近代ロシア農民の所有観念
−勤労原理学説再考−

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はじめに

 ロシア帝国はクリミヤ戦争の敗北をきっかけとしてその統治構造に根本的欠陥をかかえていることを認識し、帝国の再編成にとりかかった。その際行われた一連の改革は「大改革」とのちに名付けられたが、この過程は資本主義的世界体制の中での「社団国家」の創出であり、帝国の国民国家的編成への第一歩とみることができよう。なぜなら「解放」により、国家は貴族領主を介さずに直接農民層を把握することになるが、その支配は農民共同体を通じてのものにすぎず、他方「農奴解放」がなされても、農奴がただちに自由な市民とはならず、特別の権利義務関係をもつ農民身分として国家に組み込まれたからである(1)

 ロシア帝国の存続、さらにその国力強化のため、国民のより直接的合理的把握を可能とする統治方法が模索されるなか、法的に均質な地域社会の形成が課題となり、さらには全身分統一の民法典編纂が日程にのぼることになる。その際問題となったのは、他身分と大きく異なると考えられた農民の法慣習であり、ロシアでは19世紀半ばから20世紀初頭にかけて農民慣習法の構造とその特徴をめぐって大論争が繰りひろげられた(2)。農民慣習法をいかに理解するかが近代ロシアの統治様式の決定を大きく規定することになるからである。

 だがこれまでなされてきたロシア農民法研究は以上のような視角からではなく、ロシア革命前史としての農村共同体およびその独自な土地割替慣行への関心に基づくものがほとんどであり、具体的には土地再分配の根拠とプロセスをめぐる議論であった。日本では、保田孝一、小島修一らによって同時代の農民研究者たちの説が検討され、ロシア農民の法観念の特殊性として二つの権利意識が注目された。土地割替えの原動力となっている「労働権」(労働投下により発生する土地への権利)と「労働への権利」(だれもが生存のために持つ土地利用権)である(3)。この点について、特にカチョロフスキーの農業思想を検討した小島は「この二つの権利がロシア農民慣習法の基軸部分をなしていた」(4)と要約している。たしかに土地割替プロセスの説明としては説得的であるが、農民慣習法一般についてこのように述べることが適切であるかについては、以下に述べる理由により疑問がある。

  カチョロフスキーの農民慣習法研究におけるオリジナリティーは、「労働への権利」の発見、および農民の権利意識が両権利の対抗のうちに生ずることを示した点にある。それ以前の研究においては、農民の法観念の特徴として「勤労原理」の語が一般的に使われていた。それは、労働投下により生ずる権利のことを意味し、カチョロフスキーの用語の「労働権」にあたる。つまり「労働権」について彼は勤労原理学説に依拠している。だが、「農民慣習法の根幹をなす」(5)勤労原理学説は帝政期の代表的百科事典『ブロックガウス=エフロン』において有力な反論が述べられていることからもわかるように(6)、同時代において必ずしも決定的な学説ではなかった。また、カチョロフスキーの研究では、農民慣習法の研究といっても、分析対象は事実上、土地をめぐる権利意識に限られていた(7)

 同時代の議論の高まりにもかかわらず、ロシア農民の法意識の問題は革命後のロシアにおいて長く見過ごされ、1970年代になりようやくズィリャーノフの研究がでた。それは概括的なものではあるが、土地や共同体と慣習法の関係、慣習法の変容という重要な問題を指摘している(8)。その後、農村共同体の研究をしてきたアレクサンドロフが農奴解放以前の土地関係についての慣習法史を出版した。彼は「農民家族が勤労団体であるという理論が19世紀後半に広がり、この理論に関して大きな論争が生じ、農戸の『性質』をめぐる様々な見解が示された」として勤労原理学説とその批判の双方の主張を紹介したが、両主張間の関係については分析がなされていない(9)。最近では農民の家族構造や所有意識についての分析をしたミロゴーロヴァの研究が注目される。ズィリャーノフやアレクサンドロフが主に勤労原理学説について記述したのに対し、彼女は、ロシア農村においても血縁原理が家族において第一義的な意味をもち、それに加えて経営団体としての性格も併せもつという同時代の法学者パフマンの研究を対置した。さらに彼女は帝政期の研究者たちに欠けていた視点は、農奴解放後の時期においては私的所有原理も発生していたことへの注目であると指摘し(10)、ブルジョワ的所有原理は家父長的大家族における家族財産の不分割性とは両立しないが、小家族では同原理が実現されると述べている(11)。だが逆に彼女は勤労原理学説の成果を見逃している。

 欧米では、シャーニンの研究が早く、「慣習法は、エフィメンコやレオンチエフのようなナロードニキ系学者の集めた史料を、パフマン、ムーヒン、ハウケのような法学者の見解とつきあわせるとよく理解できる」という彼の提案を本稿では重視する(12)。その後、1985年にはラッシャン・レヴュー誌で農民慣習法研究の特集が組まれた。そこではレヴィンの論文が注目される。彼は、農奴制の廃止から農業集団化の時代のロシアについて、R・レッドフィールドの「小社会」と「大社会」の概念を適用できると述べ、共同体という村「小社会」理解のために慣習法コード解読が必要であるという視点を示した。しかし彼は同時代における慣習法をめぐる議論を慣習法の存否という基準で分けており、慣習法の構造的な面についての意見の食い違いや、その変容という点にはあまり関心を示していない(13)。英米圏における最新の研究はウォロベックの『農民ロシア』であり、農民家族および財産分割についてバランスのとれた叙述がなされているが、従来の研究につけ加えることは少ない。また、「民事法がときに相続慣習に影響をあたえることがあった」という重要な指摘をしているにもかかわらず、叙述は「解放にもかかわらず財産継承パターンは19世紀を通じて連続的であった」という見方に即しており、結果的に大改革期における慣習の変化を過小評価している(14)

 日本における研究では、保田や小島による勤労原理学説の紹介の他に、松井憲明による、農奴解放後に激増した家族分割にたいする規制化の過程を経済学的論争により説明した論文がある。筆者はロシア農民の家族財産構造の特質、家族分割規制をめぐる論争など多くの点をこの論文から学んだが、「カラチョーフが伝えていた家族財産の共同所有制と均分相続の慣行とは、それ自体、微動だにしなかった」(15)という評価とは、以下本論で述べるように、別の見方があるように考える(16)

 率直に述べると、さきにみた研究はいずれもロシア農民史理解のためには農民慣習法を理解することが必要であるという問題提起にとどまり、具体的な論としては勤労原理学説の紹介がなされているにすぎず、同時代人の議論に比べ低調である。また、勤労原理学説の紹介にしても前述した研究視角上の制約から農民共同体における土地割替慣行を説明する面に限られており、農民家族の特質、財産、相続原理といった生活に関わる法意識の検討は少ない(17)。さらに本文でみるように、勤労原理学説そのものも有力ではあるが農民慣習法を説明する学説の一つにすぎない。だが、同学説を軸にかわされた「慣習法論争」は、「新民法典編纂委員会(1882 - 1905)」、農奴解放以降の社会の変化をふまえて内務省が農民立法の全般的みなおしを目的として設立した「農民立法見直しのための法典編纂委員会(1902 - 1904)」、ヴィッテをその委員長とした「農業にとって必要な事柄に関する特別審議会(1902 - 1905)」という農民統治の根本的政策変更にかかわる議論の場でしばしばその意見の根拠として引用された。つまり農民身分をこれまでどおり法的に隔離しつづけるのか、あるいは全身分統一の法体系を帝国につくるのかという国家の根本原理にかかわる問題を解く鍵として注目されていたのであるl8

 以上をふまえ、本稿はカラチョーフ、エフィメンコらがうちたて、カチョロフスキーがその研究の出発点として依拠した勤労原理学説の農民の所有意識に関わる問題−農民家族、財産、相続の特徴−について再考するとともに同学説への批判的研究を対置することにより、帝国再編成下の農民の法的世界を明らかにしたい。時代的枠組みは、勤労原理学説が形成された農奴解放前夜から、ストルイピン改革前までとする。

1. 初期の慣習法研究

 ロシア歴史法学が農村の日常的生活を規制する不文の規範に関心を向けたのは19世紀はじめのことである。だが、研究に積極的にかかわったのはロシア国家発展の過程を見極めようといういわゆる国家学派であり、モスクワ国家成立以前、あるいはピョートル一世以前には慣習法は自律的かつ重要な法源であったが、それ以後はローマ法を移植した法律が支配的になったという議論、あるいはルスカヤ・プラウダ以後の諸立法である1497年の法令集、1649年の会議法典なども慣習法の影響を受けているのか否かという議論を軸としていた。したがって慣習法の史料的意義は認められたが、結局のところ法律(制定法)の法源としての慣習法に注意が向けられたにすぎず、慣習法の成立と存在の社会経済的、文化的理由の理解にはほど遠く、農民によって生きられた法としての慣習法の捉え方は弱かった(19)


 具体的史料に基づく、かつ眼前の農民問題をいかに解決すべきかという実践的な課題からおこなわれた農民慣習法研究は、農奴解放に前後して出た二つの論文により始まった。ロシア法研究者、古文献編纂学者として、また大改革期における立法政策に携わったことで知られるカラチョーフ(20)による「数地域における農民の法慣習」(21)と、国有財産省の官僚(のち内務省農業部部長)で農民行政に携わったバルィコフの編纂した「国有地農民の相続慣習」(22)である。

 カラチョーフは 1852年と1853年に歴史的・法学的文献収集のためにアリョール、ヴラジーミル、サラトフ、サマーラ、タムボフ、カザンの各県を調査した。おそらくこの時集めた資料をもとに「数地域における農民の法慣習」を書いたと思われる(23)。彼の論文を三つの論点にまとめてみると以下のようになる(24)

 まず農民家族の特徴について(25)。農民生活において家族とは農業経営団体として理解されている。家長は仕事の割り当ておよび家族構成員間の争いの調停を行い、善なる理性を教える。家族の父親が家長であるときには、構成員全員に対し厳格に、ほとんど専制的に接するが、兄弟のうちの年長者が家長になるときには家族分割への志向があらわれる。家長の力が大きいとはいえ、各部分家族において、夫は妻に対し善を教え、悪へと向かう自由を与えてはならないが、侮辱からも保護する。父は自分の子供に対して親としての自然な権利を持つが、極めて重大な事項に関しては家長の意思に従う。夫婦間に子供が生まれないためにおこなわれる養子縁組において、養子は実子と同じ地位を占める。但し他人として育てられる捨て子−その例は稀ではあるが−は成人すると育て親から情けや助けを望むことしかできない(26)。つまり子供としての権利は持たない。

 次に農民財産の特徴について。いくつかの部分家族からなる家の構成員が独立しない時には、財産は共同所有である。財産は父個人の所有ではなく、家族構成員全員の所有物である。衣服以外の全動産−家庭の日用品、農具および家畜−は各個人に属するのではないし、農婦による糸紡ぎなどの内職を例外として、構成員による賃金収入はすべて農家全体の家計に入り、家長またはその妻が管理する。その代わりとして家長は構成員が必要なものすべてを持てるように配慮する。不動産−建物、菜園、脱穀場および耕地−は領主または共同体からチャグロとして該当者に分け与えられているとしても家族全体に属していると考えられ、家長の采配のもとで共同利用する。但し財産の共同所有かつ不分割性という考えに嫁資は含まれない。娘には嫁資として結婚時に、しばしば衣服や現金のみならず家畜が生家から与えられる。彼女のそれらに対する所有権を夫は奪ってはならない(27)

 最後に相続および財産分割の基本原理について。今日、各部分家族は親家族からの分割を志向している。家長は自分の家族において熱意をもって家長権を保持しようとし、その専制的な恣意は農奴制原理と同じ性質である。その家長が村会において家族の分割について議論するという不思議な事態が生じている。いずれにせよ、村会において家族分割が承認される。家族分割に伴い行われる財産分割においては、共通分割財産から、全チャグロメンバーは同じ分けまえをもらうべきだということが前提とされている。しかしこの規則は様々な条件によりしばしば変更される。例えば、財産を分割の際にいくつかに分けるが、そのおのおのを各人がいつもくじで順番に受け取るのではなく、親家族における相続者およびその妻子の働きや相続者の農業経営の得手不得手が考慮に入れられる(28)。つまり財産分割は「家長との近親性に加えて、他の要因、特に分割対象となる財産の形成に注がれた多かれ少なかれ継続的な労働を考慮に入れる分割原理(29)」により行われる。

 以上のようにカラチョーフにより明らかにされたのは、農民世界では家族は農業のための経営体とみなされており、それは強大な権力を持つ経営主である家長の統率のもと維持されていること、そのなかでも女性の財産はある種の独立性をもつことなど、その他の身分とは深く異なった性質をもつロシア農民家族の特徴であるが、とりわけ重要な点は、農民世界における家族財産の共同所有制、および勤労原理のもつ重要な意義がはじめて指摘されたことである。だが、彼の議論は基本的に部分家族が独立しないという条件を前提としており、財産分割はごく最近生じた例外的現象ととらえられていることに注意しなければならない。つまり、農奴解放後のロシア農村では部分家族の分離志向は強かったのであるから、これまで述べてきた彼の主張をそのまま大改革期ロシア農村に適用することはできない。また、後の慣習法研究に大きな影響を与えたのは、相続慣行の特殊性から一般法と並んで慣習の意義をも認めるべきであるという主張、および、慣習に一定の形を与えて成文化しようとすれば、「村長老たちが唯一規範にしている一般正義概念を具体的出来事に適用することであらわれる生ける原理がたちまち消滅するであろう(30)」と述べていることである。これはロシア農民慣習法の本質を突いている。つまり一定の事例には一定の解決策という一対一の対応があるのではなく、具体的事例に応じて解決法は変化するため、成文化には馴染まない。つまり規範といえるのは「一般正義概念」というレベルの極めて曖昧なもの以外にはない、ということである。

 バルィコフの研究の基礎史料は、1847 - 1848年に国有財産省が集めた国有地農民の相続慣習調査である。きっかけとなったのは、退役兵士が村に帰還後、相続に加われるかどうかという当時の緊要問題であった。農民財産が家族構成員の勤労財産であるとすれば、兵士は兵役期間中、財産の形成に加わっておらず、相続に加われないことになるが、そうであれば当時の兵役期間は25年に及ぶため、帰還後大きな問題を生む。そう考えた国有財産省のある地方機関は、本省に照会した。国有財産省では、農民財産の特殊性からして、民衆の慣習によりどのような形で相続財産の分割が行われるのかについての資料を様々な地域で収集することなしに、この問題の解決は不可能であるという第1局と、徴兵以前に形成された財産のみに限定して全身分共通の一般民法を適用し、相続すべしという第2局に意見が分かれたが、大臣キセリョーフは第1局の案を採用した(31)

 1847年に数県の国有財産局(国有財産省の地方出先機関)は、国有地農民の間で存在している相続秩序および退役軍人は相続にいかに加わるかについて調べるよう大臣から委託された。しかし財産分割の根拠については乏しい回答しか得られなかったため、質問事項をアンケート形式で作成し、それを全47の国有財産局に送るという形で翌48年に再度調査が行われた。質問は8項目からなり、本来の目的である退役軍人の相続における権利の他に、家長の死後、一般に財産分割が行われるのか否か、その決定には誰が力を持つのかについても問われた(32)。回答は48年から49年にかけて44県から寄せられ、訂正を加えない生の資料集として出版された。その編者がバルィコフである。以下、彼によるこれらの資料分析をみてみよう。

 まず農民家族および財産の特殊性について。農民は他身分が理解する意味での財産をほとんど持たない。不動産のうち耕地は共同体により割替えられ、家族区画地は農業経営に不可欠のものであるから分割不可である。個人が自由に処分できる不動産として一般民法による購入地があるが、その実例は少ない。動産を構成するのは農具、農耕用家畜、家具、そしてまれに現金であるが、これらも家族単位の農業経営を維持し、税を負担するのに必要な程度しかないため、他ならぬ法律により分割不可であり、かつ家長から家長へと伝えられると規定されている(33)。これらのわずかな資産ですべての生活上の必要をまかない、さらに税をも支払わなければならないため、農民経済においては資本より個人の労働が重要となる。また、生活のあらゆる側面をもっぱら経済的視点から見るよう強いられる。「農民の観念では……家族とは単に親族の私的な結合ではなく、勤労経営団体であり、……血縁アルテリとも名付けうる」(34)

 次に相続慣習について。ロシア帝国法集成は外国法からの借用があるのに対し、農民の慣習は民衆生活そのものから自律的に作られているという大きな違いがある。帝国法の規定によれば相続財産を構成するのは個人の財産、権利、債務の総体である。それを親等の近い順に相続者で分割する。それに対し農民財産は、家、家族全体に属し、家族構成員には個別の財産はほとんどない。したがって家族の死亡によっても財産は相続に開かれない。家長はこれら財産を管理し、自らの裁量で限定的ながら処分できる。とはいえ家長の個人財産でもない。それは、家長の死後も分割されず、後継者の経営・運営の手に移り、家族の共通財産でありつづけることからわかる。後継者選択には経済的な考慮がなされる。つまり、経営上手な者が選ばれる(35)。但し傍系から入った財産は、相続人の労働が加わっていないため、親等に応じて相続される(36)

 最後に財産分割について。農民家族においては家長の死をきっかけとする財産の分割はないが、例外的に不和などで家族が分離し、財産も分割することがある。これは経営にとり有害であると見なされるため、村会の許可を必要とする(37)。分割は家族内における位置、親等には関係なく、共通労働への参加の度合いに応じてなされる。家長なきあと共同所有財産が分割されるときは、労働年齢にある成人で等分する。西南諸県などでは、家長が存命中に、成人した兄弟が独立した経営を構えることが多い。その場合は家族の共通労働で屋敷菜園地を建て、家長は財産の一部を自分の裁量で分け与える。女性は結婚の際、出身家族から、その裁量により嫁資を受け取る。寡婦は子どもがいれば夫の家族のもとにとどまる。子どもが無いときには嫁資のみ受け取りもとの家へ戻る。さらにそれ以上の財を受け取るか否かは夫の家族の好意次第である(38)

 以上の要約からもわかるように、後に勤労原理として知られるようになる農民家族、財産、相続の各特殊性についてはここにそのほとんどすべてが述べられている。バルィコフが繰り返し強調するのは、農民経済を規定する最も重要な動機は経済的配慮であり、その際労働が重要な役割を果たしているということである。また彼は総論的には農民財産は分割不可分であり、それゆえ相続もありえないと主張するが、各論的には事実上の分割を認め、それは労働により各人に与えられる権利によると述べている。したがって、彼は農民財産を、各人に特定の場合にかぎり持分により分割できる「合有」の形態−家長に特別な権利を認める例外付き−であると見なしているように考えられる。

 さらに彼の議論で注目されるのは家屋の相続に関する部分である。「多くの地域では家長の死後家屋を相続するのは年長の息子である。だが、……西部および南部の諸県など数地域では逆に年少者相続権がみられる。これらの地域では年長の兄弟は多くの場合父が存命中にすでに分離し個別の経営を構える。独立した屋敷菜園地の建設は家族の共通労働で行い、家長は自らの裁量により(独立する−筆者)息子に(家族共通−筆者)財産の一部を分け与える」(39)。ここから読みとれるのは、第一に地域により本質的な側面で慣習法の内容が異なること、第二に息子が個別の経営を構える場合には、独立の際に財産の分割、分与が家長の裁量により行われるということである。地域により農民財産の性格にこのように大きな違いが存在する理由の一つとして土地所有形態の違いが考えられ、実際に中央部ロシアにおける共同体的土地所有形態に対して、西部地方は世帯別土地所有形態が支配的であることがよく知られている。しかし同時に大家族−小家族という家族構造の違いにも大きな原因があると思われる。そうであれば以下のことも考えられるのではないか。即ち、バルィコフの研究は44県の国有地農民という具体的かつまとまった量の資料を分析対象としている点が大きなメリットである。しかし逆にその資料は1847 - 1848年に限られている。ロシア農民の家族規模およびその性格づけについてはハクストハウゼンの研究以来、長らく「大家族」が支配的といわれてきたが、最近の研究では議論が分かれている。例えば農奴制期の慣習法を研究したアレクサンドロフによれば、16世紀から19世紀半ばまでの3世紀以上にわたり、ロシア農村における基本的家族構造は小家族であった(40)。他方、アメリカの研究者たちの多くは、農奴解放の前後を通じて、多核家族が支配的であったと論じている(41)。が、農奴制廃止後の時期に 中央部ロシアで家族分割が激しい勢いで行われた事実はよく知られており(42)、バルィコフの結論は大家族制が支配的とみえた19世紀なかばには当てはまっても、それ以後の時代には妥当性を欠く。つまり大改革期には慣習法の構造に変化が生じる可能性があるのである。

2. 勤労原理学説の確立

 1861年の農奴制廃止以後、農民身分をどのような形で、資本主義的世界体制に直面しつつあったロシア帝国の国制に組み込むかという問題が具体的、実際的に現れてきた。それにともない、この問題を解く鍵の一つとしてロシア農民慣習法への関心がさらに高まった。とはいえ60年代の議論には具体的事実資料に基づくものは少なく、本格的な議論・論争が始まったのは70年代である。その直接的なきっかけとなったのは、司法省、内務省、セナートの委員よりなる郷裁判所改革委員会が1872 - 1873年にかけて帝国内の15県を廻って集めた資料の出版(『郷裁判所改革委員会報告集』全7巻、1873 - 1874年。以下『報告集』と略称)である(43)

 この資料を用いて基礎法学者オルシャンスキーは、農民慣習法が一般法とは極めて異なった構造および性質をもつと考え、具体的には民法分野の慣習法を勤労原理に基づいて整理し、カラチョーフ、バルィコフによって指摘された勤労原理理論を深めた。ところが同じ資料集を用いてパフマンは農民慣習法を一般民法に近い構造をもつものであると描き出し(44)、同学説と鋭く対立する結論に達した。またエフィメンコは、北部ロシア(主にアルハンゲリスク県)の同時代資料を用い、オルシャンスキーと同じく勤労原理を農民慣習法に認めたが、それについてはゴリムステンによる反論がなされた。本章ではまず勤労原理学説について検討してみたい。

 オルシャンスキーの問題関心は、農民の農民による紛争解決機関である郷裁判所を廃止して、全身分共通の法・裁判所体系をロシア帝国に実現しようという動きに疑問をもったことから始まり、郷裁判所の活動およびそこで実際に用いられている規範が地域住民の生活の実情に即したものであるか否かを検証することがその研究の目的であった(45)。そして、慣習法という特別の法システムが存在するのか、またそれはいかなる特徴をもつのかと問いをたて、ロシア慣習法と制定法の比較や法の実際の運用の分析という方法を用いた(46)

 彼も先達と同様、農民家族における財産・相続関係に注目したが、まずはじめに家族関係と財産についてみてみよう。「制定法とは際だって異なり、かつ民衆法廷についての問題で第一義的役割を果たしているもの……それは民衆の財産生活における労働の意義および共同所有家族財産(制―筆者)である。この二つの要素が民衆の相続法のみならず、民衆のすべての法生活に独特の性格を賦与している(47)。」「(ロシア農民生活において―筆者)個人の価値は……個人的労働力、それもむき出しの肉体労働によって規定される。……財産分野のみならず、あらゆる抽象的法およびその他の原理は労働理念にその席をゆずらなければならない」(48)。「全く別の原理が優勢であるべきだと思われるようなところでも、人間の個人労働および肉体労働的な価値が重要な役割を果たしている」例としては、婚姻関係が挙げられる。つまり結婚とは財産の移転であると農民は見なしているのである。「農民経済の条件のもとでは個人労働が圧倒的な財産的意義をもつ」から、例えば妻が正当な理由なく夫の家を出ることは、夫に財産的な損害を与えることになり、郷裁判所は解決策として、夫は妻を自由にする代わりに、妻は夫が雇う家政婦に労賃を払うよう命じる(49)。また、「親は自らの子どもを主に労働力とみなす。したがって息子が独立した経営をもたないよう妨害し、可能な限り息子の労働を搾り取ろうとする。…両親からの搾取を逃れようと子どもはできるだけ早く結婚をし、未熟なまま農業を行うため、すぐに貧しくなる」(50)。逆に父親に扶養されていない子どもは、労働者としての賃金を父親に請求できる(51)。このようにオルシャンスキーは労働が果たす役割の重要性を繰り返し主張した。

 相続法についてオルシャンスキーは基本的にバルィコフの結論を踏襲しつつ(52)、相続法が個人労働という唯一の原理からいかに成り立っているかを『報告集』およびその他の法慣習史料に基き以下のように検証している。1.寡婦の相続。エフィメンコは、アルハンゲリスク県では妻は夫の共同経営者であるため優先的な相続者であると述べているが、その主張は一般化はできず、事情は家族形態によってはっきりと異なる。小家族では夫の死後妻が家長となり、子の後見人になるが、複合家族では何も相続せず夫の家に働き手として残る(53)。タムボフ、サマーラでも慣習は同様であり、複合家族では一般に夫の死後、妻は何も相続しない。小家族では夫の財産の一部を受け取る(他の一部は共同体の取り分となる)。また、子どもがいる場合には夫の財産を終身的に占有する。但し再婚したり、他村へ出たりすれば、財産は夫の親家族あるいは元の共同体のものとなる(54)。2.娘の相続権について。地域的差異なしに、どこでも、娘は相続権を持っていないという一般的規則が確立している。娘の財産に対する権利は結婚前の被養育権と結婚の際の嫁資のみである(55)。但し、これは農民が一般に女性を男性の奴隷と見なしその権利をなおざりにしているからではない。財産権は家族労働および家族財産システムに基づいているため、娘は結婚後の家でその権利を得るからである(56)。3.妻の財産に対する寡夫の権利について、慣習は定まっていない。但し、妻との同居結婚生活が長いほど権利が拡大する傾向がある。ここにも経済的原理の影響がみられる。つまり同居結婚生活の継続は共同労働に基づく夫婦間の利害関係の共同性を高めるからである(57)。4.親家族からの独立は共同所有家族財産に対する権利を消滅させるため、独立した子どもは相続に参加しない。形式的には独立していなくても、出稼ぎなどで親家族と別居し、金を家にいれない親族も同様である(58)。5.相続権を規定するに際し重要な役割を果たしているのは家族労働への参加であるから、非嫡出子、養子、継子ともに労働に参加すれば嫡出子と同様の相続権を得る(59)。6.相続における遺言が占める性格について。(1)遺言は農民世界において極めて例外的存在である。(2)遺言により相続人を決定する自由は極めて限定されている。遺言の慣習が存在するところでも、民衆はそれを遺訓と見なすため、法的ではなく専ら道徳的な意義をもつ。(3)遺言の内容は通例、慣習による相続秩序の確認である。(4)遺言という名称であっても、隠居や扶養契約のような、法的には別の意味をもつ取り決めにすぎないものも存在する(60)

 最後に、農民慣習法における労働がもつ意義についてオルシャンスキーが挙げる論拠として、盗耕および森林盗伐の例をみてみよう。他人に土地を無断で耕作された際、土地所有者(61)はある場合には収穫の三分の一を、また別の場合は二分の一を受け取るよう郷裁判所は判決している。行為が善意つまり過失でなされた場合と悪意の場合で判決を区別している例も存在する。即ち前者においては播種者が収穫のすべてに対する権利をもつが、あわせて土地所有者に当該地の相場により土地利用料を支払う。さらに、播種者が収穫を利用できるが、土地所有者に損失を補償しなければならないという判決や、また逆に収穫は土地所有者のものになるが、同時に土地所有者は耕作者の土地を同じ広さだけ耕さねばならないという例もある。過失による森林盗伐においては、郷裁判所は薪を伐採者の所有物とするが、森林所有者に補償金を支払うようあわせて命じる。これらすべての例において民衆法廷(郷裁判所)は農業における労働の第一義的役割という慣習的観念に従い、他人の所有物を契約なしに利用する際においても投下した労働に対する報酬を認める(62)

 以上のように、オルシャンスキーはロシア農民慣習において、所有権の発生にはまず第一に労働が必要であるというバルィコフの議論を踏襲し、1860年代末 - 70年代の資料でそれを確認している。その論拠として財産分割や相続のみならず、盗耕や盗伐の例も挙げている。また、彼は家族を専ら共同所有財産をもつ生産団体と見なし(63)、家族の血族団体としての意義をバルィコフよりもさらに過少評価している。この点は次章でみるようにパフマンと鋭く対立する論点となる。

 但し、慣習法の変化をも彼は認識している。小家族における女性の所有・財産権についての以下の記述には、70年代になり、家族分割が慣習の変化に与えた影響が見られる。「相続権について、独立した家族における女性の位置は、大家族におけるそれよりも至る所で比較にならない位に良い。さらにつけ加えるならば、夫が存命中でも父親から独立していれば妻の生活状況は比較にならない位よい。妻は舅および姑からの虐待を受けなくて済むからである。ここから女性(の要求−筆者)が農民家族における家族分割の主要な理由になるという有名な事実が理解できる。……さらに、夫の側の口実や女性同士(姑と妻−筆者)の争いのみならず、まさに家を支配する者たちの専横に対する妻の側からの生存を求める法的闘争という、より深い本質的特徴をここに認めなければならない」(64)。つまり、この時期に家族共同所有財産の性格の変化が生じ、「配偶者単位の財産」というものが形成されているということである。それはバルィコフが農民財産は家族全体に属するため相続には開かれないと述べるのに対して、オルシャンスキーは相続権および相続規範の具体例について詳述していることからも窺われる。

 エフィメンコは、自らが夫とともに北部ロシアのアルハンゲリスク県において収集した資料を主たる根拠として農民慣習法を研究した(65)。その最も重要な成果は『民衆生活研究』であり、ここでは同書中の勤労原理学説を総括的に主張する論文、「民衆の慣習法における勤労原理」を中心に検討する(66)

 彼女は以下の点に民衆の法観念の研究意義を見いだしている。即ち、「わたしたちは西欧から資本主義的構造を受け入れている。……しかし自らに移植しようとしているのは資本主義的生産様式ではなく、資本主義へ向かう遊びでしかない。そしてこの熱中しやすい遊びのなかで資本のみではなく、……私たちの精神的内実をも失うリスクを負っている」(67)。「当該社会の法観念と経済構造の間には密接な関係がある。……例えば労働の産物が生産者に属する所と属さない所では当然二つの全く異なった法観念が生じる」(68)。資本主義下では後者であるが、「人類の将来にむけての理想が……現在ある労働者とその生産物との関係を変えることを志向するものであれば、法は現在のロシア農民がその代表となっている法観念に移行しなければならないのではないか」(69)。だから民衆法を研究しなければならない、と。

 彼女の議論のベースになっているのは、勤労原理−労働が唯一の、正しい所有の源泉である−がロシア農民慣習法の根底に存在するという考えである。「農民は、人間の労働により生産された物に対する所有権にほとんど宗教的な敬意を表す」(70)。だから「牧草地で刈られた干し草や畑の穀物の盗みは極めて例外的な現象である……。ある物がどうしても必要となっても農民が自分にとってこの聖なる掟、つまり所有権を侵犯することはありえない」(71)。例えばアルハンゲリスクでは次のような慣習がある。道中で馬に餌を与える必要が生じたとき、旅人は一番はじめに見つけた干し草の山を利用するが、その際それに値する金額を置いていく。また、収穫物を畑や海岸に放置しておいても、所有者の印さえ明記しておけば10個の鍵をつけるよりも安全である。それがたとえ人里から10ヴェルスタ離れていたとしても。飢饉の年に貧農がぎりぎりの状態におかれたとき、富農の穀物を無断で借用し、豊作の年に借りた量より2−3束多く戻しておくという、ドン軍管区における例も同様に労働への尊重の現れである(72)

 労働の尊重は、農民家族の財産・相続関係にも現れている。「ロシア農民相続法の基本原理は、共通財産獲得のために投入された労働の量に応じての共通財産の分け前への参加である。……他の要素、たとえば遺言という形で現れる個人の意志などは(相続において−筆者)全く何の役割も果たさないとは言えないが、この基本原理の前に背後に退く。親族およびそれに関連した概念の意義は実生活上とても大きい。しかし血縁原理は相続においては勤労原理に第一の席を譲る。……たいていの場合、財産は家族の全員の共同労働の結果であり、子どもも幼い時から両親と並んで働きはじめる。……確かに父親は子どもから尊敬と従順を得る権利を持つ。だが働き手である子どももまた家族によって形成された財産の一部に対する物権を持つ。……息子が親家族においてすねかじり(дармоед)でないと認定された場合、共同体は、息子が親家族との同居に不都合である時には父親から独立させるのみならず、財産形成に息子が投下した労働に見合う分の財産を与えさせる。……父親が息子を相続から外したい時も、それが自分の意志であるからということはおろか、自分への不服従を理由とすることもない。たいていの場合は、息子が浪費家である、あるいは怠け者であることなどを理由とする」

(73)。血縁関係よりも勤労原理が優先するのであるから、擬制親族でも「家族内で多かれ少なかれ継続的に、普通十年間くらい同居し労働すれば、恒常的家族員と同等の財産権を得る」(74)

 エフィメンコによれば、女性の財産権は男性の場合と違い一定していない。それは、「多かれ少なかれ女性と家族との関係は、偶然の要素を含むため一時的である(75)」からロシア農民は女性を完全権利者と見なしていないためである。「とはいえ、男性の場合ほど完全ではないが女性と家族の関係にも勤労原理が影響している」女性の家族財産に対する権利は、一応以下のようにまとめられる(76)。1.大家族の場合。同居期間が短い時点で寡婦となり家を出る際には、自ら持参した嫁資への権利および、すでに結婚後の家族において女性固有の賃仕事での稼ぎ(77)を行っていればそれに対する権利があるのみである。地域によってはさらに夫の衣類からいくばくかについても権利を持つことがある。同居期間が長く、家族利益のために労働を投下すれば、何らかの方法でその労働に対する報酬を与えることが必要であるが。以上すべての場合について、女性に財産を与えるか否か、与えるとすれば何かについては、親家族の利害代表者である家長の良心次第である。2.小家族の場合、労働に対する報酬(вознаграждение)ではなく、財産に対する権利(право на имущество)の問題となる。子どもがいる場合、女性の権利は明白であり、家族財産の管理者となる。寡婦となり家を出る際、子どもが無く、且つ夫との同居期間が短い場合、基本的に財産は夫の生家(厳密には夫の結婚時の財産を形成した家族)へ移行する。財産が夫婦の共同労働の結果生まれたと見なせるほど夫との同居期間が継続的である時には、寡婦は全財産の完全相続権者となる。

 共同体的土地所有関係と勤労原理の関係においても農民は合理的に問題を処理する。一般に土地は人間労働の産物ではないため、無条件かつ自然権としての所有権の対象とはならない(78)。しかし土地を開墾した場合には労働が投下されるため、労力分が回収されるまで開墾者の占有が認められ、共同体による土地割替の対象にはならない(79)

 以上のようにエフィメンコの議論の要点は極めて明快であり、ロシア農民慣習法において、所有権の第一の根拠は労働にあり、農民は労働の投下された物に対する所有権を尊重し、この観念は農民家族の財産・相続関係にも一貫してそれらを規定しているという主張である(80)。それを、北部ロシア(特にアルハンゲリスク)という特定の地域を研究の主たる対象として実証した点に最大のメリットがある。但し個別の議論を注意深く検討すれば明らかなように、彼女は勤労原理の支配を固定的に捉えているのではなく、この時代の資本主義浸透に伴う農民慣習法の重要な変化を認めている。その第一は、オルシャンスキーも主張していることではあるが、農民財産の大家族共同所有財産的性質が崩れ、小家族において配偶者単位での財産が形成されつつあったということである。彼女が「農民世界の相続は、多くの場合家族分割という形態をとる(81)」と述べていることと併せて考えると、農民の共通財産は、家族分割により大家族から小家族へと財産分与され、そこで配偶者単位の財産へと変化しており、なお共同体による規制を受けつつも、分割不可能な共同所有財産という意味合いが薄れ、財産の個別化傾向が生じていたと考えられる。また、農民の観念では「土地は無条件かつ自然権としての所有権(設定)の対象にはならない」と彼女は述べるが、土地はそれに自らの労働を実際に投下する者が利用すべきである、という農民の観念を説明した所で、この観念は共同体的土地所有形態により土地を利用する農民だけではなく、「私的所有権を持って土地を利用する農民」にも当てはまると述べている(82)。これは具体的には分与地とは別に農民が個人で購入した土地のことを示しているのか、あるいは世襲的に利用されることの多かった菜園地(83)(усадьба)のことを指しているのか不明ではあるが、いずれにせよ、慣習法の変化の第二として、事実上農民が土地に私的所有権を設定している例の存在がここから窺われる(84)

 他方、同時代人も指摘するように彼女の研究姿勢に農民の理想化が見られることも事実であり、農民慣習法研究の意義と目的を述べた部分や、所有権を尊重するがゆえにロシア農民世界では労働投下された物にたいする盗みが稀であると主張する点にそれが現れている。さらに、少ない事実史料に拠らざるを得なかったと自ら認めている点をも考慮に入れるならば、文脈を踏まえないでその勤労原理学説を固定的なものとして抽象化し、理論を事実と同一視することには慎重さが求められるといえよう。

3. 勤労原理学説への批判

 これまでみてきたように『報告集』は勤労原理学説を補強する重要な事実史料として用いられたが、前述のように同じ資料集を用いてロシア農民慣習法の特徴について、まったく逆の結論を出した研究者もいる。本章ではその代表的な研究として、パフマンの『ロシアにおける慣習的民法』およびムーヒンの『農民の慣習的相続秩序』を中心に検討し、勤労原理学説批判について考察する。

 パフマン(85)は前著『民法編纂史』で、ヨーロッパ各国が民法編纂にあたって慣習法を考慮にいれていることを述べ、ロシアでの民法典編纂にあたっても民衆法を無視してはならないと考え、民法典編纂の準備として農民慣習法を知る必要があるという極めて実践的な動機から研究を行った(86)。その成果が『ロシアにおける慣習的民法(全二巻)』である(87)。ムーヒンはロシア民法典編纂委員会のために農民の相続秩序を研究し(88)、農民の家族共同所有財産の特質についてパフマンとは異なった結論を出すが、勤労原理学説批判についてはパフマン説をさらに深めた。

 以下、(a)農民家族の特質、(b)慣習法における農民財産、(c)個人労働の意義、の順に勤労原理学説批判をみてみよう。

 (a)勤労原理学説者たちによれば、農民家族は「血縁者によるアルテリ」である。つまり1.血縁関係は本質的ではなく、2.家長権力は農業経営の共同性により条件づけられ、父も母も共同経営体の管理者にすぎず、3.家族の全財産は家族員全員に属し、4.財産にたいする持分権は個人の労働のみにより獲得され、5.家族構成員の持分権は家長の裁量範囲外にあり、家族分割要求によりそれは実現される(89)。しかしこの議論を肯定すれば、財産分与や遺言は意味がなくなり、親族原理は勤労原理に席を譲らねばならないので法的意義を何等もたないことになり、財産に対する権利は父も子と同等なので親子関係も法的意義がなくなることになる(90)、とパフマンは反論し、以下のような農民家族像を逆提示する。1.家族という概念はロシア農民にとり本質的である。血縁親族でない者が家族構成員のうちに数えられるには成文法と同じように養子などとして家に受け入れられる必要がある。家族構成員でない者は雇用労働者としての権利のみを持つ。2.父親の存命中、家族構成員は父の家に住み、扶養される権利を持つが、家族財産にたいしては使用権のみを持ち、管理権は持たない。また、子は独立(糺蒟・jを要求できず、それは家長としての父の裁量次第である。共同体が不適切な家長から家族を独立させることがあるが、それは共同体の家族に対する経済的支配によって説明される。しかしその事実によって子が独立要求権を法的に持つことは証明できない。3.相続権の根拠は親族である。血縁親族でない者も養子などとして家族構成員になればこの権利を持つ。4.父の死後、相続者たちが財産分割に取りかからず、共同経営状態にある期間、農民生活には法的原理として財産の共同所有性が存在する。家族財産の共同所有性は父親の存命中には存在しない。5.農民生活において親族とは血縁関係のみならず、姻戚関係、受洗をきっかけとしてできる教父−教子関係および養子などの縁組による擬制的親子関係が含まれる(91)

 パフマンの議論のメリットは特に5.に現われている。つまり、勤労学説論者は、農民家族に特有な養子や娘婿を親族と捉えず、「他人」である彼等が家族共同農業経営に労働力を投下すれば相続や財産分割に参加でき、血縁親族でも家族共同農業経営に参加しなければその権利を失うという点を強調した結果、農民家族=アルテリと考えるに至るのである。しかし養子や娘婿が家族財産への権利を得られるのは「家族」構成員であると認められることが必要で、地域によっては縁組の手続きが制度化されている(92)ことからもその重要性がうかがわれる。また、1.にあるように、家族共同経営に労働力を投下しても、縁組を解消すれば労働者としての権利しか得られないという郷裁判所の判決例も多く存在する(93)。以上のことから、擬制的親子関係をふくめて広く家族の概念を捉えることにより、家族財産への権利の発生など「家族」であることの積極的意味がより自然に説明でき、事実にも即しているといえよう。

 「ロシア農民家族はアルテリである」という主張が成り立たないことについてムーヒンはパフマン説を支持し、以下の論を展開した。即ち、彼は勤労原理学説を主張する人たちの用いる「大家族」と「小家族」という分類を家族構成員の数を基準にしただけで理論的根拠は何もなく、家族という法的概念に混乱を招くものであるとして批判し、自然家族(естественная, натуральная семья)と人工家族(искусственная семья)という分類を提唱する。

 自然家族とは一組の夫婦を共通の血縁的出自かつ家族権力の中心とするもので、親と未婚の子からなる単純自然家族および親と既婚の子、さらには孫からなる複合自然家族に分けられる(94)。人工家族は氏族原理と経済原理のどちらを優先するかで集合家族(сводная семья)とアルテリ家族に分けられる。集合家族とは、いくつかの部分家族が一つの経済的統一体を形成したものを指し、構成員は一人の権威者に服従するが、家長は家族構成員の直系尊属者ではないのでその権力は血縁ではなく、契約または慣例に由来する(95)。アルテリ家族とは血縁よりも経済的契機が中心となるもので、具体的にはバルィコフの描く農民家族のことを指す。しかしムーヒンはアルテリ家族が農奴解放後、崩壊したとして次のように主張する。「(アルテリ家族の−筆者)家族経済構造は家族生活の根本原理と乖離し、各個人には自然な経済的独立志向がある。だから農民世界にこのような家族形態が存在するのは外的要因の影響、つまり農奴制全般および家族分割の禁止−特に国有地農民について−という特別立法による。だからアルテリ家族とは農民改革前の国有地農民にあてはまることである。……2月19日の法令(農奴解放令−筆者)によって農民自らが家族分割を管理できるようになったため、農民の家族経済構造の形態はかなり変化せざるをえなくなった。……現在では経済的結合という意味での家族とは、ほとんどの場合もっとも単純な自然家族に限られている。……この事実は、アルテリ家族が……本質的には民衆意識に十分な支持を持たず、人工的に作り上げられてきたことの明白な証拠である。『報告集』にはアルテリ家族の存在をほのめかす農民の証言がなおいくつか見うけられるが、郷裁判所判決例にはアルテリ家族を示すものは全くない。したがってこの型の家族経済的結合はすでに過去のものとなり、特別な外的刺激がない限り再び形成されることはないだろう」(96)

 このようにムーヒンは、ロシア農民家族のさまざまな形態の一つとして、アルテリ家族というものを想定はするが、家族分割が広く行われるようになった農奴解放後、実際にはそれは存在しなくなっていると論じる(97)。また、農民家族の特質についてのパフマンの主張Cは人工家族という概念の導入により、より理解しやすくなる。

 (b)勤労原理学説によれば、ロシア農民家族において財産は共同所有である。つまり家族財産は家族構成員全員に属し、家長はその管理者にすぎない。しかしこの主張を認めると、厳密な意味での共同所有財産または相続財産の分割は存在しないことになり、法学的観点から見た場合これをとても容認しがたいとしてパフマンはこれと真っ向から対立する主張をおこなった。即ち、家族および共同体の利害と相反する取引や処分はできないという制限つきではあるが、農業という家族共同経営の長たる父は財産の管理権のみならず、全家族財産の所有権を持つ。家長の存命中、家族構成員は財産にたいして精神的な権利を持つのみで、その死後、父の財産への権利を得る(98)

 その根拠は、親子の財産をめぐる問題、特に子の独立に明瞭に見られる、とパフマンは言う。独立とは両親から財産分与を受け、独立した農業経営を営むことである(99)。親は子の独立を認めない権利を持つ。ところが実際には無許可で独立しようとすることが多く、その場合には特別の理由がない限り郷裁判所は両親の主張を認め、息子に親家族のもとへ戻るよう命令を下す(100)。つまり独立は父の意志次第であり、特に父との不和を理由とするものにおいて息子は何の要求権も持たない(101)。同意を得て独立する場合にも、分与する財産の量を決定するのは父の意志である。父のこの意志についての唯一の制限は、複数の息子がいる場合に、特定の息子に全ての財産を与えてはならないということである(102)。このように父存命中の独立の場合、子は父により分与される財産に満足しなければならない。他方、父も息子に分与した財産への権利を失う。

 父の死後、その財産は家族のために働いたか否かに関わらず息子たちにより均分相続されるのが一般原則である(103)。家族が分割しない場合、つまりムーヒンの言う人工家族においては共同所有財産が形成される。共同所有財産に対する各人の権利は、相続権に由来する。なぜなら共同所有は父の死後に残された相続財産について形成されるからである(104)

 パフマンの議論の要点は、父存命中には家族財産は共同所有ではなく、家長たる父が個人所有権を持つという主張(105)である。これは自然家族における父の現実の支配権を重視したものと言え、人工家族は例外的状況であるとみなされている。また、人工家族において家長は共同所有財産の管理者に過ぎず、各構成員は財産に対する持分を有し、その分割を要求できるとパフマンは説明している(106)。だが、これも勤労原理学説と共通な見方ではない。なぜなら持分は相続権に由来するという説明であるため、やはり家族財産は父の個人所有物であるという議論が前提となっているからである。したがって、パフマンと勤労原理学説は、一貫して対立している。

 ムーヒンは、大改革期においても「家族所有権」は農民の意識に深く根づいていると主張する。家族所有権とは、各構成員が財産にたいし家族労働などの結果による持分を有しているのではなく、家族に所属していることを根拠として財産に対する権利が生じ、独立する者は家長の裁量で財産の一部を分与され、家長など家族のうちの一人のみが家族財産の所有者ではない、というものである(107)。その根拠は、自然家族では息子の独立の際受け取る財産が、息子間での均等を原則として家長の裁量に任されていること、人工家族では財産分割の根拠は相続権であり、したがって被相続者との関係が等しい者は等しい財産を受け取る(108)、ということである。

 また、家長の個人所有権の否定および農民財産において家族所有権から個人所有権への移行が生じているという点でムーヒンはパフマン説と対立している。この点について彼は、郷裁判所の判決例が、家族の同意なしに家長が家族財産の抵当権設定や販売を行うことを禁じていることや(109)、「財産は家族全体のもの」、「家族内の個人によって獲得された財産はすべて家族の共通財産と見なされる」という郷裁判所改革委員会による農民インタヴューを挙げて家族財産に家長が個人所有権を持つことを否定している(110)。家族財産が家族全体に属するとしても、その分割が可能かという疑問には次のように答えている。即ち、家族所有権にたいし、構成員は持分を有しているのではないから、独立の際に持分を根拠として自らの財産取り分を指定することは不可能であり、家長が独立の許可および分与財産を決定する権利を持つことと家族所有権という概念は矛盾しない(111)。結論として、大改革期においては、家族構成員に私的所有財産の形成も見られるが、「農民生活における家族財産関係の基本形態はやはり家族所有権である(112)」と主張した。

 家族財産関係についてパフマンとムーヒンは、勤労原理による説明を否定する論拠、人工家族における共同所有という主張においては共通しており、かつそれらは大改革期における事実に立脚しており説得力がある。他方、家族財産が家長の個人所有物か否かについては正反対の見方をしているように見える。しかしこれは法学的な認識の違いであると同時に、単純複合家族が支配的になりつつある農民社会の変化や、息子の独立に際して最もよく現われる家長の事実上の大権力を強調する(パフマン)か、その権力に対する制限を強調する(ムーヒン)かの違いであり、複合自然家族や人工家族が解体したことから生じる所有権をめぐる農村社会の変化について、両者の事実認識は共通している(113)

 (c)家族財産に対する権利の発生には勤労原理と親族原理のどちらが優先するかという問題において、パフマンとムーヒンは共に、農村社会では個人労働がきわめて重要な意味をもつことを認めたうえで、農民家族内で労働を投下してもそれだけでは雇用労働者としての権利が生じるだけであり、相続あるいは財産分割に参加するのは養子などを含めた親族であることから、親族原理の優先を主張したことは既に見た通りである。

 では盗耕など、他人の財産を利用して利益を得る行為について農民慣習法はいかなる対応をするか。勤労原理学説によれば労働は所有権の唯一の源泉であるから、投下労働にはそれに見合う報酬が支払われると説明される。パフマンも盗耕、森林盗伐の事例において投下労働に報酬が支払われる例の存在を郷裁判所の判決により確認している(114)。しかしこれは主に過失の場合にあてはまり、特に故意の場合には盗耕として処罰されることもあるとして、労働により生じる権利としてではなく、「他人の労働により」得た不当利得を返還させる目的で法が当事者間に契約の存在を擬制する準契約(quasi-contractus)または事務管理(negotiorum gestio)という法原理により説明されるべきだと主張した(115)

 盗耕や盗伐についての郷裁判所判決例には、過失の場合でも罰金を課す例(116)や故意でも労働投下者に報酬が支払われる場合(117)があるなど一定していない。しかし収穫は原則として土地所有者(118)の物と認定され、争われるのは主に種子を播種者に返却するか否かである。また、収穫は折半というような被告人に有利な判決が出される場合でも、他人の所有地の不法利用について「(次回からは−筆者)法律の定めにより規定の責任をとることになるので、このようなわがままな振舞いは控えること(119)」と警告がなされるなど、盗耕そのものについては非難されることが多い。したがってこれら盗耕や盗伐にみられる郷裁判所の判決が示しているのは、労働により生じる権利と同じかあるいはそれ以上に土地所有者の権利を重視している、ということである。

結 論

 ロシアで農民慣習法の研究は19世紀はじめに始まり、カラチョーフとバルィコフの研究によりはじめて具体的な史料にもとづくその構造および特徴が明らかにされ、家族・財産構造の分析から慣習法における労働の持つ意義が強調された。オルシャンスキーおよびエフィメンコはこの議論を『報告集』で確認しつつ受け継ぎ、それは勤労原理学説と称されるようになった。しかし彼ら自身も認識していたように、同学説は広い意味での大家族制が支配的である場合に有効である。他方パフマン、ムーヒンらは、家族分割をはじめとする農村における変化に注目しつつ、別の視点から『報告集』の検討を行った。それは、大改革期には家長の持つ現実的権力の大きさが核家族の出現あるいは核家族志向と結びつき、他方で出稼ぎによる個人的財産形成の可能性が開かれることによって所有権の個別化が進んだという主張である。

 エフィメンコは、農民の法意識を理想化しており、オルシャンスキーはバルィコフおよびエフィメンコに依拠するところが大きい。また、勤労原理学説の基本的主張をつくったカラチョーフ、バルィコフは農奴解放前夜のロシア農村の史料を基としている。したがって「ロシア農民慣習法において所有権の唯一の根拠は労働である」「ロシア農民家族は親族団体というよりむしろ血縁アルテリである」という勤労原理の主要な理論を大改革期の事実として考えることには慎重でなければならない。すでに述べたように農村における変化を勤労原理学説派も注目しており、必ずしも明示的ではないが、所有権の個別化(120)というパフマンらの認識をオルシャンスキーやエフィメンコも共有していたのである。研究史では勤労原理学説のこの原則的側面ばかりが強調されてきたが、それはこの時期の農民共同体および農民の法意識が革命後の総割替運動を説明するための論拠として利用されたからであろう。


 もちろんロシア農村において慣習法の変化が以上述べてきたような方向のみに進み、私的所有権概念が順調に進展したのではない。だが本論で述べてきたような慣習法の変化が大改革期に生じていたと考えることによって、19世紀末に利害が相対立する農民各層それぞれが自らの法意識を主張しあうようになり、20世紀はじめには成文法が紛争解決のために不可欠となった(121)歴史的過程を整合的に理解できるであろう(122)

[付記]
 本稿は平成10〜11年度日本学術振興会海外特別研究員の研究費による研究成果の一部である。