ソ連邦における地区の農業機関と党機関
1962-1965

松 戸 清 裕


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はじめに

ソ連邦において農業は常に指導部の関心事の一つであった。工業の発展が最重要の関心事であったスターリン期においてさえ、工業発展のための物的人的資源を収奪する源泉という意味では農業はやはり重要な関心事であったと言えよう。こうした点も踏まえると、指導部にとって重大な関心事であった農業問題は端的には、農産物の生産量と調達量の増大、および農民の管理・統制の二点にあったと言えよう。集団化以降は、第二の点はコルホーズ、ソフホーズの管理・統制とほぼ同義となった。この二つの課題は別個のものでありながらも、しかし完全に切り離し得るものでもないが、フルシチョフ期においてはとりわけ、双方の課題に同時に対処する方策として農業管理機関の組織形態が注目され、その改組がおこなわれていくこととなった。これはひとことで言えば、生産不振の客観的原因はもはや存在せず、停滞の原因はコルホーズ、ソフホーズの指導の問題であるとの考えが広まり、また指導の優劣を組織形態と結びつける傾向が強まったためである。
とはいえ、農業分野については、党機関の役割こそが重要であると一般に考えられていよう。こうした捉え方はおおむね妥当なものと言える。集団化、第二次世界大戦といった危機的な状況において党の非常機関が重要な役割を果たしたことに加えて、平時においても、播種・収穫時に集中的に労働力が必要とされるなどの農業の特質もあって、経営の外からの関与は動員的、キャンペーン的になりやすく、とくにこの点において地区党委員会を中心とする党機関が重要な役割を果たすことになったからである。第二次世界大戦から戦後期にかけて、こうした地区党委員会の役割に変化が見られなかったこと、農業における地区党機関の役割はブレジネフ期を通じて、さらにはペレストロイカ期に至っても支配的であったことがすでに指摘されてきている (1)
無論、フルシチョフ期も例外ではない。フルシチョフ期においてはキャンペーンは姿を消すどころか、処女地開拓に始まり食肉増産、トウモロコシ播種など大掛かりなキャンペーンも相次いでおこなわれ、そのたびに党機関が「活躍」していたのは周知のことであろう。農業分野におけるフルシチョフの政策についての近年のある研究者の整理では、フルシチョフはコルホーズをより効率的にすることを試みたが、フルシチョフはそれをコルホーズの指導と管理における農業省の影響力を削減すること、党機関の役割、党による統制を増すことによっておこなおうとしたとされている (2)
確かにフルシチョフは党が経済に責任を持つことを常に主張していた。その帰結としてフルシチョフが、党機関による指導からキャンペーン的性格を取り去って党の経済指導をより継続性の高いものとするという目的を掲げて、党組織の農業と工業の生産部門別への再編を提案するに至ったこと、フルシチョフの提案を承認して1962年11月の党中央委員会総会が生産原則による党機関の再編を決定したこともよく知られていよう (3)
しかし「統治する党」である共産党が経済問題に多大な注意を向けること、経済問題が党の主要な関心事となることはむしろ当然のことであろう。問題は、党機関がどのように経済問題に関わるかというその関わり方である。一部に主張されるように、党が直接に経済活動を管掌し、経済機関的な職務を担うことが目指されたのであろうか。確かにフルシチョフ解任後にはこの点が特に批判・非難され (4) 、また欧米の研究の中にも党機関が経済機関になり代わり直接的指導をおこなう政策が採られたというような説明も見られるが、こうした主張には無理がある (5) 。この再編の後に党機関による職務代行《подмена》 が実際に生じたこと、1962年11月の再編による党組織構造に職務代行を助長する側面があったことは確かだが、職務代行が目的として掲げられたことはなく、正しい活動と認められたこともなかった。「生産原則による党機関の再編は、これらの、直接生産を管理する行政管理機関への転化を意味しているのではまったくない。これらは政治的組織的指導の機関、大衆の教師であり組織者であったし、今もそうである。新たな状況においては、経済カードルの役割は小さくならないばかりか、一層増大している」ことが再編当初から一貫して主張されたのである (6)
もっとも、実際に職務代行は頻繁に生じていたことから、当時のこうした主張が警鐘という性格をもっていることも確かである (7) 。また、職務代行批判は、ことに農業分野においてはフルシチョフ期、ブレジネフ期からペレストロイカ期に至るまで常に見られたのであり、職務代行を戒める発言と経済における党の直接的な活動に関する発言が同時になされ続けていたとの指摘を考慮するならば (8) 、指導部の言説を見るだけではあまり意味がないとも言える。
そこで筆者が注目するのは、この時期、1962年3月の党中央委員会総会決定によって農業機関の整備が先行して進められており、62年11月の党機関の再編も農業機関の再編と連動していたということである。もちろん党機関の再編に先立つ農業機関再編の事実も多くの研究で指摘されている。しかし従来は、中央における連邦農業省・農業相を一方のアクターとする政治的対抗関係が注目され、また62年3月、11月の改組が一括された上で農業生産・調達に関する党機関の役割の強化を目指した改組であると捉えられ、あるいはまた全体的な政治的対抗関係の中でのフルシチョフの短命な組織改組の一例として扱われるなど、党機関の再編以後の農業機関に関する政策、党機関と農業機関の関係にはさほど関心が向けられていないように思われる (9)
筆者が以前に検討したところでは、62年3月の党中央委員会総会においてフルシチョフにより前面に打ちだされた農業機関整備の方針は、62年11月の党機関の再編に至る過程においても貫かれており、農業指導は農業機関に委ねることが主張され続けていた (10) 。党機関の指導の改善あるいは統制の強化(あるいはその両方)が目指された一方で、同時に農業機関の活動の一層の改善も求められていたのである。そうである以上、党機関の再編後の時期において、党機関と農業機関の役割、相互の関係がどのようなものであったかということは、詳細な検討を要する問題なのである。
本稿の課題は、このような状況を踏まえて、この1962年11月の党機関・農業機関再編から、1964年末から65年にかけてのフルシチョフ失脚直後の「非フルシチョフ化」とでもいうべき再改組の時期を対象として、地区の農業機関と党機関について、とくに農業機関強化の方策に注目して考察すること、そのことを通じて当時の政治情況の一端を示すことである (11) 。次節では62年11月の改組に至るまでの農業管理機構をめぐる動きを簡単に確認していくことにする。

1. 1962年11月の再編 − 経緯と内容 −

第二次世界大戦の危機的状況の中、党機関は工業においても農業においても中心的、直接的役割を果たしていた。戦後、指導部は、経済的な意思決定と政策実行における地方党機関の直接的な関与を拒絶し、党機関の役割を間接的な指導に限定する方針を採用した。工業分野においてはこの党機関の新たな役割は比較的速やかに定着していき、地方の党指導者たちは「スタッフ」的な活動に馴染んでいき、「ライン」の機能は経済指導者へと戻りつつあった。しかし農業分野においては、戦後も地区党委員会が主要な役割を果たし続け、地方の党指導者は「ライン」と「スタッフ」の双方の役割を果たし続けていた (12) 。1947年2月の党中央委員会総会において農業管理機構の問題が取り上げられた。地区ソヴェト執行委員会土地部 《райзо》 とMTC(機械・トラクター・ステーション)とがコルホーズと農村を管理する主要な機構と位置づけられ、MTCには政治担当所長代理のポストがおかれた。これとあわせて地区党委員会の間接的な指導も改めて強調されたが、地区ソヴェト執行委員会も地区ソヴェト執行委員会土地部も農業政策の実行において責任ある役割を担おうとせず、地区党委員会はしばしば地区ソヴェト執行委員会土地部と同じ活動をおこない、あるいは地区ソヴェト執行委員会土地部がおこなうべき活動を単独でおこなっていた。スターリンの死までこうした状況に大きな変化は起こらなかった (13)
1953年9月の党中央委員会総会以後、フルシチョフは農業管理機構の再編成に本格的に着手した。MTCがコルホーズ、農村管理の拠点と位置づけられたのである。地区ソヴェト執行委員会土地部が廃止され、そのコルホーズに関する権限・機能は、一部が地区ソヴェト執行委員会に委ねられたが、主としてMTCへと移管された。党の機構も変更された。53年9月の党中央委員会総会は地区党委員会の構造変更を決定し、MTCの管轄領域ごとに地区党委員会の書記が率いる指導員グループが組織された。これに伴い、MTCの政治担当所長代理のポストと、地区党委員会の農業部が廃止された。しかし、MTCを拠点とした管理は期待通りの成果につながらず、1957年9月19日付党中央委員会決定により、MTCの領域ごとの指導員グループは「その任務を達成した」として廃止された (14)
1958年にはMTC自体も廃止されていくが、地区ソヴェト執行委員会土地部は再建されなかった。地区ソヴェト執行委員会に数名からなる農業指導員グループがおかれたものの、結局は地区党委員会が農村の状態に関する責任を引き受けざるを得ない状況であった。しかし地区党委員会の方も、MTCの領域ごとの指導員グループはすでに廃止されていた上に、農業部も復活されなかったので、地区党委員会に課せられた負担は過重となり、農村における統制は乱れ始めた。管理機構の整備が急務であったが、フルシチョフは伝統的な農業省のラインによることを拒否し、逆に調達機関などの機能別機構を設置して農業省からは1961年に生産の管理、予算措置に関わる権限を奪った。これは、フルシチョフの政策の基本方針が、農業管理を農業省から地方党機関へと移すことにあったためとも言われる (15) 。しかしその結果生じたのは統制の強化ではなく、機構の複雑化と混乱であった。
1962年3月に開かれた党中央委員会総会は、フルシチョフの提案によって、複雑化した機構の統合へ向かう形の農業管理の再編を決定した。同総会決議を受けて、62年3月22日付で党中央委員会・閣僚会議決定「農業管理の再編について」が採択され、共和国農産物生産調達省−州・地方農産物生産調達管理局−地域生産コルホーズ・ソフホーズ管理局という農業管理体系に再編成することが定められた (16)
この体系の特徴としては、以下の三点が指摘できよう。第一に、従来別個の機関の管轄下にあったコルホーズとソフホーズがいずれもこの体系の管轄下に入り、農産物の生産と調達の責任も一括してこの体系の管轄下におかれた。第二に、農業管理機関の体系の末端に位置する地域生産コルホーズ・ソフホーズ管理局は、原則として複数の地区を管轄する地区合同機関として設立された。そしてこの機関は、単一の地区を管轄する形で設置された場合も含めて、地区ソヴェト執行委員会には従属しないとされた。「二重の従属」の枠外におかれ、上級機関である州農産物生産調達管理局への「縦の従属」にのみ服したのである。こうした地域生産コルホーズ・ソフホーズ管理局は全国に約960設立され、農業管理の「主要な環」と位置づけられた (17) 。そして第三に、この生産管理局には管轄領域内で活動する党オルグと指導員グループがおかれた(〈図1〉,参照)。
こうした形で農業管理機関が再編成されると、上記の第二、第三の特徴に関わる問題が生じた。生産管理局が地区組織に従属せず、生産管理局におかれた党オルグも地区党委員会から独立していたため、地区党委員会との関係を中心に混乱が生じたのである。この混乱状況の解決は62年11月の党中央委員会総会へともちこまれた。もちろん、62年11月の党機関の再編は、この混乱に対処するためだけにおこなわれたものではない。しかし後述のように地区区分が再設定されるなど62年3月以後の地区における混乱への対処という一面を備えていた (18) 。この混乱に対処する過程においてフルシチョフが、コルホーズ・ソフホーズ生産の指導の主要かつ唯一の機関は生産管理局であると主張し続けていたことは注目されてよい (19)
62年11月の党中央委員会総会はフルシチョフの党再編提案を承認し、その決議「ソ連経済の発展および党の国民経済指導の再編について」によって党機関を生産原則に基づいて再編することが定められた (20) 。この決議に基づいてソ連共産党、各共和国共産党の中央委員会に工業建設ビューローと農業ビューローがおかれ、工業・農業ともに発展しているとされた5地方70州に工業党委員会、農業党委員会の二つの州党委員会が設けられるなど党組織の再編が進められた (21)
本稿の主題に関わるのは地区の再編である。原則として生産管理局の管轄領域と一致させる形で地区が拡大再編された。この際、生産管理局の管轄領域は縮小の方向で見直され、従来の地区と生産管理局の領域との中間程度の規模で新たな地区が設定され、生産管理局も各地区に設立される形となった (22) 。この再編に伴い、例えばウズベク共和国のホレズム州、カラカルパク自治共和国などそれまで生産管理局が設立されていなかった地域でも生産管理局が設立された (23) 。こうして再編成された生産管理局は、原則として管轄領域が地区区分と一致したにもかかわらず、引き続き地区ソヴェト執行委員会には従属しなかった (24)
一方、従来地区のすべての党組織を指導していた地区党委員会は廃止され、地区内のコルホーズ、ソフホーズ、農業関連企業などの党組織を指導するコルホーズ・ソフホーズ生産管理局党委員会(以下、生産管理局党委員会)が設立された(〈図2〉参照)。
こうしてソ連邦全域における農村地区は拡大再編成され、農村地区の数は62年1月の3421から63年4月1日の時点では1711となった。そしてそのほとんどに生産管理局と生産管理局党委員会がおかれる形となった (25)
このように、1962年11月の「党の国民経済指導の再編」は、確かに党機関の活動改善を目的としたものであったが、しかし、それに向かう過程において農業指導における生産管理局の役割が強調されていたこと、また地区を生産管理局の領域と一致させる形での再設定が進められた際に、各生産管理局の管轄領域が縮小されたこと、従来は生産管理局が設置されていなかった地域で生産管理局が設置されたことから、生産管理局による農業管理の体系を一層整備する性格も同時に備えていたと言えよう。そして以下に確認するように、これ以後も農業機関を整備、強化する方策が一貫してとられていくのである (26) 。党が「指導」し、経済機関が「管理」するという原則は、ここでも有効であった。しかし「指導」と「管理」という原則は、実際には守られないのが常であったとも言えるので (27) 、再編された生産管理局と生産管理局党委員会との間に実際はいかなる「分業」関係をつくりあげることが目指されたのか、そのためにどのような方策がとられ、そして実態はどのようなものであったかということを検討しなくてはなるまい。次節ではまず、生産管理局と生産管理局党委員会の組織構造などについて確認しよう。

2. 生産管理局と生産管理局党委員会 − 組織・充員・質的構成 −

まず1962年11月以後再編された生産管理局の組織構造を確認しよう。ウクライナ共和国ドネツク州で29のコルホーズを管轄し有益な経験を積み重ねているとされたマリインカ生産管理局を例にとると、アパラートは40人からなり、局長、局長代理のもとに経済・計画作成グループ(4人)、主任農業技師グループ(5人)、主任畜産技手グループ(4人)、機械化・建設グループ(6人)、会計本部(5人)がおかれ、この他にコルホーズのカードルの養成・再教育に取り組む農学教授法専門員とカードル指導員各1名がおかれていた。コルホーズ・ソフホーズで活動する監督=組織活動員 《инспектор−организатор》グループ(7人)は局長に直属であった。この40人の内訳は、農業技師13人、畜産技手5人、機械技師および土地開発担当者計5人、農業エコノミスト2人、経済実務専門家4人、畜産エコノミスト1人、カードル養成専門家1人、会計官3人、補助職員6人である (28)
またベロルシア共和国ブレスト州のピンスク生産管理局では、局長、局長代理のもとに主任農業技師、主任獣医、主任畜産技手、主任技師、建設技師、土地開発技手、土壌学専門家、カードル担当指導員のポストと、計画・財務部(5人)、会計官グループ(5人)がおかれ、監督=組織活動員は8人であった (29) 。役職・部局の名称、人員の配置にやや違いはあるが、基本構造は確認できよう。
最初に例にとったウクライナ共和国ドネツク州のマリインカ生産管理局は職員数40人で、管轄経営数は29であった。他に例えばロシア共和国クラスノダール地方のウスチ・ラビンスク生産管理局は職員数42人に対して管轄経営数は29であった (30) 。1962年3月の農業管理再編によって設立された当初は、ソ連邦全体の平均で1生産管理局あたりの職員定数45人、管轄経営数51、ウクライナでの平均は職員定数46人、経営数53、ロシアでの平均は職員定数47人、経営数52であり (31) 、1962年11月の再編によって各生産管理局ごとの職員数は減っているが、管轄領域の縮小再編によって管轄経営数も著しく減少したことがわかる。
しかしウズベク共和国では、賃金フォンドの制約から生産管理局の平均職員数を1962年3月当時の46.5人から33人にまで減らさなくてはならなくなった結果として、63年初頭には生産管理局に農業生産の主な部門の専門家のポストが各1ずつしかない状況となった。局長代理が主任農業技師を兼任し、その他には主任畜産技手1人、主任技師1人、主任獣医1人がいるだけで、これらの部門の上級、平の専門家のポストはおかれていなかった (32) 。管轄領域の規模、管轄経営数との相対的な関係はどうあれ、各生産管理局の職員数がこれほど大幅に削減された場合は、生産管理局の構成に否定的に影響したと考えられる。
他方、生産管理局党委員会のアパラートでは、通例、書記1名と書記代理2名がおかれ、書記代理がそれぞれ部長を兼任する組織部とイデオロギー部の二つが正規の部としておかれていた。組織部、イデオロギー部に各数名の指導員が配置された他に、コルホーズ、ソフホーズの党組織の指導を担当し主として現場で活動する監督=党組織活動員 《инспекторпарторганизатор》のグループがおかれた。生産管理局党委員会については人員規模が明確に定められていた。管轄規模に応じて2グループに分けられ、第1グループでは生産管理局党委員会のアパラートの定員が主要職員25人以下、補助職員7人以下、第2グループでは主要職員22人以下、補助職員6人以下と定められた (33)
それまでの農村地区の地区党委員会と比較すると、従来の農村地区党委員会は3グループに分けられ、それぞれ主要職員が18人、15人、12人、補助職員は各3人であった。平均では従来の地区党委員会では主要職員14.5人、補助職員3人であったのが、生産管理局党委員会では主要職員が19.8人、補助職員4.1人となった (34) 。単純に比較すると、生産管理局党委員会はそれまでの地区党委員会よりも人員規模が大きくなっている。
しかし生産管理局党委員会の管轄領域、つまり新たな地区の領域は、それまでの地区よりかなり大きくなっていることも考慮しなくてはならない。具体的には例えば、キエフ州カガルルィク生産管理局党委員会の主要職員は、組織部とイデオロギー部の指導員各4人、監督=党組織活動員11人など計25人であった。これは同党委員会が第1グループに属していることを示しており、生産管理局党委員会全体の平均より大きいが、しかし同党委員会は四つの旧地区党委員会からなり、旧地区党委員会の主要職員の合計は60人を数えていたのである。組織合同の結果人員が削減されるのは当然であり、また生産管理局党委員会は農業党組織の指導に活動が限定されたことも考慮しなくてはならないが、管轄領域の拡大の仕方に較べると、生産管理局党委員会の人員規模の増大の仕方は相対的に小さいと言えるのではないか。実際、同党委員会書記代理のモロズ (И.Мороз) は、管轄下の党組織が著しく増えたのに対して、党委員会の職員は60人からわずか25人となったので、新たな活動方法を見出すことが必要となった旨を述べている (35)
生産管理局と生産管理局党委員会とを較べると、例えばウスチ・ラビンスク生産管理局の職員数42人、ウスチ・ラビンスク生産管理局党委員会の職員は25人 (36) と、生産管理局の方が人員規模が大きい。また部局の構造も、農業管理機関である生産管理局は、当然ながら計画作成や農事指導を管轄することを前提とした構造となっている。これに対し、生産管理局党委員会の人員規模が相対的に小さいこと、組織部とイデオロギー部のみを備えていることは、生産管理局党委員会が直接的な農業管理に乗り出すことは基本的に想定されていないことを示している (37)
ただし、生産管理局の組織構造が相対的に複雑なことから、組織全体としての人員規模は生産管理局の方が生産管理局党委員会より大きくとも、直接コルホーズ・ソフホーズに赴いて活動する中心的な人員である監督=組織活動員と監督=党組織活動員については逆転することがあり得る。実際、先に見たクラスノダール地方のウスチ・ラビンスク生産管理局の職員数が42人で、監督=組織活動員が6人であるのに対して、ウスチ・ラビンスク生産管理局党委員会の職員数は25人であったが監督=党組織活動員は7人であった (38) 。従来の地区党委員会がこうした人員をもたなかったことが、地区党委員会の活動を、生産に直接関与しない間接的な指導にとどめておくある程度の役割を果たしたとの指摘を念頭におくと、このことはコルホーズ、ソフホーズに対する生産管理局と生産管理局党委員会の活動に影響するとも考えられる。実際、生産管理局の監督=組織活動員の人数が少ないことは、その活動が適切におこなわれていない原因の一つと捉えられていくことになる (39)
続いて新設機関への充員の様子を確認しよう。新機関充員のためのカードルの供給源としては、再編によって余剰とされた党カードルが考えられる。再編の結果党アパラートの定員総数が削減されたからである。1963年2月28日付の党中央委員会宛て報告によれば、再編によって初級組織を除く党アパラートの定員総数は主要職員が8万2880人から7万4163人に、補助職員は2万154人から1万9338人に削減された (40) 。削減の度合いは地区レベルで著しかった。64年11月14日付の党機関部宛て報告では、地区党委員会のアパラートには62年12月1日当時主要職員が4万7475人いたが、現在の生産管理局党委員会、工業生産党委員会、北方・タイガ・山岳地区党委員会の定員では主要職員は4万39人であり、7436人減少していることが指摘されている (41)
共和国単位で見ても、ベロルシア共産党中央委員会からの報告によれば、党アパラート全体では主要職員で237人、補助職員で41人削減されており、地区レベルでは再編前の農村地区党委員会の職員と生産管理局の党オルグなどの総計で主要職員が2117人、補助職員が360人であったのが、新設の生産管理局党委員会のアパラートでは主要職員1674人、補助職員252人へと大幅に削減された (42) 。またエストニア共産党中央委員会は、その再編計画において党機関全体での定員を30人削減すると定めたが、地区レベルでは地区党委員会の職員、生産管理局の党オルグら計421人であった党職員の定員を再編後は357人まで削減すると定めていた (43)
こうして党機関の再編によってアパラート職員が削減された (44) 。多くの余剰人員が発生したことから、適切な選抜がおこなわれた場合は、相対的に能力の高いカードルによって新機関が充員される可能性が生じたが、実際の充員状況はどうであろうか。
まず新設機関の充員に伴う人の異動経路を簡単に確認すると、生産管理局、生産管理局党委員会の職務には前地区党委員会書記、執行委員会議長らが派遣されたとの指摘が見られるが (45) 、オデッサ州の例では、30の地区党委員会を再編して14の生産管理局党委員会を新たに組織した際に、地区党委員会の書記、部長、部長代理、指導員の主要職員として働いていた360人のうち、67%にあたる241人が生産管理局党委員会の職へと移った (46) 。この他にも20人が州党委員会を含む党アパラートの職へ、27人が地区ソヴェト執行委員会・村ソヴェトの専従の職へと移ったのに対し、生産管理局の仕事へ派遣されたのはわずか7人であった。地区党委員会第一書記であった30人について見ると、7人が生産管理局党委員会書記、7人が書記代理、2人は農業州党委員会の部長となって計16人が党機関の仕事へ移り、6人が地区ソヴェト執行委員会議長、4人が生産管理局局長となった (47)
地区党委員会第一書記30人のうちの4人、生産管理局局長のポスト14人のうちの4人という数字は多いと見るか少ないと見るか判断の難しいところではあるが、書記を含む主要職員360人のうち生産管理局へ移ったのが7人であるから、この4人の第一書記以外に地区党委員会から生産管理局での仕事へ移った者は330人のうちで3人となることも考慮すれば、地区党委員会から生産管理局への充員は稀であったと言えよう。ニコラーエフ州の例でも地区党委員会職員の73%までが新設の党機関に任命されており (48) 、こうした事例にもとづくと再編前に地区党委員会で働いていた者の大半は生産管理局党委員会を中心とする党機関へと異動し、生産管理局の充員には地区党委員会のカードルはほとんど貢献しなかったと考えられる。  次に、資料上の制約から断片的となるが充員されたカードルの質的構成を見よう。生産管理局では、局長はロシア共和国では約90%が高等・中等の農業教育を受けており (49) 、ウクライナ共和国では251人中144人が農業技師、畜産技手と獣医が35人、機械技師45人とここまでで専門家の比率は約89%に達し (50) 、ヴィンニツァ州で13人全員 (51) 、ハリコフ州で13人中12人が農業専門家であった (52) 。再編前の62年半ばにはソ連邦全体で生産管理局局長960人のうち専門農業教育を受けていたのは786人 (53) 、約82%であり、全体の約3分の2を占めるロシアとウクライナで約90%ならば共和国間の格差を考慮しても専門家の比率は高まったと考えてよかろう。
監督=組織活動員についてもロシア共和国では70%が高等・中等の農業教育を受けているが (54) 、61人中57人が農業専門家というスタヴロポリ地方のように平均を上回る地域もあるため(55)、70%を相当下回る地域もあると考えられる。また、監督=組織活動員は、再編前にはソ連邦全体で78%以上が高等・中等の農業教育を受けていたので (56) 、全体の約半数を占めるロシア共和国の平均が70%では、再編によって専門家の割合は下がった可能性が高い。
生産管理局党委員会では、農業専門教育を受けた人員の割合は相対的に低くなる。書記18人中12人が農業専門家というサラトフ州の例もあるが (57) 、ソ連邦全体では書記、書記代理のうち農業教育を受けていたのは3分の1であった (58) 。またアゼルバイジャン共和国では生産管理局党委員会書記32人のうち高等農業教育を受けた者だけで12人 (59) 、37.5%であるが、カザフ共和国では生産管理局党委員会書記120人中農業専門家は39人、書記代理では農業専門家は4分の1であり (60) 、割合は一様ではない。ウクライナ共和国ヴィンニツァ州でもやはり書記と書記代理の3分の1が農業教育を受けているが (61) 、同共和国でもハリコフ州では書記13人のうち農業専門家は多くても2人であった (62)
監督=党組織活動員では、例えばタムボフ州の13の生産管理局党委員会の活動中の監督=党組織活動員95人のうち高等教育を受けている者18人、未修了高等教育13人、中等教育53人とあるので (63) 、残る11人は中等教育さえ受けていないと考えられる。このうち農業専門家は31人いるが、同州では四つの党委員会で監督=党組織活動員のうち専門家は1人のみ、ある党委員会では監督=党組織活動員8人中専門家は1人もおらず、2人は普通中等教育さえ受けていなかった。それでも32人が高等・中等の農業教育機関の通信教育を受講中であり、ある生産管理局党委員会では9人の監督=党組織活動員のうち4人が農業専門家で残る5人は農業大学の通信教育を受講中であるなど (64) 、農業教育が軽視されているとは言えない。
監督=組織活動員における専門家の割合の高いスタヴロポリ地方でも63年末の時点で監督=党組織活動員85人のうち農業専門家は40人で、監督=組織活動員と較べるとかなり低い。とはいえ、農業教育を受けていない者のうち20人が農業大学や技術訓練学校で学習中であり、監督=党組織活動員という職にとって専門教育が重視されていないわけではない (65) 。カザフ共和国では監督=党組織活動員の中で農業専門家は3分の1で、格段に低いわけではないが、63年7月8日付報告の時点でこの職の定員516人のうち105人が充員されておらず、生産管理局党委員会のイデオロギー部、組織部の指導員でも972人中783人しか充員されていないなどカードル不足がうかがえる (66)
1963年2月11日付の党機関部指導員のウクライナに関する報告は、ウクライナ共産党中央委員会といくつかの州党委員会が、生産管理局党委員会の仕事へ専門知識のある活動家を登用することに「持てる可能性のすべてを利用しなかった」ことを批判した。ウクライナでは従来農村地区党委員会と農業を担当した市党委員会の第一書記の30.9%が農業専門家であったのに対し、現在では生産管理局党委員会書記のうち農業専門家は23.5%に過ぎず、書記代理では農業専門家は38.2%で、地区党委員会第二書記、書記の31.7%よりは若干増加したが、現在でも書記、書記代理のいずれも農業専門家ではない生産管理局党委員会が20存在することが問題とされたのである (67) 。ただしウクライナ共産党中央委員会からの63年1月26日付の報告では生産管理局党委員会書記と書記代理752人のうち315人が農業技師、機械操作手、畜産技手その他の農業専門家というやや高い数字が挙げられていることを付け加えておかねばならない (68) 。ほぼ同時期の資料において数字がこれほど異なっている理由は明らかではなく、数字に関してはどちらか一方の資料に依拠することは問題があるが、ここでは数字ではなく、農業専門家の引き入れの不足が批判の対象であったという事実に注目したい。
63年2月9日付のエストニアに関する党機関部報告も、生産管理局党委員会の書記、書記代理の質的構成が、廃止された地区党委員会書記の構成と較べて改善されるどころか悪くなりさえしたことを批判した。62年1月1日の時点では地区党委員会書記の中で農業専門家は12人、26%であったのに対して、現在は生産管理局党委員会の書記、書記代理の中に農業専門家は8人、18%に過ぎず、15のうち8の生産管理局党委員会で書記、書記代理ともに農業専門家ではないこと、さらにエストニアでは畜産が主流であるにもかかわらず書記、書記代理の中に畜産技手は1人もいないことから、「このような状況を正常と認めることはできない」と批判的に言及された (69) 。党職員、特に書記、書記代理については専門教育は決して軽視されていたわけではなかったことがわかる。


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