SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 45号

アメリカ合衆国における ハンガリー系エスニック集団の形成と コシュート像建設運動


山 本 明 代

Copyright (c) 1998 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.

序論
1.クリーヴランドへのハンガリー王国からの移民
2.ハンガリー系エスニック集団の形成
3.ハンガリー系エスニック集団とクリーヴランド
結 論

要約

序 論


ハンガリーにおいて、農村からの人口流出が顕著になり、移民が社会的問題として浮上したのは1890年代のことである。移民の多くは急速な工業発 展により雇用が見込まれたアメリカ合衆国へと向かった (1) 。当時より、ハンガリーでは、経済学者による移民の人口統計上の影響や移民原因の分析が行われる一方、学者や新聞記者を派遣して、合衆国における移民の居 住地、職場、教会、相互扶助組織、各種文化団体活動の調査が行われた。これらの文献では、ニューヨークと並んでオハイオ州クリーヴランドが注目すべき都市 として挙げられている (2)。 世紀転換期のクリーブランドには、ハンガリー王国から来た数多くの移民が住んでいた。彼らの移民時期、移民原因、出身、階層、宗教、主として話す言語は多 様だった。
ハンガリー王国出身者はアメリカ合衆国への移住後、単一のエスニック集団 (3) ではなく、複数のエスニック集団へと分岐した。従来のハンガリーにおける研究は、この原因を本源的な「民族性」、言語、文化の相違として捉え、各エスニッ ク集団は当初から異なる集団であることを前提として移民史を構成してきた (4)。 しかし、ソラーズがアメリカのエスニック集団は移民後に新たに創造された集団であると指摘しているように (5) 、ハンガリー王国からの移民が複数の集団へと分岐した原因は、移民の中に元々内包されていたのではなく、合衆国においてエスニック集団が新たに編成される 過程の中で生み出されたのではないか。
移民集団の編成過程を分析するにあたって、まずその編成原理を解明する手掛かりとなる移民集団の文化、価値システムに関する従来の議論を確認した い。プシュカーシュは、移民諸団体の社会的活動を特徴付けていた価値システムは、新たな異郷においてより自由な接近が可能になった農民、工業労働者、中産 階級という三つの異なる社会集団の混合物であると指摘している。そして、アメリカの形式にそれを当てはめることによってホスト国の社会的規範への適応が図 られたと論じている (6)。 しかし、 プシュカーシュが指摘したように、ホスト国と移民集団の文化、価値システムは常に固定的な関係にあるとは限らない。
旧世界の文化の継承と変容をより動的なものとして捉えたのは、フェイェーシュである。フェイェーシュは、移民第1世代のアイデンティティはアメリ カの環境と 、移植・継承されたハンガリー的な価値システムとの動的な関係によって形成されたと論じている (7)。 フェイェーシュはホスト国と移民集団の文化に関しても同様に二項対立的な関係を想定し、2世代を通して移民集団の文化がホスト国の文化によって変容 <<acculturation>> されていく過程を分析した。しかし、ソラーズが指摘したように、エスニック集団が合衆国で新たに創出された集団であるとしたら、その文化はホスト国の文 化、価値システムとの二項対立的な関係の中にではなく、移民の故郷、出身国、ホスト国とその居住地という移民を取り巻く様々な関係性の中に存在しているの ではないか。
アメリカ合衆国の各移民集団の祝典を分析したボドナーは、エスニック集団の記憶の形成には集団内外の利害の関与と調整が不可欠であると指摘した。 そして、経済的、政治的目的のための祝典であっても、集団の「原初的愛着」の追求と解釈なしに人々を動員することは不可能であると指摘し、移民集団の文化 が関係性の中で創出されていく過程を明らかにした (8)。ボドナーの研究が示唆しているように、移民集団の祝典は、その集団の文化、価値システム の自己表象の場である。したがって、祝典が形作られる過程とそこにおいて表現される言説、象徴は、通常では捉えがたいエスニック集団の結合原理やその編成 過程を 可視的に呈示し、それらを解明する有効な手がかりとなるであろう。
その一例として、ハンガリー王国から多数移民したクリーヴランドにおいて1902年9月に開催されたコシュート像の除幕式を挙げることができよ う。 コシュート・ラヨシュ (9) は、ハプスブルク支配下においてオーストリアからの独立を試みた1848年革命の指導者である。コシュートは革命戦争敗北後、1896年に亡命先で死亡し たが、ハンガリーの首都ブダペストにおいて大規模な葬儀が催され、コシュートがハンガリー国民のアイデンティティの象徴であることが示され た(10) 同時期、クリーヴランドのハンガリー王国からの移民居住区においては、各エスニック集団の形成が進行していた。世紀転換直後に行われたコシュート像建設運 動とその祝典を分析することは、王国からの移民の分岐とその過程を解明する手掛かりとなるだろう。この記念碑建設運動において、コシュートはどのような象 徴として現われ、ハンガリー系エスニック集団はコシュートを通してどのような存在として自己表象したのか。コシュート像建設運動を通して映し出されたハン ガリー系エスニック集団の形成過程を考察することによって、移民集団の編成のあり方を明らかにしたい。また、これをもって移民集団とホスト国との関係形成 について一つの類型を提示したい。

1. クリーヴランドへのハンガリー王国からの移民

(1) 19世紀クリーヴランドと東欧移民

19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、オハイオ州クリーヴランドは急速な工業化と都市化を遂げた。まず初めに19世紀のクリーヴランドを概観 し、東欧地域からの多様な移民の到来とその居住地、彼らの社会的結合関係について考察したい。
クリーヴランドは18世紀末に市が創設され、創成期の住民は主としてニュー・イングランドから移住した清教徒であった。運河開通を契機として商業 都市として台頭し、1860年代には商業から工業の中心地へと移行した (11)。 1870年代以降、急激な工業発展が起こり都市化が進展した背景には、工業原料と生産物を運搬する輸送手段の発達、商取引を基盤とする金融業の発展、そし て東欧・南欧からの移民が安価で豊富な労働力を提供したことが挙げられる。クリーヴランドがデトロイト、ピッツバーグ等他の工業都市と異なっていたのは、 重工業以外にも多様な加工業が行われ、多くの熟練職人が 雇用されていた点である (12) 。1880年までにクリーヴランドは、国内有数の鉄の鋳造、ロール鉄の生産地となった (13)
工業発展に伴うクリーヴランドの都市化は1870年代に開始され、周辺地域を併合し、市域を当方へと拡大した。加えて、工業発展に導かれた労働力 需要の増大により、市の人口は1870年の92,829人から1900年の381,768人へと30年間に4.1倍になり、他方労働力人口は約5倍に増加 した。1870年には市の人口の41.8%が外国生まれとなり、その多くがアイルランド、ドイツ、ボヘミア諸州からの移民であった。その後、スカンジナ ヴィア諸国からの移民が続き、1880年代には東欧・南欧からの集団移民の流入が開始された。1890年には外国生まれ人口は総人口の37%になり、 1910年代には東欧・南欧からの移民が外国生まれ人口の57%を占めていた (14)
東欧地域からの移民の到来に先駆けて、1830年代には独立革命以前にドイツから到着した移民の子孫がクリーヴランドに流入していた (15)。 1850年代にはドイツ、ボヘミア諸州、ハンガリーから1848年革命の亡命者が家族を伴って到着した。 その後1870年代までに、ボヘミア諸州とハンガリー王国からの主としてドイツ語を話す人々、 「ユダヤ系」 (16) 熟練職人、「ユダヤ系」商人が訪れた (17) 。19世紀初頭のヨーロッパにおける交通手段の発達は、大量生産の安価な工業製品を農村へともたらし、小都市の熟練職と農村で家計補填手段として営まれて いた手工業の衰退を招いた (18) 。それに伴い、オーストリア帝国とハンガリー王国内の熟練職人とその品物を商う商人は、当時の生産形態が熟練労働者に依拠していたアメリカ合衆国へと向 かった。彼らも多くが家族を同行し、当初から永住を目的とし、短期の非熟練労働の後、熟練職に就くか事業に着手した。
1870年代以降、東欧地域からの集団移民が到着した。先行したのは、自営農民になる機会を求めてネブラスカ、アイオワ、ウィスコンシン各州へと 向かっていたボヘミア諸州と分割された旧ポーランド地域からの移民だった。移動の途上、彼らはクリーヴランドに立ち寄り、やがて定住の地として選択した (19)。当初 彼らは農場か採石場にて職を得たが、市南部のブロードウェイ地区が工業地帯として発達を開始すると、工業周辺地域へと居住地を移した。ここで注目すべき事 は、彼らがその居住区を共有していた点である。そこから、チェコ系、ポーランド系移民集団が各々集住する通りが出現したのは 1880年代のことである (20)
ハンガリー王国からの集団移民は1870年代末から到着した。集団移民は、ボヘミア諸州や旧ポーランド地域からの移民情報の伝 播に伴い、ハンガリー北東部から開始された (21) 。この地域には、主としてスロヴァキア語を話す人々が多数を占め、主としてドイツ語、マジャール語を話す人々が存在した。宗派では、ローマ・カトリック教 会、カルヴァン派教会教徒以外にも、東方帰一教会 (22) 、ユダヤ教会教徒が混住していた。主としてスロヴァキア語を話す人々は、帰国した「ユダヤ系」熟練職人、商人、主としてドイツを話す人々から情報を得て、 アメリカへ向かった。
ここで、クリーヴランドに到着したハンガリー王国からの初期の集団移民とその居住地を各移民集団の研究文献から見てみよう。ス ロヴァキア系移民集団に関する文献によると、最初の移民は1874年に単身で訪れている。次にボヘミア諸州出身の仕事斡旋人からクリーヴランドへの移民を 助言された者が、1880年に家族を伴って到着した (23) 。初期の集団移民はボヘミア諸州からの移民や「ユダヤ系」移民が既に集住していたヘイ・マーケット地区に居を定めた。
次に、ハンガリー系移民集団に関する文献によると、1870年代末アバウイ-トルナ県から集団移民が到着した。家族同伴者はボ ヘミア諸州からの移民が集住していた地区に家を借り、単身者は家族を呼び寄せるまでその家に寄宿した。他の一家は前述したヘイ・マーケット付近に居を定め た。同じくアバウイ‐トルナ県出身のある青年は1880年に一旦帰国し、共に移民するよう父親を説得した。父親は隣村に赴き、クリーヴランド在住者の住所 を尋ねた。彼らは家族を伴って移民し、住居が見つかるまで隣村出身の移民宅に寄宿した (24)
これら初期の移民には、同郷の人々の間にある情報ネットワークや社会的結合関係のあり方の一例を見ることが出来る。この結びつ きは、親族を核として、同村や同郷の範囲に及び、移民先での出迎え、当座の住まいの確保、仕事の紹介など異郷における困難な生活を相互に支援する包括的な 生活共同体であった。このように、移民先での職業や居住地の選択は、出身地における移民情報の伝播と同様に親族や同郷の人々の間で行われていた。この初期 の移民に見られた同郷者の結合関係に対して、次節で述べる居住区の形成は、東欧地域内の他の地方出身者との遭遇の機会をもたすと共に、より多元的な社会的 結合関係を生み、移民集団のネットワーク形成の端緒をなすものであった。
<図1>ハンガリー王国から海外への移民の地理的分布


拡大図(60KB)

(2) 移民とその生活世界

クリーヴランドは、中央部を流れるカイヤホーガ川を起点として東西にイースト・サイドとウエスト・サイドが広がっている。ハンガリー王国からの 移民は、こ の両サイドに居住拠点を有していた〈図2〉。 1880年代、ハンガリー王国からの集団移民の増加に伴い、イースト・サイドの中心部であるヘイ・マーケット付近、エリー湖東岸に居住していた初期の移民 は、同サイド南東部へと移動した。その地区は大規模な製鉄・鋳造工場が建ち並ぶ一大工業地帯となり、集団移民を非熟練労働者として大量に雇用した。 1881年に設立されたエーベルハルト製造会社では、ボヘミア諸州出身の鋳造部門監督の下、ハンガリー王国からの移民が多数働いていた(25)。集団移 民の大半が居を定めたバカイ・ロード地区は、ハンガリー王国からの移民が、ボヘミア諸州からの移民と共有する居住区であった(26)。そし て、その周辺には、工場で働く住民向けの商店、診療所、外貨交換・送金、船切符を手配する代理店等が立ち並んだ。これらの大半は、蓄財をし、事業を始めた 初期の移民やその子弟によって経営されていた(27)。 集団移民は、負債精算、家の改築、土地購入等の蓄財を目的とし、多くが単身で訪れた。数年での帰国を予定していたため、より良い雇用条件を求めて頻繁に移 動を行った。移民は、まず親族や同郷の知人を寄宿先として頼ったが、そのような手だてがない者は通じる言語いかんによって他の東欧移民と同じ宿舎に宿を求 めた。初期に到着したハンガリー王国からの移民の中には、旧ポーランド地域、ボヘミア諸州出身、あるいはドイツ系移民によって経営されていた宿舎に宿を探 した者もいた(28)。 他方ウエスト・サイド側には、1870年代までに到着したハンガリー王国からの熟練職人が、ドイツ、ボヘミア諸州からの熟練労働者と共に居住していた(29)。ウエス ト・サイドには、アバウイ‐トルナ県出身で後に商工会議所の会員となったクンツの工場があった。クンツは小規模な作業場から始め、工場の規模拡大に伴い出 身村や近隣から熟練職人を呼び寄せた(30)。 ウエスト・サイドには、イースト・サイドに見られたような王国からの移民が集住した通りや地区は形成されなかった(31)。 両サイドのハンガリー王国からの移民は、ほとんど相互交流もないままに各々の生活圏に居住していた(32)。両者 は、熟練労働者、非熟練労働者という当該時における職種の相違以外にも、移民前にも熟練職人、小農、農業労働者という異なった社会階層に属し、生活様式や 価値観も異なっていた。その上、異なるルートによりクリーヴランドに到着し、各々の職場周辺に居住していたため、相互の交流は生じなかった。初期の段階に おいて、ハンガリー王国からの移民の居住区における社会的結合関係は、言語や「民族」を単位としたものではなく、同郷の人々の繋がりと移民後の生活の共有 によって形成されていた。しかし、この関係はより良い生活や雇用条件を選択し、移民によって社会的上昇を目指す人々の政治の場でもあり、階層間の対立も内 包されていた。やがて移民が増加し、教会、相互扶助組織、文化団体活動が形作られていく過程において初めて、特定の言語や文化を掲げる諸集団が次第に明確 な輪郭を持って出現したのである。

<図2>クリーヴランドの各移民集団の居住区(1880-1920)

拡大図(90KB)

2. ハンガリー系エスニック集団の形成

(1) 教会、相互扶助組織、文化団体活動

移民は、生活上の困難に際しての相互支援、職場以外の人的関係の形成、信仰活動の維持を目的として、相互扶助組織、文化団体、信徒団を結成し た。本節では これらの組織が基盤となり、ハンガリー系エスニック集団が形成されていく過程を考察したい。 クリーヴランドにおけるハンガリー王国からの移民初の組織は、1863年に「ユダヤ系」の人々により創設されたハンガリー人援助協会である。この協会は王 国からの移民の交流を深め、後続の移民を支援する目的で結成された。初期の会員の多くは、次第に事業家としての地盤を築き、それに伴い協会の名称も 1881年にはハンガリー人慈善・社交協会へと変わった(33)。 ハンガリー王国からの集団移民による最初の相互扶助組織は、1886年のバッチャーニ・ラヨシュ伯爵協会である。親類縁者のいない移民男性の死亡により相 互扶助組織の必要性が痛感され、病気の際の援助金、葬儀費用の支援を目的としてこの協会が結成された(34)。この組 織は職場、宗教組織からは独立して運営され、その後、同種のズリニィ・ミクローシュ疾病協会、コシュート・ラヨシュ協会が結成された。 ハンガリー王国からの移民の間には、移民を多数輩出した地域の宗派の多様性を反映して、クリーヴランドにおいても多様な宗派の信徒団が誕生した。1850 年代以降に到着したハンガリー王国からのユダヤ教徒は、ドイツ系ユダヤ教会に合流せず、1866年に独自の信徒団を結成した(35)。この信 徒団はハンガリー系信徒団であることを自他共に認めていたが、その信徒団の議事録や信徒団に併設された学校においてはマジャール語ではなく、ドイツ語か英 語が使用されていた。しかし、1900年代初頭までに「ハンガリー文化」やマジャール語を保持、表象する集団へと変質していた(36)。 東方帰一教会の活動においても同様の傾向が見られた。1891年に東方帰一教会信徒18家族が疾病扶助協会を結成した後、ハンガリーから神父が呼ばれ、3 年後に信徒団が正式に設立された。この教会の主たる成員はハンガリー王国において「ルテニア人」(37) と称されていたが、信徒団の若者サークルでは次第に「ハンガリー文化」の表現、維持が義務となった(38)。 さらに、ハンガリー系信徒団の具体的な形成過程をローマ・カトリック教会信徒団に見ることが出来る。1888年、イースト・サイドにおいて、主としてスロ ヴァキア語を話す多数派と主としてマジャール語を話す少数派により信徒団が結成され、間もなく教会堂も建設された。礼拝は両方の言語で行われていたが、あ る相互扶助組織の旗の奉納式をスロヴァキア語で行ったことから紛争が持ち上がり、教会は二つに分裂した。その後間もなく別の神父が呼ばれ、ハンガリー系信 徒団の教会堂が建設された(39)。 このようにして、当初王国からの移民が形成した単一の信徒団は分裂し、ハンガリー系とスロヴァキア系の二つの信徒団が結成された。信徒の多くが多言語地域 ハンガリー北東部出身者であり、移民の教会では教義自体よりも故郷と同様の礼拝形式が重要視されていたことを考慮すると、彼らがどちらの信徒団に所属した かは、必ずしも主として話す言語に拠っていた訳ではない。理解可能な言語と礼拝形式、そして第1章で考察した移民居住区における社会的結合関係に準じて選 択がなされたものと見るべきであろう。 次にプロテスタント教会信徒団であるが、クリーヴランドのハンガリー系信徒団はアメリカ合衆国において初めて、1890年に結成された(40)。結成に はドイツ系カルヴァン派教会の支援を受け、公会議の決定に基づき本国から牧師が呼ばれた。その牧師は、当初ウエスト・サイドにおいて教会堂建設を試みたが 信徒の賛同を得られず、イースト・サイドに移り、1894年に教会堂を完成させた(41)。カルヴァン派教会はハンガリー王国においても、ハプスブルク家のローマ・カトリック教 会に対抗して、ハンガリー国民としての意識を促す場を形作っていたが、アメリカ合衆国の移民コミュニティにおいても同様の役割を果たした。 各宗派の信徒団は教会堂建設を目的として結成されたが、その本来の目的を遂げると、信徒団が母体となり相互扶助組織、諸文化団体へと発展した。信徒団から 派生した組織以外にも、非宗教的な合唱団、読書、演劇、運動クラブ等様々なサークルが誕生した。1891年には若者協会と演劇協会が結成された。この若者 協会は、イースト・サイドのハンガリー王国からの移民居住区において、1848年革命を記念する祝典を主催し、ハンガリー系移民集団の文化活動において中 心役割を果たした。演劇協会は合唱団と共に、ハンガリー系諸団体の集会の席上、1848年革命劇を上演し、ハンガリー国歌やフォークソングを合唱した(42)。ハンガ リー王国からの移民は、これらの協会や集会においてハンガリー各地方のフォークソングを歌い、修得し、各自が元来個別に有していた地域ごとの多様な民俗的 慣習を「ハンガリー文化」として受容し、それを自らのものと認識する感性を育んだのである。 ここで、文化団体活動の場と各宗派の教会堂所在地を確認すると、1890年代以降ハンガリー系移民集団の拠点が熟練労働者が多数を占めていたウエスト・サ イドではなく、非熟練労働者が増加したイースト・サイド側において形作られつつあることがわかる。イースト・サイドには、初期に移民し、社会的上昇を遂げ た商店主や事業主が、ハンガリー系移民諸団体のリーダーとしての役割を担っていた。移民コミュニティのリーダーに関しては、第3章で考察したい。 教会、相互扶助組織、文化団体は、移民を男性、女性、若者別に組織し、従来の親族や地縁的結びつきとは切れた別の社会的関係を形成した。さらに文化活動を 通して各自が移民前に有していた地域ごとの多様な民俗的慣習を「ハンガリー文化」へと置換し、加入した人々の生活上の必要性、故郷へのノスタルジー、習慣 の継続といった素朴で即物的な加入の動機を越えて、ハンガリー王国からの移民を特定の言語や文化を掲げる集団へと結集させることになった。そして、第1章 で述べたように同郷の人々の繋がりと移民後の生活の共有によって形作られた人的関係と社会階層ごとの生活圏に居住していた人々をハンガリー系エスニック集 団の成員へと組織化した。このようなハンガリー系エスニック集団の形成過程は、次節以下で論じるコシュート像建設運動を通してより具体的に見ることができ る。

(2) コシュート像建設運動

クリーヴランドのコシュート像建設運動に先行して、1894年のコシュートの死と前後する時期に、ニューヨークにおいて同種の運動が行われた。 運動を担っ たのは、ハンガリーの1848年革命の亡命者や初期に移民し、すでに中産階級を形成していた人々であった。しかし、彼らはこの運動を集団移民や他の都市の ハンガリー系諸団体へと拡大することも、市の政治リーダーや住民の関心を獲得することもできず、像建設運動は失敗に終わった(43)。 クリーヴランドにおけるコシュート像建設運動は、ニューヨークにおける運動とは異なり、合衆国全土のハンガリー系諸団体や集団移民に運動を広めると共に、 ハンガリー本国にも働きかけを行い、同時にクリーヴランド市の政治リーダーとも連動して展開された。 コシュートは、1848年革命戦争の敗北後、亡命し、1851年から翌年にかけてハンガリー独立運動への支援を求め、アメリカ合衆国を訪問していた。民主 党内部の「ヤング・アメリカ」派が、翌年の国政選挙に向けて、従来の孤立主義からヨーロッパの共和主義者との連携へと外交政策の転換を訴えており、コ シュートのアメリカ・ツアー全体を通して支持母体となった(44)。コシュートは合衆国の17州と多くの都市を訪れ、「自由の擁護者」として、ニューヨー クを中心に熱狂的な歓迎を受けた(45)。 クリーヴランドには1852年1月から2月にかけて5日間滞在し、市が開催した歓迎祝典では大衆的規模の人気を博した(46)。 コシュートの訪米の目的は、アメリカ合衆国政府と世論に、イギリスと結束して、オーストリア・ハンガリー帝国へのロシアの干渉を防ぐようアメリカ合衆国の 外交政策の転換を訴え、ハンガリー独立運動への資金援助を求めることにあった。しかし、合衆国政府は、南北戦争前夜の複雑な国内情勢下、コシュートを国賓 として歓迎はしたが、具体的な支援を約束することはなかった。さらに、コシュートの訪米は奴隷制廃止論者から大きな期待を持たれていたが、コシュートは合 衆国の内政問題であるとして、奴隷制度に関するコメントを避けた。そのため、奴隷制廃止論者からの激しい抗議と批判を受けたコシュートは失意のうちに合衆 国を去っていた(47)。 約半世紀後、クリーヴランドにおいてコシュート像建設運動の発端となったのは、国防退役軍人会の1901年7月例会であった(48)。その会 は、1848年ハンガリー独立革命の亡命者が中心となり、1890年代に結成されていた。例会の席上、コシュートの生誕100周年と訪米50周年を祝い、 クリーヴランド滞在を記念するプレートの設置が提案された(49)。しかし、資金上の問題のため、クリーヴランドの主要ハンガリー系諸団体に呼びかけ、8 月末、第一回共同集会が開催された。会場には、国防退役軍人会と前節で述べた初期に結成されたハンガリー系社交団体の代表が集合し、クリーヴランドにおい て初のハンガリー系諸団体を統合するハンガリー人団体連合委員会が結成された。選出された会長が記念碑建設の提案を行うが、決定には至らず、1848年革 命記念日である10月6日と3月15日(50) に資金集めの祝典を開催することだけが決定された。 10月の祝典においてコシュート像建設が決定された。その提案を率先したのは、ハンガリー王国出身者ではなく、来賓の市の選挙委員であるドイツ系弁護士ポ ルナーであった。その弁護士は、クリーヴランドのアメリカ人のサークルにおいて既に話題に上っていることを示唆し、記念碑の建設は「ハンガリー人の名誉に 関わることである」と述べた。それを契機として、コシュート像建設が決定された(51)。 像建設運動の組織化は中心組織の再編とマジャール語新聞等のメディアを介して行われた。団体連合委員会はコシュート像建設委員会へと再編、拡大され、大委 員会、顧問委員会、実行委員会が設置された。大委員会には、医者、弁護士、前節で述べたクリーヴランド若者協会の初代会長、マジャール語新聞の発行人等ハ ンガリー系中産階級が選出され、像建設運動を総括する役割を担った。顧問委員会にはクリーヴランドの政財界で活躍し、名士層に加わる事業家、商工会議所の 会員、弁護士を選び、委員会に権威を与えると共に、市の政治リーダーとの仲介、スポンサーとしての役割を求めた。そして、教会、文化団体活動のリーダーで あるカルヴァン派牧師、クリーヴランド若者協会、演劇協会の会長を実行委員とした。このようにして、委員会の再編は、コシュート像建設運動を通して階層も 居住区も異なるハンガリー王国からの移民が有機的に編成されていく過程を示していた。像建設運動と市の政治リーダー、市政との関連性については第3章で分 析したい。 コシュート像の資金調達は、運動を担うハンガリー系諸団体や個人からの寄付以外に、マジャール語新聞とパンフレットを介して進められた。マジャール語新聞 「自由」紙の編集長コハーニは、当初像建設運動の方針を批判し、独自の募金活動を開始した。コハーニは、資産家からの寄付ではなく、工場や炭鉱労働者の貴 重な浄財によりコシュート像を建設し、ハンガリー系移民の分断ではなく、相互理解の印とすることの重要性を訴えた。新聞には合衆国全土から数セント単位の 募金が寄せられ、コハーニも募金者の名前を詳細に報じることによって応えた。コハーニの活動は、教会、相互扶助組織、文化団体活動の諸団体を基盤とする像 建設委員会の方針では擦り抜けてしまう集団移民や諸団体の活動に加わらない人々に募金活動を浸透させた。そして、集団移民の少額の募金に大きな価値を与 え、像建設運動への参加を促したことは、運動の拡大と浸透に大きな役割を果たした。 さらに、コハーニは募金と共に送付された手紙の抜粋を新聞紙上において紹介し寄付を効果的に呼びかけた。これらはコハーニによって弁別的に掲載されたもの ではあるが、集団移民のコシュート観や運動への参加の意義を読みとることが出来る。ある男性は、「我々貧しい移民がハンガリーの首都に先んじて、永遠に残 るコシュートの記念碑を建てることが出来たら(52)」 と記し、像建設運動への参加は「ハンガリー人の証明」であると表明している。募金を寄せた集団移民は、運動の一方的な受信者ではなく、コシュートを介して ハンガリー国家と繋がり、その歴史と文化を共有する栄光ある「ハンガリー人」であることを表明する機会と見なした。そして、自ら職場や親族の間で募金を集 め、新聞へ投稿をすることによって、運動の発信者としての役割を担った。コハーニの活動は、後に像建設委員会と合流し、ニューヨークにおける運動では顧み られなかった集団移民を運動へと組み込むことに成功した。 像建設委員会はこの運動を合衆国内に留めず、ハンガリー本国にも働きかけを行った。運動の核となるコシュート像は、新たにアメリカで製作されたのではな く、ハンガリーのナジサロンタ (現ルーマニアの Salonta ) の像の型から鋳造され、運搬された。実行委員のカルヴァン派牧師がこの仲介をデブレツェンのカルヴァン派司教に求め、ハンガリーでは独立・48年党党員が 像の搬送を見守った。さらに、委員会はハンガリー全県に回覧書簡を送付し、各県の歴史的に有名な土地から一袋の土を送るよう求めた、トランシルヴァニア地 方の2県を除く全ての県から、1848年革命の戦場の土やハンガリー国民史にその名を記す土地の土が届けられた。各県の知事、副知事からは公式書簡も届い た。その内の一つは、この土が意味するものを示唆している。「コシュートのブロンズ像の下で、自由を愛する二つの国民ハンガリー人とアメリカ人の血で聖化 された土が混ざりますように(53)」。 別の1848年革命の戦場となった県からは「この土は、ここから遠く引き裂かれた同胞の心へと結びつける留め金になりますように(54)」という 言葉が寄せられた。像建設委員会は、ハンガリーからコシュート像と土を取り寄せることによって、王国からの移民をハンガリー系エスニック集団として結集す る運動の源泉を、ハンガリー国民の歴史と神話的記憶に求めた。そして、コシュートが指導した革命とコシュートへの崇拝をハンガリー王国の人々と共有するも のとして認識させ、ハンガリーとの繋がりを確認させることを意図した。 像建設へ向けた具体的な作業も進行した。クリーヴランド市の公共事業局長との会談により、像の設置場所には市の中心地パブリック広場が選定された(55)。像の運 搬と免税措置が市当局、下院議員、アメリカの船会社の協力の下、遂行されることになった。さらに、イタリア領事とドイツ系団体が運動への参加を表明した。 これらのことは、後に市を挙げて盛大に祝われた除幕式のあり方が運動の過程において既に形作られつつあることを示していた。 コシュート像建設運動は、教会、相互扶助組織、文化団体活動の組織、職場、新聞などを媒介にして、移民の時期、出身地、宗教、職業、居住地等が異なるハン ガリー王国からの移民を組織化した。像建設運動は、進行しつつあるハンガリー系エスニック集団の形成過程を可視的なものとして示していた。

(3) 運動への抗議

1902年7月下旬、スラヴ系代表団がジョンソン市長(56) を訪問し、パブリック広場へのコシュート像設置に対して抗議活動を行った(57)。その中 心となったのは、ローマ・カトリック教会のスロヴァキア系、チェコ系主任司祭であり、次のような抗議を表明した。「コシュートはスラヴ系の血を引きながら その人種を裏切り、『マジャール人』貴族となり、遂にハンガリーの独裁者となった。コシュートは無慈悲にも『マジャール人』と同等の権利を要求した多くの スラヴ系の人々を処刑した(58)。」 さらに、クリーヴランドにはハンガリー系に比して5倍のスラヴ系住民が居住していることを付言した。
続いて、ジョンソン市長の下には、スラヴ系諸団体から抗議文書が届いた(59)。あるスラヴ系団体は、「マジャール人」が「ハンガリー人」という虚偽の名の下に祝典開 催を意図していると批判し、アメリカ合衆国において「ハンガリー人」の名称は「マジャール人」のみが専有すべきでないと指摘した。
これらの抗議に危機感を抱いた像建設委員会は急遽、集会を開いた(60)。その会に出席したジョンソン市長は、像の設置場所を市の中心部パブリック広場から、人 口増加と共に発展を続けている市の東部への変更を提案した。最終的な決定は市議会に委ねられ、後日パブリック広場への設置許可は否認された(61)
スラヴ系諸団体の抗議活動によって、コシュート像はメイン・ストリートに面する市郊外の緑地帯に設置されることになった(62)。50年 前の訪米時、コシュートは「自由の擁護者」として熱狂的に歓迎された。そのため、スラヴ系諸団体が訴えた抑圧者、独裁者としてのコシュートのイメージはク リーヴランド市民に衝撃をもって受け止められた。しかし、コシュートへの評価を巡る議論が加熱したり、訪米当時の奴隷解放論者からの批判が想起されたりす ることを避けるため、スラヴ系諸団体が反対していたパブリック広場から像設置場所が変更されたのである。そして、仲裁に立った市長はこの変更に将来の住民 の中心地となる市の東方という積極的な意味を与えた。
コシュート像建設運動の抗議の先頭に立ったフルデク司祭は、1882年にチェコ系ローマ・カトリック教会の司祭としてクリーヴランドに赴任した。 フルデクは、第2章第1節で述べた後に分裂したローマ・カトリック教会信徒団の教会堂建設に寄与している(63)。スロ ヴァキア語新聞の発行、スロヴァキア系相互扶助組織の設立を行ったフルデクは、当初ピッツバーグを拠点とするロブニアニュクの急進的な組織とは対立してい た。しかし、1900年第一カトリック・スロヴァキア人協会の国民基金(64) 設立を契機として、ロブニアニュクに接近し、両者はアメリカ合衆国におけるスロヴァキア系エスニック集団形成とハンガリー王国内のスロヴァキア国民形成運 動を目的として連動していった(65)
ハンガリー王国からの移民がかつて共有していた居住区から生まれた複数のエスニック集団は、コシュート像建設運動を巡ってその集団の存立根拠を鮮 明にし、対抗し合う集団として立ち現れた。そして、コシュートは各々の結合原理に従って論じられたばかりでなく、「アメリカの理念」を巡って「自由の擁護 者」あるいは「抑圧者」という全く相反する存在として論じられ、コシュートを介して互いに自らの正統性が主張されたのである。

3. ハンガリー系エスニック集団とクリーヴランド

(1) シンボルとしてのコシュート

コシュート像除幕式の祝典は、1902年9月27日、28日の両日に亙って開催された(66)。パレードには総勢8,000人以上が参加し、除幕式典には市長を始め、上院議員、下院 議員、州知事も列席し、60,000人もの見物客が集まった。クリーヴランドにおいて、コシュート像建設運動が広範囲な人々の関心を集めて成功したのは、 コシュートがハンガリー系移民集団にとってだけではなく、市の政治、文化リーダーにとっても有効なシンボルでありえたためである。ここでは、除幕式の祝典 において演出されたハンガリー系諸団体の自己表現とコシュートに付与された象徴の意味を祝典の表象と言説から分析し、次節ではコシュート像建設と祝典の意 義を市政の側面から考察したい。
除幕式のパレードは、呈示する対象を明確に定めたコースが設定された。パレードはパブリック広場から出発し、市役所の前を通り、富裕層の邸宅が立 ち並ぶユークリッド・アベニューを東進した〈図2〉。そのパレードにおいても、初日のオープニング・セレモニー会場においても、ハンガリー国旗は常に星条 旗と共に用いられた。軽騎兵の一団は赤と青の星条旗色の衣装を身につけていた。このことは、市への忠誠を明示するためという像の設立申請の文面や像建設委 員会会長が述べた「像の献納は二つの国の輪が溶け合うような偉大な出来事(67)」という開会の辞に呼応して除幕式の舞台が準備されたことを示している。
除幕式のパレードは、教会、相互扶助組織、文化活動諸団体により演出、構成されていた。パレードにおいて観衆の注目を集めたハンガリー大平原プス タの馬飼いと住民の扮装は、ハンガリー王国からクリーヴランドへ到来した多くの移民の出身地であるハンガリー北東部の生活習慣とは全く関連性のない「ハン ガリー文化」なるものを表象していた(68)。 これは第2章第1節で述べたように、ハンガリー王国からの移民がアメリカ合衆国における様々な文化団体活動を通して獲得したものに他ならなかった。
そして、この「ハンガリー文化」は山車の少女達の衣装にも表現されていた。ハンガリーのいかなる地方においても国旗色の衣装は使用されていない。 国家としてのハンガリーを象徴した衣装を纏った幼い少女達に従われて、中央には自由の女神に扮した女性が位置していた。ここに、自由と民主主義の国アメリ カの優位と、それらの原理が未だ成熟していないハンガリーから来た幼子の移民という、象徴的な構図が描き出されている。また、少女達が表象する「ハンガ リー文化」はアメリカのシンボルと共存し、さらにその崇拝者であることも暗示している。そして、ハンガリー系諸団体が除幕式のパレードで表現したこの構図 によって、移民後に作り出された「ハンガリー文化」はアメリカの価値に相応しく形作られ、アメリカの理念とも重なりうることが明示されていた。
さらに、コシュート像自体もアメリカの国旗に包まれていた。年老いた1848年ハンガリー独立革命時の戦士がコシュート像を覆っていた星条旗の幕 を下ろした。この儀式は、コシュートがハンガリー系エスニック集団のヒーローから星条旗の中から生まれたアメリカの理念を体現するシンボルへと転換したこ とを象徴的に示していた。この祝典に参加した王国からの移民は、コシュートを通して、アメリカの理念を掲げる「ハンガリー系アメリカ人」として自らを呈示 した。この点については、除幕式の開会の辞として語られた「像をハンガリー人としてではなく、ハンガリー系アメリカ人として献納するのである(69)。」とい う像建設委員会の会長の言葉とまさに呼応していたと言える。
コシュートは、訪米時に、専制君主や絶対主義から人々を解放する欧州の自由主義者の代表として、アメリカ合衆国の人々のアイデンティティの源泉で ある「自由の擁護者」としてのイメージを獲得した。50年後、クリーヴランドにおいてコシュートはアメリカの政治リーダー、中産階級の要請に従って語られ た。コシュートはアメリカで享受される「自由」、市民の義務と法律による制限を伴う「自由」への貢献者である。それ故、コシュートの「進歩的思想」、「愛 国心」と共に、その像は次世代へと伝える指標になると強調された(70)。世紀転換期のクリーヴランドにおいて、市の政治リーダーは、多様な価値観を有する移民 の合衆国市民への統合を共有する利害として有していた。彼らが要していたのは合衆国への「愛国心」と統合に寄与するシンボルであったため、体制の変革者で あるコシュートの一面は危険な要素として読み替えられていた。
ハンガリー系移民集団はコシュート像建設運動に加わり、コシュートを通してハンガリー国家とその歴史、文化と繋がる栄光ある「ハンガリー人」とし て自己確認した。同時に、クリーヴランドの政治リーダーが求めた「自由」、「愛国心」、「発展」というコシュートのイメージも、彼ら自身がアメリカ合衆国 への移民に求めた価値観と重なり、共有するシンボルとして同意した。
コシュートは1902年のクリーヴランドの現在が求めたシンボルに他ならなかった。
<図3>クリーヴランドにおけるコシュート象の除幕式 1902年9月28日


典拠:Kende Geza, Magyarok Amerikaban,U,Cleveland,1927,p.222.

(2) クリーヴランド市政と東欧移民

コシュート像が19世紀末のニューヨークにおいてではなく、1902年のクリーヴランドにおいて建設された理由は、都市の政治、社会構造、移民集 団の社会的進出の点から探ることが可能だろう。ここでは、クリーヴランド市の政治リーダーと東欧移民の関係を探り、コシュート像建設運動の展開と市政との 関連性を考察したい。
急速に発展した工業とそれに伴う都市化によって生じた様々な経済的、社会的問題の解決は、20世紀初頭の合衆国各地において深刻な政治課題であっ た。クリーヴランドにおいて、それを解決すべく革新主義の政策と共に市の政界に登場したのは民主党のジョンソンである。1901年に市長に当選すると、汚 職、独占事業の打倒に挑み、市街電車の低料金化、税制改革を実現した。公園や公衆浴場を設置し、貧窮者の救済等社会サービスの向上を図った。さらに、政党 ボスとマシーンの撲滅を宣言し、自らはテントで移動する対話集会を開催し選挙戦を戦った(71)
このような試みにも関わらず、世紀転換期のクリーヴランド政界は政党マシーンとボスが機能し、民主党と共和党は「移民票」の獲得を巡って争ってい た。共和党は主として「ワスプ」、中産階級を支持基盤にしていたが、帰化した移民票の獲得には、ロシア・「ユダヤ系」出自のバーンスタインとその後を継承 したドイツ・「ユダヤ系」のマシュケが政党ボスとして勢力を伸ばしていた。彼らはジョンソン市長治下には影響力を低下させたが、ジョンソンが5度目の再選 を目指した1909年市長選においてドイツ系候補を立て、それまでジョンソンの強力な支持基盤であったドイツ系市民票を獲得し勝利した。他方、民主党は中 産階級、帰化した移民を主たる支持基盤とし、東欧地域出身では特にチェコ系、ポーランド系、クロアチア系市民から強力な支持を受けていた(72)。ハンガ リー系市民も多数が民主党支持者であり、第1章第2節で述べたクンツが政党ボスとしての機能を果たしていた(73)
クリーヴランド市政への東欧地域出身市民の進出は、ハンガリー系が先行していた。1850年代初頭に移民した1848年革命亡命者の第2世代であ るブラックが大学教育を受けた後、1881年には市議会に当選し、その後民主党市長治下において消防局長を務めた(74)。コ シュート像建設運動が行われた1901年から1902年当時、ハンガリー系は市議会に議席を有してはいなかったが、ジョンソン市長治下に活躍した青年政治 改革集団のリーダーがハンガリー系移民第2世代であった。チェコ系、ポーランド系市民の市政進出は1910年代以降、スロヴァキア系は1920年代以降と なる(75)
次に、ハンガリー系移民集団と市政、政治リーダーとの関連性をコシュート像建設運動組織とその展開から考察したい。第2章で指摘したように、像建 設運動はその開始当初から市当局の選挙委員、公共事業局長との関係の中で進行した。上述したようにブラック、クンツに代表されるハンガリー系移民集団リー ダーと民主党との密接な関係が市当局との連動を可能にした。ブラックとクンツは、像建設委員会において各々顧問委員会会長、主会計に選出されていた。この 運動の翌年1903年の州知事選出馬を目指していたジョンソン市長にとって(76)、重要な票田であるスラヴ系諸団体の抗議は看過することのできない問題となった。そこ で、ハンガリー系移民集団を譲歩させ、その代わりにコシュート像に市の「発展」という新たな意味づけを行った。
像建設運動の過程において再編された像建設委員会の構成が示しているように、移民集団のリーダーは各々異なる機能を果たしていた。運動の実務を 担ったのはハンガリー系諸団体のリーダーである。その一人が1880年代初頭に移民し、移民居住区において商店を営むワイザーである。ワイザーは早期に合 衆国市民権を獲得した後、政治クラブを結成した。そして、移民の英語習得、市民権獲得を促進させ、政党ボスとしてのクンツを支えていた(77)。このワ イザーに代表される自営業者は、経済活動を移民居住区に依拠し、移民コミュニティにおける影響力の確保を目指していた。この移民第1世代を中心とする自営 業者に加え、聖職者、マジャール語新聞編集者が移民集団の文化リーダーとして、市の政治リーダーと繋がるハンガリー系名士層、中産階級と協同し、ある時は 対抗しつつ、エスニック集団内部の活動において具体的な方向付けを行っていた。
コシュート像建設運動が行われた1900年代初頭、ハンガリー系のみならず、ポーランド系、チェコ系、スロヴァキア系市民(78) も民主党市長ジョンソン支持者であった。しかし、各スラヴ系移民集団に先駆け、その抗議にもかかわらず、ハンガリー系移民集団の祝典が市を挙げて開催され た。それを可能にしたのは、前節で考察したシンボルとしてのコシュートの有効性以外にも、他の東欧移民集団に先行したハンガリー系市民の市政への進出、政 党ボスの存在、移民集団内部において異なる機能を果たし、協同する第1世代と第2世代のリーダーの存在であった。これらがニューヨークではなく、20世紀 初頭のクリーヴランドにおいてコシュート像建設運動が成功した理由でもある。


結 論

クリーヴランドにおけるコシュート像建設運動は、ハンガリー本国、クリーヴランド市政、スラヴ系諸団体、移民集団内部の諸階層とそのリーダーと いった様々な関係性の中において進行した。
運動の正統性の源泉は故国に求められ、出身地、宗教、階層が異なる人々を対抗関係を越えて結集する核とした。この運動の源泉となったコシュートは 「原初的愛着」としてハンガリー系諸団体の成員や集団移民によって解釈されたが、客観的には本源的なものではなかった。むしろ、移民後の教会、相互扶助組 織、文化団体活動を通して創出された「ハンガリー文化」と相似を成すものであった。祝典において示されたように、この「ハンガリー文化」はコシュートと同 様、ホスト国の規範に相応しく形作られていた。
ハンガリー系名士層、中産階級層、諸団体のリーダーは、教会、相互扶助組織、文化活動諸団体を通して組織化されつつあるハンガリー王国からの移民 を一つのエスニック集団として結集し、呈示する機会をこの運動に見い出した。既に市の政治リーダーの一部であった移民第2世代と移民集団内の第1世代の政 党ボスの存在は、市政を担う民主党政治リーダーと連動して運動を展開する可能性を開いた。彼らが祝典において「良きアメリカ市民」としてのハンガリー系移 民集団を呈示することは、自集団内の成員だけでなく、他の移民集団のアメリカ化をも促進し、自らの政治的、社会的基盤を増強するものであった。
ハンガリー系移民諸団体の成員はこの運動に参加し、コシュートを通してハンガリー国家と繋がる「ハンガリー人」として自己確認し、同時に「アメリ カの理念」を掲げるハンガリー系アメリカ人としてのアイデンティティを表現した。「良きアメリカ市民」としての自己表象は彼らが移民に求めた社会的上昇の ためには不可欠なものであり、ハンガリー系エスニック集団への参加は彼らにとっても利害に関わることであった。
移民がホスト国社会の成員となる回路であるエスニック集団は、他の集団との相互関係の中に存在していた。ハンガリー系エスニック集団は、コシュー ト像建設運動を巡る状況において、その集団の境界を規定した。スラヴ系諸団体は、この運動と「ハンガリー国家性」の専有に対して抗議の声を上げたが、それ は彼ら自身のエスニック集団の存在とその正統性を主張し、集団内部の結集を図る機会でもあった。境界の規定により生じた対抗関係において、両集団はホスト 社会における自らの位置づけを行ったのである。アメリカ社会におけるエスニック集団としての存在承認のために取り出されたコシュートは、他の集団との差異 化を導くことになり、それがハンガリー王国からの移民のホスト国における分岐を起因させたのである。

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