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3. 民族関係の見取図
付録〈表1〉から〈表7〉は、1897年の人口調査に基づいて、右岸ウクライナ3県における言語集団間・宗派間の人口学的関係を示したものである。〈表1〉が示すように、県人口合計ではキエフ県が「ロシア化」(東スラブ化という意味でも、大ロシア人化という意味でも)が最も進んだ県であったが、農村の大ロシア語人口比は、キエフ県が3県中最小である。大ロシア語人口は、ポドリヤ、ヴォルィニ両県いずれにおいても非常に低かったが、ヴォルイニ県においては東スラブ語人口を合計しても県人口の4分の3にも達しなかった。国境に接する県であるヴォルィニ県がこのような極端に「ロシア人」劣位の民族状況にあることは、露墺関係が悪化した1890年代以降は問題視されるようになっていた。
〈表1〉が示すように、南西地方において都市的な言語集団だったのは、大ロシア人とユダヤ人であり、農村的だったのは、ウクライナ人とドイツ人・チェコ人である(以下、民族帰属は母語を基準とする)。ドイツ人、チェコ人が主に農村的な言語集団であったのは、彼らが政府の右岸ウクライナ植民政策の結果、この地に移住することを許された集団だからである。大ロシア語住民の「都市性」は、彼らの社会的内訳が主に官吏、軍人、正教会聖職者、大学教員などのいわば帝政権力を代表する階層であったことによる。 〈 表1〉が示す大ロシア人とユダヤ人の都市人口比をさらに県庁所在都市3市とそれ以外の市(主に郡市)に分けて見たものが〈表2〉である。ここでも、キエフ県の特殊性が目を惹く。キエフ市が大ロシア化の程度において群を抜いていたことはいまさら読者を驚かせないだろうが、それ以外の市部における大ロシア人人口比においては、キエフ県は、他の2県より劣っていたのである。ユダヤ人については逆のことが言える。キエフ県においては、県市は抜きん出て大ロシア的で、郡市以下の都市は、他の南西諸県2県のそれと比べてもよりユダヤ的だったのである。しかし、いずれの県においても、大ロシア人は郡市以下の都市よりも県市で、ユダヤ人は県市よりも郡市以下の市において、より大きな人口比を占めている。
言語集団の構成比と、〈表3〉に示される宗派構成比とを比較してみよう。ドイツ系・チェコ系言語集団が新教徒と、ユダヤ系言語集団がユダヤ教徒と、ともに人口比においてほぼ一致するのに対し、旧教徒人口は、ポーランド人人口を大きく上回っている(ヴォルィニ県で1.6倍、ポドリヤ県で3.8倍、キエフ県で1.6倍)(43)。ヴォルィニ県について見れば、大ロシア語住民の1.7%、ウクライナ語住民の5.1%、白ロシア語住民の22.3%、チェコ語住民の26.6%が旧教徒であった(44)。ここに、対ポーランド政策とは切り離して対カトリック政策を展開する余地があったのである。つまり、反ポーランド政策を強化する場合、旧教徒全体に対する差別を強化する十把一絡げの方法と、旧教徒政策は緩和して、ポーランド人をそれ以外の旧教徒から孤立させる「分割・統治」的方法の二つがありえた。
〈表1〉は、ポーランド人が農村と都市の双方に足場を有していたことを示している。農村においては、残存していた大土地所有者とそこに働く管理者・農民が、また「一戸持ち (odnodvortsy)」「第2級自由民 (vol'nye liudi vtorogo razriada)」「永久小作人 (chinsheviki)」などの様々な身分・階級集団に転化していた没落シュリャフタ層がポーランド系住民を代表していた。都市においては、ポーランド系住民は、弁護士、技師、都市自治体職員などの知識階層に大きな比重を占めていた。
ヴォルィニ県のみについてのデータであるが、〈表4〉は、以上の観察を身分構成比の点から確証している。大ロシア人とポーランド人の貴族性は群を抜いており、他方でウクライナ語住民と白ロシア語住民の農民的性格は鮮明である。大ロシア人とポーランド人とを比べて後者に一代貴族と名誉市民の比率が少ないのは、彼らが官職から排除されていたからであろう。ユダヤ人の約98%は、町人身分に属していた。
識字率の点では、〈表5〉に見るように、正教徒(旧儀派も含め)の劣勢は明白である。とりわけ女性正教徒の識字率の低さは破局的な水準にある。右岸ウクライナにおける大ロシア語住民が「支配者・占領者」的階層であったことからすれば当然だが、識字率を下げているのはウクライナ語住民である。ここで、正教ロシア語住民、正教ウクライナ語住民、旧教ポーランド語住民の3グループについて識字率を比較してみよう。〈表6〉では、参考のため、左岸ウクライナ3県についての同種のデータも掲げてある。この表から言えることは、ロシア語とポーランド語については、母集団の人口比が大きくなればなるほど識字率が下がったということである(大ロシア語住民の識字率は右岸より左岸の方が低いし、ポーランド語住民の識字率は左岸より右岸の方が低い)。ある言語の使用人口が大きいということは、その言語がエリート以外の階層にも浸透していたことを示しているからであろう。また、左岸ウクライナのウクライナ人の識字率が右岸のそれより高かったのは、左岸にはゼムストヴォが導入されていたからである。つまり、ある言語の識字率は、(1)その言語を使っていた社会階層がいかなるものであったか、(2)貧しい階層にも公教育を普及するゼムストヴォがあったかどうか、によって左右された。これに対して、ウクライナにおいて学校教育が住民多数派の母語で行なわれていなかったことが識字率を引き下げていたというウクライナ民族主義者の主張が正しいかどうかは、〈表5〉〈表6〉からは判断できない。チェルニーゴフ県において(母語で学校教育を受ける権利を奪われていた)ウクライナ語使用正教徒の識字率がロシア語使用正教徒のそれを僅かながら上回っていたという事実は、みぎの主張を疑わしめるだろう(45)。
以上に検討してきた識字率とは、ロシア語によるそれとロシア語以外の言語によるそれの合計なので、ヴォルィニ県について、みぎの二つの識字率を区別したデータを〈表7〉に示す(46)。ここでいうところの「その他の言語」とは、白ロシア人の場合を除いて、当該言語集団の母語と考えられる。もし、「ロシア語では読み書きできないが、母語でならできる」ことを民族的な遠心性の発現と考えるならば、ドイツ人とユダヤ人の遠心性が最も大きく、タタール人、チェコ人、ポーランド人がそれに次ぐ。ここでも、ウクライナ人と白ロシア人の民族性の高揚の度合いはミゼラブルな水準にあると言える。
ウクライナ人が農村的なエトノス集団にとどまったことには、もちろん、経済的理由があった。農業発展のプロシア的な道を辿っていた右岸ウクライナ農村には、過剰人口を吸収し得る雇用があったのである。しかし、ウクライナ人の都市嫌いの文化的な背景も見逃すことはできない。同時代のロシアの農村青年が一旗揚げることを夢見て大挙して都市に出稼ぎに出たのに対し、右岸ウクライナの農村青年にとって、未知の言語と文化に支配される都市は居心地の良い場所ではなかった。たまに何かの用事で都市に出かけると、言葉を理由として嘲笑されたのであろう(ちなみにこれは、こんにちのキエフでもよく見かけられる光景である)。
教育の遅れから、ウクライナでは民族知識人の形成が遅れた。オレスト・サブテルニーによれば、1897年の時点で、ウクライナ人は、ウクライナの法律家の16%、教師の25%、作家・芸術家の10%足らずを占めるに過ぎなかった。1917年の時点で、キエフ大学の学生のわずか11%がウクライナ人であった(47)。このように、ウクライナ人は、都市化・工業化の波にも、識字率上昇・公教育普及の波にも乗り遅れたのである。19世紀は、ウクライナ人にとって最も屈辱的な時代であったと言ってよい。こうしたことから、少なくとも1905年革命以前においては、ロシア政府はもとより、現地のポーランド系エリートも、そしてウクライナ民族運動の指導者さえも、「現地住民」のアイデンティティーがプレ・ナショナルな段階にあるということを前提として民族政策を展開したのである(48)。
次に、土地所有の面での南西3県の脱ポーランド化の度合いを見てみよう。1865年の時点で西部9県全体の地主総数に占める「ロシア人」の割合は「70対1」であると言われた。こうした状況を変えるべく、第二次ポーランド蜂起の後、ポーランド人の土地取得・購入が制限され、他方で「ロシア人」の土地購入を容易にし、また内地諸県からの「ロシア人」の入植を容易にするための特恵措置がとられた。その結果、1903年時点での政府資料によれば、全私有地面積に占める「ロシア人」の所有地面積とポーランド人の所有地面積の比率は次の通りとなった(49)。
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「ロシア人」 |
ポーランド人 |
ヴォルィニ県 |
45.4% |
47.9% |
ポドリヤ県 |
49.8% |
48.3% |
キエフ県 |
59.3% |
不明 |
これだけを見れば、土地所有における「ロシア人」とポーランド人の間の力関係は対等、もしくは「ロシア人」の若干の優位にあったかのようである。しかし、上表に示された「ロシア人」の土地所有は形式的なものである。これはアファーマティヴ・アクション一般が抱える問題点でもあろうが、土地取得の特恵措置が設けられれば、その地方に定住して真面目に農業経営に従事しようとする者よりも寧ろ、特恵措置による人工的な地価と市場地価との差を利用して、投機的な転売・賃貸利益を得ようとする輩を惹きつけてしまうことは容易に予想されることである。たとえそのような悪意がなくとも、南西地方で土地を買った大ロシア人は、官職の必要から一時的に南西地方に住んだ者、内地諸県に自分本来の領地を持っている者が大半だったので、いずれにせよ南西地方で購入した領地を賃貸に出すことは不可避であった。しかも、政府資料によれば、貸し出された領地の約4分の3は(法がそれを制限していたにもかかわらず)ポーランド人の手に落ちた(50)。したがって、上表において「ロシア人」所有地とされている土地のかなりの部分は、実際にはポーランド人によって経営されていたと考えられる。
領地経営の質については、大経営については「ロシア人」経営はポーランド人経営に比べてさほど劣ってはいないが(51)、中規模以下の経営ではポーランド人の方が優位にあると言われた(52)。「ロシア人」経営が各々孤立して農業を営んでいるのに対し、ポーランド人経営は実に緊密に情報交換し、集団的に技術革新・経営合理化してゆく傾向があった。19世紀の末から各地で組織され始めた農業協会は、最初は民族問題を脇においた非政治的団体だったが、1905年革命以降は、次々とポーランド民族主義者の指導下に置かれるようになった(53)。このため、たとえば1908年から1909年にかけてヴィンニツ、ルーツクなどで開かれた農業展覧会においてはポーランド語が事実上の公用語となり、内容的にもポーランド人経営の優良さを宣伝する場となった(「ロシア人」経営から出された展示は劣悪な場所をあてがわれた)(54)。農民に対する援助という点では、ポーランド人地主はポーランド人コミュニティー内部の福祉と経営改善にしか興味がなく、現地民(ウクライナ人)のために学校・病院などを建設してやろうとする意欲に欠ける、と政府側資料においてしばしば批判されているが(55)、その一方では、ポーランド人地主の指導下にあったポドリヤ農業協会がウクライナ語の農事改善パンフレットを出版したのを官憲が警戒していることを示す史料もある。面白いことに、この史料は、農業協会がポーランド人地主の支配下に落ちたため、「ロシア人」地主はゼムストヴォを通じて農民への働きかけを行ないたいと願い、そのためにゼムストヴォの導入を「一日千秋の思いで待っている」と指摘している(56)。
1907年6月3日クーデター以前の選挙法(第1、第2国会選挙の際の選挙法)においては、上述の土地所有における民族構成が地主クーリヤの選挙人数に反映する仕組みになっていた。たとえば第2国会選挙におけるポドリヤ県について、地主クーリヤの選挙人の民族構成を見れば、「ロシア人」が34名に対してポーランド人が42名であった。このような状況は政府の許容するところではなかったので、6月3日クーデター以降は、西部諸県には選挙人の選出を民族別に行なうシステムが導入された。言い換えれば、ポーランド人選挙人の数に上限が設けられたのである。その結果、地主クーリヤ選挙人の民族構成は、「ロシア人」68名、ポーランド人8名となった(57)。前述の土地所有における力関係と対比するならば、クーデター後の選挙法がいかにいびつなものであったかがわかるだろう。これにより、西部諸県のポーランド人は、第3、第4国会からは事実上排除されてしまったのである。しかし、国家評議会(上院)選挙においては、みぎのようなゲリマンダーは実現されえなかった。皮肉なことに、政府の反ポーランド人政策のため西部諸県にはゼムストヴォが存在しなかったので、(ポーランド人貴族の勢力が優勢な)県郡貴族団がここにおける主な上院選挙媒体となった。南西3県については、この状況は1911年に選挙制ゼムストヴォが導入されるまで続いた。以上の事情から、たとえばポドリヤ県の国家評議会選挙有権者の民族構成は次の通りであった。
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「ロシア人」 |
ポーランド人 |
総数 |
1906年選挙 |
243(39%) |
379(61%) |
622(100%) |
1909年選挙 |
275(43%) |
370(57%) |
645(100%) |
しかも、「ロシア人」貴族と言っても、前述の通り不在地主が多く、しかも有権者集会に足を運んでもポーランド人に勝てないことは選挙前から明らかであったので、「ロシア人」有権者の棄権率は高かった。ポーランド人有権者の選挙参加率が1906年選挙と1909年選挙のそれぞれについて44%、52%だったのに対し、「ロシア人」のそれは6%、16%にすぎなかった(58)。これとは対照的に、ポーランド系貴族は、勝てる見込みの少ない国会選挙にも熱心に参加した。政府の資料には、パリに在住するあるポーランド系伯爵が、自分が選挙権を有するキエフ県ラドムィスリ市の予備大会に参加するためにわざわざ帰省し、選挙人選出の1票を投じた後に再びパリ行きの汽車に乗ったというエピソードが紹介されている(59)。
国政選挙のこのような状況は、第二次ポーランド反乱後、西部諸県にゼムストヴォの導入を許さず、貴族団長の選挙制をも剥奪したツァーリ政府の読みが、少なくとも政治的功利主義の見地からは正しかったことを示している。
本節の最後に、右岸ウクライナにおける宗派間関係を見よう。旧教聖職者は、「宗教の名の下にプロパガンダを行なう、組織的で厳格な規律を有するショーヴィニスト政党」(60) であると政府側から見られていた。正教・旧教関係を伝える史料として、1909年11月にヴォルィニ県憲兵隊長が県知事に提出した文書を紹介しよう。この文書によれば、正教司祭の祖先の大半は、ポーランド支配下でいったんカトリックかグレコ・カトリックの聖職者となることを強いられ、ポーランド貴族の「知的・道徳的影響下」に置かれた。そのため、正教司祭の多くはこんにちに至るもポーランド風の姓を名乗っており[これはまさにその通りであり、そのため、この文書に前後して正教司祭が政治化し、ロシア人民同盟などの右翼活動家になってゆくと、「苗字はポーランド系、民族的にはウクライナ人、イデオロギー的には大ロシア主義者」 という奇怪な光景が現出することになる ム 著者]、ポーランド語が達者で、ポーランド時代の古書を家宝のように保管している。こうしたことから、正教司祭には、ポーランド的なるもの全てに対して「無意識の引け目」を感じており、戦闘的カトリシズムに対しても、お人好しの、受け身の態度をとっている。正教の神学校には「イエズス会的な基礎鍛錬」が欠如しており、そのため正教司祭は「宗教的敵対者に対する敵意やファナチシズムを全く身につけていない」。正教司祭は他教の信者を正教に改宗させようという意欲を持たないばかりか、カトリック側からの正教徒改宗工作がかつてなく活発化しているこんにち、あからさまな改宗工作の事実に憤ることもない。概して正教神学校の教育条件は劣悪であり、正教司祭の悲惨な生活条件を知る卒業者は、大学に進学したり、軍や官庁に職を捜したりして、必死で聖職以外の職に就こうとする。それに失敗した落伍者のみが司祭になっているのである(61)。以上のように、ヴォルィニ県憲兵隊長は宗派間関係を描いた。
既に触れたように、この文書が提出された1909年頃は、まさに正教司祭が右岸ウクライナにおける大ロシア主義の尖兵として政治化している最中であったから、ここに描かれた「お人好しの正教司祭、仮借ない旧教司祭」という対照は、やや時代遅れなものである。しかし、これが19世紀の両宗派間の関係を反映しているとすれば、カトリックが世紀を通じて右岸ウクライナで勢力を保つことができた背景の一端がここに示されていると言えよう。
以上に見たように、19世紀から20世紀初頭にかけて右岸ウクライナで展開されていたラテン=旧教=ポーランド文明とグレコ=正教=ロシア文明の闘争において、社会経済的、政治文化的に優位にあったのは前者であった。もちろん、帝政末期のポーランド人の勢力は、第二次ポーランド蜂起以前のそれよりは遥かに弱まっていたが、様々な差別法制、アファーマティヴ・アクション抜きに大ロシア人が太刀打ちできるようなところにまでは落ちぶれてはいなかった。依然として、大ロシア人は、政治権力を掌握しているという一点にしがみついて、力関係を気長に変えてゆくしかなかったのである。まさにこのために、この地では (1) 総督制が敷かれ、 (2) 帝国で最も稠密な政治警察網が張り巡らされ(62)、 (3) ゼムストヴォは導入されず(しかも、1911年にようやく導入されたゼムストヴォはポーランド人への差別選挙法に支えられたものであった)、 (4) 初等教育は文部省学校と正教教区学校とに独占され、 (5) 県郡貴族団長の選挙制は第二次ポーランド蜂起後、任命制に替えられ、 (6) ゼムスキー・ナチャーリニク制も導入されず、農奴解放期に導入された調停吏制度が帝政崩壊まで生き残った、のである。政府のポーランド人差別政策のとばっちりを受けて、現地の「ロシア人」エリートもまた、ドニエプル川以東のエリートが享受していた公民権の多くを剥奪されていた。ウクライナ民族主義史学が好む表現を借りれば、帝政期右岸ウクライナの国家機構は文字通りの「占領体制」であった。ただし、ひとつだけウクライナ民族主義史学を訂正するとすれば、それはウクライナ人に対する占領体制だったのではなく、ポーランド人とユダヤ人に対する占領体制だったのである。
まとめ
本稿をまとめるにあたって最初に強調しておかなければならないのは、帝政期の右岸ウクライナのように鋭い民族間矛盾を抱えた地域を研究するにあたっては、いろいろな人の言い分を聞いてみるという姿勢を堅持することが大切だということである。このごく当たり前のことを実行することが容易でないことは、たとえば大ロシア側、ウクライナ側の史学史において「解放戦争」だとか「革命」だとか呼ばれている時代は、ユダヤ人にとってはポグロムと大虐殺の時代にほかならなかったことを想起すれば納得されよう。もちろん、著者は、あれこれのエトノス集団に共感あるいは反感を覚えること自体が悪いと主張しているのではない。ただ、「敵対者」の言い分には耳も貸さないといった態度はよくないと言っているのである。
右岸ウクライナの民族間関係のうち、従来の研究史においてそれなりの関心が寄せられてきたのは、上図の実線1のみであろう。実線2、3については、研究の到達点は低い。とりわけ実線3については、ソヴェト期に右岸ウクライナからユダヤ人の多くが去ってしまったこと、語学上の障害が大きいことから、今後、急速に研究状況が改善されるとは考え難い。しかし、それでもなお、上図の実線が示す民族間関係については、問題の所在そのものは認識されてきたと言えようが、破線が示す被支配民族間の関係については、文字通り端緒的な研究しかない。しかし、これなしには帝政の民族政策は理解されえない。なぜなら、西部諸県に信頼するに足る行政資源も政治社会学的資源も有していなかったツァーリ政府は、既存の民族間関係に介入し操作することによってしか支配を維持できなかったからである。実線部の研究を寄せ集めればツァーリ政府の民族政策の研究になるなどと考えるのは誤りであろう。それはたんなる寄せ集めであり、エスノポリティクスの分析ではない。「民族の牢獄」パラダイムを生み出してきたのは、ツァーリ体制の実態ではなく、それを研究してきた側の努力不足である。
帝政の「分割・統治」政策の下では、ウクライナ人の境遇とポーランド人の境遇とは相殺関係にあった。ポーランド分割から40年以上にわたって、西部諸県ではポーランド人エリートをそのまま帝国支配階級として組み込む政策がとられた。この政策下では、ウクライナ人農奴は筆舌に尽くし難い辛酸をなめた。第一次ポーランド反乱とビビコフの南西地方長官就任により、ポーランド人地主に辛く、ウクライナ人農奴に同情的な政策が採用されるようになり、農奴の地位改善を目指して領地台帳改革などが施行された。この方向は、1848年欧州革命に際して(不穏な情勢下では現存支配階級に依拠せざるを得なかったので)一時的に中断される(63) が、1850年代に再開され、第二次ポーランド反乱の後に絶頂に達した。こののち、西部諸県のポーランド人は多くの差別法に縛られて暮らすことになる。他方、右岸ウクライナの農奴解放は、帝国では例外的に農民の利益を優先して行なわれた。19世紀末になると、極端な反ポーランド人政策(その反面としての農民甘やかし政策)が大ロシア人地主の南西地方への入植をも妨げていることが自覚され、再び、ポーランド人貴族を帝国支配階級に組み込む方策が模索されるようになった。これは、もし実現されていれば地役権の廃止やゼムスキー・ナチャーリニク制の導入を伴っただろうから、ウクライナ農民にとっては有り難くない帰結をもたらしただろう。幸か不幸か、1905年革命は西部諸県のポーランド人が「歴史的領土」回復の野心を捨てていないことを示し、革命後には政府の対ポーランド人政策は再び硬化した。そのうえ国会、やがて選挙制ゼムストヴォが導入され、大衆民主主義とまでは呼べなくとも、エトノス集団が票を求めて競い合う時代が到来した。そのため政府は、ウクライナ人に向けたポピュリスト的政策を強めざるを得なかったのである。そしてこの政策は、第4国会選挙において国権党やロシア人民同盟が圧勝したことに示されるように、一定の成功を見たのである。内地諸県において、政党が一次革命の熱気が冷めると同時に活動停止してしまったのに対し、右岸ウクライナは、近代的な組織政党システムが成長したロシア帝国唯一の地域であった。
本稿の分析から容易に類推されることは、西南地方の「ロシア化」(脱ポーランド化、脱ユダヤ化)が進めば進むほど、ウクライナ人は自立傾向を強めたということである。実際、「二重のアイデンティティー」(マロルースィであると同時に「ロシア人」)を認めていたM.ドラホマーノフやV.アントーノヴィチの時代から、分離主義傾向を強めたM.フルシェフスキーの時代にかけて、右岸におけるウクライナ人の識字率が上昇したわけでもなければ、民族知識人が形成されたわけでもない。決定的に変わったのは、ポーランド人の勢力が弱くなったことである。これは地理的にも言えることであり、1905年革命以後の南西3県をウクライナ民族主義運動が強い順に並べると、キエフ、ポドリヤ、ヴォルィニの順であった。つまり、「ロシア化」が進んだ県ほど、ウクライナ民族主義も強くなったのである。
文化人類学者は、エスニック・アイデンティティーを形成する際に重要なのは、「誰に対して自分を対置するか」であると教えている(64)。ウクライナ民族主義者になるためには、ポーランド人、ユダヤ人に対して自分を対置するだけではなく、大ロシア人に対しても自分を対置しなければならない(最後の条件が欠けると、自然な展開としては「二重のアイデンティティー」の支持者になる)。ところが、大ロシア人がドニエプル川以西にはほとんど住んでいないという条件下では、右岸ウクライナ農民にとっての大ロシア人とは、「カツァープ(山羊髭)」という名で呼ばれるエピソード的な存在か、抽象的な「お上」にすぎなかっただろう。これは、ポーランド人、ユダヤ人との日常的なコンタクトの中で植え付けられる生々しい憎しみとは比べものにならない。右岸のウクライナ人と大ロシア人との本格的なコンタクトが始まったのは、1930年代以降である。そしてこのコンタクトは、農業集団化の際の飢饉、テロル、チェルノブイリ事故などと結びついて、ウクライナ人の心に刻まれることになるのである。以上を考慮すれば、ソヴェト政権下でウクライナが決定的に脱ポーランド化、脱ユダヤ化された末にウクライナ人が独立国家を形成したのは法則的なことではある。
1917年革命が帝国に持ち込んだもうひとつの逆機能は、レーニンの領域自治の思想である。これによって、行政区画はエトノスの地理的分布を反映して決められ、しかも個々の連邦構成単位・行政単位を代表するエトノスが決められた。いまや、民族の混住を活用する「分割・統治」政策は、少なくとも大っぴらには行使できなくなってしまったのである。帝国運営の大刀である「分割・統治」が使えなくなったために、ほんらいは帝国運営の脇差しであったはずの「飴と鞭」(あるいは「買収と抑圧」)が前面に出ることになった。これは、ソヴェト連邦がロマノフ帝国よりもヨリ不寛容な帝国となったことのひとつの理由であるように思われるのである。ゴルバチョフは「抑圧」のメカニズムを壊した。その結果、最後に残った「買収」のメカニズムが際限なく拡大した(65)。帝国を維持しようとすれば、大ロシア人が一方的に周辺民族を「養わなければ」ならないような事態となったのである。ここに至って大ロシア人は合理的な判断をし、自ら帝国を解体する先頭に立ったのである。
完全にウクライナ化されてしまったこんにちのウクライナは、前世紀の右岸ウクライナが世界文明に占めていたような地位をこんにちの世界において占めているだろうか。もちろん、19世紀の右岸ウクライナに花咲いたポーランド文化、ユダヤ文化、大ロシア文化は、それがどんなに興味深いものであろうと結局は外来文化であり、しかも現地民を搾取することによって成り立っていた文化なのだから、20世紀の大衆民主主義の時代にあっては、たとえ1917年革命がなかったとしても衰退しただろうと論ずることは可能である。しかしそのような立場をとる場合でも、19世紀の右岸ウクライナが、民族解放闘争史学の色眼鏡では捉えきれないほど豊かな多様性を持った空間だったことだけは忘れてはなるまい。
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