ITP International Training Program



AAASS参加報告

平松 潤奈

(東京大学大学院人文社会系研究科研究員、ITP第1期フェロー)[→プロフィール



  2009年にボストンで開催されたAmerican Association for the Advancement of Slavic Studies (AAASS) の第41回全国大会に参加した感想を記したい。具体的な参加手続きの流れや大会の様子については、フィラデルフィアで開かれた前回大会について、青島陽子さんがこのITPのサイト上で詳細かつ精確に報告されているので、そちらを参照していただきたい。[→LINK] ボストン大会の雰囲気も、まったく同じと言ってよいものだった。


  私は、ショーロホフの『静かなドン』を扱った博士論文をもとに、スターリン時代の検閲のあり方について再検討する、という内容で発表した。個人発表の枠で応募したが、寄せ集めのパネルにしては発表者三人の内容が比較的近いもの(ソヴィエト文化)にそろえられていて、ありがたかった。ただ、討論者は規定にしたがいペーパーを事前に読み、個別に丁寧なコメントをくれたものの、三つの発表を関連づけることはなく、また私を含め文学・文化系の三人はどちらかというと経験が浅いこともあって、抽象的な主張が前面に出すぎた感があり、また発言においても控えめな態度に終始した。そういうわけで、互いの報告がうまくかみ合ってなにかが見出せるという段階には至らなかった。司会者や聴衆が関連する事例をいろいろと挙げ、話題を広げてくれたのが救いにはなった。これが個人発表パネルの限界なのかもしれないが、積極的なコミュニケーションさえとれれば、内容的に議論がもっとつながったかもしれないと思うと、悔いが残った。


  AAASSは話に聞いていたとおり恐ろしく大規模な会議で、常時40ものパネルが同時進行しているので、当然、スター学者の登場するパネルや流行のテーマを掲げたラウンドテーブルに聴衆は殺到し、会議室の外に人があふれ出す光景も目にする。他方で私が参加したような個人パネルは主にまだ無名の大学院生や外国人などで構成され、聴衆の人数も限られる(そのようなパネルはえてして大会初日か最終日に割り振られる)。全体によく組織された会議で、応募から実際の発表にいたるまで、初参加者や外国人にとっても非常にスムースに事が運ぶのだが、そうであるがゆえに、なにか流れ作業的な工程に乗っかって自分の課題をこなすのみで終わってしまう可能性も含んでいる。そうした条件のもと、何のために発表をするのか自分なりに再確認しなければならないと改めて感じた。


  聴衆としての感想も、断片的にではあるが多少述べておきたい。面白そうなパネルがキャンセルになっていたり、著名人の欠席が伝えられて集まった人々ががっかりするというケースもしばしば見られたが、それでもスラヴ地域に関する世界最大の研究大会だけあって、著作だけで知っていたこの分野の大物学者たちの話しぶりをじかに目にする貴重な機会となった。たとえば How the Soviet Man Was Unmade という本において、スターリン文化の精神分析をおこなったリーリャ・カガノフスキーは、その著作に感じられる歯切れのよさそのままに、壮快な語り口で聴衆を魅了していた。


  議論のレベルもさすがにAAASSだと思わせるものが多く、刺激的な論点をめぐってパネラーどうしが感情的にではなく、真っ向から対立する立場を表明し、議論が合意にいたらずとも、非常に生産的な場をつくりだしている、と感じることもできた。たとえば、近年の研究動向を反映して、「ポスト・ソヴィエト」「ポスト共産主義」の語を冠した発表は数多くあったが、「ポスト」という過去と現在の関係性それ自体を問題化した「現代ロシア文化のトラウマ的対象としてのソヴィエトの過去」というラウンドテーブルは、たいへん印象に残った(しかしここでもアレクサンドル・エトキントとエヴゲニー・ドブレンコという高名な学者が欠席した)。不在のエトキントの立場を引き受けるかたちで、ナンシー・コンデが、「抑圧されたものは回帰する」として、アレクサンドル・ソクーロフの映画などを参照しながら、ソ連時代のテロルによるトラウマが現代の文化表象をかたちづくっていると述べると、それに対しディーナ・ハパエヴァは、純粋に社会科学的な統計 —近年のアンケート調査— に基づき、現代ロシア人の大部分が、ソヴィエト政権のテロルを罪業とはみなさず、その政策を好意的に振りかえり、また社会の大きな変容のなかで過去についての記憶を更新あるいは喪失してきているのであり(むしろ愛国主義と結びついたソ連ノスタルジーのほうがはるかに重大な問題である)、「トラウマの回帰」といった文化エリート的な概念はソクーロフには通用しても、社会のマジョリティにはあてはまらない、といったことを強く主張していた。この論争はすでに2008-09年のNLO(『新文学展望』)誌上などで、ハパエヴァとエトキント、マルク・リポヴェツキーのあいだで進行し、ある程度問題は整理されていたと思われるが、意見対立をあらかじめ組み込んだうえでその議論を聴衆に開くというかたちをとったこのパネルは、フロアからの熱心な発言を呼び入れて、たいへん充実したものになっていた。


  以上、発表者としても一観客としても得るところの多い大会であった。はるか遠い場所にあるとはいえ、見習うべきものの姿も見えた。この経験をなんらかのかたちで今後の自分の活動に生かすことができればと思う。貴重な機会を与えてくださったスラブ研究センターに深く感謝したい。


[Update 10.10.25]




Copyright ©2008-2010 Slavic Research Center   |  e-mail: src@slav.hokudai.ac.jp