< !-- Google Tag Manager (noscript) --> 14世紀のストリゴーリニキ「異端」と正統教会

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はじめに

14〜16世紀は「キエフと全ルーシの」(後に「モスクワと全ルーシの」)府主教区教会の再編の時代である。モスクワを中心とした中央集権国家の形成と相まって、府主教区教会は地方の俗権と密接につながった教会群、言わば地方教会の集合から、モスクワを中心とした統一的で秩序だった「ロシア正教会」へと変化していった。

正教会の再編により、分領制時代の地方教会の制度・慣習が府主教座に統含された。だが領域の規模も行政管理上の実際も以前と大きく変わっていた正教会は、同時代の体験の中から様々な新制度・慣習を創る必要があった。筆者が考えるところ、本稿で取り上げる「正統と異端」の関係もこの時代に初めて一つの枠組みとして成立したものであった。

この「正統と異端」の問題は、正統教会が自らと異端とをどこで区別したのか、異端に対し正教会はどう対応したのか、というものである。統一的なロシア教会が形成される際には、異質な要素をいかに統合、あるいは排除していくのかが問題となったはずである。その際に教会は新たな基準、方針を創らねばならなかった。つまりこの時代の「正統と異端」の関係を明らかにすることで、我々はこの時代に形成される、もしくは再認識されたロシア教会の主張、制度・慣習を見ることができるだろう。

本稿は14世紀後半にノヴゴロドとプスコフに現れた「異端」ストリゴーリニキを題材として中世ロシアの「正統と異端」の関係を見ようとするものである。彼らはロシアにおける最初の大規模な異端とされている。「異端」は正統教会の聖職者をシモニスト(聖職売買を行う者)であると非難し、そのために正統教会によって異端宣告を受けた。指導者達は1375年に処刑されている。だがその後も「異端」は存在し続けた。以後、1382年にコンスタンティノーブ総主教が、I386年にはペルミ主教が、更に15世紀初めにはモスクワ府主教が「異端」論駁を行った。その結果、彼らは15世紀20年代末に壊滅したとされる。「異端」自身によって執筆された著作は現存しておらす、従って我々は正統教会の要人達の書簡類を通じてしか彼らに触れることはできない。

1. 研究動向概観

最初の本格的研究はH.ルードネフによるものである。彼は初めて「異端」を学間的に扱った研究者である。それまで「異端」は正教を奉じるロシア人の敵であり、単に非難の対象として扱われていた。彼によれば「異端」は同時代の堕落した聖職者、なかでも金銭を受け取って叙聖を行っていた聖職者を批判していた。それゆえ、彼らは痛悔や聖体機密を否定し教会から離れ、大地にひれ伏して「神の前で自由に機悔を行った」のであった(1)。また彼は「異端」発生の大きな原因としてノヴゴロド・プスコフ地方における「自由の精神」の発達を挙げた。「異端」の説教はこの地方の人々に固有の、自由の感覚や精神の自由が発達した結果であつた(2)

Н.И.コストマーロフはルードネフが注目したノヴゴロド・プスコフ地方の諸条件を詳しく分析した(3)。それによれば「異端」はノヴゴロドの聖職者に対するプスコフのそれの不満と直結していた。当時のプスコフ教会は自らの主教を持っておらず、教会管理、裁判権、税の支払いに関してノヴゴロド大主教に従属していた。プスコフの民会活動にも介入していた大主教に対し、当地の聖職者達は敵意を持ち始めた。一方で彼らは司祭や輔祭となるためにノヴゴロド大主教に金銭を支払う必要があった。こうしたなかで一部のプスコフの下位聖職者達はこのことをシモニアとして断罪し、ノヴゴロドの教会ヒエラルヒー全体の批判者となった。「異端」をこのように捉えたコストマーロフは彼らの知的傾向に言及する。「異端」の首謀者カルプは「異端的著作」を作成し、そのなかで道徳的、人間的でなければ神の機密はその者に降らないと圭張し、道徳なき人間が執り行う機密を無効であるとした。そのために「異端」はノヴゴロドの聖職者全体を否定したのであった。彼らは聖体拝領を否定し大地へ懺悔を始めた。それに伴い彼らは独自の組織を形成し始めた。

これに対しА.И.ニキツキーは、「異端」発生の原因を当時のノヴゴロド大主教座とそれに従属するプスコフ教会の両ヒエラルヒーの退廃であるとした(4)。「民主的傾向」の強かったプスコフ教会の聖職者は、当地から多くの教会税をとりかつしばしば俗事に介入してきたノヴゴロド大主教やその代官に対し不満を抱いていた。彼らは教会法に基づかない税の支払いを拒否し、代官をプスコフの出身者から選出する権利を勝ちとることに成功する。だが大主教権力による不正行為や道徳的堕落はプスコフの聖職者自身のそれをも助長していた。特に叙聖の際の金銭授受は信徒団の目にはシモニアであると映った。「ヒエラルヒーの退廃は…信徒団の側からの強い反発を招かないわけにはいかなかった」のである(5)

一方でこうした試みとは別に「異端」をロシア国外から持ち込まれたものとする研究もある(6)。そうした研究の多くは彼らをポゴミール派と関係づけている。15世紀に「異端」を論駁したモスクワ府主教は、彼らが「天上の父に向かって叫んでいる」(7)ことを指摘しているのだが、これを研究者達は二元論的要素の現れであるとし、ポゴミール派の影響であると考えた。だがこうした主張に同調する研究者は多くはない。その理由は、論駁書を見る限り「異端」の本質的主張は聖職者の腐敗に対する抗議であって、二元論的主張に特有の「地上の教会」そのものの否定ではないからである。また天への呼びかけが即、その二元論的要素とは言えないからである。

Е.Е.ゴルビンスキーはこれら全ての説を念頭に置きつつ、「異端」とノヴゴロド・プスコフ間の闘争との関係づけを最小限に留め、また彼らがロシア起源であり、ロシア全域における正教会の腐敗の中から生まれたことを主張する。彼は「異端」の基本的性格を聖職者の腐敗に対する抗議、特に叙聖の際の支払いに対するものであると考えた。ただしこれまでの研究者と違い、彼は「異端」が機密そのものを否定したとは考えなかった。「異端」は堕落した聖職者の執り行う機密が無効であると主張し、教会で行われる儀式を否定し、それに代わって自分たちで独自に説教を行ったのであった(8)

こうした「異端」の全体像を捉える試みに対して、その教義の把握を第一の目標とする研究も存在する。「異端」自身が書き残したいわゆる「教典」は後世まで伝わることがなかった。しかし一部の研究者は、聖職者の堕落を非難する14世紀の文書集のなかに「異端」の教義と極めて近い内容を持つものが存在することを指摘した(9)。特にН.П.ポポーフは『イズマラグド』、『金の鎖』といった14世紀ロシアの文書集の内容を検討し、こうした作品こそが「異端」の「教典」であると考えた。

第二次大戦後にはマルクス主義史学のアプローチによる異端研究が盛んになった。「異端運動」に対してエンゲルスがあたえたテーゼ、すなわち「封建主義に対するあらゆる一般的なかつ公然たる攻撃が、特に教会に対する攻撃が、またあらゆる革命的、社会的および政治的教説が、同時に主として神学上の異端邪説でなければならなかったのは当然のことである」(10)というテーゼに沿って実証的な研究を行ったのがН.А. カザコーヴァである(11)。彼女は「異端」を「反封建運動」として捉え、「タタールの軛」の時代に直接モンゴル人に支配されることのなかったこの地域における経済的繁栄が、支配階級(主に大貴族、高位聖職者)と被支配階級(主に手工業従事者)との間の階級闘争を激化させ、このことが「異端運動」を引き起こしたと主張した。

だがこうした説明はストリゴーリニキが本質的には「反封建運動」であったということを示すことが目的であり、それに従えば都市の社会経済的下層民の多くが「異端」でなければならなくなる。しかし正統教会の高位聖職者の論駁書に現れる「異端」は決して大規模とは言えず、また特に下層民がこぞって参加したとも思われない。一方「異端」教義とは、彼女によれば「封建的」教会に対する全面的な批判(教会ヒエラルヒーそのものの否定、機密そのものの否定)であった。だが、何故「異端」が自分達で説教を行い、また天に向かって呼びかける、いわゆる「大地の懺悔」を行うというような、言わば新しい教会・信仰共同体・儀式を創設する活動を始めたのか、説明がなされていない。

これに対しА.И.クリバーノフは「異端運動」を「階級闘争」の直接の表れとは考えず、経済的・政治的繁栄に基づいた正教会や修道制の退廃が反教会運動を引き起こし、その一部が「異端」へ移行したと考えた。ストリゴーリニキ「異端」も含めた14世紀から16世紀の「異端運動」は、西欧における宗教改革と同種の改革運動であった(12)。彼によれば、「異端」は教会の現状に危機を感じた教会ヒエラルヒー下層及び外部からの改革要求の表れであった。彼はこのように「異端運動」を説明しつつ、以前ゴルビンスキーが述べたような論理構成によって「異端」の行動様式を体系づけている。つまり正統教会が改革要求を受け入れないため、彼らは腐敗した聖職者の執り行う機密を無効であるとし、自分達こそが正統なるキリスト教徒であると考えたのであった。

このクリバーノフの見解を真っ向から批判したのがБ.А.ルィバコーフである。彼は「異端」と同時代の史料とを幾つかの接点によって関運づけ「史料の量的拡大を試みた」(13)。彼はこれまでの研究者とは違い、論駁書だけでなく芸術作品や考古学的資料をふんだんに用いて彼らの教義を「明らかにした」(14)。そのため従来の「異端」像、つまり正統側の史料だけで作られた「異端」像とは全く別の像が彼によって描かれることとなった。それによれば「異端」の本質的主張は堕落した聖織者が執り行う痛悔に対する批判であった。つまりシモニア批判ではなかった。

一方で彼はこれまでの研究者が見落としていた点、すなわち当時のノヴゴロド・プスコフのおかれていた政治的状況にも注目した。「異端」はノヴゴロド教会と対立しつつも見逃されていた。何故なら当時のノヴゴロドはモスクワに対抗するため国内を団結させる必要があったからである。「異端」を弾圧したのは全てモスクワ府主教やペルミ主教といったノヴゴロド国外の聖職者であった。クリコヴォの戦いに参加しなかったノヴゴロドに対して「懲罰」の機会を狙っていたモスクワ大公ドミトリーは、ノヴゴロドにおける反教会運動のことを聞きつけ、それを府主教らに「異端」として断罪させたのであった。当時のノヴゴロド大主教アレクセイは信用を失い、「モスクワで再び正しい教えを受け」ることとなったのである(15)。このようにルィバコーフは全く新しい「異端」像を描き出したのである。

こうした研究状況のなかから筆者は幾つかの大きな問題点を指摘したい。

  1. ルィバコーフが提示した数多くの「新史料」は信糧性を欠いている。彼は自分が発見・発掘した史料を完全に信用し、それらを「異端」と結びつけているのである。だがこれらの「新史料」そのものの検討は不十分である。まずその検討が行われる必要がある。その一部については既に拙稿の中で述べた(16)。その他の「新史料」についても検討されなくてはならない。
  2. 「異端」の細部(起源、規模)については決定的見解が出されていない。特に「異端」発生のモチーフについて、これを聖職者のシモニアに対する批判であるとする「定説」と堕落した聖職者を介する痛悔の拒否とみるルィバコーフ説とが根本的に対峙している。こうした状況を打開する必要がある。
  3. 「異端」と下層民とを同質のものとみなすカザコーヴァやクリバーノフの主張は説得力に欠ける。史料のなかでは、彼らは大規模ではないし、また下層民ばかりが「異端」に参加したとは思われない。ルィバコーフはこの問題に答えていない。
  4. ルィバコーフ以外の研究者は「異端」の解明だけで終わっている。だが異端は正統に対する相対的な概念であるから、双方とその関係を考察する必要がある。従って本稿では第2、3節で「異端」の実体について、第4節で「正統」の「異端」対策について触れることとする。

尚、14世紀の「異端」と15世紀の「異端」は全く別のものである可能性がある。筆者は便宜上、個別に考察を行いたいと思うが、両者の関係の有無については改めて考察される必要がある。本稿では14世紀の「異端」についてのみ述べたいと思う。

本稿では以上の問題点を述べていきたいが、第一点の一部、また第三点に関しては、紙幅の関係上、別の機会に譲りたい。

2. 1375年までのストリゴーリニキと大主教座

(1) 「異端」出現の時期の問題

「異端」についての最古の史料は、1375年の彼らの処刑についての年代記記事である。「この年、ストリゴーリニキ、すなわち輔祭ミキータ、輔祭カルプ、そして第三の人物が殺された。そして橋の上から投げ落とされた」(ノヴゴロド第四年代記)(17)。これらの記事を載せている諸年代記は早く見積もっても15世紀30年代に編纂されたものである(18)。この時代のノヴゴロド研究に必須のノヴゴロド第一年代記新版も15世紀のものであるが、「異端」の処刑について全く触れていない。それゆえ「異端」の起源の解明は非常に困難である。だが史料に彼らが最初に登場するのは既にその処刑の記事においてであるから、1375年以前の彼らの存在は確実である。多くの研究者がこの問題に関して論争を続けている。

クリバーノフは14世紀前半の「改革運動」と「異端」運動との系譜的な近さを強調する。ルーシではモンゴルの侵入以後の時代に聖職者の退廃が著しいものとなった。これに対して教会内外から批判が加えられた。この批判の総体が「改革運動」であった。教会内部、特に下位聖職者からの主な批判は叙聖の際の金銭授受に対するものであった。これが「シモニア」ではないかという批判である。また教会外つまり教区民からも聖織者の倫理観の低下に関して批判が起こった。しかも教区民は数々の儀式требや教会裁判の際には聖職者に金銭を支払わなければならなかった。こうした下位聖職者や教区民の不満が一層激しさを増し、批判が具体的な形を取って行われた。これは14世紀半ばに「教会からの分離」の傾向を持ち始める。従ってクリバーノフによれば教会から完全に分離した「異端」は14世紀後半に出現したのであった(19)。他方ルィバコーフやカザコーヴァは「異端」の起源をノヴゴロド大主教ヴァシリー[在位1331-1352]の時代に結びつけた。彼らはヴァシリーを「民主派」と考え、この時代に「異端」発生の土壌ができたとする。何故なら彼らによれば「異端」の本質は「民主的」な都市下層民の「反封建運動」であったからである(20)

こうした研究状況において筆者はノヴゴロド大主教ヴァシリー時代とモイセイ時代[在位1308-1331、1352-1359]という、研究者達が「異端」の出現を想定した時代を検討する。

ヴァシリーについての史料は少ない。彼は大主教就任以前はノヴゴロドのホロープ通りのクジマ・ダミアン教会の司祭であった(21)。従ってノヴゴロドの教区や教区民の実態に通じていたと考えられる(22)。モンゴルの侵入以降、ヴァシリー以前に教区聖職者から大主教が選出された例は皆無である(23)。この時代の「改革運動」が、その起源を主に教区聖職者の堕落や教会の退廃に持つこと、そしてこの堕落や退廃を憂いた「モラルのある」同僚の聖職者や教区民の抗議がノヴゴロドやプスコフにおいても同様に行われていたことが定説的見解となっている。堕落した聖職者に対する抗議はその性格上、教会ヒエラルヒーの底辺を舞台として起こりえたものであった。輔祭や教会に勤める鐘つき番、読経士などは叙階の際の支払いに抗議していたし、教区民は様々な儀式への支払いや聖職者のモラルの低下を告発していた(24)。つまりヴァシリーはこの抗議に精通していたと考えられるのである。彼は1331年に大主教となったが、以前の大主教に比べ、「改革的」雰囲気を破壊しようとする彼の意図は弱かったと考えられる。後に「異端」と見なされる人々が「改革運動」の一部であったとするクリバーノフの見解には同意できる。この意味で「異端的行動をとる人々」の出現をヴァシリー時代と考えることは妥当であろう。だが彼らが「異端」であると教会により認識された形跡はない。

更に論拠を挙げよう。ヴァシリーの死後再び大主教となったモイセイは「異端」と戦う聖人として聖者伝内で描かれている(25)。その際、ストリゴーリニキとの戦いは、彼の二度目の在位期の記述にのみ現れるのである。最初の在位期の記述にはそうしたものはない。つまり彼はヴァシリーから大主教位を引き継いだ後にr異端」と遭遇し、彼らを弾圧しているのである(26)。従って「異端的行動をとる人々」の起源は、やはりヴァシリー時代に求められるよう。

このようにヴァシリーの時代は、後に異端視される、されないに拘わらず、堕落した聖職者への抗議の土台が形成された時代であったと言える。そのなかには様々な抗議が存在したことであろう。我々はその具体的内容を知ることはできない。しかしこの抗議はヴァシリーという教区の実状を知る者がいてこそ許されるものであった。彼が1352年にペストで亡くなるとモイセイが大主教位に復位することとなった(27)。今や状況は全く変わったのである。

モイセイ時代の「異端」についての直接の史料は全く存在しない。それゆえ、研究者達は「聖者伝」の記事を根拠として、この時代における彼らの存在だけを確認している。ただしその実態は謎に包まれている。筆者も基本的には諸研究者と同様の態度をとらざるを得ない、だがこの時代にもヴァシリー時代からの抗議運動が衰退しなかったことは確実である。現にそれはモイセイが再び大主教をやめた後にも存在し続けている。ではこの時代の「異端」はいかなるものだったのか。筆者はこの時代に新しく「異端」が登場したのではなく、抗議運動の一部が正統によって異端視され始めたのではないかと考えている。なぜならモイセイが大主教に復位すると共に異端視される人々が現れるのは不自然だからである。彼らの主張は教区の堕落した聖職者に対する批判であり、モイセイの大主教復位とは直接関係を持たない。そのため異端視される人々がこのころに新たに登場したと考えるよりも、異端視する側の基準が変化したと考える方が妥当であろう。従ってモイセイの大主教就任による正統の異端基準の変化こそが「異端」出現の起源なのであり、教区民の抗議のなかでも急進的なものが異端として認識され始めたと考えられるのである。

ただしここで問題が一つある。それはモイセイが異端宣告を行う権限を所持していたのか、というものである。大主教座が異端宣告を行った例は中世ロシアにおいては皆無である。従って筆者は「異端」に対し大主教座が異端宣告を行ったということには否定的である。だが彼らは限りなく異端に近いものとして考えられていたはずである。後で述べるが、公式に彼らに対して異端宣告を行ったのは総主教であると筆者は考えている。

「異端」に対する正統側の対応についての直接の史料は「聖者伝」だけである。しかし幾人かの研究者は間接的な史料を利用している。例えばカザコーヴァは「コンスタンティノープル総主教に宛てた書簡のなかで、モイセイは府主教を告訴していただけでなく、ストリゴーリニキ異端の存在を指摘し、異端を非難する書簡を自分の後継者アレクセイに送るよう総主教に請願したという推定もまた、特別なものではない」と述べている。彼女は1353年にモイセイが総主教に宛てて書いた書簡の存在を根拠として、当時ノヴゴロド教会が総主教の権威を以て「異端」に何らかの対応、恐らく弾圧を行っていたことをほのめかしているのである(28)

この書簡についてはノヴゴロド第一年代記新版が極めて簡潔に伝えている。それによればモイセイはノヴゴロドに対する「府主教の圧力」を不当なものと考え、総主教にそのことを訴えている(29)。総主教はこれの訴えを認め、次の年にモイセイに返書を送っている。モイセイは金印や法衣を返書と共に受け取っている(30)

だがこれを根拠にカザコーヴァの意見に賛同するわけにはいかない。この記事は短く、しかも「異端」との関わりについて何も記されていない。またこの情報を伝えているのはノヴゴロド第一年代記新版だけであり、これと起源的に近いノヴゴロド第四年代記、ソフィア第一年代記ではこの記事は欠けている。三つの年代記の内、モスクワ府主教に近い後二者にだけこの記事が欠けていることを考慮するならば、モイセイの書簡の主な内容は年代記が述べているように府主教の告訴であったと考えられよう。それゆえ、府主教が編纂に関わった二つの年代記ではこの記事が削られていると思われる。後に述べるように府主教座系の二つの年代記の編者はI375年の「異端」の処刑を暴いて、ノヴゴロド大主教座の評判をおとしめているぐらいである。もしモイセイの書簡が「異端」と関わっていたなら、そのことも記しただろう。だが実際にはそれがなされていないから、書簡は彼らとは関わりがなかったと考えられるのである。いずれにせよ、この書簡が「異端」と関係していたとしても、それはあまり効果を発揮しなかった。結局、彼らがこれによって滅ぶことはなかったのである。

この時代にも堕落した教区聖職者は批判されており、それは14世紀80年代に至るまで続く。この間、批判の具体的内容やその変化も確認できない。だがモイセイの大主教復位に伴う正統の異端基準の変化は確認できるだろう。これこそ「異端」の起源であると言えまいか。モイセイの時代の正統教会の変化、具体的にはその異端基準の変化がなければ、堕落した聖職者に対する抗議は異端視されなかったと考えられる。

(2) 1359年蜂起と1375年の「異喘」に対する処刑

七年間在職した後、1359年にモイセイは大主教位を「自分の意志で」退位した。その直後にノヴゴロドでは暴動が発生し、ソフィア教会の管財人であったアレクセイが大主教に選ばれた(31)。大主教の交代は「異端」の運命を大きく左右したはずである。正統の側に再び変化がおこったのである。

アレクセイはもともと聖織者の位階を所持していなかったので、民会で大主教に選出された後の半年ほどの間に輔祭、司祭、大主教へと叙聖された。それゆえ、彼が教会の典礼や教義の細部に精通していたとは言いがたい。1375年の「異端」の処刑後、彼はモスクワ府主教の下へ呼び出されている。彼は府主教から「正しい信仰」について手とり足とり教えられたという(32)

アレクセイの任期は1388年までであるが、この間に1375年のカルプらの処刑が行われている。そのためカザコーヴァは、処刑を執り行ったアレクセイの宗教政策をモイセイのそれに近いと考え、彼を「正統的視点を持つ者」であると考えた(33)。だがアレクセイの宗教政策をこの理由だけで正統的なものと見なすことはできない。

これに対し注目すべきはルィバコーフの見解である(34)。彼は当時のノヴゴロド国とモスクワ大公国との関係を考慮し、アレクセイに代表されるノヴゴロド教会が「異端」を大目に見ていたという全く異なった意見を述べた、それゆえに彼は、「異端」を弾圧したモイセイから彼らに寛容であったアレクセイヘの交代が行われ、また蜂起が起こった1359年を大きな転機と捉えたのである。

この二つの全く異なる意見は1375年の処刑が誰によって行われたものであるかという問題への回答の差異に基づいている。つまり前者によれば、処刑にはノヴゴロド教会が関わっていたから、その代表者であるアレクセイは「正統的」であり、それゆえに1359年の大主教の交代は大きな意味を持たなかったのである。つまりモイセイとアレクセイは双方共に「信仰に厳格」であったことになる。逆に後者は「異端」の処刑へのノヴゴロド教会の関与を否定した。従って彼らに対するアレクセイの消極的対応が強調され、同時に彼と前任者モイセイとの差異も強調される。そのため1359年蜂起がノヴゴロド教会にとっての一大転機であると評価されたのである。従ってこの問題を解くためには1375年の「異端」の処刑を検討する必要がある。

「異端」の指導者達の処刑については幾つかの年代記の短い記事が教えてくれるだけである。先に述べたノヴゴロド第四年代記の他にソフィア第一年代記が多少違った記事を載せている。「この年、異端ストリゴーリニキ、すなわち輔祭ミキータ、教区民カルプ、そして彼らと共に第三の人物が殺された。聖なる信仰を乱した者達は橋の上から投げ落とされた」(35)。ここでは先の年代記と異なってストリゴーリニキが異端であるとされ、かつカルプが教区民とされていることが注目される(36)。一方でこの時代のノヴゴロド史研究の中心的史料であるノヴゴロド第一年代記新版にはこの処刑の記事は存在しない。

こうした史料的条件を念頭に置きつつ考えてみよう。「異端」の処刑の執行自体は事実であろう。ではこれを誰が執行したのか。19世紀の研究者は処刑を教会当局の関与しない、民衆による偶発的なもの、言わば私刑であったと考えた。何故なら教会による死刑執行は教会法で禁じられていたからである(37)。しかしペルミ主教によれば「異端」は処刑の時点で既に破門されていた(38)。それゆえゴルビンスキーはこの処刑を、先に教会による破門を伴った、世俗当局による公的なものであると考えた(39)

これに対しカザコーヴァは教会当局が処刑に公的に関与したことを認め、教会による刑の執行と、それに対するノヴゴロド国当局の支援を強調する(40)。彼女は、両者が「封建制時代」の「封建領主層」であること、両者によって処刑された「異端」が「反封建運動」であることをこの処刑から導き出そうとしたのであった。だが教会が処刑に関わっていたことの論拠を彼女は全く挙げていない。

これに対してルィバコーフは、もしノヴゴロド教会によってこの処刑が行われたのであれば、大主教付きの年代記作者がこの「異端に対するキリスト教の勝利」について記録しただろうと考えた(41)。だが実際にはノヴゴロド第一年代記新版の年代記作者は処刑の記録を残していないのである。それゆえ、彼は19世紀の研究者と同様にこの処刑は俗人によって偶発的に行われた、教会が関与しない私刑であったと考えるに至ったのである(42)

カザコーヴァを除けば、教会当局の関与の否定という点だけは研究者に共通の見解であると言える。筆者もこの点には同意する。では処刑は誰によって行われたのか。ノヴゴロドの世俗当局による公的な処刑であるのか、教会当局も世俗当局も全く関わることがなかった私刑なのか。筆者はこれを前者であると考える。その根拠は以下の通りである。

第一にノヴゴロドの大橋から罪人を投げ落とすという処刑方法はノヴゴロドの世俗当局が行う処刑の方法であった(43)。第二にルィバコーフはノヴゴロド第一年代記新版に処刑の記事が欠けていることを重視したが、この版は15世紀30-40年代に作成されたものである。つまりこれはアレクセイやその同時代人が執筆したものではなく、もっと後の時代の人の手による編纂本なのである。従ってルィバコーフの批判は説得性に欠ける。第三に「異端」が自分達の主教区で活動を行い、それを弾圧しきれないという事態は大主教座にとって極めて深刻なものであった。つまり私刑を悠長に待ってはいられなかった、という状況があったのである。

確かに教会は死刑の執行を禁じられていた。だがノヴゴロド大主教は、教会の指導者であるだけでなく、ノヴゴロドの貴族会議の指導的役割も兼ねていた(44)。つまりアレクセイは教会人としては「異端」の破門だけ行い、その後の処置は世俗当局を通じて行い得た。こう考えると世俗当局の公的処刑であると考えるのが最も妥当性を帯びていると言えよう。

ただしアレクセイはこれを早急に行ったが、しかし死罪というやり方に積極的であったという証拠はない(45)。また処刑後すぐに彼が大主教位を退位したことは、世俗当局が「異端」を処刑したことへ責任をとったと考えられよう。直後に府主教の許へ行ったアレクセイは、そこで「彼に任された教区民をいかに指導するか、また自分の子ども達をどうやってあらゆる悪から守るのか」という司牧の基本について教えられているのである(46)。またルィバコーフが自説を補強するために利用した細密画は、我々の見解とも矛盾しない(47)。そこでは教会人達が、「異端」を橋から投げおろしている市民達を諭しているのである。

だが「異端」に対し然るべき対応を行おうとしたという意味で、アレクセイはやはり前任者と同じであった。

こうなると先に述べたような1359年蜂起は少なくとも「異端」問題との関連で言えば、さして重要ではなかったと考えられる。アレクセイは前任者のモイセイと同様に「異端」対策に取り組んでいた。そもそも大主教が交代してもソフィア教会の参事会соборそのまま残っているのであり(48)、いかにアレクセイが「異端」を見過こそうとしたとしてもそれはノヴゴロド教会全体としては認められないものであっただろう。それゆえにモイセイからアレクセイの交代が行われた年であるI359年、そしてその交代の直後に行われたノヴゴロドでの市民の蜂起は正統教会やその「異端」基準にとっては大きな意味をなさなかったと言える。

最後に検討すべき問題が残っている。この時代の中心史料であるノヴゴロド第一年代記新版は何故この「異端」の処刑に触れていないのであろうか。後のペルミ主教や府主教の書簡から判断すれば、「異端」の出現とその影響は教会当局にとって重大問題であったはずである。

ルィバコーフによれば、当時のノヴゴロド教会当局は「異端」問題を「陰の部分」であると考え、隠蔽していた(49)。確かにそう考えることはできる。ノヴゴロド第一年代記新版はノヴゴロド教会の聖職者によって1432年までに編纂されたものである(50)。またその典拠であるノヴゴロド第一年代記旧版とノヴゴロド大主教年代記もノヴゴロドでまとめられたものである。従ってノヴゴロド教会は「異端」の記事の隠蔽を行うことができた。

だがここで一つ問題が残る。何故ノヴゴロド第四年代記やソフィア第一年代記に処刑の記事が記されているのか。このことを考えてみよう。15世紀前半に作成されたこれら二つの年代記は一つの特徴でまとめられる。すなわち双方とも府主教座系年代記である(51)。ノヴゴロド第四年代記とソフイア第一年代記は共通の集成(いわゆるノヴゴロド・ソフイア集成[以下「集成」と略]、1430年代初頭編纂(52))に起源を持っていた。この集成は、ルリエによれば府主教座の公式集成であった(53)。いわゆる「封建戦争」の間、府主教座の実務はノヴゴロドで行われていたというのである(54)。ノヴゴロド第四年代記とソフィア第一年代記はほぼ同じ「処刑」記事を載せている。従ってこの記事は「集成」に入っていたと考えられる。

更に「集成」が府主教座集成であるならば、その殆どの記事はそれ以前の府主教座集成に起源を持つものとまずは考えられる。「集成」以前の府主教座集成はモスクワ府主教フォーチーのもとで作成された「1419年集成」と呼ばれるものである(55)。だが彼はノヴゴロドにそれほど関心を持っていなかった(56)。それゆえ「処刑」記事の起源を「1419年集成」に求めることは困難である。

ここで注目されるのはギッピウスの最近の研究である。それによれば「集成」にはノヴゴロド大主教年代記からもかなりの記事が入っている(57)。つまりノヴゴロドの地方的記事の殆どはここに起源をたどれるのである。ルリエは「集成」の補足的な史料を幾つか挙げている(58)が、それらから記事が入った可能性は低い。「処刑」の記事が処刑された人々の位階と名前を記していることを考慮すれば、地方的年代記すなわちノヴゴロド大主教年代記から記事が混入したと考えられるのである。だがそうなると大主教達は「処刑」記事を隠していなかったことになる。

従ってこのノヴゴロド大主教年代記から多くの記事を得ているノヴゴロド第一年代記新版に「処刑」記事が欠けているとなれば、記事の排除は第一年代記新版の編纂の時期に求められる。つまり1430年代後半である。

この時代のノヴゴロド大主教は反モスクワ的行動で知られるエヴフィミー2世在位[1434-1458]であった(59)。彼の徹底した反モスクワ的行動は最近のヤーニンの研究からも明らかである(60)。ノヴゴロド大主教座とモスクワ府主教座の問の旧習、つまり府主教裁判権をノヴゴロド大主教区にも認めることをエヴフィミーは拒否し、そのために彼はノヴゴロドで大主教候補に選出された後、長い間府主教から叙聖されなかった。

一方でこの時代の政治的背景も忘れてはならない。14世紀末からモスクワ大公のノヴゴロドに対する締め付けは一段と厳しくなっていった。ノヴゴロドは15世紀20年代から始まる「封建戦争」においてはガーリチ公を支援した。こういった態度は当然、教会同士の対立として現れた。この時代にモスクワ府主教の影響下で編まれた年代記のなかでは、ノヴゴロドにおける「異端」の存在を示す記事を隠す必要など存在しなかったのである。これとは逆に大主教エヴフィミーが「異端」記事を隠したとしても不思議ではないのである。

ストリゴーリニキを「異端」と呼んでいる年代記がこのような性格を持っていることを心に留めておかなくてはならない。このことを考慮するならば、「異端」問題にはノヴゴロド教会ばかりか、モスクワ府主教座までが関心を示していたことが見え隠れするのである。詳しくは後に述べる。

このように1375年の処刑までの「異端」を見る側については史料的制約にも拘わらず、幾つかのことが明らかとなった。モイセイからアレクセイヘの大主教の交代により正統の「異端」対策が変わることはなかった。アレクセイは彼らを破門し、その処罰を世俗当局の手に委ねたのである。「異端」問題はノヴゴロド国内問題として終わるはずであった。

3. 1375年以後のストリゴーリニキと正統教会

指導者の処刑の後も「異端」は存在し続けた。つまりノヴゴロド教会は既に単独で彼らに対応することはできなかったと考えられる。以後ノヴゴロド教会の他にコンスタンティノープル総主教やペルミ主教が彼らに対して様々な対応を試みることとなった。ここでは1375年以後の「異端」の教義、活動、それに対する正統教会の論駁について検討する。

(1) 「異端」の活動、教義、及びそれに対する総主教の論駁

1382年に「異端」に宛てられた総主教の書簡(61)を繙くと、まず目に入るのは叙聖の際の支払いを問題視した人々に対する非難である。「もし誰か主教達が金銭を取って司祭を叙聖したとしても、彼らを教会から離れさせるべきでないし、彼らを異端と呼ぶべきではない」(233)[以下、総主教書簡とペルミ主教の論駁書に関してАЕД史料編のぺ一ジを示す]。ゴルビンスキーによれば、カノンによって叙聖の際の支払いは禁じられていたがビザンツでは全く守られていなかった(62)。ロシアでは「改革運動」の結果、叙聖の際の支払いは、蝋燭代などの儀式の諸経費として7グリヴナに制限されていた(63)。それにも拘わらず「異端」がこうした主張を行っていたということは、実際には7グリヴナ以上の金銭が支払われていたと考えられる。総主教は続けて述べる。「彼らは使徒の全地教会から破門された。全ての異端は、聖務従事者や司祭、全ての聖職者及び一般信徒さえもが、金銭によって叙聖し、また叙聖されていると考え、自分達だけが正しい信仰を持っていると考えている」(232-233)(64)。つまり「異端」は聖職者のシモニアを教会ヒエラルヒー全体の否定へと繋げていたと考えられる。何故なら彼らは「自分達だけが正しい信仰を持つ」と考えているからである。

この議論は堀米庸三が「人効諭的秘蹟(機密)論」(65)と呼んだものを想起させる。これは聖職者が執り行う機密の有効性をその執行者の「資質」と直結させる考え方である。「異端」はこの考え方と同様に、個々の聖職者の堕落(シモニア行為)を理由に彼らの機密を無効と見なし、全聖職者ヒエラルヒーを否定したと考えられる(66)

もちろん機密という概念を「異端」が所持していたかどうかは定かではない。だが、たとえ機密概念を彼らが認識していなかったとしても、それは彼らの前では聖職者の具体的な儀式(聖体拝領、痛悔、聖洗など)として具現化していた。つまり「異端」は機密を目に見える形で把握し理解し得た。またその指導者カルプやミキータは元々輔祭であったから、彼らから機密概念が「異端」に広まっていた可能性もある。こうしたことを考慮しよう。確かに「異端」の考え方は「人効論」の理念型との差異が見受けられるのだが、これを「人効論」と呼んで差し支えないと筆者は思う。

シモニァの主題に書簡の多くを割いた総主教は、「異端」が自らを「神の書物と聖なるカノンの純正さを守る者である」と考えていることに触れる(67)。彼らのこの主張と聖職者に対するシモニア批判とは「人効論」を介してのみ結びつくものである。聖職者がシモニアを行っているから、彼らは自分達で神の書物やカノンを守るしかなかった。つまり彼らは、はっきりとシモニアを禁じていた使徒時代の教会の理念を踏襲した生活の実践を主張していたのである(68)

このように考えた「異端」は「教会から離れる」ことになった。ただしこれが具体的に何を意味するのか、明らかでない。いずれにせよ総主教の書簡からこれ以上「異端」像を読みとることできない。

この書簡を持った大主教ディオニシーの活動にも拘わらず、「異端」はその勢いを失わなかった。それを証明するかのように、それから四年たって大主教アレクセイは新たな「異端」対策を行った。それはペルミ地方のキリスト教化を行い、その初代主教となったステファンのノヴゴロド招致と、彼への「異端」論駁書の作成依頼である。

(2)「異端」の活動、教義、及ぴそれに対するステファンの論駁

彼の論駁書から明らかになる「異端」の中心的主張は、叙聖の際の支払いに対する非難である。これは論駁書の大半がこの主題に捧げられていることから明らかである(69)

もちろん「異端」は個々の聖職者に対する批判だけに留まらず、全聖職者ヒエラルヒーの否定へと展開させた(70)。この点が重要である。筆者は既にこれを総主教の書簡から読みとったが、ステファンの論駁書のなかでこのことはより強調されている。その冒頭では「聖なる会議、総主教、府主教、主教、典院、司祭、あらゆる聖職者の位階を、あたかも資質によって叙聖されたのではなく」(237)、「金銭によって」(237)叙聖されたものであると彼らが誹謗した、と具体的に述べられている。単に「金銭」による個々の聖職者の叙聖が問題であれば、総主教や府主教といった高位聖職者の名は挙がらなかっただろう(71)

全聖職者ヒエラルヒーの否定の論理は聖職者の「資質」の重視に基づいていた。「資質」と「位階」がここでは明白に結びつけられているのである。これが問題とされるということは、「異端」が「人効論」つまり「資質」なき者の機密は無効であるという考えに基づいていたこと、それゆえ全聖職者ヒエラルヒーを否定していたことを証明してくれる。

ステファンはこれに対して二つの観点から論駁を始める。第一に総主教同様、彼は叙聖の際の支払いはシモニア行為ではないことを福音書やパウロの書簡からの引用で論証しようと試みた。「教会人は叙聖される者への説教の際に徴収するのである。使徒が述べているではないか。『教会人は教会によって養われている。祭壇の人は祭壇によって養われているのではないか。自分でぶどう園を作りながら、その実を食べない者がいるだろうか。羊の群を飼いながら、その乳を飲まない者がいるだろうか。行う者は自分の支払いを受けるのに値する』」(239)。つまり金銭の支払いは叙聖そのものの代価ではなかった。叙聖される前の、説教の段階で金銭は支払われるのである。また、ある行為に対しては代価が支払われるのは当然であるというのである。

第二に彼は「事効論」的考え方に基づき、機密の有効性を説く。彼によれば、聖職者の神品機密はキリストから伝わったものである。だから機密はいかなる時にも無効とはならないのである(72)。「キリストは12弟子を選び、この使徒達を叙聖し、神に祈り、頭に手を置き、民衆に教えることを許したのである。この使徒達がキリストの信仰を広め、栄誉ある教えを育て、自分の弟子達を選び、司祭達、主教達、総主教を叙聖した。『二人か三人の主教が主教を叙聖する』という規則に基づいて。主教達は総主教を選出した。その者が死んでもその行為は残るので彼と共にその聖性が失われることはない。使徒自身は神の子キリストから按手を受け、同様の按手が総主教、府主教、その他の聖職者に対して行われた。同様の規則で現在まで、総主教や府主教達は選出されたのであり、個々の地域では総主教が叙聖され、総主教が府主教と共に府主教を叙聖し、府主教が主教達を伴って主教を叙聖し、主教達は司祭や輔祭を伴って司祭や輔祭を叙聖するのである」(238)。ステファンによる神品機密の「事効性」の強調は「異端」が説く神品機密の「人効性」に対抗したものであった。

彼は続ける。「聖職者が聖務をなすときはそれを[あなた達はム筆者注]受け取りなさい。キリストがシオン山でその使徒達と共に夕食をとったように。またキリストの手から取るかのように、聖職者の手から聖体を受けるのが最もよいのである。その際に神の司祭について調べたり、司牧をする資質があるのかそれともないのかを根ほり葉ほり問いただしてはならない」(238)。「異端」が聖職者の資質に関して問いただしていたことは、彼らの関心がこの点にあったことを明らかにする。「ストリゴーリニキの側からの鋭い批判の対象であったのは、聖織者の倫理観の低さでもあり、至高なるキリスト教思想と釣り合わない不道徳な聖職者の生活形態でもあった」のである(73)。ここでも筆者は「異端」の「人効論」的主張を見て取ることができる。

このように考えた「異端」は当然、聖職者の執り行う儀式から離れ、自分達で、信徒を司牧するに相応しい「民衆の教師を任命」(238)し始めていた。堕落した聖職者が執り行う儀式が有効であるのか、彼らは疑問を持ったのである。これは「改革運動」では教区民が持つ素朴な疑問として現れたものであった(74)

ステファンはそれに対する攻撃も行っている。「キリストは再び地上に降りてくることはないし、また天使達が来てあなた達を叙聖することもないし、それにこのことを信じるのはおかしい。パウロは『もし天使があなたを祝福したとしても、呪われるだろう』と言ったではないか」(239)。パウロの書簡のこの箇所は、天使がある人を聖職者に叙階したとしても、教会の機密を受けていなければその人は聖職者の資格を持ち得ないとするものである。つまりある俗人が「資質」を持っていたとしても、教会が認めないならば、その者に自然と神の機密が降り、聖職者として認められるわけではないのである。

では「異端」が着目した「資質の獲得」とは何を意味するのか。ここで彼らがその基準としたものは聖書、特に福音書を読むことであった。そしてその内容に依拠し、彼らはキリストや使徒の言葉を実行することこそ、「真のキリスト教徒」たる「資質」の獲得に値すると考えたのである。それゆえ彼らは「読書家」と呼ばれるほど、書物をよく読み、「書物の言葉を研究」(242)していた。もちろんこのことは正統教会においても当然の態度であった。だが殆どの教区聖職者の実態はそうではなかった。同時代の「改革運動」が明らかにするように、彼らは書物を読まなかった(75)

ここで「異端」の「教典」問題にも触れておこう。ステファンによれば「異端」は「誘惑されやすい書物の言葉」を研究し「書物の言葉を人々に見せ」(239-240)ていた。そして明らかに町の人々の前で聖職者を非難し、祈りを捧げていた。論駁書に現れる彼らの行為は明らかに「書物の言葉」に基づくものであった。この言葉を載せている「書物」についてステファンは「ストリゴーリニキは、神に背き…聖体拝領から離れて、自分の異端の助けになるように書いた書物を…見せている」(237-238)と述べている。

これに関する特別な研究状況については既に見たとおりである(76)。すなわち幾人かの研究者は『イズマラグド』、『金の鎖』、『ヴラスフイミヤ』といった当時の聖職者の堕落を非難した文書集、とりわけ『偽の教師についての講話』(以下『講話』と略)を「異端の書物」であると考えたのであった。

確かに『講話』の主張と「異端」のそれとは合い通じる部分を持っている。しかし拙稿で述べたように、『講話』が聖職者を尊重しているのに対し、「異端」は全教会ヒエラルヒーも汚染され「価値のない」ものであると考えている。何故なら「異端」は汚れた叙聖に対する批判を根底に持っていたからである。この点は完全に『講話』の主張と異なっている。『講話』は一部の聖職者の堕落に対する批判であり、教会ヒエラルヒー全体の堕落には繋がり得ない。一方で「異端」は、叙聖というヒエラルヒーの上下をつなぐ接点に疑問を感じたからこそ全聖職者ヒエラルヒーを否定したのである。

このように双方の主張は食い違っているが、では「異端」が『講話』を受け入れた可能性は残っていないのか。もちろんこれは残っている。彼らの教えは『講話』の教えの発展型として存在し得るからである。『講話』の主張と同じく、彼らが新たな「教師」を「任命」していたことは明らかである。また『講話』では教区民が堕落聖職者のところに行くことは禁じられていたが、「異端」も聖職者の許に行かなくなったことがステファンの論駁書から読みとれる。もちろん『講話』では聖職者のシモニアに対する批判はなされていないが、これは『講話』と「異端」との関係を否定する材料とはならない。『講話』のいう「偽の教師」は聖職者として相応しくない行為を行っていたがこれにはシモニア行為も含まれたと考えられる。そうでなくとも『講話』では、金銭のやりとりは聖職者に相応しくないとされている。これらを考慮すれば「異端」は十分に『講話』を受け入れえたと考えることができる。 だが、それにも拘わらず『講話』を「異端の教典」であると言うことはできないと筆者は考える。確かに双方の主張の比較検討からはこの問題を肯定的に見ることはできるのだが、その可能性を明らかにできただけである。決定的な証拠を我々は何も持たない。総主教やステファンの論駁書、年代記からはこれを読みとることはできないのである。ただし次のことは確認できよう。つまり当時の「異端」視されなかった教区の、『講話』に代表される「改革運動」と「異端」とは極めて密接な関係を持っていたことである。

事実「異端」は、『講話』で主張されるような清き生活の実践へ進んでいた。彼ら自身が「真の聖職者」となるために、自ら斎戒を行い、聖書を読み、町の人々に説教を始めたのであった。ステファンはこれを批判する。「福音書には『断食するときには、偽善者達のようにやつれた顔をしてはならない。彼らは断食していることが人に見えるようにその顔をやつすのである。しかしあなたが断食するときには、断食しているのが人に見られることなく自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。』と書かれている。同様にキリストは秘密裡に祈るよう命じ、あらゆる虚栄心の強い高慢な人々に町の通りや町の広場で祈らないように、そして本の言葉を人々に示さないように教えた…いかなることも秘密のうちに隠れて行いなさい」(240)。ここで注目すべきは、ステファンが、彼らの行為そのものというよりは、それを人々の前で行うことを批判しているという事実である。彼は「異端」の行為が人々に影響を与えることを恐れていたのである。書簡でも「書物のなかで異端自らが誘惑され、また彼らは幾らか理解のない者を誘惑している」(242)と述べられている。

清き生活の実践は別の面でも行われていた。「異端」は福音書のキリストの言葉に依拠して余計な財を所持しなかった。これは明らかに金銭を貯める聖職者に対する批判も兼ねていた。「ストリゴーリニキのことを、誰か馬鹿な者が『彼らは強奪せず、財産を持っていない』と言っている」(242)とステファンは述べている。だが「異端」のこうした福音書の典拠に基づいた活動さえも、彼は福音書の別の箇所を提示するだけで簡単に斥ける。「キリストは使徒達に「今日は袋と毛皮を持って行きなさい」と言っている。キリストが使徒達に袋と毛皮を持つよう命じたのに袋と毛皮を持つことは、恥ずかしいことであろうか」(241)。

だが総主教の書簡とは違い、ステファンの論駁書のなかでは、「異端」の主張は新たな展開を見せている。「もしキリストが誰からも財産を受け取らなかったのであれば、キリストが井戸に座っていたとき、使徒達はサマリアの町でどうやってパンを買いに行ったのだろうか。またユダは鞄に誰の銀貨を入れていたのだろうか。キリストの昇天の後、使徒達はキリストの名を教え広め、捧げものを受け取った。多くの者が村と財産を売り、その代金を使徒達の手に差し出した。」「使徒は、彼らへの捧げものから取り、求める者には与え、自分達でそこから自分達のために食物と衣服を得たではないか」(240)。主教のこの言葉から分かることは「異端」が、叙聖時の金銭支払いだけに批判の矛先を向けていたのではなかったということである。恐らく彼らは、聖職者が受け取るあらゆる金銭に対し批判を行っていた。彼らの主張は総主教の書簡が書かれた頃のそれから変化していた。もちろんこの主張は「人効論」的思考を介していたと考えるのであれば、以前の「異端」の主張から十分に予想しうるものである。つまり聖職者は清くあるべきであるという「使徒的」理念型に基づき、金銭授受の批判がなされたと考えられるのである(77)

清き活動を行い、自らを「正しい」キリスト教徒であると考えた彼らは、聖職者批判を展開した。「ストリゴーリニキは『教師達は酒飲みであり、酒飲みと共に飲み、食事をし、彼らから金銀を取り立て、また生きている者、死んでいる者からも取り立てている』と言っている。」(240)そして「虚栄心の強い高慢な人々を、民衆の教師に任命し」始めたのであった。(238)

もちろんステファンにしてみれば、たとえ聖職者が堕落していても正統教会の聖職者こそが「真の司牧者」であった。また堕落した聖職者を裁くのは「異端」ではなかったし、彼らによる代行を認めようもなかった。彼は言う。「もしあなた達の言うとおり聖職者と司祭の資質がないとしても、主が『律法学者、パリサイ人達はモーセの座を占めている。だから彼らがあなた達に言うことはみな、行い、守りなさい。けれども彼らの行いをまねてはならない。彼らは言うことは言うが、実行しないからである』と言ったことを思い出しなさい。あなた達ストリゴーリニキは福音書を読んでいるが、『使徒に服従せよ』と言われている言葉を犯し、また聖職音に対する非難を読んでいるけれども、福音書のなかで言われている『兄弟の目のなかのちりには注意するが、自分の目のなかの梁には気がつかないのか。偽善者達よ、まず自分の目から梁を取りなさい』というキリストの言葉を理解していない」(240)。

では誰が裁く権利を持つのか。これについてステファンは明確に答えてはいない。先の総主教は、府主教や総主教がこの権利を持つと考えていたが、ステファンもおそらく同様に考えていたことであろう。少なくとも聖職者を裁くのは聖職者であるべきであった。「使徒パウロが『彼ら[聖職者ム筆者注]は自ら自分を裁くが、裁かれることはない』と言ったことを思い出しなさい。」「キリストは福音書を、崇拝し、その言葉を研究し、誰かを非難するために世界に与えたのではない。そうではなくてキリストはそれを読みつつ自分[読み手ム筆者注]を非難するために福音書を与えたのであり、我々は自らを管理するのである」(240)。つまりステファンは聖職者の自己検証を期待していることが分かる。

だがこうしたステファンの言葉から判断すれば、「異端」は、聖職者は自已検証能力を持たないと考えていたように思われる。それゆえ清き行いをする自分達が聖職者に代わって「真の司牧者」となるべく行動を始めたのである。「人効論」的考えに基づき彼らは聖職者が執り行う儀式への参加を控えた。つまり「教会の」聖職者を介した痛悔の否定、「教会の」聖職者による聖体拝領執行の否定である。カザコーヴァはこれを「理性的な異端」による機密そのものの否定であると考えたが、そうではない(78)。ステファンの考えでは、機密や儀式とその執行者(聖職者)とは当然分離できないものであった。それゆえ、聖職者が執り為さない機密や儀式は、彼にとっては「痛悔」、「聖体機密」ではなかった。それゆえステファンは彼らがあらゆる機密や儀式を否定したと記したのである。こう考えてこそ「異端」の機密や儀式の問題が解けるのである。

まず痛悔である。これまでの研究によれば、「異端」はこの機密を否定し、その結果彼らは大地へ痛悔を行ったと考えられてきた(79)。これに対しルィバコーフは「異端」が否定したのは機密そのものではなく、「聖職者の執り行う」機密であったとした(80)。彼の見解は十分に説得力を持っている。ステファンは「あなた方のストリゴーリニキは大地へ懺悔することを人々に命じているが、一方で『自分に罪を痛悔せよ、互いに祈りなさい、そうすれば回復するでしょう』という主の言葉を聞いていない。この[言葉ム筆者注]に基づいて、教父達は聖職者に位階を授け、キリスト教徒は彼らに懺悔するのである」(241)と述べている。このことは第一に「異端」は痛悔そのものを否定していなかったことを示している。次に明らかなことは、聖織者にではなく大地に向かって痛悔を行うことを教えていたという点である。「異端」は「堕落した」聖職者を避け、神に直接痛悔していたと考えられるのである(81)

ルィバコーフはこの新たな痛悔が成立した証拠として、この時代各地に見られた「石の十字架jを提示した。だが筆者の検証の結果、この十字架を「異端」と直結させることはできなかった(82)。ステファンも巨大な「石の十字架」について何も記していない。

では何故、彼らは大地に痛悔を行うのであろうか。また彼らはその他の方法に行きつかなかったのであろうか。これについて言えば、スラヴ人固有の神の見方に起因しているものと思われる(83)。中世のルーシにおいては神が大地と同一視される場合が多かった。母なる大地という観念は多くの文献のなかで神と結びつけられている。それゆえ「異端」は、聖職者に痛悔を行わずに、「神である大地」に自分の罪を告白していたと考えられるのである。

もちろんステファンはこうした形式の痛悔を認めなかった。痛悔は信徒の罪の告白と聖職者による赦免からなっている。「大地への痛悔」にはこの後者に当たる部分が存在していないのである。ステファンは「誰かが大地に痛悔しても、その痛悔は痛悔とは言えない。何故なら大地は魂を持たないし、痛悔を聞かないし、答えないし、罪人をむちで打つことがないからである。神は大地に痛悔をする者の罪を許すことはない」(241)と述べている。次に問題となるのは聖体機密の問題である。ルィバコーフ、ゴルビンスキー、コストマーロフを除く研究者は、これに関しても痛悔と同様に、「異端」は機密そのものを否定したと考えてきた(84)。確かにステファンの論駁書では、彼らは聖体拝領を行わないとして非難されている。彼はそれを創世記のエピソードによって説明している。「神がアダムとエヴァを創造したとき、一つの木からは採食しないように命じて言った。『もし知識の木から採ったなら死ぬだろう。もし採らをければ次の時代まで生き続けるであろう』…蛇はアダムに『神が知識の木からの採取をあなたに禁じたのは、死なないように、というのではなく、善悪を理解させないためである。私の言うことを聞きなさい。命の木からは取ってはならないが、しかし知識の木からは取ってよい。もし知識の木から取らないならば、何が善いのか、何が悪いのか理解できないではないか』と言った。この悪い動物の悪い言葉によって悪魔は人類を誘い、それゆえ我々は命の木から遠く離れた。我々の創造主は並々ならぬ慈悲によって、我々に聖なる、いとも清き機密である聖体、すなわち採って食べた者は来世まで生きられるという真実の命の木の実である聖体を授けている…ストリゴーリニキは神に背き、命の木や聖体から離れて、異端の助けになるように書かれた書物を知識の木として見せるよう命じている」(236-237)。

これを見る限り「異端」は聖体そのものを否定したように見える。しかし主教の言葉をそのまま受け取るわけにはいかない。痛悔と同様に「聖職者によって行われる」聖体こそが彼らが否定したものであった(85)。その根拠は幾つか考えられる。

第一にステファンは当然、聖体の授与を聖職者が執り行うものであると考えていただろう。彼には聖体機密そのものと、聖職者というその執行者を分離することはできなかった。従ってステファンは「異端」が聖職者を介さずに聖体拝領を仲間内で行っていても、「異端は聖体拝領から離れた」という表現を使用したに違いない。

また第二に「異端」や当時の「改革運動」の本質は堕落した聖職者に対するプロテストであったが、これは当然「堕落した聖職者の取りなす機密は無効」であるとする「人効論」的圭張に基づいている。こうした人々は機密そのものとその執行者を分離して考えているから、機密そのものの否定ではなく、その執行者の否定だけにとどまるはずである。

ではこうした「聖職者が執り行う」聖体機密を否定した「異端」はそれに代わって何を行ったのであろうか。先行研究ではこれについて誰も答えていない。これに関してはステファンは何も述べていないのである。筆者の見解を述べておくならば、彼らは聖職者が関与しない、自分達で執り行う聖体拝領を行ったと言えるのではないか。聖職者の関与しない「良き司牧者が取り仕切る」聖体拝領は、「異端」の観念のなかでは十分に存在しうる。更に言えば、聖職者の関与を否定していたなら、当然聖職者の目の屈かない場所で聖体機密は行われたであろうから、ステファンの記述に登場しないことも納得できる。こうした理由により、彼らが自分達で聖体機密を行っていたと推測できよう。

ところでステファンの述べている「命の木」と「知識の木」の対比は、創世記の有名な箇所であるが、彼は正統信仰と「異端」的信仰の区別にこれを使用している。この「知識の木」を実際に存在した十字架であると考え、それをノヴゴロドのフロル・ラウル教会の大十字架であるとしたのがルィバコーフであった。筆者はこの「十字架」を「異端」と直接関係づけることは困難であると考えている(86)。ここで上記のステファンの論駁書を見ればそれは一層明確になろう。カルプや「異端」が「知識の木」を見せているというのは比喩である。「命の木」つまり永遼の命を与えてくれる聖体機密から離れたと認識された人々をこうした比喩で表現したのである。もし「十字架」が実在し、それが「異端」のものであると主教によって認識されていたのなら、恐らくもっと多くの箇所を「十字架」論駁のために割いたであろう。しかしこの「知識の木」が登場するのは、この箇所だけなのである。それゆえこの箇所はステファンの比喩だと考えるのが妥当である。

機密に関する「異端」の態度が検討されたところで次に問題としなければならないのは、死者への金銭や物品による捧げ物である。「教会に死者への捧げ物を持ってきてはならない、死者の魂に対して喜捨を与えてはならない」(241)という「異端」の主張をステファンが記録している。一部の研究者はこの言葉を彼らによる死後の世界や魂の復活の否定であると考えた(87)。すなわち彼らは「理性的」であったから、こうした存在を信じなかったというのである。そして「反封建的」な「異端」は「封建的教会」に物質的利益を捧げることを嫌ったと考えたのである(88)

だがこの「死者への」捧げ物は、現実には聖職者の手中に収まっていたことに注目すべきである。「異端」は聖職者の清廉性を要求したため、この主張が現れたのである。何故なら論駁書のなかでは捧げ物のやり取りだけが扱われているのである。ステファンの反論を見てみよう。「使徒の規則では『死者の記憶を持ち続けよ』と書かれ、また同様に教父達も聖務の際に故人を思い出すよう…定めているが、異端者達はいかなる捧げ物も持ってくることはない」(241)。つまり死後の世界の否定ではなく、捧げ物を行わないことが問題とされているのである。

「異端」発生の基本的モチーフは聖職者のシモニア批判であったと考えられる。そして彼らは「人効論」的主張を介し、清き「使徒的生活」を目指した。ここに既存の「改軍運動」との接点が見られる。清き聖職者こそが「真の」聖職者であった。彼らはこの考えに基づいて、金銭授受を伴った叙聖によって造られた既存の全聖職者ヒエラルヒーを否定し、その聖職者の執り行う儀式も無効であると考えた。そして自らの儀式こそ有効であると考えるに至ったと推測されるのである。

また彼らの主張の殆どは、シモニア批判を除けば、教会ヒエラルヒーの下層の問題ばかりである。教義問答などではなく、日常の儀式や活動に焦点が当てられている。このことは「異端」の主張が前述の「改革運動」のそれと内容的に近いことを示している。

だが彼らの主張を正統教会は認めるわけにはいかなかった。アウグスティヌス以来の「事効論」的伝統に基づき、「異端」の主張、特に彼らのシモニア批判を論駁している。正統教会がこの点に展も注目していたことがうかがえる。

4. 正統教会の「異端」対策

これまでは「異端」そのものに焦点をあててきたが、いまやそれだけでは「異端」問題の検討としては不十分である。正統がどのような態度を取ったのか、それはいかなる論理によるものであるのか、といった問題が検討されなければならない。本章ではこの問題が、1)正統の異端宣告と認識、2)「異端」への対応に分けて検討される。

(1) 異端宣告と認識

この問題を考える際にまず考慮すべきことは、この時代のロシア教会は総主教から司祭・輔祭までの一貫したヒエラルヒー構造を持つとは言い難い状況であったということである。例えば府主教座は、13世紀における「全ルーシの府主教」とは名ばかりの状態から、I4世紀を通じて全ルーシの教会の中心としての位置を回復する。もちろんこの間も府主教は主教達の叙聖作業や裁判権の行使というようなカノンに基づく作業を行っていた。だがそれは特にモスクワの諸大公の支援の下で可能なことであった。地方主教座は各地の分領公と結びついていた。この時代に度々起こる地方主教と府主教との衝突はこのことをよく表している。この状況の下では「異端」への対応も一貫したものとはなりにくかったと考えられる。

ストリゴーリニキ「異端」問題の場合、ノヴゴロド大主教座とモスクワ府主教座は本来ならば後者の指導の下で双方が同様に「異端」を認識し、同様に対応すべきであったが、そうはならなかった。大主教座はノヴゴロドの当局と、府主教座はモスクワ大公と近い距離にあった。この時代には両グループは敵対関係にあったから、大主教座は総主教及びステファンに「異端」論駁を依頼したと考えられるのである。詳しくは本章で触れる。

まず中世ロシアの異端認識と宣告に関する一般的見解に触れておこう。ヘッシュによれば、この地にキリスト教が国家の公式宗教として導入されて以来、ロシアの府主教区教会においてはいくつかの異端が告発されている。ストリゴーリニキ「異端」問題以前に教会組織に対する抗議が異端視された例はない(89)。これまでは教義上の批判が異端視されていた。

またその異端宣告の手続きはビザンツで行われていた型の模倣によるものであった。多くの場合「異端審問会議」によって、異端とおぽしき人物や集団に対して異端宣告が行われた(90)。つまり異端宣告は基本的にはこの会議次第なのであった。

だがこの手続きの型は主に16世紀の「異端審問会議」からの類推である(91)。それゆえこれをI5世紀以前の全ての異端に当てはめるのは問題である。ストリゴーリニキ以前には異端宣告自体があまり知られていない。1004年頃に現れた異端アドリアン(92)、1123年の異端ドミトリー(93)、ロストフに現れたマルキアン異端(94)、後に聖人となったスモレンスクのアヴラーミーに対する異端嫌疑(13世紀)、14世紀末のトヴェリ主教エヴフィミー(95)に対するそれが知られる。後二者に関して言えば、彼らに対しては「異端審問会議」が行われたとされている。だがその他の異端に対する宣告手続きは明らかではない。

では彼らは正統教会によってどう処理されたのか。例えば上述の異端は、マルキアン異端を除き、修道院に閉じこめられている。だがこれは彼らに対する処罰と言うよりも、彼らが修道院で「回心」する事を望んだものであった。例えばアドリアンは「正しい信仰に戻った」後、許されているのである(96)

では具体的にストリゴーリニキ「異端」の場合を見てみよう。まずノヴゴロド大主教座の「異端」認識についてである。その最初の段階は大主教モイセイ時代である。彼の活動については前述の通り「聖者伝」だけが記している。「異端」認識のような点に関しては聖者伝史料といった正統側の理解を示す史料は、それを見るのに比較的相応しいものであると考えられる。だがパホミーが彼から見れば150年前の正統の「異端」認識を知っていたかどうかは疑わしい。それゆえパホミーの聖者伝からモイセイ時代の「異端」認識そのものを知ることはできない。

唯一挙げられる大主教座の具体的な「異端」対策としては1375年の処刑の直前の彼らの破門が挙げられる(97)。これはもちろんキリスト教世界からの「追放」刑であり、その効果は計り知れないものであった。それにも拘わらず、これには世俗当局による処刑が続く。この処刑は確かに世俗当局によるものであり、教権は表面上ではこれに関与していないのだが、破門の直後の処刑という事態を考慮すれば、教権による「異端」に対する懲罰の了承があったと考えられる。もちろん先に見たように教会が率先して死刑を願っていたとは言えないが、何とか対応策を検討していたことは明らかである。そしてこれはルィバコーフが反論したにも拘わらず、大主教で言えばモイセイの時代からアレクセイの時代までの一貫した態度なのであった。

その後のノヴゴロド大主教座の対応にも注目する必要がある。「異端」の勢いが収まらないと見るや大主教座は総主教に「異端」論駁の書簡作成を依頼した。この経緯に関してカザコーヴァは、「当時の教会はその手元にあったあらゆる種のイデオロギー的手段を用いて異端の信奉者を感化しようと試みた。この手段に最上の有効性を加えるために、大主教アレクセイは、正教会の全総主教の長である総主教ニールに確実に呼びかけ、異端を摘発する文書を送るよう要請した」と考えた(98)。確かにディオニシーは総主教の許から直接ノヴゴロドにやってきて、続いてプスコフに行った(99)。ノヴゴロド第一年代記では、このプスコフ行きがアレクセイの要請によるものであり、その目的は「神の法を説教し、キリスト教の真実の正統信仰を確立」することであったとされている(100)。従って彼のこの行動も「異端」論駁であったと考えられる。総主教の書簡のなかでも書かれている。「我々は様々なことを書いた。更により多くのことを大主教ディオニシーに我々は託した。、[彼がム筆者注]話す我々の言葉を聞きなさい」(234)。それゆえディオニシーが総主教のところへ行ったのはアレクセイもしくはその先任のモイセイの要請によるものであり、「異端」論駁の書簡作成の依頼がその主たる目的であったと考えられる。

このような総主教への要請は、教会法上認められていた行為である。総主教は自らの管轄下にあった府主教区の事柄に直接関与する権利を所持していた(101)。特にノヴゴロドには12世紀半ば以来大主教座が存在し、ノヴゴロド大主教は実際に総主教と直接の関係を取り結ぶことができた。例えば先に挙げたモイセイの書簡(1353)やそれに対する総主教の返答(1354)がこれにあたる。

では総主教の「異端」認識はいかなるものであったのか。これについて言えば、大主教座の「異端的行為をとる人々」の認識が総主教に伝わったと考えられる。総主教は使者ディオニシーを通じてのみ「異端」を知り得た。ディオニシーが伝えた「異端」の情報は、当然ルーシで得たものである。つまり当時のノヴゴロド大主教座の「異端」認識とほば一致するに違いない。総主教は、1)「異端」が聖職者の叙聖の際の支払いをシモニアであるとしたこと、2)彼らが全聖職者ヒエラルヒーを否定していることの二点を、ストリゴーリニキの特徴として挙げている(102)

総主教は既にこの1)の時点で彼らを公式に異端であると宣告した。何故なら彼は「全ての異端は、聖務従事者や司祭、全ての聖職者及び一般信徒さえもが、金銭によって叙聖し、また叙聖されていると考え、自分達だけが正しい信仰を持っていると考えている」(233)と述べているからである。この部分は総主教座の一般的異端認識を表現しているがそれと同時に、この認識がストリゴーリニキ「異端」にも当てはまることを明らかにしている。総主教の異端宣告が総主教座の会議によるものか、総主教自身によるものであるのか、これについては知ることはできない。

いずれにせよストリゴーリニキは公式に異端とされた。この時代に初めて彼らが異端宣告を受けた事実は史料の面からも明らかに出来る。パホミーの「聖者伝」を除き、それ以外の史料のなかでは最も早く異端という言葉が使用されているのがこの総主教の書簡である。諸年代記の1375年の「異端」の処刑の記事は明らかに後世、できるだけ遡っても15世紀初頭の挿入である。記事を掲載している年代記の編纂の時期がI5世紀30年代であることがその主たる理由である。だがそれ以外にも理由がある。ノヴゴロド第四年代記とソフィア第一年代記の記事に顕著に示されているのだが、双方は殆ど同じ記事であるにも拘わらず、異端の創始者と目されるカルプを異端と呼ぶもの、教区民と呼ぶもの、また単に輔祭とするもの、と様々な異本が存在している。つまり「異端」の処刑と同時代に書かれた両者の原テクスト(ノヴゴロド大主教年代記、もしくはノヴゴロド・ソフィア集成)においては、おそらく彼らの処刑の記事だけが書かれていて、彼らは異端であるとされていなかった。もしこの時点(1375年)に成立した原テクストのなかで既に彼らが異端であるとされていたなら、異端という評価が確定していた15世紀中頃においては、諸年代記の全てが彼らを異端であると呼んだことだろう。

つまり総主教の異端宣告以前のストリゴーリニキは、「異端的行動を取る人々」としか認識されていなかった。この書簡によって初めてストリゴーリニキは異端であるという言説が正統教会内で形成されることとなる。これにはもちろん、書簡をノヴゴロドやプスコフに届けると共に彼らに対して説教を行ったスーズダリ大主教の役割を過小評価することはできない。

では総主教は異端宣告後、どのような対応をとったのか。それはまず「事効諭」に基づく「異端」の説得であった。つまり叙聖の効果はいかにその聖職者が汚れていようとも有効であった。だがその一方で総主教は柔軟な態度を見せている。彼はシモニアを裁くための準備ができていた。「悪行をなした主教をその者の属する府主教に知らせなさい」(233)。万が一、叙聖する際に金銭を受け取った聖職者がいた場合、府主教がその者を裁くというのである。それでも不満が起こった場合、総主教は自らが裁きをくだすことまで考慮していた。「その者が正さないのであれば...その者は神、聖父、教師、ツァーリグラードの全地総主教によって廃位される」(233)。

こうした総主教の主張は「異端的存在」を弾圧によって滅ばすのではなく、できる限り矯正していこうとする柔軟な態度の現れである。書簡の最後の言葉からもこのことは確認される。「あなた達が救いを認識し、またあなた達の全ての行いを祝福し恩恵をくださる神がおられるが、その神を称賛する唯一の兄弟達と、願わくば合同するように」(234)。「願わくば、彼らに、今日そして永遼に、父と子の栄誉がくだるように」(234)という言葉は印象的である。総主教は「異端」が教会から離れ、聖体を否定しているにも拘わらず、彼らを見捨て弾圧するのではなく、統合し、また彼らにも神の愛が降ることを望んでいるのである。もちろんこのことは理解できる。異端を滅ぽすこと、「普遍的な」キリスト教世界からの逸脱者を出すということは、正統教会の教えの敗北を意味したからである。同様のことは、彼の使者ディオニシーが「神の法を教え、真のキリスト教徒の正しき信仰を主張した」ことからも明らかである(103)。彼が「異端」弾圧をしたという記事は存在しない。もちろんこれは彼に限ったものではなく、これまで、少なくともロシアでの正統の伝統的態度であった。アドリアンやドミトリーといった異端も正統への復帰を目的として修道院につながれたのであった。

しかも教義上の対立はともかく、こうした信仰の実践上の問題は修正することができた。叙聖の際の支払いの問題さえ解決すれば、正統教会へ「異端」は復帰できるという確信を総主教は書簡のなかで見せているのである。

そこで総主教の主張は叙聖の際の金銭授受の問題に絞られる。まず彼の主張の前提であるのは「金銭による叙聖は明らかに冒涜である」(233)というものであった。それを認めた上で、彼は「叙聖された者は幾度も自分のことで出費がなされる。蝋燭代、ワイン代、普通の出費、食事代である。これらは有害ではない。何故ならキリストが『あなた達はただで受けたのだから、ただで返しなさい』と言うように、叙聖はただで存在しているからである。金銭による叙聖と必要経費は別である」(233)と述べる。つまり叙聖の際の出費に対して金銭を払うものであって、叙聖自体は無償のものであったという主張である。

こうした総主教の「異端」認識、対応に対してステファンの場合はどうであろうか。彼の場含、総主教による異端宣告によって、既にストリゴーリニキを異端であると考えていたと思われる。何故なら彼の「異端」認識は、総主教が行った「異端」の性格付けに規定されていたからである(104)。加えて彼の場合、「異端」認識の段階において、総主教とは違い、自らが「異端」を見ていることが重要である。彼は「異端」を目にすることで、彼らに関する情報を確認したと考えられよう。「異端」は聖職者のシモニア批判を相変わらず続けていたし、更に過激な主張を行っていた。ステファンは直接彼らの行為を見てその異端性を確信したに違いない。もちろん指摘したとおり、彼のこの認識のなかには事実にそぐわない部分があった。彼は「異端」が聖体及び教会の聖職者が執り行う痛悔を否定していると書いているが、彼らは自分達のやり方で、つまり大地に「痛悔」を行っていたと考えられるし、また同様に「自分達の司牧者」のもとで「聖体」を受けていたと考えられる。ただしこれを、ステファンは、真の痛悔、真の聖体であるとは見なさなかったのである。

ではステファンが「異端」の特徴であるとした点のうち、総主教が触れていない点は、どう考えられるべきか。具体的には「大地への懺悔」、死者への捧げ物の否定、「広場や通りでの」説教活動、人々の前での斎戒などである。筆者は、この時点で「異端」の元々の特徴とステファンが確認した彼らの諸特徴とが同一の書簡のなかで混じり合うことによって、新たな「異端」概念ができ上がったと考えている。

では彼の具体的な対応はどうであったのか。彼は総主教と違い「異端」に対し更に一歩踏み込んだ対応を行っていた。「ストリゴーリニキ異端のやり方で聖職者を裁く人々があれば、その人々の言葉を聞いてはならない。そればかりかその人々は町から追放されるべきである」(243)という点である。これはもちろん「異端」に対する言葉ではない。だが彼らが追放されないのに、それをまねた人々が追放されたとは思われない。このことにより「異端」が少なくとも追放刑を受けていたと考えられよう。より厳しい処罰が行われていた可能性もあり得る。事実、彼は「悪を自分のなかから廃絶しなさい」(243)と述べている。この理由は恐らく「異端」の活動の広がりと、その主張の発展にあった。総主教の書簡が出された後、彼らは既に教会から離れたと認識されていた。そのためにこの時点で正統教会がより強い態度をとったとしても不思議ではないのである。ステファンが論駁を行った時代には、彼らの主張は更に過激なものとなっていた。そのために、彼が追放刑を宣告したとしても不思議ではない。彼は強い態度にでる必要があった。総主教と違い、ステファンは「異端」矯正の可能性に触れていないのである(105)

このようにノヴゴロド教会が認識した「異端」像は総主教座に伝えられ、そこで彼らに対する異端宣告が行われた。ステファンの論駁書が作成された結果、正教会で認識された「異端」概念は一層広くなったと考えられる。

また総主教座は「異端」の矯正を望んでいたが、直接「異端」に対応したノヴゴロド教会は悠長にそれを目指してはいられなかった。ノヴゴロド教会はその際に、モスクワ府主教に援助を頼まず、ステファンに「異端」論駁を要請した。何故なら当時ノヴゴロド・モスクワ関係は悪化していたからであった。ステファンがノヴゴロドに来た頃には「異端」は勢力を拡大しており、そのために彼は総主教より一歩進んだ「異端」対策をとらざるを得なかった。

(2) モスクワ府主教座の対応

モスクワ府主教座が14世紀の「異端」問題に関わった形跡は全く存在しない。この理由が考察されなければならない(106)。この問題に最初に触れたクリバーノフによれば、ノヴゴロド教会は府主教座に支援を要請せず、そのため府主教は「異端」問題に関与しなかった(107)。これに対しルィバコーフはモスクワ大公の対ノヴゴロド戦略をこの問題のなかに見いだした。つまりモスクワとノヴゴロド国間の対立という状況のなかで、大公は「異端」の存在を指摘することで、ノヴゴロド大主教座の権威をおとしめようとしていたのである。彼によれば、大公はステファンをノヴゴロドに差し向け、同人をして「異端」を暴かしめ、それにより大主教座の権威をおとしめようとした、というのである(108)

ルィバコーフの説明は、初めて「異端」問題における正統教会の内部事情を分析したという意味で評価される。だが説明そのものは問題点を抱えている。モスクワ大公の対ノヴゴロド戦略は確認できる(109)。だがステファンが大公の指示を受けてノヴゴロドを訪れた証拠、当然ステファン派遣の権限を持っていたモスクワ府主教座とステファンとの関係を示す論拠を彼は全く挙げていないのである。ルィバコーフは状況証拠だけで議論を進めているのである。そのため彼の説は再検討の余地がある。

まずステファンの「異端」論駁は大公によって仕組まれたものであったのか。彼のノヴゴロド訪問はノヴゴロド第四年代記が伝えるのみである。「大ノヴゴロドに、大斎戒の日にペルミの主教であるステファンが大ペルミから来た。彼はペルミの人々にキリスト教の洗礼を施した者である」(110)。我々が彼について年代記から知ることができるのはこれだけである。

彼と大公との関係についてはチェレプニンが触れている。それによれば、大公ドミトリ−はステファンがペルミをキリスト教化する際に多くの金銭的支援を与えており、両者の関係は親密であった(111)。後に府主教キプリアンと共にトヴェリ主教エヴフィミーを裁くことからも、モスクワと彼との緊密な繋がりが指摘できる。(112)

だがこうした事実はステファンが大公及び府主教の要請により「異端」論駁を行ったことの論拠にはなりえない。何故なら彼は「異端」論駁の際にノヴゴロド協会の無力さについて何も話していないからである。彼は、モスクワ大公の戦略の執行者としてノヴゴロドに来たにしてはそれに相応しい行為を全く行わなかった。もちろん府主教は彼をノヴゴロドヘ送ったが、ステファン自身はその戦略を認識していなかったとも考えられよう。しかし年代記では彼がペルミをキリスト教化したI383年から、ノヴゴロドヘ突然来た1386年までの数年間、彼がモスクワと関係を持った記事は見られない。要するに、ステファンの活動の裏に府主教座の対ノヴゴロド教会戦略を読みとることはできないのである。

そうなるとステファンのノヴゴロド訪問はノヴゴロド大主教自身の要請によるものであったと考えられる。ただしその際に大主教が他の主教を招聘するということは何ら問題にはならなかったのか。これについて、1)総主教・府主教座と大主教座との関係、2)大主教とステファンの関係に注意して考えてみよう。

「異端」問題が発生し、それが当該主教区で処理できない場含、法的には府主教がそれに対応することとなっていたと考えられる。何故なら府主教区の監督権を持つ府主教は、個々の主教区の上級管轄権を所持していたからである。総主教がこれに直接関与する権利も存在したが、ルーシの府主教区では、実際には総主教の側から積極的にそうした権利は行使されることはなかった(113)。つまりノヴゴロド大主教アレクセイは、法的にはまずモスクワの府主教に援助を要請しなければならなかった。従って彼はステファンに「異端」弾圧を依頼する権利を持たなかったのである。もちろん府主教の認可が下りたのであれば話は別であるが。つまりステファンがノヴゴロドにやって来たことは、法に則って考えるならば、ノヴゴロド大主教座がモスクワの府主教座に「異端」弾圧を依頼し、府主教が何らかの理由で自らこれに関与せず、ノヴゴロドに行くようステファンに指示した、ということになるはずである。

更に言えば中世ロシア教会の慣習上は、府主教や総主教の下に行く場合、また教会会議が招集されている場合を除いて、府主教以外の人物が府主教区内の他の教区を視察・訪問する例は珍しい。府主教区を監督する権利は特別の場合を除いて府主教に属していた。それゆえ主教などがその教区外を監督・巡回する場合、必ず府主教の許可が必要であったと考えられる(114)。こうした慣習は教会法に則ったものであり、従ってステファンのノヴゴロド訪問は府主教の許可を要する行為であった。

しかしストリゴーリニキ「異端」問題の場合、研究者達はこの慣習が守られたことを否定的に見ている(115)。当時のノヴゴロドとモスクワの関係、特に府主教と大主教の関係にのみ限定して言えば、それは良好な関係とは言えなかった。これはアレクセイの前任者モイセイの時代から続いているものであった。モイセイは総主教に対し、モスクワ府主教の圧政について告訴している。アレクセイの時代になっても状況は変わらなかった。1385年にはノヴゴロドの民会はモスクワ府主教の教会裁判権からのノヴゴロド大主教区の独立を宣言するに至った(116)。このように14世紀80年代は両教会の対立が尖鋭化した時代であったのだが、ことはこれにとどまらない。ノヴゴロド大主教がノヴゴロド大主教区の首長であるだけでなく、俗世の貴族会議のメンバーであり、ノヴゴロドの国政を取り仕切る人物であったことも考慮せねばならない。すなわち大公とノヴゴロド当局との間柄も同様であったと考えられる。

当時のノヴゴロド国は、特にクリコヴォ以後、ロシアの統一の中心となることを自らの使命と感じ始めていたモスクワ大公国と良好な関係にあるとは言い難かった。大公ドミトリーはクリコヴォの戦いに参加しなかった諸公国に対し、厳しい外交政策を執っていたが、その対象の一つがノヴゴロドであった。1386年には軍勢を引き連れノヴゴロドを攻略し、町に火を放った。数多くの教会や修道院が焼け、多くの人が亡くなったとされる(117)。アレクセイを団長とする講和のための使節団は一度は大公によって斥けられ、二度目にようやく大公は彼らを受け入れ、ノヴゴロドから賠償金を取ったのであった(118)。こうした状況でノヴゴロド人の反モスクワ的感情が高まったことは疑い得ない。一方で「異端」を国内で処理しきれない場合、モスクワ府主教のような高位聖織者、もしくはキリスト教の信仰生活で秀でた人物による援助が緊急の課題であった。しかも実際に効力を発揮していたかどうかは別にして、当時のノヴゴロドは府主教裁判権から抜けたつもりであった。従ってこのステファンヘの「異端」弾圧の依頼は府主教の許可を得ていないと考えるのが妥当であろう。

従ってルィバコーフの主張は修正されるべきである。総主教に「異端」の論駁書の執筆を要請しつつ、府主教に要請せずに、ステファンに依頼するということは、極めて異常な事態であり、当然モスクワ府主教に「異端」問題に介入されたくないというノヴゴロド大主教座の意図が読みとれよう。この点については筆者はルィバコーフの意見に同意する。総主教の使者ディオニシーが、当時モスクワ大公とは関係が良くなかったこともこの主張を支えてくれる(119)。ただしステファンのノヴゴロド訪問をモスクワの意図によるものとする意見には同意できない。上に述べた政治状況のなかで大主教座によるステファンのノヴゴロド招聘と彼による「異端」論駁が行われたのであった。以下でこの意見を補強しておこう。

当時の府主教座は著しく混乱していた(120)。ピーメン、ディオニシー、キプリアンの三人は互いに府主教としての正当性を主張していた。もちろん大公は三人を皆、府主教として認めたわけではなかった。大公が「キエフと全ルーシの府主教」として認めたのはミチャイの死後、キプリアン[1381〜1382、1389〜]、ピーメン[1382〜1385、1388〜1389]である。ここで注目すべきことは、1385年のノヴゴロド民会の「独立宣言」また1386年のステファンのノヴゴロド訪問の時には府主教がいなかったという事実である。つまりたとえ大公が対ノヴゴロド戦略の一環として「異端」の暴露を画策したとしても、この手続きをとるべき府主教は存在していなかった。ピーメンは1385年初めから1388年までコンスタンティノープルにいたのである。

最後にもう一つの問題に答えておく必要があろう。すなわち府主教ピーメンがモスクワに帰還した後、大公は自らの戦略を執りえなかったのかという問題である。これに関して述べるならば、ピーメンは大公により確かに府主教として承認されていた。だが彼は既に1385年以降、総主教により府主教から罷免されていた。つまり彼は大公の対ノヴゴロド戦略の先鋒として働くための「正当性」を持たなかった。従って府主教と大公ドミトリーが亡くなる1389年まで、彼らはノヴゴロドの「異端」問題に介入することはできなかったと考えられるのである。

もちろん1389年以降、大公ヴァシリー1世[在位1389-1425]と府主教キプリアンは、協力して対ノヴゴロド戦略を発動できただろう。だが既に彼らはノヴゴロド介入の口実を失っていた。「異端」はノヴゴロドから消滅していた。一方でキプリアンはトヴェリ主教エヴフィミーの異端問題に取りかからなければならなかったのである。

モスクワ府主教が14世紀の「異端」問題に介入しなかったことは、このように説明されるのである。

むすびにかえて

本稿で行われたストリゴーリニキと正教会の関係の考察により以下のことを明らかにできたと思われる。

「異端」は聖職者叙聖の際の支払いはシモニアであり、従って教会の聖職者は機密を執り行う資格がない、と考えた。なぜなら清き生活を遂行する者こそ「真の」聖職者であり、機密を執り行う資格を持っていた、と彼らは考えたからである。彼らはこの考えに基づき、聖職者の執り行う儀式も無効であり、自らの儀式こそ有効であると考えるに至った。この「異端」の活動は、西欧の「清廉運動」を彷彿とさせるものであった。

ノヴゴロド大主教モイセイの時代になって彼らは異端視され、弾圧を受けることになった。彼はあらゆる反教会的傾向に対して弾圧政策を執った。この政策は彼の後継者アレクセイに引き継がれた。ノヴゴロドの世俗当局は1375年に「異端」の首謀者三名を処刑するが、しかし「異端」は存在し続けた。

ノヴゴロド教会は明らかにモスクワ府主教の手を借りずに「異端」問題を処理しようと努めた。ノヴゴロド大主教はノヴゴロド貴族会議のまとめ役であり、当時の反モスクワ的雰囲気のなかで府主教に助けを求めることはできなかった。それゆえノヴゴロド教会は「異端」の弾圧を総主教や、反モスクワの立場をとるスーズダリ大主教に要請した。だがこの策は効果を発揮しなかった。それゆえ当時、ペルミのキリスト教化で名声を得ていた主教ステファンのノヴゴロド訪問と論駁書作成を要請する。この効果は絶大であり、「異端」はノヴゴロドからその姿を消すこととなった。

この「異端」問題にモスクワ府主教が介入することはできなかった。何故なら当時、府主教アレクセイの後継者問題で府主教座は揺れていた。この問題が落ちつく1389年(キプリアンのモスクワ府主教就任)は大公ドミトリーの亡くなった年でもあった。

この「異端」問題に対応するなかで、ロシアでは一つの「正統と異端」のあり方が成立しつつあった。また「正統」教会内には「異端概念」成立の端緒が見受けられる。そしてそれに対する対応は弾圧というやり方に収斂し始める。ステファンの対応はそれを感じさせるものであつた。

だがこうした点は、後期ストリゴーリニキや「ユダヤ派」異端の検討により一層明瞭になると思われる。それゆえこれを今後の課題としたい。


Summary in English