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研究員の仕事の前線

2014年6月9日

スラブ・ユーラシアの今を読む:ウクライナ情勢特集6

ウクライナ ―国民形成なき国民国家

伊東 孝之

 

1.はじめに

 

ウクライナ危機が起きてから奇妙な現象にぶつかることがある。これが国民国家だろうかと思われるような現象である。

 

2014年2月末にロシアがクリミアを占領しはじめたとき、現地駐留のウクライナ兵は少しも抵抗しなかった。抵抗しても無駄であることが判っていたので、上からそのような指令があったのだろう。しかし、それだけでは説明がつかないこともあった。というのは、多くの兵士がロシア側に寝返ったからである。つい最近任命されたばかりの海軍司令官も寝返った1

 

冷戦後のヨーロッパでは戦争が起きないし、たとえ起きたとしてもNATOやOSCEのような国際組織がそれを阻止してくれる、財政難のおり戦力は最小限でよい、とウクライナ政府は信じていたふしがある。しかし、ウクライナ自身が国境を守らないとすれば、誰が守ってくれるだろうか。『ニューヨークタイムズ』紙のライター、M・コーフマンは、「ウクライナにはソ連が引いた国境線のために、あるいはキエフの暫定政府のために命を賭けることに関心があるような人はほとんどいない。もし西側がウクライナのために戦わないなら、そしてウクライナ人自身がウクライナのために戦わないなら、結果は前もって決まったようなものだ」と書いた2。そのしばらくのちに、チェコ国防相ストロプニツキーも、「ウクライナ自身が何もしないのに、どのように世界は助けるべきだろうか。われわれはすべての紛争を和解させることができない。とくに安全保障問題を抱えている国自身が受動的に振る舞っているときはそうだ」と語った3。おそらくこれは国際世論を代表した立場だろう。

 

もう一つの例を挙げれば、4月初めに東部のドネツィク州とルハンシク州で親露派分離主義者が州庁舎、州議会、警察署、公安局などを占拠して武装反乱を起こしはじめた。これを平定するために政府は「反テロ作戦」を開始したが、そのために派遣された部隊が途中で任務を放棄し、ロシア国旗を掲げて親露派側に寝返ったのである。6台もの装甲車が親露派側の手に落ちた4。このころには公安局(SBU)のエリート部隊であるアルファでさえも出動命令を拒否する例が目立った。

 

外国に侵入された、あるいは外国に唆されて分離主義運動が起きた、としても、このような事態はおそらく日本では起きないし、イギリス、フランス、ドイツでも起きないだろう。隣国のポーランドでも今日では起きないだろう。ウクライナは国家の性質においてこれら諸国と異なっているのではないか。またそれはおそらく旧ソ連諸国に多かれ少なかれ共通しているのではないか。このような仮定をもって以下の考察を進めたい。

 

ロシア側はこのような事態を見込んで対ウクライナ政策を立てていたふしがある。2008年4月にブカレストで開かれたNATO首脳会談でロシアのプーチン大統領は、米国のブッシュ大統領に対して、「ウクライナは本当の国家ではない」と述べ、その独立国家としての地位は不自然だし、臨時的だということを示唆した5。同席していたポーランド外相シコルスキ(Radosław Sikorski)は、プーチンの言葉を次のように聞いた。「ウクライナは他の国々から少しずつ領土をとって繋ぎあわせた人工的な国家だ6。」これがけっしてプーチンの片言隻句を誤って解釈したものでなかったことは、やがてプーチン自身が公開の席で述べることから明らかとなる。

 

2014年4月17日の国民との直結対話でプーチン大統領は、ウクライナとウクライナ人について、次のように語っている。「今日民族主義が花咲いている、いやネオナチズムさえ再生しているのは西部です。これらの地方、これらの人々の歴史的過去についてはよくご存じでしょう。今日の領土は部分的にチェコスロバキアにありました。部分的にハンガリーにありました。部分的にオーストリア、あるいはオーストリア=ハンガリーにありました。部分的にポーランドにありました。人々はけっしてどこでも、いつでもこれら諸国の十全な意味での市民であったとはいえません。いつも人々の心の中で熟してくるなにものかがあったのです。」プーチンは同じことが帝政ロシアの一部であったウクライナの地方についてもいえると述べている。ここでプーチンが示唆しているのは、ウクライナが基本的に寄せ集め国家であって、いまそれぞれの部分が本来の場所に戻る傾向を見せているということである7

 

ウクライナがバラバラの部分からなっているということは、つとに米国の元駐ソ大使であるメトロック(Jack Matlock Jr.)が指摘している。メトロックは「ウクライナは国家だが、まだ国民ではない」と述べている8。ウクライナは独立してから22年余経つが、まだ共有されたウクライナ・アイデンティティの理解においてその市民を統一できる指導者を見出していない。この国はむしろ必ずしも相互に両立できない部分から行き当たりばったりに寄せ集められたのである。現在のウクライナ領はウクライナ人自身によってではなくアウトサイダーによって集められた。こういう立場からメトロックは早い段階で「ロシアにクリミアをとらせろ」という提言を行った9。メトロックの立場はブレジンスキ10、キッシンジャー11、ミグラニヤン12など多くの現実主義論者の主張と通じるが、大多数の欧米の世論指導者やシェフツォーヴァ13のようなロシアの異論派の批判を受けた。

 

本稿の目的はこのような政策的立場を批判したり擁護したりすることにあるのではない。そうではなくて、なぜウクライナがこのような現代国家としては奇妙な現象を呈するようになったのか、それはどのような対外的あるいは対内的帰結を招きやすいかということを考えることにある。それは同様の問題を抱えているように見える他の旧ソ連諸国のケースを考える際にもある程度役に立つだろう。

 

このような問題を提起するとしばしば、歴史、地理、民族、宗教、経済などの要因を引き合いに出す論者が多い。たとえば、プーチンは歴史論に立っている。たしかにそれらの要因が大きな影響を与えていることは否めないが、ここではむしろ制度的な要因に力点をおきたい。このことを最初に断っておく。

 

2.社会主義的な「民族国家」の陥穽

 

国民国家といってもヨーロッパの西と東では大きな違いがあるということは、すでにドイツの歴史学者マイネッケ(1862-1954)が指摘している。マイネッケは1908年刊の『世界市民主義と国民国家』14の中で、フランス人のような「政治的国民」とドイツ人のような「文化的国民」の違いを指摘した。

 

オーストリア=ハンガリー時代にプラハで生まれ、アメリカで活躍したコーン(1891-1971)は、第二次大戦中に著した書15で、西方の民族主義と東方の民族主義の違いを指摘している。西方の民族主義は主として政治的で、ネーションの構成員は平等な政治的地位とその一部であろうとする個人の意思によって統一されている。ここでは時期的に国家がネーションの発達に先立っている。これに対して東方の民族主義はロシア帝国やオーストリア=ハンガリー帝国のように国家の境界線が文化的、民族的境界線とほとんど一致していない政体の下で起き、政治的境界線を民族誌的要求に一致させて引きなおそうとする運動であった。ここではネーションが国家に先立ち、国家を作り出そうとする。

 

ブルーベーカー(1956-)はフランス的なあり方を「市民的国民(civic nation)」、ドイツ的なあり方を「民族的国民(ethnic nation)」と呼んでいる。フランスでは国民は領土、国家、制度などに対応するが、必ずしも民族に対応するものではない。これに対して、ドイツ語の国民は国家に対応せず、血統、習俗、文化、言語、宗教などに対応するものである16

 

上記は古典的な、西欧と比した東欧の民族主義の特徴である。たしかに当たっていると思われるふしもあるが、そうでないところもある。古典的な理解で気になるのはフランス革命から20世紀半ばまでの時期を中心にしていること、ドイツに東欧を代表させていることである。コーンに至ってはアジア諸国の民族主義も同じだという。多くはたしかにポーランドやハンガリーに該当するかもしれないが、現代の旧ソ連諸国やバルカン諸国には必ずしも当てはまらないように思われる。

 

これら地域の「民族国家」は社会主義の体験ののちに形成された。旧ソ連憲法にはレーニンに遡る「国家からの分離に至るまでの民族自決権」という考え方がある。民族が自決して全体国家から分離できるとするならば領域をもたなければならない。そこでほとんどすべての定住民族に領域が設定された。この意味で独自の民族であるということはそれによって領域を得るのでほとんど特権であった。民族の領域は連邦構成共和国、自治共和国、自治管区など大から小までいくつかのレベルに及んだ。その領域の主人であるべきなのが「タイトル民族」であった。領域はタイトル民族の原型的な、あるいは歴史的な居住範囲であった。それはしばしば民族誌的調査に基づいて、過剰なまでに良心的に設定された。

 

プーチンはロシア革命後なぜ「ノヴォロシヤ(新ロシア)」と呼ばれた地方がウクライナに振り分けられたのか「神のみぞ知る」と述べて、あたかもそれは本来ロシア人の土地であったのに、革命後ボリシェビキが恣意的にウクライナに帰属させたかのような印象を与えている17。これは正しくない。帝政時代の人口統計でもノヴォロシヤの中核地域の多数人口はエスニックな集団としての「小ロシア人」、すなわちウクライナ人と確認されている。したがって、この地域を革命後ウクライナの一部とするというのは地理的にも民族誌的にも論理的であった。なお、今日のハルキウがノヴォロシヤであったことはけっしてない18

 

タイトル民族が定められ、境界線が原型的には民族誌に忠実に設定されたといっても、その民族に政治的実権が与えられたわけではない。政治権力は、共産主義のドクトリンに従えば、その人民の「真の意思」を代表する者に与えられるべきであり、それは共産党にほかならなかった。各民族の共産党は全連邦共産党の一部であり、民主集中制に従えばここの民族共産党が全連邦共産党の決定に反して行動することはあり得なかった。

 

加えて重要なことは、共産党が代表する「人民」とはけっしてタイトル民族の構成員ではなく一定領域の住民を指していたことである。あるタイトル民族の共産党はけっしてその民族の代表ではなく、その民族の名を冠する領域に住む市民の代表であった。したがって、非タイトル民族出身者が指導者となるということも頻繁に起きた。社会主義の時代に急速な工業化、都市化、開墾と植民、勤労動員、人事異動、大量流刑などによって大きな人口移動が起こり、原型的な民族誌的境界線はほとんど意味を失っていった。しばしばタイトル民族がその領域内で少数民族となるようなことが起きた。

 

社会主義連邦国家が崩壊したとき、旧社会主義時代の構成共和国がそのまま独立して、新しい国際法の主体となった。構成共和国はかつてエスニックな原理に基づいて構成されたので、あたかもブルーベーカーのいう「民族的国民」が成立したかのように見える。しかし、実際にはまったく違っていた。というのは、タイトル民族の歴史が物語るように、エスニックな構成原理はこの間にほとんど形骸化していたからである。国家が成立すると最初に起きる問題は誰をもって市民とするかということであるが、旧社会主義連邦国家が崩壊して成立した新興国家は、民族的帰属とは関係なしに、たまたま独立時にその国家内に居住していた者を市民とするのが通例であった。

 

周知のように、この例外をなすのがバルト諸国とスロベニアである。バルト諸国は第二次大戦中にソ連に併合され、戦後ロシアから大量の移住者があった関係で、独立時点でのすべての居住者に市民権を与えるのをためらった。EUからの圧力で徐々に市民権を付与しつつあるが、ラトビア、エストニアではまだ問題が残っている19。スロベニアでは独立時点でスロベニアに居住し、一定期間内に申請した者に市民権を認めるという方針をとったが、数千名のセルビア人がこれを怠ったために問題を起こしている20。これは規則を証明する例外といってよいだろう。当初の境界線が不当であった、あるいはこの間の人口構成の変化によって不当となったという主張のもとに線引きをめぐる衝突が勃発した例もあった。有名なのはボスニア=ヘルツェゴビナ、コソボ、沿ドニエストル、アブハジア、南オセチア、ナゴルノ=カラバフである。注目すべきはそうした主張がほとんど認められず、かつての国家内の境界線が国家間の境界線としても正当であると再確認され、分離を主張した地域が、コソボを例外として、「未承認国家」にとどまっていることである。

 

このように旧社会主義連邦国家の後継諸国は基本的に、次第に意味を失いつつある原型的な民族誌的境界線の中で、シヴィックな原則に立って成立したように見える。

 

しかし、それではたまたま独立時にそこに居住していたというだけで市民となった人々は、どのような理由に基づいて国家と自己同一視することができるだろうか。エスニックな理由に基づかないとすれば、どのような理由でできるだろうか。これは近代国家の根本をなす問題である。国家との自己同一性意識抜きには近代的な政治体制を構築することが難しい。ラストウがいうように、民主化の背景条件は、市民の大多数がどの政治共同体に属するかについて疑いや心理的留保をもたないことである。国民的統一はコンセンサスというものではなく、無意識のうちに受け入れられるもの、暗黙のうちに自明視されるものでなければならない21。それは一時的な利害や恐怖だけからくるものであってはならない。

 

ここでウクライナの一般人、非エリートが国家に対してどのような自己同一性意識をもっているかを、ピューリッツァー賞を獲得したジャーナリスト、アップルバウムの個人的体験を交えた文章を参考にして考えてみよう22

 

ソ連が崩壊しはじめた1990年までに、(それまでの民族主義弾圧などの恣意的な統治の結果として)なにが生じたかといえば、教科書に出てくるような勇ましく行進する民族主義者に溢れたウクライナではなく、なんの民族意識ももたない人々で一杯の国民であった。この年に私は西ウクライナのリヴィウで数週間を過ごしたが、…ようやくいま理解するのは、そのときに知りあった中年の音楽家夫婦の無関心さと独立ウクライナへの冷笑主義が、リヴィウの中央広場で旗を振る民族主義者が繰り広げる熱のこもった議論と同じぐらいに意味深長であったことだ。

 

二人は遠回しにもソ連共産主義が好きだったとはいえないが、…新しいウクライナ国家になにか期待しているというわけでもなかった。「新しい連中」が権力につくことがないように願いたいものだ。「新しい連中」は「金に飢えて」やってくる。急いで金儲けしたり、賄賂を取ろうとする。古い政治家に任せた方がよい。彼らはすでに必要なものを盗んでいる、というのだ。…

 

大多数のウクライナ人に欠けているのは、当時もいまも民族主義だ。あるいは愛国主義、公共精神、国民的忠誠心、国民的服従心、あるいは、お望みなら、ウクライナになにか特別なこと、ユニークなことがあるという感覚、ウクライナはそのために戦う価値があるという感覚だ。

 

夫婦はずっとウクライナで暮らしてきたが、どちらもまさに生まれようとしていたウクライナ政府になんの責任も感じなかったし、他のウクライナ人に対して特別の結びつきの感情をもたなかった。この点で、二人はポストソビエト世界に住む大多数の人間と似ていた。ベラルーシ人も、カザフ人も、ロシア人でさえもしばしば「新しい」国、新しい同胞に対してなんの忠誠心も感じなかった。ソ連が崩壊したときこれらの人々は突然自分が、それまで何十年も存在したことがない代物―そんなものがそもそもあるとして―の市民であることを見出したのである。…

 

(今日の目から見ると)夫婦の考えは正しかったことが判明した。独立ウクライナを指導することになった人々は、ウクライナの制度を構築することに失敗した。その代わりに彼らは自分の財産を築いたのだ。

 

これが一般市民の態度であったとすれば、エリートの態度はどうであったろうか。エリートは国家を指導する立場にあるから、国家との自己同一性意識がなければやってゆけない。たしかにエリートの多くは、ウクライナ国家との必然的なつながりがないにもかかわらず、強い自己同一性意識を発達させている。ここで現在の政府で枢要の地位にある人々をざっと一瞥してみよう。暫定大統領トゥルチーノフ(Олександр В. Турчинов)は東部のドニプロペトロウシク出身のウクライナ人であるが、ウクライナでは珍しい(人口の1%以下)プロテスタント(バプティスト)である。暫定首相ヤツェニュク(Арсеній П. Яценюк)は最西部のチェルニウツィ出身で、ルーマニア系(一説によればユダヤ系)である。内相のアヴァコフは東部のハルキウ選出であるが、バクー生まれのアルメニア人である。ティモシェンコ(Юлія В. Тимошенко)はトゥルチーノフと同じドニプロペトロウシク出身であるが、ラトビア=ユダヤ系の父とベラルーシ=ポーランド系の母の間に生まれた。ウクライナ最大のオリガークであるアフメトフ(Рінат Л. Ахметов)は東部のドネツィク出身であるが、エスニックにはタタール人で、イスラム教徒である。ユーシェンコ大統領の下で首相を務めたエハヌーロフ(Юрій І. Єхануров)はヤクート生まれのブリヤート人(モンゴル系)である。

 

このようにウクライナのエリートが複雑な構成をとっていることが分かる。彼らのうちでウクライナ語を母語とするものはむしろ少数である。ウクライナが独立したときにたまたまウクライナにいたためにウクライナ人となったといってよいだろう。多くは、にもかかわらず、ウクライナ国家との自己同一性意識を強めたが、他方ではヤヌコヴィチだけではなく在任中私財を蓄えることに腐心して権力の座を追われるとたちまち国外に逐電してしまったエリートも少なくない。

 

国民が国家との自己同一性意識を発達させる過程をネーション=ビルディングと呼ぶことにして、次になぜウクライナではそれが十分に進まなかったのかを考えてみることにしよう。

 

3.欠如した国民形成の努力

 

まず、ウクライナでは全国的な官僚制の発達が遅れた。全体としての官僚の管轄区域の認識がしばしば国民意識の基礎をなす。官僚制が国民形成にどのような役割を果たすのかについてはアンダーソンの研究がある。アンダーソンは「役人の巡礼」の範囲がラテンアメリカ諸国やインドネシアにおける国民国家の枠組を作ったことを明らかにした23。ウクライナにおける「役人の巡礼」、すなわち官僚の出世の仕組みはどうなっているのだろうか。これについては大串敦の最近の研究がある。現地調査に基づいた堅実な分析である24が、最近の州知事人事に焦点を当てたもので、アンダーソンが見たようなより下層の役人の人事の、長期的な傾向を見ようとしたものではない。中級官僚のキャリア・パターンのより経験的な調査が必要であることを痛感する。かくいう筆者ももとよりウクライナについてそうした調査を行う用意も能力もないが、とりあえず一つ二つ断片的に気づいたことを指摘しておきたい。

 

2014年4月14日の『ウクライナ・プラウダ』紙は、元内務相ルツェンコ(Юрій Луценко)の次の言葉を伝えている。「2010年から州の警察行政の幹部すべてとその次席の人事がヤヌコヴィチの長男との間で個人的に調整された。長男は彼らに課題を出し、現金を封筒に包んで給料の追加払いをした。ドネツィク、ハルキウ、ルハンシク、ザポリージャ、ドニプロペトロウシクの諸州では、区域(райотдел)の次席レベルまでこれをした。ということは、これら地域の幹部はすべてマフィア的なメジヒーリヤ(キエフ郊外のヤヌコヴィチ邸)集団に依存していた。彼らは封筒での追加支払を受けとってきたし、今日でも受けとっている。現在では追加支払が何倍にも増えている。こういう形でドネツィク州の警察は完全にヤヌコヴィチ家族に集中し、もっぱらそれに奉仕している。」もし事実であるとすれば、単に警察行政が腐敗しているというだけではなく、家産官僚制がシステム化していたということができる。ルツェンコはここに、4月初めにドネツィクで親露派分離主義者が反乱を起こし、州庁舎、警察、公安局などの公共施設を占拠したときに警察がまったく無抵抗だった理由を見ている。

 

2014年5月2日にオデッサでサッカーのサポーターと親露派との衝突が起こり、大勢の死者が出たとき、警察は傍観してなにもしなかった。ルツェンコは「オデッサの事件は警察における政党割当の結果だ」と述べている25地方警察の幹部人事を政党所属で任命した結果がオデッサの悲劇に通じているという意味である。これは旧オーストリア=ハンガリー帝国で広く普及していた慣行で、一般にプロポルツ・システム(議席割合に応じて人事権や予算権が割り当てられるシステム)と呼ばれた。それによって無能な人物が配置されたり、行政の中立が守られないことがしばしばあった。オデッサの支配的な政党は伝統的に地域党であり、興味深いのは、オデッサで地域党と対抗関係にあった「祖国」の国会議員も「オデッサは彼(地域党の国会議員)のクオータだ」と考えていたということである。つまり、それは与党の専横ではなくて、野党も承認していたシステムだったのだ。家産制と政党任命が組み合わさった官僚制では官僚の忠誠心がそのボス個人だけに向かって、国民全体に対しては向かないように思われる。

 

次に、法の支配の弱さである。法の支配と国民形成は必然的な関係がないかも知れない。法の支配が強いところで国民形成が遅れているケースがあるかも知れないし、逆に法の支配が弱いところで国民形成が進んでいるところがあるかも知れない。官僚制が機能するためには最小限の法規範の共有が必要だろう。しかし、一つの国民が存続するためにも最小限の共通の法規範に縛られているという感情が必要なのではないか。それはおそらく閾値みたいなもので、ある一定の値以上では同じだが、それ以下では国民形成が困難というものかも知れない。いずれにせよ法の支配の程度はそもそも測定が難しい。さらに国民形成との関係を数量的に裏づけることはいっそう難しい。以下に記すことはかなり当て推量である。

 

法の支配の程度についてよく用いられるのは腐敗認識指数(CPI)である。2013年度のウクライナのCPIスコアは25で、世界175ヶ国中144位である。ほぼ中央アフリカ、カメルーン、ナイジェリアと同じ程度である。ちなみに隣国のポーランドはスコアが65で、世界38位、ハンガリーは54で世界47位である26

 

世界銀行が世界各国について毎年公表している6つのガヴァナンス・インディケーターの1つに「法の支配」がある。2012年にはウクライナの値は26(最高のノルウェイが100、最低のソマリアが0)で、世界215ヶ国中160位、ネパール、アルジェリアなどと同水準である。ちなみにポーランドの値は72で世界63位、ハンガリーの値は68で世界71位である27。いずれの測定においてもウクライナの評価は極端に低い。

 

汚職によって最終的には国民経済が負の影響を受けるだろうが、直接負の影響を受けるのは国家財政だろう。ウクライナで汚職がはびこっているという話をよく聞くが、それは軍事作戦にも影響している。ウクライナの新聞報道では平均して国家予算の30%程度が汚職で消えてしまうといわれる。とくに国防予算の使い方がひどいようである。ある軍事工場は100ドルの注文を受けると、81ドルまでを盗んでいた。新政権が引き継いだとき国庫は空っぽ、国防予算も底を衝いていた。それでも平時なら問題が表面化しないで済んだのだろうが、今回はただちにロシア軍によるクリミア侵攻、4月から東部で分離主義者の反乱が起きた。政府は4月中旬からいわゆる反テロ作戦を開始したが、軍の装備や戦闘員の待遇が不十分で、ほとんど出動態勢が整っていなかった。たとえば防弾チョッキにしても、100人の兵士あたりで1着の用意しかなかった。にもかかわらず、政府軍が出動できたのは有志市民からの義捐金によっていた28。しかし、食糧のような単純な物資さえも事欠く有様で、現地で兵士が食料品店に押し入ったり、住民から施しを受けるようなことが起きている。政府軍兵士に食糧を施した東部の住民が反乱軍に銃殺されるという事件も起きている。このような有様であったから作戦自体もあまり効果が上がらなかった。

 

国家のために命を投げ出さなければならないかも知れないというのに、そのための十分な装備も待遇もなく出動を命じられる。兵士は自分の命を守るべき装備や自分の生活を支えるべき給与が上部の誰かによってくすねられていると知っている。とすれば、兵士の士気が上がらないことは十分に予想できる。おそらく上の方もそれで兵士が体を張るはずはないと知っているのだろう。

 

国軍が頼りにならないことが分かっているので、州知事に任じられた富豪の中には中央政府の了承を得て自身の軍隊を組織する者も出てくる。ドニプロペトロウシクのコロモイシキー(Ігор В. Коломойський)はその一人である。コロモイスキーは私財を投じて約1万5000人を数える国民防衛軍を設置した。それは戦闘準備のある4つの大隊約2000人を含んでおり、その一つ「ドンバス大隊」はドネツィクで親露派分離主義と戦っている。指令はウクライナ軍から受けるが、装備と給与はコロモイスキーから受けとる。国民防衛軍の司令官に任じられたベレザ(Ігор Береза)によると、「問題は実際にウクライナ軍というものがまったく存在しなかったということだ。トップの将官も、たいていの上級将校も、独立して20年経った今でも、ウクライナを真に別個の主権国家とは見ていない29。」私人によって賄われ、企業のように運営される私兵集団が登場したということは、それが能率を上げれば上げるほど、また別の問題を生むことだろう。それは国家による公的暴力の独占―法の支配の一つの基礎―が破られることを意味する。

 

第三に、一般兵役制の欠如である。一般兵役制が良きにつけ悪しきにつけ国民形成において大きな役割を果たしたことは、フランス革命後のフランス、ナポレオンに対する解放戦争の過程で改革を実施したプロイセン、明治維新以後の日本の例を見れば明らかである。旧ソ連も第二次大戦に備えて一般兵役制を導入し、それを戦後も引き続き維持して超民族的な国民統合のために利用した。ウクライナは1991年に独立したときにそれを引き継いだが、今度はウクライナ国家という枠に限定された一般兵役制であったのでウクライナ自身の国民形成に役立つはずであった。しかし、財政難その他の理由で一般兵役制は段階的に取り崩され、ついに2013年10月14日の法律によって廃止された。今日あるのは契約制の兵役である30

 

契約制の軍隊は国民形成の役割を果たす程度が低い。兵役に従事するのは希望者だけであり、彼らが相互交流してもそれは国民のごく一部である。しかもウクライナにおいては兵役希望者が任地を選択できた。ほとんどの兵士は自分の出身州での兵役を希望した。ドネツィク出身者がリヴィウで、スームィ出身者がオデッサで、ルハンシク出身者がチェルニウツィでそれぞれ兵役に従事するということはほとんどなかったのである。これはロシアによるクリミア併合のときに致命的であることが判明した。クリミア駐留のウクライナ軍兵士は大部分クリミア出身、したがってロシア人であり、ウクライナのためにロシアと戦う用意がまるでなかった。ロシア当局はこのことを十分に計算した上で、クリミア占領を決断したのであった31。おそらく同様のことがドネツィク州、ルハンシク州などについてもいうことができよう。

 

軍隊の戦闘準備態勢についてなんらかの推論をなすのが本稿の目的ではない。むしろ兵役を終えて一般市民に戻った人々が、外敵の侵入を受けたときにどのように反応するかを知るのが目的である。ウクライナのような兵役体験しかもたないような国民は、おそらく事態を他人事のように迎えるのではないだろうか。

 

単に兵役だけではなく、ふだんから国民が自分の住んでいる地域以外の地域を知ろうとしている、あるいは知る機会を与えられていることが重要だろう。ある雑誌の編集者が座談会で発言したことに基づけば、ドネツィク州の住民の78%が生涯ドネツィク州以外のウクライナの地方を訪れたことがないという32。ドネツィク州の例は特殊かも知れない。しかし、たとえば、日本の修学旅行のような制度があれば、ドネツィクのような例は生まれないだろう。ドイツの遍歴制度(Wanderschaft)のような、あるいはスイスの他民族同胞探訪運動のような、自分の国の他の地方を知ろうとする意識的な動きがウクライナには欠けていたのではないか。ある観察者によると、独立後の23年間、諸政党は選挙があるたびに地域間の違いを強化することに大きな力を注いできた33

 

第四に、国民神話を意識的に生み、育てる努力が弱かったように思われる。もちろんそれを悪用することは慎まなければならず、常に批判的である必要があるが、どの国民も存続するためには一つの運命共同体を目指してたえず歩んできたという神話を必要とし、実際に多かれ少なかれ創り出している。それに適しているのが、たとえば歴史小説である。多くのヨーロッパ国民は19世紀のロマン主義の時代に優れた歴史小説を生みだした。ウクライナ人はある意味で19世紀をもたなかった民族であり、ハンディキャップを負っているように思う。しかし、どの国民も以来さまざまな歴史教科書を編纂している。ウクライナも当然編纂していることだろう。ウクライナの歴史教科書について時代ごとに、また地域ごとに調査して比較することができれば、経験的な分析を行うことができるだろうが、残念ながら現在の筆者にはその能力がない。

 

歴史教科書とともに重要なのは、国家統一の歴史の記念すべき出来事について見に見える形でシンボルを用意することである。そのためには、たとえば出来事や英雄の名を冠した街路、公園、記念碑、大学、劇場、オペラハウス、図書館、その他の公共建築物が全国津々浦々に作られる必要がある。あるいはそれを顕彰する歌謡、催し物、国民的祝日でもよい。はたしてそれがウクライナでどれほど濃密に行われているだろうか。これも調査に値するが、表面的な観察ではなおウクライナ共通というよりもソ連共通あるいはロシア共通の出来事や英雄を顕彰するものが多いように思われる。あるいは、地域によってそれが異なっていて、分裂しているような印象を与える。

 

最後に、スポーツや国民的ドラマは国民形成に大いに役立つ。以前はソ連が全ソ連的な国民統合にスポーツを利用したが、すでに当時から共和国ごとのチーム(たとえば、ズボールナヤ・ウクライナ)を作り、対抗試合をさせることによって共和国ごとの国民形成にもある程度寄与していた。新生ウクライナにおいてサッカーのサポーター組織が全ウクライナ的意識を育んできたことについては、すでに服部倫卓が指摘している34。5月2日のオデッサ事件はまさにサッカー試合後に起きた。「メタリスト」(ハルキウ・チーム)と「チョルノモーレツィ」(オデッサ・チーム)の試合があり、サポーターが街に繰り出したときに、親露派がこれに襲いかかって、激しい衝突となった。対抗関係はよくあるように両チームのサポーターの間ではなくて、両チームのサポーター(ウクライナ統一派)と親露派の間を走っていた。けっきょくオデッサではウクライナ統一派の方が全体として優勢であったために、労働組合会館に立てこもった親露派が焼き殺されるという不幸な事件に発展した35。親露派分離主義の影響が強いドネツィクでも「シャフタール」(ドネツィク・チーム)のサポーターはウクライナ統一派である。ウクライナでのサッカーは日本でのプロ野球に当たるが、日本ではすでに高校野球レベルで国民統合作用が起きている。ウクライナでも高校サッカー・レベルでそれが起きれば、国民統合にとってもっと効果があるのではないだろうか。

 

国民的ドラマとは、必ずしも芸術的水準は高くないが、多くの国民がその国特有の事情で登場人物と自己同一視できるような大衆ドラマである。日本では大河ドラマや朝ドラがしばしばその役割をはたしている。外国人が観てもおそらくあまり面白くないだろう。たしかに「おしん」のような例外はあるが、それが多くの第三世界諸国でヒットしたのはおそらくたまたま自分の国の過去と重ね合わせることができたためではないだろうか。しかし、ここで問われているのは作品の芸術的価値ではなく、国民形成への寄与力である。このようなドラマは多かれ少なかれどの国でも定期的に作成され、放映されている。ウクライナではどうであろうか。筆者は寡聞にして知らない。

 

それにつけても旧ソ連諸国の場合に思いやられるのは、モスクワのキー・テレビ局がもつ影響力の大きさである。1990年代に当時のカザフスタンの首都、アルマアタを訪れたときに印象深かったのは、カザフ語のテレビ放送はたしかにあるが、ほとんど誰も観ないということであった。理由は「面白くないから」ということである。たしかにテレビ番組の制作には多くの技術が必要で、地元メディアはまだモスクワに対抗できるにはほど遠かった。実は同じ頃キエフを訪ねたときも同じような答えを得た。

 

ウクライナ当局はモスクワのテレビ放送の中継について非常に寛容で、つい最近に至るまでそのままの中継を許していた。ロシア語話者の視聴者はほとんどモスクワのテレビ放送を観ていた。モスクワからのテレビ放送にウクライナの国民的ドラマが放映されないのはいうまでもない。そこで放映されるのは主としてロシアの国民的ドラマである。もし今日、二人のウクライナ市民がいて、同じようにウクライナに住みながら一人はもっぱらウクライナ・テレビを観て育ち、他の一人はもっぱらロシア・テレビを観て育ったとしたら、二人のまったく異なった市民が出来上がるに違いない。今日という時代には映像メディアの政治的社会化への影響はそれほどに大きい。

 

4.おわりに

 

筆者は、プーチンやメトロックのように、ウクライナはもともと別々の国なのだから一つの国民になれないということを示唆しようとしているのではない。むしろその逆であって、どのような過去を背負っていても努力次第では、制度の作り方次第では一つの国民となることができると考えている。実際に、ウクライナも独立後二十数年の間にかなりの国民形成の成果を挙げてきた。それは随所に見ることができる。

 

たとえば、クリミアのようなロシア人が多数を占めている地域においても、あらゆる逆境にもかかわらず、ウクライナと自己同一化しようとする市民が増えていた。たとえば、モスクワ大学准教授で、ロシア科学アカデミー国際安全保障研究所研究員のフェネンコは、3月3日の段階で次のように述べていた36

 

クリミアの分離主義感情は誇張されている。

 

クリミアに深刻な不満の兆候はある。セヴァストーポリ、ケルチ、シンフェローポリでデモがあり、ロシアの旗を持ち出して、分離主義の印象を与えているところもある。しかし、それはけっして一見したほど単純ではない。

 

クリミアの多くのロシア語話者は分離を要求していない。彼らの多くはウクライナの社会政治システムにとっくの昔に統合されてしまった。クリミアのタタール人においてはキエフがシンフェローポリを左右できるような強力なリソースを有しているのである。大切なことは、クリミアの政情不安は必ずしも分離主義の勃発につながらないことだ。

 

3ヶ月後の今日の目から見ると、この間に起きた出来事の重さを感じさせるが、同時に冷静な目でクリミア情勢を見ていたロシア人がいたことにも驚かされる。公式の発表によれば、クリミアのロシア編入は住民投票において投票率80%以上、賛成率97%で支持されたことになっている。事実ならば、先のフェネンコの懸念を吹き飛ばしてしまったことになるが、ポーランド紙が伝えるところによると、投票率は30%、賛成率はその半分で、人々は編入に賛成したというよりはむしろヤヌコヴィチ大統領時代にすべての役職を独占した「ドネツィク派」の権力に反対したのだった。これはムスタファ・ジェミレフ(Mustafa Dzhemilev―クリミア・タタール民族会議執行機関メジュリスの元議長)が投票率33%弱、賛成率はその半分と見ているのと一致する37

 

クリミアの併合後、さらに大きな変化があった。クリミアが失われたことはウクライナ人にとって大きなショックであった。それはウクライナの残りの地域においてウクライナが一つの国であるという意識を強めた。さらに東部二州において親露派分離主義の反乱が起きたこともそのプロセスを加速化した。東ウクライナのハルキウでマイダン運動に参加し、ドイツ紙に寄稿した若い知識人ジャーダンは次のように述べている38

 

突然、われわれすべてがなにか失うものをもっている、なにか賭けなければならないものがあるということが明らかとなった。突然われわれすべてが一つの祖国をもっているということが明らかとなった。経済的に弱く、社会的に不公正で、汚職にまみれているとしても、やっぱりわれわれの祖国だ。ほかに祖国はない。この共属感情、この共通の国境をもっているという感情は軽率に無視するにはあまりに根本的で、重要だ。

 

ウクライナは独立後短い期間にオレンジ革命、マイダン革命という二つの大きな国家的出来事を経験した。これがまた今後の国民形成のための大きな材料を提供することだろう。ウクライナの国民形成は完成までにまだまだ遠い道のりを残しているが、着実に進展しつつあるように思われる。

 

最後に、ウクライナのケースは旧ソ連諸国にとって示唆するものがあるだろうか。旧ソ連諸国のうち、歴史的事情によってバルト諸国は別扱いにしなければならないだろう。おそらくコーカサスのグルジア、アルメニアもある程度まで別扱いにしてよいかも知れない。しかし、ベラルーシ、モルドヴァ、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、タジキスタン、トゥルクメニスタン、アゼルバイジャンはウクライナと同じ問題を抱えており、形式上国民国家となっているものの国民形成が非常に遅れている。筆者は最近、ユーラシア世界の国家と国際関係を扱ったある書の書評において、「『制度のユーラシア』、とくに国民国家の成り立ち、その相互の制度的結びつき」をより深く検討する必要があるのではないかと記した39が、それはこのようなことを念頭においていたからである。

 

旧ソ連諸国の中でロシアは例外的に独立国家としての長い歴史をもっていたことを考えると国民形成を完成していると考えてよいだろうか。筆者は、たしかに他の旧ソ連諸国に比べてより多くの国民国家の特性を備えていると考えるが、帝国意識が先立って国民意識は未完成にとどまっているという気がする。ロシア人はエスニシティという点で統一されているわけではない。たしかにエスニックなロシア人というものは存在しようが、多くのロシア人は自分がエスニックに何者であるかについて知らないし、知る必要もないと考えている。いわゆる「ロシア語話者」は多民族帝国の産物で、「ロシア語話者」となって数世代を経て他の「ロシア語話者」と婚姻を繰り返しているうちにロシア人となるケースが多い。

 

多くの人々はロシア人であることが利益をもたらすからロシア人となる。しかし、利益や恐怖は必ずしも国民意識の堅固な基礎ではない。それはちょうどウクライナが独立したときに多くのロシア人がウクライナ人であることを選択したのと同じである。こんにちは逆のことが起きている。すなわち、ロシア人であることの方が利益をもたらすと考えて、多くのクリミアあるいはウクライナ南東部の住民―ウクライナ人であるか、ロシア人であるかを問わず―はロシア人であることを選んでいる。けっして国民意識が強いわけではない。同じことがカザフスタン、ベラルーシ、モルドヴァ、バルト諸国などでも起きていると思われる。

 

ロシア人あるいはロシア語話者は国民意識が弱いという点で他の旧ソ連諸国と共通するものをもっているが、帝国意識が強いという点では大いに異なっている。人々は国民国家としてのロシアよりも帝国としてのロシアあるいはソ連への帰属意識をもっている。今日までディアスポラのロシア人は国民意識に基づいて結集するということがなかったが、帝国の再建というスローガンのもとでは結集することができるかも知れない。

 

とはいえ、ロシア人がネーションビルディングから永遠に遠ざけられていると考えるのも行き過ぎであり、しかるべき制度作りが行われれば、ロシア人もまた国民意識を発達させることができるだろう。

 

 

伊東 孝之(いとう・たかゆき)

北海道大学名誉教授、早稲田大学名誉教授
東京大学教養学部卒、東京大学大学院社会学研究科博士課程退学。北海道大学スラブ研究センター教授、早稲田大学政治経済学部教授を歴任。専門は国際関係論、比較政治学、ポーランドを中心とした東欧地域研究。著書に『ポーランド現代史』(山川出版社、1988年)、編著に『ポスト冷戦時代のロシア外交』(有信堂高文社、1999年、共編)、『せめぎあう構造と制度:体制変動の諸相』(正文社、2008年)などがある。

 

 

*本稿の内容は、スラブ・ユーラシア研究センターおよび執筆者の所属機関など、いかなる組織を代表するものでもなく、執筆者個人の見解です。

 


1. Cai Philippsen, "Der erst kürzlich ernannte Befehlshaber der ukrainischen Marine, Denis Beresowski, hat sich den prorussischen Kräften auf der Krim angeschlossen," Frankfurter Allgemeine Zeitung, 3. März 2014.

2. Michael Kofman, "Putin's Grand Strategy for Ukraine," The National Interest, April 25, 2014.

5. F. Stephen Larrabee & Peter A. Wilson, "Calling Putin's Bluff," The National Interest, April 12, 2014.

6. Lally Weymouth, "Talking with Poland's Foreign Minister about the Ukraine Crisis and Russia's Next Moves," Washington Post, April 19, 2014.

7. "Прямая линия с Владимиром Путиным, 17 апреля 2014 года, Москва," http://www.kremlin.ru/news/20796 (2014.04.18確認).

8. Jack Matlock, "Ukraine: The Price of Internal Division," http://jackmatlock.com/2014/03/ukraine-the-price-of-internal-division/, March 1, 2014 (2014.03.02確認).

9. Jack Matlock, "Let Russia Take Crimea," http://time.com/author/jack-matlock/, March 18, 2014 (2014.03.19確認).

10. Zbigniew Brzezinski, "Russia Needs to be Offered a 'Finland Option' for Ukraine," Financial Times, February 23, 2014.

11. Henry A. Kissinger, "How the Ukraine Crisis Ends," Washington Post, March 6, 2014.

12. Andranik Migranyan, "Putin Triumphs in Ukraine," The National Interest, March 6, 2014.

13. Lilia Shevtsova, "Ukraine as a Challenge of Perception," Eurasia Outlook, March 11, 2014 (Carnegie Moscow Center).

14. Friedrich Meinecke, Weltbürgertum und Nationalstaat: Studien zur Genesis des deutschen Nationalstaates (München 1908), 矢田俊隆訳『世界市民主義と国民国家:ドイツ国民国家発生の研究』岩波書店、1968年。

15. Hans Kohn, The Idea of Nationalism: A Study in Its Origins and Background (New York, 1944).

16. Rogers Brubaker, Nationalism Reframed: Nationhood and the National Question in the New Europe (Cambridge: Cambridge University Press, 1996).

17. "Прямая линия с Владимиром Путиным, 17 апреля 2014 года."

18. Pietro Shakarian, "The Historical Geography of Ukraine: An Overview," http://reconsideringrussia.org/2014/05/15/historical-geography-of-ukraine/, May 15, 2014 (2014.05.15確認).

19. 中井遼の諸論稿を見よ。「国籍取得要件を変える政治的要因:中東欧10カ国のパネルデータ分析」『レヴァイアサン』(木鐸社)51 (2012秋): 146-167;「バルト諸国の政党配置:ニューバルティックバロメーター有権者個票データによる競争次元抽出と支持政党」『早稲田政治公法研究』94 (2010): 43-62;「少数民族政党の議席獲得の成否:アクター中心アプローチによる理論的再検討」『早稲田政治公法研究』90 (2009): 31-43.

20. 2008年12月に早稲田大学政治経済学部に提出された奥田翔子の専門演習論文「スロベニアは本当に優等生か:スロベニアの民主化と非スロベニア系住民の市民権問題」を見よ。

21. Dankwart A. Rustow, "Transitions to Democracy. Toward a Dynamic Model," Comparative Politics, 2-3 (1970 April): 350-351.

22. Anne Applebaum, "Nationalism Is Exactly What Ukraine Needs: Democracy Fails When Citizens Don't Believe Their Country Is Worth Fighting for," The New Republic, May 12, 2014. アップルバウムは現ポーランド外相の夫人でもある。

23. Benedict Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism (London: Verso, 1983), 白石隆・白石さや訳『想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行』リブロポート、1987年。

24. 大串敦「想像のウクライナ東西分裂論を超えて:現地調査を踏まえた若干の考察」北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターウェブサイト・ウクライナ情勢特集3(2014年4月8日)、http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/center/essay/20140408-j.html (2014.04.10確認).

25. http://www.pravda.com.ua/rus/news/2014/05/4/7024310/ (2014.05.05確認). これはフェースブックへのルツェンコの書き込みに基づいている。https://www.facebook.com/LlutsenkoYuri における5月4日の書き込みを見よ。

27. "The Worldwide Governance Indicators, 2013 Update," 2014.05.31にhttp://info.worldbank.org/governance/wgi/index.aspx#homeからダウンロード。

28. Kathy Lally, "Ukraine's Military Asks for Help, and the People Pitch In," Washington Post, April 20, 2014; Charles Recknagel and Merhat Sharipzhan, "Army in Need: Volunteers Try to Get Supplies to Ukraine's Forces," RFE/RL, June 08, 2014, http://www.rferl.org/content/ukraine-army-equipment-donations/25413169.html (2014.05.08確認).

29. Gabriela Baczynska, "Jewish Oligarch Spends Millions on Militia to Hold onto Ukraine Province," Reuters, May 23, 2014, Johnson's Russia List, No. 126 (June 6, 2014).

30. ウクライナにおける兵役制の歴史的変遷とそれをめぐる議論について、簡単ながら次を見よ。http://uk.wikipedia.org/wiki/Військовий_обов'язок (2014.05.30確認).

31. Константин Новиков, Анатолий Караваев, "«Армия Украины не способна вести боевые действия» Военные эксперты прогнозируют, как будет развиваться ситуация на Украине," http://www.gazeta.ru/politics/2014/03/01_a_5932385.shtml (2014.03.02確認);  Fareed Zakaria, "Russia Unlikely to Invade Crimea Region," http://globalpublicsquare.blogs.cnn.com/2014/02/28/zakaria-russia-unlikely-to-invade-crimea-region/ (2014.03.01確認).

32. Александр Рыклин(главный редактор «Ежедневного журнала»)の発言を見よ。"Куда из Украины прилетит бумеранг Путина?"  http://www.svoboda.org/content/transcript/25373156.html (2014.05.20確認).

33. Сейфулла Рашидовとのインタビュー。Рашидовは、ルハンシクのイスラム組織「サラム」の指導者で、ウラジーミル・ダーリ名称東ウクライナ国立大教授。"Бои у станции Красный Лиман," http://www.svoboda.org/content/article/25410051.html (2014.06.05確認).

34. 服部倫卓「サッカーの視点から見たウクライナの政治変動」北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターウェブサイト・ウクライナ情勢特集1(2014年4月2日)、http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/center/essay/20140402-j.html (2014.04.03確認).

35. いろいろな報道があるが、おそらく次が比較的詳しく、客観的である。Любовь Чижова, "Одесса. Вопросы без ответов. В городе ждут расследования событий 2 мая, когда погибли 46 человек," http://www.svoboda.org/content/article/25374809.html (2014.05.08確認). 犠牲者が多かったのはどちらかがより暴力的であったためというよりも、警察が傍観していたためとする説が有力である。

36. Alexey Fenenko, "Why the Ukrainian Crisis Is Dangerous for Russia," http://www.russia-direct.org/content/why-ukrainian-crisis-dangerous-russia, March 3, 2014 (2014.03.05確認).

37. http://wyborcza.pl/1,75968,15928656,Bogaty__zydobanderowiec__z_Ukrainy_stawia_sie_Putinowi_.html (2014.05.10確認). この情報は貴重であるが、残念ながら典拠が示されていない。最初の情報は5月初旬に公表された大統領付市民社会問題委員会の報告となっているが、該当すると思われるСовет по содействию развитию институтов гражданского общества и правам человекаのサイト(http://www.kremlin.ru/misc/10157)には載っていない。ジェミレフの報告はポーランド紙の報道とやや違っているが、たぶん次と思われる。Mustafa Dzhemilev, "Only 34,2% Crimeans Took Part in the Pseudo-referendum on March 16," http://euromaidanpr.com/2014/03/25/mustafa-dzhemilev-only-342-crimeans-took-part-in-the-pseudo-referendum-on-march-16/ (2014.06.05確認).

38. Serhij Zhadan, "Der unsichtbare Krieg," Frankfurter Allgemeine Zeitung, 21. April 2014.

39. 伊東孝之「書評:塩川伸明・小松久男・沼野充義編『ユーラシア世界5 国家と国際関係』(東京大学出版会2012年)」『ロシア・東欧研究』42 (2013): 124.

 

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