バナト地方のブルガリア人
6 月末から7 月初旬にかけて、セルビアのバナト地方南部にあるイワノボ村を訪問した。 2010 年度の「国際バナト・ブルガリア・ミーティング」への出席、現地調査のためである。 イワノボはベオグラード近郊(東に35 キロ程)にある村で、人口は1200 人弱(2002 年調査) である。村の人口の大半はハンガリー人が占めているが、他のボイボディナ地方の村と比較 して、ブルガリア人の存在が特徴的である。イワノボでは300 人程度(総人口の30%弱)で ある。彼らは正教徒ではなくローマ・カトリック教徒で、しばしば「バナト・ブルガリア人」 と区別される。また彼らの信仰がいわゆる「パウロ派」に端を発することから、自分たちを「パ ルチェニ(Palćeni)」とも呼んでいる。セルビアではイワノボのほかに、スコレノヴァツ、ベー ロ・ブラト、コナク、ヤシャ・トミッチにもその存在が知られている。
バナト・ブルガリア人は、18 世紀にオスマン・トルコの支配から逃れて、主にブルガリア 北西部からハプスブルク帝国内のバナト地方(現在のルーマニア側)に移住したブルガリア 人の末裔で、現在はルーマニアのヴィンガ、スタル・ビシノフなどがその文化的中心となっ ている。セルビア側のバナト・ブルガリア人は、後にスタル・ビシノフから移住してきた人 たちで、その最も大きい集落が上記のイワノボである。
バナト・ブルガリア人とその言葉:二つのブルガリア語?
バナト・ブルガリア人の言葉は、主にブルガリア北西方言が基礎となっている。19 世紀半 ばまで、教会では祈祷の言語として「イリリア語」(クロアチア語)を用いていたが、1851 年に聖職者イムレ・ベレツが、ハンガリー語のラテン文字体系を用いて、バナト・ブルガリ ア人の言葉で「小カテキズム」を出版したのを皮切りに、宗教関係の書物や暦などが出版さ れ始めた。またドイツ系の聖職者ヨズ・リルが、啓蒙も目的としてクロアチア語のラテン文 字を応用したバナト・ブルガリア語正書法(1866 年)およびバナト・ブルガリア語初等文法 (1869 年)を刊行した。これによりバナト・ブルガリア語は、日常会話のみに用いられる方 言ではなく、ある程度の規範を有する文章語になったのであり、この言語による文化活動が 広まっていくことになる。
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『私たちの声』紙:Náša のa は女性形ではなく定冠詞
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本国のブルガリア語は東部方言、 特にバルカン方言が基礎となり、 それに西部方言の要素が加わった ものである。したがって、本国の 文章語とバナト・ブルガリア語文 章語の方言的基盤は異なる。それ に加え、バナト・ブルガリア語は、 ブルガリア語の文語形成に極めて 重要な役割を果たした教会スラヴ 語、ロシア語、ブルガリア諸方言 からの影響を全く受けなかったた め古い言語的特徴を有している一 方で、ドイツ語、ハンガリー語、ルー マニア語、セルビア語などの周辺 の言語の直接的な影響を受ける環境にあった。つまり、バナト・ブルガリア語は、ブルガリ ア語と規範が異なる変種的1 言語ということになる。この事実は、ブルガリア言語学界がマ ケドニア語は独立した言語ではなく、ブルガリア語の1 変種と主張し続ける間接的な根拠に もなっている。
ルーマニア側のバナト地方では、ハンガリー政府によって19 世紀末から第1 次大戦までの 間に使用を禁止されるなど一時的な中断はあったものの、1930 年代から第2 次世界大戦まで は教会関係の出版物だけではなく、新聞や世俗の出版物も刊行された。しかし共産主義政権 下ではバナト・ブルガリア語による文化活動が禁じられ、その代わりにブルガリア人マイノ リティとして言語教育も本国のブルガリア語によるもののみとなった。チャウシェスク政権 が崩壊した1989 年以降、バナト・ブルガリア語による文化的活動が再開し、現在ではバナト・ ブルガリア語及びブルガリア語による新聞『私たちの声』、ルーマニア語の記事もある雑誌『文 学思想』の他、ラジオ放送やテレビ放送も行われている。またバナト・ブルガリア語による 歴史教科書なども出版されはじめ ている。これは政治体制の変化だ けではなく、EU が推進する多言語・ 多文化主義が支えるところが大き い。
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『イワノバチキ・ドボシャル』紙。セルビア語のほかに、
ハンガリー語、バナト・ブルガリア語、ブルガリア語、ルー
マニア語、スロバキア語、マケドニア語、アルーマニア語、
クロアチア語、ロマ語による記事がある
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この言葉の文化については19 世 紀末から20 世紀初頭の言語学者 リュボミール・ミレティッチによ る一連の著作(主要な論文は『セ ドミグラツコ及びバナトのブルガ リア人の研究』(1986 年、ソフィヤ) に再録)、方言学者ストイコ・スト イコフの『バナト方言』(1967 年、 ソフィヤ)および『バナト方言の 語彙』(1968 年、ソフィヤ)に詳 しく述べられている。また、戦前 の文学作品の一部はミキ・マルコ フ編の『バナト・ブルガリア文学アンソロジー第1 巻』(2010 年、ティミショアラ)などで 読むことができるし、現在もこの言語で執筆活動するものが出てきている。
セルビアにおけるバナト・ブルガリア語のいま
以上はルーマニア側の話であり、体制転換以降の「ルネサンス」も主にルーマニア側が中 心である。ミレティッチやストイコフの調査もルーマニア側で、セルビア側の情報が極めて 少ない。そこで上記の『私たちの声』紙の編集部に手紙を書き、セルビア側の言語状況と出 版物について尋ねてみた。返事はすぐに届き、イワノボが拠点であり、バナト・ブルガリア 語の記事もある新聞『イワノバチキ・ドボシャル』を教えてくれた。そこで今度はセルビア・ ジャーナリスト協会に連絡し、その新聞の編集者の連絡先をお願いした。返事が来るまでひ と月程かかったが、編集者ヨシフ・ワシルチン氏の連絡先を手に入れたので、すぐに連絡した。 バナト・ブルガリア人であるワシルチン氏は、セルビア側のバナト・ブルガリア語による出 版物は極めて少なく、上記『ドボシャル』(2007 年に第1 号刊行、2009 年に18 号まで出たが 現在は休刊中)以外には2008 年に出た詩集が1 冊(セルビア語からの翻訳)あるだけで、ま た執筆活動を行う者も殆どいないと教えてくれた。しかしバナト・ブルガリア語を良く知る 古老がいるから実際に会って直接話を聞くのが一番で、丁度6 月末にルーマニア、ブルガリ アからゲストを招いた「国際バナト・ブルガリア・ミーティング」が開かれるからと来訪を 勧められたのが、冒頭の「ミーティング」に出席することになったいきさつである。
ワシルチン氏のお陰で、一般の話者から村の言語文化保護の活動家や神父から話を聞くこ とが出来た。結論から言うと、セルビアのバナト・ブルガリア語はルーマニア側に比べて保 護の度合いが低く、絶滅の危険にある。ほぼすべてのバナト・ブルガリア人がハンガリー語 とのバイリンガルで、同時に非常に多くがセルビア語とのトリリンガルである。この3 言語 の中で使用範囲が最も狭いのがバナト・ブルガリア語である。歴史的にこの言語による教育 はなく、基本的に日常会話に限られてきた。全体的な人口が少ないこと、バナト・ブルガリ ア人が住む村が分散していること、経済力が弱いことから、バナト・ブルガリア語の出版は もとよりテレビ放送やラジオ放送なども極めて難しい。バナト・ブルガリア語の危機を意識 する若者も、母語の保護は重要だが自身も自由に読み書きできないと残念がっていた。
以上に加え、教会との関係も重要であ る。イワノボのカトリック教会では、ミ サは通常ハンガリー語で行われるので、 これもバナト・ブルガリア語を日常から 遠ざける要因となる。バナト・ブルガリ ア語でミサを行えるのは、100 キロ以上 離れたズレニャニンに住むストヤン・カ ラピシ神父ただ1 人で、バナト・ブルガ リア人の村を1 人で巡回するのは不可能 だ。そしてバナト・ブルガリア人の多く はハンガリー語もよくできるので、彼ら にも問題はないのである。
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『役所名の標示:上からセルビア語、バナト・ブル
ガリア語・ハンガリー語
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また多言語使用に端を発する混血も衰 退の要因になる。筆者が滞在した家は、 主人がバナト・ブルガリア人、夫人はセ ルビア人であった。主人はバナト・ブル ガリア語が話せるが、夫人と子供とはセ ルビア語のみで会話する。主人の両親(70 代と80 代、2 人ともバナト・ブルガリア人)を紹 介していただいたが、同行した孫との会話はセルビア語のみであった。つまり、この一家で は3 世代で言語が消滅している。
僅か35 キロ先には大都会ベオグラードがある。若者に魅力的な職がない貧しい村に残る理 由はないし、混血を抑える有効な手段もない。そしてセルビア人やハンガリー人が実用的で はないバナト・ブルガリア語を学ぶ理由もないのである。
バナト・ブルガリア語を保護するために
旧ユーゴスラヴィアでもバナト・ブルガリア人は「ブルガリア 人マイノリティ」と扱われていたが、2010 年3 月、8 年にもわた るワシルチン氏の粘り強い交渉の結果、役所などはセルビア語、 ハンガリー語、バナト・ブルガリア語の3 言語表示になった。共 産主義時代にほぼ断絶していたルーマニア、ブルガリアとの越境 的共同プロジェクトも年を追って充実している。さまざまな文化 プログラム、レクリエーション、そして円卓会議などで各地の代 表が交流する「国際バナト・ブルガリア・ミーティング」もその 成果である。
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バナト・ブルガリア語
コースの終了証
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パンチェボ市にある多文化保護の民間団体In Medias Res、村の 古老アウグスティン・カラピシ氏の尽力で、今年から民間レベル でバナト・ブルガリア語教育が始まり、既に9 人の卒業生が出た。 またワシルチン氏は、この現状に鑑み、さまざまな団体から経済 支援を取り付け、地元の出版物を増やし、またルーマニアからバナト・ブルガリア語による 出版物を輸入し、地域住民が共同で利用できる図書館を計画しているという。
ブルガリアからの支援も目覚しい。ブルガリア政府の支援の下、イワノボではボイボディ ナで唯一、初等教育でブルガリア語学習が選択科目として可能になり、ブルガリア語の出版 物も多く寄贈されている。しかし教育内容はブルガリア本国の言葉と歴史が中心であるから、 バナト・ブルガリア言語文化の保護に直接的に繋がっていないようにも見える。
いかに一般のバナト・ブルガリア人の自己意識を高め、言語使用環境を整えるか、これに は長い時間と弛まぬ努力が必要であり、当事者、実務者、研究者の密接な協力のみによって 実現しうる。中でも言語文化の正確な記述とその教育への応用など、言語学者の役割は大きい。 忍び寄る言語文化の死への無念を嘆く古老たちに接し、研究に対する真摯な気持ちと責任を 改めて感じるイワノボ訪問となった。