copyright (C) 1999 by Slavic Research Center,Hokkaido University.
All rights reserved.
拙著『スターリニズムの統治構造-1930年代ソ連の政策決定と国民統合-』(岩波書店、1996年)に対する書評数点の中でも、塩川氏のそれ(本誌第45号)は最も読みが深く、アルヒーフ文書を閲覧していなくてもここまで論じられるのかと感心させられるほど、的確で鋭い論評、批判になっている。指導部内対立が官庁間対抗の文脈で解釈される、その解釈の仕方(具体的には、第2次五カ年計画をめぐるクイブィシェフとオルジョニキッゼの対立)、本書の「社会史」的部分の弱点の指摘(但し「世論」の捉え方については、池田嘉郎氏の書評へのコメント、『ロシア史研究』第61号参照)、公刊資料等に基づく既知の史実と、公開されたアルヒーフ文書による発見とを厳密に比較して「発見」の新しさ、アルヒーフ文書の資料的価値を明示すべきことなど、筆者の裨益するところ大であった。
と同時に、「民主化」問題など、いくつか首肯しがたい批判もあり、反批判によって論点を明確にし、掘り下げるべきだと筆者は判断した。但し、紙幅の都合もあり、ここでは「民主化」問題に限定する。また、アルヒーフ文書に関しては、筆者が本書刊行後に得た知見もあるので、評者の疑問(とくに政治局の役割の項)に答えつつ、読者に紹介することは有益であろう。
1934年12月のキーロフ暗殺から一直線に大テロルへと突き進むかのような従来の通説に反して、1934年初頭から1936年半ばにかけて経済成長のテンポ引き下げ、政治的弾圧の緩和など「穏健化」の政策が採られたことはデイヴィス、フレヴニュークが主唱し、筆者も同じ考えだが、評者もこれには異存なかろう。問題は「穏健化」の重要な要素である憲法改正に筆者が「民主化」の契機を見た点で、評者は「民主化」をスターリニズムと対置するのは誤りで、それはむしろスターリニズムの手段であった、民主主義の名においてテロルを行った点にこそスターリニズムの特異性があると批判している。しかし評者の議論は、憲法改正が発議された1935年初頭から、採択された1936年末までのソ連の国際的位置とスターリン指導部の対応を十分に考察したものではない。もとより、本書における筆者の説明も不十分だったので、データを補足しながら筆者の見解を明確にしたい。
まず、本書でも指摘したように、憲法改正を発議した1935年2月の第7回ソヴィエト大会におけるモーロトフ報告が注目される。第一に、普通・平等・直接・秘密選挙への移行を「選挙制度のいっそうの民主化(dal'neishaia demokratizatsiia)」と、伝統的な用語法とは異なって表現した点(大会決議では、普通選挙は含まれず)、第二に、移行の理由を、ブルジョアジーが議会制度、民主主義を打ち捨てファシズムへと突き進んでいるとき「ブルジョア国家の最高の達成」をソヴィエト権力が取り上げ、勤労者の利益、社会主義建設の利益のために利用することができると説明した点、である。言い換えれば、普通・平等選挙への変更を社会主義建設の結果(搾取階級の消滅と農民のコルホーズ員化=労働者への接近)として、直接選挙・秘密投票への変更も大衆によるコントロールの強化として、つまり総じて「ソヴィエト民主主義の拡大」と説明して足れりとするのではなく、ブルジョア民主主義の良いところは取り入れるという従来とは異質な論法をとっているのである。モーロトフが「プロレタリア民主主義」ではなく「勤労者の民主主義」といい、さらには「ソヴィエト的議会(sovetskii parlament)」をさえ語ったのも、反ファシズム国際世論への配慮に基づくといってよい (1)。
このことはスターリンも承認済みで、モーロトフ報告に先立つ政治局決定草案に添付したメモには、こう記されていた。「憲法問題は、一見したよりはるかに複雑である。まず選挙制度は、多段階選挙をやめる点で改正するだけではない。公開投票を秘密投票に替える点まで改正しなければならない。…現時点のわが国の情勢と力関係は、この問題でわれわれが政治的に得点するばかりのものである。こうした改革が国際ファシズムを撃つ非常に強力な武器の役割を果たすに違いない…。」 (2)
このように選挙制度改正の動機は明らかだが、『プラウダ』、『イズヴェスチヤ』の論文、論説はこの動機を説明したものばかりではない。正確に言えば、選挙制度改正の二重の論理、一つは、伝統的なプロレタリア独裁=プロレタリア民主主義(レーニンによれば「ブルジョア民主主義の数百万倍も民主的」)論に立つ「ソヴィエト民主主義の拡大(深化、徹底)」、いま一つは「ソヴィエト制度への欧米議会制度の部分的導入」のいずれかを、状況や論争相手に応じて使い分けていたのである。そして、少なくとも1935年の間は「ソヴィエト民主主義の拡大」論の方が支配的であった。7月6日の憲法記念日に『プラウダ』論説は「階級の絶滅こそプロレタリア民主主義の真の内容」という伝統的な見解を表明した (3)。他方、同日の『イズヴェスチヤ』でアクーロフ(ソ連邦中央執行委員会書記)は、ソヴィエト民主主義は「多数者の民主主義の最高の形態」と伝統的見解に同調しつつ、「わがソヴィエト国家[別の箇所では、自己の体制]のいっそうの民主化」と、「民主化」概念を拡大解釈してみせた (4)。アクーロフはまた、カリーニン(ソ連邦中央執行委員会議長)の60歳の誕生日に寄せた文章で、彼を「大統領(prezident)」と呼んだが、これもあくまで例外的である (5)。
ちなみに、ロシア革命記念日のスローガンも、コミンテルン第7回大会の後にもかかわらず、否、そこでの反ファシズム人民戦線戦術と社会主義革命との関係の曖昧さ故に、「資本主義打倒、ファシズム打倒」を並列するものであった。ソ連が5月の相互援助条約締結で同盟関係に入り、反ファシズム運動の進展を大いに期待し、ロマン・ロランをはじめ親ソ的文化人を招待したフランスに関するスローガンに、「民主的権利の擁護」は含まれていなかった (6)。
ところが、1936年3月、ドイツのラインラント進駐、フランス下院・上院の仏ソ相互援助条約批准を前後して、スターリン、モーロトフが異例にも、相次いで外国紙(各アメリカ、フランス紙)とのインタヴューに応じた (7)。ドイツによる侵略の脅威(極東では日本の中国侵略)に対して、ソ連の平和政策、集団安全保障外交を強調したものだが、内政にも触れており、とくにスターリンの米紙ロイ・ハワードとの会見の内容が注目される。それは、「革命の輸出」を否定して「アメリカ民主主義とソヴィエト・システムは平和的に共存し、競争できる」と述べ、共産党以外の政党は存在する余地がないが、諸階層の利益は多数の社会団体を通じて表出されることを指摘したほか、選挙制度改正をこう説明した。「ソ連における普通・平等・直接・秘密選挙は、働きの悪い権力機関に対する住民の手中にある鞭(khl'st)である」と。普通選挙の導入は、憲法委員会の選挙制度小委員会では予定されておらず(不労所得者、聖職者等には選挙権を付与せず)、各小委員会の案を土台に1936年4月に作成された「素案」で初めて規定されたから(8)、スターリンのイニシアティヴによるものといってよい。スターリンは他方では、伝統的なソヴィエト民主主義論、大衆による下からのコントロール論も「鞭」の比喩で補強したのである。
5月のフランスにおける人民戦線の選挙勝利の前後に『イズヴェスチヤ』に注目すべき記事が現れた。まず「市民の権利」と題する論文は、選挙権剥奪が従来いかに軽率に行われていたか、事例を挙げて説明したものだが、「最大限に民主的な自由を得る権利はソヴィエト体制のもとでのみ可能だ」として、その「最も自由な市民の権利」の中でも最重要なものが選挙権であると位置づけた (9)。次に「リーチノスチの自由(o svobode lichnosti)」と題するアンケートは、このテーマに対する理解の仕方を示す点で興味深く、13人の回答者の中には、失業のないことこそ証左だと答えたり、働き甲斐や学べる喜びを挙げる者もいれば、「大衆という聴衆と結びついて個人の創造力を発揮できること」を指摘した作曲家もいた。ここで重要なのは、「階級」中心の集団主義が支配的な当時にあって「個人(人格)の自由」が公然と語られたこと自体である (10)。さらに、5月17日の憲法委員会総会の報道では、前年7月の憲法記念日のさいの同総会の報道には見られなかった「市民の基本的権利および義務」という章のタイトルが明らかにされた (11)。労働者、勤労者という伝統的な用語とは異なった「市民(grazhdanin)」の登場も、「ソヴィエト制度への欧米議会制度の部分的導入」に対応したものである。
こうしたトレンドを集大成したのが、憲法草案公表直後の6月14、15日に『イズヴェスチヤ』に発表されたブハーリン論文「社会主義国家の憲法」に他ならない(彼は『イズヴェスチヤ』編集長であり、「市民の基本的権利および義務」の章の小委員会責任者であった)。論文は、憲法改正を社会主義建設の成果として説明する点でも、権力機関・国家構造の条項の解説でも正統的であったが、権利・義務条項の解説では正統教義とは趣を異にしていた。権利条項の新しさとして、権利の物質的保障の実現(1918年憲法では、労働権等は宣言的)、「個人の権利(pravo lichnosti)」の拡大が指摘され、ブルジョア民主主義諸国が権利を形式的にしか保障せず、いまやファシズムがそれさえ剥奪しつつあることと対比された。ブハーリンによれば、工業化、農業集団化、搾取階級および失業の消滅が「社会主義社会の市民の“自然権”(estestvennye prava)」という問題を新たに提起している。彼はまた、「市民的自由」として言論、出版、集会、行進・示威行動の自由を挙げたうえ、新たに規定された人身の不可侵、信書の秘密を「ソヴィエト市民のリーチノスチの成長」に伴うものと説明している。このように、ブハーリンは「ソヴィエト制度への欧米議会制度の部分的導入」にとどまらず(普通・平等・直接・秘密選挙の導入については目新しい説明なし)、欧米民主主義の理論的根拠ム個人主義と社会契約ムにまで、比喩ながら言及したのである(12)。
6月半ばから約5カ月間続いた憲法草案「全人民討議」でも、選挙制度改正、さらには権利規定拡充をめぐる叙上の二つの傾向が看取された。もとより、伝統的なソヴィエト民主主義論、大衆による下からのコントロール論に立ったソヴィエト活動の批判ム代議員の報告がなされず、選挙が省略される等ムが主流であり、旧クラーク、聖職者に対する選挙権付与への根強い反対こそ、伝統的な理解の最たるものであった。とはいえ、普通選挙権は「ブルジョアジーとそのみじめな“民主主義”に対するソ連の道義的な優越を示すものである」という、スターリン指導部の改正の意に沿った意見もみられた。平等選挙の導入はコルホーズ員に歓迎されたが、労働者との平等を休息や老後保障にまで拡大し、さらには国家の性格規定にも反映させよう(「勤労者の国家」にしよう)という主張も強かった。直接選挙を各級ソヴィエト代議員のみならず、村ソヴィエト議長にまで拡大しようという提案も少なくなかった。また、最高ソヴィエト代議員のみに認められた免責・不逮捕特権を全ソヴィエト代議員に拡大すべきだという提案もあった。最高ソヴィエト幹部会議長を「大統領」と呼ぼうという提案もみられた。さらには、代議員候補推薦の権利を社会団体だけではなく、個人にも認めるべきだという主張もみられた。新聞報道はされなかったものの、複数政党論さえ存在したのである(13)。こうした意見は、欧米議会制度の部分的導入、権利の平等化という、いま一つの傾向の反映といってよく、ある聖職者は、人並みの権利を保障されたことを「諸外国がソ連に影響を与えた結果だ」と認識していた(14)。
8月初旬から開始されたスペイン連帯運動は、従来抽象的であった「ファシズム対民主主義」の認識をリアルなものに変え(モスクワ連帯集会におけるシュヴェルニク演説)、すべての集会で「スペインの民主共和国擁護」が唱えられた。11月の革命記念日スローガンでも「人民戦線を拡大、強化せよ」に続いて「平和、民主的自由、社会主義を擁護せよ」が掲げられた(15)。しかし、スペイン連帯運動は憲法草案「全人民討議」とはまったく別個に組織され(主体も前者は労働組合、後者はソヴィエト)、「民主的自由」の擁護がソ連国内で如何なる意味をもつか、とは決して問われなかった。党員アクチーフにとって、民主主義のための闘争は社会主義革命の前段の、一段低い闘争という固定観念が強かったろうし、ロシア内戦が想起されても階級闘争としての内戦イメージが投影されたであろう(16)。しかも、スペイン連帯運動に踵を接するように開始されたジノーヴィエフ・カーメネフ裁判および旧反対派弾圧キャンペーンは、「全人民討議」において、権利より義務の強調、警戒心と愛国心の培養、スターリン崇拝の昂進を促した。
11月下旬から12月初旬にかけて開かれた第8回ソヴィエト大会で「全人民討議」が集約され、憲法草案が採択された。スターリン報告にとくに目新しい点はなかったが、これをめぐる討論で、モーロトフは「他の諸国の民主的諸制度から最良のものをすべて取り、…社会主義国家の条件に適応させた」と、第7回大会における自己の主張を繰り返し、「ソ連邦の民主化を完成させるソヴィエト憲法」「わが国家体制のいっそうの民主化」と、「民主化」という概念を拡大して用いた。「社会主義的民主主義」(sotsialisticheskaia demokratiia)はスターリンも用いたが、「全人民の民主主義」(vsenarodnyi demokratizm)は「勤労者の民主主義」以上に正統教義から外れた規定であった(17)。
このかんソ連を取り巻く情勢、とくに対仏関係が変化しつつあった。フランスはジノーヴィエフ・カーメネフ裁判と旧反対派弾圧キャンペーンに不信を持ち、ソ連はフランスが対スペイン不干渉委員会を提議し(それには応じたものの)、イギリスに追随してフランコ支援のドイツ、イタリアに断固たる措置をとれないことに不信を抱くようになった(18)。フランス人の対ソ感情を悪化させ、少なくとも左翼を分裂させたのがアンドレ・ジッドの『ソヴィエト紀行』である。彼は、重病のゴーリキーを見舞うため6月中旬にモスクワを訪れ、以後ソ連各地を訪問して9月初頭に帰国し、滞在中の『プラウダ』等の報道にみられたソ連賛美とは打って変わった率直な批判ム画一性、スターリンへの服従、貧困と不平等ムを明らかにしたのである。これに対して『プラウダ』12月3日号の無署名論文は、ソ連では上に対する批判はできないというが、家族保護(中絶禁止)法の討議では批判も出たし、総路線に対する批判は社会主義が勝利した以上、起きようもないと反駁し、ジッドのソ連滞在中の発言との不一致を衝くなど、激しい反発を示した(19)。さらに12月30日号はドイツ人親ソ派作家フォイヒトヴァンガーのジッド批判を掲載したが、「真の民主主義と西欧諸国の形式民主主義(formal'naia demokratiia)とを混同している」「ソ連の人々が自己の社会主義を西欧印の議会主義(parlamentarizm zapadnoevropeiskoi chekanki)に変えようとしないことに失望している」とあるように、欧米民主主義に対する伝統的な評価に回帰している。彼はまた『ソヴィエト紀行』出版の時期も悪いと非難したが、「スペインに対する攻撃がフランスと全世界における社会主義のための闘いを脅かしている」時期だという現状認識に立っており(傍点引用者)、反ファシズム人民戦線の認識から逆行している(20)。
1937年1月のピャタコーフ・ラデック裁判を経た2-3月中央委員会総会は、ブハーリン、ルィコフを断罪、除名するとともに、「資本主義の包囲」という孤立主義的な認識に立って「スパイ=人民の敵」摘発を党の当面の主要な任務としたものである。「新選挙制度に基づくソ連邦最高ソヴィエト選挙への党組織の準備、これに応じた党=大衆活動のペレストロイカ」も決議されたが、ソヴィエト民主主義に応じた党内民主主義の強調も、下からの「官僚主義批判」による地方党有力指導者の追い落としに方向づけられていった(21)。この中央委員会総会の最中の『プラウダ』3月1日号論説「スターリン憲法を厳守せよ」は、憲法上の権利侵害からの救済を妨げる「官僚主義」が問題だとし、新選挙制度という「官僚主義者、無能な働き手に対する鞭」を活用すべきだと主張している(22)。もはや、この段階ではブルジョア民主主義に対する一定の評価は消失し、伝統的なソヴィエト民主主義論がスターリンの「鞭」の比喩に補強されて再び前面に出てきたのである。
以上のように、1935-36年の憲法改正期にみられた「民主化」論は、反ファシズム国際世論とソ連の国際的位置に対応したもので、しかも、憲法改正「全人民討議」にも一定の影響を与えており、スターリンの意図に合致した宣伝・シンボル操作の手段とばかりは言えない。伝統的な「ソヴィエト民主主義」理解との矛盾に着目すべきなのである。筆者は本書でスターリンによる党機関と世論の掌握を強調したが、そのスターリンさえ憲法改正期の議論を十全にコントロールし得たわけではない。最近一部公開された彼の個人フォンドは未見だが、政治局会議議事録および同「特別ファイル」による限り、この種のイデオロギー問題が議論された形跡はない。それだけに、ここでは主として新聞の分析が中心となったが。
ついでながら、「一貫した穏健論者」の存在という筆者の認識も、スターリンによる党機関と世論のコントロールを必ずしもタイトなものと考えない点で共通している。本書では「一貫した穏健論者」としてハタエーヴィチを例に挙げたが、叙上の分析からはブハーリンも含まれるといってよい。ブハーリンはジノーヴィエフ・カーメネフ裁判で彼らとの関係を疑われ(いったんは晴れたものの)、憲法最終草案を採択した12月初旬の中央委員会総会の別の秘密会議で批判され、『イズヴェスチヤ』編集長を解任されるが(1937年1月15日(23))、少なくとも1936年前半までは内政、外交いずれにおいても穏健な立場で編集に当たった。1935年の『イズヴェスチヤ』にハタエーヴィチの論文が、他人より多く5回も掲載されたのは(24)、ドニエプロペトロフスクという重要な冶金および農業州の党書記(中央委員)とはいえ、ブハーリンによる評価、親近感なしには考えにくい。もちろん、二人が「穏健派」を構成していたとか、しようとしていたという意味ではないが、スターリン独裁、エジョーフ的強硬路線への傾斜を制約する「穏健論者」と雰囲気がこの時期に指導部内外にあったとしても不思議ではない。この論点は引き続きオープンにしておきたい。
第一に、政治局会議の頻度、参加者、議題については、本書でも示唆したように、1920年代は1933年以降に比して頻度が多く、参加者、議題とも少なかった。例えば1925年10月15日には、月4回のほか「国家、とくに経済建設の特別会議」を月2回開くことが決定されたし、1930年12月30日には、正規の会議を5、15、25日にもつほか、通商、外交、国防、治安および党内問題を扱う会議を10、20、30日に開くことが決定された(25)。会議の開始時刻は、記録に残された限り正午が通例であった(やがてスターリンの生活習慣に合わされて夕方、夜にずれていった)。20年代は議題が少ないだけではなく、ドイツ革命、中国国民革命、イギリス炭坑ストなど国際革命運動が大きな比重を占め、それも、ある時期まで「外務人民委員部の諸問題」として扱われていた点に特徴がある。
第二に、政治局会議の運営については、本書にあるとおり、短時間に(長さは不明)多数の議題を次々と、いわば事務的に処理していたようで、議論はあまりせず、小委員会に検討を委任するか、その結論を基本的に受け入れていた。もちろん「政治局会議での意見交換をふまえて」小委員会に決定案作成を委任することもしばしばあったし、20年代は国際革命運動や経済政策の基本路線をめぐって激しい論争が闘わされたようである。「ようである」と断定しないのは速記録がないか、少なくともアクセスできないからである。1926年9月13日の決定には「モスクワ組織の活動に関する政治局速記録について:速記録は刊行しない」とあり(26)、あたかも速記録を残すのが通例だったかのような印象を与えているが、即断は避けたい。政治局会議がかなり事務的に行われていたことの傍証として、スターリンが書類の量が多すぎると注意し、会議中の議案回覧採決を中止するよう指示した記録がある(27)。採決には、正規の審議に基づく採決、会議中の議案回覧採決、電話による持ち回り採決(20年代の議事録には「電話による」と明記、oprosom po telefonu)」の3種類があり、議事録にある3種類の決定もこれに対応したものと思われる。つまり、正規の決定と持ち回り決定との間に時々挟まれた「政治局決定(resheniia Politbiuro)」は、会議中の議案回覧採決によるものということになる(28)。なお、政治局の中核メンバーを指す「インスタンツィヤ」という用語は早くから外交関係文書にみえ、管見の限り古い事例として、1925年6月5日の政治局中国小委員会会議議事録に「指令インスタンツィヤ」という表現で使われたことがある(29)。
第三に、政治局会議議事録には決定オリジナルと関連資料があり、このほか「特別議事録」もあるが、これらを一部でも利用したのはフレヴニュークしかいない(30)。関連資料の一例は、先に紹介した1935年1月31日付政治局決定(憲法改正と憲法委員会設置、2月1日中央委員会総会に提案)に添付したスターリンのメモである。われわれがアクセスできるのは政治局員の「個人フォンド」で、決定の意味や性格、また政治局員間の関係を知るうえでも、貴重な資料である。筆者は本書でオルジョニキッゼ・フォンドを大いに活用したが、その後カガノーヴィチ・フォンドから1932年5月のイヴァノヴォ暴動の資料を見出したし、ヴォロシーロフ・フォンドには1929年のカーメネフとの話し合いやルィコフのメモが含まれ、彼がスターリンへの取りなし役を期待されていたことが裏付けられるなど(31)、十分に役立っている。スターリン個人フォンドは最近ようやく、一部が大統領アルヒーフからロシア現代史文書保存・研究センター(RTsKhIDNI)に移管され、アクセスが可能になった。近く「スターリン・モーロトフ往復書簡集」に続く「スターリン・カカノーヴィチ往復書簡集」が、同じくフレヴニューク等の編集で刊行される。