ウクライナとNATOの東方拡大
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はじめに

 1999年3月、北大西洋条約機構(以下、NATO)は、ポーランド、ハンガリー、チェコの加盟を正式に承認した。この結果、ウクライナはNATO加盟国及びロシアとそれぞれ国境を有することになった。ウクライナはソ連末期の共和国主権宣言以来、中立・軍事ブロックの外に立つことを標榜しており、この二つの勢力の間でウクライナがとる安全保障政策は、NATOとロシアの両者にとって極めて重要な意味を持つ。つまり、ウクライナの動向は欧州安全保障の重要な構成要素となっているのである。
 近年、ウクライナは、NATOの東方拡大を「ヨーロッパにおける安全と安定を強化し民主主義と自由を確立するもの」として歓迎している(1)。実際、NATOが提唱した「平和のためのパートナーシップ構想(以下、PfP)」に対してウクライナは独立国家共同体(以下、CIS)諸国の中でもっとも早く参加を表明し、NATOへの将来の加盟を示唆するなど、NATOに対する積極的な姿勢を見せている。一見すると、ウクライナは独立以来一貫してNATOや欧州連合(以下、EU)への接近を模索しており、NATOの東方拡大を利用して西欧との関係強化に乗り出しているかに見える。しかし、実際のところウクライナが採ってきた政策はそれほど単純ではない。ウクライナは独自の安全保障圏構想をヨーロッパ諸国に提起し、PfPに不快感を表明したことさえある。また、EU経済圏との統合は進まず、依然として経済の対露依存傾向が続いている。特にエネルギー面での対露依存は現在でも圧倒的であり、それが最も顕著に表れたのが93年から94年にかけてのウクライナ経済危機であった。
 本稿は、ウクライナとNATOとの関係を分析しつつ、ウクライナ独自の安全保障政策に注目する。そして、その政策が、対ロシア、対NATOとどのように関係していて、どのような特徴・方向性を持つのかを検討することを目的とする。NATO=ロシア間でウクライナが置かれている位置が明らかになれば、自ずとウクライナが採り得る政策の幅も明らかにすることができる。
 本稿は以下のような構成をとる。第一節において、ウクライナが置かれている客観的条件として経済問題を論じる。いうまでもなく、安全保障政策は、軍事力によってのみ維持されるものではなく、経済もその重要な構成要素となる。特に、ウクライナは経済的にロシア依存度が高く、従って経済問題は安全保障上大きな位置を占めている。多くの論者は93-94年の経済危機によって、ウクライナは政治的にも軍事的にもロシアに回帰せざるを得ず、国家として存続することが困難になるのではないか、と予測した(2)。しかしウクライナは大統領選挙後の94年秋から国際通貨基金(以下、IMF)と協同した経済改革を実施し、結局ロシアへ回帰しなかった。その理由は何だろうか。この最も動揺した時期におけるウクライナの経済安全保障政策はどのようなものであったのか。
 第二節では、ウクライナの主体的な姿勢として、ウクライナが展開した中立外交について論じる(3)。ウクライナは主権宣言において、中立・軍事ブロック外国家であることを宣言している。ウクライナが提唱した「中・東欧安定・安全保障圏」および「中・東欧非核兵器圏構想」は、欧州中立国の架け橋外交を模したように見える。ウクライナも、欧州中立国が展開した外交に類する活動を行っていたのではないか。これらの構想には、欧州中立国が冷戦期に展開した中立外交と同じ論理が働いたのか。そしてなぜウクライナの中立外交がことごとく実現せずに終わったのか、以上の点を検討したい。
 第一節で論じたウクライナが置かれている客観的な制約条件、第二節で論じたウクライナの主体的な姿勢を踏まえて、第三節においては、NATOの東方拡大に対してウクライナが示してきた解釈の変化を論じる。ウクライナが、ロシアからの影響と自国の主体的な姿勢としての中立外交を考慮した上で、NATOの東方拡大に対してどのような反応を取ったのかを論じる。ウクライナは、NATOを自国の安全保障政策の中でどのように位置付けているのか、最終的にはどのような欧州安全保障の展望を抱いているか、を明らかにしたい。

1. ウクライナ経済とロシア

(1)新経済政策からCIS経済同盟へ
 1992年1月、ロシアは価格自由化を一国で開始した。ウクライナ側は、事前協議において価格高騰に伴って必要とされるルーブル・キャッシュの準備不足から、価格自由化開始の延長を要求した。また、CISルーブル圏のための造幣局を創設し、各共和国に必要なルーブル紙幣が行き渡った後に価格の自由化を同時に実施するよう求めた。しかしロシアは、各共和国の経済が異なる条件や問題を抱えることを理由に一国での価格自由化を強行したため、ウクライナはルーブル圏離脱を余儀なくされた。ルーブル圏にとどまる限り、ロシア発のインフレがウクライナに波及し、ウクライナ商品がロシアへ流出することが不可避となることは明らかであった。さらには、ロシア中央銀行がルーブル札の発行を独占するために、ウクライナはルーブル紙幣の不足にも対応することができなくなる状況に直面したのである。
 そのため、ウクライナはルーブル圏からの離脱を主目的として、92年3月に「新経済計画」を採択した。クラフチュク大統領(当時)は議会演説において、新経済政策の意義を次のように述べた。「連邦消滅にもかかわらず、ウクライナ経済は財政・金融・通貨政策を通じて外部から支配されており、それは共和国経済に危機的状況を作り出している。独立国として独自の経済政策を実施して危機から脱出する必要がある」(4)。その具体策として、ルーブル圏諸国からの輸入の漸減、ウクライナが独占的地位を有する商品のルーブル圏諸国への輸出、兌換性を有する新通貨の導入、を挙げていた。
 つまり、経済危機の原因はロシアから生じており、ロシア・ルーブル圏から離脱すれば、経済危機は解決できる、とする見方である。ルーブル圏からのインフレ波及の阻止以外にも、ウクライナがロシアから離脱すれば経済危機を克服することができると想定できる理由が存在した。第一に、ウクライナは元来豊かな国であり、ソ連から独立すればその潜在力が発揮されると、国民の多くが考えていた。クラフチュクは、ソ連体制のもとでウクライナは搾取されていたと主張し、国民の多くも独立によってウクライナが豊かになれると信じていた。第二に、ウクライナが元来有していた民主主義、市場経済、私有財産制などのヨーロッパ的な社会・経済的価値観を70年にわたるソ連体制が「人工的」に抑制していた、とする考えがあった。ウクライナがソ連から独立し、移行期の困難を克服し法整備を整えれば、「自然と」ヨーロッパへ回帰でき、またヨーロッパにとってもヨーロッパ的価値観を有するウクライナは魅力ある投資先になると想定されたのである(5)
 新経済政策によってロシアより低いインフレ率を達成し、モノ不足を解消できたのであれば、独立間もないキエフ政府はその正当性を増したであろう。しかし、期待に反して、ウクライナはロシアを上回る経済危機に見舞われた。90年よりルーブル不足を補うために補助的に発給されていたクーポンは92年11月には、唯一の法定通貨「カルボバネッツ」となったが、キャッシュやクレジットの形で増発され、インフレが制御できなくなってしまった。92年1月にルーブルとの交換率1:1で導入されたクーポンは、93年初には1:2にまで下落した。また、クーポンが周辺国との協議がないままに導入されたため、旧ソ連諸国との決済関係を混乱させ、社会主義的分業で成り立っていた生産ラインを破壊した(6)。それに加え、93年1月から実施されたロシア産エネルギーの国際価格化にウクライナは対応できず、エネルギー債務が累積した。ロシアによるガス供給の縮小・停止は、エネルギー供給をロシアに依存するウクライナの経済を直撃した(7)。また、ウクライナのガス消費量の10%を占めるトルクメニスタン・ガスは、ロシア領土を経由してウクライナに輸出されており、実質的にウクライナはエネルギーのほとんどをロシアに依存していたのである(8)
 エネルギーの代替供給源を見つけるため、ウクライナ首脳は中東諸国を歴訪したが、外貨が決定的に不足した状態では、得られるものは全くなかった。ロシアの西側向けガスの90%はウクライナ領土経由であるため、ウクライナには、自分が持つパイプライン網を交渉材料にして、ロシアや旧ソ連諸国からエネルギーを得る選択肢しか残されていないことが明らかになったのである(9)
 こうした中、「新経済計画」は1年後には早くも方向転換を余儀なくされた。93年5月、当時の首相クチマは、議会演説の中で、経済危機は何よりも「エネルギー危機」、すなわちエネルギー価格の高騰によるものであると指摘した。さらにクチマは、エネルギー供給源の多元化に3−5年かかるため、ウクライナ政府はロシアとの関係改善に努め、CIS諸国との経済統合路線を採用する意向である、と言明した(10)。ウクライナの対外経済政策は、「ロシア・ルーブル圏からの離脱」から「ロシアとの経済統合」に代わったのである。
 ロシア側は、ウクライナとの経済統合が政治・軍事部門での統合過程への一歩になると歓迎した。しかしながら、ウクライナ政府は、経済同盟から政治的・軍事的統合への発展を強く否定した。経済面でのロシアとの統合も、ウクライナ経済再生のための「手段」であって、「最終目標」とはみていなかったのである。であるからこそ、93年夏に議会で採択された「外交の基本方針」において、EU加盟が究極的目標であるとされ、この方針は現在に至るまで国是とされているのである。また、94年6月にEUと調印された「EU・ウクライナ提携・パートナーシップ協定」は、ズレンコ外相(当時)によれば「EU加盟への第一歩」であり、「CIS枠内での伝統的関係を失うことなく、EUとの関係が発展するもの」と位置付けていた(11)。後述するように、ロシアとの経済統合を主張したクチマもこのような考えを有していた。

(2)CIS経済同盟
 ウクライナにとってロシアは経済的には、第一に安いエネルギーの供給源、第二に国際競争力のないウクライナ製品の市場を意味していた。このため、ロシアと何らかの経済同盟を結成することが必要であると考えられた。
 まず、93年7月、スラブ系三共和国の首相が「(スラブ)三国経済統合の強化宣言」に合意した。この宣言書は、三国国民の歴史的共通性、領土の隣接、経済の発展レベルの近似を考慮し、より緊密な経済統合を目指すことを目的としていた(12)
 モスクワで宣言書に調印したクチマ首相は、三国経済同盟の域内価格の同一化、すなわちロシア・エネルギーの内外価格差の解消を緊急の課題として挙げ、三国経済同盟はウクライナにとって有利であり主権の喪失にはならない、と述べた。また条約化のためのウクライナ側準備委員であるランデュク副首相も、三国経済同盟が第一に安価なロシア・エネルギーを求めたものであるとの認識を示した(13)
 しかしながら、ウクライナ国内の民族主義政党は、三国経済同盟は超国家機構であり、ロシアへの隷属、ウクライナ国家の主権喪失を意味するとして、調印したクチマを厳しく批判した。彼らの中からは、CISから即座に離脱し周辺諸国(旧東欧諸国、バルト、ベラルーシ、モルドバ)との経済統合を強めて欧州統一の場を見出すべきである、との主張すら表れた(14)。さらに、ウクライナのいくつかの州議会からも、経済同盟に対する賛否の決議が上がった。ウクライナ西部のリボフ州議会が経済同盟加盟への反対決議を採択し、翌日には東部のドネツク州議会が加盟を求める決議を行う、という状況が生じた。ウクライナ最高会議での審議は紛糾し、折りからのロシア国内情勢の混乱(大統領と議会の対立)とあいまって、ウクライナ議会における加盟決議は見送られた。結局、ウクライナは93年9月、CIS経済同盟条約に「準加盟」資格で参加した。モスクワで条約に調印したクラフチュク大統領は、「ウクライナの危機脱出は経済同盟なしには成し遂げられないが、東西ウクライナ間の経済同盟に対するアプローチに違いがあり、ウクライナの分裂を防ぐために準加盟に賛成した」と述べた。しかし、準加盟の権限は不明確で、クラフチュクの選択は解決を先送りしたものに過ぎなかった(15)

(3)ウクライナ国民と大統領選挙
 93年に入るとインフレーションと生産低下が加速し、93年度のインフレ率は1万パーセントを突破した。さらにはエネルギー危機が市民生活を直撃し、国民の間で経済問題に対する関心が高まった(16)。このような状況に直面し、多くの国民はCIS経済同盟ないしはロシアとの経済統合が、ウクライナの危機を救う道であると認識するようになった。93年に行われた世論調査によれば、「ウクライナの経済同盟への加盟が危機脱出のための最優先課題である」とみなすウクライナ国民は69%に達しており、不支持は僅かに15%であった。西部のガリツィア三州においてのみ、経済同盟に対する不支持(70%)が支持(19%)を上回った。しかし、その一方で、国民の多くは、軍事・政治的なCIS同盟の加盟には賛成しなかった。軍事・政治的なCISへの参加を支持する国民は僅かに13%であり、最も支持率の高いクリミアでもその数字は20%にすぎなかった(17)
 94年6月に行われた大統領選挙は、実質的に現職クラフチュクとクチマとの一騎打ちとなった。一般に、両者の政治傾向は異なると言われているが、選挙公約には相当の類似が見られた。選挙公約において、クラフチュクも「CIS内での経済統合トレンドを支持」し、「二言語の公用語化」に賛成を表明していた(18)。にも関わらず、民族主義政党はクチマを「(ウクライナ国家に対する)最も危険な人物」と呼び、クラフチュクへの投票を呼びかけた。クラフチュクも選挙キャンペーンにおいてウクライナの守護者として振る舞い、争点を自らの任期中に生じた経済危機からそらそうとした。
 クチマは、ロシアとの統合は経済部門のみであり軍事的・政治的な統合はないとし、また経済統合に関しても、ロシアなしにウクライナは生き残ることができないことを認めつつも、ベラルーシ案(ロシアとの共通ルーブル圏、金融・税政策の一体化)は旧ソ連への回帰であり反対である、と言明した(19)。オデッサでの大統領選挙キャンペーンで、クチマは「我々が非常に依存しているエネルギーの供給、市場の点からロシアとの経済統合に賛成である。ウクライナ製品は旧ソ連諸国でのみ売りさばくことができる。しかしウクライナ産業は西側の最先端技術を必要としている。この点ではロシアはあてにならない」と演説し、ロシア(CIS)との経済統合がウクライナ経済生き残りのための「手段」であることを認めた(20)
 決選投票の結果、クチマが逆転で大統領に当選した。ウクライナ東部−西部間で、投票パターンに著しい違いが生じた。確かに、この選挙には「親ロシアのクチマ」対「ウクライナ国家の守護者、クラフチュク」というロシア問題を巡る対立図式があったことは否定できない(21)。しかし、それだけでこの選挙結果を語ることはできない。この選挙は、経済不振を招いたクラフチュク体制の存続の是非を問う側面があったことも指摘しなければならないのである。決選投票でクチマに投票した国民は、ロシアとの経済統合が経済再生への道であると見なして投票したわけであり、ウクライナ国家がロシアに吸収されることを望んだわけではなかった。つまり、この選挙を「親ロシア」対「ウクライナの守護」の選択とみなす国民より、「経済再建者」対「経済不振の元凶」の選択とみなすことも可能であった。多くの国民には「ロシアとの経済統合」は、「ウクライナ国家性の喪失」ではなく「ウクライナ経済の立て直し」として映り、この認識がクチマ逆転当選の原動力になったのである(22)

(4)CIS経済同盟からIMFへ
 しかしながら当選したクチマは、10月にIMFと協力した経済改革を宣言し、ロシアとの経済統合の道を選ばなかった。それはなぜであろうか。
 かねてより改革志向が強かったクチマが大統領に就任することによってはじめて経済改革の途が開かれたとする見方がある(23)。しかしこの説は、93年末よりウクライナ自らが実施してきたインフレ抑制型の経済改革を無視している。この政策の結果、94年7月には月インフレ率が2.1%にまで低下したが、不払い危機によって生産が更に落ち込み、最終的に頓挫してしまったのである(24)。またクチマ自身は、首相時代から大統領選挙時に至るまで、経済改革に関して「統制された市場経済への移行」を主張しており、IMF流のインフレ抑制型経済改革には批判的であった(25)。ここでは、クチマが「経済改革を開始した」ということより、「IMFと協力した」という事実に注目する必要がある。
 IMFとの協力の意味は、第一にエネルギー債務危機の解消にあったのである。ロシア・ガスプロムは再三、ウクライナのパイプラインを含むガス関連企業の株式取得による債務相殺を提案し、また94年9月に来訪したショーヒン・ロシア副首相は、ウクライナの対露ガス債務の償還を迫り、ウクライナ領土上のガス輸送施設の長期貸与、株式譲渡を求めた(26)。ウクライナ側が期待していたエネルギーの廉価供給に、ロシアは全く応えようとしなかったのである。
 ガス債務問題が、経済改革の開始と深く関係していることは、94年10月のクチマ大統領の経済改革に関する議会演説の中にも強く表れていた。クチマはその中で、エネルギー債務の返済のためには選択肢がないことを次のように吐露した。
 「皆が理解してほしいのだが、今年度末までに、我々は、ロシア、トルクメニスタンに対するものだけで、ガス代のみで10億ドル以上支払わねばならない。我々にこのような資金はない。諸々の国際金融機関との交渉決裂の末路を想像してほしい」(27)
 10月末にウィニペグで開催されたIMF主催「ウクライナ経済再編パートナー会議」には、G7に加え、債権国ロシア、トルクメニスタンが参加し、ウクライナの債務再編に協力することを約束した。ロシアやトルクメニスタンから見れば、ウクライナの債務再編に協力することによって、ウクライナが国際金融機関のクレジットを得ることは有益であった。11月にクチマ大統領がトルクメニスタンを訪問した際には、両大統領の会談の席にコリンズ米国特使が同席し、ウクライナの対トルクメニスタン・エネルギー債務の繰り延べが決定された(28)。IMFの協力によって、ウクライナは切迫したエネルギー債務問題を乗り切り、G7諸国からのクレジットを得て、貿易収支赤字(すなわち、エネルギー債務)の補填に成功した。つまり、IMF勧告による経済改革は、IMFという国際金融機関が、ウクライナの切迫した対露エネルギー債務を肩代わりし、さらに将来のウクライナ経済に深くコミットしたことに意味があったのである。ウクライナの対露エネルギー債務問題は、ウクライナ・ロシア間の二国問題ではなく、アメリカ、IMFを巻き込む国際的な問題となった。
 これ以後、CIS経済同盟に対するウクライナの態度は再び冷淡なものへと戻っていった。ウクライナのCIS諸国、ロシアに対する関心は、ウクライナ製品の市場を確保するための二国間自由貿易協定へと移った。ロシア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギスタンによる関税同盟はウクライナにとってもはや魅力的なものとは映らなかった。何故なら、安い原材料から生産されるロシア製品に自国市場が席捲される可能性があったからである。関税同盟への勧誘に対し、クチマは「ロシアは原料に関しては安価な国内価格を維持しており、他国の企業にとって不平等な条件を提案している」と述べ、関税同盟への加盟が経済的にメリットがないことを強調した(29)。つまり、ロシア・エネルギーを安価で得ることはできないが、クレジット充填によって安定供給が受けられ、また二国間貿易協定によってウクライナ製品の市場確保ができる以上、経済同盟に加入する経済合理的な理由はないとウクライナは判断したのである。

(5)ウクライナ経済展望
 IMFとの協力によってウクライナはエネルギー危機を脱したとはいえ、経済は依然としてマイナス成長であり、また貿易面での対露依存も高い水準にある(30)。98年度のウクライナ貿易総額のうちロシアは38.5%(輸出31%、輸入45.8%)を占めている。現在、ウクライナ政府は、財政・エネルギー債務を、国際金融機関のクレジット及び外債で凌いでいるが、国際金融機関からの借入れを含む対外債務は97年初めの時点で88億ドル(内エネルギー債務は42億ドル)、99年初には115億ドルへと膨らんでいる(31)
 ウクライナは対露経済依存を減らすために、EU諸国との貿易拡大、エネルギー供給源の多元化を推し進めている。しかし、EUに関しては、ウクライナの主要輸出品である鉄鋼製品がダンピング認定を受けるなど、EU市場への参入は進展していない。ウクライナはEUに対し、EU・ウクライナ自由貿易圏の創設や、EU準加盟の付与を求めているが、EU側の反応は芳しくない(32)。EU市場が閉ざされれば、ウクライナ製品は、参入がより容易なロシア市場に向かうことになる。96年10月、ロシアは国内産業保護を名目にウクライナ製品の輸入に付加価値税(VAT)を課した。それに対し、ウクライナ政府は政治的解決を求め、VAT対象外の輸出割当を得た経緯がある。この例は、ウクライナ経済が、依然としてロシア側の政治的配慮によって左右される状況を示している(33)
 対露エネルギー依存からの脱却に関して、ウクライナはアゼルバイジャンの石油をグルジア・黒海を経由してオデッサ石油ターミナルに接続し、ウクライナ国内のパイプラインを通じてヨーロッパ市場へ輸出する計画(「ウクライナ案」)を推進している。このルートが稼動すれば、ヨーロッパ向けアゼルバイジャン石油のパイプライン通過料が見込める上にアゼルバイジャン石油を購入することが可能となり、対露エネルギー債務を大幅に減らすことができる。しかしながら、このルートを大規模に整備するだけの資金がアゼルバイジャン・グルジア・ウクライナ何れの国にもなく、ウクライナはEUに資金協力を求めている。ロシアは国内の既存パイプラインを使う「ロシア・ルート」を、アメリカは「トルコ・ルート(アゼルバイジャン−グルジア−トルコ)」をそれぞれ推しており、ウクライナが推すルートが実現する可能性は低いとみられている(34)。国内エネルギー自給率を高めるために黒海大陸棚の埋蔵エネルギーの調査も開始されているが、技術面からも資金面からも、やはり外資頼みである(35)
 長期的に見れば、ウクライナ経済が国際競争力をつけてEU市場に参入し、他方でウクライナが提唱するエネルギープロジェクトが稼動するシナリオも有り得る。その場合には、ウクライナの対露経済依存は減少することになるだろう。しかし短・中期的に見れば、ウクライナ経済の対露依存傾向が続くことは間違いない。

2. 軍事ブロックと中立外交

(1) 中・東欧地域と全欧州型安全保障機構
 ソ連邦末期の1990年7月にウクライナ最高会議で採択された「主権宣言」は、今日のウクライナの中立および非核化の法的出発点となっている。しかしその「対外安全保障」の項には、僅かに以下の方針が述べられているにすぎない。

「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は、将来において恒久的に中立国家となり、軍事ブロックに加わらず、非核三原則――核兵器を受け入れず、使用せず、保持しないという自らの意向を厳に宣言する」。

 ところで、この時期のウクライナは、自国とヨーロッパとの関係をどのように認識していたのであろうか。当時のウクライナ外相ズレンコは次のように述べていた。

「ウクライナ外交は欧州志向であり、ウクライナは対外世界との直接関係を築き、さらに全欧安保協力会議(以下、CSCE)の枠内で進行中の『欧州共通の家』建設に直接参加する」(36)

 この時点では、近い将来にウクライナがヨーロッパに統合され、モスクワ、キエフを含む「欧州共通の家」が建設されるのというのが、ウクライナの展望であったのである。この時期のウクライナの中立政策には、少なくとも欧州大陸で対立するNATO−ソ連ブロック間でバランスをとるための中立という意味はなかった。
 連邦崩壊後に作られたCISはその創設文書において「共同の経済空間、軍事空間の維持」を謳っていたが、ソ連邦から独立し中立国を標榜していたウクライナに、CIS軍事同盟へ加盟する意志はなかった。その代替として、ウクライナは、CIS軍事同盟(タシケント条約)及びNATOの両ブロックを含む全欧州型の安全保障システムの創設を提唱したのである。それが93年初に提案された「中・東欧安定・安全保障圏構想」である(37)。この中・東欧安定・安全保障圏は、ユーゴ型の内戦の脅威を防止することを目的とし、バルト−黒海地域の全ての国々を含み、西欧−ロシア間の「架け橋」として、将来、CSCE参加国を全て含む全欧州型安全保障システムの一部となることを意図していた。具体的な原則として、参加国の政治主権と領土保全の相互尊重、現存の国境不可侵、参加国の承認なしの外国軍駐留を認めない、紛争の平和的解決、等が挙げられていた。ウクライナが当初想定した加盟国は、バルト諸国、ウクライナ、ベラルーシ、チェコ、スロバキア、ハンガリー、オーストリアであり、ロシアは含まれなかった(38)。何故なら、この構想は、NATO及びタシケント条約に加わっていないこれらの国々が、2つのブロック間に位置しているという自覚のもとに、西欧とロシアとの架け橋となり、CSCE参加国を網羅する安全保障システムへの発展を目指すというものであったからである。
 ウクライナ側の論理に従えば、全欧州型安全保障システムが成立した暁には、NATOやタシケント条約はブロックとしての存在意味を失い、ウクライナの中立も解消されるはずであった。両ブロックの同時解消という発想は、80年代から90年にかけて各国が提唱した様々な欧州新秩序構想と明らかに類似していた(39)
 さらにこの構想には、ウクライナの中立ステイタスと矛盾しないという以外に、次のような利点があったと考えられる。第一の利点は、欧州統合プロセスへの参加の道が開かれることである。ウクライナは西に位置する東欧諸国と連帯することで、自国をヨーロッパ国家と見做すことが可能になり、ヨーロッパの統合プロセスへの参加が可能となる(40)。93年7月に採択された「外交方針」に記されているように、ウクライナはヨーロッパへの統合、特にEUへの完全加盟を国是として掲げている。その第一歩として、中・東欧諸国が主催する中欧イニシアチブ(CEI)、中欧自由貿易協定(CEFTA)、あるいは欧州審議会(CE)、西欧同盟(WEU)への加盟を望んでいた(41)。自国をヨーロッパ国と見なすことによって、ソ連時代の過去を払拭する意味を込めることもできる。
 第二の利点は、緊張の緩和である。ウクライナによれば、NATO、もしくはタシケント条約の中・東欧地域への拡大なしに全欧州型安全保障機構が実現できれば、2ブロック間の分断線が生じないと想定することが可能であった(42)
 ウクライナと国境を接する中・東欧諸国は、ウクライナの独立をいち早く承認して、それを歓迎したが、ロシアを刺激しかねない安全保障圏構想には難色を示した。NATO加盟を熱望する中・東欧諸国にとって、この構想に参加すること自体、西欧統合政策からの後退を意味した。またウクライナ提案は、CIS軍事同盟とは相容れない構想であり、「バルトから黒海に南北に走る対ロシア防疫線(cordon sanitaire)」の印象をロシアに与えかねないものであった。実際、CIS軍事同盟への対抗として、ウクライナがこの構想を推進していた側面は否定できない(43)。米国は、ロシアを疎外する安全保障圏構想を取り下げるよう、ウクライナ側に働きかけたといわれる(44)
 もとよりロシアがこの構想を受け入れるわけはなかった。ウクライナがタシケント条約に加わらずにロシア・西側の橋渡しをし、さらにはロシアを排除する安全保障圏の中心となるというこの構想は、ロシアにとって到底納得できるものではなかった。また、提唱したウクライナ自身にも問題があった。ウクライナは、92年7月からユーゴスラビアの国連平和維持活動に積極的に参加しており、ヨーロッパ社会の活発なメンバーであることをアピールしていた。しかし、この時期にウクライナはあらゆる分野でロシアと係争を抱えており、また非核化過程をめぐっては国際社会とも対立していた。さらには、危機的な経済状態からロシアへ回帰する可能性があり、架け橋外交に必要な第三者的役割を担える状況になかった。つまり、国際社会は、ウクライナには「架け橋」構想を行う資質がないと見て、その架け橋的役割をウクライナが担うことを受容しなかったのである(45)
 ウクライナの提唱する安全保障圏構想が国際的支持を得られない中、94年1月にNATOが提唱した「平和のためのパートナーシップ構想(PfP)」が実現したことによって、ウクライナの構想は完全に存在価値を奪われた。なぜなら、PfPの精神はウクライナの安全保障圏の目的と同じく、NATOと非NATO加盟国との間に架け橋をつくることにあったからである。PfP文書は、対象国をNACC(北大西洋協力理事会)及びCSCE参加国とし、その目的を東方との関係強化による全欧州地域の安全保障と安定の強化である、と記していた(46)
 PfP構想が公表された直後に、ウクライナ外務省はPfPに対して次のような否定的コメントを発表した。

「(PfPは)中・東欧地域の力の真空に関わる全ての問題を解決できず、理想的ではない。ウクライナは、自らが主導する中・東欧地域の安全保障創設構想と合同した欧州安全保障の地域機構の深化に努めるつもりである」(47)
 しかし、多くの中・東欧諸国がPfP構想への参加を表明する中、ウクライナ自身もPfPへの参加表明を行い、結局ウクライナの構想は自然消滅してしまった(48)

(2)クラフチュク後の「架け橋」論
 大統領選挙においてクチマは、クラフチュク政権の対欧米重視の外交を、何ら成果が伴わないロマン的なものであると批判した(49)。しかし、クチマ自身、ウクライナの「架け橋」的役割を否定することはなかった。クチマの選挙公約には次のように書かれていた。

「ヨーロッパ諸国とロシアとの政治ゲームの仲介的役割でなく、ユーラシア地域の中心における指導的・統合要素的役割は、ウクライナをして豊かで文明的な国家の隊列に位置せしめるであろう(強調:藤森)」(50)

 クチマは、大統領当選後の外交団との初会見において「ウクライナは、欧州と現在ユーラシア大陸と呼ばれる地域との接点に位置する。ウクライナはここに、緩衝板として存在するのではなく、頼りうる橋として、期待の持てる接続板として存在する」と述べ、地政学的位置から生ずる「架け橋」の役割を前任者同様に強調したのである(51)
 一方、クラフチュクは、大統領選で敗れた後に最高会議代議員に当選したが、ウクライナの中立がブロック対立を緩和し、平和に貢献するとして次のように論じた。

「ヨーロッパのブロック化を許してはならず、したがって我々は中立を宣言したのである。ウクライナなしではロシア・ブロックは成り立たない。ロシアと共に、真の統一されたヨーロッパが現れるのである。世界の人々、国々は戦争を望んでおらず、平和は皆の利益である。ここに、我が国の中立がしかるべき役割を果たすのである」(52)

 コソボ危機の際にも、中立ウクライナが調停的役割を果たすべきであるとの意見が国内に現れた。99年4月、ウクライナ最高会議は、NATOのユーゴ空爆に対する決議を採択したが、その決議文でウクライナ最高会議は、ウクライナの軍事ブロック外の立場を再確認し、大統領に対してはユーゴ問題解決のための国際会議をキエフで開催するイニシアチブを取ることを、政府に対しては集団安全保障モデルを議論するためのOSCE諸国首脳会議をキエフで開催する提案を行うことを、それぞれ求めたのである(53)。このように、ウクライナ指導部内には、中立国としての立場を活かした外交を行おうとする意図が常に存在したが、他方ではそれに対する批判も出ていた。例えば、99年の大統領選挙の候補であるマルチュク代議員(元首相)は、西側とロシアの経済・安全保障レベルでの協力関係の強化、ソ連時代から「架け橋」的役割を果たしてきた北欧諸国の存在、カスピ海地域とヨーロッパとの架け橋はトルコが担うとアメリカが考えていること、などを挙げて、ウクライナの「架け橋」的役割は幻想に過ぎないと指摘した(54)

(3)中・東欧非核兵器圏構想
 NATOの東方拡大が不可避な情勢下、ウクライナは「架け橋構想」を打ち出した。それが「中・東欧非核兵器圏構想」である。
 NATO−ソ連に挟まれた中・東欧地域に「非核兵器圏」(Nuclear-Weapon-Free-Zone、以下「非核圏」と略す)を設定しようとする構想は、ポーランドの「ラパツキー構想」に始まり、その後にはフィンランド、スウェーデンがそれぞれ独自の非核圏構想を提案してきた。
 NATOの東方拡大に際して非核圏構想を最も早く打ち出したのは、実はベラルーシであった。95年4月、国連の核不拡散条約(以下、NPT)再検討・延長会議上で、ベラルーシのシンコ外相は、中・東欧地域に非核圏を設置する必要性を訴えた。彼は、ウクライナのNPT加盟によって中・東欧地域に非核圏を設置する条件ができたことを指摘し、NATOが拡大し欧州東部に核兵器が配備される事態に憂慮を表明したのであった(55)
 ウクライナも、95年末から、NATO加盟を希望する東欧諸国に対し、核兵器配備に反対を表明していたが、東欧諸国の反応は軒並み否定的であった。にも関わらずウクライナは、96年6月1日に非核化を完遂した直後に「クチマ構想」と呼ばれる「中・東欧非核圏構想」を国際社会に提唱した。96年6月、NACCベルリン会議において、ウドベンコ外相はウクライナが非核圏を提唱する意義を次のように述べた。

「(核兵器の配備を認める用意があるとする中・東欧諸国指導者の発言は)核兵器の撤去を履行したウクライナの立場を理解しておらず、ウクライナとの信頼関係に反するものである。ウクライナが、中・東欧に非核圏を創設する構想を支持することは極めて自然であり、この地域に信頼と安定をもたらすであろう」(56)

 このコメントから明らかなように、ウクライナ政府は、自国が非核化を完遂したという「画期的な」事実と将来の非核圏構想とを結び付けようとしたのである。ウクライナによれば、非核国となったウクライナと中・東欧諸国との間に「非核保有国」という共通項が生じ、そして新たにNATOに加盟する中・東欧諸国の領土にNATOが核兵器を配備する戦略的必然性はなかった。ここに、中・東欧非核圏構想の実現が可能となるのである。黒海からバルト海に至る地域に非核圏を設置することによって、欧州諸国間の信頼醸成を促進し、NATO拡大のインパクトを和らげ、欧州大陸における新たな分割線が出現する可能性を著しく減ずることになると考えられた(57)
 しかしながら、ウクライナが、どこまで制度化された非核圏の実現を目指したか疑問である。一般に非核圏成立のためには、非核圏参加国に核兵器を配備・持ち込ませないことに加え、非核圏参加国に対する消極的な安全保障確約(negative security assurances)、すなわち核保有国が核兵器による攻撃・威嚇を控えることを条約で約束することが必要とされている(58)。実際、ウクライナは、NPTに非核兵器保有国として加盟する際、5大核保有国から消極的安全保障確約を受けていた(59)。ウクライナを含む中・東欧地域に非核圏を設置するのであれば、ウクライナが既に受けている消極的安全保障確約を中・東欧諸国にも適用する必要があった。しかし、ウクライナの非核圏構想には、この議論が欠けていた。
 東欧諸国にしても、加盟に際して将来の自らの権利を放棄するような非核圏に加わる意味は皆無であった。ウクライナが強固に非核圏の設置を主張すれば、東欧諸国との友好関係が損なわれることが十分に予想された。従って、ウクライナの非核圏構想は、制度化・条約化された非核圏の設置を求めたものではなく、単なる政治的な宣言文とみなすのが適当であると思われる。
 また、ウクライナの非核圏構想の趣旨が、ロシア側の主張と合致していたことに着目するならば、この構想は、第一にロシアへの配慮を目的としたものであると解釈することができよう。ロシアは、東欧諸国へのNATO核兵器の新規配備に懸念を表明しており、非核圏構想を支持していた(60)
 東欧諸国への核兵器配備の問題は、97年5月に調印された「NATO・ロシア相互関係・協力・安全保障基礎文書」(以下、「NATO・ロシア文書」)において、次のように規定された。
 「NATO加盟国は、新規加盟国の領土上に核兵器を配置する意図、計画、理由がなく、NATOの核体制、あるいは核政策のいかなる方針変更も必要なく、そしてそのような将来的な必要性を予測しないことを再確認する」。これは、新規加盟国の領土に「法的(de jure)」な「非核兵器圏」を作ることにNATOが同意したものではなく、中・東欧諸国に核配備がされていない現状の「凍結」を宣言したものと見るべきであろう。仮にNATO新規加盟国に核が配備されないことになれば、核の傘を提供する集団防衛機構としてのNATOの組織的整合性に悪影響を及ぼし、信頼性が損なわれることになる。東欧諸国に非核圏を設置した場合、NATOに新規加盟した国々に核配備はなされず、そしてそれらの地域はロシアから核兵器不行使の安全保障確約を受ける、という形態をとることになり、NATOの安全保障の実効性が大いに削がれることになるのである。冷戦時代において、NATO加盟国でありながらアイスランド、ノルウェー、デンマークは自ら非核国宣言を行った。それと同様の「事実上」(de facto)の非核圏が、今度は新規加盟諸国の領土に出現したのである。
 その一ヶ月後に調印された「ウクライナ・NATO特別パートナーシップ憲章」(以下、「ウクライナ・NATO憲章」)内では、ウクライナがこれを「歓迎」する旨が僅かに記されているだけであり、非核圏設置への言及はなかった。
 「ロシア・NATO文書」及び「ウクライナ・NATO憲章」が締結された後、ウクライナは非核圏の条約化を主張していない。結局のところ、ウクライナの非核圏構想は、両ブロックの架け橋として実現を目指したものというよりは、非核化を達成したウクライナの自己宣伝と、ロシアとの「共通の言葉」を見出すことを主目的としたものであったといえよう(61)

3. ウクライナとNATOの東方拡大

(1)平和のためのパートナーシップ構想(PfP)
 ウクライナは当初、PfP構想を批判していたが、東欧・バルト諸国が挙って参加表明する事態に直面し、自らの安全保障圏構想を捨ててPfP参加へと転じた。ウクライナは1994年2月8日にPfPに調印し、結果的にCIS諸国内で最も早いPfP参加国となったのである。
 東欧・バルト諸国は、NATOが提唱するPfPをNATO本加盟への第一歩と捉えた。これとは対照的に、ウクライナはPfPを、中立を保ちつつNATOの安全保障に関わり持つことができる協力形態と捉えた。PfP協定は「PfP参加国が領土保全、政治的独立、あるいは安全保障に対する直接的な脅威を受けた場合、NATOは当該パートナー国との協議を行う」(PfP枠組み文書第8条)と定めているが、ウクライナはそれをNATOが提供する安全保障とみなして高く評価したのである。
 また、ウクライナ側の解釈によれば、PfPは集団防衛に関する規定を持たない協力形態であるため、軍事ブロックの性格を帯びなかった。したがって、ウクライナの中立ステイタスに抵触せず、欧州の再分割につながらなかった。PfP参加を通じてNATOとの信頼醸成、関係を強化しながら、NATOブロックに加盟せずにNATOや西側が提供する安全保障網に関わることで、自国の安全保障を高めるという論理である(62)。ウクライナは、自国を中・東欧諸国と同一視できないことを自覚し、ユニークな安全保障政策を採りはじめたのである。
 「中・東欧安全保障圏」構想が消滅した時期のウクライナが描く欧州安全保障モデルは以下のような特徴をもっていた(63)
 第一に、欧州における再ブロック化の否定である。ブロック化が進めば、ウクライナ領土上に分割線が走ることになり、ウクライナが緩衝国化する危険性が生じた。
 第二に、「バンクーバーからウラジオストクまで」を含む全欧州型安全保障システムの提唱である。ブロック化を解消するためには、全欧州型の安全保障システムを創設しなければならなかった。現存する安全保障機構の中では、OSCEがしかるべき地政学的規模、経験、機構を有しており、将来の全欧州型安全保障システムにおけるOSCEの立場、役割が追求されるべきである。ヨーロッパの全ての国、アメリカ、カナダを含む全欧州型安全保障システムが発足すれば、その中でOSCEが主たる役割を果たすという論理は、ロシア側と共通するものであった(64)
 第三に、NATOの消極的評価である。NATOが冷戦期の軍事的・政治的ブロックとしての性格を払拭し、全欧州安全保障システム内の安定的要因としての役割を証明すれば、全欧州型安全保障システムの構築を促進する一要素として作用することになる。しかし、NATOだけがその役割を担うのではない。NATOのみならず、WEUや、EUといった既存の欧州安全保障組織も、OSCEが主たる役割を果たす中で競合することなく相互補完し、発展することによって、全欧州型の安全保障システムが創設されるのである。ウクライナは、特にEU・NATOの同時拡大に賛成したが、それはNATOの急速な拡大を防ぐことができると考えられたからであった。また、ウクライナは、ロシアとは対照的に、東欧諸国がNATOに加盟することに反対せず、NATO加盟国以外に拒否権は存在しないとしていたが、東方拡大はバランス良く、周辺国の利害を考慮して漸進的かつ発展的に、新たな分割線の出現を排除しつつ行われるべきである、と主張した。以上の特徴は、第一節で論じた客観的制約と第二節で論じたウクライナの主体的姿勢の論理的帰結であった。そしてウクライナが持つ対露関係の重要性と中立国としての立場追求の姿勢は、次の段階においても確認された。

(2)NATOの東方拡大
 NATOが漸進的に且つ他の欧州機関と協同して拡大し全欧州型安全保障へと至るならば、ウクライナが中立を堅持し、軍事ブロックの外に立つことが、自らのみならず欧州全体にとっても望ましい、とウクライナは見ていた。しかし、予想を越えた早さでNATOの東方拡大が現実化する中で、ウクライナはNATOとの関係を自国安全保障の中心に据えざるを得なくなった。ウクライナが中立に固執してNATOとの良好な関係を築くことができなければ、NATO・ロシア間で孤立化し、締結されるであろうNATO・ロシア関係文書によって自らの処遇が定められる危険性さえ生じたのである。
 このためウクライナは、OSCEを将来の全欧州型安全保障システムの基礎とする従来の考えを放棄し、NATO評価を消極的から積極的なものへとシフトさせた。すなわち、NATOの役割は欧州安全保障の重要な要素であり、ボスニア・ヘルツェコビナ紛争解決に代表されるように欧州安定の保証であり、欧州大陸の新たな民主主義国家にとってもっとも効果的かつ魅力的な安全保障組織である、と定義したのである。クチマ大統領は、96年末のOSCEサミットにおいて「ウクライナは、NATO拡大に対して何ら弊害を感じていない。NATOは真の民主主義国家の共同体に変った」と述べ、NATOが単なる防衛機構から質的に変化したことを強調した(65)。NATOの東方拡大は、ロシアにとって脅威にならず、「ヨーロッパにおける安全・安定圏の拡大」に他ならないとしたのである。
 また、ウクライナは、NATO拡大の門戸は常に開かれたものでなければならないと主張した。そうでなければ、二ブロック間の地域は「グレーゾーン」、すなわち緩衝地帯として固定されてしまい、両ブロック間の抗争の場、もしくは利益分配の場となるおそれが出てくるからである(66)。特に、ロシアとの2国間友好条約交渉は、95年2月の仮調印以来まったく進展しておらず、NATOの東方拡大によって、ロシアからの圧力が強まることも予測された。実際、ロシアは、95年9月の「CIS参加国に対するロシア連邦の戦略路線に関するロシア大統領令」において、CIS諸国との問題解決のために経済的手段を用いる意向を示していた(67)。ウクライナは、ロシアからの経済的圧力を危惧しており、自国の非核化に際しては核大国による経済的圧力の不行使確約を求め、それは条約内において明文化されていた(68)。こうしたロシアからの圧力に対する「保険」として、NATOとの関係強化がウクライナに必要となったのであった(69)
 こうして、「ロシア・NATO文書」から独立した「ウクライナ・NATO文書」の締結を、ウクライナ側は積極的にNATOに求めるようになったのであった(70)。ウクライナは、NATOと関係文書を締結することにより、自国を欧州安全保障システムに組み込み、その緩衝国化となる可能性を払拭し、「欧州における安定化要素」としての地位を得ようとしたのである。そのようなNATOとの協力拡大を、ウクライナ政府は、EU加盟と並ぶウクライナの「欧州への統合」過程の一要素として位置づけた。

(3)NATOとの特別のパートナーシップ憲章
 ウクライナ・NATO文書の出発点は、PfP枠組み文書第4条における「個別パートナーシップ計画」にあった(71)。95年9月に、ウクライナ・NATO共同宣言の形で関係文書の作成が謳われ、96−97年を通じて交渉が続けられた。交渉過程において、ウクライナは、安全保障の確約をNATO側に求めた。それがNATO内「準加盟」ステイタスである。
 96年6月、ウドベンコ外相は、ワルシャワで開催されたNATOワークショップ「ヨーロッパの安全保障−新世紀の始まり」に出席し、「NATOとの特別なパートナーシップは、NATO内におけるウクライナの準加盟ステイタスと見ることができる」と述べた(72)。ウクライナ側の認識では、「準加盟」とは、集団防衛を定めたNATO条約第5条を除く全条約文が適応される地位を意味した。NATO加盟国とロシアとの間に「準加盟」のウクライナが存在することによって、欧州の分割線が生じないことになるのであった(73)。しかし、この「準加盟」発言にロシアがただちに反応し、ウクライナ側は「準加盟」発言の撤回を余儀なくされた(74)。それでもウクライナは、「準加盟」という言葉を用いないまでも、安全保障の確約を「文書」に盛り込むこと、そして「文書」の性格を法的な条約文とすることを交渉過程でNATO側に要求したのである(75)
 「NATO・ロシア文書」締結の1ヶ月後、97年6月にソラーナNATO事務総長とクチマ大統領の間で「ウクライナ・NATO特別パートナーシップ憲章」が調印された。「憲章」の内容 はNATO側に押し切られたものとなった。すなわち、文書の性格は、法的拘束力のない「憲章」、すなわち政治的性格のものとなったのである。
 ウクライナ議会内では、97年3月に民族主義政党「ルフ」がNATOへの加盟申請を求める政府宛てアピールを行い(76)、これに対し5月には共産党、社会党、農民党、進歩社会党議員を中心とした187名が「ウクライナ・NATO外」議員グループを結成した(77)。このNATOの東方拡大と「ウクライナ・NATO憲章」の調印に反対する議員グループに対し、政府は「憲章は法的な性格を持つ条約ではなく、また主権宣言で謳われた非同盟・中立・非核ステイタスを変更するものではないので、議会の批准の対象外である」と反論し、結果的に対NATO政策に議会内の対立が影響を及ぼす事態を避けることに成功した(78)
 NATOから提供された安全保障確約は、「NATOがウクライナの主権・独立・領土保全を支持する(第14条)」こと、「ウクライナがその領土保全、政治的独立、安全保障に対する直接の脅威を受けた場合、NATOとウクライナは協議するために危機協議メカニズムを発展させる(第15条)」こと、「NATOはNPT加盟の際に五核保有国からウクライナが受けた安全保障確約を歓迎、支持する(第16条)」ことというものであった。しかし、いずれの条項も、既にウクライナに提供された安全保障を、NATOが再確認したものに過ぎなかった(79)。ウクライナに提供された安全保障がこのような「柔らかいもの」にとどまった理由は、NATO・ロシア関係の文脈から理解できる。何よりも、NATO側から見れば欧州安全保障の安定のためには、ロシアに次ぐ大国ウクライナと特別な関係を結ぶ必要性があった。NATOにとっては、今日の、政治的に親西欧で軍事的に中立なウクライナが好ましく、ウクライナが経済のみならず軍事的にもロシアに再統合されることが最悪のシナリオであった(80)。他方で、ウクライナがNATO加盟を表明すれば、ロシアを刺激し欧州に緊張状態を招くことになり、これも好ましくなかった。そのためにはNATOの東方拡大問題に対して「ウクライナを黙らせる」ために何らかの関係文書を結ぶ必要があったのである。
 クチマ大統領は、「ウクライナ・NATO特別パートナーシップ憲章」の調印式典において「交渉過程では、ウクライナの希望の全てが考慮された訳ではない」と認め、「『ウクライナが中・東欧と不可分である』と明示され、中・東欧ならびに大陸全体における安定の重要要素であるとされたことが『憲章』の要点である」と評価するにとどめた(81)

(4)NATOの東方拡大とウクライナ・ロシア関係
 NATOの東方拡大という国際環境の変化は、ウクライナ・ロシア関係にも影響を与えた。95年2月の両国首相レベルでの仮調印以来、全く進展のなかった2国間平和条約は、NATOの東方拡大が差し迫った97年5月に調印されたのである(82)
 97年5月31日、エリツィン大統領がキエフを訪問し、「ウクライナ・ロシア友好・協力・パートナーシップ条約」が調印された。調印に際しヤストルジェムスキー・ロシア大統領報道官が「ウクライナとの関係が近くなればなるほど、我々はNATO問題で頭を悩まさずに済む」と述べたように、ロシア側は、2国間平和条約が両国の関係強化につながり、結果としてウクライナのNATOへの接近を防げると踏んでいたのである(83)。実際、セバストーポリ軍港の賃貸期間は20年と定められており、その間のウクライナのNATO加盟はロシアの賛成なしには有り得なくなった。他方で、ロシア黒海艦隊の基地使用料と黒海艦隊分割に際しての艦艇のロシア譲渡分に対する支払は、ロシアに押し切られた形になり、ウクライナの対露ガス債務と相殺されることになった。また、平和条約内において「両国が条約当事国のどちらかに敵対する行動、条約の締結を差し控え、その安全保障を犠牲にするような領土の利用を許可しない」(第6条)ことも規定されていた。これも、ロシア側がウクライナ側に課した言質と見ることが出来る(84)
 ウクライナの観点から見れば、ウクライナ・ロシア平和条約の締結は、最大の隣国ロシアとの関係を正常化するだけではなく、ヨーロッパ安全保障上の点からも重要な意味を持った。なぜなら、ウクライナとロシアとNATOはヨーロッパ安全保障における重要な要素であり、その三者がそれぞれに関係文書を締結すること、すなわち「ウクライナ・NATO憲章」、「ロシア・NATO文書」、そして「ウクライナ・ロシア平和条約」の調印は、ヨーロッパが一つになる証拠であったからであった(85)。そのような状況下では、ウクライナは、NATOへの更なる接近を「ヨーロッパ共通の家」の名のもとで正当化することができたのである。また、条約文では、経済的圧力を行使しないこと(第3条)も明記された。

(5)NATOと国内世論
 ところで、以上に見たようなウクライナ政府の対NATO政策の変化は、何らかの国内世論を反映したものなのであろうか。すでに論じたように、ウクライナ政府は次第にNATO寄りの姿勢を強めている。しかしながら、世論調査を見る限り、この間の国民のNATO加盟に対する支持が増えているとはいえない。例えば、デモクラティク・イニシアチブ社が行った世論調査を見るならば、93年にNATO加盟支持率が40%(うち、CIS諸国と同時加盟20%、個別加盟20%)であったのに対し、97年には、支持率は29%(単独加盟19%、同時加盟10%)へ低下した(86)。さらに言えば、NATO自体に対する国民の関心も高いとはいえない。先の97年の世論調査によれば、NATOの活動そのものに対して、26%が全く知らないと回答し、関心なしが16%となっていた。地域別に見ると、ガリツィア三州の親NATO傾向、対露警戒感は群を抜いて高く、またキエフ市、北西部の親NATO、ロシア警戒の傾向も比較的強い。しかしその他の地域では、一定した反NATO/親ロシア、もしくは親NATO/反ロシアの傾向を認めることはできない。概して言えば、この時期のNATO問題に対する国民意識は低く流動的であり、また東西対立はゆるやかであったとみるべきであろう(87)。対ロシア問題がウクライナの地域分極化をもたらす最大の要因であるとする研究結果を援用すれば、NATO問題が国民の間でウクライナ・ロシア問題に結合していないために、地域の分極化を生じていないと言うこともできよう(88)
 こうした流動的な状況にあったため、NATOによるユーゴ空爆は、ウクライナ国民の対NATO観に大きな影響を与えた。ソツィス・ギャロップ社が99年5月にウクライナ全土1200人を対象に行った世論調査によれば、NATOのユーゴスラビアに対する軍事攻撃によってNATO観が悪化したと回答する国民は61%に及んだ(89)。しかしその一方で、ユーゴスラビアのロシア・ベラルーシ同盟加盟を肯定的に捉える国民は僅かに22%で、NATO観が悪化した世論がそのまま親ロシアに傾くことはなかった(90)。この結果も、国民の間ではロシアがNATOの対抗概念でないことを示している。

むすびにかえて−方向性と展望

 第一節では、ウクライナが抱える経済的制約、特にロシア対してエネルギーを全面的に依存している状況を検討した。ウクライナは経済的なロシア離れを模索したが失敗し、93年から94年にかけて反対にロシアとの経済統合を模索した。大統領選挙ではロシアとの経済統合を掲げるクチマが当選した。にもかかわらず、当選したクチマはIMFとの協同を選んだ。その理由は、クチマが国内統合を優先したり改革志向が強かったからではなく、エネルギー危機を解消するためにはIMFに頼るしか選択肢がなかったからである。
 こうした厳しい条件に置かれているにも関わらず、ウクライナは中立国の立場を活かして主体性を保とうとし、独自の安全保障圏構想を提唱した。第二節では、こうした中立ウクライナが提唱した安全保障圏構想の意図と、その実現困難な状況を検討した。独立以来、ウクライナ指導部には、クラフチュク、クチマ政権を通じて、独自の中立ステイタスを活かして調停的、架け橋的役割を担おうとする意図が一環して存在している。しかし、ウクライナの意図に反して、これらの構想は実現しなかった。コソボ危機の際、ウクライナ調停案はユーゴ側からも国際社会からも無視され、結局は中立国フィンランド、そして大国であるアメリカとロシアが直接対話を持つことで危機解決に至った。このことが示すように、今日ではウクライナの調停的役割が国際社会で実現できる余地はほとんどない。有り得るとすれば、それは国際社会に向けた自己宣伝だけである。
 第三節では、ウクライナが対露関係に配慮し中立国としての自国の主体的姿勢を維持しつつ、NATOの東方拡大を自国流に解釈して安全保障政策を次第に変更していった状況を見た。しかし、NATOの東方拡大はウクライナの意図と無関係に進み、ウクライナは受動的に安全保障政策を変更せざるを得なかったのであった。ウクライナが主張した「NATO準加盟」は、ロシアとの関係を重視するNATOによって受け入れらず、「ウクライナ・NATO憲章」は、政治的な意味を持つにとどまった。
 ウクライナ経済がロシアに依存しているという現実は、ウクライナにいかなる指導者が現れようとも、考慮せざるを得ない制約条件であり続ける。1999年11月、大統領選挙でクチマが再選されたが、こうした制約条件は何ら変わっていない。特に1999年末からは、ロシア側がエネルギー債務の償還を求めて圧力をかけている一方で、ウクライナ・IMF間のクレジット再会交渉が難航しているという状況が生じており、クチマ政権は一層厳しい政策運営を迫られているのである。ウクライナ経済の不振が続く中で自国の経済主権をロシアに委譲しないのであれば、国際金融機関に頼る他に途はない。しかしIMFからのクレジットが安定的に続く保証はないのである。他方で、NATOとは距離を置き、中立に価値を見出すことは国際的に困難な情勢である。国内的にも、国民の姿勢が速やかに変わるとも考えられない。
 以上見た国際的制約が今後も続くのであれば、ウクライナが採り得る政策の幅は限られており、国際金融機関に依存しつつ中立にとどまりながら親NATO的政策を採る現在の政策に変化は起こらない(起こせない)といえよう。


注釈