SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 45号

I.A.ゴンチャローフと二人の日本人
沢 田 和 彦

Copyright (c) 1998 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.


− 注 −
1 陰暦弘化4年6月23日。本稿の日付は新暦で統一した。
2 後の開成所。1856(安政3)年創立の江戸幕府の洋学・洋式数学教授機関で、東京大学の前身。
3 「かねやす」、「かねなり」の読みはともに誤りである。原平三氏講演『市川兼恭』『温知会講演速記録』63、1941年5月、2、3 頁。
4 原、前掲書、41頁。
5 志賀親朋については、拙稿「志賀親朋略伝」(『共同研究 日本とロシア』早稲田大学文学部安井亮平研究室、1987年、39-49 頁)を参照されたい。
6 復刻版は、山岸光宣編『幕末洋学者欧文集』弘文荘、1940年。正確には『友人及び同僚執筆市川文吉送別文集』で、市川兼恭の手にな る蘭文表題は<>。 原平三「幕末の独逸学と市川兼恭」『史学雑誌』55-8、1944年8月、8ノ95頁。宮永孝「幕末ロシア留学生市川文吉のこと」『社会労働研究』37- 4、1991年3月、111頁。
7 ロシア語表記は <<огатыр>>(「勇士」の意)だろう。
8 日本語表記は「大和夫」で、「大和」は日本の古名である。内藤遂『遣露伝習生始末』東洋堂、1943年、301頁。
9 内藤、前掲書、40頁。宮永孝「幕末ロシア留学生市川文吉に関する一史料」『社会労働研究』39-4、1993年2月、135、 160頁。
10 内藤、前掲書、299頁。
11 ビタリー・グザノフ「橘耕斎とゴシケビチ」『今日のソ連邦』4、1972年2月、31頁。
12 内藤、前掲書、321頁。
13 同上、314頁。
14 スパルヴヰン「山内作左衛門の自筆に就て」『明治文化研究』6-2、1930年2月、55 -56頁。ロシア語の旧正字法は新正字法に変えて引用した。
15 内藤、前掲書、307、324頁。
16 『森有禮全集』第二巻、宣文堂書店、1972年、24頁。
17 内藤、前掲書、307-308、321頁。
18 Японцы, обучающиеся в русском пансионе // Современная летопись. 1868. 3. С. 15. -в кн.: Иванова Г.Д. Русские в Японии XIX - начала XX в. М.,<<Восточная литература>> 1993. С. 33-34. これは、サンクト=ペテルブルグ・ロシア科学アカデミー東洋学研究所のイワノーワ女史の新発見である。従来、留学生たちのロシア滞在中の事跡に関する史料 は少なく、とりわけロシア側の史料は皆無に近かった。古くは内藤遂氏、近年では宮永孝氏の研究のいずれもが、留学生たちはとどのつまりロシアの教育機関で 学ぶことはできなかったとしている。内藤、前掲書、43頁。宮永孝『幕末おろしや留学生』筑摩書房、1991年、175頁。
19 内藤、前掲書、246、247、248、261頁。
20 森、前掲書、24頁。森のロシア観については次の論文を参照のこと。外川継男「若き森有礼のロシア観をめぐって」『スラヴ研究』 32、1985年3月、 73-105頁。
21 内藤、前掲書、325頁。
22 森、前掲書、20頁。
23 内藤、前掲書、304頁。
24 市川の後の東京外国語学校教授時代の教え子鈴木要三郎の証言による。原平三「我が国最初の露国留学生に就いて − 幕末留学生の研究 其一 」『歴史学研究』10-6、1940年6月、85-86、88頁。
25 宮永、前掲書、137、170、172頁。
26 西村庚「日本から帰ったプチャーチン提督」『ソ連研究』10 -3、1961年3月、23-27頁。
27 1811(文化8)年に高橋景保の建議により設立され、馬場佐十郎と大槻玄澤が初代訳員となった。
28 ロシア暦1854年1月14日、陰暦1853年12月28日付、アニワ港ロシア守備隊隊長宛。『大日本古文書 幕末外国関係文書之 三』東京帝国大学文科大 学史料編纂掛、1911年、504-505頁。 「会員市川兼恭ノ傳」『東京学士会員雑誌』12 -6、1890年7月、274頁。
29 ちなみに高須松亭の養子高須治助は、後に東京外国語学校魯語科に入学して市川文吉からもロシア語を学び、本邦初のロシア小説の訳者、 即ちプーシキンの『大 尉の娘』の抄訳『露国奇聞 花心蝶思録』(1883年)の訳者として知られることになる。また1894年頃にゴンチャローフの旅行記『フリゲート艦パルラ ダ号』を初めて日本語に訳出したが、この抄訳は未刊で、その一部のみが『大日本維新史料』第二編之一(明治書院、1939年)と第二編之二(1940年) に収められた。原平三「露和袖珍字彙と編者高須治輔氏の経歴に就て」『学鐙』43-11、1939年11月、9-11頁、柳田泉『明治文学研究 第五巻  明治初期翻訳文学の研究』春秋社、1961年、390-394頁、を参照のこと。
30 「会員市川兼恭ノ傳」、280頁。原平三氏講演『市川兼恭』、46-48頁。
31 西村、前掲論文、27頁。
32 原平三「市川盛三郎」『傳記』9-3・4、1942年4月、19頁。
33 前記鈴木要三郎の証言による。原「我が国最初の露国留学生に就いて − 幕末留学生の研究 其一」、85、88頁。
34 Гончаров И.А. Фрегат <<аллад>>. Очерки путешествия в двух томах. Л., <<аука>> 1986. С. 353. 高野明・島田陽共訳『ゴンチャローフ 日本渡航記』雄松堂書店、1969年、435頁。
35 古賀謹一郎『西使日記』『大日本古文書 幕末外国関係文書附録之一』所収、1913年、244頁。
36 原「我が国最初の露国留学生に就いて − 幕末留学生の研究 其一 」、86頁。ロシア語表記は不明だが、<<Шевырев>>(シェヴィリョーワ)か。
37 原平三「露国留学生派遣の」山岸光宣編『幕末洋学者欧文集解説』所収、弘文荘、1940年、20頁。
38 坂本辰之助『男爵西徳二郎傳』非売品、1933年、53頁。
39 外川継男「岩倉使節団とロシア」『上智大学外国語学部紀要』23、1989年3月、137頁。『岩倉公実記』中巻、1041頁。「海 軍中将松村淳蔵洋行 談」森、前掲書所収、383頁。久米邦武編『特命全権大使 米欧回覧実記』(四)、岩波書店、1980年、68、412頁。
40 宮永「幕末ロシア留学生市川文吉に関する一史料」、173頁。 中村喜和「橘耕斎伝」『一橋論叢』63-4、1970年4月、158頁。
41 「はるばるロシアから病篤き父を訪ねて来朝したシウエーロフ氏」『東京日日新聞』、1927年6月12日、第2面。
42 『東京外国語学校沿革』東京外国語学校、1932年、48頁。
43 『明治七年 掌中官員録 全』西村組商会、1874年10月。 『明治初期の官員録・職員録 第二巻 明治四−八年』所収、寺岡書洞、1977年、145頁。
44 榎本武揚『シベリヤ日記』南満州鉄道株式会社総裁室弘報課、1939年、289頁。宮永「幕末ロシア留学生市川文吉のこと」、120 頁。
45 『北方未公開古文書集成 第七巻 千島誌 A.S. ポロンスキー著 榎本武揚他訳』叢文社、1979年、37頁。
46 この旅行については、中村喜和「榎本武揚のシベリア紀行」『共同研究 ロシアと日本』第3集所収、一橋大学社会学部中村喜和研究室、 1992年、13- 23頁、を参照のこと。
47 『東京外国語学校一覧 明治十二年十月』、23頁。
48 「書目十種 長谷川辰之助」『国民之友』4-48附録、1889年4月、2頁。
49 原「露国留学生派遣の」、18頁。
50 1878年1月18日付。加茂儀一編『資料 榎本武揚』新人物往来社、1969年、300-301頁。
51 原、前掲書、82頁。
52 黒田清隆編『環游日記』上編、1887年、1頁。
53 西村庚「明治初期の遣露留学生列伝」『ソ連研究』8-11、1959年11月、34頁。中村喜和「日本におけるロシア語辞書の歴史 − 江戸時代から1945年まで」『「窓」別冊 ロシア語の辞書』所収、ナウカ、1980年、75-76頁。
54 中村光夫『二葉亭四迷傳』講談社、1958年、52頁。
55 原「露国留学生派遣の」、19頁。
56 宮永「幕末ロシア留学生市川文吉のこと」、125-127頁。
57 原「露国留学生派遣の」、19-20頁。
58 Мельник В. Незабываемая<<Паллад>> // Дальний Восток.No8. 1984. *. 131-137. 本論文の後半は日本語に翻訳されている。ヴェ・メリニク著、K訳「忘れ得ぬ『パルラーダ』 (2) ム ゴンチャロフの未刊の手紙から」『ソ連出版文化通信』33-5、1985年5月、8-11頁。
59 サンクト=ペテルブルグのロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所「プーシキン館」手稿課所蔵。РО ИРЛИ. 4904. лл. 143-144 об.
60 Смолярчик В.И. А.Ф. Кони и его окружение. М., <<ридическая литератур>>, 1990, С. 168-169; Демиховская Е.К. и Демиховская О.А. (сост.) И.А. Гончаров в кругу современников. Неиз-данная переписка. Псков, Издательство Псковского областного института повышения ква-лификации работников образования, 1997. С. 16.
61 Мельник В.И. Письма И.А. Гончарова к А.Ф. Кони // Симбирский вестник. Вып. II. 1994. С. 61.
62 その後この書簡は注60のデミホフスカヤの本の140-141頁に収められた。
63 Брокгауз Ф.А. и Ефрон И.А. (изд.) Энциклопедический словарь. Т. IX А. СПб., Типо-лито-графия И.А. Ефрона, 1893. С. 901.
64 Брокгауз Ф.А. и Ефрон И.А. (изд.) Новый энциклопедический словарь. Т. 15. СПб., Типография акционерного общества ТБрокгауз-ЕфронУ. С. 281.
65 Лемке М.К. (ред.) М.М. Стасюлевич и его современники в их переписке. Т. IV. СПб., 1912. С. 193; Алексеев А.Д. Летопись жизни и творчества И.А. Гончарова. М.-Л., АН СССР. 1960. С. 283, 286; Демиховская Е.К. и Демиховская О.А. (сост.) Указ. соч. С. 128-129, 130, 132, 140, 141.
66 Демиховская Е.К. и Демиховская О.А. (сост.) Указ. соч. С. 142, 309; Алексеев. Указ. соч. С. 285.
67 Кони А.Ф. Иван Александрович Гончаров. - в кн.: И.А. Гончаров в воспоминаниях современ-ников. Л., <<удожественная литература>> 1969. С. 256-257.
68 Мельник. Незабываемая <<аллад>>. С. 137.
69 寺石正路『土佐偉人傳』歴史図書社、1976年、536頁。
70 安藤謙介「舊語学校回顧談」 『校友会雑誌』外国語学校校友会、1910年12月、9-12頁。『東京外国語学校官員並生徒一覧』、 1874年3月、26 頁。
71 大日本人名辭書刊行会編『大日本人名辭書(一)』講談社、1980年、110頁。
72 他に10回「安保謙介」という名が出てくるが、これは別人物とみなしておく。
73 『勝海舟全集20 海舟日記III』勁草書房、1973年、36頁。
74 同上、50、51頁。
75 神崎正誼編纂『明治十年十一月 官員名鑑 全』山口安兵衛他発行。『明治初期の官員録・職員録 第三巻 明治九−十二年』所収、 1977年、138頁。
76 『勝海舟全集20 海舟日記III』、63頁。
77 同上、178頁。
78 彦根正三編集『明治十三年十月改正 官員録』博公書院。『明治初期の官員録・職員録 第四巻 明治十三−十五年』所収、1979年、 36頁。彦根正三編集 『明治十六年十二月改正 官員録』博公書院。『明治初期の官員録・職員録 第五巻 明治十六−十七年』所収、1980年、29頁。『職員録(甲)』内閣官 報局、1886年12月、28頁。但しレンセン氏のリストでは、安藤は1877−1879年にコルサコフ領事館で「書記一等見習」、1881年にペテルブ ルグ公使館で「三等書記生」、1885年には「書記生」となっている。G.A. Lensen, Japanese Diplomatic and Consular Officials in Russia, Tokyo, Sophia University, 1968, pp. 14, 87, 169-171.
79 Биографический словарь профессоров и преподавателей Императорского С.-Петербург-ского университета за истекшую третью четверть века его существования. 1869-1894. Т. I. СПб., Типография и литография Б. М. Вольфа, 1896. С. 15.
80 西村庚「レニングラード大学の日本人講師」『文献』6、1961年12月、14頁。西村庚「レニングラードにのこる日本人講師の伝 統」『窓』10-5、 1964年5月、2-3頁。
81 Биографический словарь профессоров и преподавателей Императорского С.-Петербург-ского университета за истекшую третью четверть века его существования. 1869-1894. Т. I. С. 15-16.
82 『勝海舟全集21 海舟日記IVほか』、1973年、108頁。
83 同上、112、121、122、124、126、128、129、149、162、165、345、461、463、465、 474、599、655、 656、658頁。
84 同上、225、229頁。
85 「「閔妃暗殺」報告書を発見」『毎日新聞』、1995年6月17日。「閔妃暗殺に目撃手記」『朝日新聞』、1995年6月20日。
86 『明治人名辞典』下巻、日本図書センター、1987年、ア37頁。
87 『日本の歴代知事』第二巻(上)、歴代知事編纂会、1981年、132頁。
88 『千葉県史 明治編』千葉県、1962年、687頁。『日本の歴代知事』第一巻、1980年、801頁。
89 大日本人名辭書刊行会編『大日本人名辭書(一)』、110頁。
90 「日露協会紀事」『黒龍』17、1902年10月、62-63頁。
91 「日露協會計畫」『東京経済雑誌』1142、1902年7月26日、28頁。
92 「日露協会記事」『黒龍』16、1902年9月、63頁。「日露協会報告」『黒龍』18、1902年11月、69頁。
93 『富山県史 通史編V 近代上』富山県、1981年、531、532頁。
94 『日本の歴代知事』第三巻(上)、1982年、588頁。『愛媛県史 人物』愛媛県、1989年、32-33頁。
95 大日本人名辭書刊行会編『大日本人名辭書(一)』、110頁。
96 『日本の歴代知事』第三巻(下)、1982年、149頁。『長崎県大百科事典』長崎新聞社、1984年、899、960頁。
97 『原敬日記』第四巻、乾元社、1951年、346頁。
98 『日本の歴代知事』第一巻、982頁。『新潟県史 通史編7 近代二』新潟県、1988年、445-446、549、593-594 頁。
99 『原敬日記』第五巻、1951年、207頁。
100 『横浜市史』第五巻上、横浜市、1971年、59頁。『日本の歴代市長』第一巻、歴代知事編纂会、1983年、1039頁。
101 『日本の歴代市長』第二巻、1984年、711頁。
102 漁舟生「西眼に映せる嘉永年間の日本」『帝国文学』4-10-46、1898年10月、70-82頁。4-11-47、1898年 11月、89-95頁。 4-12-48、1898年12月、94-99頁。
103 平岡雅英訳『日本旅行記』ロシア問題研究所、1930年。
104 Иванова. Указ. соч. С. 13. 有栖川宮に図書寄贈を進言したのは西徳二郎であり、安藤は寄贈図書の整理と目録の作成にあたった、とする説もある。桜井良平「明治のロシア語 その基礎を 築いた人々〈第三回〉安藤謙介」『日本とソビエト』752、1975年6月1日、3面。
105 保田孝一「三笠宮文庫の誕生 日ソ交流の伝統に新しい血」『朝日新聞』、1978年2月24日。
106 寺石、前掲書、536頁。
107 例えば、新渡戸稲造「教育の目的」『明治文学全集88 明治宗教文学集(二)』所収、筑摩書房、1975年、233頁。
108 『愛媛県史 県政』愛媛県、1988年、198頁。檜山真一「日露戦争 ム ニコライ・ラッセルと日本」ロシア史研究会編『日露二〇〇年 ム 隣国ロシアとの交流史』所収、彩流社、1993年、126頁。
109 才神時雄『松山収容所 捕虜と日本人』中央公論社、1969年、29頁。
110 同上、40-42、60-78、97-105頁。『愛媛県史 県政』、199-200頁。また次の文献を参照のこと。才神時雄『ロシ ア人捕虜の記録』新時 代社、1973年。F. クプチンスキー著、小田川研二訳『松山捕虜収容所日記 ロシア将校の見た明治日本』中央公論社、1988年。ソフィア・フォン・タイル著、小木曽龍・小木 曽美代子訳『日露戦争下の日本 ロシア軍人捕虜の妻の日記』新人物往来社、1991年。
111 例えば次の文献を参照のこと。 Рейнгард Ф.Ф. Мало прожито - много пережито. Впечатле-ния молодого офицера о войне и плене. СПб., 1907. 邦訳は、レンガート、才神時雄編著『旅順・松山の歌』新時代社、1974年。
112 注59を参照。
113 坂本、前掲書、77、118頁。


45号の目次に戻る