループはすでに廃止されていた上に、農業部も復活されなかったので、地区党委員会に課せられた負担は過重となり、農村における統制は乱れ始 めた。管理機構の整備が急務であったが、フルシチョフは伝統的な農業省のラインによることを拒否し、逆に調達機関などの機能別機構を設置して農業省からは 1961年に生産の管理、予算措置に関わる権限を奪った。これは、フルシチョフの政策の基本方針が、農業管理を農業省から地方党機関へと移すことにあった ためとも言われる(15)。 しかしその結果生じたのは統制の強化ではなく、機構の複雑化と混乱であった。
1962年3月に開かれた党中央委員会総会は、フルシチョフの提案によって、複雑化した機構の統合へ向かう形の農業管理の再編を決定した。同総会 決議を受けて、62年3月22日付で党中央委員会・閣僚会議決定「農業管理の再編について」が採択され、共和国農産物生産調達省−州・地方農産物生産調達 管理局−地域生産コルホーズ・ソフホーズ管理局という農業管理体系に再編成することが定められた(16)
この体系の特徴としては、以下の三点が指摘できよう。第一に、従来別個の機関の管轄下にあったコルホーズとソフホーズがいずれもこの体系の管轄下 に入り、農産物の生産と調達の責任も一括してこの体系の管轄下におかれた。第二に、農業管理機関の体系の末端に位置する地域生産コルホーズ・ソフホーズ管 理局は、原則として複数の地区を管轄する地区合同機関として設立された。そしてこの機関は、単一の地区を管轄する形で設置された場合も含めて、地区ソヴェ ト執行委員会には従属しないとされた。「二重の従属」の枠外におかれ、上級機関である州農産物生産調達管理局への「縦の従属」にのみ服したのである。こう した地域生産コルホーズ・ソフホーズ管理局は全国に約960設立され、農業管理の「主要な環」と位置づけられた(17)。そして第 三に、この生産管理局には管轄領域内で活動する党オルグと指導員グループがおかれた(〈図1〉,参 照)。
こうした形で農業管理機関が再編成されると、上記の第二、第三の特徴に関わる問題が生じた。生産管理局が地区組織に従属せず、生産管理局におかれ た党オルグも地区党委員会から独立していたため、地区党委員会との関係を中心に混乱が生じたのである。この混乱状況の解決は62年11月の党中央委員会総 会へともちこまれた。もちろん、62年11月の党機関の再編は、この混乱に対処するためだけにおこなわれたものではない。しかし後述のように地区区分が再 設定されるなど62年3月以後の地区における混乱への対処という一面を備えていた(18)。この混乱に対処する過程においてフルシチョフが、コルホーズ・ソフホーズ生産の指導の 主要かつ唯一の機関は生産管理局であると主張し続けていたことは注目されてよい(19)
62年11月の党中央委員会総会はフルシチョフの党再編提案を承認し、その決議「ソ連経済の発展および党の国民経済指導の再編について」によって 党機関を生産原則に基づいて再編することが定められた(20)。 この決議に基づいてソ連共産党、各共和国共産党の中央委員会に工業建設ビューローと農業ビューローがおかれ、工業・農業ともに発展しているとされた5地方 70州に工業党委員会、農業党委員会の二つの州党委員会が設けられるなど党組織の再編が進められた(21)
本稿の主題に関わるのは地区の再編である。原則として生産管理局の管轄領域と一致させる形で地区が拡大再編された。この際、生産管理局の管轄領域 は縮小の方向で見直され、従来の地区と生産管理局の領域との中間程度の規模で新たな地区が設定され、生産管理局も各地区に設立される形となった(22)。この再編 に伴い、例えばウズベク共和国のホレズム州、カラカルパク自治共和国などそれまで生産管理局が設立されていなかった地域でも生産管理局が設立された(23)。こうして 再編成された生産管理局は、原則として管轄領域が地区区分と一致したにもかかわらず、引き続き地区ソヴェト執行委員会には従属しなかった(24)
一方、従来地区のすべての党組織を指導していた地区党委員会は廃止され、地区内のコルホーズ、ソフホーズ、農業関連企業などの党組織を指導するコ ルホーズ・ソフホーズ生産管理局党委員会(以下、生産管理局党委員会)が設立された(〈図2〉参 照)。
こうしてソ連邦全域における農村地区は拡大再編成され、農村地区の数は62年1月の3421から63年4月1日の時点では1711となった。そし てそのほとんどに生産管理局と生産管理局党委員会がおかれる形となった(25)
このように、1962年11月の「党の国民経済指導の再編」は、確かに党機関の活動改善を目的としたものであったが、しかし、それに向かう過程に おいて農業指導における生産管理局の役割が強調されていたこと、また地区を生産管理局の領域と一致させる形での再設定が進められた際に、各生産管理局の管 轄領域が縮小されたこと、従来は生産管理局が設置されていなかった地域で生産管理局が設置されたことから、生産管理局による農業管理の体系を一層整備する 性格も同時に備えていたと言えよう。そして以下に確認するように、これ以後も農業機関を整備、強化する方策が一貫してとられていくのである(26)。党が「指 導」し、経済機関が「管理」するという原則は、ここでも有効であった。しかし「指導」と「管理」という原則は、実際には守られないのが常であったとも言え るので(27)、 再編された生産管理局と生産管理局党委員会との間に実際はいかなる「分業」関係をつくりあげることが目指されたのか、そのためにどのような方策がとられ、 そして実態はどのようなものであったかということを検討しなくてはなるまい。次節ではまず、生産管理局と生産管理局党委員会の組織構造などについて確認し よう。

2. 生産管理局と生産管理局党委員会 − 組織・充員・質的構成 −

まず1962年11月以後再編された生産管理局の組織構造を確認しよう。ウクライナ共和国ドネツク州で29のコルホーズを管轄し有益な経験を積み 重ねているとされたマリインカ生産管理局を例にとると、アパラートは40人からなり、局長、局長代理のもとに経済・計画作成グループ(4人)、主任農業技 師グループ(5人)、主任畜産技手グループ(4人)、機械化・建設グループ(6人)、会計本部(5人)がおかれ、この他にコルホーズのカードルの養成・再 教育に取り組む農学教授法専門員とカードル指導員各1名がおかれていた。コルホーズ・ソフホーズで活動する監督=組織活動員 《инспектор−организатор》グループ(7人)は局長に直属であった。この40人の内訳は、農業技師13人、畜産技手5人、機械技師お よび土地開発担当者計5人、農業エコノミスト2人、経済実務専門家4人、畜産エコノミスト1人、カードル養成専門家1人、会計官3人、補助職員6人である(28)
またベロルシア共和国ブレスト州のピンスク生産管理局では、局長、局長代理のもとに主任農業技師、主任獣医、主任畜産技手、主任技師、建設技師、 土地開発技手、土壌学専門家、カードル担当指導員のポストと、計画・財務部(5人)、会計官グループ(5人)がおかれ、監督=組織活動員は8人であった(29)。役職・部 局の名称、人員の配置にやや違いはあるが、基本構造は確認できよう。
最初に例にとったウクライナ共和国ドネツク州のマリインカ生産管理局は職員数40人で、管轄経営数は29であった。他に例えばロシア共和国クラス ノダール地方のウスチ・ラビンスク生産管理局は職員数42人に対して管轄経営数は29であった(30)。1962年3月の農業管理再編によって設立された当初は、ソ連邦全体の平均で1生産管 理局あたりの職員定数45人、管轄経営数51、ウクライナでの平均は職員定数46人、経営数53、ロシアでの平均は職員定数47人、経営数52であり(31)、1962 年11月の再編によって各生産管理局ごとの職員数は減っているが、管轄領域の縮小再編によって管轄経営数も著しく減少したことがわかる。
しかしウズベク共和国では、賃金フォンドの制約から生産管理局の平均職員数を1962年3月当時の46.5人から33人にまで減らさなくてはなら なくなった結果として、63年初頭には生産管理局に農業生産の主な部門の専門家のポストが各1ずつしかない状況となった。局長代理が主任農業技師を兼任 し、その他には主任畜産技手1人、主任技師1人、主任獣医1人がいるだけで、これらの部門の上級、平の専門家のポストはおかれていなかった(32)。管轄領域 の規模、管轄経営数との相対的な関係はどうあれ、各生産管理局の職員数がこれほど大幅に削減された場合は、生産管理局の構成に否定的に影響したと考えられ る。
他方、生産管理局党委員会のアパラートでは、通例、書記1名と書記代理2名がおかれ、書記代理がそれぞれ部長を兼任する組織部とイデオロギー部の 二つが正規の部としておかれていた。組織部、イデオロギー部に各数名の指導員が配置された他に、コルホーズ、ソフホーズの党組織の指導を担当し主として現 場で活動する監督=党組織活動員 《инспекторпарторганизатор》のグループがおかれた。生産管理局党委員会については人員規模が明確に定められていた。管轄規模に 応じて2グループに分けられ、第1グループでは生産管理局党委員会のアパラートの定員が主要職員25人以下、補助職員7人以下、第2グループでは主要職員 22人以下、補助職員6人以下と定められた(33)
それまでの農村地区の地区党委員会と比較すると、従来の農村地区党委員会は3グループに分けられ、それぞれ主要職員が18人、15人、12人、補 助職員は各3人であった。平均では従来の地区党委員会では主要職員14.5人、補助職員3人であったのが、生産管理局党委員会では主要職員が19.8人、 補助職員4.1人となった(34)。 単純に比較すると、生産管理局党委員会はそれまでの地区党委員会よりも人員規模が大きくなっている。
しかし生産管理局党委員会の管轄領域、つまり新たな地区の領域は、それまでの地区よりかなり大きくなっていることも考慮しなくてはならない。具体 的には例えば、キエフ州カガルルィク生産管理局党委員会の主要職員は、組織部とイデオロギー部の指導員各4人、監督=党組織活動員11人など計25人で あった。これは同党委員会が第1グループに属していることを示しており、生産管理局党委員会全体の平均より大きいが、しかし同党委員会は四つの旧地区党委 員会からなり、旧地区党委員会の主要職員の合計は60人を数えていたのである。組織合同の結果人員が削減されるのは当然であり、また生産管理局党委員会は 農業党組織の指導に活動が限定されたことも考慮しなくてはならないが、管轄領域の拡大の仕方に較べると、生産管理局党委員会の人員規模の増大の仕方は相対 的に小さいと言えるのではないか。実際、同党委員会書記代理のモロズ (И.Мороз) は、管轄下の党組織が著しく増えたのに対して、党委員会の職員は60人からわずか25人となったので、新たな活動方法を見出すことが必要となった旨を述べ ている(35)
生産管理局と生産管理局党委員会とを較べると、例えばウスチ・ラビンスク生産管理局の職員数42人、ウスチ・ラビンスク生産管理局党委員会の職員 は25人(36) と、生産管理局の方が人員規模が大きい。また部局の構造も、農業管理機関である生産管理局は、当然ながら計画作成や農事指導を管轄することを前提とした構 造となっている。これに対し、生産管理局党委員会の人員規模が相対的に小さいこと、組織部とイデオロギー部のみを備えていることは、生産管理局党委員会が 直接的な農業管理に乗り出すことは基本的に想定されていないことを示している(37)
ただし、生産管理局の組織構造が相対的に複雑なことから、組織全体としての人員規模は生産管理局の方が生産管理局党委員会より大きくとも、直接コ ルホーズ・ソフホーズに赴いて活動する中心的な人員である監督=組織活動員と監督=党組織活動員については逆転することがあり得る。実際、先に見たクラス ノダール地方のウスチ・ラビンスク生産管理局の職員数が42人で、監督=組織活動員が6人であるのに対して、ウスチ・ラビンスク生産管理局党委員会の職員 数は25人であったが監督=党組織活動員は7人であった(38)。従来の地区党委員会がこうした人員をもたなかったことが、地区党委員会の活動を、生産 に直接関与しない間接的な指導にとどめておくある程度の役割を果たしたとの指摘を念頭におくと、このことはコルホーズ、ソフホーズに対する生産管理局と生 産管理局党委員会の活動に影響するとも考えられる。実際、生産管理局の監督=組織活動員の人数が少ないことは、その活動が適切におこなわれていない原因の 一つと捉えられていくことになる(39)
続いて新設機関への充員の様子を確認しよう。新機関充員のためのカードルの供給源としては、再編によって余剰とされた党カードルが考えられる。再 編の結果党アパラートの定員総数が削減されたからである。1963年2月28日付の党中央委員会宛て報告によれば、再編によって初級組織を除く党アパラー トの定員総数は主要職員が8万2880人から7万4163人に、補助職員は2万154人から1万9338人に削減された(40)。削減の度 合いは地区レベルで著しかった。64年11月14日付の党機関部宛て報告では、地区党委員会のアパラートには62年12月1日当時主要職員が4万7475 人いたが、現在の生産管理局党委員会、工業生産党委員会、北方・タイガ・山岳地区党委員会の定員では主要職員は4万39人であり、7436人減少している ことが指摘されている(41)
共和国単位で見ても、ベロルシア共産党中央委員会からの報告によれば、党アパラート全体では主要職員で237人、補助職員で41人削減されてお り、地区レベルでは再編前の農村地区党委員会の職員と生産管理局の党オルグなどの総計で主要職員が2117人、補助職員が360人であったのが、新設の生 産管理局党委員会のアパラートでは主要職員1674人、補助職員252人へと大幅に削減された(42)。またエストニア共産党中央委員会は、その再編計画において党機関全体での定員を30人 削減すると定めたが、地区レベルでは地区党委員会の職員、生産管理局の党オルグら計421人であった党職員の定員を再編後は357人まで削減すると定めて いた(43)
こうして党機関の再編によってアパラート職員が削減された(44)。多くの余剰人員が発生したことから、適切な選抜がおこなわれた場合は、相対的に能力の 高いカードルによって新機関が充員される可能性が生じたが、実際の充員状況はどうであろうか。
まず新設機関の充員に伴う人の異動経路を簡単に確認すると、生産管理局、生産管理局党委員会の職務には前地区党委員会書記、執行委員会議長らが派 遣されたとの指摘が見られるが (45)、 オデッサ州の例では、30の地区党委員会を再編して14の生産管理局党委員会を新たに組織した際に、地区党委員会の書記、部長、部長代理、指導員の主要職 員として働いていた360人のうち、67%にあたる241人が生産管理局党委員会の職へと移った(46)。この他にも20人が州党委員会を含む党アパラートの職へ、27人が地区ソヴェト執行委 員会・村ソヴェトの専従の職へと移ったのに対し、生産管理局の仕事へ派遣されたのはわずか7人であった。地区党委員会第一書記であった30人について見る と、7人が生産管理局党委員会書記、7人が書記代理、2人は農業州党委員会の部長となって計16人が党機関の仕事へ移り、6人が地区ソヴェト執行委員会議 長、4人が生産管理局局長となった(47)
地区党委員会第一書記30人のうちの4人、生産管理局局長のポスト14人のうちの4人という数字は多いと見るか少ないと見るか判断の難しいところ ではあるが、書記を含む主要職員360人のうち生産管理局へ移ったのが7人であるから、この4人の第一書記以外に地区党委員会から生産管理局での仕事へ 移った者は330人のうちで3人となることも考慮すれば、地区党委員会から生産管理局への充員は稀であったと言えよう。ニコラーエフ州の例でも地区党委員 会職員の73%までが新設の党機関に任命されており(48)、 こうした事例にもとづくと再編前に地区党委員会で働いていた者の大半は生産管理局党委員会を中心とする党機関へと異動し、生産管理局の充員には地区党委員 会のカードルはほとんど貢献しなかったと考えられる。  次に、資料上の制約から断片的となるが充員されたカードルの質的構成を見よう。生産管理局では、局長はロシア共和国では約90%が高等・中等の農業教育 を受けており(49)、 ウクライナ共和国では251人中144人が農業技師、畜産技手と獣医が35人、機械技師45人とここまでで専門家の比率は約89%に達し(50)、ヴィンニ ツァ州で13人全員(51)、 ハリコフ州で13人中12人が農業専門家であった(52)。 再編前の62年半ばにはソ連邦全体で生産管理局局長960人のうち専門農業教育を受けていたのは786人(53)、約82% であり、全体の約3分の2を占めるロシアとウクライナで約90%ならば共和国間の格差を考慮しても専門家の比率は高まったと考えてよかろう。
監督=組織活動員についてもロシア共和国では70%が高等・中等の農業教育を受けているが(54)、61人中 57人が農業専門家というスタヴロポリ地方のように平均を上回る地域もあるため(55)、70%を相当下回る地域もあると考えられる。また、監督=組織活 動員は、再編前にはソ連邦全体で78%以上が高等・中等の農業教育を受けていたので(56)、全体の約半数を占めるロシア共和国の平均が70%では、再編によって専門家の割合は下 がった可能性が高い。
生産管理局党委員会では、農業専門教育を受けた人員の割合は相対的に低くなる。書記18人中12人が農業専門家というサラトフ州の例もあるが(57)、ソ連邦全 体では書記、書記代理のうち農業教育を受けていたのは3分の1であった(58)。またアゼルバイジャン共和国では生産管理局党委員会書記32人のうち高等農業教育を受 けた者だけで12人(59)、 37.5%であるが、カザフ共和国では生産管理局党委員会書記120人中農業専門家は39人、書記代理では農業専門家は4分の1であり(60)、割合は一 様ではない。ウクライナ共和国ヴィンニツァ州でもやはり書記と書記代理の3分の1が農業教育を受けているが(61)、同共和国 でもハリコフ州では書記13人のうち農業専門家は多くても2人であった(62)
監督=党組織活動員では、例えばタムボフ州の13の生産管理局党委員会の活動中の監督=党組織活動員95人のうち高等教育を受けている者18人、 未修了高等教育13人、中等教育53人とあるので(63)、 残る11人は中等教育さえ受けていないと考えられる。このうち農業専門家は31人いるが、同州では四つの党委員会で監督=党組織活動員のうち専門家は1人 のみ、ある党委員会では監督=党組織活動員8人中専門家は1人もおらず、2人は普通中等教育さえ受けていなかった。それでも32人が高等・中等の農業教育 機関の通信教育を受講中であり、ある生産管理局党委員会では9人の監督=党組織活動員のうち4人が農業専門家で残る5人は農業大学の通信教育を受講中であ るなど(64)、 農業教育が軽視されているとは言えない。
監督=組織活動員における専門家の割合の高いスタヴロポリ地方でも63年末の時点で監督=党組織活動員85人のうち農業専門家は40人で、監督= 組織活動員と較べるとかなり低い。とはいえ、農業教育を受けていない者のうち20人が農業大学や技術訓練学校で学習中であり、監督=党組織活動員という職 にとって専門教育が重視されていないわけではない(65)。 カザフ共和国では監督=党組織活動員の中で農業専門家は3分の1で、格段に低いわけではないが、63年7月8日付報告の時点でこの職の定員516人のうち 105人が充員されておらず、生産管理局党委員会のイデオロギー部、組織部の指導員でも972人中783人しか充員されていないなどカードル不足がうかが える(66)
1963年2月11日付の党機関部指導員のウクライナに関する報告は、ウクライナ共産党中央委員会といくつかの州党委員会が、生産管理局党委員会 の仕事へ専門知識のある活動家を登用することに「持てる可能性のすべてを利用しなかった」ことを批判した。ウクライナでは従来農村地区党委員会と農業を担 当した市党委員会の第一書記の30.9%が農業専門家であったのに対し、現在では生産管理局党委員会書記のうち農業専門家は23.5%に過ぎず、書記代理 では農業専門家は38.2%で、地区党委員会第二書記、書記の31.7%よりは若干増加したが、現在でも書記、書記代理のいずれも農業専門家ではない生産 管理局党委員会が20存在することが問題とされたのである(67)。ただしウクライナ共産党中央委員会からの63年1月26日付の報告では生産管理局党委 員会書記と書記代理752人のうち315人が農業技師、機械操作手、畜産技手その他の農業専門家というやや高い数字が挙げられていることを付け加えておか ねばならない(68)。 ほぼ同時期の資料において数字がこれほど異なっている理由は明らかではなく、数字に関してはどちらか一方の資料に依拠することは問題があるが、ここでは数 字ではなく、農業専門家の引き入れの不足が批判の対象であったという事実に注目したい。
63年2月9日付のエストニアに関する党機関部報告も、生産管理局党委員会の書記、書記代理の質的構成が、廃止された地区党委員会書記の構成と較 べて改善されるどころか悪くなりさえしたことを批判した。62年1月1日の時点では地区党委員会書記の中で農業専門家は12人、26%であったのに対し て、現在は生産管理局党委員会の書記、書記代理の中に農業専門家は8人、18%に過ぎず、15のうち8の生産管理局党委員会で書記、書記代理ともに農業専 門家ではないこと、さらにエストニアでは畜産が主流であるにもかかわらず書記、書記代理の中に畜産技手は1人もいないことから、「このような状況を正常と 認めることはできない」と批判的に言及された(69)。 党職員、特に書記、書記代理については専門教育は決して軽視されていたわけではなかったことがわかる。

3. 生産管理局と生産管理局党委員会 − 職務分担・活動・問題 −

1962年11月の党中央委員会総会決議によって生産管理局党委員会が設立されたのちには、生産管理局を主要な環とする新農業管理機関の役割はよ り一層大きなものとなったと主張された(70)。 また生産管理局党委員会の最重要課題は生産管理局の権威を高めることであるとの認識も存在していた(71)。しかし生 産管理局党委員会が農業分野に活動を限定され、監督=党組織活動員というコルホーズ、ソフホーズで継続的に活動する人員を獲得した以上、「指導」と「管 理」という関係を築くためには不可欠と考えられる生産管理局と生産管理局党委員会の職務分担・権限は明確には規定されていなかった。生産管理局については 62年3月22日付党中央委員会・閣僚会議決定「農業管理の再編について」にも管轄する職務が盛り込まれているので(72)、生産管理 局党委員会の活動について明確な指針がなかったと言うのが正確かもしれない。
当時、両者の活動に関する指針として広く認知されたのは、1963年3月12日のロシア連邦共和国生産管理局局長・党委員会書記会議におけるフル シチョフの発言であった。すなわち、生産管理局の取り組むべきことは「各コルホーズ・ソフホーズにおいて生産を組織すること、より優れた労働の模範によっ てカードルを教育すること、それにもとづいて生産の全般的水準をあげるためコルホーズ・ソフホーズへ先駆的経験をもちこむこと」であり、生産管理局党委員 会が取り組むべきことは「同じく生産であるが、異なる立場からである」、党委員会は「党・コムソモール組織の意欲をかきたて、党員・コムソモール員を正し く配置し、高度な厳格さと責任、規律の精神でカードルを教育することを要請されているのだ」というものであった(73)
この指針に基づいて生産管理局と生産管理局党委員会の間に実務的関係が築かれたとの報告、報道が見られるが、そうした報告から読みとれるのはむし ろ職務分担の認識の欠如である。1964年9月25日付とやや遅い時期のモルダヴィア共和国に関する党機関部報告によれば、モルダヴィア共産党中央委員会 は、生産管理局との正しい相互関係を築くこと、党活動の方法と内容を根本的に改めることを生産管理局党委員会の課題として提起していた。そのモルダヴィア においてもとりわけ注目されるのがエヂンツィ生産管理局党委員会の活動であり、同生産管理局党委員会は生産管理局指導部との実務的なコンタクトの確保に成 功し、生産管理局になり代わることはなく、当面の農作業の指導に直接関係する問題の解決には介入していないという(74)
しかしその実務的コンタクトとはいかなるもので、職務はいかに分担されていたのか。エヂンツィ生産管理局の局長と同生産管理局党委員会の書記は、 相互関係と職務分担に関するフルシチョフの問題提起は完全に正しいと言明し、「われわれには誰が誰に従属しているのか、誰が誰のもとへ足を運ばなくてはな らないのかという問題はない。党はわれわれに地区の農業の発展という共通の事業を委ねたのであり、われわれはこの課題を各自の方法によって解決しなくては ならない。管理局局長と党委員会書記の間に生じている軋轢、不健全な関係を説明できるものは、職員の党的教育の不十分さと党の要求の無理解だけである」と 述べている(75)
かれらが「われわれには誰が誰に従属しているのか…という問題はない」と述べている点は注目されよう。先に触れた1963年3月12日の会議にお いてフルシチョフが、生産管理局局長と生産管理局党委員会書記は「同い年の、経営における事態に同じ程度に責任を有する二人の兄弟として」あるべきである と述べたことを考慮すれば(76)、 両者が対等の関係にあることを強調していると考えられる。もちろん二人の述べていることが実態そのものであるかという点は留保を付さなければならないが、 こうした対等の立場による協力関係が成立しているとすれば、両機関の「分業」には望ましい状況であることは言うまでもない。しかしこの「同じ程度に責任を 有する」というフルシチョフの発言はかえって両者の役割、責任を曖昧に受けとらせる可能性もあり、エヂンツィ生産管理局の局長と同生産管理局党委員会の書 記の発言からも、明確な職務分担がなされているとの印象は受けない。それでもフルシチョフの発言に沿って、活動方法が異なることが確認されてはいるが (「われわれはこの課題を各自の方法によって解決しなくてはならない」)、現場で時には活動を伴にする監督=組織活動員と監督=党組織活動員となるとこの 認識はさらに曖昧となる。
バシキール自治共和国イリシェフスコエ生産管理局党委員会の監督=党組織活動員カユーモフ (Ш.Каюмов) の認識は次のようなものである。私(カユーモフ)と監督=組織活動員は同じ経営が割り当てられ、現在同じ区画で同じ出来事に直面しているが、われわれは互 いに重複はしない。それは、われわれが職務上の指示に文字通りに従って「ここからここまで」という枠内でのみ活動しているからではない。今日われわれには 真に創造的な活動のための条件がつくりあげられており、そこには重複や紋切り型の場所はないのである(77)
その活動例を見よう。監督=党組織活動員であるカユーモフは、あるコルホーズで粗飼料の準備がうまく進んでいたのを知って、そのコルホーズの方法 を導入するよう遅れた経営に助言した。一方、監督=組織活動員の方は大衆政治活動における欠陥に注意を怠らず、初級組織の党オルグに有益な助言を与えてい た。カユーモフによれば、これは重複とはなんら一致しない、何故なら誰も欠陥に無関心で通り過ぎる権利を持たないからである(78)。さらにカ ユーモフは、相互の支援は組織活動の不可欠の条件であろうと述べて、次の例を挙げた。監督=組織活動員は、コルホーズ「収穫」のコルホーズ員たちが農産物 生産の増大に関する計画を作成することを支援していたが、その計画を承認するコルホーズ理事会の会議に監督=組織活動員は出席することができなかった、し かし「私[カユーモフ]にはその可能性があり、私はそれを利用した」(79)
こうしたカユーモフの認識や行動が例外的なものである可能性も否定はできないが、これは農業管理機関の職員たちを読者に想定したロシア共和国農産 物生産調達省の機関誌において、「問題提起として」との但し書きもなく公表されているのであり、反論・批判も見出せないことから、極端な例外と見ることは できない。
他方で、個々の生産管理局と党委員会との間で独自に役割分担が決定された事例も紹介されている。カザフ共和国のある生産管理局の局長と党委員会書 記との間でそれぞれの機関が担当すべき問題についての合意がなされ、非常に重要な問題については合同で検討するとされた。この事例で特に注目されるのは、 こうした合意の結果としてかつては地区党委員会によって決定されていた多くの問題を生産管理局へと移管したとされている点である(80)
実際、一部の生産管理局には単独で活動することへの自負も見られる。カルムィク自治共和国ゴロドヴィコフスコエ生産管理局の局長は次のように述べ ている。経営の指導者、専門家が保守性を発揮して上級専門家の助言の遂行を望まない場合には、行政的、党的などあらゆる働きかけによって助言の実現に努め るが、実際には「党委員会のラインによる方策に訴えることは稀である」。そのようなことは「管理局の弱さであろうし、…われわれは、俗に言う、自分の無力 さをさらけだすということになろう。管理局局長の手には十分な権限、有能なアパラート、物的金銭的資源が集中しているのだ…」(81)
しかし、生産管理局が単独で活動することは多くの場合、生産管理局と生産管理局党委員会が、別々に、同じ活動をすることにつながった。63年7月 8日付のカザフ共和国に関する党機関部への報告では、東カザフスタン州のタヴリチェスコエ生産管理局は、生産管理局党委員会が何の問題を決定しているのか 知らず、党委員会も生産管理局が何を決定しているのか知らないため、しばしば同一の経営に同一の問題について生産管理局と党委員会の職員が訪れているこ と、多くの場合に監督=組織活動員と監督=党組織活動員が実務的相互関係を有しておらず、例えばアルマ・アタ州のカスケレン生産管理局のある監督=組織活 動員は、どのように監督=党組織活動員と活動を一致させているのかという質問に対し何も答えられなかったばかりか、監督=党組織活動員の姓さえ知らなかっ たことが指摘された(82)
生産管理局党委員会の活動が職務代行 《подмена》 と批判される例も多数見られた(83)。個々の批 判については枚挙に暇がないが、農業機関の整備が進められ、党機関による職務代行は許されないという原則も堅持されていた状況で職務代行が頻繁に起こった ことについては検討を要しよう。背景としては、50年代後半から党機関の活動を管轄下の組織の生産の結果と結びつける傾向がとりわけ強まっていたことがあ る(84)。こ うした傾向はイデオロギー活動にさえ及んだと言えば、その影響の強さがわかろう。この時期にはソ連全域で社会的原則による大衆の引き入れに重点をおいたイ デオロギー活動が盛んにおこなわれた(85)。 64年半ばまでにロシア共和国の生産管理局党委員会に957、初級党組織に3353のイデオロギー委員会が設けられ、約4万人を社会的原則で組織していた(86)。ウクライ ナでも1963-64教育年度だけで社会的原則によるイデオロギー活動に7万5000人以上が従事していた(87)。こうした イデオロギー活動、政治的教育と、工業・農業生産発展の焦眉の課題の解決との結びつきの強化が要求されたのである(88)。イデオロ ギー活動と経済・生産とを結びつける態度は党機関の活動に明確に反映された。例えばタムボフ農業州党委員会総会では、キルサノフ生産管理局の管轄下の農村 の大半の初級党組織のイデオロギー活動が、コルホーズ・ソフホーズの遅れを克服すること、すべての経営による計画達成を保障することを促すのに役立ってい ないとして、イデオロギー活動が「無駄に」おこなわれていると指摘された(89)。この時期の党機関は、こうしたイデオロギー活動でさえ生産の成果に結びつけられる状況 におかれていた。
そして、先に見た1963年3月12日のロシア共和国生産管理局局長・党委員会書記会議においてもフルシチョフは、畜産分野における生産管理局と 生産管理局党委員会の活動の鏡は「土地100ヘクタールあたりの肉と牛乳の生産の水準である。[生産管理局]党委員会と生産管理局の活動の鏡は播種地1ヘ クタールあたりの穀物生産の水準であり、工芸その他作物の収穫高であり、土地の各ヘクタールの効果的な利用である」と述べていた(90)。この発言 は各所に引用されて(91)、 「活動の鏡」は「生産の水準」であるとする認識が広められた。それはロシア共和国にとどまらず、例えばウクライナ共和国ドネツク州マリインカ生産管理局党 委員会書記グルホフ (З.Глухов) は、生産管理局の専門家と党委員会の職員のすべての活動の基本的な尺度は同じもの、農産物生産の水準、収穫高、土地利用の効率性、コルホーズ・ソフホーズ の経済の強化、農産物の生産と国家への売却の増大であると述べている(92)。生産管理局と生産管理局党委員会の活動の尺度が同じものと捉えられること自体、党委員 会による職務代行を助長する方向に働くであろう。
また、生産管理局の職務を侵犯する党委員会への批判は時に次のようになされた。「大部分が旧地区党委員会職員からなる生産管理局党委員会のカード ルの活動には依然として独特の『地区党委員会的心理 《райкомовская психология》』がある。彼らは、全般的、宣言的で必然的に行政的な経済指導という長年築き上げられた、新たな状況 においては全く許容できず受け入れられないスタイルから自由になることができないのだ」(93)。これに類した、旧地区党委員会の活動を引き継いでいるとの批判は多いが(94)、ここでは 「地区党委員会的心理」というものに注目しよう。「地区党委員会的心理」という批判には、誤りを個人に帰する意図もあると思われるが、実に根深いものと思 われるからである。
「地区党委員会的心理」という表現こそないものの、「地区党委員会的心理」の内容を的確に表していると思われるのは、1962年3月に生産管理局 が設立された以後の、地区党委員会との活動の混乱の中でのロシア共和国党機関部部長代理ペトロヴィチェフ (Н.Петровичев) による批判である。この当時は生産管理局の領域で活動する党オルグと指導員がおかれていたが、ペトロヴィチェフは、何人かの党オルグと指導員の活動が生産 管理局の職員の活動と重複していることを批判し、こうした欠陥はかつて農業管理機関の弱さを感じたためこれに頼らずにあらゆる経済・行政的な面倒を引き受 けていた多くの地区党委員会書記たちの、以前の実践の反映であると指摘している(95)。かつては農業機関がその職務を遂行する能力をもたなかったがために地区党委員会が農業 機関の職務も否応なく「代行」しなければならなかった、地区党委員会は生産の結果に対する責任を問われたからであるという説明は、カプランの指摘した戦後 期の農村における党機関のおかれた状況、党指導者の心理によく似ている(96)。こうした心理を抱いた党職員たちが、農業機関の整備が進められていても容易にはこれを 信頼して職務を委ねることができないということは理解できよう。「地区党委員会的心理」とはこうした心理ではなかろうか。
そして、「地区党委員会的心理」が克服されなかったことには、指導部の側の対応にも問題があった。生産管理局設立後、地区党委員会は農業生産に従 来通り介入しても、傍観者的態度をとっても批判され、活動へのアプローチを本質的に変えるよう求められた。しかし生産管理局が農業指導の唯一の機関である ことは強調されたが、地区党委員会の活動のアプローチをいかにして、どのようなものに変えるのかは具体的に示されることはなかった。62年11月の再編に よって地区党委員会は生産管理局党委員会へと改組されたが、農業管理における党機関の役割、あるいは経済機関と党機関の関係、新たなアプローチなどは明ら かにされないままであった(97)。 先に見たように、主として地区党委員会のアパラートから充員された生産管理局党委員会が「以前の実践の反映」を引き継いだことはむしろ当然であろう(98)
さらに、「地区党委員会的心理」、「以前の実践の反映」と無関係とは考えられないのが、生産管理局党委員会が実際には農村における農業以外の分野 での地区党委員会の職務も引き継いでいたことである。1964年7月22日付のカザフ共和国クスタナイ州ウリツコエ生産管理局党委員会の活動に関する報告 によれば、同党委員会はウリツコエ地区党委員会を基礎として、同じ建物に、ごくわずかの例外を除いて同じ職員によって組織された。同党委員会は活動当初に 書記と書記代理の間の職責分担を以下のように決定した。

 党委員会書記(前地区党委員会第一書記):農業、統計セクター;
 組織活動担当書記代理(前地区ソヴェト執行委員会議長代理):労働組合、コムソモール、
建設、裁判所、民警、検察、公共サービス総合企業、穀物調達、同志裁判所、村ソヴェト;

イデオロギー活動担当書記代理(前地区党委員会宣伝担当書記):商業、保健、国民教育、文化部、映画館の普及、クラブ、図書館。
こうした職責分担は、地区党委員会当時の書記たちの分担と変わっておらず、ウリツコエ生産管理局党委員会書記と代理たちは地区党委員会の活動内容 と方法を身につけており、生産管理局党委員会の役割についての必要不可欠な理解を欠いていると指摘された(99)。ウリツコ エ生産管理局党委員会の指導部は地区党委員会の伝統に熱心に従っており、その活動内容は「かつてのウリツコエ地区党委員会の活動内容とほとんど変わるとこ ろがない」こと、「ほとんど同様の状況が[同州の]ボロフスコエ生産管理局党委員会にもある」ことも指摘された(100)。農村 において地区党委員会の果たしていた職務を引き継ぐ党機関は、生産管理局党委員会の他には存在しなかった以上、こうした状況は至るところに存在したであろ う。
そして、この報告でも指摘されているが、生産管理局党委員会は、具体的な経済・商業・財務・調達・交通・司法その他の問題解決に向けた方策をとる ようにとの膨大な数の書面、口頭での指示を上級機関から受け取っていた。ウリツコエ生産管理局党委員会の場合では、この種の指示はカザフ共産党中央委員 会、処女地地方党委員会、クスタナイ州党委員会などから発せられており、電話による口頭の指示の大部分も経済問題に関わるものであった。州、地方、共和国 の党機関の活動の実際は、「これらがすべてかつての地区党委員会に対するように生産管理局党委員会に対していることを裏書きしている」のであった(101)。モル ダヴィアに関する党機関部宛て報告でも、共和国のいくつかの省庁が、管轄下の組織が現地で取り組むべき様々な問題の解決へ介入するよう求めた多数の電信、 手紙を送りつけることによって、生産管理局党委員会を純粋に経済的な問題の解決へとしばしば押しやっていること、モルダヴィア共産党中央委員会でさえ生産 管理局党委員会に対して具体的で純粋に経済的な問題の解決へと介入するよう要求していることが指摘されている(102)
これまで見てきたことからは、生産管理局党委員会という組織のあり方自体に少なからぬ問題が根差していることがわかる。生産管理局が、地区ソヴェ ト執行委員会から独立した形で、農業生産の管理だけをおこなう専門機関として設立されていたのに対して、生産管理局党委員会は、言わば地区党委員会農業部 を拡大発展させた組織としての性格を持ちながら、しかし地区党委員会から分かれたものではなく、地区党委員会そのものが再編されたものであった。こうした 生産管理局党委員会のあり方は、生産管理局との分業関係をつくりあげる妨げとなり、また活動の性格を地区党委員会と異なるものとすることも難しくした。生 産管理局党委員会自体に「地区党委員会的心理」がある一方で、上級の党機関には生産管理局党委員会を地区党委員会と同様に見なし、扱う意識が根強く存在し たからである。
しかし農業の「管理」は農業機関に委ねるという方針は維持された。生産管理局党委員会、監督=党組織活動員に対しては指導と批判が繰り返しおこな われ(103)、 他方で以下に見るように、こちらも様々な欠点を抱えていた生産管理局の活動改善、カードルの質的強化の方策が採られていったのである。

4. 生産管理局の構造修正 − 活動改善へ向けて −

1963年11月2日付でフルシチョフは「生産管理局の活動を改善すべきである」と題した覚え書きを党中央委員会幹部会宛てに送り、国内各地で生 産管理局の活動を観察し、特に監督=組織活動員の活動について当事者らと会談した結果として、生産管理局の活動改善に向けた構造の修正を唱えた(104)。フル シチョフは、生産管理局の活動には農業生産の指導における宣言的性格から離れられないという欠陥があるが、今日宣言的な指導方法は全く許容できないと批判 し(105)、 監督=組織活動員の活動を生産部門別に組織するよう提案した。その理由については次のように述べている。現在、監督=組織活動員は3から4のコルホーズ、 ソフホーズを担当しているが、コルホーズ、ソフホーズは通例多部門経営なので監督=組織活動員は農業生産の全部門に従事させられている。しかし監督=組織 活動員は、耕作も畜産もその他すべての部門も同程度によく知ることはできない。経営の専門化を考慮し、当該監督=組織活動員が従事するコルホーズ、ソフ ホーズの主要部門の発展を考慮して、監督=組織活動員が選ばれるよう考えることが必要である、その時は現在の2、3倍の数のコルホーズ、ソフホーズを担当 することになるがそのかわり一つのもっと狭く専門化された部門を担当するのであり、その活動は著しく実り多いものとなるであろうというのがフルシチョフの 考えであった(106)
フルシチョフは単純に専門知識を重視しただけかもしれないが、この提案は一定の合理性をもつように思われる。生産管理局と監督=組織活動員の活動 の欠点が指摘され、また生産管理局党委員会と監督=党組織活動員による「代行」が生じていた状況において、監督=組織活動員に専門家をさらに引き入れて活 動を部門別に再編成することは、監督=組織活動員の活動の改善につながると考えられると同時に、監督=党組織活動員の活動との言わば差別化を図ることに よって両者の「分業」に好適な状況をつくりだすとも考えられるからである。

1964年2月10日から15日にかけて党中央委員会総会が開会され、連邦農業相ヴォロフチェンコ (И.Воловченко) の報告と15の連邦構成共和国の農業相もしくは農産物生産調達相を含む17人による副報告がおこなわれた。63年11月2日付のフルシチョフの覚え書きは この総会でとりあげられたが、その様子からはフルシチョフ提案への評価が分かれていたことがうかがえる。
農業集約化についてのヴォロフチェンコの報告は、農業機関の側からの指導の改善の必要性には触れつつも生産管理局の組織的な問題には触れていない が、これは当時連邦農業省には生産管理局に関する権限がなかったためとも考えられ、各共和国の農産物生産調達相の副報告のほうが注目される(107)。農産 物生産調達相として最初に登壇したロシア共和国農産物生産調達相のマクシモフ (Л.Максимов) は、フルシチョフの覚え書きに触れつつ、党中央委員会ロシア共和国ビューロー、共和国閣僚会議、地方党・ソヴェト機関が生産管理局の活動改善、監督=組織 活動員の活動方法の部門別の再編へと向けた方策を採っていること、生産の個々の部門の組織改善についてコルホーズ・ソフホーズを実践的に支援できる専門家 がこの活動へ派遣されていることを明らかにした(108)
続いて登壇したウクライナ共和国農業相スピヴァク (М.Спивак)、ベロルシア共和国農業相スコロパノフ (С.Скоропанов) はこの問題に触れなかった。その後カザフ共和国農産物生産調達相ドヴォレツキー (Б.Дворецкий) が、農業集約化プログラムは農業指導の主要な環である生産管理局の側からの指導の改善を要求していると述べ、フルシチョフの覚え書きにおいて提起された問 題を検討したカザフ共産党中央委員会と閣僚会議が、生産管理局に部門別の監督=組織活動員をおくことを適切と認めたと述べて、この措置の有益さを詳述した が、続くウズベク共和国農産物生産調達相イルガシェフ (Х.Иргашев),タジク共和国農産物生産調達相ミルザヤンツ (Х.Мирзаянц) はこの問題に全く言及しなかった(109)。 ウクライナとベロルシアの農業相であるスピヴァクとスコロパノフは、連邦農業相同様、生産管理局に関する職権をもたないため言及を控えたとも考えられる が、生産管理局を直接管轄する共和国農産物生産調達相であるイルガシェフ、ミルザヤンツは黙殺したと言うべきであろう。  これに対しグルジア共和国農産物生産調達相ゲルヂアシヴィリ (З.Гелдиашвили) は、生産部門別の監督=組織活動員という案に具体的に言及した。ゲルヂアシヴィリは、いくつもの生産管理局で監督=組織活動員は管轄する経営の多様な生産 部門を指導できていないと述べ、われわれのところでは経営の大半が亜熱帯・工芸作物、葡萄、果物、野菜、穀物などの生産に専門化されていることを考慮する と、主要な部門ごとの監督=組織活動員を有することが適切であろうと述べたのである(110)。キルギス共和国農産物生産調達相ヤキムク (П.Якимук) は、表題まで挙げてフルシチョフの覚え書きに言及、監督=組織活動員はある部門の専門家たるべきことが全く正しく提起されており、このことは監督=組織活 動員に対してコルホーズ・ソフホーズの活動をより深く究明し、主要な経営部門を成功裡に発展させる支援をおこなう可能性を与えるであろうと述べた(111)
こうした報告をめぐる議論の中で注目されるのはエストニア共産党中央委員会第一書記ケビン (И.Кэбин) の発言である。ケビンはまず、フルシチョフの覚え書きによって生産管理局の活動の本質的欠陥が指摘されたと述べた上で、われわれの考えでは、主要な欠陥 は、生産管理局の中心的存在である監督=組織活動員が、農業技師であれ畜産技手であれ、コルホーズ・ソフホーズにおいて直面する多様な問題すべてを完全に かつ正しく解決することができないことであると述べた(112)。ここまではフルシチョフ提案を全面的に支持しているように見える。しかしこれに続け てケビンは、監督=組織活動員の活動をいかに再編すべきかという問題の結論として、われわれの共和国ではコルホーズ・ソフホーズは主として牛乳と食肉の生 産に専門化されており、十分な量の安価な飼料の生産が農耕の課題であることから、例えば一つの作物や一種類の家畜を担当するような狭い専門性を有する監督 =組織活動員をもつ必要はない、われわれの考えでは共和国の生産管理局に耕作や畜産など農業のある部門全体をよく知っている監督=組織活動員をおくのが適 切であろうと述べたのである(113)
狭い専門性を有する監督=組織活動員は不要とするケビンの発言は注目される。後述のように総会後まもなくフルシチョフは狭く専門化された生産部門 別の総管理局設立を提案することになるが、すでに1964年2月の党中央委員会総会の時点でフルシチョフがそうした構想を示していたのを牽制したという可 能性も考えられるからである。フルシチョフがそうした構想を示していたか否か、牽制が奏効したのか否かは明らかではないが、最後に発言したフルシチョフ は、生産管理局は優れたところを示したがその活動には一定の欠陥があると述べ、しかしこのことはなんらかの新たな形態を見つける必要があるという意味では ない、必要なのは生産管理局に登用されている人々を教育することであると述べて、党中央委員会幹部会に宛てた自分の覚え書きにおいて生産管理局の活動をい かにしてよりよく組織すべきかについて、特に、経営部門別の監督=組織活動員を選抜する必要性について問題を提起したと述べるにとどまった(114)
確認したように、総会での発言からは、部門別の監督=組織活動員という提案について態度が分かれているように見えるが、フルシチョフは、総会にお いてこの問題提起は支持を得たと断言し、いかにしてよりよく、より速やかにこれをおこなうかを考えなければならないと述べた(115)。総会 決議では監督=組織活動員については何も言及されていないが(116)、しかしその後、部門別の監督=組織活動員への再編成は各地で進められた。そして、当 事者による、生産のあらゆる問題に取り組んでいた時よりも多くの成果をコルホーズへもたらしている、部門別原則による監督=組織活動員の労働組織形態は生 産管理局の現在の活動条件に最も合致していると思う、といった意見も報じられたが(117)、地域によってはこの作業は困難を伴った。農業専門家は不足していた上に農業技師の割 合が高かったため、監督=組織活動員における畜産部門の専門家が不足していたのである(118)

5. 生産管理局への専門家引き入れ

ここでは、農業管理の主要な担い手は生産管理局であり監督=組織活動員であるという方針に基づいて、生産管理局を人員面で強化するために具体的に どのような方策がとられたかをやや立ち戻って確認したい。
62年11月の再編の結果、生産管理局には監督=組織活動員の職、生産管理局党委員会には監督=党組織活動員という相応する形の職がおかれたが、 賃金に関しては監督=組織活動員の方が優遇されていたことがわかる。生産管理局党委員会の側から、監督=党組織活動員の賃金を監督=組織活動員の賃金水準 まで引き上げるようにとの要求がなされているからである(119)。もちろん経済機関と党機関の職について賃金だけを取り上げて比較することはあまり意 味がなく、また双方の職の二者択一が問題となっているわけではない。そもそも党機関、経済機関の職に関しては、候補者・希望者の側の選択権はたとえ存在す るとしてもきわめて限定されたものであろう。しかしそれでも監督=組織活動員の職への充員活動の一助にはなったのではないか。
監督=組織活動員の賃金についての資料は見出せなかったが、監督=党組織活動員の賃金は、1962年12月20日付の党中央委員会決定によって月 額110ルーブリと定められていた。この監督=党組織活動員に対する賃金は、生産管理局党委員会の中では書記(210ルーブリ)、書記代理(150ルーブ リ)に次ぐもので、部長代理(100ルーブリ)や組織部・イデオロギー部に属する指導員(90ルーブリ)よりも高く設定されており、監督=組織活動員の賃 金がそれよりも高いということは軽視できまい(120)。 とはいえ、やや遅い時期の工業労働者の平均賃金が全産業労働者平均で101.3ルーブリ(1965年)、ソフホーズ労働者の平均賃金月額が70.6ルーブ リ(1964年)という状況において(121)、 月額110ルーブリを上回るという程度の監督=組織活動員の賃金がどの程度魅力的であるかを判断することは難しいが(そしてこの場合も賃金だけを考慮する のは一面的ではあるが)、対応する党機関の側がその水準まで引き上げを求めたということ自体、監督=組織活動員の賃金が高く設定されていたことが全く意味 を持たなかったわけではないことを示していると言えるのではないか。
また生産管理局の局長、局長代理、部長、監督=組織活動員および専門家に対しては、生産・買付計画の達成、超過達成に基づく報奨金に関する規程が 1962年9月6日付閣僚会議決定により採択、導入されていた(122)。63年6月15日付では閣僚会議決定「コルホーズ・ソフホーズ(ソフホーズ・コル ホーズ)生産管理局の監督=組織活動員の農業税支払いの免除について」が採択され、監督=組織活動員として働く農業専門家に対して、農業税の支払いが免除 される特権が与えられた(123)。 1953年8月8日付農業税法第16条瘢?の、農村にある企業、組織などで専門の仕事をしている専門教育を受けた農業技師、畜産技手その他の農業税の支払 いを免除する規程を監督=組織活動員にも適用したものである(124)。もちろん法適用の公平性を維持するための措置であることは十分に考えられ、農業専門 家を監督=組織活動員の職へ引き入れることを目的とした決定であるとは言い切れないが、いかなる理由で農業税免除の特権が与えられたにせよ、監督=組織活 動員のポストに農業専門家を引き入れる方向に作用したであろう。
しかし1963年後半から64年にかけての時期になると、生産管理局の職員、とくに監督=組織活動員に農業専門教育を受けた者が十分に選抜されて いないという報告、批判がなされた。先に見た63年11月2日付の覚え書きでフルシチョフも、農業教育を受けていない監督=組織活動員の存在を批判し、農 業専門家を登用することを訴えているが(125)、 例えばクラスノヤルスク地方について、地方党委員会、生産管理局党委員会、生産管理局が監督=組織活動員の選抜に注意を向けていない結果、監督=組織活動 員は定員96人中77人しか充員されておらず、しかもその多くは教育、経験、組織者としての能力に関して要求にこたえる人物ではなく、高等・中等の農業教 育を受けている者はわずか46人しかいないという報告が党中央委員会の党機関部および農業部へ提出され、この報告は63年12月12日付で党中央委員会ロ シア共和国ビューローにも提出された(126)
また、プスコフ州の党協議会において同州の監督=組織活動員73人中、高等専門教育を受けた者はわずか17人、中等専門教育を受けた者は38人と 指摘されたことが『コムニスト』誌でとりあげられ、多くの監督=組織活動員が農業の諸問題に十分に通じておらず、コルホーズ・ソフホーズの指導者たちに問 題に精通した援助を与えられないのは驚くにはあたらないと批判的に言及された(127)。同州での監督=組織活動員に占める農業専門家の割合は約75%となり、先に見たロシ ア共和国全体での割合(70%)を上回っているにもかかわらず批判されたことは注目すべきであろう(128)
また、専門教育を受けてさえいれば問題がなかったわけではもちろんなかった。1964年2月28日付のアルマ・アタ州に関する党機関部の報告で は、同州のカスケレン生産管理局の監督=組織活動員の2人は高等農業教育を受けているが十分な活動経験を有しておらず、経営において何に対して、どのよう に活動しなくてはならないのかを説明できなかったという例を挙げて、多くの監督=組織活動員が実務の点で弱い活動家であることが指摘された。これに続け て、ソフホーズ所長、コルホーズ議長、初級党組織書記たちが、例外はあるものの監督=組織活動員の活動を否定的に評価しており、現行のままでは益はない、 経済を深く分析し農業発展の根本的課題の解決を手助けできる経験豊かな農業専門家を選抜することが必要であるという考えを示したことが指摘されている(129)
こうした状況で、生産管理局、コルホーズ、ソフホーズを農業専門家によって強化するという党中央委員会書記局の決定が1964年6月19日付で採 択された。この書記局決定自体は公開されておらず確認できないが、書記局決定遂行についての地方党機関からの中央委員会宛て報告が確認できる(130)。こう した報告によれば、ヴォログダ州では同年7月7日に州党委員会ビューローにおいてこの中央委員会書記局決定が審議され、主任・上級専門家のポストに原則と して高等農業教育を受けている22人が登用されるなど農業専門家による生産管理局の充員活動が進められ、監督=組織活動員の構成も著しく改善され全員が高 等・中等の農業教育を受けた専門家となった(131)
ヴラヂーミル州では、6月19日付書記局決定の執行に必要な方策を採るため「生産コルホーズ・ソフホーズ管理局、コルホーズおよびソフホーズの農 業専門家カードルによる強化に関する中央委員会の指示の遂行過程について」の州農業党委員会ビューロー決定が採択され、同党委員会部局の文書が各生産管理 局党委員会へ送られた。これに従っておこなわれた活動によりカードルの質的構成が改善され、64年10月1日の時点で、生産管理局の局長代理と主任専門家 61人、監督=組織活動員の全員が農業専門教育を受けていた(132)。ヴォロネジ州では64年7月1日の時点で監督=組織活動員の定員85人のうち9人が 欠員、21人が農業専門教育を受けていなかったのに対して、10月1日の時点では欠員は2人となり、活動中の83人全員が農業専門家、そのうち48人は高 等教育を受けており、中等教育を受けている35人中15人は農業大学の通信教育を受講中であった(133)。チェ リャビンスク州では64年4月1日の時点で監督=組織活動員に占める農業専門家の割合は80.6%であったが、10月1日の時点では87.5%となった(134)
カザフ共和国では党中央委員会書記局が64年8月18日に、監督=組織活動員カードルによる生産管理局の強化について特別に審議し、その質的構成 の改善に努めた。共和国全体で64年4月1日の時点で監督=組織活動員292人のうち高等・中等の農業教育を受けている者が222人(76%)、専門教育 を受けていないプラクチキが70人(24%)であったのが、64年10月1日の時点では監督=組織活動員の総員が331人まで増やされ、そのうち農業専門 家が287人(87%)、プラクチキ44人と農業専門家を65人増やして全体における割合を11%高めた。依然として地域差はあり、アルマ・アタ州、東カ ザフスタン州、カラガンダ州では活動中の監督=組織活動員全員が農業専門家となったのに対して、処女地地方では64年10月1日の時点で活動中の監督=組 織活動員133人のうち高等・中等の専門農業教育を受けていた者は108人、81%にとどまったが、4月1日時点と較べると農業専門家は12.4%増で、 共和国全体の増加率を上回った(135)

6. フルシチョフの方針転換・解任・「非フルシチョフ化」

第4節、第5節で見たように、1964年初頭から半ばにかけて組織構造の面でも人員面でも生産管理局の活動改善を目指した方策が採られて いたが、 生産管理局の提案者であり、64年2月党中央委員会総会では新たな形態を見つける必要を否定して生産管理局の活動をいかに改善するかを訴えていたフルシ チョフは、2月総会閉会後まもなく方針を一転させた。64年2月28日におこなわれた党・ソヴェト・農業機関の指導的活動家会議においてフルシチョフは、 ジャガイモ、野菜、牛乳、畜産に専門化されたソフホーズが生産管理局の他の経営の間で二義的な地位にあることのないよう見直す必要があるとして、専門化ソ フホーズのトラストを設立する必要性を示唆した(136)。 さらにフルシチョフは、養豚、養鶏などの分野の指導は集権化すべきであり、それぞれに関する連邦=共和国管理局を設立するのが適切であると述べ、さらに他 の生産品目についても集権化が適切かどうか熟考する必要があると述べて部門別の管理局設立の方針を示したのであった(137)。これ は生産管理局の解体を示唆したに等しい。
ここではフルシチョフの新たな構想について詳しく検討することはできないが、問題となるのは、こうしたフルシチョフの方針転換と、前節で確認した 生産管理局を強化する党中央委員会書記局の決定およびそれに基づく地方党機関の活動との関係であろう。党中央委員会書記局決定は、フルシチョフの新方針が 示されたのちに採択されているのである。ここには、もはやフルシチョフ解任の準備が着々と進められてすでにフルシチョフが意思決定の実際から少しずつ切り 離されている、あるいはフルシチョフが何を言い出しても実際の行政に反映されないという状況があらわれているのかもしれないが、本稿では詳しく検討するこ とはできない。そのような状況であった可能性を確認しておくにとどめたい。ただし、権力闘争に引き付けた説明が必ず必要というわけでもあるまい。フルシ チョフが、書記局以下の中央委員会アパラートの日常的な活動に逐一関与するわけではなく、また関与することはできないことは言うまでもないことであり、 トップと官僚機構の判断がただちに一致しないことはさして稀なことではない。そして生産管理局の活動をどのように評価していたにせよ、書記局以下の党アパ ラートは、その廃止が決定的となるまでは現行の体系を基本的に維持した上での問題点の修正・改善を選択するということは十分に考えられ、また農業教育を受 けた人材を農業管理機関へ登用することは合理的かつフルシチョフの持論でもあるから、生産管理局の人員構成の改善の方策が進められたことは理解できないこ とではなかろう。
その後フルシチョフは1964年7月18日付で党中央委員会幹部会に宛てて農業指導に関する覚え書きを送り、生産管理局と生産管理局党委員会を激 しく批判したと言われる。そして農業の専門化を徹底させるため生産管理局の廃止を提起、中心的な作物によってすべてのコルホーズ・ソフホーズをグループ分 けして九つの農産物別の州専門管理局が直接管轄すること、これらの州専門管理局は連邦=共和国管理局に従属すること、経営活動に対する党機関のあらゆる干 渉を取り除くために生産管理局党委員会を廃止して文化啓蒙的な役割を担う政治担当代理を専門管理局におくことを提案したというのである(138)
この覚え書きによっていまやフルシチョフの新たな方針と64年6月19日付書記局決定に代表される生産管理局強化の方針とは決定的に齟齬をきたし たわけだが、こうしたフルシチョフの方針転換、新提案はどのように受けとめられたのであろうか。1964年10月党中央委員会総会の速記録には次のように 記されている。「1964年7月18日付の同志フルシチョフの最後の覚え書きはとくにひどい誤りを含んでいた。…同志フルシチョフは生産地域管理局さえも 廃止の考えを表明し始め、コルホーズ・ソフホーズを直接州および地方から指導することを提案したのである。このことは農業に著しく多大な損失をもたらした であろう」(139)
フルシチョフの新提案に対しては、フルシチョフ以外の指導者たちは生産管理局による農業指導体制を支持する立場をとったと考えてよいのではない か。もちろん生産管理局そのものを支持したとは限らず、フルシチョフの新提案と較べての相対的な支持や、あるいは頻繁な組織改編への批判・懸念に基づいて の支持という面もあるかもしれないが、1964年7月18日付のフルシチョフの覚え書きの後も、先の書記局決定に従って地方党機関が生産管理局強化の活動 に取り組んだ事実からも、生産管理局を中心とする体系への半ば公然の支持を見いだすことができよう。先に見たようにカザフ共産党中央委員会書記局が監督= 組織活動員カードルによる生産管理局の強化について特別に審議したのは64年8月18日のことであり(140)、また アゼルバイジャン共産党中央委員会は64年9月22日付で「共和国の生産コルホーズ・ソフホーズ管理局、コルホーズ、ソフホーズの農業専門家カードルによ る強化について」の中央委員会決定を採択したのである(141)
さらにこの時期、人員面での強化とは異なる形での生産管理局強化の試みもなされていた。1964年9月25日付の党機関部報告によれば、モルダ ヴィア共産党中央委員会と共和国閣僚会議は生産管理局の指導的役割と責任を強化しつつあり、コルホーズ、ソフホーズにサーヴィスを提供し生産管理局の領域 にあるすべての経済組織は所轄官庁への従属にかかわりなく生産管理局の実務的指導のもとで活動し、生産管理局との密接なコンタクトのもとで生産の必要を充 足するあらゆる具体的方策を実行することを決定した(142)。 こうした措置は新たな混乱を引き起こす可能性もあり、これによって状況が改善されたかは検討を要するが、生産管理局の役割を強化する試みであることは確か である。
このような動きにもかかわらず、フルシチョフの新提案は実現されるかに見えた。まず1964年9月3日付党中央委員会・閣僚会議決定によって一足 早く養鶏工業総管理局設立が定められた(143)。 さらに、専門化された生産の指導改善の組織的問題を検討するための党中央委員会総会が64年11月に開催されることが予告され、同総会では穀物、サトウダ イコン、綿花、大型有角獣、養豚、養鶏、その他最重要の農業生産物に関してそれぞれ連邦=共和国管理局の設立が決定される予定であると報じられた(144)。しか し、周知のように、この間にフルシチョフを排除する準備が隠密裡にすすめられていた。1964年10月14日朝、臨時に党中央委員会総会が開かれ、党中央 委員会幹部会員、中央委員会第一書記、中央委員会ロシア共和国ビューロー議長、ソ連閣僚会議議長を兼任していたフルシチョフはすべての職を解かれることが 決定された(145)
フルシチョフ解任後、1962年11月の再編に対しては特に批判が噴出し、伝統的な党構造への回帰が急がれた。64年11月16日に開かれた党中 央委員会総会は決議「工業・農業州、地方党組織の統合について」を採択し、党組織が農業・工業に分割された州、地方に単一の党組織、単一の党委員会を再建 すること、生産管理局党委員会を地区党委員会に再編し当該領域の工業・建設企業も含めたすべての党組織の指導を地区委員会に集中することなどを定めた(146)。その 後相次いでおこなわれた共和国共産党中央委員会総会、州、地方の党委員会総会も、62年11月以前の構造への回帰を決議した。これに並行して地区区分の見 直しも進められ、64年11月党中央委員会総会以後ロシア共和国で500以上、ウクライナで140の地区が新たに形成されるなど65年1月15日までにソ 連邦全体で農村地区は2634まで数を増した(147)。 地区党委員会の再建も進められたが、65年3月24日の党中央委員会総会でのブレジネフ報告によればその数は2434であった(148)
こうした「非フルシチョフ化」の動きは、農業分野にはどのように影響したのであろうか。後継指導部はフルシチョフの農業政策の誤りを厳しく批判し たが、他方で農業に高い優先順位を与え、フルシチョフが求め果たせなかった農業への資源配分の増大も実行するなど、農業生産の急速な増大を目指したフルシ チョフの基本的な方針自体はより首尾一貫させた形で引き継いだとの見方がすでに一般的であろう(149)。しかし機構の点では「非フルシチョフ化」が進められたとの見方のほうがあるいは一般 的かもしれない。1965年3月1日付で党中央委員会・閣僚会議決定「コルホーズ・ソフホーズ生産の指導におけるソ連邦農業省の役割の向上について」(以 下、65年3月1日決定)が採択され、フルシチョフがその権限を奪った連邦農業省は、コルホーズ・ソフホーズにおける農業発展の指導および農業生産の状態 に対する責任を委ねられた。1961年以前の権限を回復した上に、当時と異なりコルホーズとソフホーズの双方を管轄することとなったのである(150)。フル シチョフとの反目から更迭されたマツケヴィチ (В.Мацкевич) が連邦農業相の地位に返り咲いたことは、「非フルシチョフ化」との印象を強めていよう(151)
しかし農業管理機関の体系が上から下まで「非フルシチョフ化」の方向で大きく変化したと言えるかは微妙である。農業省は連邦・共和国省と定めら れ、共和国では農産物生産調達省の農業省への改組・合同がおこなわれた。例えばロシア共和国では1965年3月2日付最高会議幹部会令により農産物生産調 達省が農業省に改組された。しかしロシア共和国農産物生産調達省と、再建されたロシア共和国農業省の中央アパラートの構造を比較検討したコヴァレンコは、 両者の体系下にあるソフホーズ管理機関の体系にはいかなる本質的な変化も生じなかったと結論づけている(152)
地区レベルでは、65年3月1日決定は、生産管理局を地区生産農業管理局へと再編すること、監督=組織活動員は農業生産部門別専門家へと変更する ことを定めた(153)。 かつてミラーはこの地区レベルの改組を最もラディカルなものと評したが(154)、筆者にはそうした評価は、以下の点で同意し難いように思われる。
第一に、生産管理局の管轄領域はそれまでも原則として地区と一致していたのであり、地区を管轄領域とする機関という意味では「地区生産管理局」で あった。生産管理局がそれまで「地区生産管理局」と言われることがなかったのは、おそらくは地区ソヴェト執行委員会に従属していなかったことと関係するの ではないかと思われるが、注目されることに、65年3月1日決定によって地区生産農業管理局に改組された後もこの機関は依然として地区ソヴェト執行委員会 には従属しなかったのである(155)〈図3〉参照)。
第二に、監督=組織活動員の農業生産部門別専門家への変更も、もっぱら名称に関わる変更と言えるのではなかろうか。確認したように、64年2月総 会以後、監督=組織活動員の生産部門別への再編と専門家の登用が進められており、監督=組織活動員は実質的には農業生産部門別専門家と呼ぶに相応しい存在 となりつつあったからである(156)
第三に、職員の待遇の面を見ると、1965年5月4日付の閣僚会議決定「地区生産農業管理局職員の賃金について」は、地区生産農業管理局職員に対 して生産管理局職員のために定められた賃金、報奨、特権、特典の条件を維持すると決定している(157)
そして第四に、活動の面では、例えばロシア共和国において地区生産農業管理局が活動に際して従っていた規程は、1962年3月24日付で制定され た、農業生産指導のための地域生産コルホーズ・ソフホーズ(ソフホーズ・コルホーズ)管理局、同管理局の評議会および監督=組織活動員に関する規程であっ た(158)
このように、地区ソヴェト執行委員会との関係、人員、待遇、活動内容、権限にほとんど変化はなかったと考えられ、地区生産農業管理局への改組とい う65年3月1日決定をもってただちに、生産管理局との断絶を言うことはできないように思われる。ただし、もしラディカルと言えるほどの変化があるとする ならば、着目すべきは地区党委員会との関係であるが、この点はどうであろうか。
1964年11月14日付の党中央委員会指導員の党機関部宛て報告によれば、新たに形成される農村地区党委員会のアパラート定員は、生産管理局党 委員会と同様とすることが予定されていた(159)。 2節で述べたように、生産管理局党委員会は62年までの地区党委員会よりも若干規模が大きかったので、人員面で新地区党委員会はかつての地区党委員会より 強化されることになったと言えるかもしれない。しかし、地区党委員会の構造としては、組織部とプロパガンダ・アジテーション部の二つを設置するとされてい たこと、監督=党組織活動員は組織部に配置するのが適切と見なされていたことは注目される。工業で働く党員を多数管轄する地区党委員会には2、3人からな る工業・運輸部を設置することも考慮されていたのに対し、地区党委員会に農業部を置くことは考慮されていた様子が見られないのである(160)
そして、農業指導、コルホーズおよびソフホーズの指導の主要な組織単位は、州ソヴェト執行委員会の農業管理局とこれに従属する地区生産農業管理局 であることが広く主張され(161)、 地区党委員会の指導はより間接的なものであるべきことが改めて確認された(162)。こうしたことを考え合わせると、地区党委員会との関係での変化は、生産管理局党委員 会との関係においてよりも、「分業」関係の整序に適した方向への変化であった可能性が考えられる。とはいえ、連邦農業省以下の農業機関の体系の位置、役 割、および党機関との関係は別に検討を要する課題である。とくに、地区の細分化が進められた結果として再び「地区合同」生産農業管理局が出現したため、地 区党委員会との関係がどのようなものとなっていくのかは注目すべき問題であろう(163)

おわりに

これまで述べてきたことを整理し、その後の展開を簡単に述べて本稿を終えよう。「はじめに」でも紹介した、フルシチョフはコルホーズの管理におけ る農業省の影響力を削減し、党の統制を増すことによってコルホーズをより効率的なものとするよう努めたという評価、そしてこれは政治的な支持基盤である党 を、大衆の活力が動員され導かれる経路と見なすフルシチョフの全般的なアプローチと一致するものであったというような評価(164) は、1960年代初頭までについてはほぼ妥当な整理であろう。
しかし1962年3月以後の時期については、若干の修正を必要とする。党への依存はかわらぬものであったにせよ、党機関だけに頼ることが考えられ ていたわけではない。なるほど農業省のラインには頼らなかったが、それに代わる農業管理機関の体系が作り出された。そして62年11月の党機関の再編の後 も地区の農業機関の整備は着実に進められており、地区の農業機関である生産管理局と、地区党委員会に代わった生産管理局党委員会との間の「分業」関係の整 序が重要な課題として追求されていた。様々な要因、とくに、充員されたカードルのメンタリティ(「地区党委員会的心理」)や、生産管理局党委員会という組 織自体の不備による影響などのために、整然とした「分業」は実現されることはなく、両機関の活動には混乱が生じていたが、生産管理局を強化して地区におけ る農業管理を委ねようとする方針は一貫して維持されていた。確かに決定的な変化が生じたわけではないが、農業分野における、遅まきながらの経済機関と党機 関の分業関係の整序、そうした関係を可能とするような党機関の役割の変化が模索されつづけていたと言えるであろう。そして、生産管理局を中心とする農業機 関の体系の発案者であったフルシチョフ自身がこれに見切りをつけ、さらなる改組を提唱した後でさえ、指導部の他の者たちは生産管理局を「主要な環」とする 農業管理機関の体系を半ば公然と支持して、生産管理局を強化する方策をとり続けていたのである。
フルシチョフ解任後には、旧来の組織・制度への回帰、「非フルシチョフ化」が急速におこなわれた中で、農業管理機関にも変更が加えられた。生産管 理局も地区生産農業管理局へと改組されることとなったが、それは必ずしも本質的な変化ではなかった。1964年半ばにフルシチョフが農業管理機関に関する 方針を転換させたこともあって、農業管理機構についても断絶、「非フルシチョフ化」の印象が強いが、継続の要素は明らかに存在した。再建された地区党委員 会の構造と、その「指導」の間接性が再確認されたことからは、農業機関との分業関係の整序が引き続き考慮されていたように思われる。
そしてその後も当面の間は、地区ソヴェト執行委員会からの独立、コルホーズ・ソフホーズの一元的管理という1962年3月以来の特徴を維持してい た地区生産農業管理局は、肯定的に言及されることが少なくなかった。例えばエストニア共産党中央委員会第一書記のケビンは1966年の論文で、地区生産管 理局という形でのコルホーズ、ソフホーズ生産の指導の現行の形態はその正しさを証明した、課題はその改組にではなく強化と発展とにある、ソフホーズとコル ホーズの管理の分割はこれらの管理により大きな正確さをもたらしはしない、農業の国家指導の単一性の原則を侵害することは合理的ではないと主張し、地区コ ルホーズ・ソフホーズ管理局という現行の形態は正しさを証明したと言明した(165)
ケビンはこの論文において、党機関と初級党組織が経済指導者になりかわってはならないことは「公理」であり、党活動を経済機関に対する職務代行に 帰着させてはならないとも述べている(166)。 しかし、地区党委員会と地区生産農業管理局による「分業」関係を、いかにして現実のものとするかという問題は未解決のままであった。
そして地区生産農業管理局をめぐる情勢は流動的であった。地区生産農業管理局を「二重の従属」下におくこと、所有形態の異なるコルホーズとソフ ホーズの指導には別個の管理機関を設立すべきことも主張されていたのであり、この二点をめぐっては以後も『コムニスト』誌、『ソヴェト国家と法』誌などを 舞台に議論が続けられていく(167)。 そして、党機関と農業機関との分業は整序されないままに農業管理機関の体系は60年代末から70年代にはまたしても頻繁な改組が繰り返されていく。ある研 究者の見解によれば、農業への資源配分の増大にともなって管理機関が叢生したことによって、逆に地区党委員会が唯一の調整力をもつ管理機関として影響力を 強化していくという構図が出現していくのである(168)。 しかしもちろん、これは別に検討されるべき問題である。

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