新しいセンターは大講座としての4部門(地域文化・国際関係・生産環境・社会体制)と情報資料部、事務部からなり、運営組織として組織や人事、 予算などに関する事項を審議する協議員会(学内組織)と、研究・事業計画等を審議する運営委員会(学外各界代表者を含む)がおかれました。さらに93年、 皆川修吾センター長のもとで民族環境部門が増設され、専任教授11、客員教授3、外国人研究員3、情報資料部助教授1、助手2、事務官3という現在の定員 構成となりました。また施設のスペースも見直しの対象となり、94年には増築の結果として、従来法学部とセンターとが同居していた法学部研究棟の一角の5 つのフロアー全部が、センターの研究空間として利用できることになりました。
この改組を機にいくつかの新しい活動が導入されました。90年にはソ連科学アカデミー極東支部極東諸民族歴史・考古・民族学研究所、91年には ソ連科 学アカデミーアメリカ・カナダ研究所との間に学術協定が結ばれ、毎年度の研究者の相互派遣が始められました。91年には各研究員の活動の相互評価のため に、研究員の提示する論文を専任全貝と外部のコメンテーターが合評する「専任研究員セミナー」が行われるようになりました。部門の位置づけも検討され、 90年度からセンター全体の共同研究に加えて、各部門(専門)単位の共同研究プロジェクト(18)が開始されました。これにともなって共同研 究員も、いずれかの部門に所属して研究プロジェクトに参加するという理念が打ち出されました。
日本の研究状況の検討も継続され、92年2月の冬期研究報告会では川端香男里、木戸蓊、和田春樹、佐藤経明各氏をパネリストとする円卓討論会「ペレス トロイカとわが国のソ連東欧研究:反省と課題」(司会 伊東孝之)が行われて、ソ連邦崩壊後の視点からわが国のスラブ地域研究史への反省的検討が行われました。同会での伊東の問題提起には、情報システムの貧困 といった研究体制の問題ばかりではなく、従来の日本のスラブ研究におけるイデオロギー的な呪縛、研究対象の枠組み設定における保守主義的傾向、研究の方法 論の硬直性など、ペレストロイカ以降の動きによって改めて突きつけられた研究者の姿勢の問題が盛り込まれています(19)。またこの時期以降センターは文部省管轄の 研究機関の全国組織「文部省所轄ならびに国立大学附置研究所長会議」の構成員となり、研究所が一般に持つ問題、あるいは諸方面の地域研究機関の協力の可能 性といった具体的問題について議論する場も開けてきました。93年度からはセンターの活動を総合的に見直す自己点検評価活動が開始され、2年毎に報告書を 発表することとなりました(20)。
94〜95年には、センター40周年記念の一環として、原暉之教授を編集代表とする全8巻のスラブ地域に関する論集『講座スラブの世界』が 弘文堂から出版されました。 延べ105名の執筆者 による同講座は、日本では初めての総合的なスラブ地域紹介文献となりました。また95年度からは皆川修吾教授を代表者として3年度にわたる重点領域研究 「スラブ・ユーラシアの変動:自存と共存の条件」(21)が 始められました。これは全国の数十名の研究者による10を越える研究チームにより、旧ソ連・東欧諸国の現状と歴史的背景を、政治・経済・文化の各視点から 分析する企画です。この総合的な共同地域研究は、スラブ世界の現在を照らし出すと同時に、センターの今後の活動と組織改革のための指針を与えるものと位置 づけられました。
さらに95年度から、センターは文部省「中核的研究機関支援プログラム」の対象となり、「研究高度化推進経費」「外国人研究員経費」「非常勤研究員経 費」などを利用した、新しい研究活動に挑戦する可能性が開けてきています。
現在のセンターは82年の伊東プランの半分の規模ではありますが、研究活動をはじめ研究者の組織、資料収集、情報サービス、国際交流等の面で、わが国 のスラブ研究のひとつの中心として内外に認められるようになってきました。とりわけセンターの国際シンポジウム(22)は、課題設定、報告者の人選、運営等におい て、外国人の参加者からも好評を博し、欧米の研究情報誌にも紹介されるようになっています。94年7月に行われた国際シンポジウム「帝国と社会:ロシア史 への新しいアプローチ」に参加したコロニッキー教授(ロシア科学アカデミー)は、ユーモアたっぷりの表情で、センターを「よきコルホーズ」と評したが、同 氏には、設定されたノルマを「過剰達成」しようとしてけなげに頑張っている小さな「突撃作業員」グループという社会主義世界の神話的イメージが、この東洋 の小さな研究所の姿にダブって見えたのかも知れません。いずれにせよ現在のセンターの活動は、それぞれのメンバーが自己の研究や共同研究活動のみではな く、管理運営に大きな労力を注ぐことによって支えられているのです。
とはいえ現在のセンターの組織と活動のあり方は、いまだけっして理想的なものではありません。広大なスラブ地域の総合的な研究という理念に照らした場 合、現在のセンターの部門構成及び定員は、専門分野(ディシプリン)の面でも個別的な研究対象地域(フィールド)の面でも、十分な規模とは言えません(23)。教育学、法学、人口学、言語学、フォーク ロア、芸術学、思想史などといった本質的な分野、あるいはウクライナ、ベラルーシ、旧ユーゴスラヴィア等々の重要な地域の研究が、現状のセンターではカ バーされていません。また活動上も、学術交流協定等による研究者交換に対する経済的基盤の不足、現地での恒常的フィールドワークのべ一スとなる施設の不在 などの限界性を持っています。
情報資料部と事務部もそれぞれ定員不足からくる問題を抱えています。センターが収集すべきスラブ世界の基礎情報はますます多元化・大量化しており、ま た国際交流や共同研究のための事務処理、研究情報サービスなど、総じて研究補助・支援面での仕事は、現在の体制で処理しうる規模をはるかに越えています。 80年代の検討会で示唆されたような「日本スラブ学会連合」「スラブ関係雑誌(図書)センター」「国際交流の窓口」といった役割をセンターが担ってゆくた めには、研究者定員の増大と共に、この点での見直しが必須でしよう。
また将来の専門研究者の育成、すなわち大学院教育への参加という重要な問題も、すでに80年代中葉から学内諸部局を交えて様々な可能性が検討されてい ますが、いまだ明確な見通しを得るに至っていません。
制度上の問題とは別に、現在のスラブ地域研究に固有の課題も投げかけられています。それは個々別々の方向へ歩んでゆこうとしている旧ソ連・東欧の諸国 家・諸地域の研究を、スラブ地域研究という枠組みの中でいかに体系化するべきか、すなわち研究対象地域のアイデンティティの変化にどの様な研究体制をもっ て応じてゆくべきかという問題です。
もちろん地域研究自体が相対的に若い学問であり、制度化の過程にも研究内容や方法論にも、時代状況とのかねあいの中での試行錯誤的な要素が反映してき た以上、上記のような問題の存在はむしろ当然であり、すべては今後の実践を通じて解決されてゆくべきものでしょう。