SRC Winter Symposium Socio-Cultural Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World ( English / Japanese )


20世紀のロシア正教会
チーホンからアレクシー2世へ

廣 岡 正 久

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はじめに−希望と悲劇の始まり

ロシア正教会の20世紀は、1905年の革命とともに始まったといえるであろう。だがそれは、“希望”と“不安”の入り交じった奇妙な始まりであっ た。忍び寄る革命の足音に気付いたニコライ2世が『信教の自由に関する勅令(Ukaz o svobode veroispovedanii)』を発したのも、また1880年以来「聖宗務院総長(Ober-prokuror Sinoda)」の地位にあってロシア正教会を文字通り牛耳り、帝国の屋台骨を支えてきたコンスタンチン・ポベドノースツェフ(Konstantin Pobedonostsev, 1827〜1907)*1が 政治の舞台から姿を消すのも、さらにロシア正教会の長年の悲願であった「地方公会(Pomestnyi sobor)」の再開と「総主教制(Patriarshestvo)」の復活を目指す動きが本格化するのも、1905年のことであった。

ピョートル大帝以来のロシア帝国の教会政策は、アレクサンドル1世時代の宗教問題・公教育省の設置という一時的な変更を除いて、“ツァーリの眼”と 呼ばれた聖宗務院総長と、彼が主宰する聖宗務院(シノド、Sinod)会議の監督下で実施されてきた。*2聖シノドの教会政策の基本路線は、ポベドノースツェフが晩年に 著した『一ロシア政治家の省察』のうちに明確な形で示されている。反動政治家の代名詞的存在であったとはいえ、冷徹なリアリストの眼を失うことのなかった ポベドノーツェフはこう書いている。

教会と国家との伝統的な結合は、両者の存立にとって本質的である。分離は宗教と道徳の崩壊を意味するであろう。そしてロシ ア国家が承認すべき唯一の教会は正教会である。その信者は無知であり、僧侶は不作法で、怠惰かもしれない。しかしながら、それが、それだけがキリストの教 会である。*3

国家と教会は一体でなければならない−−これこそがポベドノースツェフが敷いたロシア帝国の教会政策の基本路線であった。だからこそ、ニコライ2世 の『信教の自由についての勅令』とポベドノースツェフ自身の退場は、ロシア正教会にとって、画期的な大事件であったのである。

こうしてロシア正教会内部に改革を求める動きが現れてくる。中でも、1681年以来廃止されていた「地方公会」の開催と、総主教アドリアン〔第10 代総主教、Patriarkh Adrian, 1627 <1690>〜1700〕以後立てられることのなかった総主教の擁立が、緊急の課題でなければならなかった。ロシア正教会に国家の支配から自 己解放を遂げる絶好のチャンスが訪れたのである。

帝政の崩壊は、教会に対する国家の軛を解き、公会の開催と総主教制の復活を実現する好機であった。しかしながら、ロシア正教会は同時に新たな困難に 直面した。というのも、迫り来る大革命の嵐に翻弄されることになったからである。希望に始まったロシア正教会の20世紀は、たちまち暗雲が垂れこめる悲劇 の世紀に暗転した。だがそれにもかかわらず、教会の独立と自律性を確立しようとする努力は、悲劇的な20世紀を貫いてロシア正教会を支え、その統一性と歴 史的連続性を保障するものであったのである。

ロシア正教会は未曾有の宗教迫害に苦しんだとはいえ、この20世紀に、確かに二度にわたってロシアの精神的支柱として中心的な役割を果たす機会に恵 まれた。最初は1917年のロシア革命の時期であり、二度目はソヴィエト体制の崩壊時である。本稿の目的は、この100年にロシアが閲した二度の大変動期 におけるロシア正教会の動向を検証するとともに、併せてそれがロシアの現在と未来に投げかけている諸問題とその特質を明らかにすることにある。換言すれ ば、チーホン総主教によって敷かれた路線が20世紀を通して現在にどのように継承され、あるいは継承されなかったかを検証することが、本研究の中心テーマ である。そのために、われわれは次の三つの論点に的を絞って検討を加えるであろう。すなわち、

(1)ロシア正教会が独立と自律性を獲得する上で極めて重大な意義をもっていた1917〜18年公会において確立されたチーホン 路線が、20世紀のロシア正教会の歴史にいかなる影響を及ぼし、またどのような変容を辿ったかについて、
(2)20世紀におけるロシア正教会の国家あるいは政治に対する関係について、
(3)20世紀ロシアにおける「信教の自由」の原則と、それに対するロシア正教会の姿勢と対応、とりわけ今日のロシアで進められ ている「宗教法」の改正をめぐる諸問題について−−がそれである。

ところで、現時点で今世紀のロシア正教会の“総括”を企てることに疑問が浮かばないわけではない。20世紀は未だ終わっていないし、検証と分析を進 めるに必要かつ充分な資料が公開されていないことも確かであるからである。

だがそれにもかかわらず、敢えてこうした研究を試みるべき理由がいくつある。差し当たってここでは次の二点を指摘しておくべきであろう。先ず第一 は、今世紀初頭のロシア正教会を率いたチーホン総主教から現総主教アレクシー2世にいたる、教会指導の変遷を辿り、跡付けることはそれほど困難ではないと いう事実である。第二に挙げるべきは、グレプ・ヤクーニンが「教会ノメンクラツーラ(Tesrkovnaia nomenkratura)」*4と命名した現在の教会指導 部の体質と路線は、当面変化しないであろうことが予想されることである。実際、ポスピエロフスキーも指摘しているように、*5ロシア正教会に変化を促す要因があるとすれば、それはただ一つ 聖職者の“世代交代”であり、その過程の進行は比較的長期間にわたるであろう。こうした意味で、むしろ現時点においてこそロシア正教会の現在をもたらした 歴史的背景と諸要因を見定めておくことが必要かつ妥当であると思われるのである。


1.チーホン総主教とロシア正教会地方公会

1905年3月23日、すでにポベドノースツェフの指導力が失われつつあった聖宗務院は、ロシア皇帝に公会の招集と総主教制の復活を求める請願書を 送った。*6これに 対してニコライ2世は自ら承認する旨表明した。翌1906年から、公会開催の準備活動が本格化する。しかし、実際に地方公会が開かれたのは、帝政が瓦解 し、すでに臨時政府も崩壊の危機に瀕していた1917年8月15日のことであった。ボリシェヴィキの「7月クーデタ」の余塵も明けやらぬ中で開催されたこ の公会は「祖国の救済」をスローガンに掲げていた。以後「10月革命」が勃発し、二度の中断を挟みながら、翌1918年9月7日まで公会は続いた。*7

モスクワ府主教に叙任されたばかりのチーホンが議長を務めた地方公会が収めた最大の収穫は、1681年以来許されなかった公会の再開それ自体であ り、総主教制の復活であった。だが後述するように、総主教制の復活も、またチーホン総主教の選出も容易に決定されたわけではない。厳格な聖職位階制の廃止 をむしろ望んだ下級聖職者も存在したからである。結局多数派の賛成を得て総主教制の復活が承認され、難産の末チーホン総主教が誕生した。こうして1917 年11月21日、ボリシェヴィキ政権下で、チーホン(第11代総主教、Patriarkh Tikhon, 1865<1917>〜1925)はクレムリンのウスペンスキー大聖堂においてロシア正教会総主教「全ルーシおよびモスクワの総主教 (Patriarkh Vsei Rusi i Moskvy)」に正式に就任したのである。

新生ロシア正教会を率いるチーホン総主教が担った重要な課題が、破局に陥った祖国の救済であり、教会攻撃を本格的に開始したレーニン政権に対する戦 いであったことは疑いのないところである。政治権力を奪取したボリシェヴィキ政権は10月26日、『土地について(O zemle)』の布告を発し、広大な領地を含む教会財産の収奪に着手するとともに、流血の迫害を加えつつあった。さらに1918年1月23日(2月5 日)、人民委員会議(Sovnarkom)は『国家と教会、教会と学校の分離について(Obotdelenii tserkvi ot gosudarstva i shkoly ot tserkvi)』の布告*8を発表して、政教分離の原則を確立するとともに、教会から法人 格と所有権を剥奪した。こうした中でチーホンは、教会の存立を賭けて反撃に転じ、ボリシェヴィキ政権に対決する姿勢を示したのであった。先ず初めに彼は 1918年1月19日(2月1日)、いわゆる『破門状(Anafema)』を発し、血塗られた教会弾圧を弾劾する。*9次いで1918年11月7日、革命一週年を迎えたボリシェヴィ キ政権に対して、その教会弾圧を激しく非難し、ボリシェヴィキ政権滅亡の予言で結んだメッセージを送った。

剣によって立つ者は剣によって滅びる。救世主のこの予言を、わが祖国の運命を支配し、“人民”委員を自称しているあなた方に捧げる。……安全である 者は一人としてなく、誰もが欠乏、略奪、逮捕そして処刑に脅えて毎日を過ごしている。……あなた方は自由を約束した。だが、人が自分のために食料を確保す ることも、住居を変え、他の町へ旅することも許されないのに、それが自由であるというのか。……今やあなた方が流した義人の血は、あなた方に償いを求めて いる。剣を取ったあなた方は剣によって滅びるであろう。*10

1917年8月15日から一年間にわたって続けられたロシア正教会地方公会も、資金不足とますます激化するボリシェヴィキ政権の攻撃の前に、 1919年9月18日に閉会を余儀なくされた。その後、ロシア正教会の命運は一人チーホン総主教に委ねられることとなる。しかし、孤軍奮闘を続けたチーホ ンも1922年5月5日逮捕、収監されてしまった。そして翌年4月に開かれた裁判で絶望の淵に突き落とされた彼は、6月16日、最高裁判所に対して反ソ的 態度を放棄することを誓ったのであった。

私はソヴィエト憲法に違反したことを後悔している。私の釈放が許されるよう最高裁にお願いする。今後、私はソヴィエト政府に敵対しないだろう。*11

チーホン総主教は直ちに釈放された。革命後5年にして、独立をかち取ったチーホン総主教のロシア正教会も、ボリシェヴィキ政権の執拗な攻撃の前に屈 伏することになる。

しかしながら、チーホンの主宰した1917年〜18年の地方公会が、ロシア正教会の千年の歴史においても極めて重要な位置を占めるものであったこと が見逃されてはならない。公会の再開、そして公会で実現を見た総主教制の復活、さらには新しい宗務規則(Ustav)の決定は、迫害の歴史を堪え、生き延 びるための組織上かつ制度上の基礎を築いたのであった。

この公会には、全部で564名という多数の代議員が出席した。72の主教管区の主教各1名、教区司祭各2名、平信徒各3名の代表者、他に伝道団、修 道院、大学、神科大学、ドゥーマの代表者である。出席者がこのように多数に上ったという事実からも、当時の教会の公会に対する期待がいかに大きかったかを 窺い知ることができよう。*12

1917年8月16日から12月9日にかけて開催された第一セッションで、総主教制の復活、教会の管理制度、すなわち最高意思決定機関としての公 会、公会の閉会期間中の聖宗務院(シノド)会議と主教会議についての決定がなされた。しかし、公会の中心議題であった総主教制の復活については容易に結論 は得られなかった。というのも、いわゆる「白僧(belorizets)」と「黒僧(chernorizets)」との対立が持ち上がったからである。

20世紀初頭のロシア正教会は、二つの困難な問題に直面していた。すなわち、“聖ロシア”を蚕食しつつある“世俗化”の襲来にどのように対処する か、そして国家の不当かつ過剰な支配から教会の独立と自律性をいかにして回復するかという問題である。こうした問題にとくに危機感を募らせたのは教区を預 かる下級聖職者−−白僧たちであった。妻帯し、教区の信徒たちを牧する使命を負うていた彼らは、帝政時代のシノド制下で劣悪な待遇と生活環境を強いられて きた。宗教的無関心が拡がり、政治的、社会的改革運動が台頭する中で、彼らもその影響を受けたことは想像に難くない。彼らは教会改革を求めて公会の開催を 強く望んだ。しかし、総主教制の復活については必ずしもそれほど熱心ではなかった。したがって、公会においても総主教制の復活が564名の代議員の全員一 致で決定されたわけではない。宗務院に代わる合議制による教会管理機関の設置を主張する下級聖職者グループも存在したからである。ロシア正教会の希望の時 代に顕在化した白僧と高位聖職者たちが属する黒僧グループとの対立という構図は、1917年のロシア革命に際して姿を現し、総主教教会に反旗を翻した『生 ける教会(Zhivaia tserkovユ、革新派教会)』の伏線となったものである。*13

分裂の危機を内包する聖職位階制をめぐる対立、国家による教会支配、そして世俗主義の彌漫と過激な無神論の挑戦、これらがチーホン総主教が直面した 事態であった。

1918年2月2日から4月20日まで続いた第二セッションでは、主教管区監督権および教区宗務規則が決定され、とくに教区活動を活性化するために 教区の自治権が強化された。この措置が下級聖職者の要望に応えようとするものであることは論を俟たない。また主教の叙任制度の整備も図られた。同年7月2 日から9月20日まで開かれた第三セッションでは、ボリシェヴィキ政権の教会弾圧の激化に対抗して教会組織の防衛を図るために、チーホンは総主教代理を任 命した。彼が取ったこの措置が、教会組織の継続性を辛くも保持させたのであった。

すでに述べたように、チーホン総主教は1922年、逮捕、収監され、結局公然と無神論を掲げるボリシェヴィキ政権の軍門に下った。だが、チーホンは 困難な状況にあって、教会の独立と自律性を確保するために、孤独な戦いを続けた。この間の彼の指導力は特筆に値するものであったといわなければならない。 というのも、20世紀のロシア正教会が目指すべき方位を定めたのも、宗教迫害にさらされ続けたソヴィエト時代を教会が生き抜くための最良の“武器”となっ た総主教制と公会制度を確立したのも、他ならぬチーホン総主教その人であったからである。

しかしながら、チーホン路線を踏襲することは、ソヴィエト体制の全体主義化が進行する中でますます困難となった。ロシア正教会はソヴィエト国家の全 面的な支配の下に置かれ、弾圧の対象となっただけでなく、マルクス・レーニン主義の無神論イデオロギーの名において存在それ自体が否定されたからである。 数十年間にもわたる、存亡を賭けた苦難の歴史は、ロシア正教会に多大の犠牲と代償を要求した歴史でもあった。ロシア正教会は組織としての存続を図ることと の引き換えに、自らの独立と自律性を放棄せざるを得なかったのである。

チーホン総主教が敷いた基本路線が復権を果たすのは、実にゴルバチョフ政権下の1988年、ロシア正教会受洗千年祭に際して開かれた地方公会におい てであった。公会で新たに採択された『ロシア正教会宗務規則(Ustav ob upravrenii Russkoi Pravoslavnoi Tserkvi)』は、チーホン総主教の路線を再確認し、定式化しようとするものであったといえよう。

だが、今日のアレクシー2世総主教下のロシア正教会は、この二回の公会で決定された方針に沿った発展を必ずしも歩んではいない。1988年の千年祭 から数年間、内外の注目を集めた現代ロシアの宗教的“ルネッサンス(Vozrozhdenie)”は今や雲散霧消してしまった観がある。ロシア正教会の保 守的な体質、アレクシー2世が機会あるごとに教会の「政治的中立」を言明しているにもかかわらず、依然として払拭されない政治との不透明な関わりについて の疑念や不信、総主教自身を含めた教会指導部の無能と優柔不断など、ロシア正教会の真の再生を妨げる要因は決して少なくない。政治との関係の明確化、教会 組織の整備、教区活動の活発化、聖職者養成のための神学教育の充実、そして教会裁判手続きの整備が差し迫った課題となっているのである。


2.国家と教会

1917年〜18年公会の重要な決定の一つは、教会が国家の支配の軛から解放されただけでなく、政治に対して厳格に中立の立場を取ることを定めたこ とであった。各信徒が自己の政治的信念をもつことは自由であるが、しかし何人も政治目的のために教会を利用してはならない−−これが公会で決定を見た原則 であった。そしてその意味で、ボリシェヴィキ政権の『教会と国家の分離についての布告』は、ロシア正教会にとっても歓迎すべき原則であったのである。

ボリシェヴィキ政権の宗教弾圧が激しさを増し、チーホン総主教が教会防衛のためにボリシェヴィキ批判を繰り返し行ったにもかかわらず、「政治的中 立」の原則は捨てられることはなかった。1919年10月8日、チーホンは聖職者たちに教書を発し、教会と国家とが法律上分離されている原則に基づいて、 政治に関わることなく、政治から自由であることを求めた。教会は聖職者にも信者にも何らの政治的義務を課してはいないのだ。*14この教書は、明らかに、僧侶たちが反ボリシェヴィズム の旗を掲げて戦っている「白衛軍」を支持しているというボリシェヴィキ政権の非難に答えようとするものであったとはいえ、チーホンが用心深く教会が政治に 巻き込まれることを避けようとしていたことを示している。彼は、教会の非政治性と超国家性こそがその精神的自由と自律性を保障する基礎をなすべきことを理 解していたのである。

こうして、未曾有の受難に苦しみながらも、国家支配から解放されたロシア正教会は、帝政期にも増して目覚ましい“精神的”復活を遂げることになる。 1920年代初頭、ロシアは皮肉にも、無神論体制の下で“宗教的ルネッサンス”を経験するのである。

1925年4月7日チーホンが永眠すると、ロシア正教会は復活に成功したばかりの総主教制を失ってしまった。ボリシェヴィキ政権は地方公会の開催 も、また新総主教の選出も許さなかったからである。チーホン総主教が不測の事態を想定して、1925年1月7日に指名した*153名の総主教代理−−カザンの府主教キリール、ヤロスラー ブリの府主教アガファンゲリ、「クルチッツの府主教」ピョートル(Mitropolit Petr)−−も相次いで逮捕された。

こうした中で、20世紀のロシア正教会の歴史に不幸な“汚点”を印した「セルギー体制(Sergiianstvo)」が出現するのである。苦衷の選 択であったとはいえ、当時のロシア正教会総主教代理の地位にあったモスクワ府主教セルギーが署名した、いわゆる「忠誠宣言」と、それに基づく国家と教会と の“融和路線”は、今日のロシア正教会指導部にまで暗い影を落としている。恐らくこれを克服する努力が、今後ロシア正教会が真の独立と自律性を回復する上 で重要な課題であろう。

1927年7月29日、ロシア正教会首長「モスクワ府主教」セルギー(後の第11代総主教、Mitropolit Sergii, 1861〜1944)は、『忠誠宣言(Deklaratsiia loialユnosti)』を発表し、ソヴィエト国家に対するロシア正教会の忠誠を約束した。チーホンが指名し、投獄された3名の総主教代理の中の一人、 府主教ピョートルは1925年12月10日、当時「ニジニノブゴロドの府主教」であったセルギーを総主教代理に任命した。しかし、セルギー府主教も逮捕、 収監された。教会首長を失い、組織としての教会が消滅することを危惧したセルギー府主教は、ソヴィエト体制との協調路線に転換し、“国家”への忠誠を誓う ことによって、教会組織の存続を図ろうとしたのである。これがいわゆる「セルギー体制」の始まりである。『宣言』においてセルギーは次のように書いた。

われわれ教会人が、ソヴィエト国家の敵や、彼らの陰謀の手先の側にあるのではなく、わが人民、わが政府とともにあることを証明して見せることが…… 今やわれわれの緊急の課題である。われわれは……正教信徒の宗教的要求に示された配慮−−臨時聖宗務院設置の許可−−に対してソヴィエト政府に感謝する。 同時にわれわれは、われわれに与えられた信頼を濫用しないことを政府に約束する。われわれは正教徒であることを望むと同時に、ソヴィエト国家が、その喜び と成功がわれわれの喜びと成功であり、その不幸がわれわれの不幸である、われわれの祖国であると宣言する。われわれは正教徒であると同時に、<恐怖からで なく、良心から>ソヴィエト国民でなければならないと考える。それは使徒がわれわれに教えていることである。*16

しかし、セルギー府主教の屈辱的な「忠誠宣言」は、ロシア正教会の環境を何ら改善するものとはならなかった。聖職者の逮捕は相変わらず続いていた し、強制的な教会閉鎖も終わらなかった。1925年のチーホンの死去以来空位であった総主教の選出も、教会の法的人格権の回復も許されなかった。

ソヴィエト体制下で存続を図ろうとするロシア正教会の懸命の努力にもかかわらず、教会が置かれた状況はますます厳しくなった。1929年、教会に致 命的なダメージを与える事態が起こった。それは、4月8日に発効した『宗教団体に関する法律(Zakonodatelユ stvo o religioznykh obモedineniiakh)』と『内務人民委員部指令(Instruktsiia narodnogo Kommissariata vnutrennykh del o pravakh i obiazannostiakh religioznykh obモedinenii)』である。これらによって、宗教団体はいわゆる「20人制(dvadtsatok)」(第2条、第3条、第4条、第5条、第6 条)によって登録を厳しく制限され、慈善活動や伝道活動を含む一切の社会活動も禁止された(第17条)。*17

さらに同年、ロシア正教会はソヴィエト体制下で、いわば“新シノド制”の支配下に置かれることになる。革命当初、ロシア正教会を初めとして宗教は、 司法人民委員会と教育人民委員会の監督下に置かれていた。しかし、新たに人民委員会付属の国家機関『信仰問題委員会(Kommitet po delom kulユtov)』が設置され、宗教はその監督を受けることとなった。その後この委員会は、1943年に新設された『ロシア正教会問題評議会(Sovet po delom Russkoi Pravoslavnoi Tserkvi pri Sovnarkome)』と、1944年に設けられた、ロシア正教会以外の宗教を監督する『宗教信仰問題評議会(Sovet po delom religioznykh kulユtov)』に分離され、さらにブレジネフ政権下の1966年、両評議会は『ソ連邦閣僚会議付属宗教問題評議会(Sovet po delom religii pri Sovete Ministrov)』に統合された。これらの委員会あるいは評議会の議長は、帝政時代の宗務院総長さながら、1929年の宗教団体法と内務人民委員部指 令に基づいて宗教団体の管理、監督に当たり、教会が開催する宗教会議にも姿を現すようになる。彼らは無神論国家の“宗教大臣”の役割を担ったのである。

だが、ソヴィエト時代のロシア正教会に対する監督や迫害は、国家機関を通じてのみ実施されたわけではなかった。1925年、ボリシェヴィキ党はエメ リヤン・ヤロスラフスキー(Emelユian Iaroslavskii, 1878~1943)を指導者とする反宗教団体『ソ連邦無神論者同盟(Soiuz bezbozhnikov SSSR)』を組織し、大衆的な反宗教キャンペーンを展開した。1929年、この団体は『戦闘的無神論者同盟(Soiuz voinstvuiushchikh bezbozhnikov)』に改組された。こうしてソヴィエト体制下で宗教は国家と党の両面からの攻撃にさらされることとなる。その結果、30年代に入 るとロシア正教会は組織としてほとんど存在しなくなったのである。

ロシア正教会に一大転機をもたらしたのは、1941年6月に勃発した独ソ戦であった。ソ連軍将兵の大半を占めていたロシア人の愛国心に訴え、戦意の 昂揚を図る必要を感じたスターリンは、それまでの教会政策を一変させた。1943年9月4日、スターリンはセルギー府主教をはじめとして3名のロシア正教 会首脳をクレムリンに招き、政教和解の方針を明らかにした。そしてスターリンは『戦闘的無神論者同盟』を解散し、ロシア正教会に総主教制の復活を認めるな ど、多大な譲歩を行ったのであった。こうしてセルギー府主教がロシア正教会第12代総主教に就任するのである。

スターリンの宥和政策は、存亡の危機に瀕していたロシア正教会に再生のチャンスを与えた。ロシア革命以来、ロシア正教会に分裂をもたらしていた『生 ける教会』も総主教教会に統合され、事実上解散した。また聖職者を養成する神学校や神学大学が再開され、教会の機関誌『モスクワ総主教庁ジャーナル (Zhurnal Moskovskoi Patriarkhii)』も再刊されることとなった。

しかしながら、スターリンの政策転換がすべてロシア正教会に有利に働いたわけでないことは論を俟たない。新たに設置された宗教団体を監督する国家機 関の手で宥和政策が実施されただけでなく、ロシア正教会自体がスターリンの宗教政策の一翼を担うことを求められたからである。スターリン政府にとって、可 能な限りさまざまな宗派をロシア正教会に統合し、新しい“シノド制”の下で一括して管理することが好都合であったことは 想像に難くない。1946年3月8日〜9日、西ウクライナのリヴォフで開催され、『ウニア教会(ギリシア・カトリック教会)Uniatskaia Tserkovユ)』のロシア正教会への併合を決定した『リヴォフ教会会議(Lユvovskii tserkovnyi sobor)』*18も、そうしたスターリ ン政府の意図の現れであった。*19

こうして「政教和解」政策の名において、ロシア正教会は再び国家の支配下に置かれることになる。1944年5月15日、セルギー総主教が永眠する と、翌1945年1月31日〜2月2日にロシア正教会は、20世紀に入って二度目の「地方公会」を開催し、第12代総主教アレクシー1世 (Patriarkh Aleksii I, 1877〜<1945>1970)を選出した。この公会はまた、全4章、48条から成る『ロシア正教会宗務規則(Polozhenie ob upravlenii Russkoi Pravoslavnoi Tserkovユiu)』を決定した。この規則では、宗教団体の登録について「20人制」が明記され(第39条)、公会および高位聖職者である主教による 会議も、ソヴィエト政府とロシア正教会問題評議会の許可を得て開催されることが定められている(第7条および第11条)。要するにそれは、ソヴィエト国家 の宗教団体規制法に対応するものとなっていたのである。*20こ の公会に出席したソヴィエト時代の宗教大臣、ロシア正教会問題評議会議長ゲオルギー・カルポフは、ソヴィエト体制下の国家=教会関係について次のように述 べている。

わが人民に自由を与えた大10月社会主義革命は、ロシア正教会の内的活動を妨げ、抑制していた束縛から教会をも解放した。1918年1月25日の布 告が宣言した良心の自由は、わが国の基本法、すなわちソヴィエト憲法によって保障された。政府の決定によって設置されたソ連邦人民委員会議付属ロシア正教 会問題評議会は、政府決定を必要とする問題についての政府とモスクワおよび全ルーシの総主教との結びつきを保持している。教会の内的活動には決して干渉し ないが、しかし、評議会は教会と、ロシア正教会に関する法律と指令の公正かつ迅速な履行を監督する国家との間の関係の一層の正常化に貢献している。*21

ロシア正教会はこれまでと異なる環境に置かれた。迫害の対象であったロシア正教会は、ソヴィエト国家に協力する教会に変貌したからである。

しかし、フルシチョフ政権が登場すると、ロシア正教会は再び激しい弾圧にさらされるようになる。非スターリン化政策がもたらしたイデオロギー危機の 克服を模索する中で、フルシチョフは直接的な宗教攻撃を再開した。フルシチョフ政権下で、ロシア正教会は強制的閉鎖や破壊によって半分に当たる約一万の教 会を失ったといわれている。*22

だがそれにもかかわらず、ロシア正教会は自らの存続を図るためにソヴィエト国家と協力する姿勢を変えなかった。とりわけフルシチョフ期の攻撃的な反 宗教政策を転換したブレジネフ政権下において、その傾向は一層顕著となった。

1975年、宗教問題評議会はソ連邦共産党中央委員会に対してロシア正教会の高位聖職者の政治的傾向に関するの『秘密報告書』を提出した。この報告 書は、当時のソヴィエト国家が教会指導者に何を期待し、どのような評価を与えていたかにとどまらず、両者の関係をよく表現しているように思われる。秘密報 告書において、ロシア正教会高位聖職者−−総主教、府主教、大主教、主教−−は、そのイデオロギー傾向や国家に対する態度に関して三つのカテゴリーに分類 されている。

カテゴリー(1): 社会主義社会に対する忠誠心だけでなく、愛国心を言行において表し、宗教法を厳格に遵守し、同様の精神において教区司祭と信徒を教育 し、わが国が社会における宗教と教会の役割を明言することに関心をもたないことを現実的に理解し、このことを認めた上で、住民の間に正教の影響を拡大する ための特別な活動をしたりしない高位聖職者。
カテゴリー(2): 国家への忠誠心を保持し、宗教法に対して正しい態度をもち、これを遵守するが、しかしその日常の業務およびイデオロギー活動において 聖職者や教会の活動的なメンバーを活発化しようと努力し、現代的あるいは伝統的な観念、見解そして活動を援用して個人、家族ならびに公共の生活における教 会の役割を高めることを支持し、敬虔な正教信仰を熱心に抱いている若者を聖職者に選抜しようとする高位聖職者。
カテゴリー(3): しばしば宗教法を免れようとする高位聖職者であって、彼らの中のある者は宗教的な保守派であり、他の者は官憲が彼らのために定めたそ の管区における立場や態度を誤魔化そうとする者である。あるいは、宗教問題評議会の高官たちを買収し、彼らや地方当局の職員たちを中傷する行為も観察され る高位聖職者。

当時の総主教ピーメン(第13代総主教、Patriarkh Pimen, 1910〜<1971>1990)も現総主教アレクシー2世(当時タリンの府主教)も、カテゴリー(1)に分類されている事実は注目に値す る。その信憑性はともかくとして、ソヴィエト国家の行政機関である宗教問題評議会から彼らはこのような評価を与えられていたのである。*23

ロシア正教会の国家に対する関係が大幅に改善されたのは、ゴルバチョフ政権下であった。1988年4月29日、ソ連邦共産党書記長ゴルバチョフは ピーメン総主教を初めとして教会首脳をクレムリンに招き、ソヴィエト体制下で実施された教会弾圧を謝罪するとともに、改めて「政教和解」を申し入れた。こ の会見は、その後のソ連邦の崩壊という事実と考え合わせる時、極めて重要な意義をもつものであったといわなければならない。というのも、この会見は「真理 の独占体制」としてのソヴィエト体制の終焉を予告する機会となったからである。ゴルバチョフは、ロシアへのキリスト教導入の意義を高く評価し、続けてこう 述べる。

宗教団体も個人崇拝の時期の悲劇的諸事件に巻き込まれた。この時期に対しては、現在は復権されている社会主義的諸原則から の逸脱として一義的な評価が与えられている。30年代とその後の時代に教会と信徒に対して犯された誤りは是正されつつある。……あの苦難に満ちた時代の聖 職者たちの愛国的な呼び掛け、国防基金への大衆的な募金運動は、今なお記憶に残っている。……人道主義、諸民族間の公正な関係を目指し、ソヴィエト国家の 内外政策を支持する聖職者の活動は……高い評価に値する。……われわれは双方の世界観の相違の深さのすべてを知っているが、しかし同時に現存の状況を現実 的に考慮に入れている。信徒たち、これはソ連の人々、勤労者、愛国者であり、彼らは自分の信念をしかるべく表明する完全な権利をもっている。……われわれ には共通の歴史、一つの祖国、一つの将来がある。*24

さらに同年6月5日からモスクワを中心に開催された「ロシア正教受洗千年祭」で、ロシア正教会は目覚ましい復権振りを内外に示すことになる。すでに 触れたように、千年祭に際して開かれた地方公会は新たに『宗務規則(Ustav ob upravlenii Russkoi Pravoslavnoi Tserkvi)』を採択した。*25それは全15章273条から成り、1990年秋に施行され ることになる『良心の自由と宗教団体に関する法律』を先取りするかのように、信教の自由の原則に基づいて作成されていた。そこには教会に対する国家の干渉 を予想させるような規定はまったく見出されない。この時点で、ロシア正教会は自らの復活に揺るぎない自信をもち、独立と自律性の獲得を謳歌していたのであ る。

しかしながら、ロシア正教会のその後の歩みは、彼らが期待したようなものではなかった。なるほどソヴィエト共産主義体制の崩壊によって、ロシア正教 会は迫害を受けることはなくなったし、社会におけるその威信をも回復したとはいえ、ロシアを直撃した自由化と高揚するナショナリズム波は、皮肉にもロシア 正教会を深刻な危機に陥れることとなった。自由化や民主化が内外からの宗教的挑戦を招いただけでなく、ソヴィエト「帝国」の瓦解は、宿命的に「帝国」教会 としての性格を色濃く帯びたロシア正教会の分裂と解体を助長したからである。

存立の危機に直面したロシア正教会は、こうして“カエサル”の世界に介入し、他方で翻弄されるようになる。ロシア正教会を襲った一連の危機は、ロシ ア的文脈における自由の“背理”を見事に証明して見せているだけではない。それらはまた、ロシア史を貫いている政治の“宗教化”は宗教の“政治化”とい う、あの構図を再び映し出してもいるのである。総主教アレクシー2世下のロシア正教会は公式には“政治的中立”の立場を表明しているとはいえ、現実にはロ シア政治に対して有形無形の圧力を加え、無視することのできない影響を及ぼしている。今日のロシア正教会は、総主教自身の意図や主観にかかわらず、排外主 義的な大ロシア・ナショナリズム勢力の一大拠点といった様相をさえ呈している。

実際、今日のロシア正教会は「準国教(Polugosudarstvennaia religiia)」の地位を占めているといっても過言ではない。アレクシー2世は最近の雑誌インタビューで、「教会」と「国家」との関係について言及 し、それぞれ固有の課題を遂行する上での自由は尊重されなければならないとしながら、「宗教的伝統が国民的自覚の基礎の一つ」をなすロシアにあっては、両 者は「相互に協力し合わなければならないと指摘し、こう述べている。

ロシアに居住する人々(rossiiane)の大多数が……正教を信仰しているとすれば、国家は青少年の教育について、社 会道徳を擁護することについて、精神文化とその記念物の再興について配慮を示さなければならない。要するに、教会と国家とのこうした相互関係が、全ロシア 国民の第一義的な課題であるロシアの精神的再生を可能にするのだ。*26

こうしたロシア正教会の国家観からすれば、ソ連邦の解体にともなうウクライナとベラルーシの分離独立は、断じて容認できない事態であった。なぜな ら、この事態はロシア正教会が守護すべき国家の解体を、引いては統一的なロシア正教世界の喪失を意味したからである。ロシア正教会にとって、ロシア、ウク ライナそしてベラルーシというスラブ三国の国家的、宗教的再統一は、一日も早く実現すべき課題なのである。

1996年4月2日、エリツィン・ロシア連邦大統領とベラルーシのルカシェンコ大統領はモスクワで、両国による「主権共和国共同体」の結成に関する 条約に調印し、事実上の再統合を確認し合った。クレムリンでの調印式に列席し、二人の大統領を両横において中央に立ったアレクシー総主教はこの再統合を熱 烈に歓迎して、次のように述べた。

私は深い感動を覚えて、ロシア(Rusユ)の多くの偉大な指導者や聖者の名前と結びついたこの場所に立っている。われわれ の眼前で、歴史そのものが“もとのさやに”に戻りつつあるのだ。同じ血を分けたウクライナ民族とともにキエフの一つの洗礼盤で洗礼を受け、何世紀にもわ たってともに生き、恐ろしい危機を克服してきた二つの兄弟民族が、一時の悲しむべき分離の後に、統一に向けて新たな第一歩を踏み出したのだ。*27

総主教のこうした言葉から伺えるのは、ロシア正教会がロシア国家の精神的、道徳的基礎であるという揺るぎない自信である。ロシア正教会はすでに触れ たように事実上の「国教会」としての地位を獲得し、「国民生活を全領域にわたって成聖する」国家の守護者をもって自ら任じているのである。

だが、こと“政治”についてはいささか趣を異にしている。その政治観は極めて慎重であり、また巧妙でさえある。アレクシー2世下のロシア正教会は、 政治的に“中立”の立場に立つことを公式に明らかにしているばかりか、聖職者の身分で僧侶が現実政治に直接関わり、職業政治家として政治活動を行うことを 禁止している。実際、ロシア正教会は政治に対して一定の距離を保ち、その対立や党派に巻き込まれることを極力回避しようとしているように見える。というの は、総主教自身が述べているように、「教会があれこれの政治勢力と“政治的婚姻”を結ぶ時、次の時代には“寡婦”になってしまうであろう」からである。*28

1993年11月、聖宗務院会議は議会選挙に立候補する意向を示したグレプ・ヤクーニン神父に対して、「教会法」違反のかどで聖職を剥奪することを 決定した。この決定に異議を唱えたヤクーニンの公開質問状に対して、アレクシー2世は「教会法上職業としての政治活動に従事することは許されない」こと、 ヤクーニンが「いかなる形であれ、ロシア正教会を代表していないこと」、そしてヤクーニンの政界進出の真の狙いが「教会ノメンクラトゥーラ」と彼が呼ぶ教 会指導部に挑戦し、「ロシア正教会を、引いてはわれわれの社会を分裂させること」にあることを挙げて、聖職剥奪の理由としている。*29

しかしヤクーニンの再反論にも指摘されているように、アレクシー2世の回答は必ずしも説得的ではない。祭服を着て、胸に十字架を掛けて国会に登場す ることが、いかなる意味において教会法に違反するのか、アレクシー総主教は明確な説明を与えていない。結局、グレプ・ヤクーニンはその“反教権主義”と民 主改革派的言動のゆえに、そしてロシア正教会指導部の方針に反対していると看做されているがゆえに、司祭職を解任されたと解釈すべきであろう。その意味 で、聖宗務院会議の決定は“政治的な”判断に立ったものであったといわなければならない。アレクシー2世は、聖職者の責務について「司祭はすべての人々− −ロシア人、グルジア人、ウクライナ人、共産主義者、君主論者、自由主義者、政治家、軍人、芸術家……−−の精神的な師父でなければならない」と述べてい る。*30しか し、彼自身をも含めて、ロシア正教会聖職者が議会に議席をもたないとはいえ、聖職者の身分で政治の舞台に登場し、しばしば党派的、あるいは政治的な活動を 行っていることも否定できない事実なのである。

ロシア正教会が“政治”に対して露骨な介入を行ったのは、後述するように、宗教法の改正に関してである。ゴルバチョフ政権が推し進めた宗教信仰の自 由化は、宗教界に混乱を招来し、とりわけロシアの精神的支柱をもって任じる正教会に深刻な危機感を呼び起こした。ロシア正教会にとって、“無原則な”自由 化はそれが担う地位と威信を脅かすだけでなく、ロシア社会の対立や混乱を助長するものと映じたからである。こうして、アレクシー2世を初め教会首脳は、 「非ロシア的、非伝統的な」宗教を排除する新宗教法の制定をエリツィン政権に強く迫ったのである。*31

ロシア正教会はまた、さまざまな機会を利用してその政治的影響力を行使している。たとえば、アレクシー総主教が総裁を務める「全世界ロシア国民会議 (Vsemirnyi Russkii Narodnyi Sobor)」は1995年12月、ロシア正教会総主教庁が置かれたダニーロフ大修道院で第三回大会を開催した。ロシア人の大同団結とロシアの精神的再生 を訴えるこの会議は、明らかに大ロシア主義的な、そして政治的な性格を濃厚に帯びている。閉会に当たって出席者の一人コヴァレフ教授が述べた言葉は、会議 の基調がどのようなものであったかを端的に伝えている。ロシアの運命をキリストのそれになぞらえて彼はいう。

ロシアの運命は、驚くほどキリストの運命を彷彿とさせる。彼と同じようにロシアは裏切られ、売り渡された。キリストと同じ ようにロシアは十字架で磔となった。キリストと同じようにロシアは復活する。*32

アレクシー2世はまた、正教ナショナリズム団体『正教友愛同盟(Soiuz Pravoslavnykh Brattsykh)』議長の地位にもある。

1996年のロシア大統領選挙に際して、決戦投票前夜の6月27日、総主教は『民族愛国主義ブロック(Narodno- Patrioticheskii Blok)』の大統領候補ゲンナージィ・ジュガーノフと会見し、「市民の安寧の保障」、「社会的調和」、そして「社会におけるロシア正教会の役割の重要 性」について認識の一致を確認するとともに、明らかに同ブロックに共感を示したのであった。ジュガーノフはロシア正教会に格別の配慮を示しながら、8項目 にわたる「宣言」を行っている。すなわち、「民族の精神的、道徳的堕落を防止するために全力を尽くし……あわせて全体主義的なセクトや異質な“価値”を唱 道する者の活動を規制する」こと、「ロシア正教会内の問題に対する一切の干渉に反対する。……伝統的な精神的、道徳的価値の最重要な源泉(である)正教会 の……祖国再生と……社会建設プロセスへの広汎な参加を支持し、……伝統的価値を支柱とする統一的な国家の樹立を」目指すこと、「破壊された正教会聖器物 を回復する政策をより積極的、かつ重点的に実施する」こと、「分裂した祖国と民族の再統一、偉大なロシア国家の再建を支持し、……いわゆる民族自治独立教 会への分裂に反対するロシア正教会の戦いを無条件的に支援する」ことがそれである。*33

混迷の度合いを深める今日のロシアにあっては、総主教だけでなく、多くの高位聖職者があるいはジャーナリズムに、あるいは政治的な集会にしばしば登 場し、その政治的影響力を行使している。実際、教会の意向や聖職者の言葉が、ときに政党の政治宣伝や煽動よりも大きな影響力をもつことが見逃されてはなら ない。国家から個人にいたるあらゆるレヴェルで“アイデンティティ”喪失の危機に戦くロシアの現実を、ここにも見出すことができよう。だからこそ、教会と 聖職者の影響力はロシア社会の隅々にまで浸透し、「成聖式を行わずに新店舗を開業する銀行は稀であり、マスメディアも教会儀礼を好意以上の態度で取り扱っ ている」のである。*34

ロシア正教会の本質が、「超政治的、超歴史的」な宗教団体であるという点にあることは論を俟たない。そしてこの「超政治的、超歴史的」性格を護り抜 くことが、チーホン総主教の基本方針であった。今日のロシア正教会も議会に議席をもっていないし、自己の利益を代弁する党派を送り込んでもいない。その限 りにおいて、ロシア正教会は“非”政治的である。しかしロシア正教会は、自らの“非政治性”を標榜しながら、これまでロシアの政治的、社会的現実に対して 大きな権威と発言力を保持し続けてきたし、現在も保持しようとしているというのが実情なのである。

総主教アレクシー2世下のロシア正教会は「国教会」としての地位を固め、自らの権威を誇示しながら、現実政治の力学から一定の距離を保ち、政治その ものには直接関わらないという原則を護ることによって、却ってその政治的影響力を強化し、それを有効に行使しようとしているのである。

3.20世紀ロシアにおける信教の自由

ロシア史において「信教の自由」の原則が確立するのは、20世紀に入ってからのことである。すでに触れたように、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世 は、1905年の革命後、『信教の自由に関する勅令』を発して、ロシア正教以外の宗教信仰の自由を認めた。しかしそれにもかかわらず、ロシア正教会を初め としてすべての宗教は依然として国家の統制下に置かれていた。ソヴィエト体制下にあっては国家の宗教支配はより厳格に、より徹底的なものとなった。そこで は宗教信仰の自由はまったく認められなかったし、宗教団体はその登録と慈善活動を含む社会活動の面でとくに厳しく規制された。

こうした意味で、ロシアにおける信教の自由は、ゴルバチョフ政権下の1990年10月1日に発効した『良心の自由と宗教団体に関する法律』に始まる といえるでろう。ロシア革命以来70有余年にわたって“反宗教”を国是としてきたソヴィエト体制下で成立を見たこの法律は、ゴルバチョフ政権下で基本的に はすでに認められていた信教の自由を法的に確認し、成文化したものであり、何よりも先ず第一に宗教信仰の自由の保障を強調していたという点で画期的な法律 であった。

宗教法の改正はペレストロイカ政策の懸案の一つとして、それまでソ連のジャーナリズムなどでもしばしば取り挙げられ、さまざまな論議を呼んでいた。 焦点となったのは、悪名高い宗教団体に関する『1929年法』と同年の『内務人民委員部指令』に定められた、宗教団体の「行政機関」への登録義務−−いわ ゆる20人制−−と、慈善活動や伝道活動を含む社会活動の禁止に関する条項が、どのように取り扱われるかであった。当時の宗教問題評議会議長コンスタンチ ン・ハルチェフは、グラースノスチ政策擁護の急先鋒であった『アガニョーク』誌のインタビューに応じ、登録制を含めた抜本的な改正を示唆した。*35

全6章31条から成る新宗教法では、宗教団体の登録は「18歳に達した10名以上の人間が……その地域の人民代議員ソヴィエト地区(都市)執行委員 会に宗務規則を届け出る」と定められた(第14条)。また教会の社会活動の自由という問題は、1988年のロシア正教会公会でも最大の関心事であった。そ してこの公会で決定された宗務規則も、宗教法の改正を先取りするように、社会活動の拡大と充実を謳っていた。新宗教法は、「宗教儀礼と儀式」(第21条) だけでなく、「慈善活動、研究活動、宗教書の配布、およびその他の文化教育活動」を行う権利を保障している(第23条)。*36

ソ連邦最高会議法務委員会の一員として宗教法の策定に関わった総主教アレクシー2世は、教会が担うべき社会活動に言及して次のように述べている。

われわれの手足は1929年の宗教団体に関する法律によって拘束されていた。これは各教会に慈善活動や児童教育を禁止する 法律であった。……現在、グラスノスチの時代を迎えて、数百万の不幸な人々や病人が具体的な援助を必要としていることが明らかとなっている。残念ながら、 長い年月の間に人々は善行を積むという習慣を失ってしまった。したがって、私はロシア正教会に大きな教育的任務を見出している。……善行を積み、善を生み 出すことを人々に教育する必要がある。各教会には、教会に本来的で伝統的な活動分野が返還されなければならない。古来、各寺院には養老院、授産所、禁酒 会、孤児院が併設されていた。こういったものすべてが復活されなければならない。*37

弱者の救済や伝道活動が教会にとって本質的な意味を有していることは論を俟たない。信教の自由化とその法的承認は、ロシア正教会の活動範囲を拡げ、 それが社会に占める位置と役割を高めるはずであった。

しかしながら、宗教抑圧の軛から解き放たれ、自由を保障されて復活を果たしたロシア正教会は、他方で予期されなかった困難に逢着することとなる。信 教の自由化は、当然のことながら、正教会以外のキリスト教諸宗派やその他の諸宗教にロシアで布教活動を行う機会を与えた。ロシア正教会は突如として、宗教 的「多元主義」の社会にあってさまざまな宗教や宗派と市民の“霊魂”をめぐって競合するという現実に直面したのである。そして、こうした現実こそがロシア 正教会の危機感を深め、1990年の『良心の自由と宗教団体に関する法律』の改正の必要性を強く意識させることとなった。

だが、ロシア正教会を中心とする宗教界に混乱を惹起したのはこれだけではない。ソ連邦解体が招いたロシア人のアイデンティティ喪失の危機、深刻の度 合いを増す政治的、経済的混迷も指摘されなければならない。その結果、オウム真理教など、ロシアの伝統に馴染まない宗教や宗派がロシア社会を席巻したので ある。

こうして、とりわけ外国系の宗教の規制を求める声が、事実上の国教会を自任するロシア正教会周辺から挙がった。ロシア正教会はソヴィエト体制下で苛 烈な宗教弾圧にさらされてきたとはいえ、逆説的に、国家の厳しい統制の下に置かれていたというまさにその理由から、欧米のキリスト教諸宗派やその他の宗教 の挑戦に直面することはほとんどなかった。敢えて誤解を恐れずにいえば、ロシア正教会は“反宗教国家”にあって保護と特権を享受する立場にあったのであ る。しかし、一度信仰の信仰の自由の原則が確立されてみると、ロシア正教会は、ロシアの地に進出する外国の諸宗教や諸宗派と対抗して自らの地位と役割を確 保していくことを余儀なくされたのである。

宗教信仰の自由化とともに、とくに欧米のプロテスタント諸宗派が活発な活動を開始した。すでにソヴィエト時代、ビリー・グラハムのような伝道師がロ シアを訪れて説教を行ったし、福音派、メノナイト派、メソジスト派、あるいはルーテル派など、プロテスタント諸宗派がロシアで活動してはいた。しかも、ソ ヴィエト体制下ではこれらの宗派はロシア正教会と協力して宗教信仰のために戦い、聖典の印刷を禁止されていたロシアで聖書を精力的に配布した、いわばキリ スト教信仰の“同士”であった。だがその後、事態は大きく変化した。今ではロシア正教会はその“勢力圏”を維持することに全精力を集中せざるを状態にあ り、これらの宗派は“歓迎されざる賓客”以外の何ものでもない。ロシア正教会は、ソヴィエト時代と打って変わってエキュメニカル(世界教会一致運動)にも 冷淡な態度を示すようになったのである。*38

こうしてロシア正教会は、外国からの宗教活動家や宣教師の入国ヴィザ発行を制限するよう政府を圧力をかけ始めた。1993年6月、ロシア議会は 1990年の宗教法の改正案を承認した。この改正法案は、ロシア正教会の意向を色濃く反映し、「非ロシア的、非伝統的な」宗教や宗派の登録と活動を厳しく 規制しようとするものであった。当時のロシア議会の『良心の自由に関する委員会』委員長を務めたロシア正教会司祭ヴャチェスラフ・ポロシンは、総主教が直 接エリツィン大統領に“最後通牒”を突きつけ、議会を通過した外国の宗教団体の活動を制限する新しい宗教法に署名するか、それとも「ロシア正教会を反エリ ツィン派の側に追いやるか」の選択を迫ったと指摘している。*39しかし、欧米からの強硬な抗議もあってエリツィンは署名を 断念した。新宗教法案は廃案となり、改正作業は振り出しに戻った。

1996年7月、ロシア国家会議『社会組織および宗教団体問題委員会』は、新たな宗教法改正草案の作成作業を終了した。*40これに対して、ロシア 正教会渉外局長キリール府主教は直ちに9点にわたって草案の修正を申し入れている。宗教法の改正にとどまらず、それに対するロシア正教会の対応も今後注目 されるところである。

今回作成された新宗教法草案は全4章26条から成っており、2年後の1999年1月1日の施行を予定している。草案の基調は信教の自由の保障を基本 原則とし、外国の宗教の排除をとくに意図していないという点で、1993年の修正案と比較してより穏健であり、民主的であるように思われる。

だが、宗教団体と国家との関係をはじめ、注目すべき規定がいくつかある。第4条は「ロシア連邦は世俗国家である」と規定し、国家宗教の存在を否定す るとともに、宗教団体が政治運動、あるいは政党活動にかかわることを一切否定している。宗教団体の登録規定は、草案が単に「設立者が10名以上の信徒を連 邦裁判所に登録する」(第9条)としているのに対して、キリール府主教が「ロシアに定まった住所を有する」との文言を加えるよう要求しているのは注目に値 する。これは、明らかに外国の宗教団体の登録を想定した加筆の要求であろう。「登録の拒否」を規定する第10条は、宗教団体の目的、活動、宗務規則の内容 如何で登録拒否があり得るとしている。

また「外国の宗教団体」に関しては、現地本部を設置する権利を認めている一方、ロシア連邦が定める登録手続きを遵守し、宗務規則などを提出すること を義務づけている(第11条)。キリール府主教はさらに、外国の宗教団体には「自主独立の活動」を禁止する条項を追加するように主張している。第24条で は、宗教法の遵守について「検察機関」が監視を行い、宗教団体の宗務規則の履行については、「宗教団体を監督する行政機関」が監督に当たることも定められ ている。

今後、ロシア正教会はさらに大幅な修正を求めていくだろう。「宗教法改正草案は宗教の本質を理解しない素人の作文である」と、ある正教会関係者は筆 者に語った。*41国 内で占める「事実上の国教会」としての地位に揺るぎない自信をもっているとはいえ、ロシア正教会が「聖なるロシア」の地から「非ロシア的、非伝統的な」宗 教を締め出す宗教法の制定を強く願っていることは疑いのないところである。

政治や経済の動向と並んで、「良心の自由」という人間社会にとって最も本質的な問題にかかわる宗教法の改正がどのように決着するであろうか。それ は、ロシアの民主化や自由化の成熟度を推し量り、ひいては混迷するロシアの将来を占う指標の一つでもある。

むすび----総主教アレクシー2世下のロシア正教会

 

アレクシー2世総主教下のロシア正教会は、外見上は着実な再建の途を歩んでいるように見える。しかし他方で、混迷の度合い増すエリツィン・ロシアの 政治や経済と同様、ロシア正教会はさまざまな矛盾や困難を抱え、希望と落胆の間を彷徨しているというのが実情である。

かつて1988年、ゴルバチョフのペレストロイカ政策の下でキリスト教受洗千年祭を盛大に祝った頃、ロシア正教会が目覚ましい復活振りを示したこと は紛れもない事実であった。その後、ソヴィエト体制が崩壊し、マルクス・レーニン主義イデオロギーの権威が完全に失墜したと思われた時、新生ロシアの精神 的、道徳的支柱としての正教会への期待がいやが上にも高まった。それまで宗教に関心をもたなかった若い世代が教会に足を運び、争って洗礼を受けた。人々が 長い行列をつくり、司祭が休む暇もなく洗礼の“機密”を施すといった光景がいたるところで見受けられたものである。当時は、「宗教的ルネッサンス」につい て語られるのが常であった。そして今日のロシアにあっても、正教会が最大の宗教勢力であることに変わりはない。そしてまた依然として、正教会の政治的、社 会的影響力は強大であり、社会から寄せられる期待が大きいことも疑いのないところである。*42

しかしながら、正教会に対するロシア社会の熱烈な期待は次第に冷めつつあるといっても過言ではないであろう。なるほど、大伽藍の修復や再建が各地で 行われているし、活動している教区の数も飛躍的に増大している。たとえば、1996年度だけでサンクト・ペテルブルク市内の聖堂数は倍増し、150に達し た。*43また壮 大な「救世主ハリストス大聖堂」の再建も、モスクワ建都850周年に合わせて急ピッチで進んでいる。だが、ロシア正教会はソヴィエト時代の「負の遺産」を 精算することも、また自らの保守的な体質を克服することもできなかった。ソヴィエト体制と教会との、とりわけ秘密警察と高位聖職者との不透明な関わりが白 日の下にさらされ、あるいはその反民主主義的な体質が批判の俎上に載せられることとなった。要するに、正教会は共産主義体制崩壊後のロシア社会で果たすべ き役割を演じることができないでいるのである。

ロシア正教会が抱える矛盾の一つとして、教会内外に間断なく生起する諸問題を解決する方法も、また解決のための裁定規準をも欠いているという事実が 指摘されよう。“正統性”を何よりも高く掲げる正教会が、実はその正統性を保障すべき裁定手続きを定めていない。すでに述べたように、1988年の千年祭 に際して開かれた地方公会は、チーホンが主宰した1917〜18年公会で採択された宗務規則の精神に則って新しい『宗務規則』を制定した。しかしながら、 これらの『宗務規則』は今日ではほとんど無視されている。たとえば、1988年の『宗務規則』で「付則として……作成されなければならない」とされた「教 会裁判手続き」は、今日にいたっても定められていない。教会法と諸規則に基づいて裁定する手続きが定められていない事実が、ロシア正教会の管理運営が必ず しも合法性に基づいて行われているのではないということを物語っている。*44

その結果、主教(Episkop)、大主教(Arkhiepiskop)、あるいは府主教(Mitropolit)といった高位聖職者がまるで専制 君主のように自己の管区を支配するか、さもなければ教区司祭に自由裁量権を与えて管区を無秩序に陥れるかのいずれかということになる。さらにこうした問題 は、ソヴィエト体制崩壊後に頻発したロシア正教会の分裂という事態をますます深刻、かつ複雑にしている要因でもある。

1992年4月、ロシア正教会主教会議は「キエフおよびガリツィヤの府主教」フィラレートの反道徳的行為、司祭に対する不当な扱い、そしてKGBと の関係をめぐる醜聞を査問し、彼の聖職を剥奪した。しかし、フィラレートはキエフに戻ると、モスクワで誓った引退の約束を反故にし、モスクワ総主教教会に 反旗を翻していたウクライナ自治独立教会に加わった。フィラレートの解任をめぐる一連の出来事は、厳正な“法”に基づく教会裁判制度を欠いた教会にあって は教会秩序の維持がいかに困難であるかを示している。*45

さらに最近、ロシア正教会の分裂は「エストニア使徒正教会」の離反という事態にまで発展した。これは、もとよりソ連邦崩壊後のエストニアの独立とい う事態と無関係ではない。しかし、この問題の深刻さは、単にエストニア正教会の民族教会化にとどまらず、分裂がアレクシー2世総主教下のロシア正教会を根 幹から揺さぶりかねないという点にある。何よりも先ず第一に、アレクシー2世はエストニアのタリン生まれであり、かつてエストニア正教会を管轄する聖職者 であった。しかも、こうしたエストニア正教会の「自治独立権(avtokefaliia)」の獲得という事態の背後には、正教世界を代表するコンスタンチ ノープル(イスタンブール)の「世界総主教(Ecumenical Patriarch)」バルソロメオス1世の意向が働いているといわれていた。果たせるかなコンスタンチノープル総主教は、直ちにエストニア正教会の「独 立」を承認した。これに対してアレクシー2世は1996年2月23日、公式にコンスタンチノープル総主教を非難し、ロシア正教会の公祈祷で彼のために祈り を捧げることを中止した。両教会は、ロシアが10世紀にビザンチン帝国から正教キリスト教を受け容れて以来初めて断絶したのである。ロシア正教会のこうし た激しい反応は、エストニア正教会の離反がいかに深刻な問題であるかを物語っている。というのも、この事件によって、正教世界におけるギリシア系教会とロ シア正教会との間の主導権争いが顕在化しただけでなく、ロシア正教会の分裂と解体の危機が未だ終息していない事実が明らかになったからである。*46

アレクシー2世の指導力については、これまでも疑問が呈されていた。エストニア正教会の分離独立は、彼の威信低下につながる可能性を否定することが できない。アレクシー2世はロシア正教会内の対立を可能な限り抑制し、教会の分裂を最小限に食い止めるように努めてきた。しかし、今回の事態は彼の努力に も限界があることを示している。今後ロシア正教会再生の途を模索する上で、総主教アレクシー2世に許された選択肢は、ますます狭く、かつ限られたものにな ると思われる。

今日のロシア正教会は余りにも多くの、そして困難な課題を抱えている。それは混迷するロシアの現状を映し出す鏡さながら、行方も定かならぬ漂流を続 けているようにさえ見えるのである。


SRC Winter Symposium Socio-Cultural Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World ( English / Japanese )

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