ソ連邦における地区の農業機関と党機関1962-1965

松 戸 清 裕


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3. 生産管理局と生産管理局党委員会 − 職務分担・活動・問題 −

1962年11月の党中央委員会総会決議によって生産管理局党委員会が設立されたのちには、生産管理局を主要な環とする新農業管理機関の役割はより一層大きなものとなったと主張された (70) 。また生産管理局党委員会の最重要課題は生産管理局の権威を高めることであるとの認識も存在していた (71) 。しかし生産管理局党委員会が農業分野に活動を限定され、監督=党組織活動員というコルホーズ、ソフホーズで継続的に活動する人員を獲得した以上、「指導」と「管理」という関係を築くためには不可欠と考えられる生産管理局と生産管理局党委員会の職務分担・権限は明確には規定されていなかった。生産管理局については62年3月22日付党中央委員会・閣僚会議決定「農業管理の再編について」にも管轄する職務が盛り込まれているので (72) 、生産管理局党委員会の活動について明確な指針がなかったと言うのが正確かもしれない。
当時、両者の活動に関する指針として広く認知されたのは、1963年3月12日のロシア連邦共和国生産管理局局長・党委員会書記会議におけるフルシチョフの発言であった。すなわち、生産管理局の取り組むべきことは「各コルホーズ・ソフホーズにおいて生産を組織すること、より優れた労働の模範によってカードルを教育すること、それにもとづいて生産の全般的水準をあげるためコルホーズ・ソフホーズへ先駆的経験をもちこむこと」であり、生産管理局党委員会が取り組むべきことは「同じく生産であるが、異なる立場からである」、党委員会は「党・コムソモール組織の意欲をかきたて、党員・コムソモール員を正しく配置し、高度な厳格さと責任、規律の精神でカードルを教育することを要請されているのだ」というものであった (73)
この指針に基づいて生産管理局と生産管理局党委員会の間に実務的関係が築かれたとの報告、報道が見られるが、そうした報告から読みとれるのはむしろ職務分担の認識の欠如である。1964年9月25日付とやや遅い時期のモルダヴィア共和国に関する党機関部報告によれば、モルダヴィア共産党中央委員会は、生産管理局との正しい相互関係を築くこと、党活動の方法と内容を根本的に改めることを生産管理局党委員会の課題として提起していた。そのモルダヴィアにおいてもとりわけ注目されるのがエヂンツィ生産管理局党委員会の活動であり、同生産管理局党委員会は生産管理局指導部との実務的なコンタクトの確保に成功し、生産管理局になり代わることはなく、当面の農作業の指導に直接関係する問題の解決には介入していないという (74)
しかしその実務的コンタクトとはいかなるもので、職務はいかに分担されていたのか。エヂンツィ生産管理局の局長と同生産管理局党委員会の書記は、相互関係と職務分担に関するフルシチョフの問題提起は完全に正しいと言明し、「われわれには誰が誰に従属しているのか、誰が誰のもとへ足を運ばなくてはならないのかという問題はない。党はわれわれに地区の農業の発展という共通の事業を委ねたのであり、われわれはこの課題を各自の方法によって解決しなくてはならない。管理局局長と党委員会書記の間に生じている軋轢、不健全な関係を説明できるものは、職員の党的教育の不十分さと党の要求の無理解だけである」と述べている (75)
かれらが「われわれには誰が誰に従属しているのか…という問題はない」と述べている点は注目されよう。先に触れた1963年3月12日の会議においてフルシチョフが、生産管理局局長と生産管理局党委員会書記は「同い年の、経営における事態に同じ程度に責任を有する二人の兄弟として」あるべきであると述べたことを考慮すれば (76) 、両者が対等の関係にあることを強調していると考えられる。もちろん二人の述べていることが実態そのものであるかという点は留保を付さなければならないが、こうした対等の立場による協力関係が成立しているとすれば、両機関の「分業」には望ましい状況であることは言うまでもない。しかしこの「同じ程度に責任を有する」というフルシチョフの発言はかえって両者の役割、責任を曖昧に受けとらせる可能性もあり、エヂンツィ生産管理局の局長と同生産管理局党委員会の書記の発言からも、明確な職務分担がなされているとの印象は受けない。それでもフルシチョフの発言に沿って、活動方法が異なることが確認されてはいるが(「われわれはこの課題を各自の方法によって解決しなくてはならない」)、現場で時には活動を伴にする監督=組織活動員と監督=党組織活動員となるとこの認識はさらに曖昧となる。
バシキール自治共和国イリシェフスコエ生産管理局党委員会の監督=党組織活動員カユーモフ (Ш.Каюмов) の認識は次のようなものである。私(カユーモフ)と監督=組織活動員は同じ経営が割り当てられ、現在同じ区画で同じ出来事に直面しているが、われわれは互いに重複はしない。それは、われわれが職務上の指示に文字通りに従って「ここからここまで」という枠内でのみ活動しているからではない。今日われわれには真に創造的な活動のための条件がつくりあげられており、そこには重複や紋切り型の場所はないのである (77)
その活動例を見よう。監督=党組織活動員であるカユーモフは、あるコルホーズで粗飼料の準備がうまく進んでいたのを知って、そのコルホーズの方法を導入するよう遅れた経営に助言した。一方、監督=組織活動員の方は大衆政治活動における欠陥に注意を怠らず、初級組織の党オルグに有益な助言を与えていた。カユーモフによれば、これは重複とはなんら一致しない、何故なら誰も欠陥に無関心で通り過ぎる権利を持たないからである (78) 。さらにカユーモフは、相互の支援は組織活動の不可欠の条件であろうと述べて、次の例を挙げた。監督=組織活動員は、コルホーズ「収穫」のコルホーズ員たちが農産物生産の増大に関する計画を作成することを支援していたが、その計画を承認するコルホーズ理事会の会議に監督=組織活動員は出席することができなかった、しかし「私[カユーモフ]にはその可能性があり、私はそれを利用した」 (79)
こうしたカユーモフの認識や行動が例外的なものである可能性も否定はできないが、これは農業管理機関の職員たちを読者に想定したロシア共和国農産物生産調達省の機関誌において、「問題提起として」との但し書きもなく公表されているのであり、反論・批判も見出せないことから、極端な例外と見ることはできない。
他方で、個々の生産管理局と党委員会との間で独自に役割分担が決定された事例も紹介されている。カザフ共和国のある生産管理局の局長と党委員会書記との間でそれぞれの機関が担当すべき問題についての合意がなされ、非常に重要な問題については合同で検討するとされた。この事例で特に注目されるのは、こうした合意の結果としてかつては地区党委員会によって決定されていた多くの問題を生産管理局へと移管したとされている点である (80)
実際、一部の生産管理局には単独で活動することへの自負も見られる。カルムィク自治共和国ゴロドヴィコフスコエ生産管理局の局長は次のように述べている。経営の指導者、専門家が保守性を発揮して上級専門家の助言の遂行を望まない場合には、行政的、党的などあらゆる働きかけによって助言の実現に努めるが、実際には「党委員会のラインによる方策に訴えることは稀である」。そのようなことは「管理局の弱さであろうし、…われわれは、俗に言う、自分の無力さをさらけだすということになろう。管理局局長の手には十分な権限、有能なアパラート、物的金銭的資源が集中しているのだ…」 (81)
しかし、生産管理局が単独で活動することは多くの場合、生産管理局と生産管理局党委員会が、別々に、同じ活動をすることにつながった。63年7月8日付のカザフ共和国に関する党機関部への報告では、東カザフスタン州のタヴリチェスコエ生産管理局は、生産管理局党委員会が何の問題を決定しているのか知らず、党委員会も生産管理局が何を決定しているのか知らないため、しばしば同一の経営に同一の問題について生産管理局と党委員会の職員が訪れていること、多くの場合に監督=組織活動員と監督=党組織活動員が実務的相互関係を有しておらず、例えばアルマ・アタ州のカスケレン生産管理局のある監督=組織活動員は、どのように監督=党組織活動員と活動を一致させているのかという質問に対し何も答えられなかったばかりか、監督=党組織活動員の姓さえ知らなかったことが指摘された (82)
生産管理局党委員会の活動が職務代行 《подмена》 と批判される例も多数見られた (83) 。個々の批判については枚挙に暇がないが、農業機関の整備が進められ、党機関による職務代行は許されないという原則も堅持されていた状況で職務代行が頻繁に起こったことについては検討を要しよう。背景としては、50年代後半から党機関の活動を管轄下の組織の生産の結果と結びつける傾向がとりわけ強まっていたことがある (84) 。こうした傾向はイデオロギー活動にさえ及んだと言えば、その影響の強さがわかろう。この時期にはソ連全域で社会的原則による大衆の引き入れに重点をおいたイデオロギー活動が盛んにおこなわれた (85) 。64年半ばまでにロシア共和国の生産管理局党委員会に957、初級党組織に3353のイデオロギー委員会が設けられ、約4万人を社会的原則で組織していた (86) 。ウクライナでも1963-64教育年度だけで社会的原則によるイデオロギー活動に7万5000人以上が従事していた (87) 。こうしたイデオロギー活動、政治的教育と、工業・農業生産発展の焦眉の課題の解決との結びつきの強化が要求されたのである (88) 。イデオロギー活動と経済・生産とを結びつける態度は党機関の活動に明確に反映された。例えばタムボフ農業州党委員会総会では、キルサノフ生産管理局の管轄下の農村の大半の初級党組織のイデオロギー活動が、コルホーズ・ソフホーズの遅れを克服すること、すべての経営による計画達成を保障することを促すのに役立っていないとして、イデオロギー活動が「無駄に」おこなわれていると指摘された (89) 。この時期の党機関は、こうしたイデオロギー活動でさえ生産の成果に結びつけられる状況におかれていた。
そして、先に見た1963年3月12日のロシア共和国生産管理局局長・党委員会書記会議においてもフルシチョフは、畜産分野における生産管理局と生産管理局党委員会の活動の鏡は「土地100ヘクタールあたりの肉と牛乳の生産の水準である。[生産管理局]党委員会と生産管理局の活動の鏡は播種地1ヘクタールあたりの穀物生産の水準であり、工芸その他作物の収穫高であり、土地の各ヘクタールの効果的な利用である」と述べていた (90) 。この発言は各所に引用されて (91) 、「活動の鏡」は「生産の水準」であるとする認識が広められた。それはロシア共和国にとどまらず、例えばウクライナ共和国ドネツク州マリインカ生産管理局党委員会書記グルホフ (З.Глухов) は、生産管理局の専門家と党委員会の職員のすべての活動の基本的な尺度は同じもの、農産物生産の水準、収穫高、土地利用の効率性、コルホーズ・ソフホーズの経済の強化、農産物の生産と国家への売却の増大であると述べている (92) 。生産管理局と生産管理局党委員会の活動の尺度が同じものと捉えられること自体、党委員会による職務代行を助長する方向に働くであろう。
また、生産管理局の職務を侵犯する党委員会への批判は時に次のようになされた。「大部分が旧地区党委員会職員からなる生産管理局党委員会のカードルの活動には依然として独特の『地区党委員会的心理 《райкомовская психология》』がある。彼らは、全般的、宣言的で必然的に行政的な経済指導という長年築き上げられた、新たな状況においては全く許容できず受け入れられないスタイルから自由になることができないのだ」 (93) 。これに類した、旧地区党委員会の活動を引き継いでいるとの批判は多いが (94) 、ここでは「地区党委員会的心理」というものに注目しよう。「地区党委員会的心理」という批判には、誤りを個人に帰する意図もあると思われるが、実に根深いものと思われるからである。
「地区党委員会的心理」という表現こそないものの、「地区党委員会的心理」の内容を的確に表していると思われるのは、1962年3月に生産管理局が設立された以後の、地区党委員会との活動の混乱の中でのロシア共和国党機関部部長代理ペトロヴィチェフ (Н.Петровичев) による批判である。この当時は生産管理局の領域で活動する党オルグと指導員がおかれていたが、ペトロヴィチェフは、何人かの党オルグと指導員の活動が生産管理局の職員の活動と重複していることを批判し、こうした欠陥はかつて農業管理機関の弱さを感じたためこれに頼らずにあらゆる経済・行政的な面倒を引き受けていた多くの地区党委員会書記たちの、以前の実践の反映であると指摘している (95) 。かつては農業機関がその職務を遂行する能力をもたなかったがために地区党委員会が農業機関の職務も否応なく「代行」しなければならなかった、地区党委員会は生産の結果に対する責任を問われたからであるという説明は、カプランの指摘した戦後期の農村における党機関のおかれた状況、党指導者の心理によく似ている (96) 。こうした心理を抱いた党職員たちが、農業機関の整備が進められていても容易にはこれを信頼して職務を委ねることができないということは理解できよう。「地区党委員会的心理」とはこうした心理ではなかろうか。
そして、「地区党委員会的心理」が克服されなかったことには、指導部の側の対応にも問題があった。生産管理局設立後、地区党委員会は農業生産に従来通り介入しても、傍観者的態度をとっても批判され、活動へのアプローチを本質的に変えるよう求められた。しかし生産管理局が農業指導の唯一の機関であることは強調されたが、地区党委員会の活動のアプローチをいかにして、どのようなものに変えるのかは具体的に示されることはなかった。62年11月の再編によって地区党委員会は生産管理局党委員会へと改組されたが、農業管理における党機関の役割、あるいは経済機関と党機関の関係、新たなアプローチなどは明らかにされないままであった (97) 。先に見たように、主として地区党委員会のアパラートから充員された生産管理局党委員会が「以前の実践の反映」を引き継いだことはむしろ当然であろう (98)
さらに、「地区党委員会的心理」、「以前の実践の反映」と無関係とは考えられないのが、生産管理局党委員会が実際には農村における農業以外の分野での地区党委員会の職務も引き継いでいたことである。1964年7月22日付のカザフ共和国クスタナイ州ウリツコエ生産管理局党委員会の活動に関する報告によれば、同党委員会はウリツコエ地区党委員会を基礎として、同じ建物に、ごくわずかの例外を除いて同じ職員によって組織された。同党委員会は活動当初に書記と書記代理の間の職責分担を以下のように決定した。

 党委員会書記(前地区党委員会第一書記):農業、統計セクター;
 組織活動担当書記代理(前地区ソヴェト執行委員会議長代理):労働組合、コムソモール、
建設、裁判所、民警、検察、公共サービス総合企業、穀物調達、同志裁判所、村ソヴェト;

イデオロギー活動担当書記代理(前地区党委員会宣伝担当書記):商業、保健、国民教育、文化部、映画館の普及、クラブ、図書館。
こうした職責分担は、地区党委員会当時の書記たちの分担と変わっておらず、ウリツコエ生産管理局党委員会書記と代理たちは地区党委員会の活動内容と方法を身につけており、生産管理局党委員会の役割についての必要不可欠な理解を欠いていると指摘された (99) 。ウリツコエ生産管理局党委員会の指導部は地区党委員会の伝統に熱心に従っており、その活動内容は「かつてのウリツコエ地区党委員会の活動内容とほとんど変わるところがない」こと、「ほとんど同様の状況が[同州の]ボロフスコエ生産管理局党委員会にもある」ことも指摘された (100) 。農村において地区党委員会の果たしていた職務を引き継ぐ党機関は、生産管理局党委員会の他には存在しなかった以上、こうした状況は至るところに存在したであろう。
そして、この報告でも指摘されているが、生産管理局党委員会は、具体的な経済・商業・財務・調達・交通・司法その他の問題解決に向けた方策をとるようにとの膨大な数の書面、口頭での指示を上級機関から受け取っていた。ウリツコエ生産管理局党委員会の場合では、この種の指示はカザフ共産党中央委員会、処女地地方党委員会、クスタナイ州党委員会などから発せられており、電話による口頭の指示の大部分も経済問題に関わるものであった。州、地方、共和国の党機関の活動の実際は、「これらがすべてかつての地区党委員会に対するように生産管理局党委員会に対していることを裏書きしている」のであった (101) 。モルダヴィアに関する党機関部宛て報告でも、共和国のいくつかの省庁が、管轄下の組織が現地で取り組むべき様々な問題の解決へ介入するよう求めた多数の電信、手紙を送りつけることによって、生産管理局党委員会を純粋に経済的な問題の解決へとしばしば押しやっていること、モルダヴィア共産党中央委員会でさえ生産管理局党委員会に対して具体的で純粋に経済的な問題の解決へと介入するよう要求していることが指摘されている (102)
これまで見てきたことからは、生産管理局党委員会という組織のあり方自体に少なからぬ問題が根差していることがわかる。生産管理局が、地区ソヴェト執行委員会から独立した形で、農業生産の管理だけをおこなう専門機関として設立されていたのに対して、生産管理局党委員会は、言わば地区党委員会農業部を拡大発展させた組織としての性格を持ちながら、しかし地区党委員会から分かれたものではなく、地区党委員会そのものが再編されたものであった。こうした生産管理局党委員会のあり方は、生産管理局との分業関係をつくりあげる妨げとなり、また活動の性格を地区党委員会と異なるものとすることも難しくした。生産管理局党委員会自体に「地区党委員会的心理」がある一方で、上級の党機関には生産管理局党委員会を地区党委員会と同様に見なし、扱う意識が根強く存在したからである。
しかし農業の「管理」は農業機関に委ねるという方針は維持された。生産管理局党委員会、監督=党組織活動員に対しては指導と批判が繰り返しおこなわれ (103) 、他方で以下に見るように、こちらも様々な欠点を抱えていた生産管理局の活動改善、カードルの質的強化の方策が採られていったのである。


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