ITP International Training Program



デイビス・センターでラウンド・テーブルを組織して


青島 陽子

(第3期ITPフェロー、派遣先:ハーヴァード大学デイヴィス・センター)[→プロフィール




2010年12月10日に、ハーバード大学デイビス・センターにて、スラブ研究センターITPプログラムとデイビス・センターの支援を受けながら、ラウンド・テーブルを開催した。以下、その経験をご報告したい。



日本でもセミナーやパネルを組織するという経験が豊富だったわけではない。まして、海外の機関で、現地の人を呼んで学術的な催しをするという経験はまったくなかった。手続きの想像すらつかず、何もかもが手探りの状態であった。


8月初頭にアメリカに到着してすぐ、デイビス・センターの学術的なコーディネーターの仕事をしているJoan Gabel氏と企画についての技術的な相談を始めた。幸い、前任者の浜由樹子さんが道を拓いてくださっていたので、出だしはスムーズであった。まずジョアンからは、アメリカ国内から三人招聘するか、国外から一人招聘するかのどちらかにしよう、と言われた。招聘者が一人では、センターで開かれる通常のセミナーと同じになってしまうため、私としては三人招聘する企画にしたかった。そこで、アメリカ国内から三人招聘するという枠組みが決まった。


また、前年度の経験から、年を越えてしまうと財政的な手続きが切迫するので、12月の上旬に開催しよう、と彼女に提案され、いきなり日程が決定してしまった。逆算してみると、すぐに企画を立ち上げなければ、間に合わない。こうして私のアメリカでの滞在は、慌しく始まることになった。



とりあえず、すぐに企画書作成にとりかかった。テーマは、漠然と19世紀後半のロシア社会の変動についてにしようと思っていた。しかし、私のテーマにもっとも近いKelly O'Neill氏が本年度サバティカルをとっており、時間的な都合がなかなかつかなかったため、彼女がアドバイザーを引き受けてくれるかどうかは問題であった。本や論文でアメリカの学者に馴染みがあるものの、アメリカのアカデミアを知らない私には一人で企画を進行する自信がなく、事情に通じている人にアドバイスを貰う必要がどうしてもあると感じていた。そこで、私から何度か企画案を彼女に送り、アドバイスをお願いした。最終的には、彼女がアドバイザーを快諾してくれたので、ようやくスタート地点に立つことができた。8月の後半に一度ヨーロッパのセミナー旅行に参加したこともあり、すでにこの時9月第二週に入っていた。


最初にケリー・オニール氏と面談の約束をした9月15日までに、詳細でしっかりした企画書を仕上げなければならないと思い、ひどく悩みながら企画書と招聘者のリストをつくった。たいてい、物事は考えすぎると煮詰まるものである。この企画書は、構想がどこかに飛んでしまい、細部に囚われすぎていたようである。ケリーからは、ここまでテーマを限定すると、スピーカーが自分の議論を立てにくいし、聴衆にもアピールしない、と指摘された。そして、最初の企画案の段階の方が良かったのでは、と言われる始末であった。


また、どういった人を招待するのかについても、いくつかのポイントを教えてもらった。私のリストのなかで、最近デイビス・センターに来た経験のある人は避けるようにと言われた。アメリカでは、先方の資金で招聘されるのは、たいへんな名誉のようである。彼女は、呼ぶに値する業績の人を選ばなければいけない、私もまだそこまでの学者であるとはいえない、と言った。非常にシビアで、印象に残る言葉であった。


テーマについても、招聘者次第で変わってくるため、設定が非常に難しかった。ある程度はテーマを限定しないと議論が拡散してしまうが、狭く設定しすぎると企画としては縮こまったものになってしまう。三人の招聘者の専門の時代、地域、概念という、XYZをうまく組み合わせなければ、まとまりのある企画にはならない。面談後、数日で折り返し新しい企画書を見せて欲しいと言われ、緊急に企画を練り直すことになった。


この数日は、ケリーと何度かメールのやり取りをし、テーマや人選について、意見を交換し合った。そして、週末になんとか新しい企画書をつくりあげて、ケリーに送った。19世紀後半の社会変動を身分制の再編から検討するというテーマで、ロシア中心部、西部諸県、コーカサス地域の専門家を招聘することにした。帝国史の諸問題もなんとか盛り込むことができ、バランスの良いものになったのではないかと思った。


ケリーからは、インヴィテーション・レターを書くにあたって、付け加えて書くべきポイントのアドバイスをもらった。さらに、Lisbeth Tarlow女史にも企画書を見てもらう機会に恵まれ、丁寧な意見を頂いた。こうして、翌週の9月22日になって、テーマ、招聘者、議論の概略がようやく定まった。最後に、ジョアンにインヴィテーション・メールの書き方について技術的な助言を貰い、9月24日の午前中に招聘者にインヴィテーション・メールを送ることができた。



ここからは、孤独な作業が始まった。私はスラブ研究センターでプログラム・オフィサーの仕事をしていたために、自分でやった方が早いだろうと思い、事務的なやり取りもすべて引き受けてしまった。この後しばらく、企画の内容と事務的な手続きについて、招聘者とのメールのやり取りが続くことになった。


招聘者の一人であるElise Wirtschafter女史からは、インヴィテーションを送った当日に快諾の返事を頂いた。Austin T. Jersild氏からも、ほどなく了承を得た。Mikhail Dolbilov氏は、ロシアからアメリカに移った直後だったため、非常に忙しかったようで、私は、二週間もの間、返事を貰えず、非常にやきもきした時間を過ごすことになった。メールを送っても、電話をかけても応答がなかったのである。ケリーとも相談して、別の招聘者にインヴィテーションを送ろうと決めたその日に、彼からようやく返事が来た。一人でも変更になると、企画全体を見直す必要が出てくるので、彼からの返事には私もケリーも本当に安堵した。こうして、企画はなんとか成立することになったのである。プログラムの詳細はこちら


その後、招聘者と議論の内容についてやり取りをするかたわら、デイビス・センターのスタッフとともに、会場の手配、宣伝などの作業を進めていった。浜さんの報告書にもあるように、ハーバードは来訪者が多いため、会場の手配や広報がシステム化されている。このあたりからは、ジョアンに替わって、Laura Beshears氏がセンター内の手続きを進めてくれた。この作業に関しては何の心配もなく、私はローラと招聘者の間の連絡係に徹していることができた。私の拙い英語も、そのたびに彼女が直してくれた。


それでも企画責任者としてのプレッシャーは常に感じており、落ち着かない日々を送ることになった。招聘者の先生方の著作を読みながら、冒頭の企画趣旨説明のスピーチをあれやこれやと考えた。招聘した先生方には、簡単な原稿を送ってもらうようにお願いしており、企画の十日から一週間前には、原稿を受け取ることができた。提出された原稿を読むと、イメージとは異なっているところもあり、イントロダクションのスピーチを何度も書き直すことになった。さらに、この原稿を何人かのネイティヴに見てもらい、発音や強調点までチェックしてもらった。


こうして企画の12月10日は近づいていったが、初めての経験であるため、実際のイメージがまるで浮かばず、不安感が最後まで拭えなかった。氷点下のなか、企画のビラを関連の機関に貼りに行った時の心細さは忘れることができない。



心配性の私はあれこれと不安に感じていたが、実際の企画は驚くほどスムーズに終わった。司会をお願いしていたケリーは、さほどの打ち合わせをしていなかったにもかかわらず、直前の数回のメールのやり取りだけで、全体を非常にうまくまとめてくれた。


アメリカでは、どれほど素晴らしい報告者が来ていたとしても、5時半を過ぎると多くの人が帰ってしまう。このことに気が付いたのは、だいぶ後になってからで、昼間に時間を設定するべきだったと後悔した。ましてや12月の金曜の夕方というのは、人が集まりにくい。実際、行くと言ってくださっていた人のなかでも、多くの人に行けなくなったと言われた。


しかしそれでも、かなり多くの方に出席してもらうことができた。最後までたくさんの人が残り、議論にまで参加してくださった。時間がまったく足りなくなり、数多くの人がランダムに話し出すという、ハーバードではめったに見られない白熱した議論となった。企画が終わったあとも、参加者の間のインフォーマルな会話が続き、会場はいつまでも熱気を失うことがなかった。終始青い顔をしていた私に対して、企画終了後にウクライナ研究所のSerhii Plokhii氏が、最近はめったにセミナーに顔を出さなくなった重鎮がたくさん来ている、それだけでもこの企画はうまくいったと言える、と声をかけてくださった。私はこの言葉を聞いて、ようやく肩の力が抜けたのである。





あとで分かったことであるが、パネリストの面々は、ケリーも含め、お互いに知り合いではなかったそうである。後日、ウォートシャフター女史とコーヒーをご一緒する機会があったのだが、そのさい彼女に、あなたが若い世代の研究者を私に紹介してくれたのよ、と言っていただいた。他のパネリストからも、帝国史は地域で分断されがちなので、テーマを決めての横断的な議論は非常に面白かった、という感想を貰うことができた。アメリカの学会は巨大で、専門分野間の交流が意外に少ないということも、ひとつの発見であった。当日の議論のなかでも明らかになったが、私のテーマ設定には色々な難点があった。しかし、参加した方々は、それをもひとつの「チャレンジ」と受け取り、お互いに異なる研究分野の立場から発言し、私の問題提起の欠陥を補って余りあるほどの議論にまで高めてくださった。こうしたパネリストの方々とフロアの方々からは、アメリカの知的な包容力やエネルギーを感じずにはいられなかった。


こうして企画は無事に終了した。右も左も分からない状態から、企画実現にまで漕ぎつける過程では、今まで想像もできなかった得がたい経験が数多くあり、どれほど多くのことを学んだか分からないと思う。ただ、それと同時に痛感したのは、今回の企画は、あくまでデイビス・センターとスラブ研究センターのプログラムの支援体制があってこそできた、ということである。私個人としては、自分の英語力や業績を考えても、本来はこのような大掛かりな企画が遂行できるほどの力は到底持ち合わせていない、ということを再認識せずにはいられなかった。今後は、この体験を生かし、こうした側面からの支えがなくとも、自分で企画を実行できるだけの実力を身につけていかなければならないであろう。それまでの道のりは、まだまだ遠い。その距離を実感した経験でもあった。


最後に、この場をお借りして、スラブ研究センターITPプログラムのスタッフの皆様に対して、このような素晴らしい機会を与えていただいたことに、心より感謝申し上げたいと思います。


(Update:2010.12.25)





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