19世紀ロシア文化におけるシューベルト
相沢直樹
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はじめに
1797年にウィーンで生まれた作曲家フランツ・シューベルトは、1828年にわずか31歳で夭逝するまでの短い生涯の間にすぐれた作品を次々と
生み出した。なかでも彼は夥しい数の歌曲を後世に残し、歌曲王とも称されている。生前の彼はその天才を一部の人にしか知られず、その死後のリストによるピ
アノ編曲の演奏会やパリでのシューベルト歌曲の流行などによって、ようやく全ヨーロッパ的に認められるようになった。ウィーンやパリから遠く離れたロシア
の人々がシューベルトを知るのも、このヨーロッパにおける再認識を受けてのことである。
1997年は歌曲王シューベルトが誕生して200年目に当たる年であった。そこで筆者もこれを記念して、19世紀ロシアにおけるシューベルト受容
についての研究を纏めてみようと思い立った
(1)
。
音楽の専門家でもない筆者には荷が重すぎることが予想された上に、このテーマについては先行研究と言えるようなものが極めて少なかった(この年に筆者と同
様なことを目論んでいる研究者がどこかにいる可能性はあるが、そのような論考について本稿執筆中は全く目にすることも耳にすることもなかった)。筆者に許
された方法は、ロシアの文学者たちの作品や書簡、彼らについての回想を片端から繙き、音楽関係の評論や通史からシューベルト関係の出来事を拾って行くとい
うものだった。
ロシア語でその頭文字が ”Ш
になる19世紀の三人の外国人の音楽家の中で、シューベルトはシューマンやショパンと比べると目立たない存在である。しかし、以下に示すように、彼はロシ
アにも熱狂的な信奉者を見出し、やがて一般の人々にもその名と作品が親しく受け入れられていくようになる。一方、文学作品に現れるシューベルトはしばしば
特別な衣を身に纏っている。シューベルト受容の問題の背後には、ロシアにおけるドイツ観念論・ロマン主義の受容と消化というもっと大きな問題が横たわって
いるのだ。それは明治維新以後、西欧文化の摂取に勤しんだわが国における様々な文化現象(例えば日本浪漫派など)とも通底するものを持っているのである。
収集された資料をもとに、本稿ではまずスタンケーヴィチの周辺の人々が初めて歌曲王と出会った時の様子を取り上げ、次にコンサートや音楽評論を通
して彼の作品と名前が認知されていく過程を跡付け、続いて19世紀のロシア文学の世界にどのようにシューベルトが現れているかを検証し、最後に彼をめぐる
ヤースナヤ・ポリャーナほかでのエピソードを紹介する。ここに示されたロシアにおけるシューベルト受容に関する資料は完全と言えるものからはまだほど遠い
が、このささやかな試みを端緒として今後更なる充実を待ちたい。
1. スタンケーヴィチによる発見:ロシア知識人とシューベルトとの出会い
アレクセーエフとアサーフィエフは、ロシア文化がシューベルトに接した最初の時期を扱った論考を同じく1928年にそれぞれ公にしているが、両者
ともニコライ・スタンケーヴィチと彼の周辺の知識人たちの歌曲王との出会いをロシアにおけるシューベルト受容の嚆矢と見なしている点で共通している
(2)
。
スタンケーヴィチがシューベルトを「発見」したのは、歌曲王の死から7年後の1835年のことであった。彼は偶々『魔王
Erlkonig』(D.328)
(3)
を初めて知った時の驚きをЯ.М. ネヴェーロフ宛ての手紙(1835年2月5日付け)の中で、興奮覚めやらぬ調子で次のように伝えている。
どこから始めたらいいだろう? まず初めに、君が僕にシューベルトのことを書いてきた最初の
人であることをとても嬉しく思うとともに悔しくもある。ふたり同時にシューベルトを聴いたとはね!
僕はこの作品をうちのオストロゴシュスクの
地主のサフォーノフの所で、これまで誰も弾いてみなかった音楽雑誌『フィロメーラ』の中に偶々
見つけた。それは昼食の後、巫山戯たりいちゃついたりした後だった。僕はちょっと試してみて、あやうく気が狂いそうになったよ! そうでも言わないと、多
分このバラードを読むとき、ちょうど魔王自身が子どもを捉えるように僕の心を捉える、この幻想的で素晴らしい感情を表現することはできなかったろう。冒頭
から一気にあの暗く謎めいた世界に連れ去られ、 durch Nacht und Wind
駆り立てられるのだ。ねえ君、この点で意見が一致して僕は何とも嬉しいよ。それもわざとみたいに同時になんて! 僕はこのロマンスを書き写しておいた。そ
れは今ベーエロフ家にある
(4)
。
ゲーテの詩に18歳のシューベルトが作曲したこの驚くべき歌曲は、「作品1」という番号を付されて彼の名を西欧中に知らしめる先兵となったが、ロ
シアでも同様の運命が待っていたというのは興味深い。『ロシア音楽史』の年譜は、1829年に出版された『ネフスキイ年鑑』の中にシューベルトの作品も
入っていることを伝えているが
(5)
、
楽譜の出版がそのままその作品や作曲家の認知を意味するものではない。スタンケーヴィチも「誰も弾いてみなかった音楽雑誌」の中に偶々『魔王』を見つけた
のだ。彼が自分が最初にシューベルトを発見したと誇りたく思ったのも無理はなかった。
スタンケーヴィチの熱狂はおさまらず、モスクワでシューベルトの作品を探し求めたり、歌曲王についての情報を求めて、事情通に訊ねて回った
(6)
。やがて彼は
シューベルトの最後の歌曲集『白鳥の歌
Schwanengesang』(D.957)に出会う。それは『魔王』を発見してから2年後のことのようだ。再びネヴェーロフ宛ての手紙(1837年3
月3日付け)の中で彼はこう書いている。
君はシューベルトの "Schwanen-Gesang"
について何か耳にすることはないだろうか? これは彼の死後出版された作品集だ。ひょっとするとオドーエフスキイが君に歌ってくれるかも知れない。僕にこ
れを薦めてくれたのはヴァーニチカの音楽の先生のランゲルだ。〈中略〉僕は 2te Abteilung
[第2部]を買って、プレムーヒノに送るところだ。その中の "Atlas," "Am Meer" と "Doppelganger"
に注目してくれたまえ。もっとも、どの作品も等しく素晴らしいけれど、その種類は様々だ。それにしてもこれは何という傑作だろう! 僕は生まれてこの方、
こんな音楽は聴いたことがない! いいかい、シューベルトはアル中になった上、悪い病気に罹って25歳で死んだのだよ。詩的な魂というものはいつでも放埒
三昧を求めるものだ。すべてか無か、なのだ。だが誤って、それをどこに見出したものか分からずにいるのだ(7) 。
スタンケーヴィチのシューベルト熱は、プレムーヒノのバクーニン家にも伝播して行った。これには彼とミハイル・バクーニンとの交友とともに、当時
彼がリュボーフィ・バクーニナと恋愛関係にあったという事情も大いに与っていた。ネヴェーロフに上の手紙を出す数日前に、若き哲学者はモスクワからプレ
ムーヒノの恋人に宛てて、離れて暮らすスタンケーヴィチの愛に対する不安に悩む乙女を慰める言葉を連ねた後で、次のように書いて寄こしている(2月27日
付け手紙)。
近いうち僕は貴女の許に Schubert's Schwanengesang
をお送りします。これは彼の死後に出された歌曲集です。今それはベーエロフ家の人たちが演奏しています。これは傑作です! ミッシェルは
Erlkonig を一番気に入っていますが、僕の考えでは、こちらの方がすぐれています。こんな音楽を僕は今まで聴いたことがありません!(8)
この後スタンケーヴィチは、シューベルトに関することを逐一リュボーフィに伝えている。3月1日付けの手紙の中で彼は、ベーエロフ家に置いてきた
シューベルトの楽譜をルジェフスキイに託してプレムーヒノに届けさせる旨を告げた後で、『白鳥の歌』の中の個々の歌曲について寸評を加えている。
どれが最もすぐれているかは決めがたいのです。どれもそれなりに素晴らしい。弟に音楽を教え
ている音楽家のランゲルは何よりも Atlas
を高く買っています。実際、これは見事な音楽です。独特の性格の、何という思想を持った作品でしょう…でも、これが Doppelganger
と同様に禁制の範疇に入りはしないかと危惧しています。こちらは幻想的な、魔訶不思議な音楽です! それは実際、cauchemar
[悪夢]に似ています。貴女には多分、 am Meer
が一番気に入ると思います。これは真実の祈りです。出だしのメロディーは、実に素朴な中にも思いが溢れています。それからその中の "fielen
die Thranen nieder" と "mich hat das ungluckselige Weib"
という所に注目して下さい。並外れた効果をあげています。 Fishermadchen と Abschied
もそれなりの傑作で、きっとアレクサンドル・ミハイロヴィチの気に入ることでしょう。残りの三曲は、どういう訳か分かりませんが、ベーエロフ家の人たちの
注意を引きませんでした。 Das Bild が気に入られないのは、どうやらそれが「涙よ目から流れ出よ」に似ているからのようです。 die
Stadt は、おそらく伴奏の難しさのため、 Taubenpost は余りにも長くて陽気な曲だからでしょう(9) 。
歌曲集『白鳥の歌』はシューベルトの死後に編纂されたもので、全部で14の歌曲から成る:『愛の使い
Liebesbotschaft』、『戦死の予感 Kriegers Ahnung』、『春の憧れ
Fruhlingssehnsucht』、『セレナーデ Stadchen』、『すみか Aufenthalt』、『遠い地にて In der
Ferne』、『別れ Abschied』(以上レルシュタープ詩)、『アトラス Der Atlas』、『彼女の肖像 Ihr
Bild』、『漁師の娘 Das Fishermadchen』、『都会 Die Stadt』、『海辺にて Am Meer』『影法師 Der
Doppelganger』(以上ハイネ詩)、『鳩の便り Die Tabenpost』(ザイドル詩)。
上の手紙からはスタンケーヴィチ周辺の人々の好みが判り、興味深いが、後にロシアでも大変人気を博することになる『セレナーデ』についてはまった
く触れられていない。これは『白鳥の歌』が二部に分けて出版され、彼がやっと手に入れたのが『別れ』から『鳩の便り』までを収めた第2部だったからであろ
うと推測される。
さて、この二日後にスタンケーヴィチは再びリュボーフィに宛てて、ルジェフスキイが楽譜を持っていくのを忘れたので明後日に送る旨を告げ、「貴女
の声でそれらが歌われるのを僕はどれほど聴きたく思うことでしょう。それらを貴女はとても気に入ることでしょう」
(10)
と書きかけた
ものの、体調を崩して動けなくなった。三日後に彼は「シューベルトはやっぱり送れませんでした。ここではシューベルトは滅多に出ないので、みんな売り切れ
てしまいます。それでアクサーコフが火曜まで写させてくれとせがみに来たのです」
(11)
と続きを書いている。
とうとうプレムーヒノに『白鳥の歌』が届いた。恋人に宛てたスタンケーヴィチの手紙(5月1日付け)は喜びに満ちている。
貴女がシューベルトの音楽を気に入って下さって嬉しいです。本当に、どれを最もすぐれている
と呼んだらいいのか、誰にも分からないでしょう。僕は Atlas を非常に気に入っていますが、それもランゲルが演奏するときだけの話です。次は
Doppelganger で、最後は神聖な作品、 Am Meer です。 Fishermadchen と Ade
も傑作で、それなりに好いものです。 Die Stadt は、ランゲルが演奏するとすばらしい作品です。一陣の風と波のざわめきが見事です(12) 。
スタンケーヴィチの好みは随分とランゲルに依存しているように見える。 ・
バクーニン、ベリンスキイ、ボトキンの友人でもあったランゲルは、ウィーンで音楽を学び、ベートーヴェン、シューベルトとも知り合いだったと言われる。一
般にシューベルトの歌曲ではピアノが従属的な「伴奏」の役割を越えて独立していると言われるが、ギリシア神話の巨人に仮託して「世界苦」を歌う『アトラ
ス』も、夢幻的なトレモロが印象的な『都会』もそれぞれピアノ演奏に特徴があり、すぐれたピアニストでもあったランゲルの腕の見せ所だったことだろう。
『影法師』は、自分のもとを去った恋人のかつて住んでいた家の前を訪れると、そこに苦痛に悶えながら虚空を見つめて立っている、自分と生き写しの男(分
身)を見かけたと歌っており、その心理学的に特異な現象とともにこの後ロシアでもよく知られるようになって行く。
スタンケーヴィチから送られて来た『白鳥の歌』にプレムーヒノは沸き立った。特にシューベルトの虜となったのは、自ら作曲もたしなむほど音楽に傾
倒していた「田舎の女夢想家」(アレクセーエフ)、ヴァルヴァーラ・バクーニナだった
(13)
。1837年夏にミハイル・バクーニンが音楽家のランゲルらを伴って帰省する
と、プレムーヒノはベートーヴェン、モーツァルトとシューベルトに明け暮れたという
(14)
。
* * *
ロシアにおけるシューベルトとの邂逅の主役は知識人層、わけてもドイツ観念論哲学を指導理念とし、ドイツ・ロマン主義に心酔していたスタンケー
ヴィチの近くにいた人々が中心となった。「スタンケーヴィチのサークルでとりわけ高く評価されたのはベートーヴェンの作品であったが、30年代半ばから
シューベルトがこのサークルの中で偶像になって行く」
(15)
。
スタンケーヴィチ・サークルと双璧をなすもう一つのサークルを率いていたアレクサンドル・ゲルツェンは、その『過去と思索』の中で1840年から47年に
かけてのモスクワを回想して(第25章)、ドイツ観念論かぶれのロシア人哲学者を揶揄した一節に続けて、皮肉な調子で次のように述懐している。
同じことは芸術においても言える。ゲーテを、とりわけ『ファウスト』第二部を(それが第一部
よりも出来が悪いためか、難解なためかはいざ知らず)知っていることは服を着ることと同じくらい必須のことになっていた。音楽の哲学が最重視された。当然
のこととして、ロッシーニは相手にされず、モーツァルトには甘かったが、幼稚で精彩を欠くと見なされていた。そのかわりベートーヴェンの和音の一音一音に
は哲学的な審査が施され、シューベルトは大変持て囃されたが、思うにそれは、その見事な旋律のためというよりも、むしろ彼がそうした旋律のために『全能の
神』、『アトラス』のような哲学的な主題を取り上げたことによるものであった。イタリア音楽と並んでフランス文学とおよそフランス的なものはみな、そのつ
いでにすべて政治的なものも不興を買っていた
(16)
。
ゲルツェンの戯画に込められた皮肉は割り引いて聞く必要があるが、この時代のロシア知識人層におけるドイツの哲学・文学への傾倒が音楽はじめドイ
ツ文化全般の受容を先導したことは確かである。アレクセーエフは「シラーがある程度まで我々のベートーヴェン理解を準備した、と言えるのならば、ゲーテ、
ハイネとドイツ・ロマン派が我々にシューベルトに達する道を開いたのである」
(17)
と総括している。ただし、ゲルツェンはシューベルトが大事にされた理由を彼の音楽そのものよりも、歌詞が扱っている「哲学的な主題」に帰そうとしている
が、これまで引用してきたスタンケーヴィチの手紙からは、彼を感嘆させ、魅了していたものがむしろシューベルトのメロディーや音楽的効果であったと窺われ
ることを付言しておきたい。
ちなみにゲルツェンの感性は思想上の対立のためにすぐれた音楽に耳を塞ぐほど硬直してはいなかったと見える。彼は1840年4月にモスクワの貴族
会館で行われたコンサートで、ミラノ・スカラ座の歌姫がオーケストラをバックに歌ったシューベルトの『全能の神』を聴いて、「いやこれは本当に、魂を揺さ
ぶる、魅惑的な芸術だ」
(18)
と手紙の中で漏らしている。
また彼は1847年に『同時代人』誌に掲載された『Avenue Marigny
からの手紙』(後に『フランスとイタリアからの手紙』と改題)の「第一の手紙」の前に「"Aus der Ferne..."
シューベルトの音楽」というエピグラフを冠していた。ここで触れられているのは歌曲集『白鳥の歌』の中の メIn der Ferneモ のことであろう
(19)
。ゲルツェン
はこの年モスクワを飛び出してからロシアに戻らず、ヨーロッパ各地を転々とすることになる。祖国への手紙の形を取るこの論文のエピグラフに、故郷を離れ、
異国をさまよう者の不幸を歌った歌曲のタイトルを置こうとしたのは、己の運命を予感したゲルツェンの自嘲なのであろうか。
さて、スタンケーヴィチと親しかった知識人の中でも、В.Г.
ベリンスキイは最も素朴にシューベルトを愛した一人である(もっとも彼の好みはかなり偏っていて、スタンケーヴィチたちのそれとは異なるようにも見える
が)。В.П. ボトキンに宛てた手紙(1840年2月3-10日付け)の中で、「怒れるヴィッサリオン」は随分感傷的である。
時々、僕の魂が音に飢えることがある。君の部屋で ”Leiermann”
を聴くことができるなら、僕はいくら出してもかまわない。街を通りすがりに窓の下で、僕の魂の奥深く刻み込まれた、その霊妙にして優雅な響きを耳にした
ら、僕は慟哭してしまうんじゃないか、という気がする
(20)
。
『辻音楽師 Leiermann』はシューベルトの歌曲集『冬の旅 Winterreise』(D.911)
の最後に収められた歌曲で、村外れに立ちつくし、ドレーライアーを虚しく宙に響かせている孤独な「ライアー回し」の老人の姿を歌った実に寒々とした曲であ
る。ベリンスキイは、同じ年の冬には再びボトキンに「『辻音楽師』のことを思い出すだけで、涙がこぼれてくる。いつかまた聴けるだろうか? ああ音楽狂
よ!」
(21)
と
またしても大袈裟な言葉を漏らしている(1840年12月10、11日付けボトキン宛て手紙)。またチュッチェフも、ベリンスキイが詩人の家で「さあ、僕
のために弾いて下さい」と言う時、それは『辻音楽師』とオペラ『悪魔のロベール』(マイアーベーア)の「地獄のダンス」の催促の意味だったと回想している
(22)
。批評家とし
てのベリンスキイは1842年にストローエフの『1838年と1839年のパリ』を論評しながら、「イタリアでは諸君は〈中略〉、音楽狂になるだろう。た
とえ諸君の耳がグリンカのロマンスとシューベルトの歌曲を、あるいは街の手回しオルガンとオーレ・ブーリを区別できなかったとしても」
(23)
と、さり気なくシューベルトの名に触れている。
ベリンスキイをめぐるこれらの事実は、『白鳥の歌』のみならず『冬の旅』も遅くとも1840年にはすでにスタンケーヴィチ周辺の人々には周知のも
のとなっていたこと、また同じ頃一般の読書人の中でも徐々にシューベルトの名が受け入れられ始めていたことを物語っていると言える。
ベリンスキイは最初の手紙の引用した箇所にすぐ続けて、プーシキンの『西スラヴ人の歌』の中の『イアキンフ・マグダノヴィチの葬送の歌』にランゲ
ルが作曲した曲をオドーエフスキイが弾いてくれたのを聴いた時、憂愁と喜びで胸が締めつけられるようになったと述べ、ランゲルを大変高く評価しているが、
これは手紙の名宛て人によってその前年に書かれた、この曲を批評した文章を踏まえてのことかも知れない。
ボトキンはその評論の中で、詩に音楽を付けること自体はもはや大したことではないが、ランゲルの作品は傑出していて、「偉大で天才的なシューベル
トが創造した、崇高で、芸術的な歌曲の部類に属する」
(24)
と最大級の讃辞を贈っている。この評論家はシューベルトをほとんど崇拝していた。例えば彼は、歌曲で詩よりも音楽の方がすぐれている場合があることを取り
上げ、これは詩人が詩の魂に十分相応しい思想と形式を纏わせられなかったものを、音楽においてその思想と形式から自由になって真実と美を取り戻したから
で、「その最も顕著な例がベートーヴェンの ”Wachtelschlag” [『うずらの鳴き声』]〈中略〉とシューベルトの多数の歌曲である」
(25)
と述べている。そして、ランゲルの音楽がいかに素晴らしいかを繰り返した後、「それゆえ吾人は彼の音楽をシューベルトの不滅の歌曲の部類に入るものと見な
し、読者諸賢の注意を喚起したのである」
(26)
と結んでいる。ロシアにおけるシューベルトの名と音楽の普及には、このボトキンやオドーエフスキイらのような音楽評論家の批評活動に負う所も少なくない
(次章参照)。
スタンケーヴィチを取り巻くその他の知識人たちとシューベルトとの関わりを見てみると、Н.П.オガリョフの名は、シューベルトの『セレナーデ』
(歌曲集『白鳥の歌』)のロシア語への翻訳者として忘れることはできない
(27)
。彼はこの詩の作者レルシュタープと1842年にベルリンで会食した折、この
俗物詩人がシューベルトの曲によって自分の最良の作品である『セレナーデ』の詩が損なわれたと毒づくのを聞いて、「鼻持ちならない奴」、「救いようのない
愚か者」だと切り捨てている
(28)
。
一方、ヴォロネジの妹が流行に遅れないように1841年にА.В.コリツォーフが送った本や楽譜の中に『魔王』が含まれているのは微笑ましい
(29)
。
スタンケーヴィチらの後輩筋に当たるイヴァン・ツルゲーネフは、ベルリン大学留学中の1840年秋にマリエンバートから「ベルリンの兄弟」
А.П.エフレーモフに宛てた手紙の中で、もう一人の「兄弟」ミハイル・バクーニンにジークムント・ゴルトシュミットの歌曲集を入手するように言付けを託
して、この人物が「新しいシューベルト」と噂されている、と伝えている
(30)
。ヨーロッパではすでにシューベルトの名声が広まっていた。ドイツ語を自由に
操り、先輩知識人たちの強い影響の下に一度はドイツ観念論・ロマン主義の洗礼を受けたツルゲーネフは、後まで長くシューベルトを愛好するようになる。ちな
みにスタンケーヴィチがイタリアで客死したのは、この手紙より二月ほど前のことだった。彼の夭折を「我々は我々が愛し、信じ、我々の希望と誇りであった人
物を失った…」
(31)
とグラノフスキイに伝えるツルゲーネフの手紙は、シューベルトの訃報に接した友人シュヴィントの言葉を思い起こさせる:「シューベルトが死んだ。そして彼
とともに、われわれの持っていた最も明るくて美しいものが死んだ」
(32)
。
2. 演奏会と音楽時評:シューベルト音楽の普及
ロシアでシューベルトが広く知られるようになって行ったのには、何と言っても西欧からやって来た歌手やピアニストによる演奏活動に負うところが大
きい。その一人にウィーンのテノール歌手、ヘルマン・ブライティングの名が挙げられる。彼は1837年から1840年までペテルブルグのドイツ劇場などに
出演してシューベルト歌曲の紹介に努め、舞台で最初に『魔王』を歌った歌手との聞こえもあった。もっとも、高踏的なボトキンはロシアの一般の聴衆のシュー
ベルト理解に対して悲観的であった。『1838年の音楽時評』の中で彼は次のように述べている。
ペトロフスキイ劇場のホールでの彼の最初のコンサートが満員とはほど遠かったとすれば、二度
目にはほとんど空だったと言える。神秘的なシューベルトの『魔王』はひとり真の愛好家のためだけに響きわたった。ブライティングのコンサートは、わが国の
聴衆にとってはドイツ音楽はその真の意味においてはまだ存在しないということを証明した。聴衆はブライティングの力強さと熱のこもった歌声を理解できな
かったのだ
(33)
。
ロシアに初めてシューベルト歌曲を広めた一人と目されるこのテノールの活動については、В.Ф.
オドーエフスキイも『ペテルブルグのコンサートについてのモスクワへの手紙』(1839)の中で、成功裡に終わった女性ピアニストのコンサートで、共演し
たブライティングがシューベルトの『魔王』を歌ったことに触れているが
(34)
、この音楽時評の中ではまた、チェロ奏者の A. F.
セルヴェがペテルブルグでのコンサートにおいて「有名な所謂ベートーヴェンのワルツの変奏曲」を演奏したことが伝えられている。『悲しいワルツ』、『熱
望』ワルツ(”Trauer-Walzer”, ”Sehnsucht-Walzer”, ”Desir d’amour”)
等の名前で知られていたこのワルツは、実はシューベルトの作品であった
(35)
。初めベートーヴェンに帰されたのは、楽譜の出版社が無名のシューベルトの作
品としては売れないと考えてベートーヴェンの名を冠したためであろうと考えられている
(36)
。オドーエフスキイはこうした事情を熟知していたからこそ、故意に「所謂ベー
トーヴェンのワルツ」と言ったのであろう
(37)
。
セルヴェもまたロシアにおけるシューベルトの普及に大きく貢献した。彼の演奏活動について『ロシア音楽史』は、「彼の名前は、ロシアの聴衆の
シューベルトの音楽との最初の出会いとも切っても切れない。シューベルトの変イ長調ワルツの主題による変奏曲は彼のすべてのコンサートのプログラムに入っ
ていた」
(38)
(ソコロヴァ)と指摘している。
1840年を過ぎた辺りから、ロシアの新聞・雑誌のあちらこちらにシューベルトに関する記事が現れるようになる。1841年の『北方の蜜蜂』
(No. 44)
誌には、歌曲王に関する恐らくロシアで最初の伝記的事実が紹介された。この不正確な伝記(生没年さえ誤っている)に続けて、記事はシューベルトがフランス
で大人気を博していることを紹介し、彼の曲を知りたければ、翌日に開かれるハイネフェッターのコンサートで好奇心を満たすことができるだろうと呼びかけ、
そこでシューベルトの『さすらい人 Der Wanderer』が歌われる予定であることを伝えている
(39)
。シューベル
トがフランスで流行しているという文句は、ロシア人聴衆の好奇心をくすぐるのにそれなりの効果があったものと見られる
(40)
。
ドイツのオペラ歌手ザビーナ・ハイネフェッターも、ロシアにシューベルト歌曲を広めるのに功績があった。彼女は1841年1月にロシアを訪れ、ペ
テルブルグのコンサートでシューベルトの作品を披露した。特に彼女の歌う『さすらい人』は評判だったと見えて、「ザビーナの歌」とさえ呼ばれたという
(41)
。同年の『文
学新聞』(No. 113, 114)
は、バルトゥの短編小説『シューベルトのセレナーデ』に付した編集部の注釈の中で、フランスでは歌手アドルフ・ヌリの功績でシューベルトがドイツにおける
よりも有名になったと伝えた後、「我々ロシア人にシューベルト歌曲の気高い詩情を紹介してくれたのは、優れた歌手のヘルマン・ブライティング
とハイネフェッター女史である」と述べている
(42)
。
またこの年にはシューベルトの『セレナーデ』や『アヴェ・マリア』の楽譜がロシアで出版されたことを伝えるニュースが『北方の蜜蜂』などに掲載さ
れている
(43)
。
『ロシア音楽史』の年譜にはこの年グロッスがシューベルトの交響曲を演奏したという記述が見えるが、委細は審かでない
(44)
。
そして翌1842年、ついにフランツ・リストがロシアの聴衆の前に姿を現した。彼のロシア公演はまさに「事件」だった。リストは4月8日のペテル
ブルグの貴族会館でのコンサートを皮切りに翌月末まで精力的な演奏活動を続け、数次に及ぶ各種の公開演奏会でその天才的テクニックを披露してロシアの聴衆
を瞠目せしめたのみならず、オドーエフスキイほかの貴族の邸のサロン・コンサートに招かれて一躍「時の人」となった。
すでにリストは『魔王』をはじめシューベルトの歌曲を自らピアノ曲用に編曲した作品をヨーロッパ各地で演奏し、シューベルト再認識のきっかけを
作っていたが、このロシア公演においてもそれらを披露した
(45)
。
これによってロシアの聴衆の目と耳に、天才ピアニストの神業とともにシューベルトの名が深く刻みつけられたことは想像に難くない。「リストは、作品がやっ
と演奏会のレパートリーに入りはじめた偉大なロマン主義者、シューベルトの芸術の宣伝普及に熱心だった。彼がロシアの聴衆にシューベルトの創造した最良の
もの、すなわち彼の霊感に満ちた歌曲を示したのは当然のことだった。ロシアで彼はセレナーデ、『魔王』、 Ave Maria と『鱒』を演奏した」
(46)
と『ロシア音楽史』(ソコロヴァ)は伝えている。
ちなみに、この頃バレエやコンサートに通い詰める日々を送っていた陸軍工兵学校生のドストエフスキイも、リストのエポック・メイキングなコンサー
トを訪れていた。当時のドストエフスキイを知るリーゼンカンプは「1842年4月9日に天才的なリストのコンサートが始まり、5月末まで続いた。チケット
が前代未聞の高さだったにもかかわらず〈中略〉、私とフョードル・ミハイロヴィチはそのコンサートをほとんど一つも聴き逃さなかった」
(47)
と回想してい
る。
翌1843年5月にリストは2度目のロシア公演を行った。また、この年の秋にはポーリーヌ・ヴィアルドー=ガルシアをプリマ・ドンナに戴き、テ
ノール歌手ルビーニを連れたイタリア歌劇団が巡業に訪れた。スペイン生まれの歌姫とツルゲーネフはこの時初めて知り合った。ヴィアルドー夫人はこの後繰り
返しロシアを訪れるようになるが、シューベルト歌曲を十八番としていた彼女もまた、ロシアにおけるシューベルト歌曲の普及に貢献した一人と考えられる。イ
タリア歌劇団の公演の翌春、夫人の「親衛隊」の一人であったツルゲーネフ青年は、欧州巡業中のヴィアルドー夫人にペテルブルグからラブコールを送っている
(5月9日付け手紙)。
私たちが様々なことを思い出していることは言いますまい。私たちは何ひとつ忘れてはいないの
ですから。でも私たちは思い出を繰り返し語り合うことに喜びを見出しているのです。特に私は Pizzo
とお喋りしています。<中略>私は声が完全に枯れるまで彼に歌わせました。すべてをですムロメオの最後の場面も、 ”Die Stadt” も…。
(48)
作家としての名声を確立してから国外で暮らすことが多くなったツルゲーネフの後半生の手紙からは、巡業先で『影法師』などのシューベルト歌曲を歌
うヴィアルドー夫人を見守る姿が偲ばれる
(49)
。
1844年3月にはヌリの弟子でパリ・オペラ座のテノールだったヴァルテル (Wartel, P.-F.)
が、ロシアの聴衆の前で『アヴェ・マリア』と『セレナーデ』を披露した
(50)
。ちなみにオドーエフスキイは、この年のある音楽時評の中でピアニスト、カー
ル・マイヤーのコンサートの予告をしながら、「おまけにこのコンサートで我々は、今やヨーロッパ中で国民的なものとなっているシューベルトのメロディーを
初めてパリに紹介した、テノール歌手のヴァルテルを聴くことができるのである」
(51)
と彼の共演を誘い文句にして宣伝している。同じ頃クララ・シューマンが夫ロベルトを伴ってロシアを訪れたが、彼女のコンサートの演目の中にもシューベルト
の名が見える
(52)
。
またこの年、奇才 H.W.
エルンストがリストの顰みに倣って『魔王』をヴァイオリン用に編曲した作品を自ら演奏している。『レパートリーとパンテオン』誌はこの曲の「想像を絶した
効果」を驚愕をもって伝えている
(53)
。
1847年にはリストの3度目の公演がロシア各地で行われた。
以上、ブライティングをはじめとした多くの外国人音楽家たちの演奏活動を通して、ロシアにおいて次第にシューベルトが認知されていく様を跡づけて
きたが、彼らの演奏活動を陰で支えていたのは新聞・雑誌の力である。ボトキンやオドーエフスキイのみならず、今日では無名の記者や批評家の手になる様々な
演奏会の案内や批評記事、作曲家の伝記などを紹介し続けたこうしたジャーナリズムが、ロシアにおけるシューベルトの名前と作品の普及に寄与したものは少な
くない。すでに触れた『北方の蜜蜂』や『文学新聞』などの他、例えば雑誌『短篇小説家』はしばしばシューベルトを特集した付録を付けている
(54)
。
1863年の『ロシア報知』誌に、ロシアにおける最初の本格的なシューベルト論の一つと見なしうる ・
フリスチアノーヴィチの論文『フランツ・シューベルト』が発表された。この論文の中で彼は、歌曲王についてその生涯から作品までを縦横に論じている。室内
楽から歌曲、歌曲集、劇音楽を解説した後で、彼は「シューベルトの歌曲の数は膨大である。我らがロシアの聴衆には、そのうち40曲までが知られている。だ
が、この40曲のうち全てが有名であったと言うのは到底無理である。有名だったのは10曲ムあるいは15曲かもしれない」
(55)
と述べて、
13曲までを実際に名指している。彼が挙げている歌曲の名前からシューベルト歌曲の原題を推定してみることができる(別表参照
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)。
フリスチアノーヴィチのリストの中の『魔王』、『さすらい人』、『アヴェ・マリア』、『子守歌』、『鱒』などは今日でも非常にポピュラーな名曲で
ある。歌曲集『白鳥の歌』からは『別れ』だけが、歌曲集『冬の旅』からは『幻日』と『郵便馬車』が挙げられており、本稿第1章で見たスタンケーヴィチらの
好みと若干のずれがあることが判る。若い女性の胸の奥が描かれた『糸を紡ぐグレートヒェン』、『ズライカ』、『若い尼僧』が見えるのは、外国の歌姫たちの
熱唱に負うのであろうか。ゲーテの詩になるものが多いほか、シラーの詩による『期待』がランクされているのには、ドイツ文学に親しんでいた当時のロシアの
文化状況が改めて感じられる。
フリスチアノーヴィチは13曲を挙げた後で「オシアンの歌曲、ウォルター・スコットの歌曲:獅子心王リチャードと海辺の乙女(その中の一曲が有名
な Ave Maria
である)、ミュラーの歌曲:水車小屋の娘と旅人の歌、の存在を知っていたのはわが国の一部の音楽家と少数のドイツ音楽愛好家だけである」と述べているが
(57)
、当時のロシ
アでも一世を風靡したはずの『セレナーデ』はなぜか彼のリストから漏れ、ここでも一言も触れられていない(彼の趣味に合わなかったのであろうか)。
* * *
19世紀も半ばを過ぎると、ロシアのコンサートでシューベルトが演奏される機会が増しただけでなく、演奏曲目が歌曲にとどまらず次第にジャンル
を拡げて行った。1858年3月10日にはペテルブルグの貴族会館で、シューベルトの『ハ長調シンフォニー』がロシアで初めて演奏された(アリブレフト指
揮フィルハーモニー協会)
(58)
。
やがて交響曲のみならず、四重奏などの室内楽、合唱曲、劇音楽なども演奏されるようになって行く。
これに関しては、ルビンシュテイン兄弟と彼らに率いられたロシア音楽協会の演奏活動の意義を特筆すべきだろう。ロシア音楽協会はアントン・ルビン
シュテインによって1859年に創設され、翌年には弟のニコライがそのモスクワ支部を起こした。ロシア音楽協会はペテルブルグとモスクワで、兄弟の指揮に
よる交響曲や四重奏のコンサートを定期的に開いたが、そのレパートリーの中にシューベルトの作品が含まれていた。
その一つ、1864年にペテルブルグで行われたロシア音楽協会の交響曲大会(アントン・ルビンシュテイン指揮)ではシューベルトの女声のためのセ
レナーデと交響曲が演奏されているが、このコンサートをツルゲーネフが訪れている。彼はヴィアルドー夫人に宛てた手紙(2月8、9日付け)の中で「先日私
はコンサートでシューベルトの女声五重唱のセレナーデを聴きましたム素敵でした」
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と報告している。
1867年12月16日にはモスクワの貴族会館でのロシア音楽協会の交響曲大会で、ニコライ・ルビンシュテインの指揮によって『未完成交響曲』が
記念すべきロシアでの初演の日を迎えた。翌年3月にニコライはロシア音楽協会を指揮して、シューベルトのオペラ『フィエラブラス』序曲を演奏している。翌
1869年2月22日には『未完成交響曲』がペテルブルグでも初演された(バラキレフ指揮ロシア音楽協会;於貴族会館)。1870年11月にはモスクワの
ロシア音楽協会がシューベルトのミサ曲の断片を、ペテルブルグのロシア音楽協会がジングシュピール『ロザムンデ』から序曲と間奏曲を演奏している。また、
協会の地方支部で開催された連続コンサートでも、キエフ(1876年)、トボリスク(1878年)、サラトフ(1885-86年)、ハリコフ(1886
年)などでシューベルトの作品が演奏されている。
この頃になると、新聞・雑誌上でも交響曲や四重奏、劇音楽などを論じた記事が目立って増えている。ピョートル・イリイッチ・チャイコフスキイは
1872年に「シューベルトの四重奏(ホ短調)」についての評論を、1874年には「シューベルトの『ミリアムの凱歌』」論と「ハ長調交響曲.シューベル
ト」論を『ロシア通報』誌に寄せている。翌1875年にフリスチアノーヴィチの『ショパン、シューベルトとシューマンについての手紙』が単行本として上梓
された。1876年にはキュイが『ペテルブルグ通報』の音楽時評でシューベルトの四重奏を論じ、1877年と79年にラロシュが『声』誌の中で、シューベ
ルトの交響曲ハ長調とロ短調(所謂「未完成」交響曲)をそれぞれ取り上げている。1882年の『国外報知』誌にはオペラ『アルフォンゾとエストレルラ』論
(トリフォーノフ)と『ハンガリー風ディヴェルティスマン』を論じた記事が掲載された。
1886年にはシューベルトに捧げられた「歴史的交響曲コンサート」(アントン・ルビンシュテイン指揮)において、合唱曲『自然の中の神』、『森
の中の夜の歌』、『この日の祝福』、交響曲ハ長調とロ短調、『ロザムンデ』から二つの間奏曲が披露されている。『音楽展望』誌はこのコンサートを取り上げ
たり(同年)、シューマンによるシューベルトの『即興曲』論
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を紹介している(1888年)。
アントン・ルビンシュテインは、すぐれたピアニストとして彼個人のリサイタルでも好んでシューベルトのピアノ曲(『魔王』、『楽興の時』、『即興
曲』等)を演奏する一方、ペテルブルグ音楽院で教鞭を執る教育者の顔も持っていた。1889年にはシューベルトのピアノ曲についての彼の講義が『バヤン』
誌に掲載され、同年キュイは「シューベルト解釈者としてのアントン・ルビンシュテイン」を論じた記事を『週』誌に発表している。そして1897年には、
シューベルト生誕100周年を記念した論文が目白押しである。この年はペテルブルグ、モスクワは言うまでもなく、オデッサ、カザン、バクーなどの地方都市
でもシューベルト記念コンサートが開かれている。翌々年の1899年の『ロシア音楽新聞』はシューベルトのジングシュピール『家庭騒動』がペテルブルグで
上演されたことを伝えている。
もちろんこの間も、すでに演奏会のレパートリーとしての地位を確立していたシューベルトの歌曲やロマンスは、あちらこちらの劇場やサロン・コン
サートで歌われ続けていた。ヴィアルドー夫人に宛てた手紙(1871年2月14、15日付け)の中で、ツルゲーネフは夫人の娘ルイーズがセローヴァ夫人邸
での夜会で『影法師』と『糸を紡ぐグレートヒェン』などを歌ったことを報告している
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。また、1893年にペテルブルグのマリインスキイ劇場で行われたフィグネル
夫妻のコンサートを批評した小文をアントン・チェーホフが物している。「ツァーベル氏のハープ、ヴァルター氏のヴァイオリンの伴奏でフィグネル夫人が歌っ
た ”Ave Maria” にもまた大きな感銘を受けた」
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