< !-- Google Tag Manager (noscript) --> ロシアの金融産業グループに関する一考察- 企業統合の「連続性」の視角から -

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はじめに

ソ連時代の工業部門別管理機構において、1973年3月2日付ソ連共産党中央委員会およびソ連閣僚会議決定「工業管理の一層の改善に関する若干の施策」により、「企業合同」と「部門連合」の設立や制度化が決定されたことは周知の通りである(1)。「企業合同」は「従来工業管理機構における基礎単位であった自立企業を統合し設立された多工場企業」であり、「部門連合」は「グラフクという工業省の総管理局に代わる中間管理機関として設置される企業連合体」で、統合の程度に差があるとはいえ、ともに一種の「企業集団」と考えられる(2)。このうち、企業合同が工業販売高に占める割合は1989年に、57.9%にまで達した(表1)。企業合同に従属する企業を含む、企業合同、コンビナート、企業といった工業部門の基礎単位の数は1989年に45,895だったが、企業合同は4,689にすぎない。工業の基礎単位数の10.2%でしかない企業合同が工業販売高の6割近くを占めていたことになる。つまり、社会主義経済体制下にあって、企業集団の役割はきわめて大きかったといえる。

こうした企業集団は、「個人労働活動」と呼ばれる個人営業や、自主管理の復権をねらった新生協同組合の設立が認められた、1987年以降の市場導入の試みにおいて、さらに、ソ連崩壊後の市場経済への本格的移行の過程で、大きな変質を迫られた。部門別工業省の解体や個別企業の私有化は企業合同や部門連合を「上」と「下」から揺さぶった。その過程における変化を考察するのが本稿のねらいである。というのは、「金融産業グループ」(Financial-Industrial Groups、FIGと略)もこの過程で、企業統合の延長線上で設立されたものとみなすことができるからである。本稿の目的は、こうした企業統合の「連続性」を企業統合の歴史的側面から明確化することにある(3) 。そのために、本稿では、まず、FIGを定義し、そのうえで、企業統合の歴史的変遷の分析を通じて工業管理機構の再編や「銀行」の編入の問題を考察する。最後に、こうした「連続性」を「投資資金」の確保の観点から位置づけたい。

1.金融産業グループの定義

ロシアの学者はFIGをさまざまに定義している。ここでは、まず、歴史的な経緯に注目して、二つの論点に分けて、ロシアの学者の見解を検討するところからはじめたい。第1の論点は「FIGが商業組織を含むか否か」という点である。この論点は1993年12月5日付ロシア連邦大統領令「ロシアにおける金融産業グループの創設について」によって、政府への登録という形で政府公認のFIG、いわゆる「公式型」FIGが成立する前の段階での議論であった(4)。具体的には、まず、クリコフ、ラティシェワ、ニコラエフの議論がある(5)。かれらは、FIGは「単一の技術連鎖にある企業の関心を結合する」として、まず、工業企業間の統合を前提に、そこに銀行や商業機関も参加できると考えている。さらに、ミンガゾフも、「産業、商業、信用銀行の資産の集中化、集権化、統合に基づいて」、FIGが設立されると考えている(6)。FIGは生産(企業、コンツェルン)、金融(自己の投資銀行、投資・年金・保険ファンド、証券ブローカー)、商業(商社、対外貿易会社など)という三つの構造を統合した形態とみなしている。

このように、公式型FIGが設立される以前の段階では、FIGに工業企業、銀行が含まれるのはもちろんだが、商業組織も含まれるとする見解が多い。もちろん、公式型FIG設立後も、たとえば、工業管理論の権威であるミリネルは、1994年末の論文で、FIGの構成に「技術的に関連した工業企業、科学調査組織、商社、銀行、投資ファンド」が入ることを前提に、FIG成立の基本原則として、「グループに入っている経済単位の科学生産、金融、商業の潜在力を合同すること」をあげている(7)。このため、ここでも「産業、商業、信用銀行の資産の集中化、集権化、統合に基づいて」、FIGが形成されるとみなしている。クレイネル、ナグルドナヤの見解でも、FIGを「金融資本と産業資本の統合」の形態ととらえたうえで、FIGのより完全な構成として、生産企業、科学調査会社、銀行、投資ファンド、トラスト会社、保険組織、商業企業、輸送組織を想定し、FIGの形成に決定的なのは「商業生産機関と金融信用機関のFIGへの共同参加である」と指摘している(8)

FIGを工業企業と銀行だけでなく、商業組織をも含んだ統合と理解する第1グループの見解は、1992年11月16日付ロシア連邦大統領令の付属文書である「国有企業の株式会社への改組に際して創設される持株会社に関する暫定規程」の第2項の4で、政府が持株会社の設立時点で、持株会社の資本金の少なくとも25%を超える持ち分を有している場合、生産財や消費財の商業の部面での持株会社の設立が禁止されたことに関係している(9)。この規定は曖昧で、持株会社の子会社であれば、商業組織を傘下にもてるのか、判然としない。この点に関連してミンガゾフは、持株会社は「金融や生産の構造だけでなく、商業構造もまた会社内に含まれているコンプレクスに基づく」収益性の高い自主的な会社でなければならない、と主張しており、これは持株会社が実際には、商業組織を下部組織としていない現状を暗示する記述とみられる(10)。だからこそ、商業組織を含む企業統合形態としてのFIGの重要性を強調しているわけである。

こうした主張は1995年11月30日付のロシア連邦金融産業グループ法の第3条第3項で、「FIG参加者のなかには、必ず商品・サービス生産分野で活動する組織、同じく銀行ないしその他の信用組織が存在しなければならない」という規定に反映されている(11)。これは、上記の諸見解が公式型FIGだけをFIGとみなすことになりかねないことを意味している。しかし、公式型FIGだけをFIGとする見解は少数意見にすぎない。

第2の論点は公式型FIG設立後、主張されるようになった「公式型FIGの位置づけ」をめぐる問題である。FIGの定義のなかで、公式型FIGをどう位置づけているかに注目すると、政治テクノロジーセンターとミハイロフはともに、FIGが1993年12月5日付のロシア連邦大統領令に基づいて生まれたとの見解をとっている(12)。とくに、前者は国家に登録される企業統合形態である金融産業グループのみをFIGとし、大規模な銀行ないし生産部面の企業を中心に形成される企業統合形態を「金融産業コングロマリット」と呼んでいる。

一方、モフセシャンはFIGを、「銀行資本と産業資本の統合」の形態ととらえ、FIGには、国家公認の「法律に基づいたFIG」と公式に登録されていない「事実上のFIG」とがあるとした(13)。マカレヴィッチも、FIGには、法律に基づく公式のFIGと、そうでない非公式のFIGの2種類があるとしており、いずれも「銀行資本と産業資本の統合」という見解をとっている(14)。デメンチェフのように、広義のFIGを「産業資本と金融資本の比較的安定的な協力と相互誠意のあらゆる形態」としたうえで、「長期的な協業・信用・株式関係に関連づけられた信用金融組織(銀行、リース、保険会社、年金・投資ファンド)、工業・商業会社の総体」と定義する一方で、狭義のFIGはロシア連邦法令基準を満たす「産業構造と金融構造の統合形態」と規定する学者もいる(15)

これに対して、公式型FIGが設立されて以降の段階でも、あえて公式型FIGに言及せずにFIGを定義している諸説もある。たとえば、市場問題研究所の見解では、FIGの「先駆け」として、1987年以降に現れたコンツェルン、アソシエーション、コンソーシアム(こうした企業集団については後述)をあげ、さらに、金融機関が拡張して生まれたものや、形成されつつある金融部門と産業部門の企業の「緩やかな」結合によっても現われると考えている(16)。スタロドゥブロフスカヤの見解では、一般にFIGが「国家の庇護のもとで形成される組織」であると理解されているとしたうえで、FIGを「調整的経済活動の実施や経済の構造的ペレストロイカのカギを握る課題解決のための工業企業と金融機関の合同」とみなしている(17)。さらに、レンスキー、ツヴェトコフは、まず、FIGを「工業企業の信用金融機関とのあらゆる合同」と広義にとらえ、そのなかにFIGやコンツェルン、コンソーシアムも含まれるとしたうえで、両者とFIGとの相違に注目している(18)。コンツェルンでは、構成企業が筆頭企業の統一的な金融コントロール下におかれ、構成企業の自律性が薄れるのに対して、FIGは集中化された管理に基づく責任の分担や構成企業間の平等の権利が前提とされ、FIGの中心企業による構成企業との調整がはかられるという。そのため、FIGはコンソーシアムに近いが、コンソーシアムが一定期間、持ち分に基づいて課題解決のために組織された形態であるのに対し、FIGは株式に基づいて組織された長期的で安定的な形態を意味しているという。

実態にそくして考えると、工業企業と銀行が統合した、政府に登録されていない企業集団が多数、存在する。たとえば、ガスプロムグル−プ、マポグループ、オネクシム銀行グループなどがそれである(19)。したがって、FIGを、公式・非公式型FIGを含む「銀行などの金融機関と工業・商業企業などの統合形態」と広義に解釈し、そのうえで、適用範囲の決定が難しい非公式型FIGをどの範囲まで認めるかを問題にする方が実態に合っていると考えられる。ただし、これだけの定義では、FIGの範囲がきわめて広くなってしまう。このため、政治テクノロジーセンターのように規模の大きなFIGについては、「金融産業コングロマリット」とする方が妥当だと思われる。それでも、本稿では、広義の解釈のまま議論をあえて進めたい。議論が重層化して、限られた紙幅では十分ではないためである。また、「統合形態」についても、その統合の程度を、統合の程度や管理の厳格さが高い順に、「国家所有に基づく経済単位の「直接的行政的従属」>「コーポレーション」(雇われた経営者に管理機能を集中させた法人)所有に基づく経済単位の統合 > 持株会社 > 株式の相互持ち合いに基づく統合 > 契約に基づく協同組合 > 個別機能ないし活動種類ごとの部分的な協同組合 > 共同活動についての義務的でない合意に基づく統合」 ムとみるモフセシャンの見解もあるが、紙幅の関係でこれ以上は立ち入らない(20)。ここでは、FIGを広義に解釈することで、多様なFIGを少しでも広範に対象とするために、一応、モフセシャンのいうすべての統合形態を含めてFIGの統合形態として理解したい。こうすれば、国有企業の集団についてもFIGという概念を適用できることになる。すなわち、コンツェルン、アソシエーション、コーポレーションといった企業統合の形態と関連している上記の最初の二つの統合もFIGとして認められることになる。

2.企業統合の歴史的変遷

(1)工業管理機構の改革

(イ)国家生産合同

上述したFIGの形成過程を、ここでは、ソ連末期の工業管理機構の改革と関連づけて論じることにする。ソ連の工業管理機構は1973年についで、1987年以降に大きな転機を迎えた。その第一歩になったのは、1987年6月30日付の『国有企業(合同)に関するソ連法』(『国有企業法』と略)の制定である(21)。この法律では、企業合同が企業と同等に扱われ、第1条第2項の「企業は法人であり、権利を行使し、その活動に伴う義務を遂行し、全人民的所有の分離された一部を有し、自主的バランスを保有する」との規定が企業合同にも適用されることになった。企業合同の位置づけが法律のレベルで明確に規定されたことになる。

さらに、ほぼ同時期の1987年7月17日付ソ連共産党中央委員会およびソ連閣僚会議決定「新経営条件下の物的生産部面の省庁活動のペレストロイカについて」(「決定・省庁活動のペレストロイカ」と略)では、『国有企業法』に対応する工業管理機構の再構築が規定された(22)。すなわち、『国有企業法』で、企業自主性の拡大の方向性が打ち出されたのに呼応して、肥大化した管理機構の簡素化が追求されたのである。第8項では、部門管理の中間環節である「部門連合」の廃止と、省庁のいわゆる「2環制」への移行とが打ち出された。その一方で、第7項では、「新しい大規模組織」として「国家生産合同」の形成が妥当とされた。この国家生産合同については、1987年9月23日付ソ連閣僚会議で承認された「国家生産合同に関する規程」によって、その組織方法などが規定された(23)。それによると、国家生産合同は部門別、部門間、地域の課題の効率的解決を目的とする新しい管理組織で、この構成に含まれうるのは、企業合同、研究組織や建設・輸送・販売・商業組織などである。

ところが、1988年4月2日付ソ連閣僚会議決定「国家生産合同形成の諸問題」で、上記の「国家生産合同に関する規程の承認」の無効が決定された(第2項)。また、「決定・省庁活動のペレストロイカ」の第7項における、国家生産合同は「単一の生産経営コンプレクスとして省庁によって設立される」との規定が廃止され、国家生産合同が「その構成に入っている対等のパートナーである企業、合同および組織の合意と関心を伴って、もっぱら自発的基礎のもとに設立されうる」と改正されることになった(第1項)(24) 。というのは、一つには、国家生産合同は廃止される部門連合と同じく、省と企業の間に位置する「中間環節」であり、「決定・省庁活動のペレストロイカ」の管理機構の簡素化という目的に逆行する面があったからである。また、国家生産合同の省庁主導による設立が可能とされたことから、省庁が管轄企業を選別しはじめ、工業管理機構が揺らぐ事態にもなったからである(25)

この「決定・省庁活動のペレストロイカ」は工業管理機構の改組の基本方式を定めたものであり、重要な意義を有している。というのは、この決定に基づいて、省向けの課題が定められ、企業合同や企業などの選別が開始されたためである。たとえば、重・エネルギー・輸送機械製作省の場合、11の国家生産合同を形成することになったほか、「省−国家生産合同、企業合同、企業、組織」という2環制に移行し、省が直接、管理する対象数が101から54とほぼ半減することになった(26)
(ロ)コンツェルン、アソシエーション、コンソーシアム

ところで、1989年8月3日付で成立した『国有企業(合同)に関するソ連法の修正・追加の導入に関するソ連法』の第3項で、『国有企業法』第5条第7項として、つぎのような規定が追加された(27)。「省庁の所属から独立した、企業、合同および組織は自主的に、契約原則のもとに、コンツェルン、コンソーシアム、部門間国家合同、国家生産合同、さまざまのアソシエーション、および、協同組合や外国会社と設立された合弁企業の参加を含む、その他の大規模組織構造を設立することができる」というのがそれである。

これはすでに設立されていたさまざまの企業集団を法律上、追認するものであった。さらに、こうした既存の企業集団の制度化の動きは、1990年6月4日付の『ソ連企業に関するソ連法』(『企業法』と略)でも変わらず、第3条第1項で、企業は「連盟、経営アソシエーションおよび部門ごと、地域ごと、ないし他の原則ごとのその他の合同」に自発的原則のもとで合同されうる、と規定された(28)。しかし、『企業法』の段階では、企業合同からの離脱が明文化されたほか、企業合同の設立における反独占的要求の考慮(第3条第1項)、企業合同の参加企業の決定に基づく清算(第3条第5項)の規定が与えられるなど、企業合同と企業とを同一視していた『国有企業法』と比べて、『企業法』は市場経済の要請と企業自体の重視の姿勢を示す一方、企業合同に消極的姿勢を示している。

ここで、ミリネルの整理にしたがって、上述した各種の企業集団の概念をまとめると、表2のようになる。まず、コンソーシアムは所定の課題遂行後、活動を停止するため、コンツェルンや経営アソシエーションと決定的に異なっていることがわかる。しかし、コンツェルンと経営アソシエーションとの相違については、必ずしも判然としていない。

つぎにこうした各種企業集団について比較的詳しく整理しているザポリスキー論文によれば、その特徴はつぎの通りである(29)

@コンツェルンもアソシエーションも参加者の自発性による設立を前提としているが、国家管理機関による発意を否定しているわけではなく、国家コンツェルンとして、ノリリスクニッケル、ガスプロム、建設資材コンツェルンがソ連閣僚会議によって設立されたほか、国家アソシエーションとして、国家農化学アソシエーションや建設資材工業国家アソシエーションが設立された(30)

Aコンツェルンは生産経営機能の大部分を集中化し、同指導部のコントロールのもとで、統一した生産・技術・経済政策を実施する。このために、「集中金融フォンド」と呼ばれる資金をコンツェルンに蓄積できる(31)

B部門間国家合同もコンツェルンとしばしばみなされるが、部門間国家合同の特徴は部門別管理機関を自主管理に転換する目的で設立され、エネルゴマシ、テクノヒムなどの部門間国家合同は省の集中フォンドや予備への控除を行わなくてもよい権利を有することである。また、部門間国家合同には、コンツェルンにみられるような管理の高度の集中化はみられない(32)

Cアソシエーションは大多数が法人であり、投資・予備・その他の「金融フォンド」を形成するという意味で、コンツェルンに似ているが、いくつかの生産経営機能だけが集中化される傾向がある(33)。たとえば、輸出業者のアソシエーションはその典型である。

Dコンソーシアムは特定の課題解決のための企業の連合で、課題達成後には活動を停止する。「部門間科学技術コンプレクス」と呼ばれる、省庁の所属を維持したまま、研究所、実験企業などが参加する法人とコンソーシアムは類似している。

E連盟は参加者の集団的所有に基づく自主的経営組織である。

しかし、ザポリスキーの分類によっても、コンツェルンとアソシエーションの違いなどが判然としない。

このように各種企業統合形態の区別が不分明な結果、コンツェルンやアソシエーションの設立数の数え方にも問題が生じているように思える。たとえば、表3と同じソ連統計国家委員会のデータでも、1990年(時点は不明)の企業集団別の設立件数が、コンツェルン126、部門間国家合同54、コンソーシアム100以上、アソシエーション約1,500、地域の部門間合同102という文献もある(34)。さらに、1989年10月29日付「トルード」紙に掲載されたソ連統計国家委員会のデータでは、59のコンツェルン、80のコンソーシアム、27の株式会社などがその掲載時点の前の段階で機能していたとされる(35)。これらの数字に整合性があるとは思えない。

それゆえ、ボンダリとボカレワが指摘するように、「ソ連統計国家委員会が伝えたコンツェルン、アソシエーションの大部分は、『流行する名称』をかりた、単に部門別の企業合同や科学生産合同にすぎない」と考える方が妥当と思われる(36)。かれらは、ガスプロムはガス工業省、ノリリスクニッケルは冶金工業省、国家農化学アソシエーション・アグロヒムは化学肥料工業省の「看板の付け替え」にすぎないと考えている(37)。コンツェルン・ガスプロムは全国のガス供給に責任をもち、『国有企業法』で集権制の中核をなしていた生産課題に代わって導入された「国家発注」を傘下の企業に配分する役割も果たす。そのため、ガス工業省と変わらないというわけである。これに対し、ガスプロムのヴャヒレフはガスプロムの参加グループには、ガスの採掘、加工、輸送の間断のないサイクルに入っている企業と、研究・企画・修理などの企業・組織があり、前者は巨大投資のために資金の集中化を必要とし、後者はコンツェルンから離脱でき自発的に参加することになったと主張した(38)

一方、ミリネルは省の経営指導システムに代替できる「構造」がまだ確立できていないと認め、企業合同、部門間国家合同といった名称に混乱があり、「ときどき、古い組織が新しい名称で機能している」とのべた(39)。省からコンツェルンなどに変化したようにみえても、管理者は同じ官僚であり、管理方法に根本的な変更が望めないためである。

その理由は、『国有企業法』以後の企業の自主性向上への取り組みが省庁レベルの管理機構の抜本的変革を迫った過程で、省庁や部門連合などが既得権益を保護するためにコンツェルン、アソシエーションなどに改組されたにすぎないからである(40)。しかも、国家農化学アソシエーション・アグロヒムについては、その形成を決めたソ連閣僚会議決定の第6項で、アグロヒムに商業銀行を設立することが妥当とされ、後述する工業企業と金融機関との統合というFIGの条件を有していた。ガスプロムについても、資源の効率的利用のため、商業銀行が設立されることになっていた(41)

(2)新生ロシア時代のFIG と銀行「設立」

(イ)公式型FIG 創設まで

ロシア共和国では、1990年3月の選挙の結果、急進改革派が議会で優勢になり、1991年7月には、『ロシアソビエト連邦社会主義共和国における国有および公有企業の私有化に関する法律』(『ロシア私有化法』と略)が制定された。1991年8月の「クーデター」失敗後、ソ連の崩壊と共産党の解体が急速に進むなかで、エリツィン大統領は同年10月28日のロシア人民代議員大会で、資本主義市場経済への移行の路線を明らかにし、1991年12月29日付大統領令で「1992年度私有化プログラム基本規程」が承認された(42)

企業統合の観点から、とくに注目されるのは『ロシア私有化法』第8条第4項で、「合同(アソシエーション、コンツェルン)に入っている企業、あるいは、国家管理機関や地方の行政機関の管轄下にある企業を基礎として、ロシア連邦反独占・新経済構造支援国家委員会の合意をえて、隣接企業の協業化を助成するために、持株会社が設立されうる」と規定された点である(43)。つまり、コンツェルン、アソシエーション、企業合同の参加企業を中心に、持株会社を設立させる方向性が示されたことになる。

さらに、同項では、「合同、アソシエーション、コンツェルン、省庁を基礎とする持株会社の形成方式に関する規程はロシア連邦最高会議によって承認される」とされたが、実際には、1992年11月16日付のロシア連邦大統領令「国有企業の私有化に際しての産業政策実現に関する措置」の第7項で承認された、「国有企業の株式会社への改組に際して設立される持株会社に関する暫定規程」で、持株会社設立時にその資本金に占める国家所有の割合が25%を上回る全持株会社を対象にした規定が生まれた(44)

この規定にしたがって、ロスネフチ、トランスネフチ、トタンスネフチプロダクト、ルクオイル、ユコス、スルグートネフチガス、ロッシースカヤ・メタルルギヤ、ガスプロム、ロシア統一エネルギーシステム、スヴャジインヴェスト、高速幹線、ノリリスクニッケル、トヴェルが持株会社となった(45)。このなかには、国家コンツェルンだったガスプロムやノリリスクニッケルが含まれている。2社とも、「ロシア株式会社」という形態に改組されたが、国家が一定の株式を保有する「ロシア株式会社」であったのは、ロスネフチ、ロシア統一エネルギーシステム、高速幹線も同じだった。このように大規模な国有企業を逸早く株式会社化し、「ロシア株式会社」や「国家持株会社」などの株式会社形態をとったのは、旧部門別省庁が表面上、市場経済への移行に順応しながら、私有化される企業に対する国家コントロールを確保するねらいがあった(46)

しかし、持株会社などによる企業統合は必ずしもうまくいっていない。第一に、私有化と同時に、こうした企業集団化を推進しようとした点に困難があった。ロシアでは、株式会社化に際して、企業従業員の優遇措置の結果、企業の定款資本の51%までの普通株を優先的に購入できる従業員優遇措置(いわゆる第2バリアント)を選択した企業が全体の4分の3以上に達した(47)。これは企業管理者と従業員がアウトサイダーによる株式取得を恐れた結果であり、これが企業集団化にとって障害になる場合が生じた。さらに、「私有化小切手方式」と呼ばれる小切手配布による私有化がこの傾向に拍車をかけた。同方式は1992年10月1日からはじまったもので、額面価格1万ルーブルの小切手を全市民に無償配布して、国有企業の株式や資産の購入、投資ファンドの株式の購入などにあてさせる試みだった。アウトサイダーによる企業取得を嫌う企業経営者と従業員はこの小切手を自社株購入用に使用するケースが多かったのである。1993年の11カ月間に実際に使用された4,000万枚の小切手のうち、約半分が企業従業員集団による自社株購入用であったと推測できるといわれる(48)。そのために、持株会社を設立しても、その傘下の企業の株式を持株会社に集中管理できない状況が生まれた。

第二に、ハイパーインフレの発生、共和国間連関の切断、国家発注の急減、資材補給の困難、運転資金不足の問題の発生などが生起し、その問題解決に終始せざるをえなかった。こうした混乱の初期段階では、混乱自体が持株会社の設立を阻害する方向に働いたと考えられる。しかし、上記の問題が未解決のまま持続することで、これは企業の集団化を促す要因ともなったのである。

そうした問題が端的に現れた国防産業などでは、ソ連時代からの企業間の資材機械補給・生産・販売関係を維持し、資金面の手当も可能な企業集団の必要性が実感されるようになり、企業統合問題が浮上したのである。また、公式型FIG制度が創設されれば、国家から大きな支援を期待できるという面もあった。経済学者のジェリャーギンは「多くのFIGは(ソ連時代の:引用者注)『連邦省モデルに基づいて』設立された、すなわち、国家からの援助をもらうために努力を結集するための団体にすぎない」と、公式型FIGの本質を看破している(49)

以上のような事態の推移を背景として、1992年の段階で、国防省や国防産業国家委員会などがFIGの支持者として登場し、産業政策国家委員会(当時)もFIG制度の確立を支持していた(50)。そして、1993年8月25日には、連邦政府・閣僚会議指令として、「株式化された工業会社および金融産業グループの組織化助成に関する省庁間委員会規程」が承認された。その委員会でFIGの創設準備が進められた。さらに、同年12月5日付ロシア連邦大統領令「ロシアにおける金融産業グループの創設について」によって「ロシア連邦における金融産業グループの創設に関する規程」が承認された。

こうして公式型FIGの第1号として、「ウラル・ザヴォード」が登録された。ウラル・ザヴォードは国防産業部門の会社が七つもある国防産業中心の企業集団であり、まさに、「公式的なFIGは工業企業の『遅れた』戦略ではなく、『防衛上の』戦略の要素である」ということになる(51)。これが登録されたのは1993年12月21日付だが、実際にこれが設立されたのは同年6月だった(52)。このように、公式型FIG形成に向けた準備は同年ころから本格的に行われていたことになる。

さらに、1995年11月30日付の『FIGに関するロシア連邦法』(『FIG法』と略)が制定されるにまで至ったのである。
(ロ)「銀行」の設立をめぐって

これまでの考察からわかるように、1987年以降に設立されたコンツェルンやアソシエーションのなかには、すでに工業企業のみの企業集団ではなく、銀行をも取り込んだFIG を形成しようとする萌芽が存在した。市場経済への移行過程でも、既得権益を守り、国家支援などの「ソフトな予算制約」を求める官僚や旧企業長が存在していた。たとえば、FIG形成に積極的なのは、「大規模な国有企業ないしポスト国有企業の指導者であり、また軍民転換を行う国防企業の指導者である」との指摘もあるほどである(53)。したがって、FIGの「先駆け」として、コンツェルンなどをあげている市場問題研究所の見解は正しい。ソ連時代の一部の省庁はその管理機構の改編とともに、その「看板」をかえながら、FIG に近づいていったのである。したがって、FIGは1987年以降の経済改革の動きとの「連続性」において理解しなければならないといえる。ただし、この「連続性」を裏づけるためには、企業集団の「銀行」の編入について、詳しい考察が必要になる。

ソ連時代には、「銀行」といえども国有で、「銀行改革」のはじまった1987年以前には、国内「銀行」として、国立銀行(ゴスバンク)、全連邦投融資銀行(ストロイバンク)、外国貿易銀行(ヴニェシトルグバンク)、労働貯蓄金庫(ズベルカッサ)の4行しか存在しなかった。1987年7月17日付の共産党中央委員会・閣僚会議決定「国の銀行システムの改善および経済効率向上に対する銀行システムの作用強化について」(「銀行決定」と略)によって、上記の「銀行」は@国立銀行、A対外経済銀行、B工業・建設銀行、C農工銀行、D住宅・公共経営・社会発展銀行、E住民労働貯蓄・信用銀行に再編されることになった(第3項)(54)。1988年7月から施行された「協同組合法」に基づいて、協同組合形態による銀行設立が認められたほか、その後、国有企業が自らの金融子会社として「銀行」を設立することも認められた(55)。さらに、1991年には、上記の@を除く5専門銀行すべてが国家から分離された「銀行」に改組された。また、上記の「銀行」の支店ごとに分離独立したり、「協同組合銀行」が株式会社化したりしながら、「銀行」が急増した(56)

1988年以降から1993年までに設立された「銀行」の設立者(出資者と同義であるかは確認できず)に注目すると、企業や企業合同が設立したケ−スも多くあるが、省庁やコンツェルン、アソシエーション、連盟が関与した例もある(57)。これらの設立者ごとに分けて表示したのが表4である。この表に示された銀行は1997年1月1日現在、銀行業務免許を取得していた2007行のうち、531 行を調査した結果にすぎない(58)。1988年以降、これよりずっと多くの「銀行」が設立され、そのうちの数百行が1997年までに姿を消したことを考慮すると、表4の結果から、中央政府・地方政府とも「銀行」設立に広範に関与した可能性が高いと推測できる。さらに、コンツェルンやアソシエーション、さらに連盟についても「銀行」の設立に幅広くかかわっていた。この場合、ジャーナリストや法律家の連盟では、本稿の定義からFIGとはなりえないが、コンツェルンやアソシエーションで、工業・商業企業と判断できれば、FIG 形成につながるといえる(59)。たとえば、ガスプロムは1989年8月8日付ソ連閣僚会議決定で、ガス工業省を母体とする国家ガスコンツェルン・ガスプロムに、1992年11月5日付ロシア連邦大統領令で、ロシア株式会社ガスプロムに改組され、ガスプロム銀行、インペリアル銀行などの設立によってFIG化した。ガスプロムは国家に登録されていない非公式型のFIGだが、コンツェルン・ノリリスクニッケルのように、もともと国有企業や企業合同であった企業形態から国家コンツェルンとなり、その参加企業のノリリスク冶金コンビナートが1990年のウニコムバンク設立にかかわり、部分的なFIG 化、その後、ロシア株式会社や持株会社に改組され、公式型FIGの「インターロス」に組み込まれたケースもある。アソシエーションでは、表4にはないが、国家農化学アソシエーション・アグロヒムが1989年に設立したアグロヒム銀行もある。

一方、表4には示さなかった、協同組合が設立に関与した「銀行」も多数存在する(60)。1989年に設立されたスタリーチヌイ銀行は協同組合銀行で、その後、SBS銀行、SBSアグロに変化した。1988年設立の銀行プレミエールや1990年設立の銀行プシキノなどにも、協同組合が設立に関与していた。

ここで取り上げた企業集団や組織の「関与」は必ずしも主導的かどうかわからない。それでも、「銀行」の設立にこれらの企業集団・組織がかかわり、結果として、何らかの「統合関係」をもつことになったと推測できる。それ故、こうした「銀行」の設立関与は広義のFIG 設立につながったといえまいか。つまり、以上から、1987年以降の市場導入の試みの後に生まれた、工業管理機構の再編とそれにともなって創設された企業集団による「銀行」の設立、さらに自主管理に基づく新生協同組合による「銀行」の設立がFIG 形成につながったと判断できる。それは、FIG を少なくとも1987年以降のソ連時代の「改革」から考察する必要性の証左といえる。

3.「投資資金」の確保

(1)ゴルバチョフ政権下の企業改革

ここまでは主として、銀行が企業集団に組み込まれるまでの企業統合の歴史的変遷について考察した。最後に、「投資資金」の確保という面からもう一度、1987年からはじまった市場導入後の変化を整理したい。そのために、まず、ゴルバチョフ政権下で行われた「企業改革」を考察することにしたい。

ソ連時代には、国家集中投資資金が無償で企業に供与され、それによって創出された生産フォンドにフォンド使用料を課し、国庫資金の投入自体に対する元利支払いは行わないという仕組みが存在した。この仕組みを改め、企業の自主性を高め、生産効率向上につなげる目的で、企業の「自己資金」を拡充する一方、国家集中投資を削減するというのがゴルバチョフ政権下ではじめられた「企業改革」だった。それを法的に定めたのが1987年の『国有企業法』であった。投資問題との関連で『国有企業法』をみると、第2条第2項の「企業は完全ホズラスチョートおよび自己資金調達の原則において機能する」という規定が決定的に重要である(61)。なぜなら、この規定によって企業(企業合同を含む)は「広義の自己資金」、すなわち「狭義の自己資金」と「銀行借入」(銀行借入は将来、企業がフォンド使用料などを納入した後に残される残余利潤から返済されるという意味で「広義の自己資金」に含まれる)によって、技術再装備、再建、拡張と呼ばれる投資を自主的に行うことになったからである。この含意は、これまで曖昧だった国庫資金による投資と、「広義の自己資金」による投資を峻別することであった。

この制度変更によって、企業は自主的な投資のために「広義の自己資金」を拡充する必要に迫られた。それを実現するため、『国有企業法』では、企業に留保される投資向け資金である生産発展フォンドが生産・科学技術発展フォンドに拡充される一方、工業省に形成されていた統一科学技術発展フォンドが廃止されるなどの変化があった。しかし、上級管理機関へ一部資金を企業から控除して蓄積し、部門発展のために拠出する制度が存続しており(第9条第2項)、「自己資金調達」は不完全な形で導入されるにとどまった。一方で、国家生産合同という新たな企業統合形態を規定した、『決定・省庁活動のペレストロイカ』の第13項では、国家生産合同に参加組織からの控除によって集中フォンドおよび予備が蓄積され、生産・科学技術・社会的用途の施策の実施に向けられるとされた。これは国家生産合同を1企業とみれば、同合同の「広義の自己資金」の拡充につながるが、同合同を「中間環節」とみれば、各参加企業の資金の一部が上納される制度の存続を意味している。

1989年ころに存在したコンツェルンの場合には、「集中金融フォンド」と呼ばれる、資金を傘下の企業から吸収する仕組みが存在した。つまり、国家生産合同やコンツェルン、アソシエーションなどの企業集団は「投資資金」などの再配分機構として、これまで省が果たしてきた役割を代替する役割を有していたといえる。企業や企業合同はより強大な権限をもつこうした「看板」を替えただけの企業集団の傘下に入ることで、一定額を上級組織に拠出する代わりに「投資資金」の確保をはかろうとしたと考えられる。一方、コンツェルン、アソシエーションのような企業集団はその過去の権限を事実上、集中フォンドという形で保持することで集団の「広義の自己資金」を調達した。

1990年の『企業法』に至って、企業利潤の利用目的選択に対する国家の規制は大幅に緩和され、企業利潤から生産・科学技術発展フォンドに資金を、国家によって設定された控除ノルマチーフに応じて控除するという方式は撤廃された。それは、「税金」などを支払った後に企業に残される利潤の使途を企業が自由に決められるという形で実現された(第21条第2項)。企業は自らの判断で「投資資金」をどうするかを決定しなければならなくなったわけである。しかも、『企業法』はすでに指摘したように、企業合同より企業そのものを経済活動単位として重視する立場をとっていたから、企業レベルでの投資資金確保の方向性が強く打ち出された。一方、1991年6月26日付ロシアソビエト連邦社会主義共和国法「ロシアソビエト連邦社会主義共和国における投資活動について」の第10条では、国家による投資支援の財源として、補助金、助成金、予算貸付などが明文化された。これは、これまで無償だった国家集中投資資金のなかに有償資金を導入したという点で注目に値する。というのは、これによって、企業は無償の国家集中投資資金の削減だけでなく、同資金の一部有償化に対応すべく、「投資資金」を確保できる体制を構築する必要性に迫られたからである。
(2)「投資資金」確保と「銀行」

「投資資金」の確保のために、企業集団が注目したのが「銀行」であった。銀行と企業の関係は一般に、預金、融資、決済、株式所有や配当支払い、有価証券発行・売買や保管、経営コンサルティング、人的関係などを軸に考えられる。ロシアの「銀行」はこうした業務を最初からすべて均等に果たしていたわけではない。そのため、「銀行」といっても、先進国にみられる銀行がはじめから存在したわけではない点に留意しなければならない。そのうえで、なぜ企業集団が銀行を設立し、集団内に組み込もうとしたのかを考える必要がある。結論からいえば、第一に、決済の円滑化、第二に、現金の確保、第三に、「投資資金」の確保が考えられる。「投資資金」を確保するためには、決済の円滑化や現金の確保が前提となっており、だからこそ、ここでは、「投資資金」の確保という視点を強調したわけである。

決済の問題は決済制度の変更とともに、企業集団にとっては重大な問題であった。ソ連時代、企業合同は企業と同じく、ゴスバンクに決済口座を集中していたが、1987年の「銀行決定」によって、ゴスバンクの決済機能は非生産部門の企業向けを除いて、工業・建設銀行、農工銀行、住宅・公共経営・社会発展銀行に移管された。さらに、こうした銀行が分離独立したり、新しい協同組合銀行や株式会社形態の「銀行」が設立されたりする過程で、企業合同などの企業集団は決済口座をどこに置くかという選択に迫られたのである。しかも、この過程はソ連崩壊による資材機械補給経路の寸断、価格自由化による混乱、ハイパーインフレなど、多くの混乱が生起した時期とも重なっていたから、決済を円滑化できる体制づくりがきわめて重要であったといえる。このため、同じグループ内に「銀行」を組み込み、決済を円滑化しようとしたのである。

決済には、銀行口座での決済以外にも、現金決済、バーター、相互補正(債権債務の帳簿上の相殺)、「手形」決済などがある(62)。つまり、「銀行」を経由しなくとも、決済は可能だが、「銀行」がグループ内にあれば、銀行の発行した「手形」を流通させたり、銀行による「手形」割引の活用などにより、企業集団内の決済が全体として円滑化する可能性が高い。また、「銀行」間の送金や決済に時間がかかったり、資金が途中で紛失する恐れさえあったことから、企業集団に「銀行」を組み込むことで、こうしたリスクを回避することも可能となったといえる。

一方、現金の確保については、第一に賃金の支払いのために重要であった。そのため、企業集団は集団内で現金を確保するため、グループの従業員が預金できる「銀行」を保有し、少しでも現金を集団内にとどめようとしたことが考えられる。別言すれば、「銀行」は従業員による要求払預金や定期性預金の獲得により、賃金支払い向け現金を確保しようとしたのである。

さらに、企業集団は従業員の預金はもちろん、中央政府や地方政府からの補助金、助成金、予算貸付を「銀行」にプールして、「投資資金」として活用しようとした。さらに、「銀行」は中央銀行から低利の融資を受けられる面もあった(63)。この際、注目すべきなのは、銀行利子の会計処理問題である。上述したように、ゴルバチョフによる「企業改革」の結果、企業は「広義の自己資金」の拡充に迫られたが、改革の過程で、同資金は「狭義の自己資金」と「銀行借入」に明確に分化、前者はその内容が拡充され、後者はその利子の損金算入が認められたのである。改革当初、「狭義の自己資金」は「利潤」および「減価償却控除」によって創出されたが、市場経済化の進展につれて、これらに加えて、有価証券の売却資金などが加えられた(『企業法』第27条第1項)。

「銀行借入」については、1987年からはじまった「銀行改革」がこれまで国家資金の援助を中心に運営されてきた「銀行」を独立採算に改めることによって、「財政」と「信用」を明確に分離する試みであったと理解するところから出発しなければならない。無償供与の国家の財政資金と、元利払い義務のある信用資金の区別が曖昧であった体制を、「銀行」の独立採算とともに明確化し、「銀行借入」を「広義の自己資金」というより、返済義務のある「有利子負債」として位置づける制度に改める必要があったのである。これにともなって、利子支払いの損金算入制度も生まれ、「銀行借入」のしやすい制度も導入されたわけである(64)

以上を前提として、「銀行」の企業集団への編入により、「投資資金」の確保しやすい環境が生まれることになる。だからこそ、ロシアの経済学者はFIG設立のうえで、「投資資金」の確保をきわめて重視しているのである。たとえば、クリコフ、ラティシェワ、ニコラエフはFIGの利点として、投資過程の実現と活性化を指摘しているし、ミンガゾフもFIG設立による投資向け資金の迅速な動員を重視している(65)。チトフ、コロブコワも「工業企業にとって、FIGへの参加のもっとも強力な刺激の一つは投資誘引の将来性である」と指摘している(66)。さらに、モフセシャンのように、生産企業によるFIG での投資とFIG 外での投資を比較して、前者の優位性を説く主張もある(67)

さらに、公式型FIGについては、FIG形成によって、投資が実際に増加したとするヴィンスラフの主張もある(68)。公式型FIGの場合には、FIG内の銀行からの融資はもちろん、国家保証による投資向け銀行融資も期待できた。それでも、公式型FIG設立後、間もない現時点ではヴィンスラフの見解が妥当だと判断することはできない。ここまでの考察で確認できるのは、国家集中投資資金の減少に対応する企業集団の「広義の自己資金」の拡充の必要性が決済の円滑化や現金の確保を前提とする「投資資金」の確保を可能とする「銀行」を編入した、FIGの設立を促したという側面である。だからこそ、この変化がはじまった1987年以降の「連続性」のなかで、FIGを考える必要があるわけである。

むすびにかえて

ここまでの考察は工業管理機構の変化からFIGの「連続性」を主張するものであった。しかし、非公式型FIGを含めたFIGの実態をみると、「銀行」主導によるFIG 形成も広範にみられる。こうした「銀行」のなには、SBSアグロのように、協同組合銀行からスタートしたという意味で、市場経済導入がはじまった1987年以降の変化を受けたところもある。インコム銀行のように、プレハノフ記念国民経済大学が設立に関与したケースもある。しかし、オネクシム銀行のように、新生ロシアになって大銀行にまで成長した「銀行」もたしかに存在する。それ故、すべてのFIGについて、1987年以降の「改革」からの延長線でとらえることはできない。

それでも、残りの大多数のFIGについては、まだ社会主義経済時代の1987年からはじまった、市場経済導入の試みの延長線上に生まれたと考えることができるのではないか(69)。こう考えたとき、はじめて生産手段が「国家所有」のもとにあった体制を「私的所有」に改める困難が理解できるのではないかと思われる。ロシア経済に占めるいわゆる「非公式経済」のウエートの高さも、こうした「連続性」に対する理解なしには、説明ができない。それ故に、こうしたロシア経済の「特殊性」を知るためにも、公式型FIGだけでGDPの1割を超え、ロシア経済に重要な役割を果たしているFIGについて正しい視点から考察することがきわめて重要なのである。



Summary in English

参考文献