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3. 市川のペテルブルグ滞在

  だが市川文吉だけは単身ペテルブルグに残留し、プチャーチンのもとに引き取られた (24) 。住所はキーロチナヤ通り(現サルティコーフ=シチェドリーン通り)18番地である (25) 。プチャーチンは1855年の日露通好条約締結の功績により伯爵に叙せられ、次いで1861年6月には文相に任ぜられた。だが厳しい文教政策をとったために大規模な大学紛争を惹起し、半年後には辞任のやむなきに至った (26) 。当時は比較的閑暇な生活を送っていた時期である。

  市川がプチャーチン宅に仮寓するにいたった理由は明らかではないが、プチャーチンは市川の父兼恭と面識があった。1853年のロシア使節長崎来航の折りに天文台蕃書和解御用 (27) 出役だった兼恭は、江戸でプチャーチンの書簡をオランダ語から翻訳した (28) 。この書簡はロシア使節が長崎で日本の応接掛に提出したもので、交渉で約束した樺太境界検分のため出張する幕吏の取り扱いを、あらかじめ同地駐屯の露国守備隊長に指令したものである。これは高須松亭、高松譲菴との共訳である (29) 。また1858年にプチャーチンが日露通商条約締結のためアスコリド号で神奈川に来航した時には、兼恭は翻訳係として繰り返しその乗艦を訪問して提督と顔なじみになり、彼から染皮二枚を贈られたのである (30) 。このような関係が、プチャーチンをして日本の知人の長男を庇護させることになったのだろう。周知のように、川路聖謨は日本側全権員の一人として長崎でプチャーチンと交渉し、『フリゲート艦パルラダ号』にも度々登場するが、その孫にあたる川路太郎が当時イギリスに留学中だった。彼はその『滞英日記』にこう書いている。

  慶応三年正月二十日[新暦1867年2月24日−沢田]、曇甚冷。頃日露西亜よりの書状を一覧するに、日本よりの留学生之の内市川某と申者はプチヤーチンの家に遇宿して彼誠によく世話をなしたる由なり。他日我輩学校の休日に魯西亜に赴き、プチヤーチンの家を訪ひ、昔年老大人[川路聖謨のこと−沢田]の彼れと熱熟親をなせることを告げんことを望む (31)

  この時イギリスには川路太郎らとともに市川文吉の弟盛三郎も留学していた。盛三郎は後に明治日本の物理学・化学の指導者となる。彼は留学中に一度ロシアの兄のもとを訪ねた (32)

  さて市川文吉は露都でゴンチャローフ外3名からロシア語、歴史、数学を学んだ (33) 。市川を作家に引き合わせたのはプチャーチン、あるいはゴシケーヴィチあたりか。ちなみに父兼恭を通じて文吉にロシア語学習を勧めたのは、前開成所頭取の古賀謹一郎である。1853年のプチャーチン来航時に、当代随一の儒学者古賀は日本側全権員の一人として長崎でロシア使節団と対面した。彼も『フリゲート艦パルラダ号』に登場する。

  四番目は中年男で、まるでシャベルのように無表情な平々凡々とした顔の持主であった。こうした顔を見ていると、彼が、日常茶飯事以外にはあまり物を考えないことが、すぐさま読みとれる (34)

  一方古賀もその日記中でゴンチャローフの印象を、「大腹夷名艮茶呂、謀主也、腹大以呼」 (35) と書き留めている。このあたりに歴史の見えない糸が感じられる。市川とゴンチャローフの交遊は、ゴンチャローフが20年をかけて書き上げた長編小説『断崖』が批評界で不評を買い、作家が絶望に陥って一時は文筆を捨てようとした時期に当たる。ロシア作家と日本人留学生ははたしてどのような会話を交わしたのだろうか。
 市川はロシアの上流社会にも出入りした。彼は山内とは逆に親露感を抱いていた。それには彼のフランス語の知識も一役買ったことだろう。市川はその後恐らくプチャーチン宅を出て、ロシア人女性「シユヴヰロフ」 (36) と同棲し、1870年に男子をもうけた。この子供アレクサンドル・ワシーリエヴィチ・シユヴヰロフ(シェヴィリョーフ)は後に外交官になり、アフガニスタンもしくはペルシャ方面の総領事をつとめた (37) 。1869年8月に市川は、加藤弘之の尽力により明治新政府の外務省留学生の身分を獲得した。加藤は市川の父兼恭の蕃書調所時代以来の同僚で、兼恭の養女をめとっていた。後の東京帝国大学総長、帝国学士院院長である。1870年の年末に西徳二郎と小野寺魯一が留学生としてペテルブルグにやってきた。市川は橘とともに二人の面倒を見てやった (38)


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