SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 45号

19世紀から20世紀初頭にかけての
右岸ウクライナにおけるポーランド・ファクター


松 里 公 孝

Copyright (c) 1998 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.

はじめに
1. 帝国の構造と機能
2.右岸ウクライナにおける民族政策の特殊性
3.民族関係の見取図
まとめ
付録:1897年人口調査結果に見る帝国南西3県 の民族間関係

要約

「我々はかくも弱く、かくも無能だ。我々は、中央権力も西部地方における自分自身の力もあてにで きないでいる。我々がどんなにポーランド人を恐れているか、まんいち彼らが知ったら!」(ロシア帝国内務大臣P.A.ヴァルーエフの日記:1865年4月 6日)(1)

はじめに

前世紀から今世紀にかけての右岸ウクライナ(2) ほど、その民族学的な相貌を大きく変えた地域は、世界的にみても稀であろう。そのターニング・ポイントは1917年革命であった。この革命は、第一に、 レーチ・ポスポリータ(3) 分割後もこの地の支配階級の地位を譲ることのなかったポーランド系(4) 地主貴族を絶滅した。1920年代の土着化政策がウクライナ共和国に残住するポーランド人に一定の自己表現の機会を与えたのは事実であるが、趨勢として は、革命によって自らのエリートを失ったポーランド系住民は、今世紀を通じてウクライナ人に同化せざるをえなかった。第二に、この革命は、ツァーリ政府が ユダヤ人に課していた居住制限(cherta osedlosti)を廃し、世界でも有数のユダヤ人密集地帯(したがって、反ユダヤ感情が強いことにかけても世界有数の地域)であった帝国西部諸県(5) からソ連中央部へのユダヤ人の漸次的移住を可能にした。この静かな大移動の結果がいかに顕著なものであるかは、こんにち、(ロシア政治とは対照的に)ウク ライナ政治において「ユダヤ人ファクター」がほとんど存在していないという事実にも示されている。第三に、レーニンの民族自決原理に基づいて、ウクライ ナ・ソヴェト社会主義共和国が形成され、すくなくとも公式には、ウクライナ人がこの地を代表する民族として宣言された。
こうして、ルブリン合同(1569)以来初めて、東スラブ族が右岸ウクライナの実質的な(政治的のみならず社会・経済・文化的な)支配エトノスと なったのである。皮肉なことだが、東スラブ族がポーランド人とユダヤ人の優勢を打破した結果として、東スラブ族内部の対立、つまり、大ロシア人とウクライ ナ人の間の対立が前面に出ることになった。この過程を完成したのは、第二次世界大戦に前後してのプリカルパート・ウクライナ(ハリチナ)の併合と、そこで 1947年に実施されたポーランド系住民の人民民主主義ポーランドへの強制移住であった。スターリニズムの残酷な膨張政策のおかげでウクライナは国土を統 一し、ポロニズム(6) を国土から最終的に一掃することができたのである。これによって、ペレヤスラフ条約(1654)に始まるウクライナ史のひとつのサイクルは完了し、ウクラ イナ人は大ロシア人との「同盟」をもはや必要としなくなった。
本稿の動機となっているのは、この「大ロシア人・対・ウクライナ人」という特殊20世紀的な民族関係理解の枠組みが19世紀以前のウクライナ史に 遡及的に投影されることによって、前世紀における右岸ウクライナのエスニックな相貌の理解が妨げられてきたという事実である。たとえば、1897年人口調 査時の右岸ウクライナの大ロシア語使用住民数の対県人口比がヴォルィニ県において3.5%、ポドリヤ県において3.3%、キエフ県において5.9%にすぎ なかった事実(7) は、読者を驚かすだろう。ポーランド分割後百年余を経て、大ロシア人はドニエプル川以西にはほとんど住んでいなかったのである。
ポーランド人が ム ナポレオンでさえモスクワまでしか到達できず、ヒットラーに至ってはモスクワまでも行けなかったのに ム 大ロシア人を打ちのめしてヴォルガ川にまで到達した唯一のヨーロッパ民族であることはよく知られているが、ポーランド分割後もロシア帝国西部諸県がポーラ ンド系貴族の手中にあったことはあまり知られていない。19世紀前半の右岸ウクライナがポーランド語文学の大拠点であったこと、カトリック教会の膨張の最 東端がカルパート山脈ではなくてドニエプル川であったことなどは、現代人にはイメージしにくいことであろう。他方、(ユダヤ人の小商人を主人公とする)ブ ロードウェイ・ミュージカルの古典『屋根の上のバイオリン弾き』の舞台が右岸ウクライナであることも知らない人が案外多いのではないだろうか。「ウクライ ナ問題」の所在そのものを認めなかった国権党、ロシア人民同盟などの帝政末期の大ロシア主義的右翼政党の活動家、また内戦期のデニキン軍の将校団の主なリ クルート源が他ならぬウクライナ人自身であったという一見逆説的な事実(8) も、革命前右岸ウクライナにおけるポーランド人、ユダヤ人の優勢を無視しては理解されえまい。繰り返すが、ロシア革命以前の右岸ウクライナにおいては大ロ シア人とウクライナ人のいずれもが劣弱なエトノス集団にすぎなかったのであって、両者の間の近親憎悪関係のみを研究しても、それは当時の右岸ウクライナの 民族間関係の理解にはつながらない。
西側におけるウクライナ史研究は長くウクライナ・ディアスポラに独占されてきた。そのためもあってか、ウクライナ史におけるポーランド人やユダヤ 人の運命が注目を集めることはなかった。社会主義時代のソ連史学は、いわゆる「解放戦争」時代、つまり左岸ウクライナのロシア帝国への併合時(17世紀) についてはポーランド・ファクターを当然ながら強調したが、どういうわけか近代の西部諸県におけるポーランド人地主とウクライナ人農奴・農民との関係を民 族問題として捉えることを避け、それを純粋に階級的な矛盾として描いてきた(9)。 帝政の崩壊に至るまで重要な意義を保ったポーランド・ファクターを強調することはソ連史学、つまり大ロシア主義史学にとって好都合だったはずなので、この 史学史上の空白は奇妙であるが、おそらく、社会主義時代はソ連とポーランドが同盟国であったことを反映しているのではないだろうか。こうして、ウクライナ 史におけるポーランド人の運命は、ポーランド人民共和国において細々と研究されるのみだったのである(10)。不幸にして、この状況は、1992年以降のディアス ポラ史学の独立ウクライナへの逆輸入と公式史学化(単一のウクライナ民族主義史学の形成)によって強まった。こうして現出したのは、ウクライナ史がウクラ イナ民族史と混同され、ウクライナ民族史がウクライナ民族運動史と混同される(11) 状況であった。この二重の混同の結果、ウクライナ人の民族運動さえ研究すればウクライナ史が理解できるかのような誤解が生まれたのである(12)
では、ウクライナ人だけではなく、ポーランド人やユダヤ人も視野に入れさえすれば帝政下右岸ウクライナのエスノポリティクスが十分に分析できるか というと、そうではない。現にウクライナでは、第二次ポーランド反乱から第一次世界大戦以前の時期について、ナヂヤ・シチェルバクによってそのようなカン ヂダート候補論文が書かれ、1995年に学位が取得されている(13)。 しかし、この論文は野心的である点で好感が持てるものの、「民族の牢獄」パラダイムに強く拘束されており、右岸ウクライナにおけるツァーリ政府の小ロシア 人政策、ポーランド人政策、ユダヤ人政策をバラバラに扱っている。その結果、政府はウクライナ人を抑圧しました、ポーランド人も抑圧しました、ユダヤ人も 抑圧しましたといった水準の結論しか出てこない(14)。 一般に、民族間関係の理解なしに民族政策の分析ができるはずがない。これは、帝政期の右岸ウクライナについては特に言えることである。なぜなら、当時の右 岸ウクライナのように支配エトノスが劣勢にあったところでは、政府はエトノス集団間の矛盾・反目に付け入ることによってしか支配を維持できなかったからで ある。
民族間関係の深い理解に立脚して南西3県あるいは西部諸県におけるロシア政府の民族政策を丁寧に分析した最近の研究として、ダニエル・ボヴォアの 『貴族、農奴、検察官』(初版フランス語版は1985年出版)(15) と、ヴィトルド・ロドキエヴィチの学位論文(1996)(16) が挙げられる。本稿もこれらの労作と方向性を共有するものである。  誤解なきよう予め断わっておくが、本稿は、「民族の牢獄」パラダイムがツァーリ政府の民族政策を過度に残酷に描く傾向がある点を問題にしているのではな い。そもそも、ツァーリ政府の民族政策がどの程度寛容だったか、あるいは不寛容だったかなどという議論には、あまり意味がない。伊東孝之の至言を借りれ ば、平和とは概して抑圧的なものである。大切なのは、民族政策を貫く論理を明らかにすることである。「民族の牢獄」パラダイムが有害なのは、それがこの作 業を妨げるからである。
以下、次節で、ロシア帝国の民族政策一般の特徴を概括し、第2節では、その特徴が右岸ウクライナにおいてどのように現われたかを考察する。第3節 で、人口、土地所有、選挙、宗派対立などに表現された右岸ウクライナにおける民族間の力関係を検討し、最後にまとめを行なう。

1. 帝国の構造と機能

ロシア帝国の民族政策に関する近年の西側の研究は、「民族の牢獄」なるロシア帝国イメージに対して次第に懐疑的になっている。管見では、この懐疑 論には三つの方向がある。第一は、帝国は被支配民族内部の階級矛盾を利用すること、言い換えれば、異民族の支配階級を「ロシア化」して帝国支配階級に組み 込むことによって膨張するという考え方であり、J.P.ルドンに代表される(17)。 もっとも、被支配民族の支配階級を懐柔することは帝国主義・植民地主義と矛盾するものではないという主張は当然成り立つから、ルドンの説は「民族の牢獄」 論への根底的な批判ではない。弱い懐疑論とでも呼ぶことができよう。
第二の方向は、「民族の牢獄」論が、帝国の構造を、単一の支配民族を頂点に戴き、複数の被支配民族を同一底面上に置く円錐状に理解するのに対し、 ロシア帝国の基礎にあったコスモロジーをもっと実証的・構造的に分析しようとするものである。この立場の代表格はA.カペレル(Kappeler)である が、残念ながら本稿の著者にはドイツ語の読解力がないので、1992年に発表された、彼の名高い代表著作の内容をここで紹介することはできない。最近露語 で発表された彼の論文(18) においては、ロシア帝国の「エスニックな位階制」は、政治的忠誠心、身分制、ロシア人との文化距離という三つの基準から形成されていたとされる。政治的忠 誠心について付言すれば、19世紀のポーランド人は、まさにこの基準から帝国位階制の階梯を転げ落ちた典型であった。身分制について付言すれば、かつて レーチ・ポスポリータの被支配階級を形成していた「フィン人、エストニア人、ラトヴィア人、リトアニア人、白ロシア人、ウクライナ人」は、まさに自前の地 主エリートを有していなかったために、文章語をはじめとする民族文化を発展させることができず、また自分たちの「代表」を帝国支配階級に送り込むこともで きずに、帝国位階制において非常に低い地位に甘んじざるをえなかったのである。
カペレルの説を参考にしながら、ロシア帝国のコスモロジーについての著者なりの観察を述べれば、それは、大ロシア人との文化距離を横軸とし、政治 文化の水準(あるいは、国家性の発達の度合い)を縦軸とする樹形をしていた(〈図1〉参照)。横軸は、「東スラブ族 ム それ以外のスラブ族 ム スラブ族以外のキリスト教徒 ム 非キリスト教徒」という形で表わされ、縦軸は、「非歴史的民族 ム 歴史的民族にして大ロシア人よりも国家理念の発達水準が低いもの ム 歴史的民族にして大ロシア人よりも国家理念の発達水準が高いもの」という形で表わされた。
〈図1〉ロシア帝国のコスモロジー

ロシア帝国のコスモロジーがハプスブルク帝国などのそれと比べて際だっているのは、帝国の西への膨張の結果、支配民族である大ロシア人よりも文化 水準の高いエトノスを帝国領に抱え込んでしまったことをあっさりと認めてしまうことである。ただし、この認識が膨張への慎重論に転化するわけでは必ずしも なく、むしろ、「我々大ロシア人の文化は未熟・粗野であるが、それだけに若く力強い。この若さ、力強さゆえに、我々は西に向けて膨張する権利があり、また 帝国内における西・中欧文明の代表者たる沿バルト貴族やポーランド貴族を支配する正当性を有している」とでも要約すべき膨張論に転化することがしばしばで あった(19)
カペレル説、松里説のいずれをとるにせよ、ロシア帝国のコスモロジーが上述のような樹形をとっていたとすれば、「民族の牢獄」論は、それを分析す るのに適切な道具にはならない。なぜなら、ロシアの国家性への最も恐るべき(したがって敬われるべき)敵とされたポーランド人に対する政策と、独立したエ トノスであるとさえみなされなかったウクライナ人に対する政策とを同一の範疇にくくることはできないからである。そもそも、「民族の牢獄」論、つまり円錐 状の帝国構造認識は、1905年革命に前後して、被支配民族の統一戦線を形成しようとする民族運動指導者の実践的な関心を動機として広汎に普及したように 思われる(言い換えれば、円錐状の帝国構造認識は、被支配民族の統一戦線を形成する上で都合がよかった)。つまり、その生まれからして、この議論は、帝国 の構造と機能を内在的に理解するためのものではなかったのである。
「民族の牢獄」論を克服する第三の方向は、他民族の文化的同化という意味での「ロシア化」は、当時の行政手段の発達の度合いからいって、そもそも 不可能であったとするものである。この立場を代表するレイモンド・ピアソンは、「民族の牢獄」パラダイムを、ツァーリ帝国に対する「ユダヤ人亡命者的な見 解」であるとして退けた。彼によれば、統治能力の限界、官僚制と中央集権の未発達ゆえに「民族的少数派を同化しようとするような全体主義的野心も近代的な 資源も有していなかった」ツァーリ政府が追求した「ロシア化」とは、「ロシア語、ロシア文化、ロシア的制度のヘゲモニーを強化すること」以上のものではな かったのである(20)
本稿の課題との関係で特に重要なのは、この第三の立場である。そもそも帝国とは(国民国家とは対照的に)マスコミ・公教育・官僚制などの統治のテ クノロジーが発達していなかった歴史段階における国家編成の方法であった。こんにちのウクライナ政府が行なっているように、朝から晩までテレビを動員して 民族主義的な宣伝をするようなことは、ツァーリ政府には望むべくもなかった。また、ウクライナ政府は、独立後5年間のうちに、理系・医学系の一部の高等教 育を除くほとんどの教育機関からロシア語を追放したが、そもそも義務教育の導入からさえ遠いところにあったツァーリ体制にこのような偉業は望むべくもない (学校の普及が遅れていた帝国南西地方においては特にそうであった)。このような低い統治テクノロジーの下で、しかも当時の西部諸県のように東スラブ族が 社会経済的に劣勢にあるところで政治権力を維持することはいかにして可能か。それは、各エトノス集団の内部自治と自己表現 (osoblivost') をある程度まで容認し、それによって生まれるエトノス集団間の矛盾・反目を利用しながら、それらと取り引きすることによってのみ可能となるのである。つま り、ウクライナ人農民に対しては、「ポーランド人、ユダヤ人の搾取からあなたたちを解放してあげよう。我々大ロシア人と共にポーランド人・ユダヤ人の土地 所有と闘おう」 と呼びかけ、他方、ポーランド人貴族やユダヤ人に対しては 「農民運動(あるいはポグロム)からあなたたちを護ってあげよう」と甘言を供する。こうして全てのエトノス集団に恩を売り、それらの忠誠をかちとるとい う、いわばエスニック・ボナパルティズムを展開しなければならないのである。この点では、ツァーリ政府は、「分割し、統治せよ」という世界史古代以来の帝 国支配の根本原則に忠実だったのである。もちろん、「分割・統治」が成功する前提は、エトノス集団の自己表現・相互反目が統御可能な枠内にとどめられ、ま た大ロシア人のヘゲモニーが一定の水準にあることである。これこそが、少なくとも帝国西部諸県における「ロシア化」の目標であった。異民族の完全な同化を 目指すような大ロシア化は、実現不可能であったばかりでなく、それを長期目標としただけで(唯一の現実的な統治方法である)エスニック・ボナパルティズム に支障が生じるであろうことは自明であったから、望ましい政策でさえなかったのである。
「分割・統治」が帝国支配の本質的属性であったとすれば、「鉄道建設の時代から学校建設の時代へ」といった定式(21) に代表される純クロノロジカルな民族政策の傾向、つまり個々の民族政策(対ポーランド人政策、対フィンランド政策等々)を越えた、ツァーリ政府の一般的民 族政策が存在しえたかどうかは疑わしい。というのは、「分割・統治」原則の下では、あるエトノス集団に対する不寛容政策は、その集団と混住する別のエトノ ス集団への寛容政策と結びつかざるをえない場合が多かったからである。たとえば、ポーランド系地主に打撃を与えるために資本主義以前的な土地法制である地 役権が政策的に維持されたとすれば、それは、客観的にはウクライナ人農民を助けていることになる(22)。別の例を挙げれば、1870年代、大ロシア民族主義 の高揚に押されて、第二次ポーランド反乱(1863-64)後に西部諸県のポーランド人に課されていた土地取得制限をバルト・ドイツ人にも拡大しようとす る提案がなされたが、ヴァルーエフ内相らの抵抗で実現されなかった。なぜなら、バルト・ドイツ人の土地取得を制限すれば、ポーランド人地主が手放さざるを 得なくなるであろう土地の潜在的な買い手を失うことになり、したがって地域の脱ポーランド化が妨げられるからである(23)。同様の関係は、ポーランド人とポーランド人でない旧 教徒との間にも成り立った。
以上に見たように、現地支配階級の取り込み、樹形的な帝国のコスモロジー、そして「分割・統治」という、ロシア帝国の構造・機能上の三つの特徴 は、いずれも程度の差こそあれ「民族の牢獄」論に反省を迫るものである。

2. 右岸ウクライナにおける民族政策の特殊性

前節で見た帝国の構造・機能上の三つの特徴が南西3県にどのように現われたかを考察するにあたって銘記されなければならない特殊事情は、南西地方 においては支配階級が主にポーランド人とユダヤ人から構成されており被支配階級が東スラブ族たるウクライナ人から構成されていたという事実である。これが 持つ意味を理解するためには、まず、当時の民族名称に関する現代人の誤解を解かなければならない。19世紀のロシア政府の公式の用語法によれば、帝国西部 諸県における民族間関係は、〈図2〉のように表わされた(前出の樹形図を前提として、ここでは範疇のみを示す)。
〈図2〉帝国南西3県における民族の呼称・相互関係認識の変遷
「ロシア人」という言葉は、こんにちでいうところの「東スラブ族」という意味で用いられていたのである(これを受けて、本稿では、当時の公式用語 法による「ロシア人」を括弧付きで、こんにちの意味におけるロシア人を大ロシア人と表記する)。したがって、当時の用語法における帝国南西地方の「ロシア 化(obrusenie)」とは、大ロシア化ではなく、東スラブ化を意味していた。図から容易に推察されるように、その内容は、第一義的には脱ポー ランド化、第二義的には脱ユダヤ化、第三義的にはドイツ系・チェコ系移民の同化であった。他方、「現地住民(korennoe mestnoe naselenie)」、つまりこんにちの用語法で言うところのウクライナ人は、当時の公式用語法によればもともと「ロシア人」なのだから、「ロシ ア化」の対象とはなりえず、もしなったとすれば、それは「数世紀にわたるポロニズムの影響から現地住民を解放する」という文脈においてのみであっ た。もちろん、東スラブ族全体を単一の民族(narod)とし、ウクライナ人や白ロシア人を独立した民族とみなさないことそのものが大ロシア化政策であ る、という議論は成り立とう〈補注〉。しかしいずれにせよ、研究者は「ロシア化」という言葉を用いる際に、それが現代的な意味による「ロシア化」なのか、 それとも歴史的用語としての「ロシア化」なのかという点を必要に応じて示すべきだろう(たとえば、前者には russifikatsiia、後者には obrusenie という括弧書きを付してはどうだろうか)。
ちなみに、obrusenie そのものが、帝国南西地方における政府史料に頻出した用語ではない。政府は「ロシア的要素を強める」という表現を好んで用いた。客観的にも、これが最も適 切な表現である。なぜなら、「ロシア化」という言葉が「強者(大ロシア人)が弱者(被支配民族)を虐める」というニュアンスを含むのに対し、南西3県にお けるロシア政府の民族政策は、自分たちが圧倒的に劣勢にあるというコンプレックスの上に成り立っていたからである。このコンプレックスの根拠となっていた のは、人口構成、身分構成、土地と資本の所有、識字率などの社会経済的諸側面においてポーランド人、ユダヤ人が自分たち「ロシア人」に対して優位にあると いう認識のみではなかった。むしろ、エスノポリティクスを展開する上での国家理念の成熟度、エトノス集団の結束力、戦略戦術を展開する技量、つまり広義の 政治文化において自分たちがポーランド人、ユダヤ人に太刀打ちできるわけがないという認識であった(24)。第二次ポーランド反乱後に西部諸県のポーランド人の 土地所有が制限されたのも、彼らの経済基盤一般を殺ごうとしたのではなく、エスノポリティクスを展開するための政治資源としての土地所有が問題とされたか らであった(25)
ポーランド人が頑強に同化を拒み、類稀なる結束力を発揮したことのひとつの理由は、ロシア革命以前のポーランド人が通常の民族学的な意味での民族 ではなく、帝国(具体的にはレーチ・ポスポリータ)臣民としての政治的民族であったということである。20世紀に彼らが蒙った苦難に満ちた運命の結果、こ んにちのポーランド人は通常の民族学的民族に進化(退化?)してしまい、自分たちがかつて大帝国を建設したという事実を忘却している傾向がある(26) ので、このことは特に強調しておかなければならない。当時、「ポーランド人」とは、特定の民族集団に帰属する者を指したのではなく、カトリックとポーラン ド語、ポロニズムを受容した者を指したのである。その意味では、当時の「ポーランド人」概念は、ロシア人、アメリカ人といった非民族学的な国民概念に近 い。ロシア、ウクライナの史学史において、19世紀のロシア帝国西部諸県のポーランド人の政治活動に対して「民族解放運動」という近代的な名称があてられ てきたのは、まことに奇異なことである。実際には、ロシア帝国西部諸県で展開されていたのは抑圧民族と被抑圧民族の間の闘争ではなく、二つの帝国理念・帝 国文化の間の闘争であり、たまたまそのとき、一方が勝者、他方が敗者であったにすぎない。まんいちレーチ・ポスポリータがロシア帝国との闘争に勝っていた ら、ロシア帝国がポーランド人に対して行なったのと同じことを、ポーランド人は東スラブ族に対して行なっただろう。こうした事情から、「ポーランド民族の 独立」という目標とは全く異質の「レーチ・ポスポリータの再興」という目標、民族学的領土ではなく歴史的領土(「バルト海から黒海まで」)の回復という目 標は、ロシア帝国領内のポーランド人がポーランド人として踏みとどまるための生命線であり続けたのである。しかも、ポーランド人がロシア帝国西部の支配階 級内の多数派を占める限りにおいて、この目標にはある程度の実現可能性があったのである。
第二次ポーランド反乱後、大ロシア側がポーランド人にしばしば示唆したのは、西部諸県に対する野心を捨てよ、そうすればポーランド本土とは同君連 合的な関係を復活してあげようということであった(27)。 しかし、政治的民族としてのポーランド人にとっては、これは自己同一性の否定にほかならなかった。西部諸県がある限り、ポーランドはフィンランドになるわ けにはいかなかったのである。このように、西部諸県のポーランド人が、ポーランド分割以後120年以上にわたって自らの言語と文化を維持できたのは、彼ら が「レーチ・ポスポリータの再興」という夢に支えられていたからであるが、まさにこの事情が、ポーランド反乱に代表されるような冒険主義に彼らを駆り立 て、彼らの民族政策を硬直化させ、そのうえ、ロシア帝国の他の被支配民族から、大ロシア人と同じ穴の狢として嫌われ仲間外れにされる(28) 原因となったのである。
次に、被支配階級が主に「ロシア人」であったという点であるが、まさにこのために、ロシア政府の西部諸県政策は、東や東南への膨張政策にはない一 要因を付与された。それは、「数世紀にわたってポーランド人やユダヤ人に搾取されてきた同胞である『ロシア人』を解放する」という正当化の論理である。こ の論理は、西への膨張の時点(ポーランド分割時)には見られなかったものだが、第一次ポーランド蜂起(1830)以後、より決定的には、ドミトリー・ビビ コフの南西地方長官就任(1837)以後、ロシア政府が採用し始めたものである。
ここで考察しなければならないのは、ポーランド分割によって、ロシア帝国は、それまでの膨張とは明らかに異質な地域に向かって領土を拡大したの に、現地支配階級の帝国支配階級への包摂という伝統的な統合政策を40年以上にわたって(しかも、第一次ポーランド蜂起の後でさえ暫くの間)堅持したのは 何故かという問題である。エドワード・サーデンは、これを四点にわたって説明する。第一に、ロシア、ポーランドのエリートの共通の利益であるところの農奴 制秩序がフランス革命やコシチューシコ蜂起によって脅かされたので、両民族の支配階級間の同盟を固める必要があった。ナポレオンがワルシャワ公国を興して ポーランド再興の夢を部分的に満たしてくれたときでさえ、ポーランド貴族はナポレオンが伝播しかねない革命理念への警戒心を失うことはなかった。第二に、 階級構造がロシアと似通ったレーチ・ポスポリータの併合は、「コスモポリタンな地主エリートに支配される多民族国家」というロシア帝国の伝統的性格を強め ると考えられた。第三に、18世紀末にロシアがトルコを圧倒してドニエプル川の安全な航行を確保したので、ポーランド地主(特に帝国南西地方の地主)は欧 州への穀物輸出のルートとしてバルト海経由ではなく黒海経由を好むようになった。第四に、西・中欧と接し、レーチ・ポスポリータ末期およびワルシャワ公国 下で国政改革の実験を積んできたポーランドのエリートは、ロシア帝国の改革に必要なノウハウを提供してくれると考えられた。この点では、シュリャフタは、 ピョートル大帝下のバルト・ドイツ人のような役割を果たすと期待されたのである(29)
しかし、ロシア政府とポーランド人地主との間の蜜月は、ウクライナ人農民にとっては、レーチ・ポスポリータ時代と比べて待遇が一向に改善されない ということを意味していた。ビビコフ南西地方長官が執拗に主張して実現した裁判記録の調査(当時、南西地方の司法機関はポーランド人貴族の手中にあったの で、総督が裁判記録を調査することさえ容易ではなかった)によれば、ポーランド人貴族・荘園管理人の農奴への暴力による傷害致死事件、妊婦の流産などが、 キエフ県だけでもほとんど毎月のように起こっている。しかも加害者の大半は刑事罰を免れており、被害者についてはその氏名さえ記録に残されていない(30)。さもありなんといった話だが、メチスラフ・ポトツ キー伯のように、美しい農奴の娘を集めてハーレムのようなものを作った例もある(31)
ポーランド人貴族の帝国支配階級への包摂という路線にこれほどの慣性力があったとするならば、それが放棄されるや、ロマノフ朝崩壊に至るまで(様 々な政策上の揺れはあったものの)再び採用されることがなかったのは何故かということが次の疑問として浮上する。もちろん、ここにおいては第二次ポーラン ド蜂起が決定的な意義を持ったが、若干の点を付け加えたい。第一は、「現地同胞の解放」という正当化根拠には、領地台帳改革(32) が農奴解放にゆきつかざるをえなかったことに示されるように、一種の自縛作用があったということである。いったん掲げた以上は降ろせない旗であったと言え よう。
第二に、レーチ・ポスポリータと対峙していたとき以来、大ロシア人側は、レーチ・ポスポリータの東の辺境は「ロシアの固有の領土」、小ロシア人や 白ロシア人は「ロシア人」であるという主張を表向きはしてきたが、本音のところでは、ポーランド分割により他人の領土・国民を略取したと考えてきた。とこ ろが、19世紀の中葉から後半にかけて、南西地方長官に後押しされた帝国地理協会南西支部や歴史学におけるキエフ学派のイニシアチブにより、右岸ウクライ ナにおいて空前の規模で地理調査・民俗学調査が組織された。その結果、ウクライナ民衆が、2世紀以上に及んだレーチ・ポスポリータ支配にもかかわらず東ス ラブ的な特徴を保っていることが明らかになり、そのおかげで、帝国西部諸県は「ロシアの固有の領土」、「ロシア人」同胞を解放せよといったスローガンが案 外科学的な根拠を持っていたことが明らかとなったのである(33)。 この時代は、ロシア帝国にとって、ピョートル・セミョーノフやパラディウスらの活躍による地理上の発見の時代であったが、大ロシア人にとって燈台下暗しで あった右岸ウクライナもまた「発見」されたのである。
以上のような事情から、ビビコフ総督以降、右岸ウクライナの政府権力はウクライナ人農民に同情的な政策をとった。右岸ウクライナの農奴解放は、そ れに先行する領地台帳改革と結合され、帝国では例外的に農民の利益を優先して行なわれた。解放後も、ウクライナ農民は、ポーランド人地主の犠牲において多 くの土地を獲得した。にもかかわらず、右岸ウクライナでは農民の騒擾の頻度は左岸や南ウクライナよりもずっと多かった(34)。その一因は、政府の農民甘やかし政策である。19世 紀末になると、極端な反ポーランド人政策(その反面としての農民甘やかし政策)が大ロシア人地主の南西地方への入植をも妨げていることが自覚され、西部諸 県への通常統治の導入(ゼムストヴォ、ゼムスキー・ナチャーリニク制の導入、その反面では地役権の廃止)と結合してポーランド系貴族を再び帝国支配階級と して組み込む道が模索されるようになった(35)。しか し、これはロシア帝国の西部諸県支配の正当性の根幹に関わる問題であったから、政策転換は容易ではなかった。しかも1905年革命の際に、南西地方のポー ランド人貴族が「歴史的領土」回復の野望を捨てていないことが示されたので、革命後は政府の対ポーランド人政策は再び硬化した。そのうえ国会開設により、 ウクライナ人の票を大ロシア主義政党に惹きつけるためのポピュリズムが強化されるに至り、結局、ポーランド人貴族の再包摂政策は本格化しなかったのであ る。
ここで、現地住民「解放」論の具体例を、1911年度のヴォルィニ県知事の恭順報告書 (vsepoddanneishii otchet) に見てみよう。知事は、県の商工業資本のほとんどがユダヤ人の手中にあり、しかもその状況が変わる兆しさえないことを次のように説明した。「その原因は、 現地住民[ウクライナ人 ム 著者]の文化の低さ、彼らのユダヤ人への物質的従属、そして、主要には、全スラブ人に固有の…無気力(inertnost')である」。この状況を変える ためには、「ユダヤ人の搾取と闘うための強力な武器を与えてくれるであろう」学校網を整備しなければならない。南西地方において学校がこのような役割を期 待される以上、ゼムストヴォ学校ではだめで、あくまで政府学校を増設してゆかなければならない。そしてこれらの学校は一般的な教育を行なうだけでは足り ず、「(現地住民を)取り囲む異族(36) との闘いを勝利に導くような実践的な生きた知識」を与えなければならない(37)。 一見して明らかなように、この報告においては、学校建設というそれ自体は進歩的な事業が、南西地方の「ロシア化」=脱ユダヤ化の課題と結び付けられてい る。同じことが、協同組合政策や酒類専売政策にも言えた。前者について敷衍すれば、内地諸県においては協同組合運動は主にゼムストヴォの援助を受けて発展 し、県知事権力はそれを潜在的左翼運動とみなして、どちらかと言えば警戒的だったのだが、南西地方の総督や県知事は、「協同組合はユダヤ人の搾取と闘う武 器として重要である、何故、我が県のゼムストヴォ(1911年以前は地方経営委員会)はこれをもっと熱心に援助しないのか」と発破をかけるのが常だった。 ロシアの協同組合活動家にとっても、南西地方の総督、県知事は協同組合に甘いというのは周知の事実であり、たとえば1913年の全露協同組合大会がキエフ で開かれたのもこのためだった(南西地方以外では、このような大会開催の許可はおりなかっただろう)。ただし、この大会で「北派」(大ロシア派)と「南 派」(ウクライナ派)の路線争いが浮上し、ウクライナの協同組合が分離主義的な色合いを持つことが明らかになって(38) 以降は、南西地方の政府権力は協同組合への態度をやや硬化させたようだが、それでも内地諸県よりは寛容だったと言える。
総じて、南西地方におけるビビコフ以降の政府の民族政策の基本は、「現地民(ウクライナ人)と新教徒(ドイツ人・チェコ人)を味方につけて、ポー ランド人とユダヤ人を叩く」というものとなった。言い換えれば、エスニック・ボナパルティズムが一切の原則なしに展開されていたわけではなかったのであ る。
なお、チェコ人がここで「新教徒」のカテゴリーに加えられているのは奇異に思われるかもしれない。次節で述べるように、たとえばヴォルィニ県の チェコ語使用住民の26.6%は旧教徒だったからである。どうやら、「正教徒『ロシア人』と新教徒」という範疇は、実態を反映するものとしてよりも、西部 諸県においてポーランド人とユダヤ人に対置さるべき規範的・人工的な範疇として機能していたようである。北西地方に至っては、リトアニア・タタールまでが この範疇に含められていた(39)。いずれにせよ、ドイツ 人、チェコ人の入植・優遇政策は、南西諸県に進んだ中欧農業技術を伝播させることと並んで、現地ポーランド人の勢力を殺ぐことをも目的としていた(40)。しかし、ドイツ人、チェコ人の立場は露墺関係の悪化 と共に悪くなり、その居住・土地所有に対する制限措置がとられるようになったのである。
以上から明らかなように、右岸ウクライナにおける帝政の民族政策は、レーチ・ポスポリータの遺産としてのポーランド人とユダヤ人の優位の克服、そ れらに搾取される現地「ロシア人」の解放を基本モチーフとした。ポーランド文明およびユダヤ文明・対・ロシア文明という対抗軸を前にしては、「大ロシア 人・対・ウクライナ人」という軸は二義的な意味しか持たなかった。それどころか、19世紀中葉に活躍したウクライノフィルの第一世代 (stara hromada) は、「ポロニズムと闘うためには、ロシア人(東スラブ族)は団結しなければならない。そのためにも、大ロシア人は小ロシア人に対する尊大な態度を改めるべ きだ」という論法をしばしば用いたのである。つまり、「二重のアイデンティティー」(マロルースィであると同時に「ロシア人」である)を認める点で、帝政 とウクライノフィルは同じ土俵に立っていたのである。このような穏健路線の成功例は、1870年代初頭、やがてウクライノフィルの合法的な組織媒体となる 帝国地理協会南西支部が、南西地方長官の庇護下で開設されたことであった。当時の南西地方長官ドンドゥコフ-コルサコフは、ウクライノフィル運動を取り込 むことによって、右岸ウクライナのポーランド人の勢力を殺ごうとしたのである(41)
本節をまとめる。帝政下の右岸ウクライナにおいては、「ロシア人」に対するポーランド人、ユダヤ人の優位があまりに極端で、しかも彼らに支配・搾 取されていたのが「ロシア人」(ウクライナ人)であったという特殊事情から、ロシア帝国の構造・機能の三要素(現地支配階級の取り込み、樹形的コスモロ ジー、「分割・統治」)はストレートな形では発現しなかった。まず、現地支配階級たるポーランド人の帝国支配階級への包摂政策は、第一次ポーランド反乱の のち部分的に、第二次反乱ののち決定的に、放棄されざるをえなかった。また、被支配階級たる「ロシア人」を解放するというポピュリスト的な正当化根拠が民 族政策の根幹に置かれたため、「分割・統治」政策も十分に柔軟な形では展開されえなかったのである。ただし、頗る機能主義的な伝統的帝国政策が適用できな かったために、かえって、土地問題のポピュリスト的利用や大ロシア主義政党の育成のような現代的な民族統合政策が発達したことは指摘さるべきである。
〈補注〉そもそも、ルーシ人(ウクライナ人)が「ロシア人」とは別のエトノス(narod)なのか、それとも、東スラブ族は単一の エトノスでありマロルースィはその分岐にしかすぎないのかというイデオロギー闘争は、モスクワ国家とレーチ・ポスポリータの間で、当事者であるウクライナ 人の頭越しに(ウクライナ民族運動が生まれるはるか以前に)発生したものである。「ルーシ人は『ロシア人』とは別」という主張は、レーチ・ポスポリータが ウクライナを植民地化するためのイデオロギーであり、「マロルースィは『ロシア人』の一分岐」という主張は、ロシアがウクライナをレーチ・ポスポリータか ら奪回する(あるいは奪う)ためのイデオロギーだったのである。
また、ツァーリ政府の言語政策も、上述の民族観と類似した、次のような論理構造を有していた。 (1)「ロシア語」は単一の言語であり、その中に大ロシア方言(narechie)、小ロシア方言、白ロシア方言が存在するにすぎない、大ロシア方言が 「ロシア語」内の標準語の地位を占めている以上、小ロシア人、白ロシア人もこれを修得し、公共の場では用いるべきである。ここにおいて大ロシア方言が果た す役割は、近代フランス語、イタリア語が成立する過程でイル・ド・フランス方言、トスカナ方言が果たした役割と同様である。(2) 小ロシア方言はポロニズムに汚染された「ロシア語」なので、大ポーランド主義との闘争という南西地方の「ロシア人」に課せられた歴史的課題を妨げる方向で 作用する。まさに南西地方においてこそ、標準語としての大ロシア方言は重要な役割を果たしてきたのである。サムイル・ミスラフスキーからゴーゴリに至る、 18世紀から19世紀初頭にかけての大ロシア語の確立者たちの多くがこの地から輩出されたのは偶然ではない(42)
このように、東スラブ人(語)の一体性の強調、ポロニズムとの闘争の必要性からその一体性を正当化するという二点において、ロシア政府の民族政策 と言語政策はパラレルな関係にあったのである。

3. 民族関係の見取図

付録〈表1〉から〈表7〉は、1897年の人口調査に基づいて、右岸ウクライナ3県における言語集団間・宗派間の人口学的関係を示したものであ る。〈表1〉が示すように、県人口合計ではキエフ県が「ロシア化」(東スラブ化という意味でも、大ロシア人化という意味でも)が最も進んだ県であったが、 農村の大ロシア語人口比は、キエフ県が3県中最小である。大ロシア語人口は、ポドリヤ、ヴォルィニ両県いずれにおいても非常に低かったが、ヴォルイニ県に おいては東スラブ語人口を合計しても県人口の4分の3にも達しなかった。国境に接する県であるヴォルィニ県がこのような極端に「ロシア人」劣位の民族状況 にあることは、露墺関係が悪化した1890年代以降は問題視されるようになっていた。
〈表1〉が示すように、南西地方において都市的な言語集団だったのは、大ロシア人とユダヤ人であり、農村的だったのは、ウクライナ人とドイツ人・ チェコ人である(以下、民族帰属は母語を基準とする)。ドイツ人、チェコ人が主に農村的な言語集団であったのは、彼らが政府の右岸ウクライナ植民政策の結 果、この地に移住することを許された集団だからである。大ロシア語住民の「都市性」は、彼らの社会的内訳が主に官吏、軍人、正教会聖職者、大学教員などの いわば帝政権力を代表する階層であったことによる。 〈 表1〉が示す大ロシア人とユダヤ人の都市人口比をさらに県庁所在都市3市とそれ以外の市(主に郡市)に分けて見たものが〈表2〉である。ここでも、キエフ 県の特殊性が目を惹く。キエフ市が大ロシア化の程度において群を抜いていたことはいまさら読者を驚かせないだろうが、それ以外の市部における大ロシア人人 口比においては、キエフ県は、他の2県より劣っていたのである。ユダヤ人については逆のことが言える。キエフ県においては、県市は抜きん出て大ロシア的 で、郡市以下の都市は、他の南西諸県2県のそれと比べてもよりユダヤ的だったのである。しかし、いずれの県においても、大ロシア人は郡市以下の都市よりも 県市で、ユダヤ人は県市よりも郡市以下の市において、より大きな人口比を占めている。
言語集団の構成比と、〈表3〉に示される宗派構成比とを比較してみよう。ドイツ系・チェコ系言語集団が新教徒と、ユダヤ系言語集団がユダヤ教徒 と、ともに人口比においてほぼ一致するのに対し、旧教徒人口は、ポーランド人人口を大きく上回っている(ヴォルィニ県で1.6倍、ポドリヤ県で3.8倍、 キエフ県で1.6倍)(43)。ヴォルィニ県について見れ ば、大ロシア語住民の1.7%、ウクライナ語住民の5.1%、白ロシア語住民の22.3%、チェコ語住民の26.6%が旧教徒であった(44)。ここに、対ポーランド政策とは切り離して対カトリッ ク政策を展開する余地があったのである。つまり、反ポーランド政策を強化する場合、旧教徒全体に対する差別を強化する十把一絡げの方法と、旧教徒政策は緩 和して、ポーランド人をそれ以外の旧教徒から孤立させる「分割・統治」的方法の二つがありえた。
〈表1〉は、ポーランド人が農村と都市の双方に足場を有していたことを示している。農村においては、残存していた大土地所有者とそこに働く管理 者・農民が、また「一戸持ち (odnodvortsy)」「第2級自由民 (vol'nye liudi vtorogo razriada)」「永久小作人 (chinsheviki)」などの様々な身分・階級集団に転化していた没落シュリャフタ層がポーランド系住民を代表していた。都市においては、ポーラン ド系住民は、弁護士、技師、都市自治体職員などの知識階層に大きな比重を占めていた。
ヴォルィニ県のみについてのデータであるが、〈表4〉は、以上の観察を身分構成比の点から確証している。大ロシア人とポーランド人の貴族性は群を 抜いており、他方でウクライナ語住民と白ロシア語住民の農民的性格は鮮明である。大ロシア人とポーランド人とを比べて後者に一代貴族と名誉市民の比率が少 ないのは、彼らが官職から排除されていたからであろう。ユダヤ人の約98%は、町人身分に属していた。
識字率の点では、〈表5〉に見るように、正教徒(旧儀派も含め)の劣勢は明白である。とりわけ女性正教徒の識字率の低さは破局的な水準にある。右 岸ウクライナにおける大ロシア語住民が「支配者・占領者」的階層であったことからすれば当然だが、識字率を下げているのはウクライナ語住民である。ここ で、正教ロシア語住民、正教ウクライナ語住民、旧教ポーランド語住民の3グループについて識字率を比較してみよう。〈表6〉では、参考のため、左岸ウクラ イナ3県についての同種のデータも掲げてある。この表から言えることは、ロシア語とポーランド語については、母集団の人口比が大きくなればなるほど識字率 が下がったということである(大ロシア語住民の識字率は右岸より左岸の方が低いし、ポーランド語住民の識字率は左岸より右岸の方が低い)。ある言語の使用 人口が大きいということは、その言語がエリート以外の階層にも浸透していたことを示しているからであろう。また、左岸ウクライナのウクライナ人の識字率が 右岸のそれより高かったのは、左岸にはゼムストヴォが導入されていたからである。つまり、ある言語の識字率は、(1)その言語を使っていた社会階層がいか なるものであったか、(2)貧しい階層にも公教育を普及するゼムストヴォがあったかどうか、によって左右された。これに対して、ウクライナにおいて学校教 育が住民多数派の母語で行なわれていなかったことが識字率を引き下げていたというウクライナ民族主義者の主張が正しいかどうかは、〈表5〉〈表6〉からは 判断できない。チェルニーゴフ県において(母語で学校教育を受ける権利を奪われていた)ウクライナ語使用正教徒の識字率がロシア語使用正教徒のそれを僅か ながら上回っていたという事実は、みぎの主張を疑わしめるだろう(45)
以上に検討してきた識字率とは、ロシア語によるそれとロシア語以外の言語によるそれの合計なので、ヴォルィニ県について、みぎの二つの識字率を区 別したデータを〈表7〉に示す(46)。ここでいうところ の「その他の言語」とは、白ロシア人の場合を除いて、当該言語集団の母語と考えられる。もし、「ロシア語では読み書きできないが、母語でならできる」こと を民族的な遠心性の発現と考えるならば、ドイツ人とユダヤ人の遠心性が最も大きく、タタール人、チェコ人、ポーランド人がそれに次ぐ。ここでも、ウクライ ナ人と白ロシア人の民族性の高揚の度合いはミゼラブルな水準にあると言える。
ウクライナ人が農村的なエトノス集団にとどまったことには、もちろん、経済的理由があった。農業発展のプロシア的な道を辿っていた右岸ウクライナ 農村には、過剰人口を吸収し得る雇用があったのである。しかし、ウクライナ人の都市嫌いの文化的な背景も見逃すことはできない。同時代のロシアの農村青年 が一旗揚げることを夢見て大挙して都市に出稼ぎに出たのに対し、右岸ウクライナの農村青年にとって、未知の言語と文化に支配される都市は居心地の良い場所 ではなかった。たまに何かの用事で都市に出かけると、言葉を理由として嘲笑されたのであろう(ちなみにこれは、こんにちのキエフでもよく見かけられる光景 である)。
教育の遅れから、ウクライナでは民族知識人の形成が遅れた。オレスト・サブテルニーによれば、1897年の時点で、ウクライナ人は、ウクライナの 法律家の16%、教師の25%、作家・芸術家の10%足らずを占めるに過ぎなかった。1917年の時点で、キエフ大学の学生のわずか11%がウクライナ人 であった(47)。このように、ウクライナ人は、都市化・ 工業化の波にも、識字率上昇・公教育普及の波にも乗り遅れたのである。19世紀は、ウクライナ人にとって最も屈辱的な時代であったと言ってよい。こうした ことから、少なくとも1905年革命以前においては、ロシア政府はもとより、現地のポーランド系エリートも、そしてウクライナ民族運動の指導者さえも、 「現地住民」のアイデンティティーがプレ・ナショナルな段階にあるということを前提として民族政策を展開したのである(48)
次に、土地所有の面での南西3県の脱ポーランド化の度合いを見てみよう。1865年の時点で西部9県全体の地主総数に占める「ロシア人」の割合は 「70対1」であると言われた。こうした状況を変えるべく、第二次ポーランド蜂起の後、ポーランド人の土地取得・購入が制限され、他方で「ロシア人」の土 地購入を容易にし、また内地諸県からの「ロシア人」の入植を容易にするための特恵措置がとられた。その結果、1903年時点での政府資料によれば、全私有 地面積に占める「ロシア人」の所有地面積とポーランド人の所有地面積の比率は次の通りとなった(49)

「ロシア人」 ポーランド人
ヴォルィニ県 45.4% 47.9%
ポドリヤ県 49.8% 48.3%
キエフ県 59.3% 不明
これだけを見れば、土地所有における「ロシア人」とポーランド人の間の力関係は対等、もしくは「ロシア人」の若干の優位にあったかのようである。 しかし、上表に示された「ロシア人」の土地所有は形式的なものである。これはアファーマティヴ・アクション一般が抱える問題点でもあろうが、土地取得の特 恵措置が設けられれば、その地方に定住して真面目に農業経営に従事しようとする者よりも寧ろ、特恵措置による人工的な地価と市場地価との差を利用して、投 機的な転売・賃貸利益を得ようとする輩を惹きつけてしまうことは容易に予想されることである。たとえそのような悪意がなくとも、南西地方で土地を買った大 ロシア人は、官職の必要から一時的に南西地方に住んだ者、内地諸県に自分本来の領地を持っている者が大半だったので、いずれにせよ南西地方で購入した領地 を賃貸に出すことは不可避であった。しかも、政府資料によれば、貸し出された領地の約4分の3は(法がそれを制限していたにもかかわらず)ポーランド人の 手に落ちた(50)。したがって、上表において「ロシア 人」所有地とされている土地のかなりの部分は、実際にはポーランド人によって経営されていたと考えられる。
領地経営の質については、大経営については「ロシア人」経営はポーランド人経営に比べてさほど劣ってはいないが(51)、中規模以下の経営ではポーランド人の方が優位にある と言われた(52)。「ロシア人」経営が各々孤立して農業 を営んでいるのに対し、ポーランド人経営は実に緊密に情報交換し、集団的に技術革新・経営合理化してゆく傾向があった。19世紀の末から各地で組織され始 めた農業協会は、最初は民族問題を脇においた非政治的団体だったが、1905年革命以降は、次々とポーランド民族主義者の指導下に置かれるようになった(53)。このため、たとえば1908年から1909年にかけ てヴィンニツ、ルーツクなどで開かれた農業展覧会においてはポーランド語が事実上の公用語となり、内容的にもポーランド人経営の優良さを宣伝する場となっ た(「ロシア人」経営から出された展示は劣悪な場所をあてがわれた)(54)。 農民に対する援助という点では、ポーランド人地主はポーランド人コミュニティー内部の福祉と経営改善にしか興味がなく、現地民(ウクライナ人)のために学 校・病院などを建設してやろうとする意欲に欠ける、と政府側資料においてしばしば批判されているが(55)、その一方では、ポーランド人地主の指導下にあったポ ドリヤ農業協会がウクライナ語の農事改善パンフレットを出版したのを官憲が警戒していることを示す史料もある。面白いことに、この史料は、農業協会がポー ランド人地主の支配下に落ちたため、「ロシア人」地主はゼムストヴォを通じて農民への働きかけを行ないたいと願い、そのためにゼムストヴォの導入を「一日 千秋の思いで待っている」と指摘している(56)
1907年6月3日クーデター以前の選挙法(第1、第2国会選挙の際の選挙法)においては、上述の土地所有における民族構成が地主クーリヤの選挙 人数に反映する仕組みになっていた。たとえば第2国会選挙におけるポドリヤ県について、地主クーリヤの選挙人の民族構成を見れば、「ロシア人」が34名に 対してポーランド人が42名であった。このような状況は政府の許容するところではなかったので、6月3日クーデター以降は、西部諸県には選挙人の選出を民 族別に行なうシステムが導入された。言い換えれば、ポーランド人選挙人の数に上限が設けられたのである。その結果、地主クーリヤ選挙人の民族構成は、「ロ シア人」68名、ポーランド人8名となった(57)。前述 の土地所有における力関係と対比するならば、クーデター後の選挙法がいかにいびつなものであったかがわかるだろう。これにより、西部諸県のポーランド人 は、第3、第4国会からは事実上排除されてしまったのである。しかし、国家評議会(上院)選挙においては、みぎのようなゲリマンダーは実現されえなかっ た。皮肉なことに、政府の反ポーランド人政策のため西部諸県にはゼムストヴォが存在しなかったので、(ポーランド人貴族の勢力が優勢な)県郡貴族団がここ における主な上院選挙媒体となった。南西3県については、この状況は1911年に選挙制ゼムストヴォが導入されるまで続いた。以上の事情から、たとえばポ ドリヤ県の国家評議会選挙有権者の民族構成は次の通りであった。

「ロシア人」 ポーランド人 総数
1906年選挙 243(39%) 379(61%) 622(100%)
1909年選挙 275(43%) 370(57%) 645(100%)
しかも、「ロシア人」貴族と言っても、前述の通り不在地主が多く、しかも有権者集会に足を運んでもポーランド人に勝てないことは選挙前から明らか であったので、「ロシア人」有権者の棄権率は高かった。ポーランド人有権者の選挙参加率が1906年選挙と1909年選挙のそれぞれについて44%、 52%だったのに対し、「ロシア人」のそれは6%、16%にすぎなかった(58)。 これとは対照的に、ポーランド系貴族は、勝てる見込みの少ない国会選挙にも熱心に参加した。政府の資料には、パリに在住するあるポーランド系伯爵が、自分 が選挙権を有するキエフ県ラドムィスリ市の予備大会に参加するためにわざわざ帰省し、選挙人選出の1票を投じた後に再びパリ行きの汽車に乗ったというエピ ソードが紹介されている(59)
国政選挙のこのような状況は、第二次ポーランド反乱後、西部諸県にゼムストヴォの導入を許さず、貴族団長の選挙制をも剥奪したツァーリ政府の読み が、少なくとも政治的功利主義の見地からは正しかったことを示している。
本節の最後に、右岸ウクライナにおける宗派間関係を見よう。旧教聖職者は、「宗教の名の下にプロパガンダを行なう、組織的で厳格な規律を有する ショーヴィニスト政党」(60) であると政府側から見られていた。正教・旧教関係を伝える史料として、1909年11月にヴォルィニ県憲兵隊長が県知事に提出した文書を紹介しよう。この 文書によれば、正教司祭の祖先の大半は、ポーランド支配下でいったんカトリックかグレコ・カトリックの聖職者となることを強いられ、ポーランド貴族の「知 的・道徳的影響下」に置かれた。そのため、正教司祭の多くはこんにちに至るもポーランド風の姓を名乗っており[これはまさにその通りであり、そのため、こ の文書に前後して正教司祭が政治化し、ロシア人民同盟などの右翼活動家になってゆくと、「苗字はポーランド系、民族的にはウクライナ人、イデオロギー的に は大ロシア主義者」 という奇怪な光景が現出することになる ム 著者]、ポーランド語が達者で、ポーランド時代の古書を家宝のように保管している。こうしたことから、正教司祭には、ポーランド的なるもの全てに対して 「無意識の引け目」を感じており、戦闘的カトリシズムに対しても、お人好しの、受け身の態度をとっている。正教の神学校には「イエズス会的な基礎鍛錬」が 欠如しており、そのため正教司祭は「宗教的敵対者に対する敵意やファナチシズムを全く身につけていない」。正教司祭は他教の信者を正教に改宗させようとい う意欲を持たないばかりか、カトリック側からの正教徒改宗工作がかつてなく活発化しているこんにち、あからさまな改宗工作の事実に憤ることもない。概して 正教神学校の教育条件は劣悪であり、正教司祭の悲惨な生活条件を知る卒業者は、大学に進学したり、軍や官庁に職を捜したりして、必死で聖職以外の職に就こ うとする。それに失敗した落伍者のみが司祭になっているのである(61)。 以上のように、ヴォルィニ県憲兵隊長は宗派間関係を描いた。
既に触れたように、この文書が提出された1909年頃は、まさに正教司祭が右岸ウクライナにおける大ロシア主義の尖兵として政治化している最中で あったから、ここに描かれた「お人好しの正教司祭、仮借ない旧教司祭」という対照は、やや時代遅れなものである。しかし、これが19世紀の両宗派間の関係 を反映しているとすれば、カトリックが世紀を通じて右岸ウクライナで勢力を保つことができた背景の一端がここに示されていると言えよう。
以上に見たように、19世紀から20世紀初頭にかけて右岸ウクライナで展開されていたラテン=旧教=ポーランド文明とグレコ=正教=ロシア文明の 闘争において、社会経済的、政治文化的に優位にあったのは前者であった。もちろん、帝政末期のポーランド人の勢力は、第二次ポーランド蜂起以前のそれより は遥かに弱まっていたが、様々な差別法制、アファーマティヴ・アクション抜きに大ロシア人が太刀打ちできるようなところにまでは落ちぶれてはいなかった。 依然として、大ロシア人は、政治権力を掌握しているという一点にしがみついて、力関係を気長に変えてゆくしかなかったのである。まさにこのために、この地 では (1) 総督制が敷かれ、 (2) 帝国で最も稠密な政治警察網が張り巡らされ(62)、 (3) ゼムストヴォは導入されず(しかも、1911年にようやく導入されたゼムストヴォはポーランド人への差別選挙法に支えられたものであった)、 (4) 初等教育は文部省学校と正教教区学校とに独占され、 (5) 県郡貴族団長の選挙制は第二次ポーランド蜂起後、任命制に替えられ、 (6) ゼムスキー・ナチャーリニク制も導入されず、農奴解放期に導入された調停吏制度が帝政崩壊まで生き残った、のである。政府のポーランド人差別政策のとばっ ちりを受けて、現地の「ロシア人」エリートもまた、ドニエプル川以東のエリートが享受していた公民権の多くを剥奪されていた。ウクライナ民族主義史学が好 む表現を借りれば、帝政期右岸ウクライナの国家機構は文字通りの「占領体制」であった。ただし、ひとつだけウクライナ民族主義史学を訂正するとすれば、そ れはウクライナ人に対する占領体制だったのではなく、ポーランド人とユダヤ人に対する占領体制だったのである。

まとめ

本稿をまとめるにあたって最初に強調しておかなければならないのは、帝政期の右岸ウクライナのように鋭い民族間矛盾を抱えた地域を研究するにあ たっては、いろいろな人の言い分を聞いてみるという姿勢を堅持することが大切だということである。このごく当たり前のことを実行することが容易でないこと は、たとえば大ロシア側、ウクライナ側の史学史において「解放戦争」だとか「革命」だとか呼ばれている時代は、ユダヤ人にとってはポグロムと大虐殺の時代 にほかならなかったことを想起すれば納得されよう。もちろん、著者は、あれこれのエトノス集団に共感あるいは反感を覚えること自体が悪いと主張しているの ではない。ただ、「敵対者」の言い分には耳も貸さないといった態度はよくないと言っているのである。
右岸ウクライナの民族間関係のうち、従来の研究史においてそれなりの関心が寄せられてきたのは、上図の実線1のみであろう。実線2、3について は、研究の到達点は低い。とりわけ実線3については、ソヴェト期に右岸ウクライナからユダヤ人の多くが去ってしまったこと、語学上の障害が大きいことか ら、今後、急速に研究状況が改善されるとは考え難い。しかし、それでもなお、上図の実線が示す民族間関係については、問題の所在そのものは認識されてきた と言えようが、破線が示す被支配民族間の関係については、文字通り端緒的な研究しかない。しかし、これなしには帝政の民族政策は理解されえない。なぜな ら、西部諸県に信頼するに足る行政資源も政治社会学的資源も有していなかったツァーリ政府は、既存の民族間関係に介入し操作することによってしか支配を維 持できなかったからである。実線部の研究を寄せ集めればツァーリ政府の民族政策の研究になるなどと考えるのは誤りであろう。それはたんなる寄せ集めであ り、エスノポリティクスの分析ではない。「民族の牢獄」パラダイムを生み出してきたのは、ツァーリ体制の実態ではなく、それを研究してきた側の努力不足で ある。
帝政の「分割・統治」政策の下では、ウクライナ人の境遇とポーランド人の境遇とは相殺関係にあった。ポーランド分割から40年以上にわたって、西 部諸県ではポーランド人エリートをそのまま帝国支配階級として組み込む政策がとられた。この政策下では、ウクライナ人農奴は筆舌に尽くし難い辛酸をなめ た。第一次ポーランド反乱とビビコフの南西地方長官就任により、ポーランド人地主に辛く、ウクライナ人農奴に同情的な政策が採用されるようになり、農奴の 地位改善を目指して領地台帳改革などが施行された。この方向は、1848年欧州革命に際して(不穏な情勢下では現存支配階級に依拠せざるを得なかったの で)一時的に中断される(63) が、1850年代に再開され、第二次ポーランド反乱の後に絶頂に達した。こののち、西部諸県のポーランド人は多くの差別法に縛られて暮らすことになる。他 方、右岸ウクライナの農奴解放は、帝国では例外的に農民の利益を優先して行なわれた。19世紀末になると、極端な反ポーランド人政策(その反面としての農 民甘やかし政策)が大ロシア人地主の南西地方への入植をも妨げていることが自覚され、再び、ポーランド人貴族を帝国支配階級に組み込む方策が模索されるよ うになった。これは、もし実現されていれば地役権の廃止やゼムスキー・ナチャーリニク制の導入を伴っただろうから、ウクライナ農民にとっては有り難くない 帰結をもたらしただろう。幸か不幸か、1905年革命は西部諸県のポーランド人が「歴史的領土」回復の野心を捨てていないことを示し、革命後には政府の対 ポーランド人政策は再び硬化した。そのうえ国会、やがて選挙制ゼムストヴォが導入され、大衆民主主義とまでは呼べなくとも、エトノス集団が票を求めて競い 合う時代が到来した。そのため政府は、ウクライナ人に向けたポピュリスト的政策を強めざるを得なかったのである。そしてこの政策は、第4国会選挙において 国権党やロシア人民同盟が圧勝したことに示されるように、一定の成功を見たのである。内地諸県において、政党が一次革命の熱気が冷めると同時に活動停止し てしまったのに対し、右岸ウクライナは、近代的な組織政党システムが成長したロシア帝国唯一の地域であった。
本稿の分析から容易に類推されることは、西南地方の「ロシア化」(脱ポーランド化、脱ユダヤ化)が進めば進むほど、ウクライナ人は自立傾向を強め たということである。実際、「二重のアイデンティティー」(マロルースィであると同時に「ロシア人」)を認めていたM.ドラホマーノフやV.アントーノ ヴィチの時代から、分離主義傾向を強めたM.フルシェフスキーの時代にかけて、右岸におけるウクライナ人の識字率が上昇したわけでもなければ、民族知識人 が形成されたわけでもない。決定的に変わったのは、ポーランド人の勢力が弱くなったことである。これは地理的にも言えることであり、1905年革命以後の 南西3県をウクライナ民族主義運動が強い順に並べると、キエフ、ポドリヤ、ヴォルィニの順であった。つまり、「ロシア化」が進んだ県ほど、ウクライナ民族 主義も強くなったのである。
文化人類学者は、エスニック・アイデンティティーを形成する際に重要なのは、「誰に対して自分を対置するか」であると教えている(64)。ウクライナ民族主義者になるためには、ポーランド 人、ユダヤ人に対して自分を対置するだけではなく、大ロシア人に対しても自分を対置しなければならない(最後の条件が欠けると、自然な展開としては「二重 のアイデンティティー」の支持者になる)。ところが、大ロシア人がドニエプル川以西にはほとんど住んでいないという条件下では、右岸ウクライナ農民にとっ ての大ロシア人とは、「カツァープ(山羊髭)」という名で呼ばれるエピソード的な存在か、抽象的な「お上」にすぎなかっただろう。これは、ポーランド人、 ユダヤ人との日常的なコンタクトの中で植え付けられる生々しい憎しみとは比べものにならない。右岸のウクライナ人と大ロシア人との本格的なコンタクトが始 まったのは、1930年代以降である。そしてこのコンタクトは、農業集団化の際の飢饉、テロル、チェルノブイリ事故などと結びついて、ウクライナ人の心に 刻まれることになるのである。以上を考慮すれば、ソヴェト政権下でウクライナが決定的に脱ポーランド化、脱ユダヤ化された末にウクライナ人が独立国家を形 成したのは法則的なことではある。
1917年革命が帝国に持ち込んだもうひとつの逆機能は、レーニンの領域自治の思想である。これによって、行政区画はエトノスの地理的分布を反映 して決められ、しかも個々の連邦構成単位・行政単位を代表するエトノスが決められた。いまや、民族の混住を活用する「分割・統治」政策は、少なくとも大っ ぴらには行使できなくなってしまったのである。帝国運営の大刀である「分割・統治」が使えなくなったために、ほんらいは帝国運営の脇差しであったはずの 「飴と鞭」(あるいは「買収と抑圧」)が前面に出ることになった。これは、ソヴェト連邦がロマノフ帝国よりもヨリ不寛容な帝国となったことのひとつの理由 であるように思われるのである。ゴルバチョフは「抑圧」のメカニズムを壊した。その結果、最後に残った「買収」のメカニズムが際限なく拡大した(65)。帝国を維持しようとすれば、大ロシア人が一方的に周 辺民族を「養わなければ」ならないような事態となったのである。ここに至って大ロシア人は合理的な判断をし、自ら帝国を解体する先頭に立ったのである。
完全にウクライナ化されてしまったこんにちのウクライナは、前世紀の右岸ウクライナが世界文明に占めていたような地位をこんにちの世界において占 めているだろうか。もちろん、19世紀の右岸ウクライナに花咲いたポーランド文化、ユダヤ文化、大ロシア文化は、それがどんなに興味深いものであろうと結 局は外来文化であり、しかも現地民を搾取することによって成り立っていた文化なのだから、20世紀の大衆民主主義の時代にあっては、たとえ1917年革命 がなかったとしても衰退しただろうと論ずることは可能である。しかしそのような立場をとる場合でも、19世紀の右岸ウクライナが、民族解放闘争史学の色眼 鏡では捉えきれないほど豊かな多様性を持った空間だったことだけは忘れてはなるまい。

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